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シンとトニーのムーンサルトレター 第121信

 

 

 第121信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、121回目のレターをお送りします。いま、700ページ以上もあるゲラの校正に悪戦苦闘しています。『満月交遊 ムーンサルトレター』のゲラです。そう、わたしたちのムーンサルトレターを単行本化した『満月交感 ムーンサルトレター』の続編です。24日、『唯葬論』の初校ゲラをおよび『永遠葬』の再校ゲラを受け取りました。じつは、その日、水曜社から『満月交遊 ムーンサルトレター』の初校ゲラも出ました。國學院大學のオープンカレッジの会場で水曜社の仙道弘生社長にお会いしたので、直接ゲラを受け取ろうかとも思いましたが、國學院の教室で700ページ分のゲラを頂戴してもホテルに持ち帰るのが大変なので、北九州に郵送していただくようにお願いしました。

 そのゲラを手に取ると、やはり、すごいボリュームです。また文字組みが凄いことになっています。前作の『満月交感』も文字組みが業界で話題になり、いくつかの出版社の編集部で回覧されたとか(苦笑)。担当編集者である朝倉祐二さんから「かなりのボリュームがありますので、校正頂くのも大変かと思いますが、何とぞよろしくお願い致します」とのメールが書斎のパソコンに届いていました。うひょ〜!

 また同書の共著者であるTonyさんからは「本日、『満月交遊』初校ゲラ落手しました。上下合わせて、700頁余! ガチンコ交遊曲ですねえ! 今どき、これほどのガチンコ本を出せるとは! 驚き、感謝、です! ありがとうございます」という内容のメールが届いていました。短い文面ながらも、「!」が4つも付けられています、Tonyさんのコーフンぶりがよく伝わってきますね。わたしも気合を入れて校正しました。

 さて、6月28日、わたしはある本の書評ブログをアップしました。いま世間を騒がせている問題の書である『絶歌』(太田出版)です。その日からちょうど18年前、神戸連続児童殺傷事件における殺人及び死体遺棄の容疑で1人の男子中学生が逮捕されました。自ら「酒鬼薔薇聖斗」と名乗った元少年Aです。彼が書いた手記が『絶歌』です。白い表紙カバーに白い帯。まるで禊のような雰囲気を漂わせた本ですが、これは紛れもなく、1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件の当時14歳だった加害者男性(32)による手記なのです。帯には「1997年6月28日。僕は、僕ではなくなった。」「酒鬼薔薇聖斗を名乗った少年Aが18年の時を経て、自分の過去と対峙し、切り結び著した、生命の手記」と書かれています。今月11日に本書が出版されて以来、大変な物議をかもしています。

 この手記の出版によって、「サムの息子法」と呼ばれる米ニューヨーク州の法律が注目されています。加害者が犯罪行為をもとに手記を出版するなどして収入を得た場合、被害者側の申し立てにより収益を取り上げることができるという法律です。1970年代のニューヨーク州の連続殺人事件を機に制定されました。その後に改正が施されながらも、同様の法律が米国約40州に広がっています。ある意識調査によれば、日本では9割以上の人が「サムの息子法」を導入すべきであると考えているそうです。たしかに、人を残虐な方法で殺して、出所後にその手記を出して印税を稼ぐというのは「殺人ビジネス」と言われても仕方ないでしょう。ネットでは、「未成年のときに社会現象になる事件を起こせば出所後に本にすれば不自由なく暮らせるのか」「これで人殺して本書いて儲けるっていう一連の流れが出来るね」といった意見を多数見ることができます。

 なぜ、元少年Aはこの手記を出版しなければならなかったのか。彼は、本書の最後に次のように書いています。「この十一年間、沈黙が僕の言葉であり、虚像が僕の実体でした。僕はひたすら声を押しころし生きてきました。それはすべてが自業自得であり、それに対して『辛い』、『苦しい』と口にすることは、僕には許されないと思います。でもぼくはそれに耐えられなくなってしまいました。自分の言葉で、自分の想いを語りたい。自分の生の軌跡を形にして遺したい。朝から晩まで、何をしている時でも、もうそれしか考えられなくなりました。そうしないことには、精神が崩壊しそうでした。自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの『生きる道』でした。僕にはこの本を書く以外に、もう自分の生を掴み取る手段がありませんでした」

