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シンとトニーのムーンサルトレター 第169信

 

 

 第169信

鎌田東二ことTonyさんへ

 「令和」最初の満月が昇りました。Tonyさん、10連休はいかがお過ごしでしたか?わたしは今年も、ゴールデンウィークはどこへも行かずに、新著の執筆、わが社の施設めぐりに励みました。改元された翌日の5月2日、買い物に出たついでに映画「ある少年の告白」を観ました。令和になって最初に観た映画ですが、とても重く、暗い内容でした。

 ガラルド・コンリーの著書を原作にした、同性愛の矯正を強いられた青年を描く人間ドラマです。アメリカの田舎町で育った大学生のジャレッド(ルーカス・ヘッジズ)は、あることがきっかけで自分が同性愛者だと気付きます。息子の告白に、牧師の父(ラッセル・クロウ)と母(ニコール・キッドマン)は大いに困惑し、「同性愛を治す」という転向療法への参加を勧めます。その内容を知ったジャレッドは、自分にうそをついて生きることを強制する施設に疑問を抱き、行動を起こすのでした。

 この映画は、LGBTQをテーマにしています。少し前まで「LGBT」と呼ばれていた言葉にいつの間にかQがついて「LGBTQ」になりました。朝日新聞掲載「キーワード」によると、「レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(生まれた性と異なる性で生きる人)、クエスチョニング(性自認や性的指向を定めない人)の頭文字をとっている。Qは性的少数者の総称を表す「クィア」という意味でも使われている」そうです。「ある少年の告白」は、同性愛の矯正施設に入れられた少年の悲劇が描かれています。わたしはあまりこの問題に詳しくないのですが、現在、『ハートフル・ソサエティ2020』という本を執筆しており、その参考になる予感がして観ました。

 現在、性的志向やジェンダー・アイデンティティに対する理解が浸透してきました。しかし、それらを治療によって変えてしまおうという施設が存在するといいます。驚くべき事実ですが、さらに驚くのは、アメリカでは未だに36州がその施設の存在を禁止していないことです。多くのLGBTQの若者たちが保護者によって無理やり入所させられているのです。「ある少年の告白」の原作者であるガラルド・コンリーもそうでした。ルーカス・ヘッジズ演じる主人公ジャレッドのモデルはガラルド・コンリーその人です。

 「ある少年の告白」のジャレッドの父親はラッセル・クロウが演じていますが、彼はキリスト教福音派の牧師です。この福音派が同性愛を認めません。アメリカ合衆国の福音派は、世界教会協議会(WCC)のエキュメニズム、自由主義神学(リベラル)、新正統主義を否定しますが、キリスト教根本主義(ファンダメンタリズム)にも同意できない福音主義の立場によって形成されました。ローザンヌ誓約において福音派は宣教を福音伝道と社会問題に分けて、伝道の優先性を強調しながらも、救いが全人格的なものであると認めています。2009年には正教会(アメリカ正教会など)、カトリック教会、福音派の指導者が共同で、「マンハッタン宣言」を発表し、人工妊娠中絶、同性愛といった罪に抵抗すると宣言しています。

 宗教といえば、「ある少年の告白」を観て、わたしは2012年のアメリカ映画「ザ・マスター」を思い出しました。アメリカの新興宗教であるサイエントロジーの内幕映画ということで話題になった作品です。「ザ・マスター」に登場する教団のカウンセリングも、「ある少年の告白」に登場する同性愛の矯正施設のカウンセリングも、どちらの場面でも、しつこいぐらいに同じセリフが繰り返されて、観ているこちらの精神までおかしくなりそうでした。一言でいって不快な映像であり、音声でした。論理も一貫しているとは言い難く、まさに「不条理」な場面が延々と続くのです。このような映像を観客に見せることで、監督は人生の不条理さ、人間の不可解さを示したかったのでしょうか。

