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シンとトニーのムーンサルトレター 第061信

第61信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、お元気ですか?毎日、本当に暑いですね。これほどの猛暑は、今までのわたしの記憶にはないです。しかしながら、気温の高さとは逆に、この夏、わたしの心が凍りつくような悲惨な二つの事件が相次ぎました。

 一つは、大阪市西区に住む23歳の女性が、3歳の長女と1歳の長男を自宅マンションに置き去りにし、衰弱死させたという事件です。母親のネグレクト(育児放棄)が問題だといわれていますが、母親は当初、熱心に子育てをしていました。ところが離婚をきっかけに風俗店で働きはじめ、そのうちに子どもの存在を疎ましく感じた末の事件だそうです。

 若い母親は親に相談することもなく、社会に頼ることなく、子どもを邪魔者として排除するという最悪の道を選んでしまったのです。母親はけっして初めからネグレクトであったわけではありません。数年前なら、娘が親に子どもを預けて都会で働く、あるいは施設に預ける。そんな選択によって、子どもたちの命は救われていたことでしょう。

 もう一つは、東京都足立区において、生存していれば111歳となる男性の白骨死体が発見された事件です。その後、連日のように全国の自治体などの公共機関において表彰対象となる高齢者の行方不明事例が相次いで報道されています。

 子どもが死ぬことがわかっていながら、家族にも、社会にも頼らず死なせてしまう親の存在、自分の親の生死さえもわからずに生きている子どもたちの存在・・・いま、日本がわたしの想像を超える地獄と化してきたように思います。

 わたしは、柳田國男のことを思いました。柳田の名著『先祖の話』は、敗戦の色濃い昭和20年春に書かれました。柳田は、連日の空襲警報を聞きながら、戦死した多くの若者の魂の行方を想って、『先祖の話』を書いたといいます。日本民俗学の父である柳田の祖先観の到達点です。柳田がもっとも危惧し恐れたのは、敗戦後の日本社会の変遷でした。具体的に言えば、明治維新以後の急速な近代化に加えて、日本史上初めてとなる敗戦によって、日本人の「こころ」が分断されてズタズタになることでした。

 柳田の危惧は、それから60余年を経て、現実のものとなりました。日本人の自殺、孤独死、無縁死が激増し、通夜も告別式もせずに火葬場に直行するという「直葬」も増えています。家族の絆はドロドロに溶け出し、「血縁」も「地縁」もなくなりつつあります。そして、日本社会は「無縁社会」と呼ばれるまでになりました。この「無縁社会」の到来こそ、柳田がもっとも恐れていたものだったのではないでしょうか。

 いま、柳国國男のメッセージを再びとらえ直し、「血縁」の重要性を訴える必要がある。わたしはそのように痛感し、このたび現代版『先祖の話』を書き下ろしました。タイトルを『ご先祖さまとのつきあい方』として、9月14日に双葉新書より上梓いたします。

 晩年の柳田の視点は、日本人の原点ともいえる沖縄へと向かい、名著『海上への道』を著しました。柳田とともに「日本人とは何か」を追求し、日本民俗学を創りあげた折口信夫も、最後は沖縄を見つめていたといいます。やはり、「無縁社会」を「有縁社会」へと変える鍵は、日本で最も先祖とくらしている沖縄にあるようです。わたしの著書でも、日本人が魂の原郷である沖縄に復帰すること、すなわち「沖縄復帰」を唱えています。

 そして、いま、わたしは「先祖」に続いて「隣人」についての著書を執筆中です。毎日のように、新聞には100歳以上の高齢者の所在不明に関する記事が出ており、まさに老人大国が揺れに揺れています。本来、高齢者の安否確認は家族、親族といった血縁者の責任でした。その血縁が希薄化した今、その役割は同じ地域に住む地縁者、つまり隣人に課せられていると思います。その意味でも、わが社が開催をサポートしてきた「隣人祭り」の重要性が高まっています。地域に住む高齢者とその他の住人たちを、ぜひ「隣人祭り」で顔合わせすればよいと思います。新聞の見出しには「大都市圏ほど把握困難」とありましたが、ならば大都市圏であればあるほど、「隣人祭り」を活発に開催すべきです。

 人間には、家族や親族の「血縁」をはじめ、地域の縁である「地縁」、学校や同窓生の縁である「学縁」、職場の縁である「職縁」、趣味の縁である「好縁」、信仰やボランティアなどの縁である「道縁」といったさまざまな縁があります。

