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シンとトニーのムーンサルトレター 第060信

第60信 〜祝!ムーンサルトレター60回記念〜

鎌田東二ことTonyさんへ

Tonyさん、お怪我の具合はその後いかがですか? 那智の滝で足を骨折されたと知ったときは、たいへん驚きました。一人で滝行をされるのは危険ではないかと前々から思ってはいましたが、何はともあれ、ご無事で何よりでした。Tonyさんは、社会にとっても、わたしにとっても、とても大切な方ですので、くれぐれも無理はなさらないで下さいよ。一日も早い回復を心よりお祈りいたします。

さて、早いものでこの「ムーンサルトレター」が今回で60回目になりました。丸5年です。なんだか、あっという間でしたね!前任者である鏡リュウジさんの後を受けてお引き受けしたものの、最初は何を書いていいやら要領を得ませんでした。それがTonyさんのリードで、さまざまなテーマを縦横無尽に語らせていただきました。

それで、もう60回です。この記念すべき今回、ビッグニュースがあります。なんと、「ムーンサルトレター」の単行本化が決定したのです。版元は、水曜社さんという東京の新宿にある出版社です。東京大学名誉教授で明治大学特任教授の杉原厚吉氏の『大学教授という仕事』や、最近も『日本首相の所信表明演説』(みんなの選挙研究会編)などのユニークな話題の本を刊行されています。水曜社の社長である仙道弘生さんは、不思議な縁でわたしの父と旧知の仲でした。わたしも高校生の頃にお会いしたことがあったようです。今回久ぶりの再会でしたが、意外なドラマの展開に「縁」の不思議さを強く感じました。

さて、仙道さんに東京でお会いした翌日の14日、金沢に向いました。わたしは、北陸大学未来創造学部で客員教授として、前期は「孔子研究」を教えています。その日は、前期最後の授業を行いました。テーマは「孔子の後継者たち」です。まず、孟子、荀子、朱子、王陽明といった中国における儒教の超大物4人について取り上げました。孟子の「性善説」や「王道政治」、「浩然の気」、荀子の「性悪説」、朱子の「理気説」「性即理」、王陽明の「心即理」、「知行合一」、「致良知」などの儒教における重要思想についても説明しました。ものすごく大切なことを、魂を込めて教えました。

とにかく、今日の講義はこれまでの客員教授人生(といっても2年半ですが)の中でも、最高の講義でした。なにしろ、まったく私語がありませんでした。300名もの学生が一言も私語を発しないので異様な集中力が生まれました。その結果、この上なく充実した講義となったのです。それもそのはず、講義の直後には試験を行ったのです。真剣に講義を聴き、ノートを取らないと答案が書けない記述式の試験を行いました。試験は自筆のノートのみ持込可で、コピーは一切持ち込みを認めていません。また、電子辞書の持ち込みを禁止しました。約140名の中国人留学生には酷だったかもしれません。しかし、留学生のほとんどは見事な日本語で答案を書いていました。

それを見ていると、深い感動が湧いてきました。彼らは、まだ1年生です。ほんの数ヶ月前に中国から日本にやって来て、一生懸命に日本語をおぼえ、日本人であるわたしから孔子の思想を学んでいる。これが逆だとして、中国に留学した日本人の1年生が中国語で試験の答案が書けるかといったら、まず書けないでしょう。改めて、中国人の優秀さを痛感しました。彼らの頭脳と勤勉さがあれば、中国は必ずや世界の超大国としてアメリカと張り合うことができるでしょう。

さて、中国人と試験といえば、かつて「科挙」というものがありました。科挙は、中国で行われていた公務員採用資格試験ですが、唐代・宋代でほぼ完成しました。清代に廃止されるまで、1000年以上も行われました。宋代以降に文治主義が確立した中華帝国にあって、科挙こそが立身出世の第一の道であり、現代の受験など遠く及ばない重みを持っていました。膨大な知識を記憶して、それを完璧に答案として書くことが求められたのです。そして、その主題内容は、ずばり儒教に関する問題でした。正しくは、『大学』『中庸』『論語』『孟子』の四書が中心だったのです。

今日の試験では、まさに四書の内容が出題されました。つまり、日本の金沢で伝説の「科挙」試験が再現されたようなものです。真剣な形相で答案用紙に向かい、一心不乱にペンを走らせる学生たちの後姿を見て、わたしの胸は熱くなりました。この300人は、みんな、わたしの教え子です。そこには日本人も中国人もありません。そう、「人の道」に国境はないのです!試験終了後に回収された膨大な答案用紙には、「礼」とか「王道」とか「知行合一」といった文字がたくさん踊っていました。

話はがらっと変わりますが、映画「借りぐらしのアリエッティ」を観ました。宮崎駿が率いるスタジオ・ジブリの待望の最新作ですね。メアリー・ノートンの名作ファンタジー『床下の小人たち』を下敷きにしたアニメです。ラストが切なくて、泣けました。アニメを観て泣いたのは「となりのトトロ」以来です。

古い邸宅の床下に暮らす小人の一家の物語です。14歳の少女アリエッティは両親との3人家族で、生活に必要なものは床の上の人間から借りてくる「借りぐらし」をしています。舞台となった東京都小金井市の古びた洋館とその庭が、わたしが住んでいる超ボロ家の雰囲気とそっくりだったので、思わず最初から感情移入してしまいました。家の内部の描写も細かいですが、とにかく庭の描写が素晴らしい!こんなに庭というものを美しく描いたアニメは他に存在しないのでは?

