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シンとトニーのムーンサルトレター 第175信

 

 

 第175信

鎌田東二ことTonyさんへ

 最初に、台風19号および、各地の水害で犠牲となられた方々の御冥福を心からお祈りするとともに、被害を受けられた方々にお見舞いを申し上げます。Tonyさんの詩集『狂天慟地』の世界がまさに現実となっています。天気は死にました!

 さて、Tonyさん、あと50日足らずで今年も終わりですよ。まったく驚きますよね。最近の出来事で印象深いのは、なんといっても、令和元年10月22日に執り行われた「即位の礼」です。日本の天皇が践祚後、皇位を継承したことを国の内外に示す一連の国事行為たる儀式で、最高の皇室儀礼とされています。中心儀式の「即位礼正殿の儀」は、諸外国における戴冠式、即位式にあたります。国内外の代表が参列する中、天皇陛下が即位を公に宣言され、その場は、皇室の長い歴史を伝える装束や調度品で華やかに彩られました。

 即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ、「御大礼」とも称されます。皇嗣が新たに皇位に就くことを「即位」といいますが、古代では神へ寿詞を奏上し、神璽を献納する事を中心とした、簡素なものでした。平安時代に「皇位の継承」である「践祚」と「即位」が別の儀式として行われるようになり、唐風の儀式が江戸時代まで続きました。即位にかかる儀式全般を即位儀礼といいますが、これは皇嗣が即位する「践祚の儀」と、即位したことを内外に宣下する「即位の礼」に分かれます。即位の礼は「剣璽等承継の儀」、「即位後朝見の儀」、「即位礼正殿の儀」、「祝賀御列の儀」、「饗宴の儀」の5つの儀式から構成され、これらは全て国事行為です。

 「即位礼正殿の儀」のTV中継を見ながら、わたしはオリンピックやワールドカップ以上の巨大な感動をおぼえました。そして、平安絵巻さながらの歴史と伝統の重みを噛みしめながら、「ああ、日本人として生まれて良かった!」「儀式とは文化そのものだ!」と心の底から思いました。このたびの「即位の礼」が無事に執り行われたことを心からお祝いし、わたしは「「新しき 君の生まれし儀を見れば 千代に八千代に 栄え祈らむ」という歌を詠みました。

 その翌日、23日の11時から「たかす三礼庵」の竣工清祓御祭が行われました。場所は、福岡県北九州市若松区高須東3−13−13です。紫雲閣とは別ブランドの古民家を改装した施設で、「三礼」とは「慎みの心」「敬いの心」「思いやりの心」という小笠原流礼法における3つの「礼」を意味しています。サンレーグループとしては、福岡県内で40番目、全国で81番目(いずれも完成分)のセレモニー関連施設となります。しかしながら、「葬儀だけを行う」セレモニーホールではなく、「葬儀も行う」コミュニティセンターです。最初の三礼庵である「くさみ三礼庵」と同じく、民家を改装しているので、「コミュニティハウス」と呼ぶべきでしょうか。普段は茶道教室や華道教室などを開き、葬儀のときにはスタッフが着物姿で抹茶をたて、生け花を飾ります。「三礼庵」は、これまでにない新業態なのです。いよいよ80店体制が実現しました。

完成した「たかす三礼庵」の前で

完成した「たかす三礼庵」の前で竣工式にて道歌を披露

竣工式にて道歌を披露
 「たかす三礼庵」の竣工式の施主挨拶では、わたしは「即位の礼の翌日にオープンすることができて、まことに光栄です。ぜひ、この三礼庵で『慎みの心』『敬いの心』『思いやりの心』を生かした『おもてなし』をご提供したいです。日本は太陽の国であり、わが社は太陽の会社ですが、ともに弥栄を祈念したいと思います」と述べてから、「大礼の よき日に続く 三礼の高須の庵 千代に八千代に」という歌を披露しました。

