身心変容技法オンラインセミナーを開催します

シンとトニーのムーンサルトレター 第154信

 

 

 第154信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、こんばんは。もう3月になりましたね。ついこの前、正月が来たと思ったのに・・・。まったく、季節の流れの速さには驚かされますね。

 明日、3月3日は桃の節句です。そう、雛祭りです。わが家では、いつも雛人形を飾ります。妻が実家から持ってきた人形です。妻は姉との二人姉妹で、ずっとこの人形で桃の節句を祝ってきたそうです。しかし、今年はわが家の雛人形は「松柏園ホテル」のロビーに飾られています。年中行事のことを「生活の古典」と呼んだのは民俗学者の折口信夫ですが、「生活の古典の発信装置」をめざす松柏園では、今年から、これまでの正月飾りに加えて、雛人形をはじめ、さまざまな年中行事の飾りを施すことにしたのです。おかげさまで、多くのお客様から喜ばれています。

 わたしは、弟との二人兄弟です。ですから実家では雛人形など無縁と言いたいところですが、そうではありませんでした。わたしの実家には、雛人形がたくさんありました。それもハンパな数ではありません。おそらく、数百レベルあったのではないでしょうか。母が雛人形が大好きで、コレクションしていたのです。毎年、3月3日には、その人形たちを家中に飾るのです。幼かったわたしが、「どうして、女の子がいないのに雛祭りするの?」と訊くと、母は「ここに一人いるよ」と言って自分を指さすのでした。本当は、母は娘が欲しかったのでしょうね、きっと。わたし自身は二人兄弟でしたが、わたしは二人の娘の父親となりました。やはり、雛祭りの季節になると、娘たちの将来に思いを馳せてしまいます。そして、親として彼女たちの幸せを祈らずにはいられません。娘といえば、この4月から、次女が慶應義塾大学の法学部に進学することになりました。念願だった第一志望の学校に入学できたので、親としても喜んでいます。

松柏園に飾った雛人形の前で

松柏園に飾った雛人形の前でサンレーグループ冠婚責任者会議のようす

サンレーグループ冠婚責任者会議のようす

 父親として、娘の幸福を想うとき、やはり結婚について考えてしまいます。わが社では、今年から「婚活事業の推進」をスローガンの1つに掲げているのですが、なかなか夫婦をつくるというのは難しいものです。先日開催した「サンレーグループ冠婚責任者会議」でも婚活について話し合われました。各地から、わが社の“むすびびと”たちが集結しましたが、そこで、わたしが「社長訓話」を行いました。

 わたしはまず、「冠婚事業は哲学産業です」と述べました。古代ギリシャの哲学者ソクラテスの「とにかく結婚したまえ。良妻を得れば幸福になれるし、悪妻を得れば哲学者になれる」という言葉の紹介から、「哲学は驚きにはじまる」こと、そして結婚相手との出会いほど不思議で驚くべき出来事はないと訴えました。続いて、思想家の内田樹氏の『困難な結婚』という本を紹介しました。内田氏によれば、結婚しておいてよかったとしみじみ思うのは「病めるとき」と「貧しきとき」だそうです。結婚というのは、そういう人生の危機を生き延びるための安全保障だというのです。内田氏によれば、結婚は「病気ベース・貧乏ベース」で考えるものなのですね。

 わたしは、基本的に内田氏の発言に賛同しつつも、夫婦の本質である「安全保障」を別の四文字熟語で置き換えたいと思いました。それは「相互扶助」です。「相互扶助」を二文字に縮めれば、「互助」となります。そう、互助会の「互助」です。そういうふうに考えれば、夫婦というのは、じつは互助会であることに気づきます。かつて、童話の王様アンデルセンは「涙は世界で一番小さな海」という言葉を残していますが、わたしは「夫婦は世界で一番小さな互助会」と言いたいです。

 さて、先月25日、冬季五輪では史上最多となる92の地域から2925選手が参加した平昌冬季五輪の全競技が終了しました。開催期間は非常に寒い時期でしたが、連日、熱い戦いが繰り広げられました。日本は過去最多となる13個のメダルを獲得し、たくさんの感動をわたしたちに与えてくれました。

