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シンとトニーのムーンサルトレター 第040信

第40信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、お元気ですか?このレターも、もう40信目ですよ。早いものですね。前回のレターの最後に、Tonyさんの「人間は人間中心とエゴを尊重しすぎたのではないでしょうか」という言葉がありました。たしかに、そうかもしれません。そういう側面があるとわたしも思いますが、また一方で、現代の社会において人間は決して尊重されていないとも感じます。特に、人間の命がまったく尊重されていないのではないでしょうか。

 最近のショッキングなニュースといえば、なんといっても「元厚生事務次官宅連続襲撃事件」です。小泉毅容疑者は調べに対して、「今回の決起は、保健所に家族を殺された仇討ちだ」と主張しました。「家族」とは、34年前に保健所で処分された飼い犬のチロ。小泉容疑者はチロ処分の日を「74年4月5日の金曜日」と覚えており、カレンダーで確認した捜査員を驚かせたといいます。もちろん事件には何らかの背景もありそうで、「飼い犬の恨み」という言葉を単純に信じてはいけないのかもしれません。

 でも、正直なところ、その発言にはリアリティを感じます。小泉容疑者はわたしの一歳年上である46歳。わたしも子どもの頃は犬が大好きな少年で、ハッピーという名前のコリー犬を可愛がっていましたので、なんだか複雑な気分です。今でもハリーというイングリッシュ・コッカースパニエルを飼っています。いたずらっ子ですが、可愛い息子です。

 犬と人間の関係を考えるとき、わたしは、『新約聖書』マルコ伝第7章に出てくる次のようなエピソードを思い出します。ギリシャ人の女が、自分の娘から悪霊を追い出すようにイエスに願い続けた。するとイエスは「まず、子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言った。しかし、女は「主よ、そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます」と答えた。そこでイエスは「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました」と言ったというエピソードです。

 これにはさまざまな解釈があるでしょうが、渡部昇一氏などは「動物愛護と人間の関係」について語っているという見方を取られています。まず、人間のほうが重要であるにもかかわらず、子どものお腹が空いているのを放っておいてペットの小犬に餌をやっている。イエスが「それは良くない」と言うと、女は「いや、子どもたちが食べているパンの屑を犬にやるのはいいのではありませんか」と言った。すると、イエスは「その通りだ」と認めて、娘の病気を治してやったわけです。これは、人間と動物の秩序をきちんとすることを教えているというのです。しかし、現在の動物愛護の人々にかかると、人間よりも動物のほうが大切になったような観があります。たとえば、小犬のことで大騒ぎする一方で、人間の堕胎については意外と平気だったりするといったような。

 渡部氏は、谷沢永一氏との対談集『「聖書」で人生修養』(致知出版社)で、次のように述べています。「最近、”ペット・ロス”という言葉を聞くことがあります。ペットに死なれると落ち込んでしまって、寝込んで動けなくなるような主婦がたくさんいるそうです。私も戦時中、犬を市役所の命令で取り上げられて殺されたことがあります。ご飯が食べられないぐらい悲しかったけれど、それで寝込むということはなかった。ご飯が喉を通らなかったのはせいぜい一日でしたね。ところが、いまはペットが死ぬと病人になってしまう人たちが出てきたというのです。その悲しみはわかるけれど、動物がどんなに可愛くてもどんなに大切でも、ランクがあるということを認めなければ、犬公方になると思います」

 それに対して、毒舌家としても有名な谷沢氏が、「犬に対しているときはどんな人間でも支配者ですからね。要するに、そういう”ペット・ロス”になる人は、家庭がうまくいっていませんね。ペットは自分が唯一支配できるもので、それを奪われたわけだから、病気になる」と一刀両断で喝破しています。わたしも「ちょっと、これは言いすぎかも」と思いながらも、基本的には渡部・谷沢両氏の意見に賛成です。

 もし、小泉容疑者の言い分が本当だとしたら、飼い犬の恨みを直接関係のない人間にぶつけて殺害するというのは、どう考えても間違っています。Tonyさんは犬よりも猫がお好きと伺っていますが、この問題についてどうお考えになりますか?「人間尊重」とあわせて、一度しっかり意見を交換させていただきたいテーマです。

 いま、「Dog saves Dog」と名づけられた映像がYoutubeにUPされており、世界的に話題になっています。これは、高速道路で車にはねられた瀕死状態の犬を他の犬が救出に駆けつけ、猛スピードで通り過ぎる車の間を縫って、くわえたまま道路の端まで引きずっていくという感動的な映像です。日本でもテレビニュースなどで紹介されましたが、わたしも大変感動しました。犬という生き物は、動物界のほとんどの生き物同様に病気や怪我で弱っていたり、死にかけていたり、あるいは死んだ仲間を無視するとされていたそうです。しかし、この危険を顧みずに仲間を救う犬の登場は人間の世界に大きな衝撃を与えました。「義を見てせざるは勇なきなり」をなかなか実践できずにいる人間たちよりも犬のほうがよっぽど倫理的かもしれませんね。この犬の姿をイエスが見たら、はたして何と述べたでしょうか?

