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シンとトニーのムーンサルトレター 第080信

祝! ムーンサルトレター第80信

鎌田東二ことTonyさんへ

 ボンジュール、ムッシュー・トニー・パリ・カマターニュ! Tonyさんは、フランスとイギリスへ行かれているそうですね。12日に帰国されると聞いていますが、「魂の故郷」であるパリは訪れられたのでしょうか?

 このムーンサルトレターも、もう80信目になります。ついこの前、60信を達成して、その後に『満月交感 ムーンサルトレター』(水曜社)として単行本化したばかりと思っていたのに、あれからさらに20通もレターを交換したのですね。まったく、時間の流れの速さには驚くばかりです。

 さて、最近、わたしの心に強く残った出来事が2つ続きました。1つは、2月28日に第2回「孔子文化賞」を受賞したことです。東京は目白にある椿山荘の広い会場を埋め尽くす多くの参加者が集まりました。最初に、「孔子の子孫」である一般社団法人・世界孔子協会の孔健会長が挨拶しました。そして、わたしは、孔健会長から表彰状を読み上げられて手渡されました。続いて、『論語全集』と黄金の孔子像が手渡され、感激しました。

 当日、主催者から受賞スピーチをしてほしいと言われ、以下の挨拶を用意しました。

 「一条真也でございます。わたしのような若輩が、このような名誉ある賞を頂戴し、身に余る光栄です。孔健先生をはじめ、関係者の方々には深く御礼を申し上げます。
 わたしは、冠婚葬祭の会社を経営しています。日々、多くの結婚式や葬儀のお手伝いをさせていただいていますが、冠婚葬祭の基本となる思想は『礼』です。

 『礼』とは、『人間尊重』ということだと思います。ちなみに、わが社のミッションも『人間尊重』です。また、わたしは大学の客員教授として多くの日本人や中国人留学生に孔子の思想を教えてきました。主宰する平成心学塾では、日本人の心の柱である神道・仏教・儒教を総合的に学び、日本人の幸福のあり方を求めてきました。さらに、これまで多くの本も書いてきました。孔子や『論語』にまつわる著書もございます。それらの活動は、バラバラのようで、じつは全部つながっていると考えています。それらは、すべて『天下布礼』ということです。人間尊重思想を広く世に広めることが『天下布礼』です。

 昨今、日本人の『礼』は危機的状況にあるように思います。親が亡くなっても葬式をあげない人が増え、『葬式は、要らない』などという本まで登場しました。わたしは、「このままでは日本人が大変なことになってしまう」と危惧し、『葬式は必要!』という本を書きました。世界に数ある宗教の中で、儒教ほど葬儀を重要視するものはありません。

 わたしは、孔子という人は、2500年前に世界で初めて『葬式は必要!』と訴えた人ではないかと思っております。孔子が開いた儒教は、何よりも「親の葬礼」を人の道の第一に位置づけました。人生で最も大切なことは、親のお葬式をきちんとあげることなのです。逆に言えば、親のお葬式をあげられなければ、人の道から外れてしまいます。わたしたちの仕事は、多くの方々に堂々と人の道を歩んでいただくお手伝いをしているのです。これほど、世のため人のためになる仕事はないと心から誇りを感じています。今日みなさまにぜひお伝えしたいことは、日本の冠婚葬祭業は、孔子が説いた『礼』の精神をしっかりと守っているということです。

 孔子文化賞を授与され、わたしは本当にこれ以上ない喜びに打ち震えています。というのも、わたしは人類史上で孔子をもっとも尊敬しているからです。ブッダやイエスも偉大ですが、孔子ほど「社会の中で人間がどう幸せに生きるか」を考え抜いた人はいないと思います。世に多くの賞あれど、自分が心から尊敬している人の名前が入った賞を授与される喜びはひとしおです。

 わたしは、39歳のときに『論語』の素晴らしさを知りました。
 40歳を目前にして『不惑』という言葉の出典である『論語』を40回読んだのです。
 すると、不思議なことが起こりました。もう何も惑わなくなったのです。『不惑』の出典である『論語』を40回読むことによって、わたしは実際に『不惑』を手に入れたのです。
 わたしは来年、50歳になります。『50にして天命を知る』ということで、自らの使命を知るでしょう。それは、おそらく、『天下布礼』の道をさらに突き進み、孔子が説いた人間尊重の精神を広めていくことではないかと思います。