 17日に行われたフィギュアスケート男子フリーのショートプログラム(SP)1位の羽生結弦選手は206.17点をマークし、合計317.85。1952年のディック・バトン氏(米国)以来、66年ぶりの連覇を達成したのです。オリンピック史に伝説を打ち立てたわけですが、今大会の日本勢金メダル第1号にもなりました。また、弟分の宇野昌磨選手も銀メダルを獲得し、日本フィギュア史上初のダブル表彰台となりました。日本のフィギュアスケートのファンにとっては、まさに夢のような出来事だったでしょう。

 この日の羽生選手の演技は、とにかく力強く、優雅で、美しかったです。そして、映画「陰陽師」のテーマ曲「SEIMEI」の曲に合わせた演技は、この世のものではないような妖しささえ漂わせていました。バトン氏が連覇を達成して以来、半世紀をゆうに超える快挙を目指す王者には、ただならぬ注目が集まっていました。プレッシャーも半端ではなかったはずですが、ましてや怪我から復活してすぐの大舞台での挑戦でした。

 118日ぶりにぶっつけで挑んだ前日のSPでは111.68点をマークし、感動の復活劇を演じました。羽生選手は「君は神様からの贈り物だ」などと言われ、世界中に称賛の嵐を巻き起こしました。19歳だったソチ五輪で金メダルを獲得した2014年2月14日から4年、幾多の苦難を乗り越えた23歳の羽生選手は伝説となりました。しかも、国際オリンピック委員会(IOC)がフィギュア男子で羽生選手が取った金メダルが、冬季五輪の記念すべき1000個目の金メダルだと発表したというのですから、ちょっと出来すぎですね。

 トップアスリートとは言うまでもなく身体のエリートですが、わたしは知性においてもエリートであると思っています。俗に、運動ばかりしている人は脳も筋肉でできていて知性がないなどといわれますが、トップアスリートに頭の悪い人はいません。彼らはあるとき偶然に「これだ!」という優れたパフォーマンスを体験します。しかし、一回きりでは意味がありません。いつでも使える「技」に変えていく必要があります。その手がかりになるのは、最初のときに得た身体感覚だけ。といっても、感覚は完全には言葉に置き換えられませんから、意識化が難しい。非常に知的な作業をしているのです。

 いい選手になれるかどうかは、練習や試合のときの意識の明晰さにかかっています。具体的にチェックするには、選手を呼び止めて「いま何を意識しながら練習をしているのか?」と質問するとよいでしょう。いま何のために何をしているのか。目的意識を明確に持っている者ほど上達していきます。これは必ずしも、彼らが常にすべてを言葉で細かくとらえているということではありません。すべてを言葉にはできなくとも明晰な意識はあり得ます。身体感覚の微妙な違いをそのつど感じ分けている者ほど、反復練習がつらくなりません。そして、定着させようとしている身体感覚を求め続けることで、自然と回数が進んでしまうのです。結果として、身体感覚の敏感な者ほど練習の質と量が高まることになるのです。

 意識を鮮明に保つ。しかし、ここぞというときには、意識のコントロールを超えて身体が爆発する。この冷静さと過剰さが、トップアスリートの魅力です。興奮に流されるだけでは勝つことができません。冷静にコントロールしているだけでも不十分です。潜在力を炸裂させつつ、脳はどこかシンと冷えて高速回転を続けている。土壇場まで追い込まれた場面で、この力の開放ができるかどうか。それが大舞台での強さを決めるのです。そんなトップアスリートたちの敵とは、もはやライバル選手などではなく、自分自身以外にはありません。

 現在放映中のNHK大河ドラマ「西郷どん」の主人公である西郷隆盛の思想的バックボーンは、吉田松陰と同じく陽明学でした。その陽明学(心学)を開いた明の王陽明は、本当に知るということは創造することであるとして、「知は行の始めなり。行は知の始めなり」と説きました。「知」というものは行ないの始めであり、「行」というものは「知」の完成です。これが1つの大きな循環関係をなすのです。陽明が唱えたのが有名な「知行合一」です。わが座右の銘であります。

