シンとトニーのムーンサルトレター第241信(Shin &Tony)

鎌田東二ことTonyさんへ

 

Tonyさん、こんばんは。3月の満月は、土から虫が顔を出す頃などから「ワームムーン」と呼ばれますが、ムーンサルトレターの第240信、満20周年を達成してから最初のレターをお送りします。


ムーンサルトレター20周年記念

 

2月12日に第240信をわたしが投稿したとき、記念のレターなのでTonyさんからすぐに返信が届くことを楽しみにしていましたが、なかなか届きませんでした。それで体調が優れないのだと推察し、わたしは「この240信をもって一区切りとしましょうか」というご提案のメールを20日にお送りしました。その後、Tonyさんから「たましいの義兄弟との満月の夜のたましいのレター交換は、本当にかけがえのない、得難いものです。ぜひ続けたいのです。明日夜までに書いてあっぷっロードします。お待ちください。このようなムーンサルトレター交換をしていることが、鎌田東二の生きる力を掻き立ててくれています。ほんと。とても、とても、大切なレター交換です」とのメールの返信をいただきました。それを読んだわたしは涙し、これからも満月の文通を続ける決心をしたのでした。

ムーンサルトレター第240信(Tony)

 

しかし、Tonyさんは「明日夜までに書いてあっぷっロードします」とメールに書かれていましたが、その後もなかなかレターの返信は届きませんでした。ようやく届いたのは、さらに1週間後の2月27日の夕方でした。これによって、ついにムーンサルトレターの20周年が完結しました! Tonyさんからのレターには、「今日は2025年2月27日。Shinさんから『ムーンサルトレター第240信』をもらって2週間以上が過ぎてしまいました。返信が遅れ遅れ申し訳ありません。体調が悪く、食欲もなく、『断食死』に近づいておりました。この2ヶ月ほど」と書かれていました。これを読んで、わたしは泣きました。そして、Tonyさんの御健康を心から祈りました。


Tonyさんの父上の写真

 

その後、Tonyさんは「が、このところ、少しずつ食欲も出てきて、回復しつつあるかな? という感じです」と書かれ、さらに「ところで、小倉昭和館での『ローマの休日』のトーク、大変面白かったようですね。『ローマの休日』、すばらしい映画、です。また、主演のグレゴリー・ペックと、オードリー・ヘップバーン、とても魅力的で、チャーミングですね。実は、グレゴリー・ペックは、父に似ていて、グレゴリー・ペックを見るたびに、父を思い出します」と書かれていて、驚きました。というのも、そのトークショーでは作家の町田そのこ氏から小生がグレゴリー・ペックに似ていると言われたからです。“魂の義兄弟”であるTonyさんとの不思議な御縁を感じた次第です。

日本アカデミー賞授賞式に参加

 

ところで、今夜は3月14日のホワイトデーの夜。いま、わたしは東京にいます。今日は、午後から「第48回日本アカデミー賞授賞式」に初参加しました。最近は映画の世界にも知り合いが増えましたが、わたしが授賞式に招待されたのです。もっとも、わたしが何かの賞にノミネートされているわけではありません。「優秀チョイ役賞」でもあれば目指したいところですが、そんな賞はありません。拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林・PHP文庫)を原案とする映画「君の忘れ方」は今年1月17日公開ですので、このたびの第48回では対象外となっています。この日は、日本映画界を代表する監督さんや俳優さんたちが多く集結し、たいへん華やかな雰囲気の中で授賞式というセレモニーを楽しみました。

 

Tonyさんもご存知のように、わたしは大の映画好きで、日々多くの映画を鑑賞しております。3月1日、とても興味深い作品を観ました。アメリカ映画「名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN」です。「ライク・ア・ローリング・ストーン」など数々の名曲を生み出し、世界に影響を与え続ける伝説的ミュージシャン、ボブ・ディランの伝記ドラマです。1960年代のアメリカ・ニューヨークの音楽シーンを舞台に、ミネソタ出身の無名ミュージシャンだった彼がスターダムにのし上がるさまを描いています。監督は「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」などのジェームズ・マンゴールド。若き日のディランを「君の名前で僕を呼んで」などのティモシー・シャラメが演じるほか、エドワード・ノートン、エル・ファニング、モニカ・バルバロらが共演しています。なぜ、この映画を紹介するかというと、ボブ・ディランの音楽とメッセージはTonyさんの神道ソングに通じる部分があると思ったからです。わたしは、「Tonyさんは、ボブ・ディランの影響を受けたのだな」と思いました。

 

