京都伝統文化の森協議会のクラウドファンディングへのご支援をお願いいたします

シンとトニーのムーンサルトレター 第042信

第42信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、また満月の夜がやって来ました。今夜はあいにくの雨ですが、昨夜までの月は見事に輝いていました。冬は空気が澄んでいて、ことさら月が明るく感じます。なぜ、月は光輝くのか。いうまでもなく、太陽光を反射しているからです。前回のレターは、その太陽の話題で盛り上がりましたね。とくに、俳優の仲代達矢さんの「人間、太陽がある限り生きていける」という言葉は心に突き刺さりました。

 その言葉が何かに似ているなと思って、よく考えたところ、父である佐久間進の著書『わが人生の「八美道」』(現代書林)の冒頭に出てくる言葉だと気づきました。沖縄は八重山の海に昇る朝日の写真を背景にして、「太陽はまた昇る。つらい、きつい、きびしさあれど、太陽が輝く限り、希望もまた輝く。希望が続く限り、人は幸せになれる。」という言葉が掲載されています。実際、この言葉は父の人生における信条そのもので、創業した会社の名前を太陽光を意味する「サンレー(SUNRAY)」にしたのも、父の心の中に太陽への強い想いがあったからだと思います。

 前回のレターの最後に、Tonyさんはこう書かれました。
「仲代達矢さんは道破しました。『人間、太陽がある限り生きていける』と。しかし、われらはそれに次のように加えましょう! 『そして、人間、月がある限り、生きていける』と! 太陽と月、どちらもわたしたちの地球といのちになくてはならないものです。太陽を見上げ、月を見上げ、星を見上げて、生きていける、どんな時代であっても、どんな事態であっても。そんな生の存在証明をしていきましょう! Shinさん。」

 いやあ、嬉しかったですね!Tonyさんからのこの呼びかけ。もちろん、わたしも「人間、月がある限り、生きていける」と思っていますよ。なにしろ、この文通は満月の夜に交わす「ムーンサルトレター」じゃありませんか! もう20年近くも前、1990年にTonyさんから「月にお墓を作ればいいと思うんですよ」という衝撃の一言を聞いてから、わたしの月狂いは始まりました。そして、地球人類の墓標である「月面聖塔」を月の建立し、地上から霊座(レーザー)光線で月に故人の魂を送る「月への送魂」の儀式を実現すべく歩んできました。「月への送魂」は、すでに何度か実行しています。

 そして、月こそ霊界であり、夜空に浮かぶ月をながめていれば自然と死を想える、つまり理想的なメメント・モリが実現できると考え、『ロマンティック・デス〜月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)も書きました。「天仰ぎ あの世とぞ思う望月は すべての人がかえるふるさと」「この世より光となりて放たれり これぞ送魂 月こそあの世」という短歌も詠みました。

 また、月の満ち欠けが人間の命のシンボルとなることから、故人と再会できるという希望を綴った『愛する人を亡くした人へ〜悲しみを癒す15通の手紙』(現代書林)という本を書き、現実の月の満ち欠けにあわせて変化する噴水を配した葬送スペース「月の広場」をオープンし、遺族のためのグリーフケア・ルームとして「ムーン・ギャラリー」を設置しました。「人は生き老い病み死ぬるものなれど 夜空の月に残す面影」という短歌も詠みました。わたしは、「月がある限り、生きていける」どころか「月がある限り、死ねる」そして「月がある限り、死んでも、また会える」と本気で信じている人間です。

 そんな月狂いのわたしですが、先日、話題の映画「ザ・ムーン」を観ました。わたしの住む福岡県では上映していなかったので、東京出張の際に六本木ヒルズの「TOHOシネマズ」で鑑賞しました。人類が初めて月に第一歩を刻んでから40年、わたしたち人類にとって月へ行くことの意味を問い直したドキュメンタリー映画の秀作です。この作品は、大量のNASA蔵出し映像から構成されています。アメリカの資料保管所に保存されているオリジナルの映像をデジタルリマスターした未公開映像の数々は非常に興味深いものでした。宇宙飛行士が撮影した宇宙の映像は、やはりリアルです。それらの秘蔵映像が保管所から持ち出されたのは60、70年代にほんの数回だけだそうです。オリジナル・フィルムはあまりにも貴重なため液体窒素で保存されているとか。

