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シンとトニーのムーンサルトレター 第153信

 

 

 第153信

鎌田東二ことTonyさんへ

 今日1月31日の満月はすごいです。月が地球に近づいた状態で満月となる「スーパームーン」、1か月に2度めの満月となる「ブルームーン」、そして、皆既月食で月が赤く染まる「ブラッドムーン」が重なった「スーパーブルーブラッドムーン」が観測できます。なんという贅沢な月でしょうか! 4日、サンレーグループの新年祝賀式典を行いました。式典に先立って、松柏園ホテルの顕斎殿で新年神事を行いました。神事には、サンレーグループの佐久間進会長以下、北九州の幹部全員が参加しました。会場を神殿からバンケットに移して、いよいよ新年祝賀式典の開始です。さまざまな部署から総勢400名以上が参集しました。わたしは、例年通りに佐久間会長とともに入場しました。佐久間会長は82歳となった今年も元気な姿を見せてくれました。

 まず、勇壮な「ふれ太鼓」で幕を明け、「開会の辞」に続いて全員で社歌を斉唱し、「経営理念」が読み上げられ、全員で唱和しました。それから、佐久間会長による「会長訓示」が行われました。佐久間会長は「第二創業期、不変の信念をもって前進を」と述べ、「当社の核は人間の幸せを探求する民俗学です。そこから生まれ、50年以上にわたって抱き続けてきた信念をもって、わたしたちはこれからも歩み続けていかねばなりません。その自覚と誇りを胸に、本年もよろしくお願いいたします」と述べました。



400名以上のサンレー社員が参集

新年祝賀式典で社長訓話を行う

 そして、いよいよ「社長訓示」です。わたしは、以下のような話をしました。平成30年、2018年の新しい年を社員のみなさんとともに迎えることができて、幸せを感じています。今年も、どうぞ、よろしくお願いいたします。元旦にも誓ったのですが、平成30年は平成サンレー年。今年は、わが社にとってワンダフルな年にしたいと思います。全社員が一丸となって第二創業期を盛り上げましょう。

 また、わたしは「ところで、みなさんは正月を祝いましたか?」と訊ね、それから以下のように述べました。 わが家では、いつものように正月飾りをしました。正月を迎えると、「ああ、自分は日本人だ」と実感します。もともと正月というのは、年神を迎える年中行事です。古い信仰の形では、年神は祖霊神としての性格が強かったといわれています。ですから、お盆とは対の関係にあったのです。

 民俗学者の折口信夫は、年中行事を「生活の古典」と呼びました。彼は、『古事記』や『万葉集』や『源氏物語』などの「書物の古典」とともに、正月、雛祭り、端午の節供、七夕、盆などの「生活の古典」が日本人の心にとって必要であると訴えたのです。いま、「伝統文化とか伝統芸能を大切にせよ」などとよく言われますが、それはわたしたちの暮らしの中で昔から伝承されてきた「生活の古典」がなくなる前触れではないかという人もいます。國學院大学客員教授の岩下尚史氏などは、「正月もそのうち実体がなくなる。おそらく今の80代の人たちが絶える頃には、寺社は別としても、古風な信仰を保つ人たちを除いては、単なる1月になるだろう」と予測しています。

 文化が大きく変化し、あるいは衰退するのは、日本の場合は元号が変わった時であると言われます。明治から大正、大正から昭和、昭和から平成へと変わったとき、多くの「生活の古典」としての年中行事や祭、しきたり、慣習などが消えていきました。そして、平成も終わり、新しい元号へと変わります。来年の2019年4月30日、天皇陛下は退位されることになりました。平成は再来年の4月末で終わります。翌5月1日から改元となります。

 それから、わたしは「今年のサンレーグループは2つの大きなテーマに取り組みます」として、以下のように述べました。1つは「セレモニーホールからコミュニティセンターへ」です。紫雲閣を従来の「葬儀をする施設」から「葬儀もする施設」への転換を目指しているのです。各地の紫雲閣を「子ども110番の家」「赤ちゃんの駅」に登録したり、常備薬やAEDを設置したりしています。さらには、映画、演劇、音楽コンサートなども上演できる地域の文化の殿堂化をめざします。

 最近、超高齢国ニッポンの未来を悲観的に論じた本がよく売れています。悲観的になるばかりでは未来が暗くなる一方なので、なんとか「明るい超高齢社会」のビジョンを描きたいものです。いたずらに悲観的になるよりも、みんなで少しでも楽しい生き方を考え、老いるほど幸福になるという「老福社会」をつくりたいものです。わたしたちは「後期高齢」を「光輝好齢」に変えるお手伝いに励みたいと思います。