 さて、「ある少年の告白」には、LGBTQや信仰の他にも、大きなテーマがあります。それは父と子の対立、つまるところ「父性」の問題です。「ある少年の告白」だけでなく、「ザ・マスター」のテーマも「父性」ですが、サイエントロジーの教師も同性愛の矯正施設の指導官も、信者や患者にとっては自分を救ってくれる父親そのものでした。そして、アメリカ映画の本質とは父親を描くことにあるのだと再確認しました。

 それにしても、「ある少年の告白」でジャレッドの父親を演じたラッセル・クロウがブクブクに太っているのには驚きました。彼以外にも「ある少年の告白」に登場する教会関係者たちはみな見事な肥満体形でした。監督のジョエル・エドガートンは、何か福音派に対して言いたいことがあったのでしょうか。それに比べて、ニコール・キッドマン演じるジャレッドの母親はスタイルも良く、ファッショナブルで綺麗でした。その美しい母親は、最後は息子を信じて、彼を施設から救い出します。やはり、世間体を気にする父親と違って母親というのは徹底的に子の味方なのですね。いつの時代でも、どこの国でも、母は、自らのお腹を痛めて産んだ子どもを必死で守ろうとするのです。

 アメリカの福音派の問題点を描いた映画としては、「魂のゆくえ」も公開中であり、「ある少年の告白」に続いて鑑賞しました。監督・脚本は、「タクシードライバー」「レイジング・ブル」「ザ・ヤクザ』などの傑作を手がけた脚本家として知られ、「アメリカン・ジゴロ」も監督したポール・シュレイダーです。彼が構想50年の末に完成させた「魂のゆくえ」は、戦争で失った息子への罪悪感を背負って暮らす福音派の牧師が登場します。彼は、自分の所属する教会が社会的な問題を抱えていることに気づきます。そして徐々に信仰心が揺らぎはじめ、諦念と怒りで満ちていく様子が描かれています。

 ニューヨーク州北部にある「ファースト・リフォームド」という小さな教会で牧師をしているトラー(イーサン・ホーク)は、ミサに訪れたメアリー(アマンダ・セイフライド)という女性から環境活動家の夫について相談したいと言われます。その夫は地球の行く末を悲観し、妊娠中のメアリーの出産を止めようとしていました。トラーは、心の中では彼の考えに賛同しつつも、出産を受け入れるように説得するのでした。

 この「魂のゆくえ」の内容は、わたしの心に重く響きました。ネタバレ覚悟で書いてしまうと、この映画では、環境活動家の夫が妊娠中の妻を残して自ら命を絶ちます。愛する者を残して自死する場面はショッキングであり、わたしは「アリー/スター誕生」で、ブラッドリー・クーパー演じる往年の人気歌手がレディ・ガガ演じる最愛の妻アリーを残して自死した場面を思い出しました。

 わたし、この映画の中の自死について考えさせられました。カトリックは自死を完全に否定しています。693年のトレドの宗教会議で、「自死者はカトリック教会から破門する」という宣言がなされ、「自死」が公式に否定されたのです。さらには聖トマス・アクィナスが「自死は生と死を司る神の権限を侵す罪である」と規定したことで、「自死=悪」という解釈が定まりました。その結果、自死者は教会の墓地に埋葬してもらえないという時代が長く続いたといいます。

 「三大世界宗教」といえば、キリスト教・イスラム教・仏教です。イスラム教においても、仏教においても自死を否定的にとらえています。しかし、自死はけっして「自ら選んだ」わけではなく、魔や薬のせいという要素も強いと言えます。ただでさえ、自ら命を絶つという過酷な運命をたどった人間に対して「地獄に堕ちる」と蔑んだり、差別戒名をつけたりするのは、わたしには理解できません。それでは遺族はさらに絶望するというセカンド・レイプのような目に遭いますし、なによりも宗教とは人間を救済するものではないでしょうか。

 「魂のゆくえ」の主人公であるトラー牧師のファースト・リフォームド教会はカトリックではありません。いわゆるプロテスタントです。カトリック教国よりもプロテスタント教国のほうが自死者が多いことは有名です。自死を完全に否定するカトリックは「自死者は天国へ行けない」と教えます。カトリックには告解の制度があり、信者は日々の悩み罪の意識を和らげることができます。実際、告解で罪は赦されますが、プロテスタントの信者は悩みや罪の意識をすべて自分自身で処理しなければなりません。このことがカトリックとプロテスタントの自死者の数の差に表れているとされています。

