身心変容技法オンラインセミナーを開催します

シンとトニーのムーンサルトレター第192信(Shin&Tony)

鎌田東二ことTonyさんへ

Tonyさん、お元気ですか? 昨日の春の嵐でずいぶん散ってしまいましたが、各地で桜が満開になりましたね。わが家の庭の桜の老木も今年もなんとか花を咲かせてくれました。夜、満開の桜の花の上に月がのぼっているのは、まことに良い眺めです。西行法師は「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」という辞世の歌を詠みましたが、本当に「このまま人生を卒業してもよいかも」などと思ってしまいます。


わが家の庭の夜桜と月

月といえば、スタートトゥデイの前澤友作社長が、自身が企画する月周回旅行「dearMoonミッション」について、同乗者となる8人を世界中から募集すると、同氏のYouTubeチャンネルで配信した動画で発表しました。旅行には、公募する8人を含む計10~12人が参加する予定。月へ行くのに3日間、月の裏側を通り戻ってくるのに3日間のスケジュールを見込むそうです。費用は全額を前澤社長が負担されるとのこと。

しかしながら、経営者たるもの、費用を全額、他人に負担してもらうのも気が引けます。本当は、わたしが社長を務める株式会社サンレーが以前から「月面聖塔」や「月への送魂」などの月に関するプロジェクトを推進しており、創立55周年を記念して月へ行きたかったのですが、現在はコロナ禍が冠婚葬祭業界を直撃している「業難」の最中にあり、それどころではありません。前澤社長のクルー募集のニュースは知っていながら、スルーしていました。すると、Tonyさんからメールが届き、「今しがた、ZOZOTOWNの前澤友作さんが募集している『月周回旅行』同乗者8名に1人として応募しました」と書かれているではありませんか! これはもう、Tonyさんを1人で月へやるわけにはいきません。経営者としての恥も外聞も投げ捨てて、わたしは鎌田先生のお供をすることにいたしました。正式に月クルーへの応募は受理されましたが、現在、世界249ヵ国で約100万件、日本からは約7.6万件の応募があったそうです。かなり多い数で驚きました。はてさて、どうなることやら?


Tonyさんの応募完了画面


わたしの応募完了画面

3月18日の朝、小倉の松柏園ホテル内の神殿で「春季例大祭」を開催しました。神事の後は万全の感染対策のもとで直会(朝粥会)も行いました。恒例の月次祭が行われました。それから、恒例の「天道塾」が開かれました。最初に佐久間会長が挨拶を行い、コロナ時代の互助会の役割について話しました。次に、サンレーのグリーフケア推進課の市原課長が、「グリーフケアとその取り組みについて」というテーマで報告しました。最初は緊張が隠せなかった市原課長でしたが、グリーフケアへの想いに次第に話は熱を帯びてきました。この情熱があれば、わが社のグリーフケアは大丈夫だと思いました。市原課長の話が終わると、社長であるわたしが登壇して、グリーフケアの話の総括を行いました。


春季例大祭のようす

わたしは、以下のような話をしました。コロナ禍という前代未聞の国難を経て、社会が大きく変化しています。関連書をまとめて読みましたが、「資本主義の終焉」とか「ビジネスの役割は終わった」とか「新しいコミュニズムの時代」といったショッキングな内容の言説が多いです。確かに一理ありますが、少し行き過ぎた部分も感じます。しかし、「グレート・リセット」とか「エコノミーにヒューマニティを取り戻す」とか「生産する経済からケアの経済へ」とか「相互扶助の社会へ」などのキーワードは的確だと思います。これらのキーワード群を前にしたとき、わたしは「これからの社会は、冠婚葬祭互助会の時代ではないか」という思いがしてなりません。冠婚葬祭業は医療や介護と並んで、社会に必要なエッセンシャル・ワークであり、ケア・ワークであると考えています。


