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シンとトニーのムーンサルトレター 第167信

 

 

 第167信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、わたしは東京に来ています。気温が20度もあり、もう春の暖かさです。桜も各地で開花していますが、今回は平成最後の「3・11」のお話から始めたいと思います。今年の3月11日は、東日本大震災の発生から8年目の日でした。14時半から東京の国立劇場で内閣府主催の「東日本大震災八周年追悼式」が開催されました。平成最後の追悼式典となりますが、わたしも参列いたしました。

国立劇場で開催された「東日本大震災八周年追悼式」

国立劇場で開催された「東日本大震災八周年追悼式」平成最後の追悼式に参列

平成最後の追悼式に参列

 内閣府のHPに掲載されている開催趣旨は「東日本大震災は、被災地域が広範に及び、極めて多数の犠牲者を出すとともに、国民生活に多大な影響を及ぼした未曽有の大災害であったことから、発災8年を機に、国として、被災者を追悼する式典を開催するものです」とあります。今年の1月22日、東京は亀戸の結婚式場「アンフェリシオン」で一般社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)の歴代会長と正副会長等との懇談会が開かれました。そこで今回の「東日本大震災追悼式」に参列する全互協の代表にわたしが選ばれたのです。このような国家規模の追悼式典にぜひ参加したいと常々思っていましたので、大変名誉なことと、二つ返事でお引き受けしました。

 秋篠宮同妃両殿下、安倍内閣総理大臣をはじめ、衆参両院の議長、最高裁判所の長官など、国家の最重要VIPが参列されるということで、警備は厳重でした。SPの数がものすごかったです。カメラはもちろんNGですが、飲み物や手荷物などもすべて受付で預けなければなりません。携帯電話だけは電源OFFもしくはマナーモード設定ということで許可されました。事前に内閣府から「御留意事項」が届いていましたので、なんとか事なきをえました。

 式典はやはり荘厳そのものでしたが、「開式の辞」で追悼式実行副委員長の菅官房長官(実行委員長は安倍総理)が「ただ今より、東日本大震災記念式典を行います」と宣言したのには仰天しました。「追悼式典」を「記念式典」と言い間違えたわけです。厳粛なセレモニーの冒頭で痛恨のミスでしたが、わたしは「八周年」という表現にも違和感があります。「周年」というのは創業とか結婚とか、お祝いのイメージがあるからです。原爆の日や終戦の日に「周年」を使うのも違和感をおぼえます。悲劇の場合は「〜周年」ではなく「〜年」がふさわしいように思います。だから、わたしは「東日本大震災八年」と表現しています。もしかしたら菅官房長官は「記念」ではなく「祈念」と言いたかったのかもしれませんが、「祈念」だけでは意味が通りません。「平和祈念」とか「治癒祈念」といったように祈念する対象を明らかにすることが必要です。

 主催者である安倍総理のお辞儀は見事でしたが、式辞の内容が犠牲者への鎮魂や慰霊の言葉というよりも、残された被災者の方々への復興の現状の説明が多かったです。なんだか政策アピールのように感じられました。もっと、死者への言葉が聞きたかったですね。

 一方で、遺族や被災者の方々の「ことば」はいずれも死者へのメッセージで、非常にリアルであり、亡くなった家族への情愛がこもっており、聴いていて涙が出てきました。退場時に福島県代表の遺族の高齢男性が階段につまずいて転びそうになったとき、同じく福島県の被災者の女性がさりげなく支えてあげた姿に感動しました。極限の経験をされた方の心の優しさを見せていただいた思いでした。

 それにしても、このような追悼式を行うことは素晴らしいことです。この日は150を超える諸外国の関係者も参列されていましたが、オリンピックが「人類の祭典」なら、このような追悼式も「人類の典礼」であると思いました。世界中の多くの人々が犠牲者のために献花する姿を見て、わたしは「生者は死者とともに生きている」「人間とは死者を弔う存在である」という持論が間違っていないことを改めて痛感しました。