 いま、宗教関係者以外で、自死を果たした人を責める人はあまりいないでしょう。昔は「自殺するのは弱いからだ」「死ぬ気があれば何でもできる」といった考えが主流でしたが、現在では「うつ病患者は自死しても仕方ない」「病気だから気の毒だ」という考えに流れが変わっているように思います。わたしも基本的には、自死をされた方を責める気はまったくないのですが、残された遺族の方々の深い悲しみに接するにつれ、「もう少し何とかならなかったか」と複雑な気分になります。

 「魂のゆくえ」は、まさにグリーフケアの映画です。トラー牧師自身が息子を亡くした悲嘆者であり、夫を亡くしたメアリーの悲嘆に寄り添っていきます。この2人が、体を合わせて目の動きや呼吸も合わせるというカップル瞑想のような行為を行います。その結果、2人はトリップして地球環境破壊のビジョンを見ます。それは、ある意味でセックスよりもエロティックな営みであり、エクスタシー以上のトリップを体験するのでした。ただ、わたしは「これで、この2人の感情は収まるだろうか?」と考えたのですが、ラストシーンではやはり「収まらなかった」ことがわかりました。

 夫を自死によって失ったメアリーの悲しみは深いですが、彼女に対して、トラーは自分の父親が銀行のエレベーターの中で心臓麻痺で亡くなった話をします。エレベーターという密室の中であったのに、トラーの父は最期に「わたしは今、聖域にいる。靴を脱がせてくれ」と言ったそうです。トラーはメアリーに「きっとマイケルが亡くなったときも聖域にいたのではないかな」と言って、傷心の未亡人を慰めるのでした。そのシーンを見たとき、わたしは「死は最大の平等である」というわが信条を思い浮かべました。それは、どんな死に方であっても、死の瞬間の体験は同じであるという考えです。世界中に数多く存在する、死に臨んで奇跡的に命を取り戻した人々、すなわち臨死体験者たちは共通の体験を報告しています。臨死体験については、まぎれもない霊的な真実だという説と、死の苦痛から逃れるために脳がつくりだした幻覚だという説があります。しかし、いずれの説が正しいにせよ、人が死ぬときに強烈な幸福感に包まれるということは間違いないわけです。しかも、どんな死に方をするにせよ、です。こんなすごい平等が他にあるでしょうか。まさしく、死は最大の平等です。日本人は人が死ぬと「不幸があった」などと馬鹿なことを言いますが、死んだ当人が幸福感に浸っているとしたら、こんなに愉快な話はありません。

 というわけで改元早々、わたしは2本の映画を観て、キリスト教の教えについて色々と考えてしまいました。Tonyさん、どうぞ、「令和」もよろしくお願いいたします。

2019年5月19日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 大変興味深い、「ある少年の告白」と「魂のゆくえ」という二つの映画評、ありがとうございます。切実かつディープですね。両方とも観ていないので、何とも言えませんが、それはそれとして、「天下布『礼』」の号「令」をかけつつ、この20年冠婚葬祭業の先頭を走ってきた一条真也こと佐久間庸「和」さんにとっては、「令和」はいろいろな意味で、象徴的な意味重層性や連関性を持つものと思います。

 しかし同時に「令」が「麗しい」という意味性ばかりでなく、律「令」や命「令」などの上からのお達しという意味合いを持つことも同時に意識しておくべきことと考えています。捜査「令」状とか、かつての日本海軍の中央統括機関の軍「令」部とか、明治時代の廃藩置県後の地方長官職の県「令」とか、行政機関の命令の一つである訓「令」とか、法「令」であるとか、政治や政策上の上下構造を貫く垂直軸であることも認識しておかねばと思っています。その中で、どのように自由や民権を担保し確保できるかということも。

