京都伝統文化の森協議会のクラウドファンディングへのご支援をお願いいたします

シンとトニーのムーンサルトレター 第074信

第74信

鎌田東二ことTonyさんへ

 先日、8月20日は小倉でお会いできて嬉しかったです。Tonyさんは講演先の下関から、わたしは出張先の鳥取から駆けつけ、小倉の松柏園ホテルで落ち合いました。本当は5月21日にお会いするはずでした。それが、わたしの骨折というアクシデントによって中止され、ちょうど3ヵ月後に改めて再会したわけです。松柏園のロビーでコーヒーを飲みながら、2人で東日本大震災の話題を中心に意見を交換しましたね。

松柏園ホテルにて

松柏園ホテルにて わたしが『生き残ったあなたへ』(佼成出版社)という被災者へのグリーフケアの本を執筆していることから、考えていることをTonyさんに投げかけ、いろいろとアドバイスを頂きました。その本のプロデューサーは長谷川紗耶香さんという方で、じつは昨年の9月23日に奈良の天川村でTonyさんから紹介されました。天川といえば、このたびの台風12号では甚大な被害に遭われたようですね。地震、津波、台風・・・・・ここ最近、自然の脅威を痛感する出来事が続いています。
 松柏園でお話したとき、原発事故の問題を含めて、大震災の問題はいまだに終わっておらず総括することなどできないとTonyさんは言われていました。その後も、2人で夕食をともにしながら、そのことを話しましたね。Tonyさんが放射能の問題を深刻にとらえられ、日本の未来に大きな不安を抱かれていることが印象的でした。Tonyさんは被災地入りしたとき、海や川が汚染されていて禊ができなかったことに大変なショックを受けられていましたね。今後、日本が禊ができない国土になってしまえば、神道の存亡に関わります。その強い危機感は、わたしにも痛いほど伝わってきました。

 9月に入って、わたしは東北の三陸海岸沿いの被災地を回ってきました。本当は5月に訪れるはずだったのですが、わたしが足を骨折したために被災地訪問が大幅に遅れてしまったのです。2011年3月11日は、日本人にとって決して忘れることのできない日になりました。三陸沖の海底で起こった巨大な地震は、信じられないほどの高さの大津波を引き起こし、東北から関東にかけての太平洋岸の海沿いの街や村々に壊滅的な被害をもたらしました。その被害は、福島の第一原子力発電所の事故を引き起こし、いまだ現在進行形の大災害は続いています。この国に残る記録の上では、これまでマグニチュード9を超す地震は存在していませんでした。地震と津波にそなえて作られていたさまざまな設備施設のための想定をはるかに上回り、日本に未曾有の損害をもたらしました。じつに、日本列島そのものが歪んで2メートル半も東に押しやられたそうです。

気仙沼にて

気仙沼にて 大津波による大量死の光景は、仏教でいう「末法」やキリスト教でいう「終末」のイメージそのものでした。わたしは、今も海の底に眠る犠牲者の御霊に対して心からの祈りを捧げるとともに、「ぜひ、祖霊という神となって、次に津波が来たら子孫をお守り下さい」との願いを込め、数珠を持って次の歌を詠みました。「願はくば海に眠れる御霊らよ 神の心で子孫をまもれ」のどかなイメージの岩手県の一関から宮城県の気仙沼に近づくにつれ、周囲の風景が一変しました。いたるところ建物が崩壊しており、ガレキだらけです。きわめつけは、陸上に漂着した船です。まるで宇宙戦艦ヤマトのような異様な光景に慄然としました。
 それから、気仙沼から南三陸へ向いました。途中で、三陸線の鉄道線路がブツッと切れていました。わたしは、多くの人命を奪った三陸の海をしばらく眺めました。南三陸町は根こそぎ津波にやられており、一面が廃墟という有様でした。そんな中に、かの防災対策庁舎がありました。津波が来たとき、最後までマイクで非難を住人に呼びかけ続け、自らは犠牲となってしまった女性職員がいた庁舎です。ここには建物の廃墟の前に祭壇が設えられ、花や飲み物やお菓子などが置かれていました。そして、多くの人々がこの場所を訪れていました。それにしても、見渡す限り一面が廃墟です。