 今年のサンレーが取り組むもう1つのテーマは、婚活事業の推進です。日本が直面している最大の国難は北朝鮮問題ではありません。それよりも深刻なのが人口減少問題です。人口減少を食い止める最大の方法は、言うまでもなく、たくさん子どもを産むことです。そのためには、結婚するカップルがたくさん誕生しなければならないのですが、現代日本には「非婚化・晩婚化」という、「少子化」より手前の問題が潜んでいます。国が国難に対応できないのは困りますが、じつはこの問題、わが社のような冠婚葬祭互助会が最も対応可能な業界であると思います。

 「文化の核」としての儀式を提供し、高齢者を光り輝く存在へと変え、多くの若者が結ばれるお手伝いをする。そして、それを互助会の営業員さんたちがサポートする。わたしたちの仕事は、日本人を幸せにする仕事です。そして、わたしは「日の本の 儀式がつなぐ こころとは 神を敬ふ 大和魂」という道歌を披露し、降壇しました。

 その後、新年祝賀会が同じ松柏園ホテルで行われました。最初に、社長のわたしが挨拶しました。わたしは「これからは祝宴です。一連の創立50周年記念行事を無事に終え、第二創業期がスタートしました。儀式の後は直会、セレモニーの後はパーティーです。大いに食べて飲んで歌って楽しんで下さい!」と言いました。

 途中、余興&カラオケ大会で大いに盛り上がりましたが、最後は、社長であるわたしの番が来ました。わたしは固辞したのですが、みなさんが「どうしても社長の歌が聴きたい」と言うので仕方なく歌いました。わたしは、昨年末のNHK紅白歌合戦に特別出演した桑田佳祐の「若い広場」を歌いました♪ NHKの朝の連続テレビドラマ「ひよっこ」のテーマソングです。地方から集団就職で東京にやってきた若者たちが、さまざまな苦難にも負けずに健気に生きている姿に感動しました。昭和の香りがプンプンと強く漂うナンバーですが、サビの「肩寄せ〜合い〜♪」のところで、わたしは若い入社予定者たちと肩を組みながら歌いました。以上は北九州での祝賀式典、祝賀会の報告ですが、この後、わたしは全国各地を回って、同じように行動してきました。1月はいつも、こんな感じです。



新年祝賀会で「若い広場」を歌う

若手社員と肩を組みながら歌う

 最後に、世間を騒がせた「はれのひ」問題のことを書きたいと思います。今年の「成人の日」も全国で多くの新成人が誕生しましたが、前代未聞の問題が発生しました。着物レンタル業者の「はれのひ」が突然、営業停止したのです。人生に一度の晴れの日に、振り袖を着られない女性たちが相次ぎました。この会社では、振り袖や小物のレンタル、写真撮影のほか、成人式当日の着付けなども請け負っていました。しかし、1月8日朝になって、突然、営業を停止したのです。その後、連絡がつかず、行方もわからないといいます。冠婚葬祭のお手伝いを生業とするわたしは怒髪天を衝く思いです。本当に、こんなに怒りを感じた事件は久しぶりです。人間にとって最も大切なものを奪った、きわめて悪質な犯罪ではないでしょうか。

 日本中の人々が、「はれのひ」、そして逃亡した篠崎社長に対して怒り狂っています。わたしは、「はれのひ」は晴れ着だけでなく、いろいろな大切なものを奪ったと考えています。では、何を奪ったのか。まず、「はれのひ」は、新成人たちの「礼」の精神を踏みにじりました。「礼」とは「人間尊重」ということです。成人式における「礼」とは、無事に成人となった自分を尊重し、育ててくれた親を尊重することです。また、新成人を祝ってあげようという親御さんや親族などの「礼」の精神も踏みにじりました。人間にとって最も大切なものを損なった罪は大きいです。

 また、成人式で着物を着るとは、日本文化に触れることです。「ニッポン人には和が似合う」とは、わたしの口癖ですが、新成人として晴れ着を着ることで、和装に興味を持つ女性は多いです、ひいては、それが日本文化全般への関心につながり、日本人としてのアイデンティティや誇りを持つことにも通じていきます。「はれのひ」はその機会を奪いました。

