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シンとトニーのムーンサルトレター 第067信

第67信

鎌田東二ことTonyさんへ

 この前、新しい年を迎えたと思ったら、もう2月の後半に突入しました。本当に、月日の経つのは早いと痛感します。昨年の日本を振り返ってみると、正直言って、嫌な一年でした。『葬式は、要らない』などという本が刊行されてベストセラーになったり、NHKがキャンペーンを張った「無縁社会」が流行語に選ばれました。年末には、朝日新聞社までが「孤族の国」という大型連載をスタートさせました。「家族」という形がドロドロに溶けてしまいバラバラに孤立した「孤族」だけが存在する国という意味だそうです。

 孤族! なんと嫌な言葉でしょうか。わたしは朝日の企業姿勢に失望しました。「孤族の国」の内容はNHK「無縁社会」とほぼ同じです。NHKへの対抗心から朝日が連載をスタートさせたことは明白ですが、「無縁」とほぼ同義語の「孤族」という言葉を持ってくるところが何とも情けないではありませんか。「無縁社会」キャンペーンに対抗するならば、「有縁社会」キャンペーンしかありえません。「無縁社会」だの「孤族の国」だのといったネガティブなキーワードを流行させることは現実に悪しき影響を与える可能性が高いと思います。すなわち、「呪い」の作動ですね。

 しかし、1月9日の「朝日新聞」朝刊を見て、朝日を少し見直しました。1面トップに「豪雪 人情のお年玉」という記事が出ていたのです。年末年始の大雪で国道9号では1000台の車が立ち往生しました。多くの人々が、寒さをこらえ、トイレを我慢し、お腹を空かせていました。元日の朝、日本海を望む鳥取県の琴浦町で看板公房を営む祗園和康さん(79)の仕事場を「トントントン」とノックする音がしました。開けると、50歳くらいの女性が真っ青な顔をして、「すみませんが、トイレを貸してもらえませんか」と言いました。路地の50メートルほど先の国道には、見たこともない長い車列がありました。
驚いた祗園さんは、「こらぁ大変だ」と、仕事場のトイレを開放することにしました。

 それから、お得意の看板を作りました。1メートル四方ほどの白いベニヤ板に赤いテープで「トイレ→」と書いた看板を作って、国道脇と自宅前に立てかけました。

 そこに次々と人がやって来ました。その中に、赤ちゃんを連れた若いお母さんもいました。小さなポットを持ってきて、ミルク用のお湯が欲しいと言いました。祗園さんの長男である忠志さん(50)は、お湯と一緒に毛布を手渡したそうです。女性は、「ありがとうございます」と何度も頭を下げて車に戻ったそうです。

 わたしは、この記事を読んだとき、涙が出てきました。「無縁社会」だの「孤族の国」だのと呼ばれるこの日本に、まだこんなに温かい人の心が残っていたことに感動したのです。
 また、看板業を営む祗園さんがトイレの場所を示す看板を作って人々を救ったことにも猛烈に感動しました。自分の得意なことで社会に貢献する。これぞ正真正銘の職業奉仕です。わたしは、祗園さんという方は本当に素晴らしい看板屋さんだと思いました。わが社も近くにあったらぜひ祗園さんに仕事を発注したいです。

 祗園さんの他にも、職業奉仕をした方々がいました。まんじゅう店を営む山本浩一さん(53)は、1200個のまんじゅうを自ら配りました。また、パン屋さんを営む小谷裕之さん(35)は、お腹を空かせた子どもたちにパンを配ろうと思いましたが、パンが足りませんでした。それで、小谷さんは母の美登里さん(59)に「ありったけの米を炊いてくれ」と頼みました。公民館から大きな釜を2つ借りて、小谷さんの自宅にあった1俵半の米を全部炊きました。

 近所の女性が集まって、みんなでおにぎりを作りました。疲れを取ってもらうため、塩を多めにしたそうです。おにぎりを配り歩くと、大雪にもかかわらず、みんな汗だくになりました。一度着替えてから、また配りました。配り終えたときには、もう夕方になっていたそうです。「目の前に困っている人がいたから・・・。お互い様じゃけね」という美登里さんの言葉に、わたしはまた泣きました。