 それから、11月2日、「平成中村座 小倉城公演」を鑑賞しました。小倉城天守閣再建60周年にあたる記念事業にして博多座20周年特別公演です。まるで、江戸の芝居小屋にタイムトリップしたような時空を超えるエンターテインメントを堪能しました。

「平成中村座 小倉城公演」ポスター

「平成中村座 小倉城公演」ポスター平成中村座をバックに

平成中村座をバックに
 平成中村座は歌舞伎役者の十八中村勘三郎(初演時は五代目中村勘九郎)と演出家の串田和美らが中心となって、浅草・隅田公園内に江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場を設営して「平成中村座」と名付け、2000年11月に歌舞伎「隅田川続俤 法界坊」を上演したのが始まりです。

 わたしは2日目の昼の部を観たのですが、演目は、「一、神霊矢口渡 一幕」「二、お祭り 清元連中」「三、恋飛脚大和往来 封印切 一幕」の三部構成でした。
 平成中村座は歌舞伎役者の十八中村勘三郎(初演時は五代目中村勘九郎)と演出家の串田和美らが中心となって、浅草・隅田公園内に江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場を設営して「平成中村座」と名付け、2000年(平成12年)11月に歌舞伎「隅田川続俤 法界坊」を上演したのが始まりです。

 翌年の2001年(平成13年)以降も、会場はその時によって異なるものの、ほぼ毎年「平成中村座」を冠した公演が行われていたが、座主の十八中村勘三郎が2012年12月に亡くなった為、2013年は公演を行いませんでしたが、勘三郎の遺志を継いだ長男の六代目中村勘九郎が座主を引き継ぎ、2014年に実弟の二代目中村七之助、ニ代目中村獅童と共にアメリカ合衆国・ニューヨークで平成中村座復活公演を行いました。

 わたしには息子がいませんが、2人の息子たちが志を継いでくれた十八世中村勘三郎は本当に幸せな人だと思いました。また、2人の息子たちも立派です。見ると、六代目中村勘九郎も二代目中村七之助も亡父によく似ています。わたしはもともと歌舞伎とは「孝」の芸術であると思っています。というのも、わたしは、歌舞伎の襲名というのは儒教における「孝」そのものであると思いました。

 これは中国哲学者で儒教研究の第一人者である加地伸之先生の一連の著書を読んで知った考え方ですが、現在生きているわたしたちは、自らの生命の糸をたぐっていくと、はるかな過去にも、はるかな未来にも、祖先も子孫も含め、みなと一緒に共に生きていることになります。わたしたちは個体としての生物ではなく一つの生命として、過去も現在も未来も、一緒に生きるわけです。これが儒教のいう「孝」であり、それは「生命の連続」を自覚するということです。「孝」という死生観は、明らかに生命科学におけるDNAに通じています。

 加地先生によれば、「遺体」とは「死体」という意味ではありません。人間の死んだ体ではなく、文字通り「遺(のこ)した体」というのが、「遺体」の本当の意味です。つまり遺体とは、自分がこの世に遺していった身体、すなわち「子」なのです。あなたは、あなたの祖先の遺体であり、ご両親の遺体なのです。あなたが、いま生きているということは、祖先やご両親の生命も一緒に生きているのです。孔子は「孝」という思想によって「人は死なない」ということを宣言したわけですが、その真髄を歌舞伎に見た思いでした。平成中村座の舞台には、十八世中村勘三郎の遺体が2体並んでいるのです。 

 また、会場を見渡すと、高齢者の方が多かったです。中には杖をついて来られた方も見られました。一般に高齢者の方は時代劇が好きだといわれます。歌舞伎も江戸時代を舞台とした演劇です。お年寄りになればなるほど昔の話を好まれる理由がわかったような気がしました。というのも、江戸時代に生きていた人々というのは、現在はもう生きていません。いわば、死者です。高齢の観客は、舞台の上で生き生きと動いている江戸時代の人々が間もなく死ぬことを知っています。すると、「どんな元気な人間でも、いつかは死ぬ」、ひいては「人間が死ぬことは自然の摂理である」ということを悟り、自身が死ぬことの恐怖が薄らぐのではないでしょうか。