天道塾のようす

新型コロナウイルス感染症によって多くのものが寸断されてしまった今、社会延滞がここで一度立ち止まり、本当に価値があるものは何かを冷静に見つめ直す契機が訪れました。何事も陽にとらえて考えてみると、冠婚葬祭互助会には明るい未来が待っていることがわかりました。そして、それはグリーフケアにかかっています。わたしは、グリーフケアの普及が、日本人の「こころの未来」にとっての最重要課題と位置づけています。じつは、わが社がこれまで行ってきた「隣人祭り」とか「ともいき倶楽部」とか「笑いの会」とか「気功教室」とか「月へ送魂」とか「禮鐘の儀」とか・・・すべては、グリーフケアに関わっています。上智大学グリーフケア研究所の島薗進所長は、「欧米のグリーフケアは『カウンセリング』を中心に発展してきたが、日本のグリーフケアは『集い』が中心になる」と発言されていますが、まさに、わが社の歩みのことではないかと個人的には思っています。

なぜ、わが社の従来の活動がすべてグリーフケアになりうるのか。それは、わが社の初期設定に秘密があります。國學院大學で日本民俗学を学んだ佐久間会長は、「日本人を幸せにする」という柳田国男や折口信夫の志を実現する器として冠婚葬祭互助会に出合ったのです。柳田国男の『遠野物語』などは、同じ村に住む者同士が助け合い、慰め合うエピソードの宝庫で、まさに「相互扶助」の物語であると言えます。そして、「相互扶助」というのは「グリーフケア」によって完成されるのです。要するに、グリーフケアを取り入れることによって、真の互助会が誕生すると言えるでしょう。


グリーフケアについて語る

互助会が冠婚葬祭のすべてとグリーフケアを行うことによって、人が生きていく上で必要な儀式とケアが行えることになります。古来よりその役目を担ってきた地域の寺院の代わりに不可欠なとして存在していくことで地域社会に必要なものとして、より根差していけるのではないでしょうか。また、地域ごとにセレモニーホールを持つ冠婚葬祭互助会は、これまで寺院などが担ってきた地域コミュニティの中心としての存在となり得ることも可能です。それは人と人が関わりあう地域社会の活性化にもつながっていくと考えられます。この日は、以上のような話をしました。グリーフケアによって、ミッショナリー・カンパニーとしてのわが社の使命が果たせると考えています。この日は、そんな話をしました。

グリーフケアといえば、最近、観た映画がいずれもグリーフケアがテーマだったので驚きました。なぜか最近は、どんな映画を観てもグリーフケアの映画です。まず、アニメ映画「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を観ました。じつは、この「シン・エヴァンゲリオン劇場版」、公開早々に観たいと思っていたのですが、「新劇場版」シリーズ4部作の最終作と知って、鑑賞を躊躇しました。なぜなら、TVアニメ版は全話観ていたのですが、新劇場版は1作も観ていなかったのです。シリーズ最終作だけを観るなどという行為は、わたしの映画鑑賞ポリシーに反するからです。しかし、公開後の高い評価もあって、どうしても観たくなり、第1作「序」、第2作「破」、第3作「Q」のDVDを購入して一気に13日の土曜日に鑑賞、翌日の14日の日曜日に「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を観た次第です。謎に満ちていた物語のすべての伏線が回収され、謎も解明され、「ああ、本当にエヴァは終わったんだな」と思いました。

「エヴァ」はフロイトが言った「喪の仕事(モーニングワーク)」の物語であり、グリーフケアの物語でありました。碇ゲンドウは最愛の妻であるユイを失います。ユイとの再会を願う彼は、とんでもない方法でその実現を企み、その企みは息子であるシンジを巻き込みます。これ以上書くとネタバレになるので控えますが、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」において、シンジはある愛すべき存在を失います。ゲンドウは、最愛の人を失うという自分が味わったこの世で最大の苦しみを息子にも味わわせようとしたのでした。最後に、ゲンドウとシンジが対峙したとき、ゲンドウはシンジに「おまえも、死者の想いを受け止められるようになったとは大人になったな」という言葉を口にします。

また、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」には、何度も「儀式」という言葉が登場しました。ミサトも口にしましたが、なんといってもゲンドウの口から何度も「儀式」という単語が語られました。そう、「エヴァ」とは儀式の物語なのです。何の儀式かというと、死者の葬送儀礼、すなわち葬儀です。最期のセレモニーである葬儀は人類の存続に関わってきました。故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えます。もし葬儀を行わなければ、配偶者や子供、家族の死によって遺族の心には大きな穴があき、おそらくは自死の連鎖が起きたことでしょう。そして、ゲンドウにとっての「人類補完計画」とは、最愛の妻ユイがいなくなった世界を補完することでした。Tonyさんも「エヴァ」の物語を愛してやまない方ですよね。まだ観ておられないなら、ぜひ、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を御鑑賞下さい!