 わたしは思うのですが、その中でも「地縁」こそは究極の縁ではないでしょうか。なぜなら、ある人の血縁が絶えてしまうことは多々あります。かつての東京大空襲の直後なども、天涯孤独となった人々がたくさんいたそうです。また、「学縁」「職縁」「好縁」「道縁」がない人というのも、じゅうぶん想定できます。

 しかし、「地縁」がまったくない人というのは基本的に存在しません。なぜなら、人間は生きている限り、地上のどこかに住まなければいけないからです。地上に住んでいない人というのは、いわゆる「幽霊」だからです。そして、どこかに住んでいれば、必ず隣人というものは存在するからです。それこそ、「地球最後の人類」にでもならない限りは。

 わたしは、高齢者の安否確認は、地域住民の役割だと思います。わが社の営業エリアでもある宮崎県延岡市では、独居老人は毎朝、自宅の玄関先に黄色いハンカチを掲げます。それを地域の人々が見て、安否確認をするのです。ハンカチが掲げてあれば、「今日も元気だな」と安心します。掲げていなければ、「何かあったのでは?」と思って、すぐに駆けつけるのです。映画「幸せの黄色いハンカチ」から着想を得た素晴らしいアイデアだと思います。今後、独居老人と地域とをつなぐ「隣人祭り」の重要性は高まるばかりです。

 全国には、まだまだ100歳以上の所在不明者が多くいると思います。わが社のような冠婚葬祭互助会の会員さんも高齢者の方が多いですし、所在不明会員の問題は業界にとっても最重要問題だと思っています。所在不明者の多くは、100歳以上とまでいかなくても一人暮らしの、いわゆる「独居老人」が多いようです。

 ところで、大阪市西区の幼児置き去り死事件の話に戻りますが、新聞各紙には育児放棄の原因となった母子家庭などの「一人親」を孤立させてはならないと書かれていました。まったく、その通りだと思います。「一人親」の孤立も、「独居老人」の孤立も日本が抱える深刻な問題です。

 わたしは、この2つの難問をドッキングさせれば、意外と解決案のヒントがあるのではないかと思いました。まず、「孤立」が問題ならば、孤立しているもの同士を「結合」するというのは常識的な考え方だと思います。わが社がサポートしている「隣人祭り」の目的の一つに、「相互扶助の関係をつくる(子どもが急に病気になったが仕事で休めないとき、預かってもらう環境をつくるなど)」というものがあります。わたしは、じつは独居老人と一人親の縁組みができないかと考えています。というのは、独居老人にとっては一人親の母親あるいは父親に安否確認してもらう、一人親家庭にとっては子どもをいざという時に預かってもらう、そういう相互扶助の関係を作るのです。

 よく、娘が育児放棄した孫を育てている高齢者などがいます。わたしは、血縁に限らず、広く地域社会においても相互扶助の関係を築き上げることはできないかと考えています。

 もちろん、独居老人といっても100歳以上のような高齢者に他人の子どもを預かることは困難でしょうし、現実的には他にも難問が山積みしていることはわかります。しかし、このまま「困った、困った」とつぶやいていても、事態は何も好転しません。可能性の一つとして行政が取り組んでみる価値は大いにあると思います。

 いずれにしろ、昨今の高齢者不明問題、そして幼児置き去り死事件は同根であると思います。柳田國男が恐れていた無縁社会の到来による、血縁と地縁の崩壊。そして、日本人の「こころ」の崩壊。そして、最近脱稿した『ご先祖さまとのつきあい方』の内容を思い浮かべました。一般に、日本人は世界的に見ても子どもを大切にする民族だとされてきましたが、それは先祖を大切にする心とつながっていました。

 柳田國男は『先祖の話』で、輪廻転生の思想が入ってくる以前の日本にも生まれ変わりの思想があったと説いています。そして、柳田は、その特色を3つあげています。第1に、日本の生まれ変わりは仏教が説くような六道輪廻ではなく、あくまで人間から人間への生まれ変わりであること。第2に、魂が若返るためにこの世に生まれ変わって働くという、魂を若くする思想があること。第3に、生まれ変わる場合は、必ず同じ氏族か血筋の子孫に生まれ変わるということ。柳田は「祖父が孫に生まれてくるということが通則であった時代もあった」と述べ、そういった時代の名残として、家の主人の通称を一代おきに同じにする風習があることも指摘しています。この柳田の先祖論について、Tonyさんは著書『翁童論』(新曜社)で次のように述べられています。