本作の主人公であるボブ・ディランの名前を初めて知ったのは、小学生の頃に聴いたガロの「学生街の喫茶店」の中の「学生で賑やかなこの店の片隅で聴いていたボブ・ディラン♪」という歌詞でした。その後、名前は知っていても彼の人生や曲はよく知らなかったのですが、この映画を観ていろいろ知識を得ました。ボブ・ディランは米・ミネソタ州生まれ。大学を中退してニューヨークに向かい、カフェでフォーク・ソングを歌っていたところを、プロデューサーの目に留り、1962年にレコード・デビュー。フォーク〜ロックの時代を超えて現在まで、世界中に影響を与え続ける音楽界の最重要人物です。グラミー賞やアカデミー賞をはじめ数々の賞を受賞し、ロックの殿堂入りも果たしています。また長年の活動により、2012年に大統領自由勲章を受章。2008年にはピューリッツァー賞特別賞を、2016年には歌手としては初めてノーベル文学賞を受賞。さらに、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のソングライター」において第1位を獲得しています。2021年に再開したワールドツアーは2024年まで続く予定。

 

ボブ・ディランの数多い名曲の中でわたしが一番好きなのは「風に吹かれて」です。1963年のセカンド・アルバム『フリーホイーリン』の1曲目に収録され、後にシングル・カットされるもののディラン自身の歌はチャート・インしませんでした。しかし同年にピーター、ポール&マリーがカバーしたシングルが全米ヒ2位のヒット、1966年には年にはスティーヴィー・ワンダーのカバーが全米9位を記録しました。反戦や公民権運動などでの集会や行進で歌われる事が多く、ボブ・ディランはプロテスト・ソングのソングライターとして一躍注目を集めるキッカケとなりました。いつの世にも通底する、時代を超越したこの歌は毎年のように数多くのカバー曲を生んでおり、ディランの代表曲にあげる人が多いです。今回、佐藤良明氏による字幕入りの「風に吹かれて」をじっくり聴いてみて、わたしが好きな「風」(1969年、はしだのりひことシューベルツ)に影響を与えていることを確信しました。

 

映画「名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN」は、必要以上にディランを美化せず、過剰にドラマティックにせず、彼の人生の忠実な再現フィルムを見ているようで良かったです。1960年5月、ミネソタ大学を中退したディランは、同年12月にニューヨークに移住。1961年2月初め、ニュージャージー州モリス郡のグレイストーンパーク精神病院で療養中のウディ・ガスリーを見舞いました。有名になった後も、ディランは“心の師”であるガスリーを見舞い続けています。純粋な人だったのでしょう。また、どんなに有名になっても常に孤独感を漂わせており、その点も非常に魅力的でした。ルックスもいいし、歌もいい。それで哀愁を漂わせているのですから、これでモテないわけがありません。実際、モテまくったのでしょうが、映画にも登場する恋人たちの前では素直な一面を見せたり、また彼女たちから多大な影響を受けているところも好感が持てましたね。一言でいうと、キュートです!

 

ミネソタ出身の素朴なフォーク青年だったディランは、次第に都会に馴染み、大麻などの薬物にも手を出します。その影響で、1964年頃からコンサートやレコーディングに影響が見られ始めました。ビートルズやローリング・ストーンズをはじめイギリスのミュージシャンとの交流が芽生えました。1960年代半ばのジョン・レノンはディランに傾倒し、作風から精神性などの面でディランに触発されました。またジョージ・ハリスンとは後に生涯にわたる友情を築くこととなります。一方、ディラン自身もこれらブリティッシュ・インヴェイジョンに刺激を受け、エレクトリック・ギターやドラムを使用した作品を矢継ぎ早に発表しました。しかし、従来のフォーク・ソング愛好者、とくに反体制志向のプロテストソングを好むファンなどから、この変化は「フォークに対する裏切り」と解釈されました。映画にも登場する1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルで、ディランはバック・バンドと共に数曲演奏しましたが、「トーキングブルース」などの弾き語りを要求するファンから強い非難を受けています。

 

当時のフォーク・ソングは左翼思想ともリンクしており、エレキやドラムの使用は音楽に不純な資本主義を持ち込むことだと、教条主義的なフォーク・ファンは激しくディランを批判しました。ディランはやむなく舞台を降りた後、アコースティック・ギターを持って再登場し、観客に「お前らなんて信じない」(I don‘t believe in you,you’re a liar!)と言い放ち、過去の音楽との決別を示唆するかのごとく「イッツ・オール・オーバー・ナウ、ベイビー・ブルー」を涙ながらに歌いあげました。このような非難にもかかわらず、ディランは従来以上に新しいファン層を多く獲得したのです。内省的で作家性の強い原曲を、アメリカ社会のさまざまなルーツミュージックやリズム&ブルースなどのバンドアレンジに乗せたこの時期の作品が、ロック史の大きな転換点として位置づけられています。また、この頃の歌詞はアレン・ギンズバーグらの文学者からも絶賛されるようになっており、ロックの歌詞が初めて文学的評価を獲得したものとして重要です。この評価は、後にノーベル文学賞の受賞に繋がったことは言うまでもありません。


Tonyさんの御自宅の前で

御夫妻が迎えて下さいました

 

3月6日、わたしは京都市左京区にあるTonyさんの御自宅を訪問しました。サンレー九州の市原部長、サンレー北陸の大谷部長の両上級グリーフケア士も一緒でした。彼らは「かまたまつり」の主要メンバーなので、同行してもらったのです。わたしたち3人が、京都駅からTonyさんの御自宅に向かおうとしたのですが、そのときTonyさんからPCメールが届きました。そこには「日本バプテスト病院に来ていて、まもなく診察、その後、90分ほどの抗がん剤治療の点滴治療を行ないます」と書かれていました。わたしたちは時間を遅らせて訪問しました。

㊗「ムーンサルトレター」第240信!
㊗「ムーンサルトレター」20周年!