そして、なぜか、床の上の人間よりも床の下の小人たちに感情移入しました。小人たちがとにかく可愛いのです。その可愛いものが、一生懸命に生きているのです。角砂糖1個、ティッシュペーパー1枚を拝借するにも命がけの姿には、なんだか美しささえ感じてきます。「ちひさきものはみなうつくし」と書いたのは、『枕草子』の清少納言ですね。人間の食べ物を拝借する小人の物語は、小学校のときの国語の教科書にもあったように記憶しています。たしか、「チックとタック」というお話でした。

この映画を観て、いろいろなことを考えました。まず、小人が人間から借りぐらししているというけれど、人間だって借りぐらしをしている存在であるということ。もともと土地や資源は、誰のものでもありません。いわば地球のものです。人間は地球から借りぐらししているに過ぎないのです。

それから、アリエッティたち小人族は絶滅の危機に瀕しています。人間の少年である翔は、「君たちは滅びゆく種族なんだよ。・・・・・君はこの世界にどのくらいの人間がいるか知ってる?67億人だよ」と言います。それに対して、小人はもう数人しか残っていないかもしれません。でも、アリエッティは「私たちは、そう簡単に滅びたりしないわ!」と叫ぶのです。この魂の叫びは、小人族だけの叫びではありません。あらゆる環境破壊の影響によって、この地球上で滅びつつあるすべての生命種たちの代弁となっています。

翔は心臓を病んでいて、もうすぐ手術を受ける少年です。その彼は、アリエッティに「君たちは滅びゆく種族なんだよ」などと心ない言葉を浴びせたことを詫び、「君たちより、僕のほうが先にいなくなるかもしれないね」と言います。そう、いくら67億人の人間がいたとしても、翔はたったの1人です。「死ぬときは、いつだって1人」という事実を示す、しんみりとするシーンでした。

また、アリエッティは自分たち家族以外にはもう小人はいないのかもしれないと不安に思いますが、ある日、小人の少年であるスピラーと出会い、とても喜びます。スピラーの容姿は、どう見ても、人間でいえばネイティブな先住民族です。顔にまじないの模様まで描かれています。一方、アリエッティは白人です。おそらくは原作者と同じイギリス人の小人でしょう。それでも、アリエッティはスピラーと出会ったことを心の底から喜びます。物語の最後は、アリエッティとスピラーが一緒にヤカンで川を下って行くシーンです。もしかして、この2人が小人族で最後の2人になる可能性だって高いのです。そうなれば、二人は結ばれて、子孫を作らなければなりません。白人だネイティブだなどといった人種間の問題など吹っ飛んでしまいます。これは、小人のみならず、人間の場合でも同じことで、人種差別など本当に下らないことであるという作者のメッセージが伝わってきました。差別などしていたら、その種は極限状態において生き残っていけないのです。

そして、わたしは「小人とは何か」と考えました。一般に「妖精」がその正体ではないかとされています。「借りぐらしのアリエッティ」の原作はイギリスの物語ですが、ケルト民話の影響で、イギリスには妖精を信じている人が多いとか。あのコナン・ドイルでさえ、妖精写真というものを信じたほどです。妖精はこの世に実在すると考え方もあります。それを見ることができるのは、幻視者と呼ばれる人々です。日本でも、宮沢賢治などは妖精を見たという逸話が残っています。関係者の証言によれば、賢治が木や草や花の精を見たとか、早池峰山で読経する僧侶の亡霊を見たとか、賢治が乗ったトラックを崖から落とそうとした妖精を見たとか、そういったおどろくべきエピソードがたくさん残されています。

最近の日本では、「小さいおじさん」という都市伝説が流行しています。おそらくは街の妖精ではないかと思われる、体長10センチぐらいの小さいおじさんを目撃したという人々が多く現われているのです。特に芸能人の目撃者が多いようです。松本人志、渡辺徹、釈由美子、平山あや、中島美嘉、柳原可南子、森久美子、伊集院光、的場浩二、さらにはV6の岡田准一、TOKIOの長瀬智也といった人々も目撃体験談を話しています。松本人志は、「ちっちゃいおっさん」と表現していました。小さいおじさんを撮影したという写真なども大きな話題になっています。小さいおじさんは神社にもよく出るらしく、東京都杉並区の大宮八幡宮が名所だとか。