 「この柳田のいう『祖父が孫に生まれてくる』という思想は、いいかえると、子どもこそが先祖であるという考え方にほかならない。『七歳までは神の内』という日本人の子ども観は、童こそが翁を魂の面影として宿しているという、日本人の人間観や死生観を表わしているのではなかろうか。柳田國男は、日本人の子どもを大切にするという感覚の根底には、遠い先祖の霊が子どもの中に立ち返って宿っているという考え方があったのではないかと推測しているが、注目すべき見解であろう」

 子どもとは先祖である。いや、子どもこそが先祖である! この驚くべき発想をかつての日本人は常識として持っていたという事実そのものが驚きです。しかし、本当は驚くことなど何もないのかもしれません。自分自身が死んだことを想像してみたとき、生まれ変わることができるなら、そして新しい人生を自分で選ぶことができるなら、見ず知らずの赤の他人を親として選ぶよりも、愛すべきわが子孫の子として再生したいと思う。これは当たり前の人情というものではないでしょうか。いま、わたしが死んだとしたら、2人いる娘のどちらかの胎内に宿る確率は非常に高いように思います。

 子どもを大切にするということは、先祖を大切にするということです。そして、先祖とは何か。それは、未来の自分です。つまり、かつてTonyさんが言われたように、先祖供養とは自分供養であり、子孫供養でもあるのですね。この、いわば「魂のエコロジー」を失ってしまったことに、現代の日本社会の不幸があるように思えてなりません。今こそ、よみがえれ、翁童思想による魂のエコロジー!それでは、Tonyさん、次の満月まで、オルボワール!

2010年8月25日 一条真也拝

Shinこと一条真也様へ

 Shinさん、確かにこの暑さは異常ですね。わたしも59年生きてきて、この夏が一番暑いと思います。昨日、東京に来ていて、国立博物館の「中国文明の誕生」をじっくりと観賞したのですが、東京でタクシーに乗った際、わたしとほぼ同年齢くらいに見える運転手さんが、「わたしはけっこう夏は好きなんですけどね。でも、今年の夏は、そんな夏好きのわたしでも『生命の危機』を感じるくらい暑いですね。ちょっと、こわいくらい」と言っていましたが、まったく同感です。知り合いの一人は、さらに怖いですが、「殺意を抱きたくなるような暑さ」と、この夏の暑さを表現していました。この凄まじい猛暑は、地球のメッセージではないかと思います。

 つい先ごろ、天河大辨財天社発行の「天河太々神楽講社通信第12号」に、「天気と天機と転機」という題のエッセイを書きました。そこでわたしは、この夏の「異常気象」について触れました。わたしは、「平成」時代になってから「兵政」時代だとか「兵制」時代だとか、語呂合わせ的にこの時代の「乱世」的状況の到来を予告し続けてきましたが、その「乱世」の特徴は「天変地異」が相次いで、人間が翻弄されるということです。まさに、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という『平家物語』や、「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」という鴨長明の『方丈記』的な無常思想の具現化時代の到来です。

 その時代は、別名、Shinさんが指摘されるとおり、「地獄の思想」が口を開けている時代でもあります。まさに、「地獄の釜の蓋が開いた」時代。それが21世紀平成時代です。それをわたしは20年以上前から「現代大中世時代」と言ってきました。中世的な時代状況と問題状況が螺旋構造的に拡大間歇遺伝的に発現してきた時代といえるでしょう。

 ともかく、その天河の講社通信のエッセイで、この夏の異常気象例をいくつか挙げました。まず第一に、一番身近なところから。

 わたしの住んでいる京都左京区に屏風のように聳え立つ東山連峰に、カシナガキクイムシによるナラ枯れが異常発生したのです。ブナ科のコナラ、ミズナラ、クヌギの大木が、この夏、一挙に大量枯死し、東山連峰は一瞬目には紅葉かと思うような緑と茶色の斑風景となっています。

 京都大学理学部植物園でも十数本、京大すぐ東の吉田山でも60本ほどのナラ類が枯れています。そのいくつかを見に行きましたが、樹幹から塩を吹き出したようになっており、その根元にはキクイムシの食い荒らした木屑のような残骸が大量に落ちていました。

