シンとトニーのムーンサルトレター 第041信
- 2009.01.11
- ムーンサルトレター
第41信
鎌田東二ことTonyさんへ
Tonyさん、新年あけましておめでとうございます。今年も、どうぞよろしくお願いいたします。Tonyさんは、師走は風邪を引かれていたそうですが、もう良くなられたのでしょうか。お正月は、いかがお過ごしになられましたか。
わたしは、例年通り、九州最北端にある門司・青浜の皇産霊神社に会社の幹部一同と元日参拝しました。今年は雪が降り、あいにく初日の出を見ることができませんでした。年の初めに旭日が拝めないと、やはり物足りません。わたしの会社は、その名のごとく、サンレー(SUNRAY)、すなわち太陽の光を何よりも求める集団ですので。
そういえば、今年最初に読んだ本である『人類を救う哲学』(PHP)の中に太陽崇拝のことが出ていました。梅原猛氏と稲盛和夫氏の対談集なのですが、お二人は最近エジプトに一緒に行かれたそうです。梅原氏は、同書の中で「人類が危機から脱出するには、現代文明を根本から変えていかなければなりません」と述べています。そして、それには近代文明を批判するだけではダメで、「人間とは何か」「人類はどんな文明をつくってきたか」といった根本原理にさかのぼる必要があるというのです。
古代エジプト文明は、じつに3000年にわたり繁栄を続けました。なぜ、それほど長く続いたか。その正体を解き明かしていきたいと考えた梅原氏は、「自然崇拝、とくに太陽崇拝に重要なヒントが隠されているのではないか」と推測します。この太陽崇拝は、かろうじてギリシャ文明においてアポロン神の崇拝というかたちで残ったものの、キリスト教やイスラム教の普及で失われました。さらに、近代文明となってからは完全に人間中心になります。梅原氏は、これをもう一度、「自然に帰れ」「太陽に帰れ」と訴える必要があると主張します。つまり、人類を救う新しい哲学を考えたとき、梅原氏がまず提案したいのが「太陽崇拝の思想」の復活だというのです。
これを受けて稲盛和夫氏は、太陽信仰とはとりもなおさず自然に対する畏敬の念であり、人類は自然の恩恵があって初めて生きていけるという明確な思想を持っていたとして、次のように述べています。
「たしかに人類は立派な科学技術を育んできましたが、それが傲慢を生み、いま人類の暴走はますます加速度が増している。古代に帰れとはいいませんが、やはり太陽の恵みに感謝し、太陽というものに敬虔な信仰心を持っていた古代エジプト人たちのような思想に回帰する。つまり、傲慢になった人類が、あらためて自然に対し、畏敬の念を持って接する。そういう哲学に立ち返る必要があるように思います」
まさに、いつもTonyさんと意見を交換している話題ですね。「人類を救う哲学」というテーマ自体が非常にわたし好み(笑)というか、ハートにヒットするフレーズですが、わが社のミッションである「人間尊重」を今年も精一杯追及しつつも「人間偏重」には決して陥らないようにしてゆきたいと思っています。
また、同書で強い感銘を受けたのは、「もはや経済成長は不要ではないか」という稲盛氏の言葉でした。わが国の財界を代表する超大物であるにもかかわらず、発言された稲盛氏の勇気に驚くとともに、その言葉には深い共感をおぼえました。拙著『法則の法則』(三五館)の内容にも通じるのですが、欲望の追求ではなく、「足るを知る」ことの重要性を唱える稲盛氏は、「いまや経済成長そのものが目的化するとともに、その経済成長を支えていた経済システム自体がおかしくなってきています」と述べています。
