シンとトニーのムーンサルトレター 第186信
- 2020.10.02
- ムーンサルトレター
第186信
鎌田東二ことTonyさんへ
昨夜は中秋の名月でした。今夜は満月です。この10月は31日も満月です。今月は3回も「お月見」が楽しめます。本当は、10月1日の夜、北九州市八幡西区のサンレーグランドホテルで恒例の「秋の観月会」および「月への送魂」を行うはずだったのですが、コロナで今年は中止となりました。まことに残念です。
本書に収められたレターは、じつにさまざまなテーマが縦横無尽に語られていますが、あえてメインテーマを挙げるとしたら「儀礼・儀式」と「グリーフケア」ではないでしょうか。Tonyさんは、宗教の三要素として、「神話・儀礼・聖地」の重要性を力説されておられます。その中で、儀礼とは、神話に基づき、神話と連携しながら、神や霊などの超越的な存在世界との接触を果たし、この世界で生きていく活力や癒しを得る身体的技法と表現であるといいます。わたしは、儀礼とはほとんど文化の同義語であると考えています。そして、儀礼の核を成すものが儀式です。儀式とは、ずばり「かたち」のことです。
ついに、「人生100年時代」などと言われるようになりました。その長い人生を幸福なものにするのも、不幸なものにしてしまうのも、その人の「こころ」ひとつです。もともと、「こころ」は不安定なもので、「ころころ」と絶え間なく動き続け、落ち着きません。そんな「こころ」を安定させることができるのは、冠婚葬祭や年中行事といった「かたち」の文化です。「かたち」には「ちから」があります。そんな考えを、これまで、わたしは『儀式論』(弘文堂)などの一連の著書に書いてきました。
また、現代日本では、大切な人を失った悲嘆に寄り添い、支える「グリーフケア」の重要性が高まっています。わたしは、経営する冠婚葬祭互助会で2010年からグリーフケア・サポートの活動を開始し、現在は一般社団法人全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)の副会長として、わたしは全互協の儀式継創委員会を担当し、全互協と上智大学グリーフケア研究所とのコラボであるグリーフケア・プロジェクト・チームの座長を務めています。2021年度にスタート予定のグリーフケア資格認定制度の立ち上げを準備していますが、本書でわたしたち二人が語り合った「儀礼・儀式」および「グリーフケア」についての諸発言は、冠婚葬祭の現場で働かれる方々や、グリーフケアの資格取得を目指す方々にとっても大いに参考になると思います。
21世紀になってから、むごい事件、災害が頻発し、人々は気の休まる暇もありません。アメリカの同時多発テロ、世界各国に起きた大規模地震、とりわけ東日本大震災、世界中で起こっている水害、大規模火災。そして、今回の新型コロナウイルスのパンデミックは世界中を疲弊させ、大きな不安と深い悲しみをもたらした。今ほど、不安定な「こころ」を安定させる「かたち」としての儀式、悲しみに対処するグリーフケアが求められる時代はありません。ウィズコロナ、アフターコロナ、ポストコロナ、そしてビヨンドコロナを生き抜き、心ゆたかな社会を創造するヒントを本書から読み取っていただければ幸いです。なお、発売は10月28日です。
さて、9月16日、安倍晋三内閣が総辞職し、菅義偉氏が第99代の内閣総理大臣に就任しました。菅首相は、全日本冠婚葬祭互助会政治連盟の最高顧問です。今回は政治連盟から5人の大臣が出ました。素晴らしい快挙であり、互助会業界も政治力が以前より格段に強くなってきました。ちなみに、政治連盟の初代会長はわが社の佐久間進会長です。佐久間会長は、全互協の初代会長でもあり、互助会事業の法制化を実現しました。わたしは、現在、全互協と政治連盟ともに副会長を拝命しています。ぜひ、菅首相にお願いしたいことがあります。菅首相は一連のGoToキャンペーンを主導してこられた方ですが、日本人が結婚式を挙げやすい政策を立てていただきたいと思います。結婚式の費用とか交通費などを助成する、いわば「GoToウエディング」です。「GoToウエディング」は「GoToトラベル」のように業界救済、つまり経済のためではなく、社会のために行うものです。