 一生に一度の晴れの日を台無しにされた被害者の方々の無念と悔しさを思うと、言葉もありません。成人式に限らず、結婚式も葬儀も一生に一度のかけがえのない「セレモニー」であり、「メモリー」です。最近、福岡県の葬儀保証組合が破産し、会員から「葬儀サービスが受けられない」と悲鳴が上がっていると、元旦のヤフー・ニュースのTOP記事で出ていました。冠婚にしろ、葬祭にしろ、一部の業者のために冠婚葬祭業界全体の信頼が損なわれるのは残念でなりません。冠婚葬祭業者は、「絶対に失敗は許されない」ことを肝に銘じなければなりません。

 拙著『儀式論』(弘文堂)の第13章「家族と儀式」にも書きましたが、冠婚葬祭とは、すべてのものに感謝する機会でもあります。七五三・成人式・長寿祝いなどの通過儀礼は、無事に生きられたことを神に感謝する儀式です。そのために、いずれも神社や神殿での神事すなわち儀式が欠かせないわけです。これまでの成長を見守ってくれた神仏・先祖・両親・そして地域の方々へ「ありがとうございます」という感謝を伝える場を持つことが、人生を豊かにします。成人式で晴れ着を着ることによって、新成人は家族への感謝の念を強めます。また、両親は美しく着飾ったわが娘の姿を見て、これまでの育児の日々をなつかしく思い出します。娘を持つ親が、心の底から成人式の晴れ着姿を楽しみしています。「はれのひ」は、そのような家族の絆を奪いました。

 今回の事件に関しての怒りのコメントで最もよく使われているのは「一生に一度しかない成人式」という言葉です。今回の事件の悪質さは、「時間の不可逆性」に大いに関係しています。デパートでの不祥事なら新しい商品をお客様にお渡しすればいいし、レストランでの不祥事なら次回の食事でサービスするという方法もあります。しかし、儀式産業に関しては、勝負は一回限り、次はありません。それは、儀式というものの本質に関わります。

 『儀式論』の第8章「時間と儀式」でも紹介しましたが、社会学者エミール・デュルケムは「さまざまな時限を区分して、初めて時間なるものを考察してみることができる」と述べています。これにならい、「儀式を行うことによって、人間は初めて人生を認識できる」と言えないでしょうか。儀式とは世界における時間の初期設定であり、時間を区切ることです。それは時間を肯定することであり、ひいては人生を肯定することなのです。さまざまな儀式がなければ、人間は時間も人生も認識することはできません。まさに、「儀式なくして人生なし」です。「はれのひ」が奪ったもの、それは「もう二度と戻らない時間」であり、「かけがえのない人生」です。「そんなことすんなよ、返したれよ思い出」というツイートをした人がいましたが、まったく同感です。それでは、Tonyさん、次回は3月の満月にお便りいたします。

2018年1月31日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 1月中の2度目のムーサルトレター、ありがとうございます。1月中に2度満月が到来し2度レターの返事を書くつもりが、ずるずると2週間も時が経ってしまいました。お返事が遅れに遅れ、まことに申し訳ありません。この間、天河大辨財天社の鬼の宿・節分祭・立春祭に行っておりました。またいろいろと集中講義や膨大な数のレポートや修士論文などを読み、採点もしなければならず、身動きが取れませんでした。

 その間に、2月10日に石牟礼道子さん(1927年3月11日‐2018年2月10日)が亡くなりました。心より哀悼の意を表します。またその類稀なる作家として、詩人としてのお仕事と生き方に心よりの敬意を表します。石牟礼道子さんは真に世界的な作家・詩人であり、わたしが心から尊敬し敬愛している遠藤周作さんとともに、ノーベル文学賞を受賞すべき作家だったと思います。お二人に没後授賞してほしいくらいです。

 実は、わたしは2014年9月に、3日間、石牟礼道子さんについてのドキュメンタリー映画『花の億土へ』(藤原書店制作、2013年)の監督金大偉さんと二人で熊本の石牟礼さんをお訪ねして、3日間インタビューしました。そのインタビューを京都大学こころの未来研究センターの学術広報誌「こころの未来第14号」(2015年7月刊)に掲載しました。http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/jp/kokoronomirai/kokoro_vol14_p2_p13.pdf

 しかし、あろうことか、その時まで不届き者のわたしは石牟礼さんの本を1冊も読んでいなかったのです。まったく、愚か者でした。1970年代には、リアルタイムで大変話題になった『苦海浄土』(1969年)を読んでおくべきでした。本当に愚かでした。わたしはずっとその『苦海浄土』を詩作品、叙事詩だと思っていたのでした。本質的な意味でそれはけっして的外れな思い込みではなかったのですが・・・。