幸いにして当社ではあまり感じないのですが、とにかく世の中、景気が悪いようですね。「百年に一度の大波」などと言われています。この世界不況の直接の原因は、アメリカのサブプライムローン問題とされています。サブプライムローンとは何か。それは、ずばり弱者から利益をしぼり出す経済学です。そもそも、負債として扱われていたものが証券化され、市場で取り引きされれば、金融資産となる。
まるで「錬金術」そのものですが、サブプライムのように無価値な証券を人気のある証券に転換する錬金術を初めて開発したのは、18世紀のフランスで活躍したジョン・ロウです。そして、このジョン・ロウこそは、ゲーテの『ファウスト』に登場するメフィストフェレスのモデルとされている稀代の魔人なのです。まさに、サブプライムとは魔人による悪魔的な錬金術そのものだったのです。特に「黒魔術大国」とも呼べるアメリカの経済界は、そのような金融技術だけで金儲けのできる仕組みをつくろうとしてきました。その技術を「金融工学」と呼びます。金融工学は、本来は利益が出るはずのないところからでも、打出の小槌のように儲けを生むという幻想の源となりました。
わたしは、サブプライムローンは天才的な詐欺だと思います。何よりそれが悪質なのは、最終的な尻ぬぐいを公的資金という国民の税金でやらせるところです。その詐欺的手法が破綻して、世界の金融システムそのものがおかしくなった。さらに、金融システムというよりも、従来の資本主義そのものが崩壊しつつあるように、わたしは思います。最近の金融危機によって、「資本主義が始まって以来の危機」が叫ばれていますが、400年の歴史をもつ近代資本主義が制度疲労を起こしているような気がしてなりません。
では、資本主義は終わるのでしょうか。ある意味では、そうだと思います。ただし、終わるのは金融資本主義であり、利益優先の資本主義です。現代の経済社会は、あまりにも拝金主義の価値観で覆われており、そこには倫理というものがまったく感じられません。
それにつけても、怒りを抑えることができないのは、超大手企業による数万人単位のリストラです。それまで儲けたいだけ儲け、空前の利益をあげてきた優良企業が、ひとたび不況が訪れると、平気で何万人もの従業員の首を斬る。まだ利益が出ている段階でも、業績が下がり株価が下がるのを嫌って、どんどん人間を切り捨ててゆく。
これには、経営者の端くれとして、わたしは猛烈な怒りを感じます。何より腹が立つのは、それらの数万人という従業員の存在を「人間」ではなく単なる「数字」としてしか見ていないことです。たとえば某社が人員削減する16000人なら、そこには16000人の生身の人間がいて、それぞれには名前があり、顔があり、家族がいて、生活があります。そういったリアルな「人間」というものを忘れて、完全に「数字」としてしか見ていない。そこには、「人間尊重」のかけらもありません。
常に決算時の業績を良くしておかなければ投資家の支持を失ってしまうという資本主義の悪しき側面です。そして、それはチャップリンが「モダンタイムス」で、サン=テグジュペリが『星の王子さま』で痛烈に批判したアメリカで花開いた資本主義の真実の姿です。
言うまでもなく、大事なのは数字ではなく、人間です。数字とはそもそも、具体的な表象をすべて削り落とした抽象的な概念にすぎません。だからこそ、計算もできるわけです。人間を一人、二人、三人というふうに数えられるのは人格や顔つきや肉体の特徴など各人の個性を完全に捨て去ってしまっているからです。人間の人格や肉体や生活を削ぎ落とした「人件費」という名の数字の世界、それこそが資本主義です。星の王子さまが四番目に訪れた星では、実業家が夜空の星々を意味もなく数え、計算ばかりしています。彼は計算するだけで、星々を自分が所有できると思い込んでいるのです。星を「数字」によって抽象化するだけで所有できると錯覚しているのです。これほど、数字中心の世界、すなわち金融資本主義に対する強烈な皮肉はありません。