 最後に、11月7日、サンレーグループの全国葬祭責任者会議が開催されました。今回は、特別ゲストとして、上智大学グリーフケア研究所の島薗進所長をお招きしました。14時40分から、小倉紫雲閣の大ホールで島薗先生の御講演がスタート。演題は「グリーフケアの歴史と文化」。「Ⅰ.悲しみを表現し、共鳴を求める」では、西田幾多郎の哲学や新実南吉の童話を紹介しながら、キサーゴータミーの逸話、宮澤賢治や鈴木三重吉にも言及されました。

小倉紫雲閣で講演する島薗進氏

小倉紫雲閣で講演する島薗進氏松柏園ホテルで島薗進氏と

松柏園ホテルで島薗進氏と
 「Ⅱ.悲しい歌をともに歌う」では、島薗先生は見田宗介『近代日本の心情の歴史—流行歌の社会心理史』、金田一晴彦『童謡・唱歌の世界』といったテキストの内容に沿いながら、野口雨情、金子みすずなどの詩を紹介されました。特に、この日の午前中に下関の金子みすず関連の場所を回ってこられたこともあって、話には熱がこもっていました。「Ⅲ.グリーフケアの集いの形成」では、1985年8月12日の御巣鷹山での日本航空ジャンボ機墜落事故の遺族の連絡会の活動を紹介されました。

 さらに、「Ⅳ.東日本大震災と悲嘆のスピリチュアリティ」では、東日本大震災の傾聴ボランティア「カフェ・デ・モンク」の活動などを紹介しながら、グリーフケアとしての災害支援について話されました。そして、「おわりに」として、「悲しみを表現し、共鳴を求める新たな形」を提唱。「童謡・童話の時代(1920年代〜70年代)」から「グリーフケアの時代(80年代以降)」を指摘され、90分にわたる講演は終了しました。非常に深い内容のお話でした。わが社の「おくりびと」たちも良い勉強になったと思います。質問も活発に出ていました。

 続けて、わたしが「グリーフケアと3つのメソッド」という話をしました。3つのメソッドとは、ずばり、読書・映画鑑賞・カラオケです。「グリーフケア」にしろ、「修活(終活)」にしろ、一番重要なのは、死生観を持つことだと思います。死なない人はいませんし、死は万人に訪れるものですから、死の不安を乗り越え、死を穏やかに迎えられる死生観を持つことが大事だと思います。一般の方が、そのような死生観を持てるようにするには、読書と映画鑑賞が最適だと思います。本にしろ、映画にしろ、何もインプットせずに、自分1人の考えで死のことをあれこれ考えても、必ず悪い方向に行ってしまいます。ですから、死の不安を乗り越えるには、読書で死と向き合った過去の先人たちの言葉に触れたり、映画鑑賞で死に往く人の人生をシミュレーションすることが良いと思います。

 読書・映画鑑賞に続けて、さらにカラオケについても語りました。タイトルに「涙」「悲しい」「悲しみ」という単語の入った歌は膨大な数が存在します。わたしは、それらのほとんどを歌ってみましたが、多くは単なる失恋ソングであることに気がつきました。そこで、失恋以外の悲嘆である死別や鎮魂の歌を極力選び、失恋の歌でも深みのある「喪失の悲嘆」を表現した歌を厳選して、「Grief Disc〜悲しみ盤」にまとめました。また、「喪失の悲嘆」を乗り越えて未来への希望を見出す歌をセレクトし、「Care Disc〜癒し盤」にまとめました。この盤の最後に収録されている「また会えるから」はわたしが作詞したグリーフケア・ソングですが、自ら歌ってみました。そのプロモーションヴィデオをこの日、大スクリーンに流すと、「おおっ!」というどよめきが起こりました。こうして、わたしはグリーフケアのための読書・映画鑑賞・カラオケという「3つのメソッド」について語ったのでした。

 その後は、島薗先生にも懇親会にご参加いただき、わが社の「おくりびと」たちとの交流の時間を作っていただきました。その後、島薗先生とカラオケ対決をしたことは言うまでもありません。今度は、ぜひ、Tonyさんと3人で歌合戦をしたいですね!