 最後に、今日はこの会場に来ておりますが、かつて幼いわたしに『礼』という素晴らしい人間尊重の思想を教えくれ、今も教え続けてくれている父に心から感謝したいと思います。今回の受賞を励みに、これからも世のため人のためのお役に立ちたいと心より願っております。本日は、誠にありがとうございました。謝謝(シェイシェイ)!」

 授賞式の後、わたしは次の短歌を詠みました。
 「かねてより敬ひ慕ふ人の名の栄誉授かり嬉しからずや」

 授賞式が終わると、テレビ局をはじめとする多くのメディアからの取材を受けました。昨年の受賞者である野村克也夫妻も来られて、大いに盛り上がりました。また、日中映画賞を受賞された俳優の千葉真一氏と記念撮影しました。映画「キル・ビル」以来に拝む千葉氏の顔を見ていると、わたしの頭の中で、なつかしい「キイハンター」のメロディーが鳴り響きました。三五館の星山佳須也社長をはじめ、出版界の方々も多数駆けつけてくれました。今回は、尊敬する稲盛和夫氏との同時受賞ということで、生涯忘れられない思い出となりました。残念ながら稲盛氏はご病気のため欠席され、実弟である稲盛豊実氏(公益財団法人・稲盛財団 専務理事)が代理で授賞式に出席されました。最後は、孔健会長と「これからも、世に孔子の思想を広めましょう!」と誓い合い、固い握手を交わしました。この感激を生涯忘れずに、これからも精進したいと思います。

 さて、もう1つの心に残った出来事は、3月3日のことです。北九州の門司にある「世界平和パゴダ」のウ・ケミンダ大僧正の「お別れ会」が開かれたのです。わが社がセレモニーを担当いたしました。「世界平和パゴダ」は、日本で唯一のビルマ式寺院として知られています。第2次世界大戦後、ビルマ政府仏教会と日本の有志によって昭和33年(1958)9月に建立されました。「世界平和の祈念」と「戦没者の慰霊」が目的でした。

 戦時中は門司港から数多い兵隊さんが出兵しました。映画化もされた竹山道雄の名作『ビルマの竪琴』に登場する兵隊さんたちです。残念なことに彼らの半分しか、再び祖国の地を踏むことができませんでした。そこでビルマ式寺院である「世界平和パゴダ」を建立して、その兵隊さんの霊を慰めようとしたわけです。

 ウ・ケミンダ大僧正は、1957年に35歳で来日されました。そして、じつに半世紀以上を日本の門司港の地で過されました。「ブッダの考え方」をストレートに伝える上座部仏教を説くなど、日本人との交流にも積極的な方でした。大僧正は、20歳で仏門に入ったそうです。戦後、海外での布教を命じられたとき、まだ貧しかった日本を選ばれました。

 当日の「お別れ会」には、ミャンマーのキンマウンティン大使、壬生寺の松浦俊海住職、北九州市の北橋健治市長らが参列されました。また、一般市民を含む多くの方々が参列され、大僧正に哀悼の意を表しました。

 ウ・ケミンダ大僧正の日本との縁は戦前にさかのぼります。連合軍の中国支援を断つため、日本軍は旧ビルマを攻撃して敵を一掃しました。大僧正は、出家する前、中南部のトングー駅で働いていました。そのとき、日本人から蒸気機関車の運転を教わるなど、仲良く接してもらったそうです。ちなみに、英国人は機関車に近寄らせてもくれなかったとか。

 旧ビルマ戦線では多くの日本人兵が亡くなりました。来日したウ・ケミンダ大僧正は、日本各地で旧ビルマ戦線の戦没者を供養し、平和を祈ってきました。そして、祈りながら、戦後の日本をじっと見つめてこられました。6年前、読売新聞のインタビューに答えたとき、日本人について、「金持ちになったが、心は貧しくなった」と言われたそうです。また、東日本大震災の復興が進まない昨秋には、「今こそ、思いやりの心を取り戻さないと、日本は良くならない」と言われました。その発言から3ヵ月して、昨年12月にウ・ケミンダ大僧正は肺炎で他界されたのです。享年89歳でした。