日本は、いま最大の国難に直面しています。それは新型コロナウイルスの問題でも、中国の領土侵犯の問題でも、北朝鮮のミサイル問題でもありません。より深刻なのが人口減少問題です。国立社会保障・人口問題研究所(社人研)が発表した「日本の将来推計人口」(2017年)によれば、100年も経たないうちに5000万人ほどに減少することが予測されます。ベストセラーになった『未来の年表』の著者である大正大学客員教授の河合雅司氏は、「こんなに急激に人口が減るのは世界史において類例がない。われわれは、長い歴史にあって極めて特異な時代を生きているのである」と述べています。
ちなみに、政治連盟の初代会長はわが社の佐久間進会長です。佐久間会長は、全互協の初代会長でもあり、互助会事業の法制化を実現しました。わたしは、現在、全互協と政治連盟ともに副会長を拝命しています。ぜひ、菅首相にお願いしたいことがあります。菅首相は一連のGoToキャンペーンを主導してこられた方ですが、日本人が結婚式を挙げやすい政策を立てていただきたいと思います。結婚式の費用とか交通費などを助成する、いわば「GoToウエディング」です。「GoToウエディング」は「GoToトラベル」のように業界救済、つまり経済のためではなく、社会のために行うものです。
人口減少を食い止める最大の方法は、言うまでもなく、たくさん子どもを産むことです。そのためには、結婚するカップルがたくさん誕生しなければならないのですが、現代日本には「非婚化・晩婚化」という、「少子化」より手前の問題が潜んでいます。わたしは、結婚式は結婚よりも先にあったと考えています。一般に、多くの人は、結婚をするカップルが先にあって、それから結婚式をするのだと思っているのではないでしょうか。でも、そうではないのです。
日本人の神話である『古事記』では、イザナギとイザナミはまず儀式をしてから夫婦になっています。つまり、結婚よりも結婚式のほうが優先しているのです! 他の民族の神話を見ても、そうでした。すべて、結婚式があって、その後に最初の夫婦が誕生しています。結婚式の存在が結婚という社会制度を誕生させ、結果として夫婦を生んできたのです。結婚式があるから、多くの人は婚約し、結婚するのです。結婚するから、子どもが生まれ、結果として少子化対策となります。観光や外食よりも、結婚式は社会の維持のために絶対に必要です。冠婚業はけっして単なるサービス産業ではありません。日本という国を継続させていくエンジンのような存在です!
菅首相は、自民党総裁に選ばれた直後の挨拶で「私の目指す社会像は、自助・共助・公助、そして絆であります」と述べられました。自助・共助・公助、そして絆の社会とは、まさに相互扶助の互助社会ではありませんか! ぜひ、互助の精神で「GoToウエディング」の実施を切に願う次第です。結婚式も大事ですが、葬儀も重要です。葬儀がなければ、家族や友人・知人・恋人などの「愛する人」を亡くした悲嘆から、うつ・自死の連鎖が起こって、人類は滅亡していたというのが、わたしの仮説です。
菅首相が誕生した翌日となる9月17日、わたしは、冠婚葬祭互助会の大手であるアルファクラブ武蔵野の元相談役で、全互協の元会長である武田七郎氏の「お別れの会」に参加しました。会場の「ベルヴィ武蔵野」に一歩入ると、顔なしの礼服がありました。すると、そこに等身大の故人の生前の姿が映し出されたではありませんか! しかも立体です。ホログラフィーです。拙著『ロマンティック・デス』(国書刊行会、幻冬舎文庫)で、わたしは21世紀の葬儀は故人の生前の面影をホログラフィーで再生すべきと提唱しましたが、完全に実現されていました。さらに奥へ進むと、暗くなった部屋のようなスペースがありましたが、覗き込むと、そこにも故人の幽姿が! ジェントル・ゴースト(優しい霊)出現の連続に、わたしは度肝を抜かれました。それ以外にも、ゴルフのグリーンにプレーをする故人の幽姿が浮かんだり、とにかくSFみたいで、新時代の葬儀テクノロジーをしかと見せられました。メモリアル・コーナーには、故人の書斎も再現されていました。故人は大変な読書家で、いつも「一条さん、いつもあなたの本を読んでいますよ」と言って下さいました。それ以外にも、いつも優しく励ましていただき、お世話になった業界の大先輩です。葬儀は神葬祭で執り行われたそうですが、帰幽された武田七郎様の御霊が安らかであることを心よりお祈りいたします。
「お別れ会」の顔なしの礼服
故人の生前の姿が浮かび上がる!