わたしは、小人や妖精というものを見たことはありません。小人や妖精がいるかどうかも知りません。でも、いたほうが楽しいなとは思います。だって、そのほうが世界は何倍も豊かになると思いませんか?わが家の床下にも、小人たちが住んでいれば楽しいですね。

Tonyさんは、子どもの頃に鬼を見られていたそうですが、小人や妖精や小さいおじさんは見たことがありますか?また、それらは実在すると思われますか?これからも、「ムーンサルトレター」で、こんなとりとめのないことを自由に語り合えていければ幸せです。

いま、東京のホテルの一室でこのレターを書いています。明日、大塚のホテルベルクラッシック東京において、「孤独死に学ぶ互助会の使命(ミッション)」という演題で講演を行うのです。冠婚葬祭互助会の全国団体である(社)全互協の総会イベントとして開催されます。全国の互助会経営者の方々の前で、「無縁社会」を乗り越えるために何をすべきかについてお話したいと考えています。これも「天下布礼」の務めだと思っています。

東京、大宮、京都、金沢、小倉、そして沖縄と、わたしたちの現在地は離れていても、いずれの地の夜空にも満月が上りました。この「ムーンサルトレター」によってTonyさんと60回も心の交信ができたことを心より嬉しく思います。Tonyさん、今後ともよろしくお願いいたします。猛暑が続いていますが、くれぐれも御自愛下さい。

それでは、次の満月まで、オルボワール!

2010年7月26日 一条真也

一条真也ことShinさんへ

今日、利尻富士に登りました。北海道の西北の離島の利尻島に来ていて、今日、その島の中心をなす日本百名山の一つの利尻山に登りました。すばらしいお天気で、眺望も参拝も最高でした。NPO法人東京自由大学の夏合宿で苫小牧、小樽、神威岬、利尻・礼文島、宗谷岬と来ていて、明日、宗谷岬に行きます。苫小牧、小樽では、音楽家のあがた森魚さんといっしょでした。今回は、前半の合宿講師をあがた森魚さんにお願いしたのです。

東京自由大学では、昨年の10月の「アートシーン21」で、あがたさんに出演していただきました。あがた森魚といえば、誰しも1972年に大ヒットした曲「赤色エレジー」を思い浮かべると思いますが、それ以外にも大変面白くよい曲を何曲も作詞作曲して歌われていて、わたしは「佐藤敬子先生はザンコクな人でした」とか「つむじ風」などの曲が大好きです。

とりわけ、前者はあがたさんの神話=古事記といえるほどの伝説の名曲です。あがたさんは北海道の留萌に生まれ、2歳までそこで育ち、その後お父さんの仕事の関係で小樽に移り、小学校3年生まで過ごしました。そこで入船小学校の1年から3年までの間担任をしてくれた、若い美しい女の先生・佐藤敬子先生に出逢ったのです。

佐藤敬子先生はあがたさんにとって、おそらくあこがれや淡い恋心の対象となったマドンナ的先生だったのでしょうね。その佐藤敬子先生がネモ船長の話をしてくれ、海底2万マイルの世界で暴れまわる潜水艦のストーリーにあがたさんは神話の原型を見たのでしょう。ネモ船長は、たぶん、スサノヲのような存在だったのでしょう。

あがたさんはその後、青森に移り、中学・高校時代は函館、そして大学は東京と移動し、大学卒業直後くらいでしょうか、「赤色エレジー」の大ヒットで一躍音楽家として注目されていくのです。

わたしとの共通点は、1970年ごろ、ジャックスのリーダーだったシンガーソングライターの早川義男に会いに行って、彼の前で歌を歌ったこと。わたしも早川義男が好きで、特に彼の作詞作曲した「からっぽの世界」はわたしにとって聖書のような歌で、わたしは「見つめる前に飛んでみようじゃないか」というフレーズで始まる「ロールオーバー 由良の介」という歌を、わたしが作演出した神話劇「ロックンロール神話考」で使わせてほしいと頼みに行ったのが、1970年3月のことだったと思います。そして上演は、同年5月。1ヶ月間のロングランでした(?)。

もう一つの共通点は、ふたりとも、イナガキタルホが大好きだということ。あがたさんにはタルホからイメージした曲が何曲もあり、わたしは1972年2月に直接京都伏見桃山のタルホの家に押しかけて、1時間以上も剣菱を飲みながら、葉巻をもらって吸いながら、話をしたのでした。もちろん、初対面で。こんなことをできるのも、無謀で、無鉄砲な若さゆえでしょうね。そんな、無謀で無鉄砲さは今も変わりませんが。

