身心変容技法オンラインセミナーを開催します

シンとトニーのムーンサルトレター第199信(Shin&Tony)

鎌田東二ことTonyさんへ

 

Tonyさん、20日の夜は東京で過ごしています。今夜の満月は、ネイティブアメリカンが「ハンターズムーン」と呼んでいる月です。「狩人の月」とはなかなか意味深ですが、人生の願い事が叶う月だとか。しかし、東京は曇りで、わたしの定宿からはハンターズムーンを見上げることができません。残念です。
ところで、このレターは第199信となります。あと1回で200信に到達するなんて信じられません。こうなったら、200信はもちろん、丸20年の240信を目指したいですね。


月への送魂

 

さて、一昨日、18日の夜、北九州市八幡西区のサンレーグランドホールで、「隣人祭り・秋の観月会」が開催されました。有縁社会再生のためのイベントですが、昨年はコロナ禍で中止でしたので、2年ぶりの開催となります。その日は十三夜でしたが、「月への送魂」も行われました。夜空に浮かぶ月を目指して、故人の魂をレーザー(霊座)光線に乗せて送る新時代の「月と死のセレモニー」です。多くの方々が夜空のスペクタクルに魅了されました。


月への送魂を背景に

 

それにしても、なぜ月に魂を送るのか? この質問は、これまで数え切れないほど受けてきました。その答えは、月は死者の霊魂が赴く死後の世界だからです。多くの民族の神話と儀礼において、月は死、もしくは魂の再生と関わっています。規則的に満ち欠けを繰り返す月が、死と再生のシンボルとされたことは自然です。「月への送魂」は、21世紀にふさわしいグローバルな葬儀の“かたち”であると思います。何より、レーザー光線は宇宙空間でも消滅せず、本当に月まで到達します。わたしは「霊座」という漢字を当てましたが、実際にレーザーは霊魂の乗り物であると思います。「月への送魂」によって、わたしたちは人間の死が実は宇宙的な事件であることを思い知るでしょう。


月次祭のようす

完全コロナ対応で・・・

 

「月への送魂」が行われた18日の朝、この日の早朝から、小倉の松柏園ホテルの神殿で恒例の月次祭が行われました。皇産霊神社の瀬津神職によって神事が執り行われましたが、祭主であるサンレーグループの佐久間進会長に続いて、わたしが玉串奉奠を行いました。一同、会社の発展と社員の健康・幸福、それに新型コロナウイルスの感染拡大が終息することを祈念しました。わたしと一緒に参加者たちも二礼二拍手一礼しました。儀式によって「かたち」を合わせると、「こころ」が1つになる気がします。


天道塾での訓話のようす

 

神事の後は、恒例の「天道塾」です。最初に佐久間会長が登壇し、地球環境への視点とSDGsの重要性などを訴えました。また、岸田新首相の掲げた「成長と分配の好循環」についての考えを述べました。続いて、わたしが、ワインレッドの不織布マスク姿で登壇しました。まず、「ずいぶんコロナの感染者も減ってきましたね。今夜は、2年ぶりの「月への送魂」を楽しみにしています」と述べました。わが社では、「月の広場」とか「月あかりの会」とか「ムーンギャラリー」といった名称を使っています。さらには、「月への送魂」や「月面聖塔」や「ムーン・ハートピア・プロジェクト」などもあります。そこには、同じ月を見上げることによって世界が平和になってほしいという願いや祈りが込められています。

 

それから、いま世界中で大絶賛されている映画「DUNE/デューン 砂の惑星」について話しました。宇宙を舞台にしたSF超大作ですが、時代設定をなんと西暦10190年としています。今から8170年も先です。遠い未来社会において「礼」が重んじられているのが非常に感動的でした。アトレイデス家に仕える人々は、当主に惑星アラキスの原住民のリーダーが面会するとき、彼に礼儀正しさを求めます。また、会議に当主が入ってくると、なんと一同は起立します。西暦10190年の世界に「一同起立!」があるとは驚きました。「一同礼!」もあれば良いのに!(笑)


『儀式論』(弘文堂)

 