2019年11月12日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 痛いですね。厳しいですね。台風を含む、さまざまな自然災害に心を痛めつつも、できることをやり続けるしかないと模索しています。Shinさんから11月12日にムーンサルトレターをもらってからはや1週間が経ちました。この間に、第76回身心変容技法研究会と天空教室とNPO法人東京自由大学の20周年記念シンポジウムを行ないました。そのことを少し書いてみます。

 第76回身心変容技法研究会は、今回初めて同志社大学新町キャンパスで行ないましたが、京都御苑の西北にある落ち着いた校舎でした。発表者の三澤史明さんは将来有望な医学生で、今回は米国に未来医療探検に出かけた発見の旅のホットな成果を発表してくれました。

第76回身心変容技法研究会
日時:2019年11月12日(火)14時45分〜18時30分(各1時間発表+各45分質疑応答・議論)
場所:同志社大学新町キャンパス臨光館2階R212教室
発表①三澤史明(滋賀医科大学医学部四回生/東京大学公共政策大学院修士課程修了、統合医学・観光政策)「アメリカン・グレートジャーニー〜未来医療の可能性を探る旅」
発表②鎌田東二(上智大学グリーフケア研究所特任教授)「身心変容技法としての詩歌謡」
コメンテーター:奥井遼(同志社大学社会学部教育文化学科助教)
司会:鎌田東二

 三澤史明さんの発表では、「観光」と「ヒップポップ」と「統合医療・未来医療」の三位一体が、三澤さん自身のイニシエーション的なインテグレーション(統合)とともに展開されました。彼の探究の旅を通して得た智慧と力が満載でしたね。大学生の時、1年休学して世界一周旅行をした経験からから今回の台湾と米国への旅までのすべての旅のインテグレート(統合)が垣間見えました。

 三澤史明さんは、慶應義塾大学法学部を卒業後、東京大学公共政策大学院で離島地域をフィールドに観光政策の研究をし、修士課程を修了後、電通でテレビ営業に従事していたのですが、本当にやりたいことと向き合うため退社して、滋賀医科大学医学部を再受験し、現在四回生の医学生です。

 彼は、慶應義塾大学の学生時代に、1年間休学してバックパッカーとして世界を歩いた経験から、日本の良さと観光のインパクトに気づき、日本を良くしたいという思いと共に、「観光の力で地域を盛り上げ、地方から日本を良くする」をテーマに観光研究に没頭しました。その根底には「観光を通じて人を癒す」という理念があります。そもそも漢語の「観光」の初出は、『易経』の「観国之光」にあるとのことです。「国の光を観る」とは、国褒めや国見儀礼にも深く関わるものですね。

 さらにまた、三澤さんは、彼の趣味のヒップホップミュージックやスケートボードのカルチャー、思想哲学、実践、空間、身体感覚、コミュニティなどが人の救いや癒しになるのではないかという洞察に基づく実践と研究をし、「ヒップホップとオープンダイアローグ」というテーマについて考察してきた医学生です。

 この夏、米国に短期留学し、主に統合医療やスピリチュアルケアについて見聞を広めて来ました。広く大きな観点から生命を考え、人を癒し、良き人生を生きていくための未来医療を志している三澤さんは、稲葉俊郎医師に続く斯界のホープ、希望の星でもあります。わたしは、稲葉俊郎さんのような未来医療への志のある若手医師や、また同じく三澤史明さんのような未来医療への意思と夢を持つ医学生を待ち望んでいました。