さて、最近、「葬祭業はエッセンシャルワークですね」とよく言われます。エッセンシャルワークとは医療・介護・電力・ガス・水道・食料などの日常生活に不可欠な仕事です。そして、葬儀もエッセンシャルワークです。葬儀にはさまざまな役割があり、霊魂への対応、悲嘆への対応といった精神的要素も強いですが、まずは何よりも遺体への対応という役割があります。遺体が放置されたままだと、社会が崩壊します。それは、これまでのパンデミックでも証明されてきたことでした。何が何でも葬儀に関わる仕事は続けなければならないのです。
このたびの台風10号では、100人以上の避難者の方々を受け入れました。「魂を送る場所」であった紫雲閣が「命を守る場所」となったことは画期的であり、「セレモニーホール」が「コミュニティホール」へと進化しました。冠婚業も葬祭業も、単なるサービス業ではありません。それは社会を安定させ、人類を存続させる社会インフラとしての文化装置なのです。冠婚葬祭が変わることはあっても、冠婚葬祭がなくなることはありません!
オープンした「ゆくはし三礼庵」の前で
この日、85歳の誕生日を迎えた父
9月26日には、福岡県行橋市に「ゆくはし三礼庵」がオープンしました。三礼庵は、紫雲閣とは別ブランドの施設です。「三礼」とは「慎みの心」「敬いの心」「思いやりの心」という小笠原流礼法における3つの「礼」を意味しています。サンレーグループとしては、福岡県内で45番目、全国で87番目(いずれも完成分)のセレモニー関連施設となります。しかしながら、従来の「葬儀だけを行う」セレモニーホールではなく、「葬儀も行う」コミュニティホールです。竣工式の神事の最後の主催者挨拶で、わたしは「ゆくひとを 三つの礼で 送りたる 心ゆたかな ゆくはしの庵」という道歌を披露しました。また、この日は父である佐久間進の85回目の誕生日で、直会ではサプライズで誕生日パーティーを行いました。最近は杖をついている父ですが、いつまでも元気で、わたしを厳しく指導してほしいと願っています。それでは、Tonyさん、また次の満月まで!
2020年10月2日 一条真也拝
一条真也ことShinさんへ
中秋の名月、一乗寺から見上げました。その時見た月を、以下のyou tubeにアップロードしました。https://www.youtube.com/watch?v=nNN-JZR6LdY (1分30秒)。時間のある時にご覧ください。
さて、お父上の満85歳のお誕生日、まことにおめでとうございます。お二人して、最強の親子(父子)の道をさらにまっとうしていただきたくこころより念じております。この父なくしてこの子なく、この子なくしてこの父なしという父子鳥だとおもっています。
ところで、Shinさんは菅内閣への期待を表明されましたが、また、各種世論では新政権の支持率は高いようですが、はっきり言って、わたしは信用できません。期待もできません。むしろ、不信感を募らせます。「臭い物に蓋をする」、国民受けするいいところだけ過大に上乗せして見せる目くらまし内閣だと思うからです。不透明で非公共的な意思決定や情報操作により臭いところに蓋をし、無理矢理封じ込めて、目くらましの政策で仕事をしているように見せる内閣だとおもうのです。
もちろん、経済政策や行政改革をふくめ、実務的なところでいくつかの進展はあるかもしれませんが、社会の根幹とか未来とか政治の本質とかが腐乱したままの見せかけ修繕に終わるのではないでしょうか? 現内閣が推進しようとしている「デジタル庁」よりも、過去何度か自民党総裁候補になってきた石破茂氏の提唱する「防災省」の方が重要政策だとわたしはずっと思ってきましたので、現内閣の政策を疑問視しています。そこで、政治や行政とは関係なく、民間でできることをやっていくしかないと思っていますが、いろいろな同調圧力がはたらいていく世相や様相があるので、社会の自由度や活性度や創造性という点で、どうなることかとたいへん心配もしています。
ムーンサルトレターの第三弾の単行本化の『満月交心』にも、耳にタコができるほどくりかえし「生態智」を根幹にした生き方や社会の在り方でしか未来は持続可能にならないと述べてきたのですが、少子高齢化や人口減少問題も、根本は生態学的バランスの帰趨にあると考えます。だからこそ、ここに防災省や安心安全健康省や持続可能省のような統合的でホリスティックな機関とネットワークが必要だと思うのです。