 ご本人の遺志で遺体は産業医科大学病院に献体され、葬儀も行われませんでした。亡くなられる前に「葬儀、通夜、位牌も一切いらない」と言われたそうです。しかし、「宗教法人世界平和パゴダ」の理事らでつくる実行委員会が「戦没者の慰霊と布教に尽くした大僧正の遺徳をしのびたい」と市民にも参加を呼びかけました。そして3月3日になって、ようやく「お別れ会」が開催されたのです。

 「お別れ会」の最後に、壬生寺の松浦俊海住職の講話がありました。「共結来縁」という演題の素晴らしい講話でした。「共結来縁」とは、「共に来縁を結ばん」という意味です。このたびの「お別れ会」の参列者との縁はまさしく「共結来縁」であり、一期一会で、この一瞬は今この時しかないと言われていました。

 松浦住職は、奈良の唐招提寺の長老を務められ、律宗の管長でもありました。ウ・ケミンダ大僧正が来日されたばかりのとき、唐招提寺を訪れたそうです。また、松浦住職も旧ビルマへ修行に訪れたことがあるそうです。唐招提寺といえば、かの鑑真和上ゆかりのお寺です。井上靖の名作『天平の甍』に描かれているように、鑑真和上はさまざまな苦難に遭い、失明しながらも753年に来日。聖徳太子亡き後の日本に、仏法を広く説いた人でした。松浦住職は、1250年の時間を超えて、鑑真和上とウ・ケミンダ大僧正には共通点が多いと言われていました。ともに異国の地に赴いて「ブッダの考え方」を伝え、最後は日本の土となられたからです。今年は日中国交回復40周年の記念すべき年ですが、鑑真和上は1250年前に中国と日本の架け橋となりました。そして、ウ・ケミンダ大僧正はミャンマーと日本の架け橋となったのです。

 松浦住職の講話が終了すると、キンマウンティン大使がミャンマー式のお祈りをウ・ケミンダ大僧正の霊に捧げました。それは、まるで「五体投地」のようでした。そう、平伏しながら心からの哀悼の意を表現する祈りでした。「お別れ会」の会場の床に平伏する大使の姿を見ながら、わたしは静かな感動をおぼえていました。そこには、心の底から亡くなった方を「悼む」という誠がありました。

 もしかしたら、わたしのすぐ近くにブッダの化身がいたのかもしれません。それに、わたしを含む北九州市民、いや日本人は気づかなかったのかもしれません。せめて、ウ・ケミンダ大僧正の遺徳を偲び、現在は閉鎖中の「世界平和パゴダ」を一刻も早く再開しなければなりません。おそらくは、孔子やブッダや鑑真やウ・ケミンダ大僧正も見上げたであろう美しい満月を仰ぎながら、わたしはそんなことを考えました。それでは、Tonyさん、気をつけて帰国されてくださいね。次の満月まで、ごきげんよう。オルボワール!

2012年3月8日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 ムーンサルトレターの返信を、3月11日(日)8時30分、ロンドン郊外のヒースロー空港の待合室でフライト前の時間を使って書き始めます。

 今日は、東日本大震災が起来て、ちょうどまる1年。日本ではいろいろな行事が行なわれていると思います。朝5時に起きて、ロンドン大学近くのホテルの7階から西の方に沈んでいくお月様を見ながら祈りを凝らし、石笛2個、横笛、法螺貝を奉奏しました。朝5時過ぎなので、少し控えめにしましたが、最後の法螺貝はしっかりラッセルスクエアーガーデンやロンドン大学や大映博物軒にも響き渡るくらいの音で奉奏しました。はた迷惑でしょうねえ、きっと。「ユーラシア大陸の両耳」の左耳である日本列島へ、右耳のイギリス・ブリテン島からの思いを届けるには、やはり、気の入った響きが必要でした。安眠中のみなさま、申し訳ありません。