 枯死してしまったこれらのナラ類からは新芽は出てきません。このまま行けば、数年のうちに、山紫水明の麗しい京都の山々は、虫食い状態から禿山になってしまうのでしょうか。もちろん、生態系のめぐりの中では主木が遷移するだけともいえるでしょう。ナラに変わって、他の樹木や草木が繁殖してくることでしょう。しかし、そうだとしても、その森に生息していた虫や鳥や哺乳類などの動物相が、この激烈で超高速の変化に対して、どんなリアクションをしてくるのでしょうか。生態学者や動物学者に聞いてみるつもりですが、この変化は予想を超える破局的変化の予兆にすぎないのではないかとも思えます。

 先日、8月16日の夜8時、京都の風物詩である「五山の送り火」が行われました。しかし今年は、枯れたナラの木に延焼する危険があるとのことで、観光客の大文字山(如意ヶ岳)入山が禁止になりました。

 このナラ枯れは20年ほど前から京都府北部や福井県などの日本海側から広がり始め、今や近畿一円、北陸・山陰・東海地方にも広がってきたとのことです。京都の花背など、北山の方にはナラ枯れは迫っていたそうですが、それがこの夏、一挙に東山連峰や西山まで大津波のように押し寄せたのです。

 ロシアやポルトガルやスペインでも40度を越す猛暑で森林が自然発火して山火事となりました。ロシアの旱魃や山火事での農産物の被害総額はおおよそ1000億円といいます。これを世界的に見れば、何兆円もの被害がこの夏に発生したといえるでしょう。経済だけでなく、人への被害も大きく、何万人もの方々が亡くなっています。中国甘粛省甘南チベット自治州の洪水・土石流の被害、北朝鮮の洪水被害。日本での熱中症。

 6〜7月には、日本でも豪雨で洪水や土砂崩れが九州を始め、各地で続発しましたね。京都では集中豪雨により鴨川の水位が急激に上がり、先斗町の床すれすれまで迫っていました。そんな鴨川を見たのはわたしも初めてでしたが、80歳を越すおばあさんも、「あたしゃあ生まれて初めてこんなに荒れた鴨川を見ました」と報道されていました。

 1970年6月に、わたしは大阪の心斎橋で、「ロックンロール神話考」という自作のアングラ・ロックミュージカル風の芝居を1ヶ月間上演しました。その冒頭で、「みなさん、天気が死にました」と告げる狂言回し役の天気予報官が登場します。これはもともと、若山出身の知人の詩の言葉だったのですが、それを借りて、「天気の死」から始まる世界の、神代からのイザナギ・イザナミの「子ども探し」の旅と、現代からの少年少女探偵団の「まことの親探し」の旅が交錯して時空融合分裂しながら、人類が絶滅するけれども、ある超越的な力がはたらいて甦るかもしれないという予感が示されたところで芝居が終了し、そして暗転した中で、わたしが「見つめる前に飛んでみようじゃないか」というフレーズで始まるJACSの歌を歌って幕を閉じるというものでした。

 60年代の終わりに、わたしは末法というか、終末を意識していました。「みなさん、天気が死にました」というのは、それまでのあらゆる「秩序」がリセット不能な状態に陥って、その中でわたしたちはどう生きるのか、どのように神代からの先祖代々の流れを受け止めながら次代につなげていくことができるのか、という問いでもありました。でもその時に、わたしの中では「絶滅」というか、「滅亡」というか、1回、そのようなリセット不能な状態が訪れるのではないかという漠たる予感があり、それがずっと今日今もわたしの中に底流しつづけていると思います。

 こんな、「天気」が「転機」を迎えている時代を「天機」として捉えて、新しい時代のヴィジョンとライフスタイルを提示することができるでしょうか。「これまでの生き方を変えろ!」という地球自然界からのメッセージに、大量生産と大量消費の資本主義的産業文明・消費生活のあり方をどう変えることができるでしょうか?