そもそも、企業とは何でしょうか。一般には、利益を追求する存在であるとされています。では、利益とは何か。孔子は、「完成された人間とは」と問われて、「目の前に利益がぶら下がっていても義を踏みはずさない」ことを、その条件の一つに挙げています。「利」と「義」をセットで語っているのです。利と義、つまり経済と道徳というものは両立する、と多くの賢人たちが訴えてきました。アリストテレスは「すべての商業は罪悪である」と言ったそうですが、商行為を詐欺の一種と見なす考えは、古今東西を問わず、はるかに遠い昔からつい最近まで、あらゆるところに連綿と続いてきたのです。
しかし、かの『国富論』の著者であり、近代経済学の生みの親でもあるアダム・スミスは、道徳と経済の一致を信じていました。「神の見えざる手」というスミスの言葉はあまりにも有名ですが、彼は経済学者になる以前は道徳哲学者であり、『道徳感情論』という主著まであるのです。これは『論語』や『孟子』の西洋版のような本です。
スミスは、道徳と経済は両立すべきものだと死ぬまで信じ続けていたといいます。スミスの後には、マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムと資本主義の精神』で明らかにしたように、資本主義はもともと倫理性を内に秘めていたのです。
日本では、江戸時代に石田梅岩が現れて、商業哲学としての「石門心学」を説きました。そして時代は下り、幕末明治にかけて渋沢栄一が登場します。彼は、「日本資本主義の父」と呼ばれ、500以上の会社を設立しました。いずれも日本初となるビジネスを行なう会社でした。つまり彼は、会社というより、500以上の業界をつくったのです。
まさに渋沢は日本史上最高・最大の実業家でしたが、父の影響で幼少のころより『論語』に親しみ、長じて志士から実業家になってからも、その経営姿勢はつねに孔子の精神とともにありました。「義と利の両全」「道徳と経済の合一」を説いた彼の経営哲学は、有名な「論語と算盤」という言葉に集約されます。
特筆すべきは、あれほど多くの会社を興しながら財閥をつくろうとしなかったことです。後に三菱財閥をつくることになる岩崎弥太郎から「協力して財閥をつくれば日本経済を牛耳ることができるだろうから手を組みたい」と申し入れがありましたが、これを厳に断っています。利益は独占すべきではなく、広く世に分配すべきだと考えていたからです。
ピーター・ドラッカーは、あらゆる企業家の中でも渋沢栄一を最も尊敬し、「彼ほど、社会的責任を知っていた人物は世界にいない」とまで絶賛しています。孔子とドラッカーは、わたしが最も尊敬する二人ですが、その中間にはミッシング・リンクとしての渋沢栄一という偉大な日本人がいたのです。やはり、「利の元は義」であると、わたしは確信します。「論語と算盤」こそ、ハートフル・マネジメントを言いかえたものだと思っています。
わたしは今度の世界不況は意味があることだと、じつは肯定的にとらえています。「利益優先」の古い資本主義の時代が終わって、「利義両全」の新しい資本主義の時代が始まるための陣痛だと思うからです。来るべき社会、これからの「こころの未来」を迎えるべく、Tonyさん、今年もよろしく御指導下さい。それでは、次の満月まで、オルボワール!