 さて、Shinさん、「孔子文化賞受賞」、まことにありがとうございます。本当に素晴らしい快挙です。心よりお慶び申し上げます。義兄弟の受賞、わがことのように嬉しく思います。

 「礼」に対する「礼」を持った対応。そして、「仁義礼知信」の「五常」のど真ん中に位置する「礼」を中核に、「知」においては60冊を超える書籍を出版し、「義」においては「義」兄弟の契りを結ぶばかりではなく、「葬式は要らない」という風潮に敢然と異議を唱えて本来の「義理」の大切さを訴え、「隣人祭り」をによって現代社会の只中に「仁」と「信」を取り戻そうとしてきたShinさんの活動が、高く評価されたのですよ。まことにおめでとうございます。ほんとうによかったです。お父上とご家族を始め、サンレーの社員もみな大喜びだと思います。

 Shinさんが孔子文化賞の受賞やウ・ケミンダ大僧正のお別れ会に参列している時、わたしはパリとロンドンに行っておりました。目的は、「身心変容技法の比較宗教学——心と体とモノをつなぐワザの総合的研究」ですが、特に、パリとロンドンの身体技法の現状や動向を探るのが目的でした。その詳しい報告は、同科研の「身心変容技法研究会」のHPに掲載していますが、ご一読くだされば幸いです。

 今回、印象に残ったのが、パリ第一大学哲学研究所の伝統とパリでのButhoブーム、そしてロンドンのヨーガブームでした。まあ、どちらも、ブームというよりも、すっかりそこに位置づいているという感じですが、それぞれの国柄と特色と現代の動向を示しているように思われました。

 日本の舞踏がヨーロッパで注目されることになったのは、麿赤兒さんの弟子の天児牛大さんの「Butho」がきっかけだったとのことです。フランスのナンシー演劇祭で評価された1980年代、第一次Buthoブームが起きました。ナンシー国際演劇祭で『金柑少年』が高く評価され、その年ヨーロッパで3万人の観客を動員しましたが、それは画期的な成功だったといえるでしょう。ヨーロッパに、日本の「ブトー」があることを知らしめたのですから。その功績は高く評価されるべきでしょう。

 その第一次ブームがひとまず収まり、天児さんだけでなく、いろいろな舞踏家がパリで踊りましたが、その後、2000年頃に第二波が来ました。それにはパリのシャトレにある天理日仏文化協会の設立も一役買っているといいます。おしゃれな展示会場と小劇場を持つ天理日仏文化協会は、舞踏やコンテンポラリーダンスのたくさんの新人を世に出しました。フランス国立科学センターの准教授だったかのベアトリス・ビコンさんがその名も『Butho』と題する大部な学術的な著作を著したことも後押ししました。

 おもしろかったのは、パリでは体に、ロンドンでは心に関心があるように思えた点です。そもそも、イギリスよりもフランスで身体論が盛んになりましたが、そのルーツは、マルセル・モースの「身体技法」論でしたし、メルロ=ポンティも『知覚の現象学』などで、現象学的身体論を展開しましたし、この「身体」の問題はなかなか「カトリック的問題」でもあるように思います。

 それに対して、イギリスでは、フランスなどの大陸合理論やドイツ観念論と異なり、イギリス経験論と呼ばれる一種の学習理論が構築されていきました。人間の本性はラブラ・ラサ(白紙)で経験に基づく学習によってさまざまな観念連合が形成されると考えました。そこでは、生得的な「理性」などというアプリオリな超越論的な認識能力を想定していません。とまあ、ここから、イギリスでは、臨床心理学よりも、認知心理学が目覚ましく展開されていくことになります。このあたりの、「フランスの体」志向と「イギリスの心」志向の差異は考えてみる余地のある問題だと思いました。

 サンジェルマン・デプレ教会には、その大陸合理論の確立者といえるルネ・デカルトの遺体が眠っているようですが、そのすぐ近くにパリ第一大学科学哲学研究所があります。大変興味深かったのは、現代科学の常識になっている要素還元主義に対抗する「統合的な見方」の牙城になっていることでした。そこには、コレージュ・ド・フランス名誉教授でもあるアンヌ・ファゴー=ラルジュオールさんなどがいて、その砦を堅守しています。