また、「ノマドランド」というアメリカ映画も観ました。ジェシカ・ブルーダーのノンフィクション小説を原作に、「ノマド(遊牧民)」と呼ばれる車上生活者の生きざまを描いたロードムービーです。この映画のメインテーマもまさにグリーフケアでした。車上生活を続ける61歳の女性である主人公のファーンは、ホームレス(ハウスレス)支援活動家であるボブ・ウェルズと出会いますが、彼は息子を自死で亡くしており、「悲嘆や喪失感を抱いた多くの人々がここに集まってくる」と言います。ファーンもまた、夫を病で亡くし、深い悲嘆と喪失感を抱いています。それが彼女を放浪の旅に駆り立てたのでした。RTRというハウスレスの共同体は、グリーフケアの共同体でもあったのです。ボブ・ウェルズは、「『さよなら』という言葉は『see you again』と言うだろう。そうなんだ、また会えるんだ。永遠の別れじゃないんだ。わたしも、いつかは亡くなった息子に再会できるんだ」と述べるのでした。

このボブ・ウェルズの言葉は、わたしが初めて書いたグリーフケアの書『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)に書いた内容と同じです。考えてみれば、世界中の言語における別れの挨拶に「また会いましょう」という再会の約束が込められています。日本語の「じゃあね」、中国語の「再見」もそうですし、英語の「See you again」もそうです。フランス語やドイツ語やその他の国の言葉でも同様です。これは、どういうことでしょうか。古今東西の人間たちは、つらく、さびしい別れに直面するにあたって、再会の希望をもつことでそれに耐えてきたのかもしれません。でも、こういう見方もできないでしょうか。二度と会えないという本当の別れなど存在せず、必ずまた再会できるということを人類は無意識のうちに知っているのだと。その無意識の底にある真理が、別れの挨拶に再会の約束を重ねさせているのだと。わたしたちは、別れても、必ずまた、愛する人に再会できるのではないでしょうか。


『葬送のフリーレン』1~4巻

この他、「マンガ大賞2021」の大賞を受賞した『葬送のフリーレン』もグリーフケアがテーマの後日譚ファンタジーでしたし、「この世は、グリーフケアに満ちている!」と思うわたしでした。明日は京都を訪れ、夜はTonyさんにお会いする予定です。心より楽しみにしています。それでは、次の満月まで!

2021年3月29日 一条真也拝

 

一条真也ことShinさんへ

Shinさん、こんばんは。お元気でご活躍の様子、何よりです。京都も桜が満開です。今日は比叡山に登拝しました(東山修験道694)が、曼殊院の染井吉野も、山桜も、鷺森神社の参道の桜並木もみな満開でした。これほど満開の早い開花時期は京都に住んで初めてでしたね。全国的にもそのようです。今宵は満月も綺麗に見えています。以下の東山修験道694の動画をご覧ください。比叡山周辺の桜と満月を堪能できます。

東山修験道694:https://www.youtube.com/watch?v=1nYf9bIk

 

先おとといの3月26日(金)は、上智大学大学院実践宗教学研究科の修了式で、四谷キャンパスに行きました。上智大学は駅前大学なので、四ツ谷駅の交叉点のから徒歩1分のところにあるのですが、そのそば、イグナチオ教会の隣の土手の桜も満開でした。袴着の女子学生がたくさん満開の桜の下で記念撮影していました。

そして、一昨日は、上智大学グリーフケア研究所・大阪の修了式で梅田に行きました。上智大学大阪サテライトキャンパスは梅田のカトリック教会の2階にあるのです。が、大阪も、非常事態宣言解除後、感染拡大が続いていて、止まらず、かなり心配な状態ですね。やはり、いたちごっこになってきています。