 わたし自身、小学生の頃に1度、祖母の癌を治すために医師になりたいと思ったことがあり、また、オウム真理教事件後、勤めていた武蔵丘短期大学を辞職して群馬大学医学部に入り直して精神科医になろうと思って島薗進さんに推薦文を書いてもらって願書まで出したのですが、書類選考であえなく落ちたことがあり、医学・医療の重要性と変革の課題を自分なりに持っています。そしてその後、岡山大学大学院医歯学総合研究科社会環境生命科学専攻の博士課程に入学して6年間医学・医療・生命倫理領域を学びましたので、医学や医療には多大な関心を持っています。

 実は、その未来医療への意思を1960年代後半から大阪大学医学部生の時代を経て持ち続けてきたのが、現在一般社団法人未来医療研究機構代表理事で、元滋賀医科大学医学部助手・元日本医科大学医学部教授の長谷川敏彦さんです。わたしは、長谷川敏彦さんとは1970年5月に初めて出会い、以来、親しく友人として接してきました。彼のやってきたことはとても重要な先駆的な仕事だと思っています。まさに稲葉俊郎さんや三澤史明さんの先駆者ですね。Shinさんにも紹介したいと言いながら、まだ実現していません。近いうちにぜひお引き合わせしたいものです。

長谷川敏彦さん自身による彼の大阪大学医学部卒業後の自己紹介スライド

長谷川敏彦さん自身による彼の大阪大学医学部卒業後の自己紹介スライド
 この長谷川敏彦さんのお祖父さんも外科医で、大変面白い先駆的仕事をしていた人です。長谷川敏彦さんのお祖父さん・長谷川卯三郎さんは、29歳の時に『三式呼吸』という呼吸法の本を出しているのですよ。その出版物は、以下の3冊で、極めて先駆的で興味深いものです。

1919年刊

1919年刊1958年刊

1958年刊1964年刊

1964年刊
 ところで、大嘗祭が執り行われた日の夜、北鎌倉の円覚寺の塔頭寺院の龍隠庵で、「天空教室2 『狂天慟地』を詠む夕べ」のイベントを行ないました。これは、いろいろな人と、いろいろな方法で、第三詩集『狂天慟地』(土曜美術社出版販売、2019年9月1日刊)を朗読する詩の朗読・朗唱・歌唱会でした。大変面白い演劇的・芝居的芸能表現朗読もあり、大いに楽しめたと思います。

 この朗読会は、円覚寺の中でもとびきり気のよい龍隠庵で、「天空教室2」として開催しました。「天空教室」は、宮沢賢治の羅須地人協会の設立マニフェストともいえる『農民芸術概論綱要』「農民芸術の綜合」の中の「……おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか……まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」ではありませんが、朋友たちと想いと力を合わせて一つの「巨きな第四次元の芸術」を作り上げ、ダイナミックかつ深遠に宇宙と接続する教室たらんとしています。

 この「天空教室」で、わが「神話詩三部作」を全冊全部朗読しました。本年4月19日に行なった第一詩集『常世の時軸』の朗読会、7月19日に行なった第二詩集『夢通分娩』の朗読会、そして今回11月15日に行なった第三詩集『狂天慟地』の朗読会の全3回です。その会も、おかげさまで、朗読者と参加者の不思議な力で、たいへんおもろく、たのしく、にぎにぎしく全冊朗読成就でき、とても有難く思っております。第1回目から、第2回目、第3回目となるにつれて、だんだんと演目が凝りに凝り、遊び心が進化して、朗読者の身心も弾けて各個の芸能身心が躍動するようになりました。予想以上のぶっ飛び方で、そのぶっ飛び天空教室の実現がとてもとてもうれしいことでした。それにしても、みな芸達者だったなあ〜! そして、おもろく、笑えたなあ〜!

