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シンとトニーのムーンサルトレター 第030信

第30信

鎌田東二ことTonyさま

 Tonyさん、先月29日に北九州で開催された当社会長であり父である佐久間進の旭日小綬章受章祝賀会にわざわざお越しいただき、誠にありがとうございました。おかげさまで、全国で4回にわたって祝賀会が開催され、総計1000名以上の皆様がお越し下さいました。多くの方々に祝っていただき、さぞ父も感無量であったと思います。

 また、父はこのたび、『わが人生の「八美道」』(現代書林)という著書を上梓いたしました。父がこれまでの人生で気づいてきたさまざまな事柄を八つのシンプルな言葉にまとめたものです。沖縄在住の写真家である安田淳夫さんの美しい写真も多数掲載されています。この本をTonyさんが大変高く評価して下さったことも有り難く、また嬉しかったです。

 祝賀会の後は、例によってカラオケに行きましたね。現代書林の坂本桂一社長、エディターの内海準二さん、当社総務室長の朝妻貞雄も一緒でした。わたしは桑田佳祐の「ダーリン」を皮切りに、ザ・ブルーハーツの「キスしてほしい」や「リンダ・リンダ」を歌いました。この二曲はTonyさんの持ち歌であり、完全に掟破りです!そのため気分が高揚して、他のみなさんの歌をまったく記憶していません。Tonyさんは何を歌ったのでしたっけ?カラオケの後で、とんこつラーメンを食べたことは憶えていますけど。

 それにしても、ブルーハーツはいいですねぇ。「キスしてほしい」の「トゥー・トゥー・トゥー」のリフレインも脳に快感ですし、「リンダ・リンダ」の冒頭の歌い出しも最高です。「ドブネズミみたいに美しくなりたい」というフレーズですが、この言葉がTonyさんも大好きだそうですね。わたしも素敵な言葉だと思います。特に今年にぴったり。正月に行なわれた会社の新年祝賀式典で、わたしは「今年はネズミ年。世界一愛されるネズミといえばミッキー・マウスですね」と社員に語りかけ、最後に「わたしたちも、ミッキー・マウスみたいに多くの人々から愛されましょう!」と締めたのですが、本当は、「わたしたちも、ドブネズミみたいに美しくなりましょう!」と言いたかったですね。

 さて、「リンダ・リンダ」の歌詞ですが、冒頭の「ドブネズミみたいに美しくなりたい」の後には、「写真には写らない美しさがあるから」と続きます。これまた、ナイスなフレーズです。このフレーズを口ずさんだとき、わたしは昨年末のレターのことを思い出しました。サンタクロースからの流れで、わたしが「サービス業の意味」について話したことを憶えてらっしゃいますか?思いやり、感謝、感動、癒し、夢、希望など、この世には目には見えないけれども存在する大切なものがたくさんある。逆に本当に大切なものは目に見えない。そして、それを売る仕事こそサービス業なのだと、わたしは言いました。当社の社員やリクルートの学生さんたちにも、いつも言っていることです。

 最近、サン=テグジュぺリの『星の王子さま』を30年ぶりに再読して、おどろきました。「本当に大切なものは目に見えない」ということがメイン・テーマだったからです!わたしがPHP新書で『人類の教師たち(仮題)』を脱稿したことは御存知かと思います。おかげさまで4月15日の発刊が決定しましたが、同書でわたしは、ブッダ、孔子、老子、ソクラテス、モーセ、イエス、ムハンマド、聖徳太子といった偉大な聖人たちの正体とは「水の精」ではないかと推測し、人類の最優先ミッションが「水を大切にすること」ではないかと述べました。「花には水を、妻には愛を」のコピーのごとく「水」と「愛」の本質は同じだということが言いたかったのです。すると、『星の王子さま』に「水は心にもよいものだ」とか「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだ」などの言葉が次から次に出てくるではありませんか!わたしは本当に感動してしまい、サン=テグジュぺリこそは人類の普遍思想にアクセスした賢人であるという思いを強くしました。