 おにぎりといえば、わたしには忘れられない事件があります。わたしの住む北九州市で、52歳の男性が生活保護を申請したにもかかわらず断られ、「おにぎりが食べたい」と書き残して亡くなったという悲しい事件です。この男性は2007年7月10日に発見されました。死亡するまでの数年は肝臓をわずらい、弟さんが亡くなってからは様子もおかしくなっていたそうですが、市の職員は「働くように」というアドバイスをするだけで、生活保護の申請を却下、男性の自宅では最後は水道も止められていたそうです。

 当時、わたしの長女が中学3年生でしたが、テレビのニュースでこの事件を知り、大変なショックを受けていました。 長女は、事件を報道した新聞記事の前に自分で握ったおにぎりを置き、手を合わせて祈りを捧げていました。彼女は、自分なりに亡くなった方の供養をしたようです。

 「おにぎりが食べたい」という亡くなった男性の最後の言葉はあまりにも気の毒でやりきれませんが、わたしは「おにぎり」には何か意味が込められているように感じました。なぜ、ラーメンやハンバーガーではなく、おにぎりだったのか。おにぎりは、人間の手で直接握られる食べ物です。もしかすると、その男性は単なる食料だけではなく、人の手温もりが欲しかったのかもしれません。考えてみれば、災害の時も、葬儀の時も、何かあったら近所の人が集まってきて、おにぎりを作って、みんなに配る。おにぎりとは、助け合いのシンボルではないでしょうか。また、おにぎりは「おむすび」とも呼ばれます。おにぎりによって、多くの人々、いわば隣人たちの「こころ」が結ばれていくことを昔の人たちは知っていたのかもしれません。

 「人と人のつながり」は期待するだけでは実現しません。琴浦町の人々のように自らの行動で実現するものです。琴浦町といえば、今回の素晴らしい出来事について、地元の人は「琴浦はそんな土地柄です」と言っているそうです。「朝日」には次のように書かれていました。「日本海で難破した船が漂着するたびに、地元の人が総出で船員を助けた。今も、葬儀では隣近所が料理を準備し、祭りの出し物をみんなで集まって考える」

 間違いなく「葬儀」と「祭り」における協同作業というものが町の人々の心をつなげているのでしょう。わたしは、まだまだ日本も捨てたものではないと思いました。

 「朝日」がこういう良いニュースをトップに持ってきたことは最大限に評価したいです。こういった1つの記事から、新たな「人と人のつながり」が生まれることもあります。今年こそ、「人と人のつながり」の大切さにみんなが気づくようになればいいと思います。わたしは、いつの日か、ぜひ、琴浦町に行ってみたいです。

 先程も言いましたように昨年は嫌な年でしたが、今年はどうも風向きが変わったようです。元日から琴浦町での出来事がありましたし、その後も日本列島各地で心温まる出来事が続出しました。そうです、「タイガーマスク運動」です!

 児童養護施設の子どもたちへのランドセル、文房具、オモチャなどのプレゼント行為が全国的な拡がりを見せました。プレゼントの主は、「伊達直人」と名乗りました。プロレス・マンガの名作「タイガーマスク」の主人公の名前です。原作者は、かの梶原一騎です。日本が生んだ史上最高のマンガ原作者です。

 わたしは少年時代から「強い男」に憧れ、梶原作品の大ファンでした。わたしの「一条真也」というペンネームは、「タイガーマスク」と並ぶ梶原一騎の名作「柔道一直線」の主人公である「一条直也」から取ったほどです。じつは、わたしは「伊達直人」をもじった「伊達真人」というペンネームも考えていたのです!