 土曜美術社出版販売の高木祐子社長には、本年4月初旬に『夢通分娩』の出版のことを決め、それから立て続けに5ヶ月間で2冊の詩集を出すという「超高速参勤交代」をしてもらい、感謝しています。人間わざではできないようなことを無理強いしてしまったのですが、高木社長のおかげでこの神わざを仕上げることができました。大変たいへんありがたいことでした。

 また、東京大学名誉教授で神秘家の十字架のヨハネの世界的な研究者である鶴岡賀雄さんには、わたしの処女作『水神傳説』(泰流社、1984年)から、『常世の時軸』『夢通分娩』『狂天慟地』のすべての詩的創作を書評してもらいましたが、大学院生時代からの長きにわたる厚情に感謝するほかありません。すべてにありがとう尽しの天空教室でした。これからも春秋の年2回、おもろい、たのしい天空教室を継続展開していきますので、ぜひご都合がつきましたら、ご参加ください。今のところ、次回の「天空教室3」は、2020年6月初旬、「天空教室4」は11月頃を計画しています。

 その「天空教室2」の催しの後、すぐにNPO法人東京自由大学の設立20周年企画 「私たちはどう生きるか〜戦後民主主義と精神史を見つめて」を行ないました。これは、政治学者の白井聡さん、作家の赤坂真理さん、社会学者の大澤真幸さんの講演に対し、宗教学者の伊達聖伸さんとわたしがコメントし、島薗進がコーディネーターと司会者を務めるという実にホットなシンポジウムでした。

 島薗進さんは、冒頭の趣旨説明で、戦後民主主義には、①戦争責任のジレンマ、②平和主義のジレンマ、③対米依存のジレンマ、④進歩主義のジレンマ、⑤平等主義のジレンマの5つのジレンマがあると包括的に整理し、それを超えていく新たな方向性として、①多層的多面的な戦争責任論、②矛盾した平和主義からの脱却、③対米依存からの脱却、④西洋的近代への進歩からグローバルな共生社会へ、⑤平等主義から相互承認と包摂への展開を示唆しました。大変重要な指摘であると思います。

 その問題提起を受けて、白井聡さんは「戦後の国体の終焉」を、赤坂真理さんは「戦後第2世代が負った影」を、大澤真幸さんは「どうしたら『永続敗戦』を終わらせることができるのか」を語りました。それを受けて、伊達聖伸さんはフランスおよびフランス語圏の政教分離(ライシテ)と今年71歳で亡くなった加藤典洋さんの『敗戦後論』のことについてコメントしました。

 わたしもコメンテーターの一人として、まず、日本近代および戦後社会における3つの従属について指摘しました。①対米従属、②対天皇(制)従属、③対科学技術従属・対資本主義従属の3つの従属性。それをどう自覚し、未来を見つめるか。そして、明治の大日本帝国憲法も戦後の日本国憲法も共に、万世一系・神聖不可侵か象徴ないし国民の総意かはともかくとして、憲法の第一章に天皇を戴く宗教国家であり続けていることを指摘しました。厳密な意味で政教分離は日本にはなく、大嘗祭を国費で行なうことも含めて今も日本は本質的に宗教国家で、これは7世紀後半から8世紀初頭に確立した律令体制の命脈を保持しつづけていることにほかならないということです。この従属構造は、しかし、揺らいできているか、破綻しつつあるかしており、現代大中世状況(朝廷権力を幕府権力が封じ込めていく中世以降と米軍が征夷大将軍にすげ変わった戦後世界)、その揺らぎはたとえば1960年代のアングラや全共闘運動としても発現したけれども、その余波は解決されないまま現代に持ち越されている、そして終に『狂天慟地』(天は狂い、地は慟哭する)状況に至っているというようなことを述べました。