関東首都圏も、緊急事態宣言を解除しましたが、解除後、急速に感染拡大が続いていますね。オリンピックの聖火リレーも感染拡大の不安の中で実施され、ますます事態が不鮮明に進行していて、これから先何が起こるかわからない不気味さを孕んでいます。安倍政権は、放射能は「アンダーコントロールされている」とうそをついてオリンピックを誘致しましたが、今、菅政権はコロナを「アンダーコントロール」するどころか、振り回されていますね。嘘偽りの隠蔽工作政権は、とっくのむかしに化けの皮をはがれていると思うのですが、なぜこのような形で政権が維持されているのでしょうか? 奇怪です。

国外に目を転じても、ミャンマーの軍事政権の圧政に対する市民の抗議デモを含め、人権問題を抱える香港・中国、ロシア、そしてワクチンナショナリズムの中で割れ目が露顕してきたEU、バイデン政権下でのアジア系アメリカ人に対する差別や暴力、問題の深刻さと拡大は、新型コロナウイルスの感染拡大だけでなく、破壊的に構造化しており、文明や制度や人間あるいは人間社会というシステムの破局的段階として顕在化してきている面が多々あります。

そんなこんなで、大変な時期ではありますが、にもかかわらず、どうしようもない月狂いの二人は、Dear Moon Projectに応募しました。しかし、世界中から100万件の応募ですか! その中から選ばれる8人。いったい、どのような人なのでしょう? その人たちは。その中でのわれらの運命は、いかに?

この間、Shinさんは話題作を立て続けに観ているようですね。わたしの方は1年近く映画館で映画を観ていません。市内に行くのは、NHK文化センター京都で月1回行なっている「日本書紀全講読」の講座、そして、3月は朝日カルチャーセンター京都での石牟礼道子さんと遠藤周作さんと三島由紀夫さんを比較しつつ考える2回連続講座、そして、東京や大阪での修了式など、わずかな回数しか、市街地中心部や東京や大阪に出向いていません。

この1年間の移動距離は、昨年の、それこそ「Dear Moon Project」の応募総数ではありませんが、100万分の1くらいの少なさだったのではないでしょうか? しかしながら、比叡山への登拝回数は例年よりも多く、2ないし3倍の数比叡山に登拝し、つつじが丘付近でバク転3回し続けているので、それは例年よりも回数は増えています。ので、バク転回数はうなぎのぼりですよ。この3月に満70歳となりましたが、「バク転神道ソングライター」は名実ともに健在です。と、言いたいところですが、このご時世、「神道ソングライター」としてお呼びはまったくなく、わが家のステージ(?)だけがライブの現場となっています。お粗末!

とはいえ、本の方は、先回にも書いた通り、2月5日に淡交社から『ケアの時代 「負の感情」と付き合い方』、3月30日(奥付、発売は3月23日)に『身心変容技法研究シリーズ第3巻 身心変容と医療/表現』の大著を日本能率協会マネジメントセンターから出版し、着実に、売れ行きが悪そうです。お粗末! 何とかならんもんかねえ、とおもいますが、「バク転神道ソングライター」の市場価値はうなぎくだりですね。お粗末!

さて、そんなこんなにめげる年でもないので、マイペースで我が道を行くほかありませんが、いま進めているのは、オンライン「大重祭り」(7月22日)の開催準備と、オンライン「身心変容技法セミナー第2弾」の準備と、本年11月に建仁寺塔頭の両足院とThe Terminal KYOTOの二会場で行なう「悲とアニマ~いのちの帰趨」展の準備と、一般社団法人日本宗教信仰復興会議の社会活動(http://www.hukkoukaigi.or.jp/ を参照ください)と、「観世」や「三田文学」の連載と、次に出す本の執筆、などなどです。本の方は、いくつか頼まれているものがあるのですが、もう3年越しの締め切りを過ぎたものや、5年越しのものなど、背負い込んでいる本の後始末ができずに、押されに押されて遅刻常習犯となっています。お粗末!

もはや、執行猶予も消費し尽くし、行き場も逃げ場も失っているので、背水の陣で飛び込みをしなければなりませんが、さて、100万分の1の確率で飛び込み成功と行くかどうか……!!??