 そのマンガ・キャラクターとしての伊達直人は、親のいない孤児(原作では「みなし児」という言葉が使われていました)だったという設定でした。彼は自身が育った児童養護施設の「ちびっこハウス」の子どもたちにさまざまなプレゼントを贈るのですが、自分の正体は隠して、虎の仮面をかぶり、タイガーマスクとして善意の行動を重ねるのでした。

 児童養護施設といえば、わが社も毎年、11月18日の創立記念日に文房具やお菓子などを寄贈させていただいています。また、北九州市にサーカスが来たときは、市内の児童養護施設のお子さんたちを全員招待することにしています。最近、木下サーカスが来たときも一日の興行を借り切って、お子さんたちを招待させていただきました。みんな、非常に喜んでくれました。わが社には数え切れないほど多くのサーカスの絵とお礼の手紙が届いたことは言うまでもありません。それを、わたしが読み、社内報に掲載して全社員も読みます。みんな、感動します。自分以外の誰かの「こころ」と自分の「こころ」がつながったことに感動するのです。

 児童養護施設には、親がいないお子さん、または何らかの事情で親と離れて暮らしているお子さんが生活しています。文房具なども不足しがちなようです。あるとき、クレヨンのセットをお配りしたことがあるのですが、しばらくして社長であるわたし宛にお礼状と1枚の絵が届きました。その絵には大きな赤い花が描かれていました。手紙を読むと、そこには次のような内容が書かれていました。

 「今までクレヨンのセットが園に1つしかなかったので、赤などはすぐ減ってしまって使えませんでした。私は赤い花の絵が描きたかったのですが、描くことができませんでした。サンレーさんが新しいクレヨンをたくさんプレゼントしてくれたので、やっと描くことができます。最初に描いた絵は、社長さんにプレゼントします」

 わたしは、この手紙と赤い花の絵を前にして涙がとまりませんでした。このモノ余りの世の中で、このお子さんたちはなんとモノを大切にし、また感謝の気持ちというものを持っているのだろうと思って感動したのです。いくら親がいても感謝の気持ちを持たず、わがまま放題の子どもはいくらでもいます。わたしは、このお子さんたちを育てている園の先生たちに心から尊敬の念を抱きました。

 このたびの「タイガーマスク運動」は、企業ではなく、一般市民の方々が自発的に行っているようですね。本当に素晴らしいことだと思います。もしかすると、「無縁社会」とか「孤族の国」と呼ばれるまでに人心が荒んだ果てのリバウンド現象かもしれません。「このままでは日本は大変なことになる!」という人々の危機感が多くの伊達直人を生んだような気がします。隣人愛があれば、自分以外のどんな人でも愛すべき「となりびと」です。
 伊達直人とは、結局「となりびと」の別名ではないでしょうか。それにしても、いよいよ「隣人の時代」、そして「ハートフル・ソサエティ」が始まったような気がしてなりません。
 来月15日には、新刊『隣人の時代〜有縁社会のつくり方』(仮題、三五館)を刊行いたします。Tonyさんにも送らせていただきますので、ご笑読下されば幸いです。それでは、次の満月まで、オルボワール!

2011年2月18日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 Shinさん、お返事が遅れ、申し訳ありません。2月18日に、Shinさんからのレターをいただきました。が、わたしがその返事をしたためているのが、2月25日、ちょうどまる1週間後となってしまいました。あまりにもめまぐるしく、あわただしく、なすべきことが多く、ゆっくりとお返事を書く時間が取れませんでした。

 今も、慌ただしさは続いており、香川県高松市のアルファあなぶきホール(香川県県民ホール)の出演者控室でこの文章を書き始めています。今日はこれから、わたしが担当する年2回の「スミセイライフフォーラム 生きる」の最終回を行なうのです。本日のゲストは五木寛之さんで、テーマは「変化を生きる」です。五木さんに1時間、「いまを生きる力」と題して講演していただき、その後、休憩を挟み、横笛や石笛を演奏してから、40分五木さんと対談するという趣向です。たぶん、五木さんが取り掛かられた『親鸞』第二部のことなどが話に出ると思います。そして、中世論。五木さんもわたしも、中世にはひとかたならぬ注視をしてきたものですから。