 この場所のみならず、東北一帯で多くの人が亡くなりました。大地震と大津波で、3・11以降の東北はまさに「黄泉の国」となりました。古代、「あの世」と「この世」は自由に行き来できたと神話ではされています。それがイザナギの愚かな行為によってその通路が断ち切られてしまいました。イザナギが亡くなった愛妻イザナミを追って黄泉の国に行ったことは別に構わないのですが、彼は黄泉の国で見た妻の醜い姿に恐れをなして、逃げ帰ってきたのです。イザナギの心ない裏切りによって、あの世とこの世をつなぐ通路だったヨモツヒラサカは1000人で押しても動かない巨石でふさがれました。

 『古事記』にはそのような神話が語られているわけですが、このたびのマグニチュード9.0の巨大地震は時間と空間を歪めてヨモツヒラサカの巨石を動かし、黄泉の国を再び現出させてしまったのではないか。そのような妄想さえ抱かせる大災害でした。わたしは、「東北でヨモツヒラサカが再び通じた3・11をけっして忘れず、生存者は命が続く限りおぼえておこう」という願いを込め、数珠を持って次のような短歌を詠みました。
「みちのくの よもつひらさか開けたる あの日忘るな命尽くまで」
 南三陸の防災対策庁舎の横には、グニャリと曲がった自動車がありました。まるで、サルバドール・ダリの描いた熱で曲がった時計の絵のような光景です。そんなシュールな絵をながめながら、わたしは目に映る世界が現実であることを確認していました。見ると、「チリ地震の津波水位」を示した看板が倒壊しており、非常に切なかったです。

 さらに、南三陸から石巻に向いました。まず、巨大なクジラ大和煮の缶詰が地上に転がっているのに度肝を抜かれました。缶詰工場の巨大オブジェが津波で流されてきたのです。
その近くには、おびただしいガレキの山が延々と続いていました。石巻といえば、大好きな漫画家である石ノ森章太郎の「萬画館」があります。訪れてみると、もちろん閉館でしたが、「再開して」とか「がんばれ、石巻」とか多くの寄せ書きが扉に書かれていました。萬画館の前には教会がありましたが、これも津波でボロボロになっていました。ふと空を見上げると、月が上っていました。

 それから、土葬が行われた公営地に向いました。わたしが想像していたよりも、ずっと街中にあったので驚きました。「撮影禁止 石巻市」の看板がいくつも掲げられていました。おそらく、無神経に鎮魂の土地をカメラに収めようとする輩が後を絶たなかったのでしょう。当初、2年後の三回忌を目安に掘り起こして火葬にするとされていましたが、火葬場などの復旧を受けて、多くの遺体はほぼ掘り起こされて火葬され直したようです。ただし、一部の身元不明遺体はそのまま土葬の状態です。そこには、「火葬して遺骨を手元に置いておきたい」「先祖と同じ墓に入れてあげたい」「変わり果てた姿をそのままにして土葬しておくのはしのびない」など、さまざまな考えがあるでしょうが、「人並みに火葬にしてあげたい」という遺族の強い想いは共通しています。

 今日は、9月11日です。そう、あの米国同時多発テロ事件から10年が経過しました。
1999年7の月にノストラダムスが予言した「恐怖の大王」も降ってこず、20世紀末の一時期、20世紀の憎悪は世紀末で断ち切ろうという楽観的な気運が世界中で高まり、多くの人々が人類の未来に希望を抱いていました。

 20世紀は、とにかく人間がたくさん殺された時代でした。何よりも戦争によって形づくられたのが20世紀と言えるでしょう。もちろん、人類の歴史のどの時代もどの世紀も、戦争などの暴力行為の影響を強く受けてきました。20世紀も過去の世紀と本質的には変わらないが、その程度には明らかな違いがあります。本当の意味で世界的規模の紛争が起こり、地球の裏側の国々まで巻きこむようになったのは、この世紀が初めてでした。なにしろ、世界大戦が1度ならず2度も起こったのです。その20世紀に殺された人間の数は、およそ1億7000万人以上といいます。そんな殺戮の世紀を乗り越え、人類の多くは新しく訪れる21世紀に限りない希望を託していたのです。