 

Tonyさんとわたしは久々の再会を喜んだ後、「シンとトニーのムーンサルトレター」の第240信=20周年のお祝いをしました。これはもうギネスブック級の偉業であると思っております。今回は、市原部長が「240」信と「20」周年を祝うバルーンを北九州から持参し、玄関で一生懸命に膨らませてくれました。鎌田先生は、とても喜んで下さいました。お昼が近かったのですが、鎌田先生がお寿司を出前で取って下さいました。わたしたちは、満月文通20周年&再会を祝してお茶で乾杯しました。それからお寿司を食べながら、いろんな話をしました。お寿司を食べ終わった後は、お土産で持参した金つば&栗饅頭を食べながら話しました。


お元気そうで良かった!

再会と20周年を祝って、お茶でカンパイ!

 

震災の被災者のグリーフの話、神風特攻隊の隊員だった鎌田先生の父上のトラウマの話、グリーフケアに関わる者の倫理規定の話・・・・・・わたしたちは、さまざまな話題で語り合いました。Tonyさんが「父は政治家向きだったと思う」と述べられたとき、わたしは「うちの父は、中曽根康弘先生から参議院選挙に出馬しないかと誘われたことがあったんですよ」と言うと、Tonyさんは「実現していたら大政治家になっていたと思いますよ。参議院議長ぐらいにはなっていたでしょうね」と言って下さいました。


「ボブ・ディランの影響を受けてますよね?」

「ディランが僕の影響を受けたんだよ」「ぎゃふん!」

 

それから、ボブ・ディランの伝記映画「名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN」を観たとき、「Tonyさんの神道ソングは、ボブ・ディランの伝記映画の曲に似てるな」と思ったので、わたしは「ボブ・ディランの影響を受けられたのでは?」と訊きました。すると、Tonyさんは「いや、逆にボブ・ディランが鎌田東二の影響を受けたんじゃないの?」と言われていました。ぎゃふん!(笑)それはともかく、昨年9月にTonyさんは父を見舞って下さいましたが、今回はわたしがTonyさんをお見舞いできて感無量でした。もちろん今回だけに限らず、これから何度でも訪れたいと思っています。この日は、市原・大谷の2人の上級グリーフケア士もTonyさんの話を熱心に聞き入っていました。2人を連れてきて良かったです。


Tonyさんを挟む2人の上級グリーフケア士

Tonyさんの話を熱心に聞き入る2人

 

Tonyさん宅を後にしたわたしたちは、タクシーでJR京都駅へ向かいました。わたしと市原部長の2人は、新幹線のぞみ35号に乗って小倉まで帰りました。京都駅で別れた大谷部長からはLINEメッセージが届き、そこには、「お父様がバイク事故で亡くなられたこと。映画『アラビアのロレンス』の冒頭シーンのお話。そして中東の戦争が続いていることの流れ。特攻隊員として生き残ったこと。それはグリーフよりもトラウマとなっていたこと。ケアの倫理規程、被災地におけるケアの重要性。日本人の死生観と霊性、そして先祖のこと。今、目の前でムーンサルトレターで交信する神々が、実際に会って対談している! そんな感覚でお二方の会話を拝聴させていただいてました。ありがとうございました!」と書かれていました。それでは、Tonyさん、また次の満月まで!

2025年3月14日 一条真也拝

Shinこと佐久間庸和様へ

先だっては、一乗寺のわが山荘まで、来ていただき、まことにありがとうございました。

ともに、寿司を食べながら、じっくりと話が出来て、大変幸いでした。

 

 

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明日、三井寺園城寺で、長谷川敏彦さん、福家俊彦長吏さんとトークイベントや、お茶会をおこないます。

鎌田忍(1923年=大正12年2月2日生まれ、母鎌田フミヨの2歳年長の兄・長男

『日本人の死生観Ⅱ 霊性の個人史』作品社、11頁をお読みください。

グレゴリー・ペック似と思ってきた父・田中=鎌田義美(1920年3月3日~1965年3月17日)のことを書きました。

 

2025年10月10日(金)13時~17時時に、石川県奥能登穴水町の高野山真言宗:海臨山千住院で、「災害学・災害社会支援者研修センター・能登学プロジェクト第2回公開プロジェクトを行ないます。

その翌日、10月11日から12日にかけて、「能登遍路・復興ツーリズム」と、縄文真脇遺跡で、近藤高弘さんの野焼き先達で、縄文野焼き復興大フェスティバルを行ないます。

ぜひご参加ください。

https://studio.youtube.com/video/2ixcyi6jax8/edit

2025年3月14日 鎌田東二拝

 

 

 

 

 

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IchijoShinya