 未来に向かっての行動の決定に対しては、人間が学としてとらえられる、言語化された知だけでは不十分です。禅で教える「不立文字」のごとく、個々の専門家がスペシャリストとしての経験を活かして、人間の能力全体としてとらえた言語化されない知、つまり「暗黙知」を加え、知行合一として奥行きを究めることが重要であるというのです。まさに、トップアスリートとは「知行合一」の実現者ではないでしょうか。

 「日本最高の知性」とされた評論家の小林秀雄は、かつてロンドン五輪の映画を見たとき、競技する選手たちの顔が大きく映し出される場面がたくさん出てきて、非常に強い印象を受けたそうです。カメラを意識して愛嬌笑いをしている女性選手の顔が、弾丸を肩に乗せて構えると、突如として聖者のような顔に変わるというのです。どの選手の顔も行動を起こすや、一種異様な美しい表情を現わす。むろん人によりいろいろな表情ですが、闘志というようなものは、どの顔にも少しも現われてはいないことを、小林秀雄は確かめました。闘志などという低級なものでは、到底遂行し得ない仕事を遂行する顔です。相手に向かうのではない。そんなものは既に消えている。それは、緊迫した自己の世界にどこまでも深く入っていこうとする顔です。選手は、自己の砲丸と戦う、自分の肉体と戦う、自分の邪念と戦う、そして遂に自己を征服する。

 一方、五輪映画には見物人の顔も大きく映し出されますが、これは選手の顔と異様な対照を示します。そこに雑然と映し出されるものは、不安や落胆や期待や興奮の表情です。「投げるべき砲丸を持たぬばかりに、人間はこのくらい醜い顔を作らねばならぬか。彼等は征服すべき自己を持たぬ動物である」と、小林秀雄は「私の人生観」というエッセイに書いています。砲丸というのはもちろん比喩ですが、わたしたちも自分なりに投げるべき砲丸を持ち、自己の征服に励みたいものです。スポーツのみならず、どんな仕事においても、わたしたちは聖者のような顔になれる可能性があると思います。
 それでは、Tonyさん、また次の満月まで!

2018年3月2日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 今日はお雛様を飾る桃の節句です。女の子や女性には特別の思いが湧く日なのでしょうね。Shinさんの2人の娘さんにとっても。また2人のお母上にとっても。

 また、年少の娘さんの慶應義塾大学法学部へのご入学、まことにおめでとうございます。第一志望の大学に合格して、さぞかし夢を膨らませていることでしょう。慶應法学部の学生はとても優秀と聞きます。年長の娘さんも年少の娘さんもそれぞれ自分の進む道をしっかりと歩まれているのですね。いつまでたっても、親というものは子供の健康と幸せ案じ願っているものですが、Shinさんの2人の愛娘に対する心情をひしひしと感じます。

 ところで、慶應大学の新入生は、日吉キャンパスで共通科目などを学ぶことになると思いますが、もし可能であれば、英文学の辺見葉子教授の授業を受けてみるといいですよ。たぶん、授業中にケルト神話や妖精物語などの話をいろいろとしてくれるかもしれません。辺見さんの専門はトールキンとかベーオウルフとかですので、ファンタジー好きの少年少女には垂涎の授業ではないでしょうか。辺見さんには、『比較神話学の鳥瞰図』(大和書房、2005年)、『中世イギリス文学入門—研究と文献案内』(共著、雄松堂出版、2008年)、『ユートピアの文学世界』『中世主義を超えて—イギリス中世の発明と受容』(ともに共著、慶應義塾大学出版会、2008年、2009年)、『アーサー王物語研究−源流から現代まで』(中央大学出版部、2016年)などの著作がありますが、特に『比較神話学の鳥瞰図』では、アイリッシュハープ、すなわち竪琴の物語伝承についての分析があり、大変興味深いです。辺見さんによると、中世アイルランド文学の竪琴の名人は、「三つの旋律」を奏でることができると言います。

 以前、「モノ学・感覚価値研究会」という科研研究会をやっていた時、辺見さんに琴についての国際シンポジウムに出て発表してもらいました。2010年1月23日のことでした。その時の全記録は、『モノ学・感覚価値研究』第4号(2010年3月31日発行)に掲載しています。また、以下の「モノ学・感覚価値研究会」のHPの「研究年報」欄のサイトから全文PDFで読むこともできます。
http://waza-sophia.la.coocan.jp/data/mono/nennpou/nennpou43.pdf