 しかし、そこに起きたのが2001年9月11日の悲劇でした。テロリストによってハイジャックされた航空機がワールド・トレード・センターに突入する信じられない光景をCNNのニュースで見ながら、わたしは「恐怖の大王」が2年の誤差で降ってきたのかもしれないと思いました。いずれにせよ、新しい世紀においても、憎悪に基づいた計画的で大規模な残虐行為が常に起こりうるという現実を、人類は目の当たりにしたのです。

 あの同時多発テロで世界中の人びとが目撃したのは、憎悪に触発された無数の暴力のあらたな一例にすぎません。こうした行為すべてがそうであるように、憎悪に満ちたテロは、人間の脳に新しく進化した外層の奥深くにひそむ原始的な領域から生まれます。また、長い時間をかけて蓄積されてきた文化によっても仕向けられます。それによって人は、生き残りを賭けた「われら対、彼ら」の戦いに駆りたてられるのです。グローバリズムという名のアメリカイズムを世界中で広めつつあった唯一の超大国は、史上初めて本国への攻撃、それも資本主義そのもののシンボルといえるワールド・トレード・センターを破壊されるという、きわめてインパクトの強い攻撃を受けました。その後のアメリカの対テロ戦争などの一連の流れを見ると、わたしたちは、前世紀に劣らない「憎悪の連鎖」が巨大なスケールで繰り広げられていることを思い知らされました。まさに憎悪によって、人間は残虐きわまりない行為をやってのけるのです。

 人は、地震や津波や台風などの天災によって死に、殺人やテロや戦争などの人災によっても死ぬのです。石巻では、ひっそりと静まりかえる土葬の地の上空を見上げると、そこに月が上っていました。それを見ていると、月こそ「あの世」であるという想いが強くなりました。世界中の古代人たちは、人間が自然の一部であり、かつ宇宙の一部であるという感覚とともに生きていました。そして、月を死後の魂のおもむくところと考えました。月は、魂の再生の中継点と考えられてきたのです。多くの民族の神話と儀礼において、月は死、もしくは魂の再生と関わっています。規則的に満ち欠けを繰り返す月が、死と再生のシンボルとされたことはきわめて自然でしょう。

 夕暮れ時の石巻の上空にかかる月を見上げながら、わたしは次の歌を詠みました。
「天仰ぎ あの世とぞ思ふ望月は すべての人が帰るふるさと」
 9・11から10年、3・11から半年となる今日、わたしは『生き残ったあなたへ』を脱稿し、そのままこのムーンサルトレターを書きました。今宵は夜空に浮かぶ満月を見つめながら、すべての死者の冥福を心より祈りたいと思います。

2011年9月11日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 9月のムーンサルトレターの返信を、東京から京都経由で天河に向かう新幹線の中で書き始めます。今、ちょうど19時。のぞみは新横浜駅に止まったところです。京都には21時。京都駅でJRから近鉄に乗り換えて橿原神宮へ行き、さらに吉野線に乗り換えて下市口に着くのがだいたい11時前。そこから、深夜タクシーで天川村へ。

 いつも宿泊する天川村坪ノ内の天河大辧財天社の鳥居の前の民宿今西さんは、今回の台風12号による被害で床上浸水していて、参拝客を泊めることができない状態です。9月6日にもお見舞いに駆けつけましたが、後で少し詳しく報告しますが、これほどの被害は、柿坂神酒之祐宮司さんが言われるように、「有史以来の大災害」というほかないでしょう。

 じつは、前から今日、9月11日の夜の12時頃天川入りして、明日、9月12日の中秋の名月に天河大辧財天社で行なわれる「観月祭」に参加する予定だったのです。そして、それに合わせて、われらの義兄弟の一人、造形美術家の近藤高弘さんが設計した「世界一美しい窯」である「天河火間(てんかわかま)」で窯入れ・火入れ式を行い、3日3晩窯焚きをしてたくさんの器や作品を焼き上げる予定でした。

 しかし、今回の被災によりその観月祭も火入れ式も窯焚きもすべて中止になってしまいました。そこで、近藤高弘さんを始め、これまで14年間、「天河護摩壇野焼き講」として活動してきたメンバー有志で、何かお手伝いができないかと駆けつけることにしたわけです。

 「天河護摩壇野焼き講」の事務局長で、NPO法人東京自由大学運営委員長の岡野恵美子さんは、すでに昨日から天河入りしています。わたしは今日、14時から18時過ぎまで、東京の本郷三丁目の東京大学仏教青年会で開催された「宗教者災害支援連絡会・第5回情報交換会」に出席して、その足ですぐ、京都に戻らず、京都を素通りして天河に向かおうとしているのです。

