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シンとトニーのムーンサルトレター 第136信

 

 

 第136信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、前回のレターでご紹介した「シン・ゴジラ」は御覧になられましたか? 今も大ヒットを続けていますが、その後、日本のアニメの歴史を変えたとまで言われている「君の名は。」が公開され、こちらも大ヒットを記録しています。わたしも公開早々に観ましたが、たいへん素晴らしい傑作でした。新海誠監督は、引退した宮崎駿監督に代わって、今や日本アニメ界を代表する存在となった感があります。「君の名は」は神社が重要な舞台で、「産霊(むすび)」がテーマです。主人公の女の子は巫女であり、もう「100%、Tonyさん向きの作品」ではないかと思います。



映画「君の名は。」ポスター
 ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。
 「『星を追う子ども』『言の葉の庭』などの新海誠が監督と脚本を務めたアニメーション。見知らぬ者同士であった田舎町で生活している少女と東京に住む少年が、奇妙な夢を通じて導かれていく姿を追う。キャラクターデザインに『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』シリーズなどの田中将賀、作画監督に『もののけ姫』などの安藤雅司、ボイスキャストに『バクマン。』などの神木隆之介、『舞妓はレディ』などの上白石萌音が名を連ねる。ファンタスティックでスケール感に満ちあふれた物語や、緻密で繊細なビジュアルにも圧倒される」

 また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。
「1000年に1度のすい星来訪が、1か月後に迫る日本。山々に囲まれた田舎町に住む女子高生の三葉は、町長である父の選挙運動や、家系の神社の風習などに鬱屈していた。それゆえに都会への憧れを強く持っていたが、ある日彼女は自分が都会に暮らしている少年になった夢を見る。夢では東京での生活を楽しみながらも、その不思議な感覚に困惑する三葉。一方、東京在住の男子高校生・瀧も自分が田舎町に生活する少女になった夢を見る。やがて、その奇妙な夢を通じて彼らは引き合うようになっていくが・・・・・・」

 じつは、わたしが新海誠の名を知ったのは、「君の名は。」が公開される数日前でした。偶然、GYAO!で「星を追う子ども」を観たのです。最初の数分だけ観ようと思ったのですが、映像の美しさと物語の面白さに引き込まれて、ついつい最後まで観てしまいました。最初はてっきり、ジブリ作品かと思いました。

 おそらくは、ジブリの「天空の城ラピュタ」や「もののけ姫」などから強い影響を受けているのでしょう。『古事記』の黄泉の国神話、アガルタ地下世界伝説なども登場し、物語も興味深かったです。エンディングに流れる「ハロー・グッバイ・アンド・ハロー」という歌の中に「君のいないこの世界にハロー」という歌詞が出てきますが、まさにグリーフケアの核心だと思いました。「そうか、もう君はいないのか」から「君のいないこの世界にハロー」へ・・・まさに、グリーフケア・アニメというべき内容の素晴らしい作品でした。

 新海誠監督は1973年、長野県南佐久郡小海町生まれ。長野県野沢北高等学校を経て、中央大学文学部在籍中にアルバイトとして日本ファルコムで働き、大学卒業後の1995年に正式に入社。同社のパソコンゲームのオープニングムービーを制作しながら、自主制作アニメーション作りに励みました。1998年に「遠い世界」でeAT’98で特別賞を、2000年に「彼女と彼女の猫」でプロジェクトチームDoGA主催の第12回CGアニメコンテストでグランプリを獲得しました。現在は日本ファルコムを退社し、コミックス・ウェーブ・フィルムに所属しています。

 2002年、監督・脚本・演出・作画・美術・編集などほとんどの作業を1人で行った約25分のフルデジタルアニメーション「ほしのこえ」を発表。2004年、初の劇場長編作品となる「雲のむこう、約束の場所」を発表。2007年、連続短編アニメーション「秒速5センチメートル」を発表。この3作品は、いずれも主人公である少年少女の2人の心の距離と、その近づく・遠ざかる速さをテーマとしています。2011年、随所に宮崎駿作品へのオマージュが散りばめられた「星を追う子ども」を発表。これ以前の作品とはかなり異なる作風で、ファンタジー要素が強くアクションシーンも多いと賛否両論でした。そして、2013年に「言の葉の庭」を発表しました。