その無謀と無鉄砲さが、7月7日、那智の二の滝に一人で行こうとして、5メートルほど崖から滑落して、左膝の軟骨を圧迫骨折するという事故につながりました。しかし同時に、その無謀と無鉄砲さがなければ、怪我を押して、その後、二の滝に泳いで入り、滝に打たれることができたという、わたしにとっては奇跡的な僥倖はなかったのです(詳しくは、「モノ学・感覚価値研究会」のHPの「研究問答」欄の「東山修験道その75」をご笑覧ください)。

Shinさんのお見舞いの言葉は大変ありがたく、うれしく思いますが、たぶん、この性格は一生直らないと思います。こんなアホでバカなことをやらかしてしまうのが、わたしの一生でしょう。「神道ソングライター」とか、「フリーランス神主」とか。人が笑って、「はあ〜?」と首をかしげるようなことをやらかしてしまうのが。

ともあれ、そんな自分の性分がなければ、今日の利尻山登拝もなかったと思います。今回の、NPO法人東京自由大学の夏合宿テーマは、「宮沢賢治最北の旅」でした。24歳で妹のとし子を亡くして悲嘆の中にいた賢治は大正12年(1923)8月初めに北海道に来ました。

そして、その旅の中で、「青森挽歌」「宗谷挽歌」「オホーツク挽歌」を作っています。最愛の妹とし子を喪い、悲しみと追憶を抱いた賢治はひたすら北上し、今日、8月2日には稚内と宗谷岬に至って、「宗谷挽歌」を作っているのです。そして、8月4日には「オホーツク挽歌」を作っています。

わたしは、10年ほど前に、旭川でシンポジウムをした後、一人で宗谷岬に来ました。もちろん、賢治の旅を確認してみたかったから、追体験してみたかったからです。賢治はその時、確か、樺太まで行っていると思いますが、わたしは樺太には渡れないので、代わりに稚内で宿泊して利尻島にやってきて、島内を一周しました。島の中心に「利尻富士」と呼ばれる利尻山が聳え、ランドマークのように、島内のどこからも、また四海のどこからもそれを望見することができるのでした。その姿は神々しく、厳かで、鋭く、怖いほどの孤高を湛えています。

その時は、時間の関係で、利尻山に登ることはできませんでしたが、今回の合宿の旅ではどうしてもこの山に登拝したかったのです。前は利尻神社参拝だけでしたからね。今回は山頂に鎮座する利尻神社の奥宮にお参りしたかったのです。

天気は快晴。言うこと無し。礼文島が眼下に望み見え、朝5時20分、3合目から、わたしを入れて参加者5名で上り始めました。8・3合目の避難小屋のところで、他のみんなは体調などあり、そこからゆっくりと山を下りました。わたしは、そこから一人で頂上を目指しました。左膝を骨折しているので、杖をつきながら、慎重に進みましたので、普段の倍以上の時間がかかりましたが、こころは軽々と浮き立っていました。

山頂の奥宮で大祓詞を奏上し、横笛と法螺貝を奉奏しました。終わると、午前11時でした。そこでお昼をいただきました。おにぎり2個。そのとき、雲間越しに太陽が見え、すっぽりと綿のような白い雲のドームに包まれて、まるで母親の胎内にいるような気分でした。

快晴だったらおそらく暑くてたまらずすぐ下山していただろうし、また強風だったら、いたたまれずにすぐざまこれまた下山していたでしょう。しかし、幸いなことに、雲の傘に包まれていて、ほんとうにぽかぽかと暖かく、これほどあったかい山頂体験はないくらいに心地よかったのです。しかも、お弁当を広げた足の先には高山植物が咲き乱れ、周囲はぐるりと花園のように包まれているのでした。山頂のお花畑で、お昼と食べる。なんて、贅沢なひとときだったでしょう!

そんな贅沢を味わうことができたのも、ひとえにわが無謀と無鉄砲のおかげです。しかし、そのせいで、下山途中では5〜6回も大転倒して、大変でしたがね。左膝を無意識にかばっているので、どうしても重心が後ろに引き、右足だけにかかってしまうのですが、そこに石や砂などがあって、バランスを崩すと途端に後ろにひっくり返るのです。わかっていても、そうなるのですね、怪我をしているときって。

でもまあ、そんな中でも、しあわせでした。とても。念願がかなって、利尻富士の御神体をお参りすることができたのですから。このありがたさは筆舌に尽くせません。

今回は、ムーンサルトレターの60回目の記念業となりますが、その時、こんな利尻富士体験を書くことができて、ありがたく思います。これからも60回といわず、60年、ムーンサルトレターを続けましょう! 今生のいのちあるかぎり。いや、来世までも。

では、ごきげんよう。オルボワール!

2010年8月2日 利尻島の旅館夕陽にて 鎌田東二拝