今、わたしが考えているのは、能の道とお茶の道です。能の方は、あらゆるパフォーミング・アーツが苦境の中にあるので、大変シビア―な状況ですが、しかし、このような状況の中だからこそ、「天下の御祈禱」としての能・申楽の意味と存在意義を問いかけていく必要があるとも思っています。

また、お茶の方は、これはもちろん茶室のような座敷空間で、付き合いのある方々のみの少人数でゆったりと行なう限り、コロナ感染の拡大にはならないと思うので、むしろ、「侘茶」の本質を問いかけるよいチャンスだと思うのですよ。そこで、久松真一さんの『茶道の哲学』(講談社学術文庫、1987年)を読み始めました。

これがけっこう、ヒント満載なんですよ。わたしはこれまで京都学派には一定の関心を向けて、特に、哲学・宗教哲学系の西田幾多郎と西谷啓治と上田閑照と加藤清(精神科医)を中心に読んできました。批判的ですが、田辺元もある程度、読みました。京都学派グノーシス主義とも言うべき梅原猛さんの本もかなりな程度、読みました。しかしながら、京都学派の重要な一角を占めている久松真一さんについては、食わず嫌いで、まったく一冊も読んでいなかったのですよ、

京都大学大学院文学研究科・文学部のHPの以下のURLには次のようにありました。

https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/japanese_philosophy/jp-hisamatsu_guidance/

思想家紹介 久松真一 明治22(1889)-昭和55(1980)年

略歴

明治22年6月5日岐阜県長良村に生れる。生家は浄土真宗篤信の農家で、幼年時代より真宗の僧侶になることを願うも、青年期、科学的知識に接するにおよび、従前の「中世的」信仰を棄て、理性の自律に基づく哲学を志す。
第三高等学校を経て京都帝国大学哲学科に入学し、西田幾多郎の指導を受けるが、学問的対象として客観化できない「私といふもの自体の存在」の問題に悩み、大正4年、西田の薦めによって妙心寺の池上湘山老師に参禅。直後の臘八大接心において「無相の自己」に目覚める。
その後、臨済宗大学教授、京都帝国大学講師等を歴任しつつ、昭和14年に主著『東洋的無』を刊行。昭和21年京都大学教授(仏教学)。独自の禅哲学を展開すると同時に、戦中に設立された「心茶会」や「学道道場(後のFAS協会)」の指導に当る。「私は死にません」という言葉を残し、昭和55年2月27日逝去。

*     *     *

久松真一は、西田幾多郎や鈴木大拙、西谷啓治らと並ぶ近代日本の代表的な禅・思想家の一人である。しかし、久松の思想には、他の禅・思想と比較して際立った特徴があると考えられる。それは、久松の思想が、常に禅の第一義の立場(「覚」の立場)から語られているということである。久松は、禅・思想家というよりは、寧ろ端的に「禅者」の風貌をもっていた。
久松は、「覚」の立場における絶対者と自己との同一を説く。久松によれば、自己と絶対者との間に間隙のあるキリスト教や浄土真宗は、なお真の自覚の立場に立つものではない。このような態度は、他の禅・思想家がそれらの宗教の中にも積極的なものを見ていたのとは対照的であるといえる。

とはいえ、久松の立場は、現実の世界とのかかわりを断ち、単に個人的な宗教的体験に閉じこもる立場では決してなかった。そのことは、久松が主催した学道道場の標語「FAS」に端的に現れている。「FAS」とは、形なき自己(Formless self)に目覚め、全人類(All mankind)の立場に立ち、歴史を越えて歴史を創ろう(Superhistorical history)という主張である。久松の「覚」の立場は、「近代」的な人間観がもたらす問題点を超克すべき「ポストモダン」の人間像の提唱にもつながるものであった。

久松に対しては、彼の弟子筋の人々の間で、多くの信奉や称賛の言葉が捧げられてきた。しかし、久松の思想を対象化し、その哲学的・思想的意義を見出すということは、未だ十分になされていないと言わなければならない。通常の意味での哲学や思想ということ自体を否定する久松の哲学的・思想的意義を求めるということは、矛盾を含んだ、困難な仕事でもあるであろう。しかしそこには、豊かな思想の源泉が隠されていることが予想される。