2009年1月11日 一条真也拝
一条真也ことShinさんへ
出口なし、のような現状が、新しい年に出口と入口の突破口が開かれることを心から願い、また探りたいと覚悟しています。さて風邪の方は、現況の不況と同様、そうとうしつこいですね。神道ソングライターとしては、呼吸器、喉が大事ですが、思い切って声を出すことが出来ない状態がまだ続いています。腹の底から声を出すと咳き込んでしまう、といった調子で、まだ本調子ではありません。
が、正月開けて、大変忙しくなりました。大小のいろんな行事を次々とこなしていかなければなりませんので。その中で、論文や本やエッセイや書評の執筆も次々とこなさなければなりません。「こなす」なんて言い方は好きではありませんが、目白押しのやるべきことをやっていこうとすると、どうしてもそんな感じになってしまいますね。が、一つ一つていねいに、こころして取り組まねば……。
正月に新聞記事を読んでいて、心の底から共感し、感動した記事がありました。朝日新聞1月4日付9面オピニオン欄の「耕論 うろたえるな——不況の時代に」と題したインタビュー記事で、俳優の仲代達矢さんの話をまとめたものでした。
仲代さんは、1932年、昭和7年生まれの、昭和ヒトケタ世代です。仲代さんは、「子供の頃は極貧でした。父を失い、母と姉と弟と妹と、米一粒が食えない、そんな生活でした」と語っています。母子の5人生活。中一で敗戦(終戦)。戦後の混乱期は、弟とお菓子を売ったりしながら稼ぎを家に入れていたそうです。
「役者になって60年近くになりますが、常に不安定な職業です。芝居一本一本が就職。今やっている芝居が終わったら、次が決まっていなければ、失業です。いつも不安です。次の保証はありません。退職金も失業保険もなし。ある意味では、万年失業状態の日雇い労働者です。ほとんど食えない役者がいっぱいいます。」
東京都出身の仲代さんは、1952年に都立千歳高校定時制を卒業してすぐに劇団俳優座養成所第4期生となり、バーでバイトしながら役者修行をします。同期生には、佐藤慶、宇津井健などがいたそうです。1959年に、小林正樹監督の大作映画『人間の條件』(ヴェネティア国際映画祭サン・ジョルジュ賞)の主人公役(梶)に抜擢されて、頭角を現します。小林作品では、その後ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の原作をもとにした『怪談』(1964年)の中での「雪女」に出ました。黒澤明監督の映画『用心棒』(1961年)、『椿三十郎』(1962年)、『天国と地獄』(1963年)と連続出演。その後、黒澤作品では『影武者』(カンヌ国際映画祭グランプリ受賞)にも主演しています。また、市川崑監督の『鍵』(1959年)や、豊田四郎監督の『四谷怪談』(1965年)や岡本喜八監督の『大菩薩峠』(1966年)にも出ています。出演映画は、米国アカデミー賞や世界の三大映画祭(カンヌ・ヴェネチア・ベルリン)でも受賞し、四冠の偉業を達成しています。2007年に文化功労者に選ばれました。
一方、1975年から恭子夫人とともに「無名塾」を設立して、若手俳優を育てます。現在、無名塾の役者は28名だそうです。「妻の宮崎恭子と自宅で始めた『無名塾』という俳優養成塾が今年で34年になります。彼女が他界した後も、彼女の強い願いを受けて続けてきました。近く5年ぶりに塾生を募集します。今も28人、食えない役者の卵がいる。公演のない間はコンビニでバイトしたり臨時の派遣をやったりして、なんとか食いつないでいます。でも最近は採ってくれなくなったと言います。」
「この子たち(28名の無名塾員のこと——鎌田注)がいよいよ苦しくなったら? そうですね、出演料を、私も俳優も裏方も、みんな同じにします。そうすればみんなにお金が行き渡る。あるいは、全員に出演料が出るような芝居を企画します。小さな組織ですが、経営者とはそういうものではないでしょうか。」