 この国際シンポジウムは、次のような趣旨と構成で行ないました。

日時: 2010年1月23日(土) 13時〜18時
場所: 京都大学稲盛財団記念館 3階大会議室
企画趣旨:
 日本語の「もの」も「こと」もともにたいへん多義的な意味内容を包含している。「もの」は単なる「物」ではなく、その対極とも思える「霊(モノ)」でもあり、「者」でもある。ものづくり、もののけ、ものぐるい、ものいみ、ものがたり etc.……。
 そのような「物」と「霊(モノ)」と「者」が、「こと」や「わざ」と不可分につながる回路を具体的に考察する切り口ないし事例として、「琴」を取り上げることとした。「琴」はどのような力を持ち、「言」や「事」と関係するのか? 古代日本で「琴」のことを特別に「神琴(みこと)」と呼んだのはなぜか? 「琴」がトランスや超越を引き出す呪具であり楽器であることは何を意味しているのか? 「琴」はシャーマニズムにどのように関係するのか?
 「琴」は、日本でもヘブライでもギリシャでもアイルランドでも、神託=神の「言」葉を請う楽器として使用されてきた。日本で最初に短歌を詠んだスサノヲノミコトや大国主神は「天詔琴(あめののりこと)」を所有していたし、イスラエルのダビデやギリシャのオルフェウスやアイルランド・ケルトのダグダやルグもみな竪琴の名手であった。
 そのような、「琴」の神聖「言」性や、不思議な現象を引き起こす「事」性を、今回は特に日本とアイルランドの神話と儀礼、そして近代の神道系新宗教の大本で用いられる独自の「琴」すなわち「八雲琴」に焦点を当てながら、シャーマニズム的な現象を通して現れる「もの」と「こと」の関係と諸相を、イギリス、フランス、韓国からのゲスト・スピーカーを招いて共にじっくりと探ってみたい。

 そして、ゲスト・スピーカーのチャールズ・ロウ氏自らの演奏による「八雲琴」の音色に耳を傾けてみたい。

キーワード: 琴、言葉、モノ、ワザ、神話、大本、シャーマニズム
Key Words: koto; harp; language; mono; waza; myth; Oomoto; shamanism
プログラム:
基調報告1:「日本神話における琴と言霊とシャーマニズム」鎌田東二(京都大学こころの未来研究センター教授、宗教哲学)
基調報告2:「大本と八雲琴(やくもごと)について」チャールズ・ロウ(ロンドン大学PhD、民族音楽学)
基調報告3:「大本教の宗教実践におけるシャーマニズムと芸術——変革していく世直し思想」ジャン・ピエール・ベルトン(フランス国立科学研究センター研究員、社会人類学)
基調報告4:「アイルランド神話における竪琴とシャーマニズム」辺見葉子(慶應義塾大学准教授、ケルト神話学)
指定討論者1:「韓国における琴とシャーマニズム」金時徳(韓国国立博物館学芸員)
指定討論者2:「ケルトの詩と日本の詩——シャーマニズムのなごり」スティーヴン・ヘンリー・ギル(BBCラジオ放送作家・俳句・生け石)
指定討論者3:「大本教とモノとシャーマニズム」島薗進(東京大学教授・宗教学)
総合討論: 司会: 鎌田東二

 大変贅沢でしょう? このシンポジウムに辺見さんは基調報告してくれたのですが、その趣旨文は以下の通りです。

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辺見葉子 「アイルランド神話における竪琴とシャーマニズム」

 初期アイルランド文学に登場する竪琴の「三つの旋律」は、聞く者を奏者の意のままに、笑わせ、悲しませ、眠らせるという呪術的なものであり、ダグダやルグといったトゥアタ・デー・ダナンの主要神および一連の竪琴弾きによって奏でられる。こうした竪琴弾きは、同時にドルイド/詩人としても描かれており、彼らの奏でる竪琴の「三つの旋律」は、ドルイド/詩人の呪詛の言と同質のものと見なされるのである。したがって呪術的な旋律を操る竪琴弾きを、より広く「詩人」として捉え、考察することが可能だと思われる。