 9月11日に天河に行く予定が、急遽台風12号の豪雨の影響による水害被害で中止という連絡が入り、しかし、それを踏まえて、再度何かお手伝いができないかと今日の天河入りとなりましたが、5日前の9月6日(火)に、わたしは一人で天河にお見舞いに行ってきました。その時実見したことは、「モノ学・感覚価値研究会」のHPの「研究問答」欄の「東山修験道その123 天河大辧財天社の台風12号被害視察」(こちら)に掲載していますので、ご一読くだされば幸いです。

 そもそも、天川村を流れる「天ノ川」は南に下る途中、十津川村に入ると「十津川」と名前を変え、さらに和歌山県に入ると「熊野川」と名前を変えます。ですから、天ノ川というのも、十津川というのも、熊野川というのも、同じ一つの川のローカルネーム、地域地域の名付けと名前にすぎないのです。ですから、天河の被害は、十津川の被害と連動し、同時に熊野川下流の新宮の被害と直結しているのです。

 今回、北と東に張り出している高気圧の影響で、記録的なまでにゆっくりした速度で進んだ台風12号は、紀伊山地で未曾有の大雨をもたらしました。もともと雨量の多い地域ではありますが、上北山村では総雨量2000ミリを超える記録的な大雨となったとのことです。死者・行方不明者は100人を超えているようです。

 この集中豪雨により、天ノ川—十津川—熊野川水系に200ヶ所ほどの土砂崩れが起きた模様です。その土砂崩れにより、土砂ダム(天然ダム)や堰き止め湖が作られ、それによって、逆流や滞留が起こり、その増水により大被害が発生し、天ノ川の川筋で甚大な被害が発生したのです。

 天河大辧財天社も社務所と参集殿が床上浸水しました。1階天井までは達してはいませんでしたが、1階床上でわたしの身長くらいの高さまでは水が来た模様です。坪ノ内に入る橋の弁天橋を軽々と乗り越えた濁流は3つの土砂ダムに遮られて、途中の山崩れで川幅が狭まった北から南に流れる天ノ川本流の濁流と、東から西に流れる支流の坪ノ内川の土砂崩れを伴う奔流と、南での土砂崩れがもたらした土砂ダムによる逆流の3流が、「天河火間」のあたりの合流点でぶつかって、一挙に坪ノ内の集落に押し寄せたのです。

 「これは、有史以来の大災害だ」と柿坂神酒之祐宮司さんは繰り返し言われました。本流と逆流と坪ノ内川の激流の三つの流れが天河火間の前で鉢合わせしたのですから、その言葉は大げさではありません。そのぶつかり合いで、禊殿の前の天河火間のところで30メートルの水柱がみるみるうちに立ち上っていって、山の尾根を越えるほどだったとのことです。それはあたかも、天空に牙を剥き出す龍のようだったでしょう。

 その光景を地元住民の西岡さんが目撃し、すぐそれを天川村の村役場に知らせ、緊急避難の指示を出して、35分後に全員が避難したので、その増水による死傷者はなかったとのことです。それはまさしく、この世ならざる光景だったでしょう。気仙沼や宮古で見かけた陸地の上に打ち上げられた巨大なマグロ船のように。超シュールで、想定外も想定外な光景。普通ではありえない風景。天地がひっくり返ったような現場。

 そんな中でも、「天河火間」本体は奇跡的に無事でした。生き残りました。これは凄いことです。この大洪水の中で生き延び、水の中から再生した「天河火間」。不死鳥、フェニックスのような。

と、ここまで書いたところで、すでに2日が過ぎました。今は、9月13日(火)の20時。奈良県吉野郡天川村北小原の青葉民宿に泊まっています。11日の夜12時に到着して、翌12日と今日13日は神社や地元の坪ノ内地区の民家の片付けなどのボランティアと土砂崩れの被災場所の視察と観月祭への参加をしました。昨日の満月は被災地の天河大辧財天社の境内から心ゆくまで見上げました。