 Shinさんが気にしている「無縁」という言葉が生まれてきたのも、網野善彦さんが『無縁・公界』で取り上げたように中世社会でした。あらゆる古代的な統一・統合・秩序というものがばらばらになり、ドラスティックに解体されていった時代が中世社会でした。だからこそ、その再統一には「天下布武」を掲げた織田信長のような荒療治が登場することになったのです。解体と破壊の徹底が一向宗(門徒)の排撃と比叡山焼き討ちに象徴されていると思いますが、完膚なきまでにこれまでの既得権益の体系をラディカルに破壊することによって次の時代の秩序と体制を構築しようとしたのが織田信長だったのでしょう。

 「無縁社会」に対して「有縁社会」を、「孤族」に対して「隣人祭り」を対置しながら、現代社会に「タイガーマスク」のように愛の灯火を掲げていくShinさんを見ていると、本当に「ウルトラマン」なのだなあと感心してしまいます。わたしなどは、Shinさんよりちょうど一回り、12歳年長なので、ウルトラマンの前の世代になり、わたしにとってのそのような存在は、「デロリンマン」という愛の狂人です。アウトサイダーで、異形の、どこか壊れた面相のバロック的なデクノボーのような無垢の人、それが「デロリンマン」ですが、わたしはその「デロリンマン」が好きでした。どこか、現代の妙好人のようでもあり、一休さんのようでもある、”Fool on the hill”のfoolのようでもあるような、実におかしな愛に溢れた人物。

 わたしは、どうしようもなく、奇妙な、そして、ユーモアのあるものが好きなのです。むしろ、ユーモアこそ愛であり救済でもあると思うくらい、それを欲しています。でもそのユーモアは、狂気や愚や異形やハチャメチャなど、いろんな要素や矛盾も含む、混沌そのものなので、そんな善悪も全部包含したような「絶対矛盾的自己同一」(西田幾多郎)や「反対物の一致」(ニコラウス・クザーヌス)を必要としています。

 さてこの1ヶ月、吉田美穂子さんのお通夜や告別式からNPO法人東京自由大学の「吉田美穂子さんを偲ぶ会」(2011年2月23日開催)まで、いろんなことがありました。そのことを少し書きたいのですが、あと5分で本番が始まりますので、それが終わって高松駅前の全日空ホテルの部屋に戻ってから書き継ぐことにします。

 今は、夜の10時半過ぎ。五木寛之さんたちとの食事を終えて、ホテルの自室に戻りました。眼下には高松港の街路灯や港湾と瀬戸内の海が見えます。「自殺者3万人を超える心の戦争の時代、見えない戦争が起こっている時代、逆風の時代、困難の時代において、何が生きる力となりうるのか? この、今という時代をどう見るのか」という問いから始まり、今様や七五調の「歌の力」や親鸞聖人の和讃(七五調)についての洞察に説きおよび、一緒に歌う歌を失くした時代の中で「歌の力」とは何かを問いつつ結ばれる基調講演。ドストエフスキーの『罪と罰』や小林多喜二の『蟹工船』やアメリカという国の宗教や悪人正機説と麻原彰晃にも弥陀の救いはありうるかという問題の交錯する対談。

 興味深かったのは、親鸞は『歎異抄』でもない、『教行信証』でもない、「和讃」の中に生きているという観点、親鸞が「仏教を歌に戻した」と観点でした。それは、なかなか深く、味わいと洞察のある見解だと思いました。神道ソングライターであるわたしとしては、共感もできるし、またいろいろな突っ込みも入れたくなるところでした。対談は時間が40分という短さで、あっという間に終わりましたが、さらにいろいろと話してみたいという気になりました。五木寛之さんとは『霊の発見』という対談集(平凡社、後に角川ソフィア文庫)を出していますが、また続編を出してみたいなとも思いました。