 元少年Aは、手記出版の動機を「自分が生きるため」というのです。ということは、彼は「生きたい」と思っているのでしょう。でも、彼が命を奪った2人の犠牲者も「生きたい」と思っていたはずで、その2つの尊い「生」を理不尽にも奪った張本人が「生きたい」から手記を書いたというのは身勝手だと言われても仕方ないでしょう。もっとも私小説風の『絶歌』を書くことによって、彼が自分の忌まわしい人生を物語化したかったのだということは理解できます。人は生きるために「物語」を必要とする生き物ですから。

 『絶歌』は2部構成で、第1部は1997年6月28日に当時14歳だった筆者が逮捕されて「少年Aになった日」から始まります。事件を起こした当時のことが書かれていますが、殺人そのものについての描写は簡潔で、そこに至ってしまった著者自身の心境が過剰ともいえる修飾語や形容詞とともに綴られています。第2部では、21歳だった2004年、医療少年院を出て、社会復帰してから現在に至るまでの出来事が語られています。また、被害者遺族への贖罪の気持ち、家族への感謝の気持ちなども書かれています。

 『絶歌』を読んで、まず驚くのは著者の独特な文章です。正直、わたしは「文章力はあるな」と思いました。アマゾンのレビューなどでは、ちゃんと読んでいるかどうかも怪しい人々が「稚拙な文章」とか「オナニー文体」とか散々なコメントをしていますが、「それなら、あなたはこれだけの文章を書けるのですか?」と言いたいです。多くの人が指摘するようにナルシスト的な文体であることは確かですし、この文体に嫌悪感を感じる人もいることと思いますが、わたしは「初期の三島由紀夫みたいな文章だな」と思いました。

 実際、著者である元少年Aの愛読書は三島由紀夫の『金閣寺』だそうです。彼は大の読書家で、特に三島と村上春樹がお気に入りだとか。村上春樹の作品では『海辺のカフカ』や『レキシントンの幽霊』所収の「トニー滝谷」などが本書で引用されたり、登場したりしています。そういえば、『絶歌』はハルキ的な文体であるとも思えます。もっとも、村上春樹が三島由紀夫の影響を強く受けていることは周知の事実ですが・・・・・・。その他にも、本書にはドストエフスキー『罪と罰』、太宰治『人間失格』、大藪春彦『野獣死すべし』、村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』などの小説が引用されています。また、古谷実のコミックである『ヒミズ』や『ヒメアノ〜ル』、松任谷由実の「砂の惑星」、さらには「ダウンタウンのごっつええ感じ」の松本人志に影響を受けたと書かれています。これを読んで、名前を出された人々、たとえばユーミンなどは何を思うのでしょうか?

 わたしは、『絶歌』を読んで、著者は「唯物論者」なのだと悟りました。唯物論の立場ならば、死はただひたすら「死体」という物体を生み出す現象に過ぎません。そこに「霊魂」というものの存在を想定しない限り、「慰霊」も「鎮魂」もありません。本書に犠牲者たちへの「贖罪」の言葉はあっても、「慰霊」や「鎮魂」というものがすっぽりと抜け落ちている理由がわかりました。祖母とサスケの死を続けて経験した著者は、「死」に異様なまでの関心を抱くようになります。そして、彼は猫を殺すようになり、ついには一連の連続児童殺傷に至るのです。

 今なお、「酒鬼薔薇聖斗」への崇拝者が後を絶ちません。今年1月、知人女性殺害容疑で逮捕された名古屋大学の女子大生(19)は、ツイッタ—で「酒鬼薔薇聖斗くん32歳の誕生日おめでとう♪」とつぶやいています。「週刊文春」6月25日号の「少年A『手記』出版 禁断の全真相」特集の「少年Aを神と崇める模倣犯列伝」では、臨床心理士の長谷川博一氏が以下のようにコメントしています。

 「名大生は人が死んでいく過程に興味があり、被害者を斧で殴って倒した後、マフラーで首を絞めて、死ぬまでの様子を観察していたそうです。彼女は少年Aの事件を初めとする過去の犯罪を詳細に調べていましたが、そうしたディテールが彼女の殺人の空想に現実味を持たせ、一線を超えさせたといえるでしょう」

 また、昨年7月、佐世保市での高1女子による同級生殺害事件にも少年Aとの接点が見られます。「週刊文春」の取材記者は次のように述べています。

 「加害少女は猫を殺して解剖し、そこから人間の死に対する関心を深めていった。そのプロセスは少年Aと同じです。地元紙は、彼女は事件前、少年Aの事件など少年犯罪の新聞報道を調べていたと報じています」