*     *     *

主要著書

『東洋的無』(昭和14年) 『起信の課題』(昭和22年)
『茶の精神』(昭和23年) 『絶対主体道』(昭和23年)
『禅と美術』(昭和33年)

テキスト

選集

  • 『増補版 久松真一著作集』(全9巻)、法蔵館、1994-96。
  • 『久松真一著作集』(全8巻)、理想社、1969-80。
    各巻のタイトルは以下の如し。
    「東洋的無」「絶対主体道」「覚と創造」「茶道の哲学」「禅と芸術」「経録抄」「任運集」「破草鞋」「起信の課題・対談集」。
  • 『久松真一仏教講義』(全4巻)、法蔵館、1990-91。

単行本(入手可能なものを中心に)

  • 『覚の哲学』(京都哲学撰書21、美濃部仁編)、燈影舎、2002。
  • 『藝術と茶の哲学』(京都哲学撰書29、倉澤行洋編)、燈影舎、2003。
  • 『東洋的無』(講談社学術文庫)、講談社、1987。
  • 『茶道の哲学』(講談社学術文庫)、講談社、1987。
  • 『わびの茶道』(燈影撰書)、燈影舎、1987。
  • 『無神論』(法藏選書)、法蔵館、1981。
  • 『起信の課題』、理想社、1983。
  • 『人類の誓い』、法蔵館、2003。

対話

  • 『覚の宗教』(八木誠一との対話)、春秋社、1980。

参考文献

久松の人物を知るために、久松自身による自伝:

  • 「学究生活の想ひ出」(著作集1収録)。

入門として:

  • 『日本近代思想を学ぶ人のために』、世界思想社、1997。石井誠士「ポストモダニスト―久松真一―」。
  • 『京都学派の哲学』、昭和堂、2001。今泉元司「久松真一の思想と実践」。

久松の人物と思想とを紹介する単行本:

  • 藤吉慈海・倉沢行洋編『真人久松真一』(増補版)、春秋社、1991。
  • 藤吉慈海『禅者久松真一』、法蔵館、1987。
  • 藤吉慈海編『久松真一の宗教と思想』、禅文化研究所、1983。
  • 『久松真一の世界』(増補版久松真一著作集 別巻)、法藏館、1996。

哲学的意義の解明の試みとして:

  • 上田閑照・堀尾孟編集『禅と現代世界』、禅文化研究所、1997年。
    西田幾多郎、鈴木大拙、久松真一、西谷啓治の四人の禅思想をめぐる論文集。久松に関する以下の論文を含む。
    上田閑照「禅と世界」、
    米田俊秀「久松真一 禅歴を巡って」、
    美濃部仁「久松真一の禅と「人間」」、
    今泉 元司「無神論としての現代 久松真一の現代理解」、
    大橋 良介「「覚の哲学」の諸問題 久松真一の思想」、
    川村永子「禅とキリスト教 西田・大拙・久松・西谷の場合」。
  • 大橋良介『悲の現象論序説』、創文社、1998年。
    「「語黙通底」テーゼ―久松真一の禅思想あるいは「覚の宗教」と言語―」。
  • FAS協会編『自己・世界・歴史と科学 無相の自覚を索めて』、法蔵館、1998年。
  • 石川博子『覚と根本実在 久松真一の出立点』、法蔵館、2000年。

(杉本耕一、平成15年6月)

『茶道の哲学』の冒頭の講演録は、「日本の文化的使命と茶道」と題するもので、久松真一はここで、日本の「茶道」とは「日本に特有な一つの綜合的な文化大系」で、「日常些事」から「非日常的な宗教」までの「全体を包括している」(11頁)ものだと主張します。そこには、芸術も道徳も、共にある。そして、一つの体系を成している。これは、日本固有の文化財として、とても貴重なものだ、と述べるのです。

Shinさん好みのフレーズを挙げると、次のような文言があります。

「茶道というものは日本の近世の三、四百年の歴史ではありますが、日本の礼儀作法とかエチケットとかいうようなものに深く広く浸透していって、日本の固有な礼儀作法というものを形成しました。」(12頁)