 その価値あるフィルムによって何度も大画面に映し出された月面は、一言でいうと、まさに砂漠でした。「月は驚くほど美しい砂漠が支配する世界だった」との宇宙飛行士のコメントも紹介されていました。加藤まさを作詞の「月の砂漠」は、わたしの大好きな童謡です。でも、実際の月は砂漠そのものだったわけですね。映画で月面の様子をながめながら、「童謡に月の砂漠の歌あれど 飛行士いはく月は砂漠よ」という短歌が浮かびました。

 「ザ・ムーン」は、宇宙がいかに広大か、わたしたちの住む地球がいかに繊細かをあらためて思い知らせてくれました。しかし、たしかに感動はしたのですが、正直なところ今ひとつ盛り上がりに欠けたのも事実です。その第一の理由は、おそらく龍村仁さんの「地球交響楽(ガイアシンフォニー)第一番」をすでに観ているからだと思います。最初は1992年の試写会でTonyさんと一緒に観ました。それから、先日の「猿田彦大神フォーラムの道〜『神楽感覚』『聖地感覚』追悼出版奉告会」のパーティーで龍村さんとお話したのをきかっけに「地球交響楽(ガイアシンフォニー)」のDVDを第一番から第六番までまとめて購入し、つい最近観直したのです。第一番には、「ザ・ムーン」には出ていないラッセル・シュワイカートも登場しています。「ザ・ムーン」を観て、あらためて「ガイアシンフォニー」の素晴らしさを再確認した次第です。

 第二の理由としては、なんだか「本当にアポロは月に行ったんだぞ!」というメッセージが強く感じられ、まるで月面着陸の証拠映画のように思えたからです。周知のように、じつはアポロは月に行っておらず、月面の映像はハリウッドのスタジオでスタンリー・キューブリックが撮影したものであるなどの都市伝説が広まっています。空気がないはずの月面で星条旗が揺れていたことなどが検証され、その噂を信じる者はアメリカのみならず世界中に存在するとか。関連出版物も多く出されています。そんな噂を消す目的もあってか、映画のエンドロールには「僕たちは本当に月に行ったんだ!」という宇宙飛行士たちの言葉をしつこいぐらいに流していました。その場面を観て、ドン引きしたというか、せっかくの映画による宇宙体験の感動が薄まってしまったような気がします。あれほど真実性を強調するということは、逆に「もしかして?」と思ってしまったほどです(笑)。

 それにしても、「一人の人間には小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」という有名なアームストロングの台詞のように、人類が月に降り立ったことは一大イベントでした。すべては、1961年5月25日にケネディ大統領が「わが国は、60年代が終わる前に、人類を月へ送り、地球に無事帰還させる」と宣言したことが始まりでした。そして、1969年7月16日に打ち上げられたアポロ11号がついにその大いなる夢を果たしたのです。映画からも、その当時の熱狂ぶりがひしひしと伝わってきますが、ヨーロッパの人々もアジアの人々も世界中の誰もが、アポロの月面着陸を「アメリカの偉業」とは呼ばずに「わたしたち(人類)の偉業」と呼んだことが印象的でした。

 わたしも、アポロの月面着陸は人類の偉業であると心から思っています。そして、「夢とは、かなうものだ」というメッセージをこれほど明確に示した事件はなかったように思います。ここ最近の著書で「夢」よりも「志」の大切さを強調したせいでしょうか、わたしが「夢」という言葉を嫌っているように思う人がいるようですが、そんなことはありません。人間が生きていくうえで、夢はとても大事なものです。そして、夢というのは必ず実現できるものであると思います。

 偉大な夢の前に、これまで数多くの「不可能」が姿を消してきました。最初の飛行機が飛ぶ以前に生まれた人で、現在でも生きている人がいます。彼らの何人かは空気より重い物体の飛行は科学的に不可能であると聞かされ、この不可能を証明する多くの技術的説明書が書かれたものを読んだことでしょう。これらの説明を行った科学者の名前はすっかり忘れてしまいましたが、あの勇気あるライト兄弟の名はみな覚えています。ライト兄弟の夢が人類に空を飛ばせたのです。