 先に記したように、天河大辧財天社の社務所や参集殿を含む坪ノ内地区の民家のほとんどが1階の鴨居の近くまでも床上浸水し、境内の太鼓橋は流され、禊殿の鳥居の一番上の笠木が流されるという状態の中で、「天河火間」は奇跡的に無事でした。屋根が浮き上がって、持ち上がり、5メートルほど前方に流されてい半倒壊していますが、しかし、穴窯の「天河火間」本体の方はほとんどまったくといっていいほど被害がありません。

 昨日、京都の山科から夫人と弟子の高木さんとともに片付け手伝いと観月祭に駆けつけてくれた近藤さんの話では、2〜3回ほど、乾燥させるために窯の空焚きが必要だけれども、しかし、その次には間違いなく1200度を超す燃焼に持って行けるとのことでした。これまで、2回、「天河火間」をそれぞれ3日3晩焚いていますが、1150度前後まで行ったもののも、最後の最後で1200度にまで上昇しなかったのです。

 1200度まで行かないと、釉薬などが溶けないこともあって、それぞれ素晴らしい作品は焼き上がりましたが、完全な窯変が起こらなかったために、期待したような完成度の高い作品とまでは行き着かなかったのです。過去2回。

 しかし、完全に洪水のために水没し、30メートルの水柱の波状攻撃を何波にもわたって受けながらも、壊れることもなく、どっしりとそこにあり続けた「天河火間」は、これによって心の御柱を打ち建て、芯が生まれ、魂が籠り、命が宿り、不死鳥のように甦って、次の火入れには必ずや素晴らしい作品が生み出されると確信しました。

 近藤高弘さんは、8月いっぱい、1ヶ月かけて1000個の「命のウツワ」を作りました。宮城県七ヶ宿町の西山学院高校に13年前に造った登り窯の「無限窯」で。お弟子さんたちのものを入れると2000個になるとのことです。これをまず、仙台市の「心の相談室」を窓口にお届けし、それから福島県と岩手県の被災地の方々に届ける接点ができました。どちらも、地元のお坊さんです。お一方は被災者で原発15キロ圏内のお寺を離れて、福島県相馬市で仮設のお寺を作って頑張っている僧侶の方。もうお一方は、盛岡を拠点に岩手県大槌町で震災直後からずっと傾聴ボランティアを続けてこられた女性の僧侶の方です。

 来月、10月10日(月・休日)には、近藤高弘さん主宰の「無限の会」の10周年の詭弁イベントがあり、ライブや記念式典や「東北被災者支援活動『命のウツワ』シンポジウム」を開催します。場所は、宮城県刈田郡七ヶ宿町字滑津の「七ヶ宿・安藤家本陣」で行います。シンポジウムのパネリストは、近藤高弘さん、心の相談室事務局長で東北大学教授(宗教民俗学)の鈴木岩弓さん、安藤家19代当主で宮城県県議会議員の安藤俊威さん、NGO月山元気村代表で山形県県議会議員の草島進一さんです。わたしが司会を務めます。

 ところで、NPO法人東京自由大学の恒例の夏合宿は、8月27日から31日まで、屋久島に行きました。去年は北海道で、室蘭から小樽、宗谷岬、利尻島、礼文島に行き、「宮沢賢治の詩魂を訪ねる旅」でしたが、今年は屋久島に住んで農作と詩作と思索に専心した詩人の故山尾三省さんの「詩魂」を訪ねる旅でした。テーマは、「原生林と水の島・屋久島と山尾三省の詩魂を尋ねて」。同行講師として、去年の北海道の旅と同様、音楽家のあがた森魚さん。さらに現地講師として、作家で野鳥研究家の鳥飼否宇さんと自然体験ファシリテーターで本然庵庵主の中野民夫さん。

 おかげさまで、すばらしい自然とすばらしい人々との出逢いの中で、大変充実した実りのある東京自由大学らしい夏合宿ができたと思います。山尾三省さんの弟の山尾明彦さんや三省夫人の山尾春美さんにお会いできたことも、ありがたいことでした。

 山尾三省さんは、2001年8月28日に満62歳で亡くなりました。鏡リュウジさんとの「ムーンサルトレター」の第2信(こちら)は、山尾三省さんへの追悼文となっています。ご一読くだされば幸いです。

 それから、丸10年が経ち、NPO法人東京自由大学として、没後10年の法要に参列したのです。NPO法人東京自由大学では、この3年、故山尾三省さんの精神を引き継ぐとともに、その功績を顕彰するための催しとして「三省祭り」を開催してきました。本年10月29日(土)にはその3回目の「三省祭り」を実施します。