 秋篠宮同妃両殿下が御退席された後は、献花が行われました。安倍内閣総理大臣にはじまって、衆議院議長、参議院議長、最高裁判所長官の3人、それから岩手県、宮城県、福島県の被災者および遺族、続いて政党代表(共産党の志位委員長の姿もありました)、続いて各国代表、その後で首相経験者、両院の副議長、国務大臣(官房長官含む)、官房副長官および副大臣、政務官、内閣総理大臣補佐官、両院常任委員長および特別委員長、その他の国会議員および最高裁判所判事、都道府県知事・・・・・・と延々と続きました。わたしたちの順番は政令指定都市市長などの後でしたが、開始からずいぶん時間が経過しました。なんだか人間として低いクラスに扱われたようでけっして良い気分はしませんが、でもこれが儀式なのです。なによりも「礼」とは順番を重んじます。良きにつけ悪きにつけ、このような儀式を行うから人間なのだと思います。

 もうすぐ平成が終わりますが、30年におよぶ平成の歴史の中で、最大の出来事はやはり東日本大震災ではないでしょうか。わたしたちの人生とは喪失の連続であり、それによって多くの悲嘆が生まれます。大震災の被災者の方々は、多くのものを喪失した、いわば多重喪失者です。家を失い、さまざまな財産を失い、仕事を失い、家族や友人を失いました。しかし、数ある悲嘆の中でも、愛する人の喪失による悲嘆の大きさは特別です。

 グリーフケアとは、この大きな悲しみを少しでも小さくするためにあります。わたしはサンレーの社長として、また、上智大学グリーフケア研究所の客員教授として、これからもグリーフケアの研究と実践と普及に尽力したいと思います。

 「東日本大震災八周年追悼式」の翌々日、東京から北九州に戻りました。北九州空港からサンレー本社の社長室に行くと、わが最新刊である『決定版 冠婚葬祭入門』(PHP研究所)の見本が届いていました。サブタイトルは「基本マナーと最新情報を網羅!」です。春らしいピンク色の帯には、「知って安心! 新しい時代に備えたい一冊」と書かれています。2014年4月に上梓した『決定版 冠婚葬祭入門』(実業之日本社)のアップデート版ですが、前回同様に出版プロデューサーの内海準二さんがプロデュースして下さいました。あと48日で新元号となりますが、新時代に完全対応したまったく新しい冠婚葬祭入門です。PHPさんによって書店はもちろん全国のコンビニにも置かれますので、日本人の冠婚葬祭に対する考え方にかなり影響を与えるかもしれません。同書は、昨年7月に刊行された『決定版 年中行事入門]』(PHP研究所)の姉妹本です。2冊揃えば、日本人の「こころ」の「かたち」を俯瞰することができます。

『決定版 冠婚葬祭入門』(PHP研究所)

『決定版 冠婚葬祭入門』(PHP研究所)

 もうすぐ新しい元号が決まり、新しい天皇陛下が即位されます。すべての日本人が大きな節目を迎えることになりました。改元に際して、新天皇が誕生する秘儀である「大嘗祭」をはじめ、多くの儀式が執り行われます。改めて日本は、儀式にあふれている国であることを実感しています。ときには人間に恵みをもたらし、ときには人間の生命をも奪う自然というものに対して畏敬の念をもちながら、神事などのセレモニーを大切にしてきたのが日本人なのではないでしょうか。それが「冠婚葬祭」になったのではないでしょうか。 一方、日本では四季がはっきりしているがゆえに「年中行事」が発達・普及したように思います。

 新元号のもと、東京でオリンピック・パラリンピックが開催され、大阪では万国博覧会が開かれます。それらのビッグイベントが開催されるニュースを聞いたとき、わたしはかつての日本の歴史と重なりました。1964年の東京オリンピック、そして1970年の大阪万国博覧会です。じつは同時期の日本で、歴史的ベストセラーが生まれています。1970年1月30日発行の塩月弥栄子氏が書かれた『冠婚葬祭入門』(光文社カッパ・ホームズ)です。5か月間で100版を超す大ベストセラーとなり、総発行部数は300万部を超え、その記録は現在に至るまで破られていません。