 「言の葉の庭」の3年後に公開された「君の名は。」ですが、わたしはあまり観たいとは思っていませんでした。「星を追う子ども」に感動した直後にもかかわらず、です。理由は2つあって、1つはタイトルが往年のメロドラマと一緒で、「ダサい」(この言葉は死語ですかね?)印象があったからです。もう1つは、少年と少女の心と体が入れ替わる話だと知って、大林宣彦監督の名作「転校生」そのものではないかと思ったからです。しかし、実際に観た「君の名は。」は、単なる男女入れ替え話ではありませんでした。もっともっと壮大なテーマのSF感動巨編だったのです。

 大林宣彦作品でいえば、「転校生」と「時をかける少女」をミックスしたような感じでしょうか。「時をかける少女」も主人公の芳山和子が大切な「君」の名を求める物語でした。その名前は未来人「ケン・ソゴル」でしたが、「君の名は。」の主人公である三葉にとって、その名前は「瀧」でした。また、大林映画は一貫して「誰そ彼」つまり「黄昏」どきに異界の住人と会うことが大きなテーマになっていますが、これも「君の名は。」に通じます。

 「転校生」の舞台は尾道で、「御袖天満宮」の長い石段を一夫(尾美としのり)と一美(小林聡美)の2人が抱き合ったまま転げ落ち、そのショックで2人の中身が入れ替わってしまったのでした。ちなみに、わたしも尾道で転んで骨折したことがあります。「君の名は。」に登場する瀧と三葉は神社の石段で抱き合ったまま転げ落ちはしませんでしたが、この映画でも神社は重要な役割を果たしています。ネタバレになるので詳しくは書けませんが、神社が異世界に通じるパワースポットであることをよく表現していると思いました。

 そもそも三葉の実家は「宮水神社」という神社であり、彼女は巫女なのです。亡くなった母は「二葉」で、祖母は「一葉」という名です。妹は「四葉」です。三葉と四葉の姉妹に対して、祖母の一葉が「むすび」について語る場面があります。一葉おばあちゃんは、「『むすび』は、神と人を結び、人と人を結び、時と時を結ぶ」と言います。宮水神社の女たちは組紐を作りますが、一葉は「組紐はつながったり、ねじれたりして、時間と同じ」とも言います。わたしは、「むすび」というキーワードが登場して、たいへん感激しました。わが社の社名である「サンレー」には「産霊(むすび)」という意味があります。神道の言葉ですが、結婚におけるコンセプトと言ってもよいでしょう。新郎新婦という2つの「いのち」の結びつきによって、子どもという新しい「いのち」を産むということですね。「むすび」によって生まれるものこそ、「むすこ」であり、「むすめ」です。

 「産霊」は「物を生成することの霊異なる神霊」を指し、本来、生成力つまり、自然の万物を生み出すクリエイティブな力を表わしました。霊魂を結合させること、つまり「結魂」こそ産霊の本質といってもよいでしょう。あいかわらずチャペル・ウエディングが人気ですが、やはり日本人の結婚式は、「産霊」を最上のものとする神前結婚式が望ましいと思います。神前式において、新郎の魂と新婦の魂は結びつけられ、それによって、子どもという新しい生命も誕生する。まさに命を生み出す力です。結婚という人間界最高の平和と、神道という平和宗教とは基本的に相性がいいのです。

 「君の名は。」は、1組の男女がめぐりあうまでの壮大な、あまりにも壮大な物語です。瀧と三葉の出逢いは「奇跡」という他はありません。しかし、わたしは思うのです。結婚相手と出逢うということそのものが奇跡にほかならないと・・・・・・。そもそも縁があって結婚するわけですが、「浜の真砂」という言葉があるように、数十万、数百万人を超える結婚可能な異性のなかからたった一人と結ばれるとは、何たる縁でしょうか!