 元少年Aが「死」に異常な関心を抱くようになったのは、時代背景も影響したと指摘されています。彼が殺人を犯す2年前の1995年、「阪神淡路大震災」と、オウム真理教による「地下鉄サリン事件」が発生しました。彼はこの2つの出来事に衝撃を受けたとか。

 20年前の一連のオウム真理教事件の後、人々の心は「物質的なもの」から「精神的なもの」へとますます加速度的に移行していったというのは絶対に違う。あれから、日本人は一気に「精神的なもの」を避けるようになり、「宗教」を恐れるようになりました。“団塊の世代”の特色の1つとして「宗教嫌い」があげられますが、それが日本人全体に波及した観があったのです。そして、日本人の「葬儀」に対する関心も弱くなっていきました。

 オウム真理教の麻原彰晃が説法において好んで繰り返した言葉は、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句でした。オウムは、死の事実を露骨に突きつけることによって多くの信者を獲得しましたが、結局は「人の死をどのようにして弔うか」という宗教の核心を衝くことはできませんでした。言うまでもないことですが、人が死ぬのは当たり前です。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」など、ことさら言う必要などありません。最も重要な問題は、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということなのです。大事なのは「死」でなく「葬」なのです。

 ぜひ、彼らには死ぬまで、自分たちが命を奪った犠牲者たちの冥福を祈り続けてほしい。そして出所したのであれば、故人の墓参りをし、仏壇に手を合わせてほしい。本なんか書くよりも大事なのは、そっちのほうです。

 『絶歌』では、少年Aの面談に訪れた母親が持参した数珠を受け取ったと書かれていますが、その数珠を使ってどのように故人の供養をしたのか、どのように死者の冥福を祈ったのかが一切書かれていません。残虐な殺人や遺体の描写などよりも大切なのは彼なりの供養について書くことでした。そうすれば、『絶歌』は違うニュアンスの本になっていたと思います。これほど物議をかもすこともなかったかもしれません。

 Tonyさんが「神戸連続児童殺傷事件」に衝撃を受け、それが神道ソングライターの活動を開始するきっかけであったと伺っています。Tonyさんは『絶歌』をお読みになられましたか? 読まれたとしたら、どのように感じられましたか?  それでは、5日、東京でお会いしましょう。「久高オデッセイ」全三部を一挙上演するシアターX&NPO法人東京自由大学提携記念公演での再会を楽しみにしています。

2015年7月2日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 Shinさん、明日7月5日(日)、東京両国のシアターΧで行なわれるNPO法人東京自由大学とシアターΧとの提携公演である「久高オデッセイ」三部作の上映会とシンポジウムでお会いできるのを楽しみにしています。300席は予約で満席となり、申し込みを断っている状態です。NPO法人東京自由大学開学17年になりますが、こんな反響は初めてです。

 大重潤一郎監督が、13年の歳月をかけ、文字通り心血を注ぎ、いのちを削り、たましいを投入して完成させた映画です。この反響は大変嬉しく、心強く、有難い反響です。明日の上映会とシンポジウムの結果報告は、次回のムーンサルトレターでしたいと思います。

 さて、「少年A」、わたしは「酒鬼薔薇聖斗」と呼ぶ方を選びますが、彼の著書『絶歌』が話題になっている由、読んでいないので何とも言えません。が、わたしのこの20年が、常にオウム真理教事件と酒鬼薔薇聖斗事件とともにあったことは事実です。

 1995年3月20日、わたしの44歳の誕生日に起こった地下鉄サリン事件から顕在化したオウム真理教事件に対するアンサーブックをわたしは同年10月に『宗教と霊性』(角川選書)と題して上梓しました。そこで、「魔」や「魔境」の問題を本格的に取り上げましたが、その後不十分だと強く思い、その先へ進まねばと思っていた矢先の1997年6月に、酒鬼薔薇聖斗事件が起こりました。そこで、わたしは一人、神戸のタンク山や事件のあった中学校を訪ねたりもしましたが、オウム真理教事件と酒鬼薔薇聖斗事件両方に対するアンサーブックとして、2000年7月に、『エッジの思想—翁童論Ⅲ』(新曜社)を上梓しました。