 錚々たる3人の講師の論点は、鋭く個性・特性に溢れた視点と問題提起でしたが、とりわけわたしに興味深かったのは、第二次世界大戦後に日本の社会からたくさんの出家者が出なかったことの戦後の欺瞞性やすり替えが戦後第二世代の独特の影(オウム倫理教事件や引きこもり)になっているという赤坂真理さんの指摘で、それは鋭く深く刺さるものがありました。なぜかというと、わたしは血のつながりのない徳島芸者上がりの祖母に育てられ、その祖母から「高野山に登って坊さんになってくれ」と言われ続けながら拒否してきたので、赤坂さんの発言にギクリとしつつもそれが突き刺さったのでした。

 確かに、中世には、源平の合戦のような戦乱があった後は、熊谷次郎直実を始め、大変たくさんの出家者や唱導師たちが出て、琵琶を抱えて『平家物語』を謡ったり、数珠を繰って『般若心経』を読誦したりしたのですが、そしてそれがやがては世阿弥が創案した複式夢幻能の亡霊鎮魂能まで生み出したわけですが、太平洋戦争—第二次世界大戦後にそのような出家者や鎮魂供養執行者がたくさん出たわけでないのは事実ですね。つまり、ほとんどの国民が日本国憲法によって基本的人権や信教および思想信条の自由や政教分離を保証された自由民主主義の世俗社会の価値に沿った生き方を選択したということです。それを自己矛盾とも自己欺瞞とも思わずに、自由と民主主義を謳歌しようとし、その果てに経済成長と経済不況に至ったわけです。その果てに環境破壊と自然環境異変の今があるわけですが、それはこれからどこにどのような形で向かうのか、大きな分岐点・過渡期に差し掛かっています。日本も世界もエッジに来ていますね、もう大分前から。

 そうだとしても、今回の民主主義シンポジウムに参加しながら、つくづく多様な視点や意見を交換交差し合う対話の場や認識の機会が必要だと痛感した次第です。それなくして民主主義も自由もないのだと。そんなシンポジウムを開催できるNPO法人東京自由大学は、1998年に始まり21年間続いてきた草の根市民民主主義の砦のひとつだと思っています。

 ところで、京都に戻って来てから、京都シネマで『ライ麦畑の反逆児〜ひとりぼっちのサリンジャー』(原題:REBEL IN THE RYE)』という映画を観たのですが、そこに描かれているD・J・サリンジャーに大変惹かれるものがありました。

 昔々、50年近く前にサリンジャーの小説『ライ麦畑でつかまえて』(The Catcher in the Rye)を読んだ時は、自意識過剰の優柔不断なドロップアウターの皮肉屋の軟弱少年の揺れにまったく共感できなかった記憶があり、退屈と嫌悪しか感じなかったように思います。村上春樹嫌いのわたしですが、その村上春樹がサリンジャーの影響を受けたというのも、よくわかるような気がしました。

 しかし今回、そのサリンジャーがユダヤ人であったこと、また作家になって短編小説で売れ始めた頃に戦争に行き、そこでポーランドの強制収容所を見、精神科医にかかってもなかなか戦争のトラウマから抜け出せず、小説も書けずに彷徨っていた時にインド系の瞑想集団に出会って、そこのグルから瞑想を学び、徐々に自分のトラウマに向き合うことができるようになって、それから途中まで書いていた『ライ麦畑でつかまえて』を書き上げ、それを1951年(わたしが生まれた年です)に発表したこと。

 つまり、サリンジャーの社会的確執や戦争や宗教や瞑想が彼の文学形成に深く関わっていたことを知って、『ライ麦畑でつかまえて』の主人公のホールデン・コールフィールド少年に少し近づいたような気がしました。作家の求道と孤独と表現のリアリティ、その相関の中で、彼を唯一支持し認めた母親と編集者の文学の先生の存在も考えさせられました。この映画を通して、今なお毎年50万部を売り続け、総計6500万部のベストロングセラーを続けている『ライ麦畑でつかまえて』と、それを生み出したサリンジャーの魂のジャックナイフを見たような気がしました。

 2019年11月19日 鎌田東二拝