 「君の名は。」は映画の本質というものを見事に表現した作品であると思いました。じつは本日9月17日、わが最新刊『死を乗り越える映画ガイド——あなたの死生観が変わる究極の50本』(現代書林)が発売されました。Tonyさんに教えていただいた香港映画「世界の涯てに」も取り上げていますが、同書の「まえがき」に、映画の本質についての私見を書きました。わたしは映画を含む動画撮影技術が生まれた根源には人間の「不死への憧れ」があると思います。



『死を乗り越える映画ガイド』
 映画と写真という2つのメディアを比較してみましょう。写真は、その瞬間を「封印」するという意味において、一般に「時間を殺す芸術」と呼ばれます。一方で、動画は「時間を生け捕りにする芸術」であると言えるでしょう。かけがえのない時間をそのまま「保存」するからです。そのことは、わが子の運動会を必死でデジタルビデオカメラで撮影する親たちの姿を見てもよくわかります。「時間を保存する」ということは「時間を超越する」ことにつながり、さらには「死すべき運命から自由になる」ことに通じます。写真が「死」のメディアなら、映画は「不死」のメディアなのです。だからこそ、映画の誕生以来、無数のタイムトラベル映画が作られてきたのでしょう。

 そして、時間を超越するタイムトラベルを夢見る背景には、現在はもう存在していない死者に会うという大きな目的があるのではないでしょうか。わたしには『唯葬論』(三五館)という著書があるのですが、すべての人間の文化の根底には「死者との交流」という目的があると考えています。そして、映画そのものが「死者との再会」という人類普遍の願いを実現するメディアでもあると思っています。そう、映画を観れば、わたしは大好きなヴィヴィアン・リーやオードリー・ヘップバーンやグレース・ケリーにだって、三船敏郎や高倉健や菅原文太にだって会えるのです。

 Tonyさんも『世阿弥——身心変容技法の思想』(青土社)に書かれていたように、古代の宗教儀式は洞窟の中で生まれたという説がありますが、洞窟も映画館も暗闇の世界です。暗闇の世界の中に入っていくためにはオープニング・ロゴという儀式、そして暗闇から出て現実世界に戻るにはエンドロールという儀式が必要とされるのかもしれません。そして、映画館という洞窟の内部において、わたしたちは臨死体験をするように思います。なぜなら、映画館の中で闇を見るのではなく、わたしたち自身が闇の中からスクリーンに映し出される光を見るからです。

 闇とは「死」の世界であり、光とは「生」の世界です。つまり、闇から光を見るというのは、死者が生者の世界を覗き見るという行為にほかなりません。つまり、映画館に入ることによって、観客は死の世界に足を踏み入れ、臨死体験するわけです。わたし自身、映画館で映画を観るたびに、死ぬのが怖くなくなる感覚を得るのですが、それもそのはず。わたしは、映画館を訪れるたびに死者となっているのでした。ということで、『死を乗り越える映画ガイド』を送らせていただきます。ご笑読のうえ、ご批判いただければ幸いです。

2016年9月17日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 Shinさん、ムーンレター、ありがとうございます。仲秋の名月は京都ではよく見えました。短い時間でしたが。うろこ雲が高くかかっていましたが。

 庵野秀明総監督の「シン・ゴジラ」は観て、この前のムーンサルトレターで、少しですが、感想を書きました。ゴジラの造形がよかった、というのが、わが感想の要諦です。畏怖畏敬、「怖い=畏怖/素敵=魅惑」(「となりのトトロ」的ヌミノーゼ表現)の両方を感じました。

 ところで、『君の名は。』も最近観ました。Shinさんの熱い勧めがあったので。が、残念ながら、わたしの感想は、「イマイチ。」、でした。

 一番のネックは、見知らぬ高校生の少年少女が、彗星来訪の影響からか、夢の中で転換するのはファンタスティックで面白く、カルデラ湖の中の島の巨石聖地もそれなりによいのですが、最後の最後で再会できる時間転換のメカニズムがわかりませんでした。その不明確さによって、全体の複式夢幻能的なファンタジーが泡のごとく消滅してしまう頼りなさの中に落ち込んでいきました。この「夢幻物語アニメ」を楽しむどころか、「なんだよ〜、これは!」という腹立たしい思いで映画館を出たことは事実です。

 こんなことを書くと、ファンの方に叱られるかもしれないし、またその時間転換も実はこれこれのメカニズムで起っているのだという次元錯綜・接続の根拠があるのかもしれませんが、わたしには不可解で、不愉快でした。「むすび」についての説明も、「宮水神社」の伝承も、町長をしている婿養子の三葉の父親も、しぶしぶ巫女を務めている三葉と妹の四葉についても、イマイチ、ピンとは来ませんでした。