 その時は決死の覚悟で書き上げましたが、その本は「異様な本」だと思います。冒頭はわけのわからないような「少年A」に宛てた文章です。出版後、わたしは『霊性と霊性』と『エッジの思想』などを、酒鬼薔薇聖斗が入っている医療少年院に送りましたが、受け取り拒否をされました。電話をかけて所在を確認しましたが、その時の担当者が鎌田なんとかさんという男性でした。なので、酒鬼薔薇聖斗はその時点でわたしの本は読んでいないはずです。その後、出所後、彼がわたしの本を読んだかどうかはわかりませんが、読んだ可能性はないことはないと思っています。

 その後、2004年9月に、『呪殺・魔境論』(集英社、後に『「呪い」を解く』と改題して文春文庫より再版)を出し、3冊目の「魔」や「魔境」とオウム真理教事件と酒鬼薔薇聖斗事件のことについて書きました。そして今、本年4月より、新規科研「身心変容技法と霊的暴力−宗教経験における負の感情の浄化のワザに関する総合的研究」を始めていますが、その核心にオウム真理教事件と酒鬼薔薇聖斗事件があります。その問題を解きほぐすために、迂遠な道ですが、わたしはこのような迂回路を通って今に至っています。

 その科研を実施する「身心変容技法研究会」(HP:http://waza-sophia.la.coocan.jp/)に所属している京都大学大学院生がわたしに『絶歌』のこととそれを「身心変容技法研究会」で取り上げないのかと質問してきました。彼は、「この問題は身心変容技法研究会の科研における研究課題のど真ん中の話題(負の感情の浄化のワザに関する総合的研究)」だと指摘してくれましたが、その通りと認識しています。が、同時に、「この問題は精神病理の問題でもあるので、精神科医の専門的なアドバイス無しに議論した場合、不測の事態を引き起しかねないので、慎重さが求められる議題である」とも指摘してくれました。

 もちろん、たとえ「精神病理」の問題であるとしても、また素人であるとしても、この問題に立ち向かう必要があると思っています。それぞれの立場から。もちろん、「慎重さ」は必要であると思っていますが。そのような次第ですので、今は、Shinさんの「どのように感じられましたか?」という質問にお答えすることはできません。わたしの答えのいくつかはすでに前掲拙著の中で示しているとも考えているので、改めて、それらの3冊をパラパラと読み返していただければ幸いです。

 が、もし近いうちに、『絶歌』を読んだなら、責任を持ってShinさんの質問にきちんとお答えしたいと思いますので、それまでお待ちください。よろしくお願いします。気合を入れて、取り組みます。

 さて、わたしは6月18日に、これまでのものの見方がひっくり返るほどの大きな、深い衝撃を受けました。その日、わたしは、春日大社国宝本殿特別参拝に出かけ、第一殿と第二殿との間にある「白漆喰磐座」なるものを見てしまったからです。このような「磐座」は見たことがありません。はたしてこれが「磐座」と呼べるものなのかどうかも、よくわかりません。それほど、独自で独創的な形態なのです。

 そのことについて、7月1日付徳島新聞に次のような記事を書きました。そのまま記事を以下に掲載します。



(7月1日付徳島新聞)
 また、この問題についても論考を書きました。わたしの解釈が正しいかどうかはわかりませんが、ここには古代国家と王権とそれを補佐する一族の途轍もない思想と呪術の網の目があるように思います。

 もちろん、その中核をなすのは藤原氏ですが、藤原氏はもともと中臣氏で、中臣氏は卜部氏と同族であったと考えられるので、古代の鹿卜つまり太占を司っていました。春日大社には鹿がたくさんいて、白鹿の背に神鏡を載せている春日曼荼羅図などがよく知られていますが、亀卜や鹿卜という「うらない」文化がいかなるものか、再考が迫られています。

 そしてそれらの古代呪術やそれを担う氏族が当時の最新のテクノロジー、例えば製鉄技術や織物や陶芸や染色やものづくりなどと密接につながっているので、どこでどのようなネットワークや関係性が築かれているのか、よくよく吟味が必要です。中でも、物部氏、葛城氏、賀茂氏、忌部氏、猿女氏、秦氏、小野氏など、再検証が待たれます。また古代文献の一つの平安時代の偽作とされる『先代旧事本紀』ももう一度考え直す必要があります。またいわゆる偽書とされる伝承群にも綿密な考察が必要ですが、やることがいっぱいありすぎて、後回しになってしまいます。