 このちょうど20年前の1994年、水俣病センター・想思社の機関誌「ごんずい」第25号に、わたしは「場所の力、場所の霊 der heilige Punkt」と題するエッセイを書きました。たぶん、『場所の記憶』(岩波書店、1990年)を読んで、土地の力について考えを求められたのだと思います。

 昨年、2017年5月30日、久高島に行った帰りに、沖縄県南風原町南風原文化センターのトイレで面白いものを発見しました。



南風原文化センター玄関



南風原文化センターのトイレのマザー・テレサの言葉の隣の鎌田東二の言葉

 そこに、入り口近くから、やなせたかし、ニーチェ、鎌田東二、マザーテレサの言葉が男子トイレの中に貼ってあったのです。



鎌田東二著『聖なる場所の記憶』(講談社学術文庫、1994年)の言葉

 この言葉を選んで貼ってくれたのが南風原文化センター学芸員の平良さんです。平良さんは20年以上この南風原文化センターの学芸員を務めていますが、以前、熊本県水俣市の水俣病の資料センターのある水俣病センター・想思社を見学した時に、そこに貼ってあった言葉に感銘してそれをノートに書き留めて、帰ってから『聖なる場所の記憶』(講談社学術文庫、1996年、岩波版『場所の記憶』の学術文庫化)を購入してトイレに張ったのだそうです。

  場所は記憶を持っている
  そして
  場所は記憶する痛みを持っている
  場所は記憶をためる
  そして
  沈黙のモノガタリを語り続ける
  いや、その語りは沈黙であるどころか
  実にはっきりとした声を放っている
  それを聞く耳
  その声を聴き取る耳が必要なのだ
  場所の大記憶庫を開いていく耳が
    鎌田東二『聖なる場所の記憶』講談社

 このトイレに貼ってあったわたしの言葉を、南風原町に住む詩人で高校の先生をしていた高良勉さんが見つけ、「これは僕の友達だよ」と言って驚いたことがあるそうです。

 これは笑い話ですが、笑い話ではすまされないのが、この相思社の「ごんずい」次号の第26号(1995年)に、石牟礼道子さんが「秘跡は人のみない時にあらわれる」という文章を書かれていることです。わたしの朧げな記憶では、確か1年近くこの「ごんずい」誌にエッセイを連載していたのではないか思います。記憶違いかもしれませんが。だとすれば、1995年にその雑誌「ごんずい」を手にして、石牟礼道子さんの文章を読んでいるはずなのです。が、その記憶がないのです。

 ちょうどその頃だったでしょうか。京都の国際日本文化研究センターで石牟礼道子さんと熊本大学助教授で精神科医でもあった水俣病研究者の原田正純さん(1934‐2012)が講演をされました。その頃、確か日文研の共同研究員や客員助教授などを務めていて、その講演をお聞きしました。その時直接、石牟礼さんに話しかけようかどうしようかと迷ったのですが、石牟礼さんの本を1冊も読んでいなかったので、気後れして話しかけるのを止めました。その時のことはよく覚えています。あの時、思い切って、話しかけるべきでした。悔やまれます。そして、石牟礼さんと話をした後にすぐ『苦海浄土』を読むべきでした。まことに、まことに、残念無念です。

 あの頃にせめて『苦海浄土』だけでも読んでいたら、もっと早く石牟礼さんと深い出会いができたはずなのに! 大変無念であります。

 わたしは、2008年から京都大学こころの未来研究センターに移り、2016年からは上智大学グリーフケア研究所に移りましたが、そこで取り組んでいる「こころの未来」も「グリーフ」も、まさに石牟礼道子さんが向き合ってきたものそのものです。石牟礼さんの『苦海浄土』は、『古事記』と『平家物語』に並ぶ「日本三大悲嘆文学」です。そして、『古事記』と『平家物語』が民族的・国家的なレベルでの「悲嘆(グリーフ)」を語っているのに対して、石牟礼さんの『苦海浄土』は名もない庶民の現代社会のローカルでありながら普遍的な痛みと凄絶な悲嘆を実に静かに詩的に語っているのでした。そしてそのしずけさとうつくしさによって、時代の病、文明の毒を告発しているのでした。

 今わたしは、2月10日に石牟礼道子さんの訃報に接し、上智大学グリーフケア研究所とNPO法人東京自由大学との共催で、上智大学ソフィアホールで本年中に石牟礼道子さんの追悼シンポジウムを開催したいと考えています。