 「本当に大切なものは目に見えない」というサン=テグジュぺリと同じメッセージを、次のような美しい詩で表現した日本人もいました。

  「星とたんぽぽ」金子みすず

    青いお空のそこふかく、
    海の小石のそのように、
    夜がくるまでしずんでる、
    昼のお星は目に見えぬ。
       見えぬけれどもあるんだよ、
       見えぬものでもあるんだよ。
    ちってすがれたたんぽぽの、
    かわらのすきに、だァまって、
    春のくるまでかくれてる、
    つよいその根はめにみえぬ。
       見えぬけれどもあるんだよ、
       見えぬものでもあるんだよ。

 サン=テグジュぺリはまた、「大切なものは、心で見ない限り、目には見えない」ということを言っています。大切なものは「目に見えない」だけでなく、「心で見れば見える」というのです。それでは、目で見えないものを心で見るとは、どういうことでしょうか?それは、「感じる」ということだと思います。「心で見る」とは「感じる」と同じ意味なのではないでしょうか。そこで、「共感」というキーワードが出てきます。

 旋盤工の職人は、何千、何万という旋盤に触れながら、百分の一ミリの違いを指先で感じられるようになるそうです。また、オーケストラの指揮者は耳を研ぎすまし、あらゆる楽器が音を奏でるなかで、一つの楽器が発する、わずか一音の違いをキャッチするとか。

 同じように、ホテル業や冠婚葬祭業に携わるサービスマンも「共感」する感性を研ぎすますことで、お客様が考えていること、求めていることを瞬時にキャッチできるようになるのだと思います。大事なのは、「同感」ではなく「共感」なのです。サービスマンは、お客様とまったく同じ立場にはなれません。しかし、それぞれの立場を想像し、限りなくその心情に近づいていくことはできます。

 そして、「共感」とともに「気づき」が大事です。「心で見る」というのは「気づく」ということでもあります。気づく人というのは、人が困っていたりするのが見えるわけですから、すぐにサポートしてあげることができます。また、気づく人は、人が喜んでいるときにもそれに気づくので、一緒に喜んであげることができます。気づかない人というのはサービスマンとしては失格なのですね。もともと、「気づき」をはじめ、「気配り」「気働き」「気遣い」という言葉があるように、「サービス」とは「気」に通じます。

 わたしは昔から、サービス業とはお客様に元気、陽気、勇気といったプラスの気を提供する「気業」であると言い続けてきました。

 さらに大事なことは、見えないものを形にして目に見えるようにすることです。見えないものを形にするとは、茶道、華道、日本舞踊などの芸道がそうですし、剣道などの武道もそうです。ヨガや気功なども含めて、一般に身体技法というものは見えないものを見えるようにする技術だと思います。広い意味での芸術や芸能もそうだと思います。それらは、心を形にするテクノロジーだと言えるかもしれません。

 そして、サービス業において見えないものを形にする技術とは何か。それは、挨拶、お辞儀、しぐさ、笑顔、愛語、といったものです。わたしたちが普段から心がけているこれらのものこそ、本当に大切なものを目に見える形でお客様に提供するものなのです。挨拶にしてもお辞儀にしても、もちろんマニュアルがあります。マニュアルに書かれた、また上司や先輩から指導された基本を繰り返し行ない、徹底してゆくことが必要です。それらが無意識に行なえるレベルにまで高まったとき、やっとプロのサービスマンと呼べます。

 父も著書『わが人生の「八美道」』において、「正しい」ことを何度も繰り返し行ない、自分の身になり、自然と行なえるようになってはじめて「美しさ」になると述べています。わたしは、サン=テグジュぺリや金子みすずといった偉大な芸術家たちが「見えない」といった大切なものを「見える」形にするのがサービス業ではないかとさえ思うのです。