そのような「生態智」探究につながるイベント「鎮めの音 畏れのことば〜コロナ禍を超える「うた」を求めて」を先月末の9月29日に法然院で行ないました。企画立案者は作曲家で京都女子大学准教授の佐藤岳晶さん、シンポジウムの方の参加者は、佐藤岳晶さん、カウンターテナーの村松稔之さん、パイプオルガン奏者の冨田一樹さんでした。
佐藤岳晶さんは、コロナ禍の中で、石牟礼道子さんの「アニマの鳥」の詩の作曲を含めた歌曲集の動画プロジェクトを思い立ち、それをyou tubeで公開しました。以下のURLで鑑賞できますので、ぜひ視聴してみてください。「2020「沈黙」の彼方に〜音とことばのcollaboration」:https://www.youtube.com/watch?v=51RwYh2Lb2A&t=140s
佐藤岳晶さんは、新型コロナウイルスの感染拡大の脅威が広がる中で、古寺巡礼を行ない、行く先々で祈りを捧げたそうです。そしてその過程で、京都の東寺の立体曼荼羅や奈良の東大寺の大仏殿のような大きな祈りの空間や祈りの宇宙のような世界を、コロナ禍の中ゆえに動画で作りたいと思い、パイプオルガン演奏とカウンターテナーの独唱の無観客コンサートを滋賀県のサラマンカホールで行ない、その録音録画を前掲you tubeで発信したのです。
シンポジウムの冒頭、佐藤さんは、次のように問いかけました。
<聖武天皇が東大寺の大仏や国分寺・国分尼寺を建立したことの一つには、疫病の流行を鎮めるためと言われている。その祈り(無論、政治的な側面も包含するが)から建立された大仏の開眼供養の法要の折に奉納された芸能は、芸能史的に一つのエポックメイキングとなるような成果を遺すことになった。その他の日本の芸能や祭礼においても、疫病、治水、霊魂等、人間に制御し難いものを鎮めることを目的とする、そうしたことが根となっているものが多い。こうした鎮めの芸能・祭礼の営みを振り返り、見つめ直す中で、ウィルスと共に生きる道の一つが見えてくるように思われる。そのような観点から、伝統的な鎮めの芸能・祭礼の営みについてどう考えるか? 伝統的な営みが、現在のコロナとの課題に力を発揮すると思うか? 「科学万能」の現代において、科学的な感染対策が施される中、こうした宗教的なものはどう活かされると考えるか?>
今年の2月から3月にかけて出したいくつかの著作『南方熊楠と宮沢賢治』(平凡社新書)、『ヒューマンスケールを超えて』(ぷねうま舎)、『京都の森と文化』(ナカニシヤ出版)の中でも述べましたが、わたしの立場は昔から「猫の手も借りる」全方位外交、八百万主義です。よいと思われるもの、効果があるものは、できるところからすべて取り上げたり、取り入れていい。その優先順位は、それを実践する人の縁と状況判断によって決めればよい。とにかく実践あるのみ。というプラグマティズムです。
ですので、哲学的・理論的には、比叡山で醸成された天台本覚思想「草木国土悉皆成仏」を支持していますが、現実的には、物理学者の寺田寅彦の言う「災害の進化論的意義」や、生物学者の福岡伸一さんの言う「動的平衡」を支持します。そして、ワクチンや薬剤開発を含め、目に見えないウイルスを探知する探知機とそれを無害化・「減害」(減災)化する装置の開発も必要であるし、東大寺の開眼供養や祇園祭の祇園囃子も必要であるという立場です。個人が行なった「御霊・怨霊鎮めの音楽」もバカにできないとおもっています。
なので、減災音楽、祈りや祭り、安心と覚悟の醸成、スイッチ、シフト、「メタノイア」、春日大社「おん祭り」などなど、できることを何でもやってみようよ、とおもうのです。
東大寺開眼供養は、『日本書紀』に続く六国史の一緒の『続日本紀には、廬舎那仏のまえで、孝謙天皇、聖武太上天皇以下、文武官人が参列する中、一万人の僧侶が読経などを行ない、王臣楽人が五節の舞・久米舞・楯伏舞・踏歌・袍袴などさまざま歌舞音曲を奏でたと記されています。この万国博覧会のようなゴージャスな催しをもちろん国家プロジェクトですが、国際色豊かな国際プロジェクトと言ってもよい面がありました。
平安後期にまとめられた『東大寺要録』には、なんと、南インド出身の婆羅門僧菩提遷那が開眼供養の導師を務め、咒願師は唐僧の道えいが務めたと記されています。大仏のまえで奉納された奏楽は、伝統的な日本の舞の他、唐古楽・唐散楽・林邑楽・高麗楽・伎楽・度羅楽も奉納され、全アジア的な、ということはほぼ全世界的な文化様式を総結集した法会だったと言えます。