 宇宙旅行もこれと同じです。地球の重力圏から脱出することなど絶対に不可能だとされていました。すなわち、学識のある教授たちが、1959年にスプートニク1号が軌道に乗る一年ほど前までは、こんなことは問題外だと断言し続けてきました。その4年後の61年には、ソ連がガガーリンの乗った人間衛星船ヴォストーク1号を打ち上げ、人類最初の宇宙旅行に成功しました。さらに69年にはアポロ11号のアームストロングとオルドリンが初めて月面に着陸したわけです。ここに古来あらゆる民族が夢に見続け、シラノ・ド・ヴェルジュラック、ヴェルヌ、ウェルズといったSF作家たちがその実現方法を提案してきた月世界旅行は、ドラマティックに実現したのです。気の遠くなるほど長いあいだ夢に見た結果、人類はついに月に立ったのです!そして、そのとき、多くの人々は悟ったはずです。月に立つことは、単なるアメリカの「夢」ではなく、人間の精神の可能性、こころの未来を拓くという人類の「志」であったのだという事実を。

 わたしは、月が地球人類の「こころ」に与える影響は計り知れないと思います。そもそも、月の存在が宗教や哲学の発生にも深く関わっていると信じています。そんな考えから、月を「万教同根」「万類同根」のシンボルと見てきました。ところで昨年、わたしは著書として『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)、監修書として『世界の「聖人」「魔人」がよくわかる本』(PHP文庫)を上梓いたしました。ブッダとイエスを主人公にした中村光のコミック『聖☆おにいさん』(講談社モーニングKC)の大ヒットなどもあり、現在ちょっとした聖人ブームだそうです。じつは、PHP文庫の表紙画は「信長の野望」「三国志」シリーズなど知られるカリスマ画家の長野剛氏に描いていただきました。その後、わたしはブッダ・孔子・ソクラテス・イエスの「四大聖人」が一堂に会した図を特別に長野画伯にお願いいたしました。このほど、その絵が完成して送られてきました。

月下四聖図

「月下四聖図」 素晴らしい出来栄えに陶然としています。タイトルは「月下四聖図」です。以前、日本画の大家である中村不折が「三聖図」として、釈迦・孔子・キリストを描いたことはあります。レターの第23信にその絵が紹介されています。でも、ソクラテスを加えた「四大聖人」が一堂に会した絵は、おそらく世界でも初めてのはずです。 この絵は、もちろんムーン・ギャラリーに飾ります。また、長野画伯の了解を得て、これからポストカードの作成など行なってゆく予定ですが、いち早くTonyさんに見ていただきたいと存じます。

 満月の下にたたずむ四人の人類の教師たち。 足元にたなびく雲は、やわらかな紫色をしています。この絵が、世界の平和と人類の幸福に役立ちますように・・・。今夜の満月も美しく輝いていますが、今回は月尽くしのレターでした。太陽と月さえあれば人間は生きていける。本当に、わたしもそう思います。もちろん「人間尊重」は大事ですが、太陽と月の恵みを絶対に忘れてはいけませんね。そして、神や仏への畏敬の念も。

 最後に短歌を一首。「ただ直き心のみにて見上げれば 神は太陽 月は仏よ」。
それでは、次の満月まで、ごきげんよう。オルボワール!

2009年2月9日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 Shinさん、満月からずいぶん日が経ってしまいました。返信が遅くなってごめんなさい。太陽と月の話、興味深く拝読しました。以前わたしは、人類には3つのイニシエーション段階があり、第1段階が古代宗教の成立した「太陽イニシエーション期」、第2段階が仏教などの世界宗教・世界哲学が登場した「月イニシエーション期」、そして、第3段階が現代の「地球イニシエーション期」などと主張していました。現在も、その考えは基本的に変わっておりませんが、そういうことを声高に主張する時期は過ぎてしまい、淡々と実践するのみ、という心境になっています。

 さて、1月は22日から26日まで沖縄に行っておりました。首里城・斎場御嶽・久高島に行き、高嶺久枝とかなの会のみなさんのすばらしい琉舞を鑑賞することができました。そして、「久高オデッセイ第二部」完成間近の大重潤一郎監督(NPO法人沖縄映像文化研究所理事長)や映像民俗学者でもある助監督の須藤義人さんにも会って、3月7日の東大小柴ホールで行われる「『久高オデッセイ』上映会&楽しいシンポジウム」の相談もしました。