さらに、未来の世界には、さまざまな儀式も存在します。映画の冒頭では、惑星アラキスをアトレイデス家が統治することになったことを記念する壮大なセレモニーが展開されました。結局、8170年先の未来でも人々は「礼」を重んじ、「儀式」を行っているのです。それは、社会を維持していくためには「礼」や「儀式」が必要なものであり、それは人間の本能によって支えられているということを示しているように思えました。西暦10190年という途方もない時代設定は、人類にとっての普遍を描くためだったのです。というわけで、「DUNE/デューン 砂の惑星」を観たわたしは、拙著『儀式論』(弘文堂)で展開した「人間が人間であるために儀式はある!」という自説の裏付けを得たような気になりました。

 

それから、話題の予言マンガである『私が見た未来 完全版』に言及しました。同書のオリジナル版は「ノストラダムスの大予言」に多くの人々が恐怖した1999年7月に刊行されていますが、作者の予知夢によって東日本大震災が発生した「2011年3月」という年月を的中させたとのこと。アマゾンでは、総合ランキングで1位を独走しています。先日、関東で震度5強の地震が発生しましたが、来る南海トラフ大地震への不安がこの本に多大な注目を集めているのかもしれません。さらに、同書の作者は、2025年7月に大津波が来て、日本人の多くが死ぬという恐ろしい予言もしています。


『私が見た未来』を持って説明

 

そして、次なる社会について、作者は「太陽が輝いていて、その光の中で誰もが一所懸命に働いたり、家族で仲良く食事を摂っていたり・・・・・・普通といえば普通の光景ですが、『平和』とは“安心できる”こと、とブータンの人たちがいっているように、『安心』こそが幸せだと思える社会なのだと思います。日本には『結』という言葉があります。『結』とは、労働力を提供し助け合う仲間たち。農作業などのとき、隣近所みんなで協働で助け合うのは当たり前のことでした。準備ができていれば被害は少なくてすむとはいえ、それなりの被害は避けられません。でも、そのとき仮に地球の人口が激減したとしても、残った人たちの心は決して暗くならないでしょう。心の時代の到来、つまり心と魂の進化が起こるからです」と述べています。

この「太陽が輝いていて、その光の中で誰もが一所懸命に働いたり、家族で仲良く食事を摂っていたり・・・」というくだりは、いま注目を集めている「グランピング」にも通じる世界ではないでしょうか。また、何よりも、「心の時代」が到来するという作者の言葉に、わたしは深い感銘を受けました。


別府湾に上る朝日

朝日を背景に

 

「平和」で「安心」な社会の前提となる太陽は、万物に光を降り注ぎます。わが社の社名である「サンレー」というのはSUNRAY、つまり太陽光線のこと。また、作者が取り上げた「結」という相互扶助システムは、サンレーの本業である「冠婚葬祭互助会」のルーツの1つであるとされています。わが社は、互助会のアップデートとして自社施設を災害避難所として地域社会に提供しています。すでに大雨などの災害で避難所を提供していますが、将来的には地震や津波などの災害支援をする可能性も高いと言えるでしょう。


『心ゆたかな社会』(現代書林)

 

わたしは、『心ゆたかな社会』(現代書林)を書きました。100冊目の著書である同書では、「心の時代」の到来を訴えています。作者の予言は、「サンレーよ、高い志をもって世の中を明るくせよ!」というメッセージであり、今年の11月18日に創立55周年を迎えるわが社へのエールのように思えてなりません。何事も陽にとらえて、他者の幸せを願う志を掲げていれば、企業は必然的に発展していくものと確信しています。

 

「志」といえば、幕末の動乱を描いた日本映画「燃えよ剣」を観ました。司馬遼太郎の小説が原作で、主人公は新選組の土方歳三です。映画のキャッチコピーには、「時代を追うな。夢を追え。」とあります。「誠」を掲げた新選組が求めたのは、結局は武士になりたいという「夢」でした。さらに土方自身は、大名になりたいという夢を抱いていました。「夢」とは、あくまでも私的な目標です。

公的な目標は「志」と呼ばれます。「志」を持つ者を「志士」と呼びます。新選組が斬ったのは、まさに志士と呼ばれる人々でした。志士のシンボルともいえる坂本竜馬の暗殺には関与していないと思われますが、土方歳三も多くの志士を斬りました。吉田松陰は、人生において最も基本となる大切なものは、志を立てることだと日頃から門下生たちに説いていました。そして、志の何たるかについて、「志というものは、国家国民のことを憂いて、一点の私心もないものである。その志に誤りがないことを自ら確信すれば、天地、祖先に対して少しもおそれることはない。天下後世に対しても恥じるところはない」と述べています。「夢」と「志」が対決すれば、最終的に「志」が勝つに決まっています。