まったく、Shinさんが言いたいことをズバリ、実践的に言ってくれています。Shinさんは、レターにこう書いています。「それにつけても、怒りを抑えることができないのは、超大手企業による数万人単位のリストラです。それまで儲けたいだけ儲け、空前の利益をあげてきた優良企業が、ひとたび不況が訪れると、平気で何万人もの従業員の首を斬る。まだ利益が出ている段階でも、業績が下がり株価が下がるのを嫌って、どんどん人間を切り捨ててゆく。/これには、経営者の端くれとして、わたしは猛烈な怒りを感じます。何より腹が立つのは、それらの数万人という従業員の存在を『人間』ではなく単なる『数字』としてしか見ていないことです。たとえば某社が人員削減する16000人なら、そこには16000人の生身の人間がいて、それぞれには名前があり、顔があり、家族がいて、生活があります。そういったリアルな『人間』というものを忘れて、完全に『数字』としてしか見ていない。そこには、『人間尊重』のかけらもありません。」と。わたしは、Shinさんの言葉に大変共感し、強い同感の思いを抱きます。
仲代さんは、もちろん、無名塾の塾員「28名」を「数字」で見ているわけではありません。個性的な顔を持った一人ひとりの個人の役者として見ています。その役者としての「人間尊重」を厳しく、かつ優しく不言実行しているのではないでしょうか。仲代さんは、Shinさんが掲げた問題に関連してこう答えています。
「経済が不安定になった、企業の経営が大変だ、だから首を切るとかリストラだとか問題になっていますね。もし私が企業家に何か言うとしたら、『これまでずいぶんもうけてきたでしょう。ためたお金を彼らに与えたらどうですか』『自分たちの月給を下げて、下の人たちを上げたらいいじゃないですか』ということです。そんな単純な話じゃないかもしれませんが。」、「給料も、何十万円かもらっていたら、5万円でも分けてあげたらどうですか。日本人は忘れているのではないでしょうか。私も役者という仕事を通じて、悪しき権力に向かって闘っていきたいと思っています。」
今まで、こんなにハッキリとものを言ってくれた人はいなんじゃないでしょうか? 今の政治家にも、経営者にも、宗教家にも、こんなハッキリとした言葉は出てこないでしょう。仲代さんはすごいな、としんそこ思いました。身銭を切って、34年間ほとんどボランティア的に無名塾をやってきた人の凄みと力を感じました。わたしもこの10年、NPO法人東京自由大学をボランティアとして立ち上げ運営してきましたので、そのような活動の大変さの一端はよくわかるつもりです。それを34年も、もくもくと続けて来た。本当にその地道な真の「仕事」(「事に仕える」という意味での)は尊敬できるものです。
仲代さんは続けます。「時代が大変な時こそ、うろたえたらいけない、浮足だったらまともなことも考えられない。そう思いますね。」、「人間とは、人生とは、常に不安定なものではないでしょうか。(中略)不安定な時こそ、新しい何かを生むということもあると思います。」と。そのとおりですね。そんな、最大のピンチは最大のチャンスという逆境に強い生き方を、わたしも求め続けてきました。仲代さんはその先達のように思いました。
仲代さんは俳優座や無名塾の公演などで、シェークスピア作品にたくさん主演しています。『ハムレット』のハムレット役、『オセロ』のオセロ役、『マクベス』マクベス役、『リチャード三世』のリチャード三世役などです。その仲代さんがこう言っているのは、とても面白かった。
「役者なら一度は演じたいとあこがれる役の一つがシェークスピアの『ハムレット』ですが、実は私は若いころからハムレットが好きじゃなかった。『生きるか死ぬか、それが問題だ』なんて、そんなの、言っていること自体がおかしい。なんでそんなことで悩むんだ、と。こちらはガキの頃から食えなくて、毎日空襲にあって逃げまわっていたんです。『今日はなんとか生き延びたぞ』って思っていたんですから。」
仲代さんにかかっては、悩める王子ハムレットも形無しですが、海賊や山賊と闘いたいと思ってきたわたしは、断然、ハムレットよりも、仲代さんに共感しましたね。