 最後に、父の祝賀会の翌日に一緒に朝食を取った後、コーヒーを飲みながら色々とTonyさんと語り合った時間は楽しく、かつ有意義なものでした。わたしが現在書いている『法則の法則』という本の内容についてもお話しましたし、お互いの4月からの生き方や、「人類は滅亡するのか?」という、わたしたちにとっての最大の問題についても意見を交換しましたね。わたしはこれまで、「人類は滅亡する」というTonyさんの御意見には正直言って違和感を感じていたのですが、今回その意図するところがよく理解できました。たしかに人間個人というレベルで考えても、一個の生物として必ず死ぬ運命にあります。だからといって、不幸でもないし、悲嘆することもないというのが小生の持論です。ならば、もし人類という生物種がいずれ死すべき運命にあるのなら、その「老い」と「死」をいかに受けとめてゆくかという発想も必要とされるかもしれません。

 実は、最近、「アース」という話題の映画を観て、「地球温暖化の問題はもはや打つ手がなく、手遅れではないのか」という疑念を抱きました。人類は他の多くの生物種たちを道連れ、いや巻き添えにしながら滅んでゆくのかもしれない。そんなことを、ふと思いました。「人類の滅亡」という大問題については、これからも考えてゆきたいと存じます。このレターも、もう30信ですね。

 22日からはドバイとトルコに行ってきます。21世紀の黄金郷・ドバイ、東と西の交差点・イスタンブール・・・新しい発見への期待にとてもワクワクしています。次回のレターでは、その報告もたっぷりとさせていただきます。それでは、オルボワール!

2008年2月20日 一条真也拝

一条真也ことShinさま

 今回もまた力と心のこもったレター、ありがとうございます。そうですかあ、もうこの「ムーンサルトレター」も30回ですかあ。30ヶ月ということは、2年半続いているということですね。Shinさんはそのレター、遅れたことがありませんね。いつも準備万端、全力投球、気持ちよく受け止めさせていただいています。

 先月、1月29日のお父上の株式会社サンレー佐久間進会長の旭日小綬章受章祝賀会に出席させていただき、直接お父上にもShinさんにもお祝いの言葉をお伝えすることができて、とてもとてもうれしく思っています。本当におめでとうございました。心からお祝い申し上げます。


 Shinさんの言われるように、冠婚葬祭などのサービス産業は「共感」力がとても大事で、そこから諸種の気配りや心遣いが生まれます。それはしかし、教育の場もまったく同じで、わたしはNPO法人東京自由大学を仲間と共にやりはじめて本年で10周年の節目の年になりますが、人の痛みや苦しみや求める心に気づかなければ教育という共育は成立しません。教育とは本質的に自己教育であるとともに、共育ちとしての「共育」なのですから。

 お父上の書かれた『わが人生の「八美道」』(現代書林、2007年11月3日刊)は、すばらしいご本ですね。お父上の人生哲学と美意識が凝縮されています。「礼道 八美道」の項には、

 一 神・仏・老人を大切にする
 二 父・母・師の恩を忘れない
 三 心身の健康に気をつけること
 四 礼儀作法を守ること
 五 ニコニコ笑顔を絶やさないこと
 六 仕事は楽しく働くこと
 七 世の為、人の為に尽くすこと
 八 ぜいたく好みは慎むこと(10〜11頁)

 とか、「経営 八美道」には、「一 ロマンとソロバン、八 最高満足と最適利益」(74〜75頁)とか、「物を残すのではなく、生き方を残したい」(68頁)、「物に価値を置くのではなく、心に価値を見出す生き方をしたい」(72頁)とか、「ホスピタリティ産業の確立をめざして」と題する巻末エッセイ、そして、奥付の後の最後のページ外ページの