 観てよかった点は、ありえないようなカルデラ湖と町でした。このカルデラ湖は諏訪湖と諏訪市の上諏訪の湖岸通りや対岸の岡谷市などがモデルのようですが、1回観ただけでそうだとわかりました。しかし、映画のように美しいコンパクトなカルデラ湖の町はこの地上には存在しないのではないでしょうか。そんな美しい湖と町でしたね。その湖と町の造形は、素晴らしいと思います。

 が、全体に作りに深みや幽玄が感じられず、底の浅さ感が残りました。宮崎駿監督の『となりのトトロ』や『もののけ姫』や『風の谷のナウシカ』には、ディテールの深みと幽玄と聖なる場所の説得力が感じられます。なので、「聖地感覚」という観点からすれば、『君の名は。』を物足りなく思ったことは事実です。申し訳ありません。せっかくの感動に水を差すような感想しか書けなくて。

 さて、わたしは8月末に、「隠岐アートトライアル」のイベントに参加しました。友人の「巨石ハンター」(石の聖地の写真家)の須田郡司さんと一緒にゲスト講師として参加しました。https://www.facebook.com/oki.art.try/。この隠岐の島には、2000年8月5日〜10日の第2回東京自由大学夏合宿「サムシング グレート in 島根」の時訪問し、焼火神社の松浦道仁宮司に大変お世話になり、焼火神社で泊まらせてもらいました。この焼火神社から見える光景は、『君の名は。』のカルデラ湖のようなすばらしく美しい光景です。実際、島前の海士町や知夫里島と西ノ島は古代カルデラであったようです。30歳の時に1人で行った地中海エーゲ海沖のサントリーニ島と同様に。

 わたしは隠岐の島に合計10回近く行っていますが、最初に隠岐の島に行ったのは1971年の2月、45年前のことで、当時、國學院大學の学生でした。その國學院大學時代の同級生の松浦道仁焼火神社宮司(現西ノ島町観光協会長、島根県神社町隠岐支部長)が今回の第10回アートトライアルの実行委員長を務めていて、須田郡司さんとわたしを招いてくれ、大変有意義な時間と経験を持ちました。

 共に、「日本一の荒行法師(荒法師)」と『平家物語』で謳われた文覚上人が流されて修行した「文覚窟」を訪ねました。『平家物語』の「文覚流浪」のくだりには、隠岐に流された記事がありますが、それがここだと思われます。そこはじつにすばらしかった! すごかった! うつくしかった! また、寂滅岩の中で1時間ほどボーっと瞑想していた時間はかけがえのない「洞窟瞑想」タイムでした。

 「焼火山」や「焼火神社」は、上田秋成の『春雨物語』の最後に置かれた小説「樊(はんかい)」の舞台ともなっています。ここは、元々は熊野修験の地で、松浦家は熊野から渡ってきた修験者の末裔なのです。焼火神社については、江戸時代に、葛飾北斎や安藤広重の浮世絵に「隠岐焚火ノ社」と題して描かれています。江戸時代に全国区で知られた隠岐の名所で、神仏習合修験の地でもあったのです。

 鎮座の由来については、神代に天照大神が天鈿女命を従えて降臨し、猿田彦命の世話で焼火山に鎮座したという伝承の他、次のような縁起が伝わっています。

 —— 一条天皇の時代、西ノ島の海上に夜になると明々と燃え盛る不思議な火が見えました。それが数日続いた後、三つの火の玉が空を翔け、島の最高峰の焼火山に入りました。村人が後を追ってみると、山頂近く、高さ数十メートルの岩壁がそそり立ち、仏像のように見えたので「神秘」を感じ、一宇の堂を建てて祀った。—— それが「焼火山雲上寺」の始まりでした。

 この寺・雲上寺は、「大山権現」とか「焼火権現」とも呼ばれ、神仏習合色の強い寺社でした。が、明治元年の神仏分離令により、明治5年に「焼火神社」と改称します。廃仏毀釈に際しては、本尊の薬師如来や地蔵菩薩などが関係者によって秘匿され、現在は社殿に安置されています。「焼火山」(海抜452m)には、今でも大晦日(旧暦)の夜、南の海から火の玉が昇って行くのが見えるという伝えがあるようです。