最後に仲代さんは、「少年時代にあんな状況の中でも生きてこられた。役者になって、売れたり売れなかったり、苦しいこともありました。そんな私がいつも思うのは、『人間、太陽がある限り生きていける』ということです。うろたえちゃあ、いけません。」と、このインタビューを結んでいます。
すばらしいインタビュー記事でした。聞き手は刀祢館正明さんという記者らしいですが、いい記事のまとめ方だと思いました。以前、20年以上も前に、やはり、朝日新聞の「心」欄だったか、岡本太郎のインタビュー記事が掲載されていて、それにも大爆笑・大共感し、以来、岡本太郎嫌いがすっかり岡本太郎好き(でも、今でも、美術作品は好きじゃない)になってしまいました。その時の大転換を思い出しましたが、わたしはこれまで仲代達矢と言う俳優は嫌いではなく、とてもユニークな面白い俳優だと思っていました。その仲代観に後光がさしてきたような感じです。わたしが俳優でもっとも尊敬しているのは三国連太郎さんですが、今回、仲代さんの記事を読んで、たましいがふるえましたね。身震いするほど感動し、早稲田や國學院の学生に数百枚も印刷して配布し、一緒に読みました。東京自由大学の面々にも渡しました。来週には京大の大学院生にも渡すつもりです。
わたしはこのインタビュー記事に、仲代達矢さんが持っている強靭な宗教性・宗教的存在感覚を感じたのです。そして、彼のしっかりとした人生哲学、社会哲学、倫理(自分の生き方)を強烈に感じとった。ここで、仲代さんは一言も宗教のことに触れていません。神様とか仏様とかご先祖様とか信仰とか、そんなことをことさらに語っているわけではありません。しかし、「人間、太陽がある限り生きていける」という一言は、どんな宗教の教義よりも力強い宗教性に溢れていると思いました。それは「南無阿弥陀仏」という念仏や「南無妙法蓮華経」という題目にも匹敵するような、現代の真言のようにも思えました。仲代さんの宗教性の神髄は、その「人間、太陽がある限り生きていける」という一言に集約されています。「安心立命」が宗教の求める境地だとすれば、仲代さんは、人間は太陽がある限り生きていける、という「大安心立命」の境地に至っている、と。
それは、「お天道様が見ている」という庶民の伝統的な倫理思想とも深くつながっていると思います。「お天道様」すなわち太陽が見ているとは、「見守ってくれている」、それによって「生かされている」、という意味を含んでいると思います。わたしたちは、「お天道様に育まれ、生かされ、見守られている」ということ。それこそが、一般庶民のもっとも深層的な「安心立命」であり、生命感であり倫理感だったのではないでしょうか?
奇しくも、Shinさんは、梅原猛さんの「太陽崇拝」ルネサンスに触れていますね。梅原さんは、「自然崇拝、とくに太陽崇拝に重要なヒントが隠されているのではないか」、「自然に帰れ」「太陽に帰れ」と主張し、「太陽崇拝の思想」の復活を唱えているとか。それを受けて、稲盛財団理事長の稲盛和夫さんは(ちなみに、わたしが今所属している京都大学こころの未来研究センターは、稲盛さんが寄付した建物である稲盛財団記念館の2階に昨年11月に引っ越しました)、「傲慢」になりすぎた「人類の暴走」を止めるためにも、「太陽の恵みに感謝し、太陽というものに敬虔な信仰心を持っていた古代エジプト人たちのような思想に回帰する。つまり、傲慢になった人類が、あらためて自然に対し、畏敬の念を持って接する。そういう哲学に立ち返る必要がある」と主張している、とShinさんは言っていますね。
梅原さんや稲盛さんの言葉にも通じますが、それよりも、もっと素の、生な、実感のこもった自分の言葉で仲代さんは、その「太陽信仰」というか、「生の思想」を説いていると思います。
「人間、太陽がある限り生きていける」。すばらしいじゃありませんか! これ以上の言葉があるでしょうか?
しかし、問題は、そう思えないたくさんの人びとが今いる、ということですね。そう思えないからこそ、年間3万人を超える自殺者がいるわけです。一人ひとりの人間がしんそこそう思えるようになることが、「こころの未来」を耕すことになるでしょう。それを、どうしたらいいか?