 詩人はこの世と異界をつなぎ異界の知恵を伝える者、預言者でもある。インバス・フォロスナと呼ばれる預言の儀礼や、フィン・マク・クヴァルが詩的霊感/預言能力を獲得したエピソードからは、境界的(リミナル)・シャーマン的な詩人という観念が浮かび上がる。これらと比較されるのは、同じくケルト語圏のウェールズにおける伝説的詩人タリエシンにまつわる物語や彼の「変身詩」であろう。

 またウェールズのマルジン(マーリン)およびアイルランドのスヴネ・ゲルトの伝承は、「森の野人/狂人」という境界的(リミナル)・シャーマン的な詩人/預言者の姿を伝えている。彼らは森や木の上に身を置き、羽や敏捷さといった野生動物の特徴を帯びる。彼らの狂気は預言能力や詩的霊感を生み出す。その狂気は過剰な悲しみや、「人間の感覚には堪え難いほどの輝き」をもつ天空のヴィジョンといった「感覚的な過負荷」によってもたらされたものであり、シャーマン的なトランスやエクスタシーと比較されるものかもしれない。狂気に襲われることが、精霊による憑依として説明されていることも興味深い。彼らの敏捷性や飛翔能力は、このような憑依の結果だと考えることもできる。

 狂気または精霊に憑依されることによって、これらの詩人・預言者たちは、森の野生の自然に同化し、異界の知恵をわれわれに伝えるのである。中でも「眠りの旋律」が扱われている作品を分析し、その呪詛性を探り、死の危険を孕む眠りの意味するところを考察する。

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 この発表内容を論文化したものを上記のHPのPDFの35‐44頁で読むことができます。そこで辺見さんは、ケルトの竪琴の名手は、
  ①嘆きの旋律
  ②喜びの旋律
  ③眠りの旋律
の3種を使い分けて奏でることができると指摘しています。

 この発表を聞いた時、膝を打ちました。というのも、わたしは20歳の時からまもなく67歳になるこの47年間、ずっと横笛を吹き続けてきたので、この「三つの旋律」を自分も奏でることができたらどれほどグリーフケアやスピリチュアルケアに寄与できるだろうと思ったわけです。嘆いて、喜び笑って、そしてぐっすりと眠り、深く豊かな夢を見る。それこそ、「元気回復のケア」にほかなりません。

 笛の名手になりたいという欲望は、20歳の頃からありましたね。ですが、いつまで経っても上達はしませんが、1998年12月12日に、笛だけでなく、「神道ソングライター」として歌を歌うようになりました。今年は「神道ソングライター」になって20周年、芸能生活20年の節目の年になります。それ以前、1991年からは石笛や法螺貝を吹くようにもなりましたが、とにもかくにも「音楽ケア」のありようをこの50年近く探り続けてきたと言えるでしょうか。

 Shinさんは、<トップアスリートに頭の悪い人はいません。彼らはあるとき偶然に「これだ!」という優れたパフォーマンスを体験します。しかし、一回きりでは意味がありません。いつでも使える「技」に変えていく必要があります。その手がかりになるのは、最初のときに得た身体感覚だけ。といっても、感覚は完全には言葉に置き換えられませんから、意識化が難しい。非常に知的な作業をしているのです。/いい選手になれるかどうかは、練習や試合のときの意識の明晰さにかかっています。(中略)結果として、身体感覚の敏感な者ほど練習の質と量が高まることになるのです。/意識を鮮明に保つ。しかし、ここぞというときには、意識のコントロールを超えて身体が爆発する。この冷静さと過剰さが、トップアスリートの魅力です。>と指摘してくれましたが、「トップミュージシャンにも頭の悪い人はいません。」とわたしは断言したいと思います。

 ピュタゴラスは、哲学を学ぶ者は須らく数学と音楽を必修しなけれならないと定めましたが、この宇宙も音楽も「調和(harmonia)」によって保たれている、その調和や秩序を形成するのが数的原理と構造という、デジタル原理モデルを提示したのです。凄い哲学者であり、数学者であり、神秘宗教家ですね、ピュタゴラスは。わたしは西洋哲学者の中では、ピュタゴラス、プラトン、ニコラウス・クザーヌス、ニーチェが特に好きですね。彼らの思考の中には「果て」があります。「詩」があります。論理を超える論理があります。