天道塾での訓話のようす

 

かのクラーク博士は「ボーイズ・ビー・アンビシャス(少年よ、大志を抱け)」と言いましたが、わたしは「カンパニーズ・ビー・アンビシャス(会社よ、大志を抱け)」と言いたいです。そして、基本がソーシャルビジネスである冠婚葬祭互助会ほど大志を掲げ、かつ、それを果たせる業界はないのではないかと思います。最後に「いよいよ11月18日の創立55周年まで、あと1カ月。サンレーが発展すればするほど日本が良くなるという気概をもって、頑張っていきましょう!」と言ってから、わたしは降壇しました。その後に佐久間会長がマイクを取って、「これからは、『人間尊重』から『自然尊重』への転換が求められます。人間も自然の一部ですから」と締めくくりました。これは、ある意味で重大宣言です。かねてから、Tonyさんは「『人間尊重』を超えろ!」と言われていましたが、父がついに「自然尊重」を訴えたのです。「人間尊重」にしろ、「自然尊重」にしろ、世の中を少しでも良くしたいという「天下布礼」の想いは変わりません。大志を抱く会社の未来は明るいと信じます。

最後に、11月23日には「悲とアニマⅡ」のシンポジウム「日本人の死生観」でTonyさんと共演させていただくことになりました。会場は、京都大学稲盛財団記念館です。久々にお会いできますこと、心より楽しみにしております。それでは、次の満月まで!


シンポジウム「日本人と死生観」のチラシ

2021年10月20日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

ムーンサルトレターも「199信」、なんとなく、凄い数ですね。絶壁に佇んでいるような。エッジが立ちまくっている感じ。もう後がない、というか、先がない、というか。

でも、それが「200信」になると、何となく調和的なリセットされた感じになって、凄味が消え、ただ回数が多くなったなあ、という程度の感じになります。「199信」には末法感というか、終末感が漂っていて、好きだなあ~。この感じ。

さて、10月になって、わたしの方も、大変忙しくなってきました。もちろん、大学の授業も秋学期(後期)が始まったということもありますが、学会、セミナー、講演会、展覧会、シンポジウム、会議など、催しが目白押しで、ちょっとゆっくりする間がなくなっています。

そんな中、昨日、「月への送魂」の儀式をされたのですね。わたしも一度、小倉のサンレーグランドホテルだったかで、仲秋の名月の送魂の儀式を拝見したことがありました。神主の祝詞の後に、レーザービームが月に向かって一直線に射られるその風情に、古代と未来が奇妙にワープして、今自分はどこにいるのか、何の時代にいるのか、ふと迷子になったような感がありました。ファンタスティックな一瞬でした。「SF」とは、「サイエンス・フィクション(Science Fiction)」というばかりでなく、「スピリチュアル・ファンタジー(Spiritual Fantasy)」であることがわかります。わたしの大好きな「2001年宇宙の旅」も、サイエンス・フィクションにしてスピリチュアル・ファンタジーでしたね。典型的な。

そのレーザーが「霊座」であるとは、「サンレー」が「産霊」であり「讃礼」であり「Sun-Ray」であることと通い合いますね。お父上やShinさんは、コピーライターのセンスが抜群です。レーザーは「礼坐」光線であり、サンレーは「産礼」集団ですね。

お父上の佐久間進会長が、「これからは、『人間尊重』から『自然尊重』への転換が求められます。人間も自然の一部ですから」とお話を締めくくられたとか。いよいよ、来たか~!という感じを持ちました。折しも、Shinさんからムーンサルトレターが届いた今日、阿蘇山が爆発しましたね。火砕流も流れ出たよう。

佐久間進会長のご発言は、これまで「人間尊重」を理念にしてきた貴社サンレーが、それとともに「自然尊重」に舵を切ったということですから、その「自然尊重」と「人間尊重」の「神儒仏習合文化」の構築に、わたしなりにご協力させていただきます。なぜなら、「自然尊重」は神道の特性、人間尊重は悟り・解脱を求め成仏を希求する仏教やShinさんが大事にする儒教の特性です。その三つを「神儒仏習合」し、「諸宗協働」して当らなければ、この「国難」どころか「惑星難(地球難)」に対処できず、人類は絶滅するか、衰退するしかないでしょう。それはそれで、一つの自然界の摂理のひとコマかもしれませんが、手遅れであっても、新「神儒仏習合文化=自然尊重+人間尊重文化」を構築していく必要があると思っていますので、今後ともよろしくお願いします。