一つの解決策を仲代さんがとてもシンプルに、けれども大変大胆に提案しています。「給料も、何十万円かもらっていたら、5万円でも分けてあげたらどうですか。」という提案です。経営者や政治家に聞かせたい言葉です。これこそ、ポトラッチ的精神、贈与、相互扶助の思想と実践ではありませんか? 見返りを求めず、あるものがそれを周りに廻していく。まさに、大乗仏教で言う「菩薩道」、慈悲の実践です。羅須地人協会を設立した宮沢賢治もそういう精神を具現化したかったのです。裕福だった賢治はしかしその運動に挫折し、2年ほどしか続きませんでしたが、「極貧」の少年期を過ごしてきた仲代さんは、42歳の年から34年間もそれを実践してきたわけです。もしそれが実行されればどれだけの人が救われることでしょうか。
仮に、1億2千万人ほどの日本人のうち、給料をもらっている人が1/3の4000万人いるとして、その人たちが毎月5万円ずつ出し合ったとします。すると、40000000×50000となり、その積は、2000000000000、すなわち2兆円となります。
今、公明党だったかの提案で、麻生首相が総額2兆円、国民一人につき12000円の定額給付金を出そうと提案し、渡辺嘉美代議士をはじめ、自民党内からもかなり反対が出ています。民主党も無為無策のバラマキ政策であると批判しています。これがどれほどの景気刺激になるのか、はたして経済効果があるだろうか、多くの人が疑問視しています。
わたしも、この政策は成功しないと思います。対効果の期待できない、どうしようもない政策だと。それはともかく、もし今、仕事をして給料をもらっている国民が5万円ずつ出し合ったら2兆円のお金ができます。それを、社会福祉や教育や医療や起業融資に回したら、どれほど助かる人が出るでしょうか? それを1回こっきりではなく、毎月行ったら、どれほど社会が明るく、活性化するでしょうか? その経済効果も心理効果も計り知れないと思います。自殺者年間3万人が激減するでしょう、きっと。
たとえば、兄弟姉妹が失業して困っていたら、親兄弟が自分の給料や蓄えから毎月5万円ずつ1年間出してその兄弟姉妹を助けるということはありえることですね。しかし、それが赤の他人だとできないし、しない。そんなこと、できるわけないと思っている。あるいは、する義理はないと思い込んでいる。もし、「人類みな兄弟」というような、かつて言われた標語に則って、その苦しみを分かち合い、兄弟姉妹の苦しみを軽減したいと、5万円ずつ出し合ったり、お金がない場合はボランティア活動で補ったりしたら、どれほど「抜苦与楽」の世界が実現することでしょうか? 「抜苦与楽」とは仏道の実践そのものです。
そんなことをいろいろと考え、早稲田や國學院の学生たちにも話をしました。仲代さんの活動とは比べ物になりませんが、NPO法人東京自由大学はわたしたちなりの「世直し」「心直し」のつもりでやってきました。しかし、この10年、創立以来ずっと年間数十万円の赤字が続いています。その赤字を、わたしたちも賛助会員として寄付して支えていますが、それ以上に、いろいろな方々の寄付によってそれが補填され、何とか今まで支えられてきました。本当に大切に思えるものはそのようにして運営したり、維持したりできるものです。もちろん、そこにはそれなりの努力や工夫が必要ですが……。またその中で、苦しみもありますが……。
わたしは、大重潤一郎監督のドキュメンタリー映画「久高オデッセイ第二部」の製作者をしています。製作者の仕事の第一は金集めです。こんなご時勢ですから、金集めには苦労します。最低800万円ほど必要な製作資金のうち、これまでにおよそ500万円ほどを集めました。お坊さんや神主さんや東京自由大学の仲間からもだいぶ寄付金を募りました。わたしも当然身銭を切りました。そして経済的にはたいへん苦しいけれど、そんな有志の方々の志によって映画は着々と完成に向かっています。来る3月7日には、以下のとおり、東京大学理学部小柴ホールで本邦初公開の上映会と「楽しい世直し」シンポジウムを開催します。Shinさんにもぜひ観てほしいと思います。
NPO法人東京自由大学設立10周年記念特別行事 (詳細はこちら)
『久高オデッセイ第2部』上映会+楽しい世直しシンポジウム
日付:2009年3月7日(土)