 もう後はないところまで来ている、わたしにはそう思えます。この時、わたしたち自身が変わらなければならない、そう思います。

 Shinさんにも見てもらったように、天河に、2009年秋にわれらの義兄弟の近藤高弘さんが設計した「世界一美しい窯」が完成しました。その「天河火間」と、伊豆大島での野焼きワークに始まる「天河護摩壇野焼き講」のこの間の15年間の軌跡を、近藤高弘さんとの共著『火・水(KAMI)——新しい死生学への挑戦』(晃洋書房、2010年9月22日刊行予定)にまとめました。今日、再校が出たところで、9月22日に天河で行う第2回目の「天河火間」の火入れ式にぜひ間に合わせたいと必死で校正をしているところです。

 その中に、Shinさんが『葬式は必要!』(双葉新書)の中で紹介してくれた「解器(ホドキ)ワーク」のことも詳しく書きました。この現代の自他の骨壷づくりを「ホドキワーク」として進めるわたしたちの活動は一つの「死生学的実践」であると思っています。それは、末法や終末とも言える「現代大中世時代」を生き抜いていくための一つの模索であり、実践事例です。ぜひこの本を周りの方々に紹介してほしいと思います。

 Shinさんも次著『ご先祖さまとのつきあい方』をまもなく上梓するのですね。わたしたち、世直し・心直し義兄弟は、この激動の時代を愚直三兄弟として、人に何と思われようとも、少しでも世のため人のため、すべての生きとし生けるもの、存在するすべてのモノたちのためになるようなことをして死んで生きたいですね。

 今年は、柳田國男が『石神問答』や『遠野物語』や『時代ト農政』などの本を出版して100年の年になります。「白樺派」結成100年でもあり、日韓併合100年でもあり、大逆事件100年でもあり、東京帝国大学心理学助教授の福来友吉の千里眼(透視)や念写実験100年でもあります。そして、何よりも、ハレー彗星到来100年であります。その「ハレー彗星インパクト」の時代の地球史的危機の自覚の芽生えのことなども含め、『神奈川大学評論第66号』(神奈川大学、2010年7月刊)に、「1910年と柳田國男と『遠野物語』」を題する論考を寄稿しました。機会があればぜひ読んでみてください。『神奈川大学評論』の特集は「民俗学と歴史学」で、吉本隆明もインタビューに答えていて、元気な姿を見せていますよ。

 Shinさんが指摘してくれたとおり、わたしは1970年代の終わりから「翁童論」というコンセプトやイメージを伝統社会の思想文化でありながら未来社会のヴィジョンともなるものと考えて、『翁童論』4部作(新曜社)を世に問うてきました。それは、わたしなりの、世直し・心直しのヴィジョンの発信でした。子どもと老人をうまくリンクさせ、サイクル(つなぎ・環をつくること)させること、それがいのちと社会の行き詰まりを打開する生命サイクルだと信じてきましたし、今でもそう思っています。

 しかし、それを個人としても社会としても実践し構造化し制度化していくことは簡単ではありません。わたしも「マスオさん」として、妻の両親と3世代家族を十数年営みました。その中で、介護の問題にも直面してきました。この「介護」も、ほんとうに、簡単ではありません。子どもと老人をつなぐには、たいへんな底力とサポート体制が必要だとしんそこ思います。

 そこに、中間社会の媒介項として、Shinさんが経営しているような「互助会」組織や、わたしたちがNPO法人東京自由大学としてやっている「NPO」組織などの、公共性のある中間者的・媒介者的活動が重要な意味と役割を持ってくると思います。財団法人天河文化財団などの「財団」や「社団法人」もそうです。それらの団体や機関が持っている本来の「互助性・協働性」をどう実現させていくことができるかが、末法・終末の「現代大中世時代」を生き抜いていくための処方箋であり、秘鑰だと思います。

 Shinさんは、前回のレター(60信)で、7月27日に、大塚のホテルベルクラッシック東京で、「孤独死に学ぶ互助会の使命(ミッション)」という講演を行うと書いていましたね。それは、冠婚葬祭互助会の全国団体である社団法人「全互協」の総会イベントとして開催されたもので、Shinさんは、全国の互助会経営者の前で、「無縁社会」を乗り越えるために何をすべきか情熱的な話をされたことと思います。

  「無縁社会」を乗り越えるために、われら「現代の縁の行者」たちが実践すべきことは何か。それをたゆまず、たくましく、クリエイトしていこうではありませんか。近藤高弘さんとの共著『火・水(KAMI)——新しい死生学への挑戦』は、わたしたちにできるそんな小さな実践報告です。まだまだ、もっともっと、いろんな方法、方策、知恵の活用があるはずです。それを再発掘・再活用、リサイクル、リニューアルしていきましょう。

2010年8月25日 鎌田東二拝