さて、この30年、 わがモットーは「楽しい世直し」を掲げ、Shinさんとも「志」を共にしてまいりましたが、このところ、森についてのトークを京都大学こころの未来研究センター特定教授(名誉教授)の美学者・吉岡洋さんとしました。

ちょうど1週間前の10月14日の夜7時から8時半まで、五条富小路通りにあるFabCafe Kyotoで、京都国際舞台芸術祭事務局の渡邊裕史さん、共同ディレクターのジュリエット・礼子・ナップさん・川崎陽子さん、吉岡洋さんたちと、「森とアート~京都芸術芸能の守護者京都三山」をめぐってトークしたのでした。

トークは、吉岡洋さんのタヌキ論から始まりました。柳田國男の『山の人生』の中に描かれているタヌキのこと。そして、タヌキの絵が紹介されました。また、「けもの言葉(動物語)」という、普通の人間の言葉でない言葉についての話になりました。吉岡さんは、タヌキの鳴き声を実演しました。そして、自分のyou tubeチャンネルは「ひるねのたぬき」と名付けたことも話しました。

そのタヌキが持つ化かす力。その「化かす」力とワザこそ芸術・アートの核心にあるものだ。そして、アーティストの鴻池朋子さんの『どうぶつのことば――根源的暴力をこえて』(羽鳥書店、2016年)の作品論などなど話は広がっていきました。

その吉岡洋さんのトークを受けて、わたしは徳島のタヌキ文化とキツネ文化の話から、森とアート、比叡山と東山修験道と京都伝統文化の森推進協議会のことなど、あっちこっちを往来しながら接続しました。このトークは、9月26日に上賀茂の瑞風庵で行なった「山怪~異世界への憧れと畏れ」のトークの第2弾にもなりましたね。

わたしは、遠藤周作さんの大ファンですが、遠藤さんは自分を「狐狸庵」と自称しており、「日本ウソツキクラブ」の初代会長を務めました。確か、二代目会長が臨床心理学者の河合隼雄さんでした。「嘘つき」はタヌキとキツネの「化かす」ことと似ていますし、アートとも似ています。わたしの母はタヌキに化かされた経験があります。そして、わたしの妻はキツネが大好きで、キツネのような女性です。人間にもタヌキ的人間とキツネ的人間がいると分類できます。妻もそうですが、小さい頃、キツネのようにシッポが生えたらいいなあ~といつも考えていたとか。それと同じことを子供のころの石牟礼道子さんが一人キツネ遊びをしていたようですね。水俣のトントン村の山の中で、コンコンキツネの真似をして、後ろを振り向いて、自分にシッポが生えているかどうか、確かめる。でも、いつも、シッポが生えていなくて、ガッカリする。そんな幼少期を過ごしていたとか。

わかるなあ~、その気持ち。その感じ。人間尊重以前の自然尊重や自然交歓の形。

「化かす」ということは 「化かされる」ことがあるということですね。この「化かす~化かされる」関係性は、とてもおもしろいです。「化かす」ことは簡単ではありません。リアリティや行動も変容させます。周囲の世界を変容させます。

続いて、森と四国遍路についても話をしました。わたしは遍路文化の真っ只中で育ちましたが、子供のころから森の中で一晩を過ごすような体験を持っていました。お遍路さんは、四国という島を 40日ほど歩き続けるのですが、①阿波国=発心の地、②土佐国=修行の地、③伊予国=菩提の地、④讃岐国=涅槃の地と歩き続けていきます。阿波から土佐へと太平洋岸を歩き続け、時々深い森や山中に分け入る。美しくも長い海辺から、くねくねと折れ曲がる厳しい山奥を歩き続ける。その過程でトランス状態になり、癒しの効果を感受するのです。

わたしは東山修験道を今743回以上行っていて、コロナ禍の中でそれを毎回記録として記憶としてYOUTUBE動画にアップロードしています。それはたくさんの人は観ないけれども、以前は写真だけだったのが、動画になると、四季や自然の細かいところが記録できて比較できるのが非常に興味深いです。

新月と満月の夜の山を歩く時、不思議なことに、新月の方が満月よりより安全なんですよ。というのも、新月は見えるものがないのでかえって自分の前を見ないで背中からやってくる別の感覚でナビゲートして進んでいける。背中に羽根が生えたような感覚で。

でも、満月は、本来、道でないものまで見えるのです。満月の夜には、秋であれば枯れた落ち葉が、本来道でないものも道に見させてしまうのです。「光が人を化かす」のです。まるで、タヌキやキツネに化かされたように、わたしたちは、道でない道に踏み込み、迷い込んでいきます。満月は人を化かします。トランシルヴァニアの吸血鬼も満月の夜に大活躍するのではないでしょうか?