時間:10:00 〜 18:30
場所:東京大学本郷キャンパス 小柴ホール
〒113-8654 文京区本郷7-3-1(安田講堂裏、理学部1号館)
参加費:1日通し(Part 1〜Part 3)・・・当日 未定、前売り 4000円
Part 2+Part 3・・・当日 未定、前売り 3500円
Part 1・・・1000円
Part 2・・・当日 3000円、前売り 2500円
Part 3・・・当日 2500円、前売り 2000円
Part 1 大重潤一郎映画アワー
10:00〜12:00 『久高オデッセイ第1部』『水のこころ』上映
Part 2 『久高オデッセイ第2部』上映会+トークセッション
2006年11月に第1部が上映され感動を呼んだ「久高オデッセイ」の第2部の上映。病が奇跡的に回復した大重監督は、久高島再生の記録にさらに情熱を傾けている。
13:00〜15:00 『久高オデッセイ第2部』上映
15:00〜16:15 トークセッション
スピーカー:大重潤一郎 (映画監督・NPO法人沖縄映像文化研究所)
パネラー:島薗 進 (東京大学大学院教授)
阿部珠理 (立教大学教授・アメリカ先住民研究)
鎌田東二 (東京自由大学理事長、京都大学こころの未来研究センター教授)
コメンテーター:佐藤壮広 (立教大学講師)
Part 3 楽しい世直しシンポジウム
楽しい世直しのための発想と実践、アートとスピリットの覚醒のネットワーク
16:30〜18:30 シンポジウム
司会・コーディネーター:鎌田東二 (東京自由大学理事長、京都大学こころの未来研究センター教授)
パネリスト:上田紀行 (東京工業大学大学院准教授、文化人類学) 「仏教再生と世直し」
井村君江 (妖精ミュージアム名誉館長) 「妖精力と世直し」
海野和三郎 (東京自由大学学長、東京大学名誉教授) 「地球環境と世直し」
喜納昌吉 (音楽家、参議院議員)交渉中
場所・主催:NPO法人東京自由大学(JR神田駅徒歩5分、詳しくはこちら)
問い合わせ:03−3253−9870(NPO法人東京自由大学事務所)
またこの次の日には、モノ学・ワザ学合同研究会をNPO法人東京自由大学で開催します。入場無料です。Shinさんはワザ学の連携研究員ですので、ぜひこちらもご参加ください。
モノ学・感覚価値研究会+ワザ学研究会の合同研究会東京特別開催
日程:3月8日13時〜19時
場所:NPO法人東京自由大学
東京都千代田区神田紺屋町5 TMビル2階 / 電話&FAX:03−3253−9870。
JR神田駅徒歩4分。アクセスについては東京自由大学のHPを参照ください。
発表者:
竹村真一(京都造形芸術大学教授・文化人類学)「地球の目線と感覚価値」
小林昌廣(情報科学芸術大学院大学教授・身体表現研究)「屈む身体〜京舞と暗黒舞踏」
特別ゲスト:大重潤一郎監督「いのちとモノと感覚価値」
須藤義人(沖縄大学専任講師・映像民俗学)「儀礼におけるワザと感覚価値」
この10年、「楽しい世直し」を掲げて活動してきましたが、いよいよ真価が問われる時がやってきたと思っています。抱えてきた思想や感覚が時代の風の中で試され、練られ、より意味ある力強いものに育ち広がってゆくか、そんな「風」に吹かれ吹かれて糸の切れた自由凧として漂ってみたいと思っています。
先ほど、いつも行く大宮のプラタナスの巨木のところで、東北の方角から立ち昇ってくる望月を見ました。そして、その望月の下でバク転をしました。月に棲む兎や蛙のような恰好で。これをしないとわたしは生きる力が湧いてこないのですが、見上げると、今宵は月の中のウサギとカエルがとてもよく見えましたね。
仲代達矢さんは道破しました。「人間、太陽がある限り生きていける」と。しかし、われらはそれに次のように加えましょう! 「そして、人間、月がある限り、生きていける」と! 太陽と月、どちらもわたしたちの地球といのちになくてはならないものです。太陽を見上げ、月を見上げ、星を見上げて、生きていける、どんな時代であっても、どんな事態であっても。そんな生の存在証明をしていきましょう! Shinさん。
2009年1月11日 鎌田東二拝
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