 この宮司・別当職を務めた松浦家には、先祖「沙門良源」(元西国三十三所一番札所青岸渡寺住職・別当)の「御遺物」が残っています。それは錫杖と法螺貝でした。雲上寺初代住職の良源は、「久高オデッセイ」の監督大重潤一郎と同じ薩摩国(鹿児島県)坊津の生まれで、熊野で修行した修験者で真言宗の僧侶です。松浦家に伝わる「御遺物」の箱裏書には、天文9年(1540)に隠岐に来たと書いてありました。

 ところで、上田秋成の小説「樊」は、『春雨物語』の巻末に置かれた作品で、上田秋成の思いが籠もっています。主人公の稀代の荒くれ男・大蔵は、父と兄を殺し、神社の賽銭を奪い取り、博打に溺れ、盗みを重ねて全国を流浪し、北陸の山中で出会った武士に初めて力負けをして負傷し、その後、下野国の那須の殺生石のところで旅の僧を襲い、金銭を巻き上げるのですが、その僧の振る舞いの清らかさに心を打たれ、心を改めて弟子となります。

 その樊という僧侶の一生を、陸奥の古寺の80歳過ぎの「大和尚」が臨終に際して「まことの事かたりて、命終らん。我ははうきの国にうまれて、しかじかの悪徒なりし。ふと思ひ入て、今日にいたる。釈迦・達磨も、我もひとつ心にて、曇りはなきぞ」と物語り、死んでいったとするのです。そして、『春雨物語』の最後の最後は、「『心納れば誰も仏心也。放てば妖魔』とは、此はんの事なりけり」という一行で閉じられています。要するに、この物語は、樊という高僧の過去生の悪事の数々を列記し、その改心の過程を描いているのです。

 「樊」は、「むかし今をしらず、伯耆の国大智大権現の御山は、恐しき神のすみて…」と始まります。山陰地方随一の霊山である伯耆大山の麓の里で、毎夜博突を打って遊興三昧に耽る不良青年の大蔵が、酒の勢いで夜中の肝試しに伯耆大山の奥宮に登り、目じるしを置いてくることになりました。大蔵が山頂の奥宮まで行った証拠にと幣帛の入った賽銭箱をかついで降りようとすると、突然その箱がゆらゆらと動き、手足が生えて、大蔵を軽々と引き上げ、空を飛び始めます。大蔵は恐怖に慄いて、「許してくれ、助けてくれ」と懇願します。そうこうしてしているうちに、大蔵は波の音のする海辺に捨て置かれます。

 朝になって周りを見渡すと、そこには「神の社」があり、白髪交じりの烏帽子をかぶった浄衣姿の「かんなぎ」、つまり神主がお供え物を捧げて歩いてくるところでした。どこから来たのかとの神主の問いに、大蔵は「伯耆の大山にのぼりて、神にいましめられ、遠く此ぬさの箱と倶にこゝに投棄て、神は帰らせたまふ」と答えます。するとその老神主は、「いと恠(あや)し。汝はをこ業する愚もの也。命たまはりしこそよろこべ。こゝは隠岐の国のたく火の権現の御やしろ也」と言い放ったのです。これが、わが同級生の松浦道人現焼火神社宮司の先祖の一人に違いありません。

 ともかくも、上田秋成がその小説に焼火神社と、大荒くれの僧侶樊を登場させていることにわたしは大変興味を持ちます。そしてその樊が「日本一の荒法師」と謳われた文覚上人と重なります。

 じつは、とても奇妙なことですが、20年ほど前、わたしの元に、ある霊能者から、文覚上人が那智の滝と思しきところで滝行をしている葛飾北斎作と記された掛け軸が贈られてきました。いまだ鑑定はできておりませんが、そんなこともあって、文覚とはいろいろな「縁」を感じていたのです。そこで、今回の隠岐アートトライアルは、これまでのさまざまな「縁」をもう一度、考え直すよき機会となりました。ありがたいことです。

 それが終り、出雲に立ち寄って、北島国造館に出雲教・第80代国造の北島建孝氏を訪ねました。そして、京都大学での退職記念シンポジウムに際して出席していただいたお礼を申し上げ、近況をお尋ねし、続いて今一番ホットな関心を抱いている「鳴鏑」について、北島国造家の伝承をうかがったのです。