 わたしが関わっている「峨眉養生文化研修院」の理事で、主に気功や中国武術の実修とともに中国語通訳や翻訳の仕事をしてきた山元啓子さんは、「峨眉養生文化研修院研究科メールマガジン16号 2019年5月17日発行」の中で、そもそも、甲骨文や金文では、「令」は「A+人の跪く姿」であると指摘しています。山本さんの教示では、白川静さんは『常用字解』(平凡社、2003年)の中で、「深い儀礼用の帽子を被って、ひざまずいてお告げを受ける人の形を表している」と説明しているようです。そこで、山元さんは、甲骨文字は殷の時代(紀元前15世紀)頃の甲骨文字の「令」を、「神や君主の言葉を神妙に聞いている姿」と理解します。この解釈も、霊性的な解釈と権力的な解釈などがあり得るので、いかようにも利用されることがあります。

 また、これも前記山元さんによる教示ですが、峨眉養生文化研修院院長の中医師で気功指導者の張明亮老師は、気功・導引の古典的テキストである『黄帝内経』「霊枢・終始編」の中に、「陰者主臓、陽者主府。陽受気於四末、陰受気於五臓。故瀉者迎之、補者随之。知迎知随、気可令和。(陰なる者は臓を主り、陽なる者は、府を主る。陽は気を四末より受け、陰は気を五臓より受く。故に瀉する者はこれを迎え、補する者は、これに随う。迎を知り随をを知れば、和気せしむべし」(「手足の三陰経は五臓をつかさどり、手足の三陽経は六府をつかさどります。陽は外をつかさどり気を四肢から受け、陰は内をつかさどり気を五臓からうけます。だから瀉法を用いる場合は、経気の方向に迎え逆らうようにし、補法を用いる場合は、経気の方向に随うようにします。補瀉迎随の方法が分かれば、経気を調することができます。」白杉悦雄監訳『黄帝内経 霊枢』東洋学術出版社版、1980年による現代語訳)のあることを教えてくれました。これは、鍼治療の方法を用いて経気を調和させるという意味の「令和」です。

 もう一つ、『莊子』「外編・刻意」の中に、「吹呼吸,吐故納新,熊經鳥伸,為壽而已矣。此道引之士,養形之人,彭祖壽考者之所好者也。(吹(すいく)呼吸、吐故納新、熊経鳥申、寿を為すのみ。此れ道(導)引の士、形を養うの人、彭祖(ほうそ)寿考の者の好む所なり)」とあり、それを唐の陸德明著『莊子釋文』では、李頤が「導引の士」を「導気令和,引體令柔。」と解釈していると記しているそうです。つまり、「導気令和,引體令柔。」とは、「気を導いて和せしめ、体を引いて(伸ばす)柔せしめる」ということだと言うのです。そこで、張明亮老師は、「令和」の時代は、<大いに導引を行い養生の道を探求しましょう>と言う意味もあると解釈して、気功による一種の天下布「礼」(布令?)の道を奨励・号「令」・広宣していこうとしているようです。

 わたしは、「令和」という元号の過剰な意味論を冷めた目で見ていますが、しかし、それがいろいろな意味のフリンジを持っていることは弁えておいていいことだと思っています。そして何があろうと、何が起ころうと、そこでの自分の生き方や思想を確認し、実践していくことが何よりも肝心だと思っています。というのも、どのような元号になろうとも、地球環境や生命環境や気象状態の急速な変貌とそこでの葛藤・軋轢はよりいっそう深刻になると思っているからです。そのことは、「平成」に元号が変わった時から主張していますが、その考えは基本的に変わらないどころか、ますますその深刻さが進行していることに忸怩たる思いでいます。

 https://www.bbc.com/japanese/48182496掲載の<人類のせいで「動植物100万種が絶滅危機」=国連主催会合>(2019年5月7日報道)には、「人類が陸海空で自然環境と生物多様性に壊滅的な打撃を与えている」と国連環境計画(UNEP)主催の政府間会合が警告したことが報道されています。それによると、世界132カ国の政府が参加する「生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学政策プラットフォーム」(IPBES)が人類の活動により約100万種の動植物が絶滅危機にさらされているという報告書を発表しました。絶滅の原因の第一は、土地利用の変化、第二に搾取、第三に気候変動だそうです。