 今回東京自由大学では、「3・11」東日本大震災の後の日本社会に生きているわたしたちのこころとたましいの深いところに鳴り響いている山尾三省さんの三つの遺言を、自分たちの生き方と社会のあり方として取り上げます。

①「故郷の、東京・神田川の水を、飲める水に再生したい」
②「この世界から原発および同様のエネルギー出力装置をすっかり取り外してほしい」
③「日本国憲法9条をして世界のすべての国々の憲法に組み込ませたまえ」

 山尾三省さんは、わたしたちが「自然に属している」ことを繰り返し指摘しました。わたしたちはよく「自然と人間との関係」と言いますが、しかしよく考えてみれば、自然と人間とは対等に存在しているのではありません。山尾さんが強調されたように、わたしたちは「自然内存在」として、自然の「中」に、自然に「属して」生存しているにすぎません。そこで、実際の多くの問題は、「自然の中における、自然をめぐる人間と人間の確執と闘争」にほかなりません。問題の根っこは、人間自身と人間社会にあります。

 「故郷の、東京・神田川の水を、飲める水に再生する」ためには、「生態智」というエコロジカルな知恵を生きていく生活革命と社会変革の双方が必要です。また、「この世界から原発および同様のエネルギー出力装置をすっかり取り外す」ためには、第2次産業革命が必要です。そして、地球上のあらゆる生存を根底から脅かすエネルギー出力装置を取り外すための社会デザインと具体的な方策を構築しなければなりません。さらに、「日本国憲法9条をして世界のすべての国々の憲法に組み込ませる」ためには、各国法の変革のみならず国際法革命が必要になります。それも、ガンジーやキング牧師やダライ・ラマが提唱実践する非暴力平和主義の手法で。

 これが、どれほど困難なことであるか、この10年で身に染みて思い知りましたね。21世紀に入ってのこの10年、世界は山尾三省さんが遺言した方向と反対の方向に突き進んできましたから。そんな中で、どのような努力も無駄であるかのような勢いで破局的な事態に突き進んできて、ついに本年3月11日に東日本大震災が起き、福島第一原子力発電所の事故が発生したのです。

 山尾さんは、「詩人というのは、世界への、あるいは世界そのものの希望(ヴィジョン)を見出すことを宿命とする人間の別名である」と主張しました。「3・11」後、その「希望(ヴィジョン)」をわたしたちは探究しています。先送りしてきた諸問題に正面から取り組みながら、新しい事態の展開と構想を手作りしていかなければなりません。そんな手探り・手作り状態の中で、9月初旬に天河大辧財天社を始め、近畿一円の天ノ川水系の大きな被害が起こりました。

 昨日、天河でわたしたちは、龍村仁さんの呼び掛けにより、有志で相談しつつ、以下のような被災状況の報告と義援金などの支援のお願いの原案を作りました。


天河大辧財天社の被災状況の報告と義援金などご支援のお願い(原案)

 このたび、台風12号の影響により、天河大辧財天社と天川村坪ノ内地区は甚大な被害を受けました。

 天川村を流れる「天ノ川」は南に下って十津川村に入ると「十津川」と名前を変え、さらに和歌山県に入って「熊野川」と名前を変えますが、ご存知のように、天ノ川、十津川、熊野川は同じ一つの河川の地域名です。そこで、今回の天河の被害は、天ノ川、十津川、熊野川という、同一水系の大きな被害の連鎖の発端となりました。

 今回、北と東に張り出していた高気圧の影響で、記録的なまでにゆっくりした速度で進んだ台風12号は、紀伊山地に大雨をもたらしました。もともと雨量の多い地域であった奈良県上北山村などでは総雨量2000ミリを超える記録的な大雨となり、死者・行方不明者は100人を超えています。天川村坪ノ内でも、天川中学校の39歳の先生がいまだ行方不明です。

 この集中豪雨により、天ノ川—十津川—熊野川水系に160ヶ所以上の土砂崩れが起きました。その土砂崩れにより、土砂ダム(天然ダム)・せき止め湖が作られ、それによって、逆流や滞留が起こり、その増水により大被害が発生し、天ノ川の川筋で未曾有の被害が発生したのです。