 京都に戻ってきて、それから鎌倉に2度行きました。1度は本の取材。3月7日ごろ、店頭販売される予定の『一生に一度は行きたい33の聖地』(洋泉社)というムック本の。そのために、銭洗い弁天や佐助稲荷や江ノ島神社には2度参拝することができましたし、久しぶりで東慶寺や松ヶ岡文庫や鶴岡八幡宮や鎌倉大仏(高徳院)も詣でることができました。「武家の古都・鎌倉」を女性と女神と霊性の観点からどう読み直すことができるかが、わたしの観点です。本が出ましたら、ぜひご一読・ご批評ください。

 そこで、圧巻だったのは、江ノ島の島の頂から見た冠雪した富士山の大きく、見事だったこと。あんな間近で、雄大な富士山が江ノ島から見えるとは思いがけなかったので、ほんとうに感動しました。江ノ島って、「富士見ヶ島」でもあったのですね。そして、江ノ島の尾根伝いは富士山を仰ぐための格好の「富士見通り」。富士山を精神安定剤とし、わがこころの土台としているわたしには大変うれしくありがたい発見でした。

 それから、江ノ島神社の奥津宮の拝殿天井の緑の八方睨みの亀さん、いつ行っても、わが親戚のようで、親しみを感じるのですね。そこで、いつも横笛や石笛や法螺貝を奉奏しますが、緑亀のおじさん(おばさん?)に守護されているようで、とてもとてもこころ安らかに笛を吹き、祈りを捧げることができます。ありがたや〜。

 2月になると、恒例の天川詣で。毎年、2月2日から4日までは天河行きが続いています。わたしが講元で、Shinさんとも義兄弟の造形美術家の近藤高弘さんが野焼き先達で、今年が13回目の天河護摩壇野焼き講の開催となります。もう、干支が一巡しました。丑年から始まったこの天河護摩壇野焼き講は、年男である柿坂神酒之祐宮司さんが当時60歳の還暦でしたが、今年72歳になられました。12年の歳月の重みを感じます。その間、予想通り、人間世界は確実に破局に向かっていますが、しかし、その中からどのような未来を構想できるかという模索と実践も着実に育ってきています。天河護摩壇野焼き講も、わたしたちが東京でやっているNPO法人東京自由大学も、1昨年設立された京都大学こころの未来研究センターもみな、そうした「こころの未来」を求め、実践する探究と交流の場です。

 天河での節分祭には、ご存知のように、「福は〜内、鬼は〜内」と、福も鬼も共に内=家に招き入れられます。こんな、奥床しい儀礼や習俗を見ると、本当にありがたく、美しい、そしてここに込められた歴史と先人の想いに心を動かされます。

 2月7日には、これまた恒例の10年10番勝負ライブ対決。シンガーソングライターのKOWこと曽我部晃さんと、神道ソングライター・鎌田東二が、10年間10回、つまり1年に一回、真剣ライブ勝負をしているのです。1年に1度、彦星と織姫ならぬ、シンガーソングライターと神道ソングライターの対決タイマンライブをやるのです。東京小田急線の梅が丘駅徒歩2分の「Crazy Cats」という精神障害を抱えた人たちが運営するライブハウスで行ってきました。これまで3回(過去3年)やってきて、わたしは1勝2敗で、今年は負けるわけには行かないぎりぎりの年だったので背水の陣で臨み、見事、かろうじて勝利を修めることができ、2勝2敗のタイに持ち込むことができました。ありがたや〜。

 2月11日の建国記念日には母の3回忌が徳島県阿南市の実家で行われたので、10日から12日まで徳島に帰っていました。わたしは墓参りでも、石笛・法螺貝・横笛の3点セット(わが三種の神器)を奉奏します。納骨の時にはわたしが笛を吹くと、鳥が一斉に鳴き始めて凄かったですね、と住職さんが言っていましたが、今年は風がブワーッと吹いたそうです。まあ、偶然の自然現象にすぎないですけどね。人はそこに、単なる偶然ではなく、何かの意図やサインを感じ取り、目に見えないモノの象徴的メッセージを読み取ろうとするのです。

 それはともかく、法事の終わった後、阿南市最大の地元企業・日亜化学工業の社長夫人の小川和子さんと岩川さんと姉とわたしたち夫婦の5人で、阿南のフレンチ・レストラン(!)で夕食を共にしました。小川さんがわたしの書いた『聖地感覚』を読んでくれて、面白かったので、姉の親戚の岩川さんを通してわたしに帰省した折にでも会いたいとの連絡が入り、このたびの会食となったのでした。