 日本という敗戦国が、五輪と万博という二大国際イベントによって国際社会に本格的デビューを果たしたとき、「国際化はしたけれども、日本の文化は大丈夫か」といった不安感が当時の日本人の心の中に湧き上がったのではないでしょうか。そうした不安が具体的には核家族というライフスタイルが確立される中、古い世間との付き合い方(冠婚葬祭)への戸惑いとして、入門書を手に取らせたのではないでしょうか。「そのやり方で大丈夫」という冠婚葬祭との付き合い方にお墨付きと安心を与えてくれたのが、塩月弥栄子版『冠婚葬祭入門』だったのかもしれません。

 この度の改元に際し、わたしは同じような空気感を感じています。世界はインターネットで瞬時につながり、「日本」という国家、「日本人」という国民性、「日本的」という文化の輪郭のようなものが、それぞれ不明瞭になっているように思えてなりません。ゆえに、わたしたちは「日本」そのものの存続に不安を感じているのかもしれません。そこで、日本人の「こころ」を「かたち」にした冠婚葬祭の存在が非常に重要になってくると考えます。

 そもそも人間とは哲学者のウィトゲンシュタインが言うように「儀式的動物」であると思います人間は儀式を行うことによって不安定な「こころ」を安定させ、幸せになれます。その意味で、儀式とは、幸福になるためのテクノロジーなのです。さらに、儀式の果たす主な役割について考えてみましょう。それは、まず「時間を生み出すこと」にあります。日本における儀式あるいは儀礼は、「人生儀礼」(冠婚葬)と「年中行事」(祭)の二種類に大別できますが、これらの儀式は「時間を生み出す」役割を持っていました。

 わたしは、「時間を生み出す」という儀式の役割は「時間を楽しむ」に通じるのではないかと思います。「時間を愛でる」と言ってもいいでしょう。日本には「春夏秋冬」の四季があります。わたしは、儀式というものは「人生の季節」のようなものだと思います。七五三や成人式、長寿祝いといった人生儀礼とは人生の季節、人生の駅なのです。わたしたちは、季語のある俳句という文化のように、儀式によって人生という時間を愛でているのかもしれません。それはそのまま、人生を肯定することにつながります。 そう、冠婚葬祭とは人生を肯定することなのです。

 人間の「こころ」は、どこの国でも、いつの時代でも不安定です。だから、安定するための「かたち」すなわち儀式が必要なのです。そこで大切なことは先に「かたち」があって、そこに後から「こころ」が入るということ。逆ではダメです。「かたち」があるから、そこに「こころ」が収まるのです。人間の「こころ」が不安に揺れ動く時とはいつかを考えてみると、子供が生まれたとき、子どもが成長するとき、子どもが大人になるとき、結婚するとき、老いてゆくとき、そして死ぬとき、愛する人を亡くすときなどがあります。その不安を安定させるために、初宮祝、七五三、成人式、長寿祝い、葬儀といった一連の人生儀礼があるのです。

 「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助翁は、「竹に節(フシ)がなければ、ズンベラボーでとりとめがなくて風雪に耐えるあの強さも生まれてこないであろう。竹にはやはり節がいるのである。同様に、流れる歳月にもやはり節がいる」との名言を残しています。冠婚葬祭という人生儀礼こそは、人間が生きていく上で流れる歳月の節にほかなりません。冠婚葬祭という節が人間を強くし、さらには人生を豊かにするのではないでしょうか。その意味で、本書は「人生の節」のガイドブックなのです。『決定版 冠婚葬祭入門』は20日に発売されますので、Tonyさんにも献本させていただきます。ご笑読のうえ、ご批判いただければ幸いです。それでは、次回の「平成最後の満月」まで、ごきげんよう!