 土地利用の変化とは、原生林を伐採して農園にしたりすること、そして、狩猟採集などの動物搾取、加えて気候変動、公害、侵入種などの脅威があるということです。それでは、生態系の壊滅的破壊に陥らない道はあるのか? ないことはないけれども、それには現代資本主義や産業文明構造を転換しなければなりません。つまり、経済成長モデルからの脱却(定常モデル、里山資本主義)などの方向と、環境破壊につながる化石燃料や農業や漁業の制限ということになります。たとえば、ごくごく簡単に、かつ極端に言うと、人類全員が肉食魚食から菜食に転換するだけで大きな転換と歯止めとなりますが、個人や企業活動や生産活動の自由の侵害ともなり、現状では転換は困難です。

 しかしながら、このままの状態を続けていけば、時間が経てば経つほどダメージは深く大きくなり、回復可能な壊滅的破滅に向かうということになります。そのことは、1960年代からのさまざまなリポートが警告してきたことです。たびたび警告が発せられて、環境サミットでCOの制限なども定められましたが、しかし抜本的な解決には到底至っておりません。ここままだと2030年から2050年の頃には大変な事態に立ち至るでしょう。そんなこと、「わかっちゃいるけど、やめられない」(植木等ほか「スーダラ節」)ということです、現状は。

 歯噛みしつつもそんなことはともかくAnywayで言いますが、つい先ごろクリムト展を観ました。もともとギュスターヴ・モローとグスタフ・クリムトは非常に好きなので、二人の展覧会を観ようとして行ったのですが、残念ながらモロー展の方は2時間待ちということだったので、観られませんでした。が、都立上野美術館でのクリムト展だけは何とか観ることができました。

 今回、彼の描いた姪のヘレーネの少女像を描いた絵「ヘレーネ・クリムトの肖像」に大変感心しました。とてもシンプルなのですが、中期以降のクリントの特色である派手派手の金色や装飾文様などがまったくない、実に静謐な肖像画です。



「ヘレーネ・クリムトの肖像」1898年

 その「ヘレーネ・クリムトの肖像」に見入ってしまいました。背景はなし。装飾もなし。クリムトらしくないけど、クリムトらしい。そんな肖像画で、大胆装飾的クリムトが密教クリムトだとすれば、この無装飾クリムトは禅クリムトです。その禅クリムトの中に深遠なクリムト的エロスと永遠が閉じ込められているように思いました。

 クリムトと言えば、世紀末ウィーンの繁栄と退廃美を豊潤に含んだ「ユディトⅠ」(1901年)、「接吻」「ダナエ」(1908年)などがとくに有名ですが、今回の展示で大変面白く思ったのは、「法学」「医学」「哲学」などの学問絵画シリーズと、「ベートーヴェンフリーズ」と死をテーマにした絵画です。この学問絵画シリーズは、1894年にウィーン大学の大講堂の天井画として依頼されたものだそうで、問題は、学問が理性に基づく営みであるにもかかわらず、それを否定するような象徴性に満ちているとかで物議をかもしたというのですが、ナチスに没収され、最終的には放火により失われたようです。今回展示のものは、写真版と習作版だったと思います。確か、「医学」は着色習作版と写真版の二点が展示されていましたね。

 ベートーヴェンものも面白かったですね。Shinさんも知っているかと思いますが、わたしは大のモーツァルト贔屓で、ベートーヴェン嫌いを標榜してきましたが、最近ギターで「第九 歓喜の歌」が何の拍子か突然飛び出してきて、その歌いやすさにびっくりして、うーん、ベートーヴェンねえ、これはなんぞ? と思っていた矢先、クリムトがどうやらベートーヴェン崇拝者らしく、そのベートーヴェン観に関心を持ったというわけです。加えて、「死と生」や、死者の顔を描いたたぶん晩年の作品にも、非常に興味を持ちました。彼の死生観、エロティシズム、尾形光琳や琳派の影響など、いろいろといっそうクリムトの面白さに魅了されました。そして、わたしにとって特筆すべき点は、世界でもっとも緑色の使い方がうまいのがギュスターヴ・モローだと思っていますが、クリムトもなかなかのワザ師だということを認識しました。この点も大収穫でした。