 ところで、「一般財団法人水俣病センター相思社」ですが、この相思社は、「水俣病被害者に係る問題について相談に応じ、その解決を図るとともに、水俣病事件に関する調査研究を推進し、その成果の普及・活用に努めることを目的」として、1974年4月7日に設立されました。相思社のあるところから不知火海が見えるとのことです。この相思社のサイトに、<水俣病歴史考証館の運営、水俣病事件を伝える活動(案内・講演・パンフ作成・機関誌「ごんずい」発行・ホームページ作成 など)、資料収集・整備・提供・情報発信などを活動の中心にしています。そういった活動を経済的に支えるために、低農薬柑橘類、無農薬茶、低農薬林檎、水 俣病関連書籍などの販売も行っています。>と活動の概要が示され、次のような箇条書きの活動内容が掲載されています。http://www.soshisha.org/jp/about_soshisha/activities

◆相思社の活動
  I. 水俣病患者からの相談の対応
  II. 水俣病を伝える(環境学習・調査研究)
  1. 水俣病患者や関係者からの聞き取り活動、聞き取り集の作成
  2. 水俣病歴史考証館の運営
  3. 修学旅行やツアーのコーディネート及び実施
  4. 講演会やシンポジウムの開催、出張講演
  5. 水俣病関連書籍、低農薬柑橘類、無農薬茶、低農薬林檎の販売
  6. 不知火海沿岸地域の調査
  7. 水俣病学習・環境学習のための教材作成
  8. 機関誌「ごんずい」の発行
  9. 水俣病関連資料の収集・整理・活用
  10. 水俣病の経験を生かした環境教育プログラム作り
  11. ホームページによる情報発信

 また、「相思社に寄せて 〜設立の趣旨を忘れず、新しい創造の拠点を」と題する原田正純さん(医師・熊本学園大学教授)の次のような文章が掲載されています。
http://www.soshisha.org/jp/about_soshisha

 ストックホルムの第1回国連環境会議(1972年)に初めて坂本しのぶ、浜元二徳さんら水俣病患者が出席した。あの時、世界中の人々が水俣病を初 めて目の当たりに見た。そこで、この人類初の大規模な環境汚染による被害を忘れないためにも、また苦闘している被害者を援助するために支援拠点を造ろうと いう呼びかけに国内外の多くの人々が応えて相思社はできた。最初の寄付のコインはストックホルムの市民であった。そして30年を経た。

 水俣病は20世紀人類の「負の遺産」で、大切に後世へ正しく伝えねばならない。それには被害の全貌が明らかにされねばならない。そして被害者の問題も決 して終わっていない。さまざまな問題が新しく起ころうとさえしている。被害者には依然として支援が必要である。原点を忘れず、さまざまな苦労を乗り越えて 水俣病の拠点の一つであり続けてほしい。さらに、従来を超えた新しい創造も模索してほしい。

 足尾鉱毒事件は100年の今も多くの各方面の人々が研究を続け、伝承している。水俣病は100年どころか200年も研究されていくと思う。そのためには 歴史考証館などももっと充実してほしい。明確な目的を持ち、市民や被害者も参加する開かれた学問を模索し、それを水俣学と呼ぼうとしている。それは今まで 相思社が実践してきたことであるから、多くの人から支持や支援が得られるはずである。そのためにも21世紀の新たな発想と活動が求められている。

 一昨年、NHK京都のディレクターの方に、一緒に石牟礼道子さんのところに行って話をしませんかと誘われたので、そのつもりになっていましたが、その後誘いは具体化しませんでした。たぶん、局にドキュメンタリー制作の企画を出したのが通らなかったのでしょう。でも、その後、石牟礼道子さんのNHKでの番組はいくつか実現していますから、わたし自身はお会いできずとても残念でしたが、たくさんの方々が視聴できる番組になったのはとてもよかったと思います。

 石牟礼道子さんの文学や活動についての本格的評価はこれからだと思います。わたしも近い内に石牟礼道子さんについての本を1冊まとめて、追悼出版したい気持ちです。石牟礼道子さんが晩年、能「不知火」を創作されましたが、素晴らしい作品だったと思います。不知火の海を背景にそれが奉納上演された時、不知火の海の神々は共に痛み、悲しみ、悲嘆を現しつつ、「生類あはれ」(石牟礼道子)の未来を訴え出たことでしょう。時代の苦悩を一身に身に受けてこの世に繋いでくれた稀有なる巫女・石牟礼道子さん、本当に、ありがとうございました。またいつかお会いしたいです。


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 2018年2月13日 鎌田東二拝