 「身体」を「大きな理性」と言い切ったニーチェも実に凄いですねえ。多くの人は、感情や身体に不合理や不条理や非合理を見ようとしましたが、ニーチェはそれらが合理的であり、そこに論理も構造もあることを見抜きました。そこで、負の感情の呪縛である「ルサンチマン」からの明晰な解放を説いたのです。ニーチェがやろうとしたことは、近現代西洋哲学の「ブッダ」の仕事でした。

  音楽の極み、芸術の極みが何をもたらすのか。人々の心や魂をどこに導いていくのか。上記哲学者たちはその行方をよく知っていたと思います。芸術・芸能・武道・スポーツ、それぞれが極まりゆくところ、その「涯〜果て」を知りたい、見てみたいといつも思っています。

 2018年3月3日 鎌田東二拝

追伸
3月1日付けで、以下のような本を出しました。

鎌田東二著『身心変容技法シリーズ第2巻 身心変容のワザ』

鎌田東二著『身心変容技法シリーズ第2巻 身心変容のワザ』

 『身心変容技法シリーズ第1巻身心変容の科学〜瞑想の科学』(A5版2段組み440頁、サンガ、2017年10月刊)に続いて、同じくA5版2段組み430頁の大著『身心変容技法シリーズ第2巻 身心変容のワザ』が刊行されました。人文学術書の売れない現今の出版事情を知っている編者としては、この事態に驚きながら画期的な快挙と有難く思っているところです。

 さて、シリーズ第2冊目の本書の最大の特徴は、「身心変容」および「身心変容技法」の核心に迫ったところにあり、本シリーズの白眉を成す論考群だという点です。あらゆる宗教は人間の身心を「変容」させる力と技術を内包しています。瞑想や観想然り。音楽、舞踊、演劇、絵画、建築などの宗教に関わる芸術・芸能然り。そうした各宗教文化における「身心変容」と「身心変容技法」について、多彩で広角的なアプローチで迫っていきます。

 そもそも、身心変容技法とは、「身体と心の状態を当事者にとって望ましいと考えられる理想的な状態に切り替え変容・転換させる知と技法」で、古来、宗教・芸術・芸能・武道・スポーツ・教育などの諸領域で様々な身心変容技法が編み出されました。たとえば、祈り・祭り・元服・洗礼・灌頂などの伝統的宗教儀礼、瞑想・イニシエーションや武道・武術・体術などの修行やスポーツのトレーニング、歌・合唱・ 舞踊などの芸術や芸能、治療・セラピー・ケア、諸種の教育プログラムなどです。それら身心変容技法の多くは、師から弟子へと伝授され、追体験と吟味を重ねながら伝承されてきました。人類史は、そうした身心変容技法の継承史とイノベーションの積み重ねです。

 「身心変容技法シリーズ第2巻」の本巻では、そうした諸身心変容技法を、具体的に、「第1章 キリスト教神秘主義の身心変容」(鶴岡賀雄)、「第2章 太極拳の体験的考察」(倉島哲)、「第3章 修験道のフィールドワーク」(倉島哲・奥井遼)、「第4章 仏教の身心変容技法」(チベット密教・永沢哲)、仏教全般・蓑輪顕量)、「第5章 諸宗教文化における身心変容技法」(イスラーム神秘主義/スーフィズム・鎌田繁、荘子・中島隆博、湯浅泰雄・桑野萌)、「第6章 舞台芸術における身心変容—世阿弥とスタニスラフスキー」(レオニード・アニシモフ、セルゲイ・ヤーチン、松岡心平、内田樹、松嶋健、鎌田東二)に焦点を当てて解読していきます。本シリーズの中核を占める一巻と言えるでしょう。