 クリムトの死に顔の絵にも魅かれるものがあったのは、ほぼ1ヶ月前の4月22日に18歳の時からの友人の中島和秀君が死去したことも関係していました。中島君は、享年69歳、食道癌で逝きました。知らせが届いたのは、翌4月23日で、「京大俳句」事務局の宮本さんが知らせてくれました。まったく予想だにしていなかったので、まさしく青天霹靂、愕然としました。ほぼ1年前に我が家に来てもらって一緒に歓談しながら晩御飯を食べたのが最後となりました。その時はお酒もおいしそうに飲んでいたので、まさか食道癌とは、思いもしなかったです。彼は、病院に入っていることも教えてくれませんでした。そのこともとても残念に思っています。彼は私と同じ京都市左京区に住んでいたし、入院先はバプテスト病院で、自転車でわずか15分のところだったから、どうして一言知らせてくれなかったのかと、悔いが残ります。

 わたしが中島和秀君と初めて会ったのは、1969年の10月頃だったでしょうか。寺山修司が大阪で加藤ヒロシと組んで「A列車で行こう」という詩劇を上演することとなり、オーディションを受けて、その主演者となったのが中島和秀君でした。

 1970年5月から6月にかけて、丸1ヶ月わたしたちは大阪の心斎橋のクラブエルマタドールの2階を借りて、『ロックンロール神話考』というアングラミュージカルを上演しました。その作演出をわたしが担当しましたが、その時の主演男優が中島和秀君でした。そして、その劇の脚本をわたしは彼の家の近くの堺市七道のアパートの2階で書き上げたのでした。「みなさん天気は死にました」という、田村君と言う同級生の詩人の書いたフレーズを語る狂言回しを進行役のように、メリーゴーラウンドのように、神代と現代がワープし、イザナギ・イザナミの子供探しと少年少女探偵団の親探しがクロスし、接続するかに見えて断絶して、すべての人類が死に絶え、ある超越的な力でよみがえる(かもしれない)という暗示的な場面で終わるというあらすじでした。

 中島和秀君は、その後独自に舞踏をし、それから俳句を作り始め、最後の最後まで吟行を続けました。辞世の句は、

  生理食塩水は涙の味がする

 でした。

 中島君が種智院大学の学生だった時、『僧兵』と『魔(マー)羅(ラ)』という同人雑誌を作りました。わたしも同人の一人になり、詩やエッセイを寄稿しました。その『魔(マー)羅(ラ)』にわが処女作となる『水神傳説』(後に泰流社より1984年に刊行)を発表したのです。だから、中島君とは10代からのもっとも縁の深い同志的な友人だったと思います。不思議な縁で、わたしが京都大学こころの未来研究センターにいた8年間、彼は京都大学理学部・農学部植物園の庭師として働いていましたから、最初は同じ劇団員として、最後は同じ京都大学職員として同志・同僚だったということになります。

 中島君とは、一緒に佐渡ヶ島や男鹿半島や恐山に旅したことがあります。初めて恐山に行った時、中島君と一緒に雪の中の山道を歩いて恐山まで行きました。そして恐山の地獄と宇曽利湖と極楽浜の荒涼と美しさに震撼したのでした。

 また、中島君とは、共著で『阿吽結氷』(夜桃社、1984年)という二人句集を作って、中井英夫さんに送りつけ、面白い作品だと好意的な反応をもらったこともありました。その中島和秀(俳号:石川力夫あるいは中島夜汽車)逝く。

  夜汽車往く四月の空の流星か    行き先不明のA列車の君

 2019年5月19日 鎌田東二拝