 岩川さんは、姉が嫁いだ先の父(義父)の妹にあたり、同時に、現在の日亜化学工業社長の小川英二さんの従兄妹に当たるのです。そんなことがあり、親戚筋ということで話があったわけです。

 日亜化学は、「発光ダイオード」の開発と販売で有名で、県内でも超優良企業で、5000人余りの社員を抱えていますが、この経済クライシスの中で、企業運営は大変だと思います。夕方に、姉の車で、桑野町の岩川さんの家に立ち寄ってピックアップし、それから小川さんのお宅に立ち寄って一緒に日亜化学工業本社および本社工場と辰巳工場を見学しました。

 日亜化学の中に入ったのは初めてです。すごく、広くて、きれいでした。花壇と庭園があって、その広い庭園は工場とはちょっと趣が異なり、宮沢賢治の花壇設計を思い浮かべました。感動したのは、敷地内に水族館があって、そこに阿南市を流れる桑野川の目が4つあるように見える川魚「親睨み」がたくさん集められていたことと、蛍を飼い、庭園に放って蛍祭のような夏の恒例行事を行っていることでした。

 発光ダイオードと源氏ボタルと平家ボタル。発光ダイオードは現代の源氏ボタルかも? などと思いながら、見学をし、その庭園から川向こうの聖地に向かい法螺貝を奉奏し、その後、川向こうの山裾に鎮座する八幡神社を5人で参拝しました。

 子ども頃、この前をバスやバイクで通るたびに、いつかこの美しい三角形の麓にある神社を参拝したいと思い続けてきて、およそ半世紀、50年近くの歳月が経って、初めて参拝することができ、感慨無量でした。とても急で長い階段があり、それを登って拝殿のところで太鼓を叩き、大祓詞を奏上し、法螺貝と横笛を奉奏しました。

 そして、阿南駅前のフレンチレストランで、5時過ぎから9時近くまで、次から次と四方山話に楽しく花開かせたのでした。もちろん、現在の経済危機や社会状況や文化状況、教育状況、自然環境のことなど、深刻な話もありましたが、いろいろとじっくりと話ができて有益でした。

 日亜化学工業と言えば、一般に「発光ダイオード」で知られていますが、さまざまな電子デバイスや蛍光灯などの蛍光体を扱う化学会社のようです。主な製品は、高輝度青色発光LEDと、蛍光体を組み合わせて製品化した白色LEDで、それは主に携帯電話のバックライト用として生産されているとのことです。わたしは電磁波の影響と瞑想の妨げのため、絶対に携帯電話を持たないようにしていますが、どうも小川夫人も同意見のようで、共感しました。携帯電話も電磁波の心身への影響も深刻だと思いますが、今は世界中が電磁波で覆われている状況下にあり、こうした中で心身を健康に保つということはなかなか大変なことだと思っています。

 日亜化学は、地元の阿南市や徳島県に対する貢献も大きく、地域密着型企業として知られています。創業者の故小川豊雄氏は大変志の深い公共精神に富んだ郷土の偉人として尊敬されているとのことでした。小川氏が、昔、地元の富岡中学時代に(奇縁ですが、NPO法人東京自由大学の海野和三郎学長も一時そこに在学しており、わたしの伯父も甥二人もそこの出身です)、後に警察庁長官や副総理を歴任した、自民党有力政治家・故後藤田正晴氏と同級生で、生涯、親交を続け、後藤田正晴後援会の会長か役員を務めたということです。

 『聖地感覚』が取り持つ縁とは言え、これがきっかけとなり、子供の頃から行きたくて、機会がなくて行けなかった神社にお参りできたことには不思議な時の流れとめぐりを感じました。

 どうしてわたしは小さい頃から「聖地」や「霊場」というところに魅かれて、一人でも参拝するようになったのでしょうか? 親から見たら、たぶん、大変変わった子どもだったのでしょうね。母はわたしを育てるのに大変だったと思います。生まれるところから、母には大苦労させましたからね。母の胎内にいる頃、たぶん好んでバク転・バク宙をしていたようで、出産時には臍の緒をご丁寧にも自分の首に3巻も巻いて出てきたので、産道を出てこようとすると、自分の首を絞めるので、途中でぐったりして出てこなくなり、一時は、母胎もわたしも危ない状態だったようです。母子共に死産、ということもありえたわけです。そんな苦労をさせて、特に子供の頃と若い頃は母親を心配させて、人一倍も二倍も三倍も心を煩わせた悩みの種の子だった、と思います。