 ともあれ、春日大社の「白漆喰磐座」というものが、誰が、いつ、何のために、本殿の第一殿と第二殿の間に在るようにデザインしたのかが、最大の謎です。ここには呪術哲学があり、神話哲学があり、政治神学があります。これを図ったものの高度のインテリジェンス。藤原氏という一族はやはり半端ではありませんね。藤原不比等だけでなく、藤原組合を作っていたような。

 その「白漆喰磐座」を間に置くと、元祇園とも言われる、スサノヲノミコトを主祭神とする春日大社の摂社の水谷神社とその本殿真下の「白漆喰磐座」も謎となります。水谷神社と春日大社の関係とは何であるのか? なぜそこに牛頭天王〜スサノヲが祀られているのか? 春日の信仰とは一体なんであるのか? 藤原不比等の外孫にあたる称徳天皇(718−770)は春日大社の創建にも関わっています。

 ちなみに、春日大社のHPには次のように説明されています。
「春日大社は、今からおよそ1300年前、奈良に都ができた頃、日本の国の繁栄と国民の幸せを願って、遠く鹿島神宮から武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様を神山御蓋山(ミカサヤマ)山頂浮雲峰(ウキグモノミネ)にお迎えした。やがて天平の文化華やかなる神護景雲2年(768年)11月9日、称徳天皇の勅命により左大臣藤原永手によって、中腹となる今の地に壮麗な社殿を造営して香取神宮から経津主命様、また枚岡神社から天児屋根命様・比売神様の尊い神々様をお招きし、あわせてお祀り申しあげたのが当社の始まりです。」

 第48代称徳天皇は、第46代孝謙天皇が重祚して称徳天皇となったもので、有名な弓削の道鏡を寵愛した女帝として知られていますが、当代の女性知識人であり、権力をふるった辣腕改革者であったようです。

 この称徳天皇が崩御したのが神護景雲4年旧暦8月4日ですが、春日大社が創建されたのがその約2年前の神護景雲2年(768年)旧11月9日のことでした。なので、法王とした道鏡を天皇位につけようとしたのですから、極めて大胆な発想と改革を推進しようとしたわけです。もちろん家臣たちの反対は強く、また和気清麻呂に託された宇佐八幡宮の信託も道鏡を皇位につけるべからずというものでしたから、皇位は次に桓武天皇の父の第49代光仁天皇に渡ることになりました。

 ともあれ、政情不安の激動の時代に、春日大社が創建されたということであり、その第一殿と第二殿の間に、この「白漆喰磐座」があるというわけです。これは「国譲り」に最大の功績があった建御雷神(武甕槌命)の威力を「白漆喰磐座」を通して増幅して道鏡皇位継承を阻止しようとする狙いもあったかもしれません。ともあれ、その翌年、道鏡は皇位継承を実現することができなかったのですから。

 古代天皇制国家最大の危機がこの神護景雲2年から4年の間に起こったということになります。桓武天皇はこのような平城京のごたごたや混乱に辟易していたのでしょう。あっさり、平城京を捨てて、長岡京から平安京に遷都していきます。そして、京都に安定した都を築き上げていくのです。少なくともその土台を作りました。

 この称徳天皇は、父が聖武天皇、母が光明皇后で、父方にも母方にも藤原不比等がいますので、不比等の存在価値はますます高くなっていた時代です。その藤原不比等が『日本書紀』編纂を仕上げていくのですが、『古事記』にも深く関与していたとわたしは考えています。

 なぜかというと、後に春日大社の第一殿に祀られることになる建御雷神が『古事記』においては「国譲り」で途轍もない威力を発揮し、最大の功労者になるからです。それはまるで、藤原不比等を髣髴させます。が、不比等は『日本書紀』が編纂された養老4年(720年)に死去します。それから春日大社創建まで48年、ほぼ半世紀の時が経っているのです。

 古代史はたくさんの謎を含みますが、伊勢の神宮、出雲大社、諏訪大社、春日大社の創建は、本当に謎だらけです。そして、その謎の上にさらなる謎かけをして見せたのが、この「白漆喰磐座」でした。これには、しんそこ魂消ましたよ。6月18日以来、わたし脳裡からこの「白漆喰磐座」が消えることがありません。そんな白塗り頭で、明日朝一番の新幹線で上京して「久高オデッセイ」三部作上映と、「久高オデッセイ第三部風章」完成記念上映&シンポジウムに臨みます。再会を大変楽しみにしております。

 2015年7月4日 鎌田東二拝