 それぞれの論考は、この分野における最新・最先端の学術研究ですが、それだけでなく、日々の生き方・暮らし方に役立つヒントがいっぱいちりばめられています。また、芸術・芸能や武道・武術やスポーツを実践している方々にも役立つこと間違いありません。ぜひご活用ください。とりわけ、最終章の「第6章 舞台芸術における身心変容—世阿弥とスタニスラフスキー」は、刺激とインスピレーションに満ちた、読み物としても大変面白くスリリングなものと断言できます。

 本書は、科研「「身心変容技法の比較宗教学−心と体とモノをつなぐワザの総合的研究」(科研基盤研究A 、2011年度−2014年度)と「身心変容技法と霊的暴力−宗教経験における負の感情の浄化のワザに関する総合的研究」(科研基盤研究A 、2015年度−2018年度)の研究成果を問う第二弾となります。ぜひ手に取って、確かめ、それぞれの暮らしに役立てていただければこれにすぐる喜びはありません。編者・鎌田東二記

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収録論文は下記です。

■序章—身心変容のワザ
鎌田東二(京都大学名誉教授。上智大学グリーフケア研究所特任教授。研究代表者)

■第1章 キリスト教神秘主義の身心変容
「西欧キリスト教における「身心変容」研究への展望」
「アビラのテレジアの「身心変容」の諸相 —「内感」とその行方」
「キリスト教神秘主義の伝統における身心変容技法」
鶴岡賀雄(東京大学大学院人文社会系研究科教授/宗教学・キリスト教神秘主義研究)

■第2章 太極拳のフィールドワーク
「太極拳と気功における身体的リアリティの変容」
「身心変容技法はなぜわかりにくいか—太極拳を事例に」
「中国農村から英国マンチェスターへ—太極拳の文化間伝播とヴァナキュラリティ」
倉島 哲(関西学院大学社会学部教授/社会学・身体論)

■第3章 修験道のフィールドワーク
「配慮の技法としての大峯修験道」
「太極拳と修験道における相互身体性」
倉島 哲(関西学院大学社会学部教授/社会学・身体論)
「苔の行、あるいは身心変容技法—羽黒修験・秋の峰に関する身体論的考察」
奥井 遼(パリ第Ⅴ大学客員研究員/教育学)

■第4章 仏教の身心変容技法
「竜のヨーギ—ドゥクパカギュ派の聖なる快楽のヨーガ」
「空を飛ぶ女—後期密教におけるフェミニンなもの」
「虹の身体」
「エロスを超えて—仏教タントラにおける「聖なる性愛」」
永沢 哲(京都文教大学准教授/宗教学(チベット仏教))
「仏教における瞑想とその展開」
蓑輪顕量(東京大学大学院人文社会系研究科教授/仏教学・日本仏教)

■第5章 諸文化における身心変容技法
「スーフィズムにおける身心変容技法」
鎌田 繁(東京大学名誉教授/宗教学・イスラーム神秘思想)
「『荘子』の身心変容技法」
中島隆博(東京大学東洋文化研究所教授/中国哲学)
「湯浅泰雄の修行論と身体技法論」
桑野 萌(金沢星稜大学人文学部/哲学的人間学)

■第6章 舞台芸術における身心変容
「国際シンポジウム 世阿弥とスタニスラフスキー」
レオニード・アニシモフ(ロシア功労芸術家・演出家・東京ノーヴイ・レパートリーシアター芸術監督)
セルゲイ・ヤーチン(ロシア極東連邦大学哲学科主任教授/哲学者・文化哲学)
松岡心平(東京大学大学院教授)
内田 樹(神戸女学院大学名誉教授・武道家・凱風館館長)
松嶋 健(広島大学大学院社会科学研究科准教授)
鎌田東二(上智大学グリーフケア研究所特任教授・京都大学名誉教授)
[第一部]
講演1 スタニスラフスキーの演劇法と身心変容技法について
レオニード・アニシモフ
講演2 ロシア神秘思想における身心変容(技法)について
セルゲイ・ヤーチン
講演3 世阿弥の演劇法と身心変容技法について
松岡 心平
講演4 世阿弥の身心変容技法と武道との関係
内田 樹
講演5 グロトフスキから見たスタニスラフスキーと世阿弥
松嶋 健
講演6 世阿弥と修験道と山伏神楽の身心変容技法について
鎌田東二
[第二部]
パネルディスカッション