 この北島国造家では、憑物落としなどに鳴弦や蟇目神事を行なうらしいのです。そこで、当の「鳴鏑」を見せていただいくことにしました。先のムーンサルトレターに書いたように、これまで比叡山の大山咋神が「鳴鏑を用(も)つ神ぞ」と特記されていることがいつもとても気にかかっていたのですが、8月初めに、内モンゴルのハイラル民族博物館で実物を見て以来、すっかり「鳴鏑」問題に引き込まれてしまったのでした。元祖「神道ソングライター」で、わが親分のスサノヲノミコトが「鳴鏑」の弓矢の持ち主の元祖であり張本人なのだからしかたありませんね。

 ありがたいことに、北島建孝国造さん自ら「鳴鏑」を取り出して説明していただきました。その「鳴鏑」は長さ12センチ、洞直径8センチほどの桐製の比較的軽量のものでした。50年近く笛を吹いてきたので、お願いをして実際に口に付けて鳴らさせていただきました。思ったよりも高い音が鳴るのですが、4個の穴を開閉しても旋律は変わらず、単音でした。

 この「鳴鏑」を付けて矢を射た時、はたしてどんな音が鳴るのでしょうか? そしてこの矢を数十人や数百人の戦士たちが一斉に放ったとすればどんな凄まじい共鳴音を響かせることにとなるのでしょうか? 興味津々です。北島国造のお話ではそれほど大きな音は出ないとのことでしたが、ぜひその音、響きを聴いてみたいと思いました。

 考古学的遺物としては、「鳴鏑」は鹿の角を加工して作られていた千葉県の古墳からの発掘品があるようです。ともあれ、「鳴鏑」を作り使用するには、とても高度な加工技術と放射技術が必要だったと思われます。正倉院宝物にも遺されていますが、『魏志倭人伝』にも、「冒頓乃作為鳴鏑習勒其騎射令曰。鳴鏑所射而不悉射者斬之。行獵鳥獸有不射鳴鏑所射者輒斬之」と「鳴鏑」に関する記事が出ています。冒頓将軍が「鳴鏑」を作って、騎射を習い修めて、こう言います。「鳴鏑を射たところに射ることのできない者はみな斬り捨てる」と。このように命じて一緒に猟に出るのですが、中に鳴鏑を射ところを射ることのできない者がいたので、 冒頓は直ちにこの者を斬り殺したというのです。

 じつに残酷で厳しい話ですね。この時、「鳴鏑」の矢が射られたということは、何を意味しているのでしょうか? 儀礼と狩猟が接続するような物語で、スサノヲノミコトが「鳴鏑の矢」を放ってオホナムヂ(大国主神)に取って来いと命じる『古事記』の物語によく似ているところがあります。

 神話も古伝承も歴史も、本当に面白いというのか、考えさせられるというのか、考えれば考えるほど、謎が深まり、興味が尽きることがありません。そのような謎がすぐれた作品には生まれます。『風の谷のナウシカ』にも『となりのトトロ』にも『もののけ姫』にもそのような謎がありました。が、残念ながら、『君の名は。』にはそのような「謎」を感じませんでした。

 人物造形や場所造形に、何か、神秘的な「謎」があることが、ものがたりをふくらませます。『シン・ゴジラ』にはゴジラそのものの造形に何か「謎」を感じ、それだけでもとても惹き付けられました。世の中には、名状し難い、また表現し難い、「神秘」というモノがあります。そんな「神秘」を探究し、表現できればサイコーです。

 ところで、わたしはあさって、9月19日からモスクワに行ってきます。モスクワで、拙著『超訳 古事記』(ミシマ社、2009年)を原作にした『古事記〜天と地のいのちの架け橋』が上演されます。9月23日(金)、モスクワ音楽会館演劇ホールで、19時から約2時間の公演です。演出はロシア人演出家のレオニード・アニシモフさんです。今のモスクワでこの『古事記』がどのように受け止められるか、興味津々です。次回のムーンサルトレターで、その反応をお知らせすることができると思います。吉と出るか、凶と出るか、さてさて? 楽しみにお待ちください。

 2016年9月17日 鎌田東二拝


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