2019年3月21日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 ムーンサルトレター167信、ありがとうございます。松下幸之助さんの「竹には節が要る」という言葉は含蓄がありますね。確かに通過儀礼は人生という竹の節目だと思います。その人生の節目を指南する『決定版 冠婚葬祭入門』は、昨3月20日に発売されたのですね。オウム真理教事件の節である地下鉄サリン事件が起きたのが1995年「3月20日」でした。その日は、わたしの44歳の誕生日でしたが、同時に、哲学者の梅原猛さんの満70歳の誕生日でもありました。梅原猛さんとわたしは誕生日が同じです。

 そこで、梅原さんが存命であれば94歳になる昨日、梅原猛さんのお宅にお焼香に行ってまいりました。東山山麓の大変落ち着いたただ住まいのお家にはこれまでに3度訪問したことがありましたので、昨日で4回目となります。以前伺った時には、法隆寺の柱をいただいたんだよ、と嬉しそうに食堂に建てられた柱のことを話されていました。もちろん、『隠された十字架』が出版されただいぶ後のことです。お参りの後、奥様と長男の美学者の梅原賢一郎京都造形芸術大学教授と久しぶりで2時間ほど話をし、梅原さんのお仕事の大きさ、幅広さ、偉大さを改めて強く感じまました。折しも、青土社から刊行された「ユリイカ」の「梅原猛総特集追悼号」が出たばかりで、梅原家に3冊届いていました。梅原賢一郎さんや河合雅雄さんや中沢新一さんも寄稿しています。わたしも短文を寄せました。

 梅原さんが亡くなったのは、本年1月12日で93歳の大往生でしたが、今月の3月12日に前立教大学教授の阿部珠理さんが亡くなりました。振り返ってみたら、癌だったのかと思いますが、67歳のあまりにも早い死でした。2年前のちょうど今時分、2017年3月11日、わたしは立教大学で行なわれた阿部珠理教授の最終講義&退任記念パーティーに参加し、阿部さんから直々にパーティーで法螺貝を吹くことを所望され、喜んで応じたのでした。あれから2年、あまりにも早い珠理さんの他界で、残念無念であります。珠理さんであれば、これからもっともっとおもろく、はげしく、豊かな仕事や活動をいっぱいしてくれると期待しておりました。本当に残念です。

 梅原家では、梅原猛さんの遺影の前で、石笛・横笛・法螺貝のわが三種の神器を奉奏させていただきましたが、それが終わる頃に、人間国宝の能楽師の梅若玄祥さんがお参りに来られました。梅若さんは梅原猛さんの作ったスーパー能「世阿弥」のシテを務めましたが、今年の秋、東京で再演する意思を示されていました。その折にはぜひ再度観てみたいと思います。わたしは初演時に大阪フェスティバルホールでその舞台を観ています。

 そのような逝去の出来事がある反面、今朝、叡電から京阪出町柳で乗り換えて電車に乗ろうとした時、「カマタセンセイ!」と声がするので、振り返ったら、同志社大学助教の臨床教育学者の奥井遼さんが2歳くらいの子どもを抱いて追いかけてきたのです。奥さんも一緒に。これから一人息子に京阪電車を見せるとかで、うれしそうでした。思わずわたしもうれしくなりましたね。まさに昨日今日は「人生の節目」を感じました。奥井さんの長男は奥井さんによく似ていました。梅原賢一郎さんは梅原猛さんによく似ています。DNAは凄いと改めて感心しました。Shinさんも御父上のDNAをストレートに受け継いでいますね。

 ところでわたしは、3月初旬に5日間、韓国に行っておりました。韓国忠清道青洲市俗離山の元国立公園の俗離山俗離森体験休養村で、朝9時から18時20分まで3日間、缶詰め状態で、報恩郡庁主催・東洋フォーラム運営の「第4回老年哲学国際会議」に参加したのでした。韓国側の発表者は、大学教授や新聞記者など13人、日本側の発表者は東京大学名誉教授など8人で、発表と議論を併せて各90分が次々と発表し議論していき、3日間フル回転でした。プログラムは以下の通りです。