二つめに、佐藤岳晶さんは、石牟礼道子さんが天草の乱におけるキリシタンの闘いと滅亡を描いた小説『春の城』に出てくる「アニマの鳥」の詩をどう捉えるかと問いかけてくれました。「アニマの鳥」の詩とは以下のようなものです。
わが目の曇りいかんにせん
涙も涸れて念うかな
なぐさめ深き大切の
人には遠く離れられ
せめてアニマの使い鳥
とくと心に聞きわけて
千里の空をゆけぞかし
鳥も通わぬ境かや
せめてアニマの使い鳥
とくと心に聞きわけて
千里の空をゆけぞかし (『石牟礼道子全集』第14巻295頁、藤原書店)
まさに「アニマの鳥」に導かれるようにして、歌人から出発し、詩人となり、小説家となって自在に文筆活動を石牟礼さんは、「詩人」について、次のように述べています。「詩人とは人の世に涙あるかぎり、これを変じて白玉の言葉となし、言葉の力をもって神や魔をもよびうる資質のものをいう」(「こころ燐にそまる日に」『新版 谷中村事件——ある野人の記録・田中正造伝』解題)と。石牟礼さんの『苦海浄土』も『春の城』も、彼女の著作もみな、涙を、悲しみや痛みを、「白玉の言葉」に変じて「神や魔」を呼び出したもの、死者(死民)や精霊の声を呼び出した作品と言えるでしょう。
鶴見和子さんは、石牟礼道子さんとの対談において、石牟礼さんは本来のキリスト教をアニミズムで超えたというようなことを言っていますが、「超えた」かどうかはともかくとして、間違いなく、遠藤周作さんの『深い河』のように、アニミズム(汎神論)とキリスト教を結びつけて融合し統合し、深層的にも高層的にも普遍化したとおもいます。
佐藤岳晶さんは、この石牟礼道子さんの詩「アニマの鳥」に作曲し、カウンターテナーの村松稔之さんの声とパイプオルガンの冨田一樹さんの響きとともに、切実に祈りの音楽、鎮めの音と畏れの言葉をこのコロナ禍の時代を超えていく「うた」として捧げたのです。
佐藤さんは言います。
<私自身の一つの発見は、レイチェル・カーソンと石牟礼道子の共鳴です。二人とも海の問題から文明の危機を見つめる眼差しを深めて行った。そして、その中で、自然と人間との関係についての再考を私たちに迫った。この二人の文明批判の根底には、共有されたものがあった。それが、カーソンの言葉で言えば、「センス・オブ・ワンダー」。この言葉をどう訳すべきなのか、そのあたりも先生にうかがいたいところですが、おそらくは、石牟礼先生の言う「アニマ」に満ち満ちた世界への感受性、そして、より根底には、この世界、この宇宙に対する「畏怖の心」へと繋がって行くように思います。>
まさにこの「センス・オブ・ワンダー」こそが「生態智」のエッセンスとして息づいているはたらきです。石牟礼道子さんも鶴見和子さんも、レイチェル・カーソンのような「センス・オブ・ワンダー」を持った「詩人」でした。
わたしは5年ほど前に、京都大学で開催された比較文明学会と地球システム倫理学会の合同大会の趣意書に、<災害が多発する逆境の中で力強く生き抜いていくには、そこにおける「生態智」の実現と「言霊」に集約される言葉の力が必要だと心底思っている>と書きました。今も、その考えに変わりはありません。このことを書いた後、わたしは2017年に『言霊の思想』(青土社)を出し、2018年から2019年にかけて、神話詩三部作の三冊の詩集『常世の時軸』(思潮社)『夢通分娩』『狂天慟地』(ともに、土曜美術社出版販売)を出し、その延長で本年2020年2月に、『南方熊楠と宮沢賢治』(平凡社新書)と『ヒューマンスケールを超えて』(ぷねうま舎)を出したのでした。それらは、ひとつらなりのわたしなりの奉納ですが、残念ながらまだまだ力が足りません。
毎朝、比叡山に向かって、石笛や法螺貝や横笛を奉奏し、法然院でのシンポジウムでも奉奏しましたが、まだまだですし、コロナ禍の時代を超えてゆく「うた」や「ひびき」をいっそう求めていきたいと思います。
Shinさんとともにまもなく出版するムーンサルトレターの第三弾の『満月交心』(現代書林)は、この5年間のわたしたちのすなおなおもいをぶつけたものですが、それを踏まえて着実に歩みたく思います。来年の3月にはわたしは満70になります。一つの節目です。そして、少子高齢化の問題も、環境問題も、新型コロナウイルスのパンデミックも、すべてが連携しながら正念場を迎えます。いっそう、ともにいきぬきましょうぞ!
2020年10月4日 富士川から雲中の富士山を見上げながら 鎌田東二拝
-
前の記事
シンとトニーのムーンサルトレター 第185信 2020.09.02
-
次の記事
シンとトニーのムーンサルトレター 第187信 2020.10.31