 NPO法人東京自由大学が来る4月23日(土)に開催する「シャーマニズムの未来」シンポジウムのチラシを差し上げると、「今、連載の『親鸞』第二部でぶつかっているのが、まさに土着のシャーマニズムとぶつかるところなんですよ」とのことでした。それはたいへん興味深い「シャーマニズムの過去」であり、またそれが「未来」も「変化」するところでしたね。

 1月末に、KOWとTONYの対決ライブ(勝敗は想像にお任せします)、いくつかのシンポジウムの司会者やコメンテーターや発表者、講義や講演、会議、研究会、採点や大学院の入試や修士論文の口頭試問や東山修験道の比叡山登拝、その他、いろいろなことをやり終えなければなりませんでした。2月2日から4日まではこの期間に毎年行っている「天河護摩壇野焼き講」の天河詣でがありました。2日の朝から、大神神社から山の辺の道を歩き、玄濱庵、檜原神社、大和神社、石上神宮、橿原神宮、丹生川上神社下社を参拝しましたが、この15年、これほどあったかく、のんびりと、落ち着いた参拝はなかったと何度も安らぎのため息が出るような気持ちのよい参拝でした。

 「大和」というところは、なぜ「やまと(山戸?)」なのに「大和」という漢字が当てはめられたのでしょうか? そこは、「国のもなか」とされ、古代日本の象徴的中心となり、三輪山と大和三山がその4極構造を作りました。鬼門(北東)の位置の三輪山、北西の耳成山、東南の天香具山、そして西南の畝傍山。そこに不動の定点を置くことが「大和」の確立となったのしょう。

 天河での護摩壇野焼きも、大変落ち着いて深い味わいのある護摩壇野焼きができました。今年は、何か、じっくりと取り組んでいけそうな予感が。そして、深いところで動きが起きそうな予感がありました。まあ、どんな結果となっても、何が起こっても、やるべきことをたんたんとやるよりほかありませんけどね。

 Shinさんも、自分のやるべきことを着々とやっていますね。年来の持論の『隣人の時代〜有縁社会のつくり方』(三五館)、楽しみにしています。Shinさんにも2度講演していただいたNPO法人東京自由大学は、東京という砂漠にオアシスのような「隣人・有縁社会」をつくる試みであったと思います。わたしは、もう、25年以上前から、「現代の役の行者とは、縁の行者にほかならない」と言ってきました。しかし、そんな縁側の創造は振り向かれることもなく、「円の亡者」がはびこり、1990年代、バブルがはじけて以来、「円の亡者」が「縁の行者」への転身もはかれずに苦しみ、もがき、生き淀み、自殺やうつに追い込まれたりもしているのが現状ではないでしょうか。

 わたしたちは、「現代の縁の行者となりうるか?」、それが実践的に問われているのだと思います。わたしたちがやってきた「猿田彦大神フォーラム」「神戸からの祈り」「東京おひらきまつり」「虹の祭り」「月山炎の祭り」「三省祭り」など、すべてそうした「縁の行者道」の実践であったと思います。

 もちろん、それは人間世界の常として、完璧なものはできませんでしたが、しかし、そのような方位・方向にあるということだけははっきりしていました。つまり、「願」があり、「志」があり、「理想」があるということです。

 そんな折、親しい仲間であり、同志であり、友人である沖縄大学専任講師の映像民俗学者の須藤義人君がデビュー作『久高オデッセイ——遥かなる旅の記録』(晃洋書房、2011年3月20日刊)を上梓します。力と思いのこもった力作で、故比嘉康夫さんの久高島での写真が数十点もちりばめられています。ぜひご一読の上、感想を寄せてほしいと思います。お願いします。わたしたちは、3月末の東京自由大学の京都春合宿の際に、その出版祝賀会を行ないます。今年は、「久高オデッセイ」第一部結章、第二部生章の上映も徐々に展開していければと話しています。いよいよ、本格始動の時がやってきました。これからです、本当に仕事をするのは。おもろく、ふかく、たのしい世直しをいろいろな手法を駆使し、奇想天外なことから、着実地道なことまで、できることを着々とたんたんと実行していきたいと思いますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。

2011年2月25日 鎌田東二拝