 前にも書いたかと思いますが、わが家は、真言宗高野山派に属している徳島県阿南市桑野町岡本の万福寺が菩提寺で、その菩提寺を創建したのが鎌田家の先祖の一人です。その万福寺は不動明王が本尊で、県南地方でも縁日には市が出て多くの人が参拝に訪れます。

 また、桑野町の実家から車で20分ほど山の方に走り、1時間ほど徒歩で登ったところに、弘法大師空海が『三教指帰』の中に書いている虚空蔵菩薩求聞持法を修した霊場で四国88番札所の中の21番札所の太竜寺があります。さらにわが実家から西南に10分か15分ほど行ったところに、22番札所の平等寺があります。そんなところで育ったのですが、今回、よくよく周りの地形を眺めたしかめてみると、確かにこの地形はわたしが現在住んでいる京都の一乗寺の地形によく似ています。

 桑野川は高野川(鴨川に注ぐ支流)、曼殊院のあたりが現在の実家のあるところ、修学院や赤山禅院のあたりが山津波にあって家が全壊した前の実家があったところかなあ、などと、桑野川の土手を歩きながら、一人地形の重ねあわせをしてたのしんでいました。

 ところで、わたしは、今日の朝、久しぶりで、NHKのラジオ番組「宗教の時間」に出演しました。以前、20年ほど前に「翁童論」をテーマに、「宗教の時間」に出て以来です。今回のテーマは、「東山修験道」です。正確に言うと、NHKラジオ第二放送「宗教の時間 京都 東山でこころを磨く」。放送日:2月15日(日)午前8時30分〜9時、再放送:2月22日(日)18時30分〜19時。となります。

 この収録は、1月27日の夕方、大阪の淀屋橋のNKKのスタジオで行いましたが、そこは大阪城がよく見渡せるところにあり、豊臣秀吉が大阪城を築城した頃のことや、大阪夏の陣などの戦いを思い起こしたりしながら、夢中で話をし、横笛や法螺貝や石笛を吹き、時間を大幅に超過してしまいました。ディレクターの川添さんは、編集作業に苦労されたと思います。ごめんなさい。

 そんなこんなで、1月2月は、大変せわしなく、あちこち飛び回っておりました。来週にはまた沖縄に行きます。そして、3月には、この秋に行うモノ学・感覚価値研究会の国際シンポジウムの出演交渉などのために、フランス、ドイツ、イギリス、アイルランドを回りたいと思っています。

 とにもかくにも、すべては、3月7日の、NPO法人東京自由大学の10周年記念行事「久高オデッセイ上映会&楽しい世直しシンポジウム」が終わってからです。

 東京自由大学は、1999年2月20日に、西荻窪のWENZで第1回目の催し「ゼロから始まる芸術と未来社会」シンポジウムを開催することからスタートしました。それから、ほんとうに、ちょうど10年になります。自由大学内部では有名な、「バカヤロー!」発言事件から始まった東京自由大学ですが、10年経って、こんなに豊かな、手作りの庶民大学に育ってきたことを、心から嬉しく、ありがたく思っています。

 東京自由大学は運営委員や参加者の協力の一つ一つがなければ成立しえませんでした。世界一予算規模が小さく、世界一教室が小さい。けれども、世界一夢と志が大きく、深い。そんな大学に、すくすくと成長し続け、まもなく満10歳の誕生日。いわば、小学5年生、第2成長期にさしかかります。

 この未曾有の世界危機の中で、庶民のたくましい底力を発揮し、社会変革していくこと。それが、NPO法人東京自由大学が生まれてきた時代的使命である、と思っています。オーストラリアの山火事を含め、天災・地災・人災が頻発するだろう現実の中で、「太陽があれば生きていける。そして、月があれば生きていける」をモットーに、その創造力の灯を、この混迷せる深い闇の時代に掲げてまいりたく思いますので、今後ともなにとぞよろしくお願い申し上げます。それでは次の満月の夜まで。オルボワール!

2009年2月15日 鎌田東二拝