開会式 主催者挨拶 ジョン・サンヒョク報恩郡守
          チョ・チョルホ東洋日報会長
          山本恭司未来共創新聞社長
主旨説明 金泰昌主幹

第1日 <老年と三世代 相和・相生・共福>
発題1 鎌田東二「未来を拓く老人と子どもの物語力」
発題2 小川晴久(東京大学名誉教授)「童子(童心)の先天と後天」
発題3 ジン・キョウフン(ソウル大学名誉教授)「老少同楽と共通善」
発題4 ソン・ビョンウク(慶南大学校教授)「南冥の老年期にみる老人と若者の未来共創」
まとめとひらき 金泰昌主幹進行

第2日<世代葛藤と世代継承>
発題5 ウォン・ヘイォン(東国大学校講師)「棄老伝説」
発題6 山本恭司(未来共創新聞社長)「世代継承生生と未来共創実践学」
発題7 ファン・ジンスウ(漢城大学校名誉教授)「韓国の世代間葛藤現象と解消方案」
発題8 キム・ヨンファン(忠北大学校教授)「老少同行 開新倫理」
発題9 北島義信(四日市大学名誉教授・浄土真宗高田派前住職)「老人と子どもの未来共創」
発題10 大橋健二(鈴鹿医療科学大学講師・ジャーナリスト)「弱い個と孝の哲学」
まとめとひらき 金泰昌主幹進行

第3日<老年と世代間相生>
発題11 キム・ヨンミ(大田大学校講師)「癒しとしての老年哲学」
発題12 峯眞依子(中央学院大学助教)「非生産者としての老人と子ども、そして人間の尊厳について」
発題13 ソン・ソオン(相互学習協同組合理事)「若きと老いの間で老年を考える」
発題14 ジョ・チュヨン(コットンネ大学校教授)「青年層と老年層の対立と葛藤」
発題15 オ・カンナム(カナダ・リジァイ大学名誉教授)「老年を考える」発題16 原田憲一(前至誠館大学学長)「自然学と未来共創」

全体討論 金泰昌主幹進行

俗離山から見た山並み

俗離山から見た山並み

左から、山本恭司未来共創新聞社長、報恩郡守、金泰昌主幹、金鳳珍教授

左から、山本恭司未来共創新聞社長、報恩郡守、金泰昌主幹、金鳳珍教授開会挨拶する劉成鍾東洋フォーラム運営委員長

開会挨拶する劉成鍾東洋フォーラム運営委員長

 今回の第4回老年哲学国際会議のテーマは「老熟年世代・中壮年世代・青少年世代:三世代相和・相生・共福社会を指向して」でした。この「三世代相和・相生・共福」というテーマは持続可能な豊かな社会の形成にとって最も重要な課題となるものですね。主催者側の金泰昌東洋フォーラム主幹は、本国際会議を企画する根本主旨を、①活古開新、②活地開天、③活老開来にあると述べました。古き良き伝統を活かしつつ新しい状況を切り拓き、具体的な地上の営みを活かして未来や世界に向かう大きな天空を開き、そして老年哲学の掘り下げと掘り起こしによって老年世代を活かして現状を打開し未来に繋いでいく。その「活老」のありようとしては、
①省老(老いを省察すること)
②改老(老いのライフスタイル・生き方を改めること)
③連老(老いのつながりを形成し、老少の世代間継承を確かなものにすること)
の3つの老いの形を提示されました。Shinさんの活動とも大いに通じるものですね。

 今回の老年哲学国際会議のテーマは、わたしがこれまで四〇年来提唱してきた「翁童論」のテーマと大いに重なります。わたしは、「翁童論」四部作(『翁童論—子どもと老人の精神誌』1988年、『老いと死のフォークロア−翁童論Ⅱ』1990年、『エッジの思想—翁童論Ⅲ』『翁童のコスモロジー−翁童論Ⅳ』2000年、すべて新曜社刊)で、老人と子供が表裏一体にして相互補完的な生命存在であるという人間学的命題を問題提起しました。今回の国際会議はこの『翁童論』四部作の問題提起を「老少同行」ないし「老少同行同楽・共楽共福」というより包括的な観点から取り上げて、老人と子供の相関を議論するもので、大変刺激を受けました。わたしはは最初の発表者として「未来を拓く老人と子供の物語力」と題して発題しました。