  求道とは、
  自分をどこまで高められるか。
  その挑戦が、
  私の人生目標です。

 という締めの言葉。その言葉とともにある写真も美しく、素晴らしい。巻頭が太陽、巻末が月。まさに陰陽合体、金胎不二のご本ですね。折口信夫門下として、儀礼文化と経済道を融合させ、「礼経一致」をいち早く提唱し実践されてきた成果がわかりやすい言葉で凝縮されていると思います。本当にその「求道」の精神と道には心から敬意を表したいと思います。

 さてわたしの方は16日から19日、昨日まで徳島にいて、鳴門の渦潮を横目に眺めながら、大阪経由で大宮に戻りました。母の1周忌のために帰省したのですが、この機会に、部分お遍路さんをしたいと思い、一部を歩きました。京大4年在学中の甥とその母親(わたしの義妹)、姉とともに、20番札所から23番札所まで、四国遍路をし、久しぶりに阿波の土の上を歩きました。なつかしかった〜!

 去年、母の葬儀の翌日に姉と二人で、20番札所の鶴林寺(ここには、狛犬の代わりに、阿吽の口をした2匹の鶴がいます)を参拝したとき、「ええっー、鶴林寺って、こんなに山深かったけ〜!?」と深く感動し、そこから21番札所の太龍寺まで遍路道を歩けるという案内板があったのを見て、「このへんろ道を歩きたいな」と思ったのが、実際に歩くきっかけでした。

 ちょうど1年後、母の1周忌の翌日に、その部分お遍路さんが実現したわけですが、1人で歩くつもりが、義妹と甥が「一緒に連れてって」というので、一緒に行くことにしたのです。20番札所の鶴林寺は本尊が地蔵菩薩、山深い難所で、21番札所の太龍寺も山深い難所で、本尊は虚空蔵菩薩。ここは空海の『三教指帰』にも記された名刹で、「西の高野山」と称されています。わたしの生家から歩いておよそ2時間半か、3時間くらいの山頂にあります。ヒッピー僧であった空海は24歳の年に、ここと室戸岬で虚空蔵菩薩求聞持法という雑密の修行をしたのです。「ノウボウアカシャキャラバヤオンアリキャマリボリソワカ」という真言を100日間に100万遍唱える修行です。

 その真言を唱えていると、太龍嶽(太龍寺のこと)の「谷響きを惜しまず」というほどその真言が反響し満ち溢れた、と『三教指帰』に書いてあります。真言のシンフォニーに満たされる神秘体験を空海は持ったのでしょう。そして、空海は虚空蔵菩薩のアーカシャー年代記(虚空蔵記憶庫)に参入したのでしょう。

 今回、6・5キロ弱の鶴林寺のへんろ山道を歩いて、太龍寺まで行き、「やはり、歩くのと車で行くのとは大違いだな」と痛感しました。お遍路さんは弘法大師空海との「同行二人」という信仰によって支えられているのですが、その「同行二人」の寄り添い感覚は、歩かなければ絶対わかりませんね。

 実はわたしは大学3年から4年になる春休みに四国遍路88箇所を全部回っています。伯父とわたしたち男兄弟3人の合計4人で全部回ったのですが、そのときは自家用車でした。兄の運転で生家を出発し、まるまる8日間かかりました。全員全身白装束に身を包み、一寺一寺真言や般若心経を唱えながら回りましたが、しかし、そのときは車の入れない山の中のお寺以外は歩いてはいません。

 今回、部分的にではあれ、歩くことによって、四国遍路の一端を実感しました。わたしたちが歩いたのは、20番札所から21番札所までの道と、太龍寺山麓の駐車場までで、後は姉に運転してもらい車で回りました。22番札所の平等寺はわが生家から歩いてでも約30分のところにあり、本尊は薬師如来です。23番札所の薬王寺も、本尊は薬師如来。

 この薬王寺のある日和佐の大浜海岸は、海亀の産卵地としても有名で、大きすぎもせず、小さすぎもしないとてもいい砂浜があります。しかし、泳ぐには適さない浜で、そこは遠浅ではなく、少し沖に行くと、どーんと深く海底が切れ込み、落ち込んでいて、黒潮の激しい流れをもろ受けるのです。そんな危険水域なので、今は遊泳禁止海岸になっています。