つまり、茶道により、「人間の動作が落ち着いた美しいものに洗練されたり、人間が宗教的な深い慰安を与えられたりした」(13頁)というのですが、問題は、ここに、禅に基づく「わび(侘)の宗教」・「わびの文化」が生まれたことにあります。久松真一によれば、この「侘茶」は、「禅における宗教改革」でした。「利休は庶民的禅文化を形成し、庶民をしてそれに参ぜしめ、新しい様式の生活を創造した」(16頁)と言うのです。そして、茶道は「新生活様式」であり、そこに「日常生活がすべて綜合的に包括されている」とされます。

さて、なぜわたしがこの久松真一の主張に関心を持ったかというと、この茶道の日常性、日常生活性、日常生活の綜合的な包括性にあります。そして、これこそが、withコロナ時代の生き方のヒントになるものと思ったのでした。たとえばそれは、「茶道では、狭隘なるささやかな住居の中で、宗教的にも、道徳的にも、礼儀作法的にも、芸術的にも、食事から掃除に至るまでも、実によく洗練された文化的生活がなされる」(17頁)というところなどです。また、「わび」とは、「無いところをフルに生かすという精神」(19頁)で、久松は「ことにわれわれのような物のない貧乏人や(鎌田注―戦後間もなくの時代であっても、京都大学教授の久松真一が「貧乏人」とはわたしには思えませんが)、物資の足りない時代には、かのような『わびの精神』は誠によい生活原理でもある」(同頁)というところなどです。

「無いところを生かす」、「有り合せを十分に生かしてゆく」、この「わびの宗教」は「無の宗教」であり、「全くの無に安住することができる宗教」(23頁)だと言うのです。この大量消費時代にあって、この反時代的な提言は、withコロナの時代のスピリチュリティとしてもう一度蘇る可能性があると思います。「一切の有ることの不安から全く解放された宗教」、「本来無一物の宗教」、「無一物中無尽蔵」の宗教、「自在な創造性」(24頁)の宗教や生き方ということになります。

Shinさんのお父上は武術の名人でもあり、茶道の師範でもありますよね。

久松真一は、しかしながら、今、この「茶道の哲学」が堕落している、「茶道の本義たる侘の精神」が見えなくなってきている、と、警告を発します。

①今日は真の茶道の自覚が欠如している。だから、茶人としての本当の使命が感じられなくなっている。

②ゆえに、侘の創造性が全く欠如してしまった。

③それは、茶道の本質に対する認識の欠如となって表れている。それが茶の学問性の問題である。

④茶道が生活から全く遊離してしまっている。ゆえに、民衆性、庶民性がなくなった。

うーーん。これは、神道や仏教や能や、多くの伝統文化に対しても、同様のことが言えるのではないかと身に染みて思うものであります。わたしたちは、もっと深く、<洗練された素の生活文化>の中に下りていかなければならないのではないか。久松真一が言っていることを、わたしは『身心変容技法研究シリーズ第3巻』の序章に書いた「エコロジカル・ディスタンス」の問題と結びつけて考えたいのですよ。

「ソーシャル・ディスタンス」などと主張する前のいのちの根幹・根底に、「エコロジカル・ディスタンス」がある。茶道は、そのような水や空気や環境や借景やを含む外界と内界を素の生活文化に接続する魔法のパスワードを創造したのですよ。そういうことを、久松真一は、「無相の哲学」に基づく「洗練された生活文化」の綜合性として言っている。このようにわたしは読んで、初めて、久松真一の真髄に触れたような気がしました。少しこの辺りを「深掘り」して、コロナ時代の生活文化に「ひも付け」してみたいと思っています。京都学派の中に埋蔵されていた久松生活文化論の未来メッセージを、もう少し、わたしとしては、未来に接続してみたいと思ったのでした。

ともあれ、明日、3月30日、京都駅ビルでお会いして、少しゆるりとその辺のことも含めて「日本の儀礼文化の行く末」について意見交換ができれば幸いです。明日のリアル面談を大変楽しみにしていますよ、Shin「ウルトラマン」さん!

2021年3月29日 鎌田東二拝