 「翁童論」の基本コンセプトは、子供は単に子供にすぎないのではない、子供は実はその奥に老人性を内包している存在であるという観点に基づいて、子供と老人は「死としての誕生(霊的死=肉体的誕生)」と「誕生としての死(霊的誕生=肉体的死)」という逆対応する存在でありつつ、「翁を内在化した童(霊翁)」という霊的過去の影を宿した子供と「童を内在化した翁(霊童)」という霊的未来の影を宿した老人として共に霊性の軸を共有し、相補的に連続し合っていると相互連環を示すものでした。翁は童を内在化し、童は翁を内在化していると翁童(老少)の生命的連続性や霊的継承関係を主張したわけです。

 これは一つの老少人間学の立場ですね。わたしの考えでは、今ここにいる「子孫」の私たちこそ、同時に「先祖」です。子孫すなわち子供は先祖の変容した姿にほかならないのです。そこでは、先祖崇拝や先祖供養は必然的に子孫崇拝や子孫供養になります。つまり、子供を育てることが先祖供養の現在形ということになるのです。そのような思想構造が日本文化のみならず、世界の先住民文化の中に潜在しているとわたしは考えています。

 「翁童論」の中で何度も繰り返しましたが、日本の沖縄には「ファーカンダ」という民俗語があります。それは、「ファー(葉)」と「カンダ(蔓・茎)」との合成語で、そこには人間存在は「ファーカンダ」的な連続性の中にあるという生命直観があります。またそこには祖父母が孫に生まれ変わるという思念が内在されています。いのちというものは、実は、葉と蔓や茎との関係性のように切り離すことのできない連続性の中に置かれている。切り離されて独立しているかに見えて、その独立性は事の一面にすぎないという生命観・人間観です。そこにおいては、線型的には子供は成長してやがて老人になるが、その老人は再び子供に還ってゆくという生命連鎖と循環の中にあります。そして先祖は子孫となり、子孫は先祖となるのです。そこに、魂ないし霊性のエコロジー、スピリチュアルなエコロジーが直観されているとわたしは子どもの頃から考えていました。

 しかし、そのような「翁童論」は今、深刻な現実に直面しています。カナダのリジャイナ大学宗教学科名誉教授で華厳哲学の研究者のオ・ガンナムさんは、発表の冒頭で、韓国では今「地空居士」が社会問題になっていると斬り出しました(論文集349‐350頁)。発表論文に次の一節がありました。


<この前の韓国の『京郷新聞』2019年1月10日の記事によれば、六十五歳以上の老人たちは特に仕事もないので、無料で乗車できる特典を利用して地下鉄で「寒さと暑さを避けながら安く時間を過ごしている」とあった。こんなふうに地下鉄を利用する老人たちを皮肉って地空居士という名前がついたという。地下鉄に無料で乗って遊び暮らす人という意味である。(訳注:空(コン)は「無料・タダ」という意味の韓国語「コンチャ」から来ている。)

 この老人たちは無料で地下鉄を利用して春川・温陽温泉など、地下鉄の終点までぶらり旅を兼ねて出かけ、お昼を食べて、安く利用できる映画館やカラオケで時間を過ごして帰ることもあり、また地下鉄を利用して遠くの無窮給食所まで訪ねて行き、食事の問題を解決するのもよくあることだという。無料乗車の特典を利用して地下鉄で宅配する仕事をしたりもする。

 もちろん、韓国のすべての老人がこのような境遇に置かれているわけではないだろう。だが『京郷新聞』の分析によれば、「OECD(経済協力開発機構)会員国のうち最も早い韓国の高齢かを勘案すれば、地下鉄に乗っている地空居士は今後さらに多くなると予想される」という。確かにそうだろう。

 実際、地空居士の増加と同時に、韓国はOECD会員国のうちに老人自殺率が一番高い国にもなっている。OECD平均の老人自殺率が十万人当たり一五・四人なのと比べて、韓国はなんと四五・八人だという。なぜこういう現象が起きるのだろうか?