 夕暮れ時の午後6時ごろ、4人でその大浜海岸に立ち、岬の突端に夕日が当たっているのを望み見て、どうしようもないほどとどめることのできないノスタルジーに浸り、どうしたのかと我ながら驚いてしまったほどです。パリ・セーヌ生まれのわたしでも、流されて育った、育ちの土地深い感化を受けているということでしょうか? 育ちの地の力を深く深く感じた次第です。

 薬王寺の前に、「あなんど」というカレー&チャイ屋&エスニックショップがあり、訪ねました。前日、徳島新聞の沢口記者と話をしていて、そこにフォト霊師の須田郡司さんの新著『日本の巨石——イワクラの世界』(発行:パレード、発売:星雲社、2008年1月刊)という写真集があると聞いていたからです。行くと、とても素敵な店で、徳島県にあるのがもったいないくらい、品々もよく選ばれていて、店主のセンスがよくうかがえました。「須田ぐんちゃんの写真集ありますか?」と聞くと、「売れ切れました!」とのこと。「じゃあ、早く補充してね〜」と頼みましたが、そこに訪ねてきている3人の男女が、突然、「薬王寺でほら貝を吹いていたでしょう?」とわたしに聞いてきたのです。薬王寺を参拝したときに、数人連れのニューエイジ系の若い男女がいたのが目に留まりましたが、それが彼らだったのです。

 「フンドシ学会の人が吹いたほら貝以外のほら貝を聞いたのは初めてです。とてもすてきでしたよ」と若い女性。「フンドシ学会の人知ってるの? 去年の6月1日の満月の夜に、土佐の足摺岬の唐人駄馬のアネモスで満月祭コンサートをしたのだけど、そのとき夜の12時に満月の下で1時間歌ったのだけど、『フンドシ族ロック』という歌を歌ったとき、フンドシ学会の人たち10人くらいがフンドシ姿で応援してくれたんですよ」などと、いっとき、フンドシの話で大いに盛り上がりました。彼らは吉野川市にいて、阿波国の祭祀一族の忌部氏のことを追求する忌部サミットを開いたとか。

 そして、なんと、わが『なんまいだー節』のCDも持っているとか!!! 日和佐の地で、わたしの『なんまいだー節』を持っている人に会うとは! これには、甥も義妹も姉も一様にびっくり。彼らでさえ、持ってないもんね〜。義妹は、「お兄さん、スゴーイ!」と尊敬のまなざし。鼻高々の「神道ソングライター」でありました。これも、お薬師さんかお地蔵さんか虚空蔵さんの功徳かな? おおきに!

 とにかく、そんなこんなのお遍路さんの不思議を体験し、われながら不可思議でアンビリーバブルだと思うわが人生は、まさにお遍路さんそのものだな、と深く感じ入ったのでした。そしてそのお遍路さんの出発点がわがセーヌでありまたわが母であったのだと手を合わせた一日とあいなりました。

 ところで、NPO法人東京自由大学の学長は、本年83歳になる東京大学名誉教授の著名な天文学者ですが、実は、Unno Shoolの総帥の海野先生は、子供の頃に、わたしが育った阿南市に住んでいたことがあり(もちろん戦前です)、そこの旧制富岡中学に2年間ほど在籍されて、その後校長先生をされていたお父上の転勤で、山梨県の都留中学校に転校したそうです。わたしの伯父(母の兄)も同じ頃、同じ中学に通っていたので顔見知りだったかもしれません(伯父はしかし、20歳ごろ、肺結核で夭折しました)。