 このパリ第一大学科学哲学研究所の初代所長が、『空間の詩学』や『火の精神分析』などでよく知られたガストン・バシュラールです。そして2代目の所長が、ジョルジュ・カンギレム。カンギレムには、『生命の認識』『反射概念の形成—デカルト的生理学の淵源』『正常と病理』『科学史・科学哲学研究』『生命科学の歴史—イデオロギーと合理性』(以上、すべて法政大学出版局より刊行)などの著書があります。

 カンギレムはもともと医者で、医学基礎論を追求し、バシュラールやアンリ・ベルクソンらの認識論的科学史や哲学的アプローチから、生命を物理化学現象に還元する機械論的還元主義を徹底批判しました。そのために、このパリ第一大学科学哲学研究所が、現代における反要素還元主義の砦になっているというわけです。このあたりのことを、帰国後よく調べて考えてみたいと思いました。

 このパリのブトーに対抗するのが、ロンドンのヨーガでしょうか? 今回、トライヨーガとホットヨーガの2つのヨーガ道場を見学し、インストラクターにインタビューしました。当然と言えば当然ですが、インドに起こったヨーガのインストラクターの一人は日本人女性で、もう一人はシンガポール人男性でした。

 日本人女性の方は、特に、妊婦のヨーガ指導教室をしているとのことでした。このところ、ヨーガはストレス解消のためにセレブリティがやり始めて一気にミドルクラスに広まったといいます。トライヨーガはイギリスでは定評があるようで、ここで勉強したヨーガ教師があちこちの道場や教室で指導しているとのことです。

 それに対して、ホットヨーガはアメリカから始まりました。ビクラムというインド人がアメリカで始めて爆発的に広がり、イギリスやフランス、イタリア、オーストリア、オーストラリアなど、世界中の先進諸国に広がり、今も拡大しつつあるようです。日本でも、ビクラム氏の弟が東京で指導しているようです。

 「ホット・ヨーガ」と呼ぶゆえんは、道場の温度を40度にして、そこで、90分ほどの時間内で決まったポーズを次々と取って行き、体内の老廃物を全部汗とともに排出し、身心をクリーニングするところにあります。シンガポールのインストラクターは、水泳パンツ一枚で男女50人ほどを、SMAPがワイヤレスマイクを耳元から口のところにかけて歌うように指導するのです。まるで、ミュージシャンかダンサーのように。タイツ姿の男女がその声に従って次々にポーズを変えていくのはなかなかの見ものでした。

 イギリスではもう一つ、ロンドンから列車で30分余り行った郊外にあるテーラワーダ仏教のインドにおける総本山のアマラワティ・モナストリーに見学とインタビューに行きました。ここには、15人から20人ほどの僧侶と尼と僧侶見習いの人たちが修行していました。ちょうど、1月から3月まではその修行期間で、特にお彼岸の頃が大切な修行期間になるようです。

 驚いたのは、そこでインタビューした僧侶が日本人で、京都大学医学部出身の医師の資格を持つ人だったことです。彼は、大学4回生の時に生きることの悩みの直面し、医学部を卒業し、医師免許を取得してすぐ、遍歴の旅に出たそうです。インドやネパールや東南アジアを遍歴しているうちに、テーラワーダ仏教に出逢い、タイの東北部の森林派の寺院で修行して、このアマラワティ・モナストリーに2000年に来て、ちょうどまる12年になるとのことです。

 これにも驚きましたが、僧侶や信者やサポーターやワークショップ参加者と一緒に昼の祈りを捧げ、昼食をいただいている時、たまたま話をした、後ろにいたイギリス人の若い女性が、わたしが京都に住んでいると言うと、何と、この5月に京大宇治キャンパスに行って生物学の研究サポートに従事するというのです。特に能研究の分野だということでしたが、イギリスのこの寺院で、この日、2人の京都大学関係者に出逢うというのも、不思議なえにしを感じましたね。ほんと。

やはり、ここ、霧のロンドンは、ウィリアム・オッカムの唯名論やジョン・ロックのイギリス経験論を生んだところではあるが、同時に、19世紀末に、「心霊研究(祭記かル・リサーチ)」や「スピリチュアリズム」やマダム・ブラヴァツキーの「神智学(セオソフィー)」の拠点となった心霊都市なのである。そんなロンドンの魔界探索をしてみたいが、さて、今はそんな魔界がロンドンにあるだろうか?