スマートフォンと森との関係ですが、現在のSNSやスマートフォンのある世界はアルゴリズムやリコメンドなどがあり、一見目の前が見えすぎ、満月のような状態で本当の道(生存のためのライフライン的情報・情報道)が見えなくなるのです。森の中で一夜を過ごすような感覚がスマートフォン全盛のこの時代にはないのです。稲荷山の清滝で夜とか滝行すると、本当に「化かされる」感覚を実感しますね。

わたしたちの中には、縄文ソフトもアプリも内蔵されています。そこで、自分の内的GPSをどう見るか、身体のGPSをどう機能させるかが課題となります。その時、大事な感覚は視覚がそうであるように、前方にあるわけではなく、聴覚や触覚や背中の感覚です。キン肉マンや超人バルクのように、筋肉がムキッと出るように羽根が背中から出てくるのです。新月の夜には、背中が飛び出るのです。天狗のように。それが全方位的に開いていく感覚です。自分自身が変容するのです。

漆黒の闇。現代社会では滅多に経験しないのですが、それを実際に経験すると、安心感をもたらします。深い安らぎを感じ、意識の深層で身体の感覚を切り替えることができます

現代社会は、「奥」の感覚が失われましたね。それは、「距離」の遠さではなくて、関係性の浅深でもあります。昔は、奥座敷とか、寺院や家屋に奥の感覚がありましたが、現代ではそれが失われています。奥宮と里宮の関係性が崩れてきています。『もののけ姫』のシシガミは、昼間は鹿の姿、夜はダイダラボッチになり、森の中をめぐります。「自然尊重」というのは、そのような自分の身体の深みに分け入っていくことでもあります。

わたしは、いつでもトトロに出会うことができるように、スマートフォンは持ちません。 スマートフォンなどを持っていると、森の中で、トトロと出会う入り口には入れなくなるのです。スマホがないことでスピリチュアルなものにつながる身体や心のGPSに繋がる回路を維持できると考えています。ナビゲーションのグローバリゼーションにわたしたちは無意識理に組み込まれています。SNSに取り込まれています。このムーンサルトレターも一部そうですが。その中で何を考えるのか、自分の感覚をどうするのか、SNSを切るスイッチも併せ持つことが必要だと思っています。

比叡山の山中で出会ったおもろい人々がいます。森や山はグリーフを浄化し癒す力を持っています。

ここで2つの交叉する視点があります。1つは、「森はアートである」という視点。 これは東山修験道者としての自分には十分納得できるリアリティのある視点です。2つめは、「アートは森である」という視点。 これも多くのアーティストの自由奔放のように見えながら、「密接錯雑」(南方熊楠の言葉)する関係の網の目にある「アートの森」の中に生息する諸動物=諸アーティストたちの視点であろうと思います。森は、天から日光と雨を受け、風雨にさらされながら保水し、時には崩落したりしますが、多様な樹種・樹木を養い育て、諸動物の生息環境を提供します。その生態系サービスの循環と連鎖とネットワークは、まさに「曼荼羅」そのもので、アートはそのマンダラ世界に参入していくパスワードのようなマントラ(真言・独自の鑰語)のようなものです。

そのトークを、京都大学大学院生や大谷大学の大学院修了性のお坊さんや京都市立芸術大学の院生の若い人たちが聞きに来てくれて、後でいろいろと質問してくれました。その質問もおもろく刺激的やったなあ~。

その夜、緑の自転車を駆って、45分ほどかけて、五条大橋を経て賀茂川沿いの川端通りを北上し、曼殊院道に入って一乗寺の巣まで帰ったのですが、家に着いたら21時半近くになっていました。しみじみとしあわせな一日でした。ありがたいよるでした。

2021年10月20日 鎌田東二拝