 海野先生は、子供の頃、21番札所の太龍寺の次男坊と小学校で同級生だったそうです。その方は大変な悪ガキで、長じて、徳島の赤松組の組長となり、最近引退したとのことです。また海野先生が、23番札所の薬王寺のある日和佐小学校に転校したのは小学4年の時で、そこで、剣道やそろばんや『般若心経』をおぼえたとのことです。今は、青海亀の上陸する大浜海岸は水泳禁止となっていますが、海野先生の子供の頃はそこでよく泳いだそうで、浜の西側に松の木の生えた小さな美しい島で潜水してサザエを取り、悪ガキ仲間と浜で焼いて食ったら、生焼けのせいか、蕁麻疹を起こしたと聞きました。

 わたしの甥は、その海野先生の後輩に当たります。甥の指導教授は、坂上教授とかいう人で、宇宙物理学者らしいから海野先生のことはよく知っているはずです。甥はこの坂上教授の下で、京都大学大学院人間・環境学研究科の修士課程に進みますが、流体の中での生物の分布パターンの物理学的解析をするというのが、甥のやっている研究のようです。1ヶ月前には東京天文台で研修を受けたそうで、「天文台に行ったら、海野和三郎というえらい先生のことをよく聞いて来いよ。君の先輩やけんな」と言って送り出したのですが、シャイなやつなので、聞きそびれたそうです。残念〜!

 ともあれ、東京自由大学で、海野先生と時を越えて、お会いできるとは、『平家物語』の時代の前世からの因縁かもしれませんね。海野先生のご先祖は木曽義仲の家臣で、僧侶でもあり、平家物語の原作者の海野幸長という人です。おそらく、平治の乱で源義朝とともに殺されたわたしの先祖の鎌田正清のこともよく知っていたはずです。もしかしたら、顔見知りだったかもしれません、ホントに。歴史の因縁はフ・シ・ギです。

 この1ヶ月の間に、わたしは沖縄・久高島と天河に行きました。沖縄には1月22日から25日まで毎年恒例の授業「環境文化論・久高島」を実施するためで、天川には2月2日から4日までのこれまた恒例の「鬼の宿・節分祭・立春祭」での「天河護摩壇野焼き講」の参加、そして、2月10・11日の「地域文化演習・天川」の授業の実施のため。どこも寒くて、沖縄ではこんな寒い沖縄は初めてというくらい寒かったし、天川では2回とも大雪で新幹線も遅れました。今年は寒くて、雪が多いですね。諸行無常と異変を感じます。

 「久高オデッセイ」の監督大重潤一郎さんはとにかく大元気で、第2部の製作に取りかかっています。発見されていた肝臓癌が消えてしまうくらい元気です。不思議ですねえ。また、天河大弁財天社の柿坂神酒之祐宮司さんもお元気で、膝の持病は相変わらず悪いですが、本当に45名のわたしたち一行を快くお迎えしてくださいました。その細やかな心遣い、ホスピタリティにはほんとに頭が下がります。この25年、宮司さんの生き方と姿をよく見てきましたが、ほんとに凄い人だと敬服しています。彼はニンゲンじゃないですね。宇宙人ですわ! 何星人かな?

 海野先生も宇宙人だけど、この世には地球人と宇宙人地球人の2種類の人間がいますね。ムーンサルトレターなんていうものを30ヶ月も満月の夜に交換しつづけているわたしたちも宇宙人地球人の一人かもと思います。2月の末にはパリとダブリンに里帰りしたいと思っていましたが、お金も暇もないので、大宮と京都を往復しながら、セーヌやアイリッシュ海を思い出して、ホームシックを抑えることにします。

 わたしのモットーは昔から「楽しい世直し」ですが、それは人類が滅亡しようとしまいと続いていく宇宙の業だと思っています。何しろ、問題は地球環境だけではありませんからね。銀河意識も四次元も、いろいろ、ありますからね。滅亡は次なる世の始まりなのです。それでは次の満月の夜まで。オルボワール! ボン・ボヤッジ!

2008年2月20日 鎌田東二拝