 天河大辧財天社も社務所と参集殿が床上浸水しました。坪ノ内地区への入り口にある弁天橋を数メートルも乗り越えた濁流は、坪ノ内地区で起きた3ヶ所の土砂崩れにより大洪水をもたらしました。

 分かりにくい表現になって恐縮ですが、西山林斜面の山崩れで川幅が狭まった北から南に流れる天ノ川本流の濁流と、東から西に流れる支流の坪ノ内川の南山林斜面の土砂崩れを伴う奔流と、南での大規模な土砂崩れによってできた一時的な天然ダムがもたらす逆流の3つの激流が、禊殿の前あたりの合流地点でぶつかって、30メートル以上の水柱となって山の尾根を越えるほどに高くなり、それが何波にもわたって坪ノ内の集落に押し寄せたのです。

 その光景を地元民の西岡さんが目撃し、すぐそれを天川村の村役場に知らせ、緊急避難の指示を出して、35分後に全員が避難したので、増水による死傷者はなかったとのことですが、しかし、西岡さんのお宅を含め、坪ノ内地区の9割の住宅や建物が床上浸水や流されて移動するなどの大きな被害を受けました。9月4日午後1時過ぎのことでした。

 本年は、3月11日に東日本大震災が起こり、福島原発事故を引き起こして、日本列島に激震と大災害が起こっています。その災害もまだ終息していない中、今回、近畿地方を中心に西日本で大きな台風と土砂崩れによる被害が出ました。

 東日本大震災は海の津波でした。それに対して、今回の近畿地方の被害は山の津波でした。河川の氾濫と土砂崩れによる巨大山津波が発生したのです。柿坂神酒之祐宮司は、今回の被害を「有史以来の大災害」と言われました。現場を見た私たちもみなその通りだと思いました。

 そのような中、神社の職員や氏子の方々を始め、天河大辧財天社や被災地区に心を寄せてくださる方々のボランティア活動などにより復旧・復興作業が始まっています

 しかしながら、土砂崩れにより分断された道路や山林が元通りに復旧するには、早くて数か月から数年かかると思われます。また、天河大辧財天社の社殿や社務所・参集殿の補修や境内整備などにも時間と多額の費用がかかります。

 日本全体が困難な中にあるこの今ではありますが、天河大辧財天社に心を寄せてくださる皆様方のお力を得て、日本の霊性・スピリチュアリティの拠点の一つである天河大辧財天社の復旧・復興と、これから先未来に向かっていっそうの力強い展開を推進していきたいと思い、ご支援・ご協力をお願いする次第です。

 趣意をお汲みいただき、今後とも継続的なご支援を賜りたく、義援金やご支援をいただければ幸いです。なにとぞよろしくお願い申し上げます。

平成23年9月13日 天河大辧財天社太々神楽講講元ほか有志


 これが、昨夜、呼びかけ文として有志で作成した原案です。以下に何枚か天川での写真を張り付けておきますので、状況を察していただければ幸いです。

 3月に東日本大震災、そして半年後の9月に西日本大災害と呼べるほどの大災害が起こりました。これからのわたしたちの生き方や社会デザイン、文明のあり方を再考し、立て直さなければならない、あまりにも自明の事柄に向き合っています。その向き合いの中からわたしは、あさってを向いて生きていきたいと思います。ではまた次の満月の夜に。ごきげんよう。

2011年9月13日 鎌田東二拝

天河大辧財天社の浮いてしまった太鼓橋

天河大辧財天社の浮いてしまった太鼓橋社務所前で全員作業中

社務所前で全員作業中半倒壊した天河火間の前で

半倒壊した天河火間の前で「火・水(KAMI)」のポスターのある禊殿前の小屋

「火・水(KAMI)」のポスターのある禊殿前の小屋坪ノ内川上流の深層崩壊した山林斜面

坪ノ内川上流の深層崩壊した山林斜面十津川村・新宮市に通じる通行止めになった天川村の幹線道路

十津川村・新宮市に通じる通行止めになった天川村の幹線道路坪ノ内南の幹線道路の土砂崩れ

坪ノ内南の幹線道路の土砂崩れ土砂崩れ

土砂崩れ天河大辧財天社の境内から見上げた観月祭の満月

天河大辧財天社の境内から見上げた観月祭の満月