 もちろん、こうした高齢化時代に備えて個人や国家があらかじめ適切な手を打っておくことができなかったのが最も直接的な原因かもしれない。多くの場合は、引退した時にもらった退職金で自営業を試みて使い果たす場合もあれば、子供の大学の学費や結婚費用や創業資金の援助でなくなる場合もある。あれやこれやで相当数の老人たちは貧困に陥らざるを得ない。結果的に老人貧困率もOECD平均が一二・一パーセントなのと比べて、韓国は四八・八パーセントだという。

 さらに、若者たちの中には、こうした貧困層の老人たちを社会的な負担と考えて嫌悪する向きさえある。伝統的に「孝」と敬老思想が徹底していた韓国において老人差別(ageism)が台頭している。こんな状態なのに、国家の公的年金は彼らの老後を保証する手段としてはまったく不足している。実際、一九八〇年代前後には彼らが韓国の経済発展の主役だったことを勘案すれば、実に残念な現象だと言わざるを得ない。>(「老年を考える」349‐350頁)


 韓国は日本以上に高速で超高齢化社会になってきていました。現実は大変深刻ですが、その中で、老いのポジティブな意味と価値の再発見が極めて重要だという認識の上で発表や議論が交わされいきました。この国際会議の内容は、今年中には韓国語で本になるようですので、出たらその反響を探りたく思います。

 わたしは「翁童論」で、老人と子どもを対関係として捉える視点を提唱し、老幼一体化した「翁童施設」の建設と運営、「翁童遊び」という文化創造の必要を説いてきました。そのようなわたしの『翁童論』に共感を示してくれた精神医学者が、平井信義先生(1919‐2006年)でした。平井先生は、『子ども期と老年期—自伝的老人発達論』(太郎次郎社、1988年)の中で、児童・老年精神医学の観点から、「老年期にも発達がある。子ども期にいたずら・反抗・けんか・おどけ・ふざけの多かった子は自発性が発達し、意欲が育ち、死ぬまで生き生きとした生活をおくる。“老”のなかに“幼の心”があり、“幼”のなかに“老の心”がある」と指摘しています。老いを豊かに創造的に生きるためには「童心」が不可欠なのです。老心の中に幼心があり、幼心の中に老心があるのです。子供と老人は誕生と死の両端にいる、生存のエッジと「節目」を生きている存在なのです。

 日本は世界に先駆けて「世界一の超少子高齢化社会」に突入しています。そのため、好むと好まざるにかかわらず、未来の少子高齢化社会の先進事例ないしモデルを提供することになります。しかしながら、今日現在、老人と子供が置かれている現実はどうでしょうか? 老人も子供も孤立し、分断され、きわめて過酷で抑圧的な状況にあるように見えます。とりわけ、教育への囲い込み(人的資源としての子どもへの投資)と介護への放擲(社会的経費削減)の両極に縛られています。

 子供と老人に共通するのは「弱さ」(脆弱性、機能未開発と機能低下)と定点性(小さいけれども濃密な地域性)です。子どものひ弱さや繊細性、老人の脆弱性など、その「弱さ」と定点的なコミュニティ性を深く認識していくことは、これからの人類文化と人類文明の基盤認識として重要な視座と共有財産となるにちがいありません。加えて、多様性を受容し愛でる寛容、応用力(経験活用力)や時間軸(生の遠近法)、有用性からの解放と身心変容の諸相など、「老人力」が示唆するところも多々あると思っています。そのことをこれまで「翁童論」として、いろいろな角度から問題提起したのでした。