 ところで、パリとロンドンの両方で、法螺貝にまつわる面白い体験がありました。3月6日、パリのど真ん中のシャトレにある天理日仏文化協会で、ダンス公演がありました。3人のフランス人と3人の日本人の合計6人のダンス公演があったのですが、その冒頭でわたしが法螺貝演奏などの飛び入り参加をしたのです。暗転した劇場の扉の外で特製横笛を吹き始め、歩きながら会場に入って舞台に出、横笛を吹き終わると、石笛を手に持ち替え、奉奏し、最後に法螺貝を吹き鳴らしました。これには、本物のパリジャンも度肝を抜かれたでしょう。わが「たましいのふるさと」でホラ吹き里帰り凱旋公演できてラッキーでした。メルシー・ボクー!


飛び入り参加での法螺貝演奏
パリ シテ島で法螺貝を吹く

 もう一つは、3月8日、トライヨーガとホットヨーガの2つのヨーガ道場を廻って、ロンドン大学(UCL)コスモロジー研究会研究員のフィリップ・スイフトさんと一緒にプリムローズ・ヒルに行った時のことです。パリで言えば、モンマルトルの丘に似て、ロンドン市内がすべて眺望できる風光明美な場所にあるそこは、観光客もよく訪れる場所のようですが、久しぶりで春らしく晴れ上がったぽかぽか陽気のその日、わたしはその丘の頂上で思いっきり法螺貝を吹き鳴らしました。

 その時、少し前に、丘の頂上に人の顔のモニュメントが地面に埋め込まれていたのに気づき、一瞬その上に立って吹こうかな、とも思ったのですが、やはり人の顔なので遠慮して、一歩下がったところで吹いたところ、犬を連れているおばあさんが私たちに話しかけてきて、わたしの法螺貝を聞いて、ケルトの集会の儀式を想い出したと話し始めたのです。


イヨ・モルガンの記念碑
プリムローズの丘

 おばあさんによると、この丘は、何でもイギリスのケルト文化の復興の地で、1797年にそこでイギリスのケルトの末裔たちが集まり、ゴーセドの祭りを行ない、バードと呼ばれる詩人の集いをしたとのことなのです。ヨロ・モルガニムという人が、その顔の当の人物でした。

 実は、わたしは、1994年にロンドン大学SOASで神道国際シンポジウムが開催された時に、「ケルトと神道」について講演したのでした。そして、1995年に国際交流基金から派遣されてアイルランドのダブリン大学ケルティックスタディーズの客員研究員として身を置いて、ケルトと神道の比較研究をしたのでした。

 そんなことがありましたが、このフィリップ・スイフトさんに連れられてきたプリムローズの丘がそんないわれがあるとは露知らず、しかし、近所のおばあさんからその由来を知らされた時、200年余を越えて、ケルトの末裔たちの呼び声が今ここの私たちにも届いているような不思議な感じがしました。もしかしたら、『ガリバー旅行記』の著者のアイルランド人ジョナサン・スヒフトと同姓のスイフトさんのご先祖はアイルランドケルトかもしれませんからね。

 今回のパリとロンドンは、とても、感じることの多い滞在体験となりました。もちろん、わたしは、大のふるさとパリ好きですが、花の都パリと霧の都ロンドンの比較霊性論をやってみると、なかなか面白いと思いました。そして、そこに、魔界都市京都を入れてみると、なかなか、面白く面妖な比較首都論ができると思った次第です。話が取り留めもなくなりましたが、ヒースローで書き始めたこのムーンサルト・レターですが、フランクフルトで乗り継いで、ルフトハンザで関空に着くまでに書き上げました。日本は、もう、3月12日になりました。東日本大震災から1年。これからの時代と日々に、悔いのない、責任を果たす生き方ができればと思っていますので、孔子主義者と東子主義者とのコラボ、今後ともよろしくお願いいたします。

2012年3月12日 鎌田東二拝