 老いの現実を踏まえて、老いをどのようにポジティブに描き、展開できるか。韓国も中国も物凄いスピードで少子高齢化社会に突入しています。これが東アジア社会の共通問題の一つです。わたしの友人の元日本医科大学教授の長谷川敏彦さんは「東アジア共老圏」構想を提案していますが、「翁童」の未来は不透明です。わたしは今年中に『翁童論Ⅴ』(新曜社)を出し、リアルでファンタスティックな新翁童論を展開したいと考えています。

 ところで、8年間に及ぶ科研「身心変容技法研究会」の研究年報・最終号の「身心変容技法研究第8号」のPDFを、「身心変容技法研究会」HP:http://waza-sophia.la.coocan.jp/の「研究年報」欄に全頁掲載しました。力作揃いの320頁、前代未聞のヴォリュームです。ぜひ読んでください。構成は以下の通りです。

鎌田東二刊行にあたって第1部 身心変容技法と霊的暴力鎌田東二身心変容技法と霊的暴力3〜大本事件とオウム真理教事件を中心に島薗進近代日本の軍の宗教性と心身変容技法井上ウィマラマイントフルネスか説かれた歴史的背景と霊的暴力に関する一考察永澤哲意識の能力増強・慈悲・魔大田俊寛社会心理学の「精神操作」幻想——グループ・ダイナミックスからマインド・コントロールへ牛山凜 オウム事件の記憶についての一考察宗形真紀子オウム真理教と魔境 第2部 武術・芸術・芸能というワザ学倉島哲モース「身体技法論」における負の感情の抑制奥井遼わざが跳躍するとき——フランス現代サーカス学校の一幕より老松克博武術家とアスリートの身心変容をめぐって——ユング派深層心理学の観点から秋丸知貴「もの派・小清水漸論」第3部 霊性の探究鶴岡賀雄身心変容のものかたりとしての『霊の讃歌』ロイス神父(檜垣樹理訳)キリスト教の典礼の祈りの実践——浄化と一致の冒険檜垣樹理カトリック世界の身心変容—鶴岡賀雄「身心変容の〈詩/ものがたり〉としての十字架のヨハネ『霊の讃歌』」・ロイス・ドゥサンシャマ(Loys de Saint Chamas)「キリスト教の典礼の祈りの実践—浄化と一致の冒険」発表へのコメント大内 典身心をひらく声—仏教の声わざ永澤哲創造と愛ー高原の女神(2)アルタンジョラー呪術の変容力—ドムの事例を通して葛西賢太スピリチュアルケアにおける身体・感覚・感情井関大介儒教における身心変容技法第4部 心の模様河合俊雄身心変容技法における決定・未決定の緊張関係と逆説——心理療法と現代の意識の関わりから津城寛文身心変容における陶酔と覚醒桑野 萌祈りと身心変容熊野宏昭マインドフルネスと認知行動療法第5部 身心変容の科学野村理朗「無心」の心理学 —科学の遡上からいかにして問うのか古谷寛治身心変容的分子生物学のススメ稲葉俊郎医学と催眠の歴史から見る身心変容第6部 国際シンホシウム身心変容のワザと哲学 ベルナール・アンドニュー、レオニード・アニシモフ、張明亮、奥井遼、アレクサンドル・ルジャンドル、鎌田東二ほか

 本文論考は、以下からPDFで全頁読むことが可能ですので、ぜひ覗いてみてください。
http://waza-sophia.la.coocan.jp/data/nennpou/nennpou85.pdf

 わたしは4月初旬にベトナムのハノイのベトナム国立音楽院に行って授業をすることになりました。ベトナムにはほぼ20年ぶり、2度目の訪問になり、楽しみにしています。それでは、4月からの新学期、今後ともよろしくお願い申し上げます。
 なお、4月19日(金)、満月の夜に次のような催しを行ないます。よろしければぜひご参加ください。

『龍吟雲起』 〜常世の時軸からの呼び声〜

『龍吟雲起』 〜常世の時軸からの呼び声〜

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 2019年3月21日 彼岸の中日・春分の日に 鎌田東二拝