 さて、イエスの名前が出てきましたが、このたびイエス・キリストの神々しい姿を表紙にした監修書『世界の「聖人」「魔人」がよくわかる本』(PHP文庫)が刊行されました。
監修者である自分も、前代未聞の奇書ではないかと思っています。なにしろ「聖人編」の顔ぶれは、モーセ、ソクラテス、聖母マリア、イエス・キリスト、ヘレン・ケラー、プラトン、アッシジのフランチェスコ、ジャンヌ・ダルク、マルティン・ルター、聖女ベルナデット、フローレンス・ナイチンゲール、エマヌエル・スウェデンボルグ、ルドルフ・シュタイナー、サン=テグジュペリ、ゴータマ・ブッダ、ムハンマド、孔子、老子、聖徳太子、空海、ガンジー、孟子、荘子、玄奘三蔵、鑑真、最澄、法然、親鸞、日蓮、一遍、栄西、道元、蓮如、マザー・テレサ、ゾロアスター、マハーヴィーラ、龍樹、マニ、クリシュナムルティ、ダライ・ラマ14世、ダルマ、ラーマクリシュナ、宮沢賢治、中村久子など。

 「魔人」の顔ぶれは、ノストラダムス、アグリッパ、ヴラド・ツェッペシ、パラケルスス、ラスプーチン、アドルフ・ヒトラー、ファウスト、ブラヴァツキ夫人、アレイスター・クロウリー、サン・ジェルマン伯爵、カリオストロ伯爵、ジル・ド・レエ、エリファス・レヴィ、アントン・ラヴェイ、ヘルメス・トリスメギストス、ジョン・ディー、グルジェフ、スターリン、役小角、安倍晴明、芦屋道満、平将門、菅原道真、西太后、吉備真備、道鏡、楠木正成、天海和尚、ポル・ポト、アミンといった面々がずらりと並びます。

 「偉大なり聖人!恐るべし魔人!」と題した「まえがき」にも書きましたが、この本は過剰な人間のカタログになっています。何が過剰なのかというと、心のエネルギー量が過剰なのです。ハンパではありません。そんな人々は、「聖人」あるいは「魔人」と呼ばれます。そして、「聖人」とか「魔人」とかいう評価は後世の人々によって決められるのですね。

 人々の心に多大な影響を与える人物としての「聖人」と「魔人」は表裏一体であり、ブッダやイエスといった代表的聖人さえ、ある意味では魔人です。二人とも旧来の宗教を否定した宗教改革者でした。それゆえ、旧勢力の人々の目には彼らは「魔人」と映ったに違いありません。同様のことは、キリスト教徒にとってのムハンマド、カトリック信者にとってのルターにもいえることです。

 でも、ブッダやイエスが魔人的であるというのは他にも理由があります。二人とも実際に「魔」を体験しているのです。Tonyさんの著書『呪殺・魔境論』(集英社)にも詳しく紹介されていますが、ゴータマ・シッダールタが悟りを開く前、「マーラ」と呼ばれる悪魔が彼を襲い、さまざまな誘惑を仕掛けました。しかし、彼はマーラを打ち破り、めざめた者としての「ブッダ」となりました。

 イエスも荒野で悪魔に出会っています。悪魔は三度にわたってイエスを誘惑しましたが、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」というイエスの言葉によって悪魔は離れ、代わりに天使たちがイエスのもとにやって来たといいます。ブッダもイエスも強い精神力で悪魔に打ち勝ったわけですが、もし悪魔の誘惑に負けていたらどうなっていたでしょうか。その場合は、彼らは現代の人々から「聖人」ではなく、「魔人」と呼ばれていたかもしれません。ある意味では、わたしたち凡人にとって仰ぎ見るしかない「聖人」よりも、「魔人」のほうが人間臭くて、読者の多くは強烈な魅力を感じるのではないでしょうか。この『世界の「聖人」「魔人」がよくわかる本』は送らせていただきますので、御批判下されば幸いです。

 さて、さる11月24日にTonyさんの二大新刊の刊行を記念して「神楽感覚・聖地感覚出版記念報告会」がアルカディア市谷で盛大に開催され、わたしも父と一緒に参加させていただきました。第一部の「トーク&演奏」では、Tonyさんと細野晴臣さん、龍村仁さんによる興味深いトークを堪能し、その後、細野さん率いる環太平洋モンゴロイドユニットの演奏を楽しませていただきました。トークの内容は、「猿田彦フォーラムの道」を振り返るものが中心でしたが、逢魔が時に久高島でダンサーの方がトランス状態になり入水した話、ほら貝に水を入れてTonyさんが吹いたら細野さんには「魔」の音に聞こえたという話が面白かったです。思うに、「聖人」と「魔人」が表裏一体であるように、「聖地」と「魔地」、「聖音」と「魔音」も表裏一体なのかもしれませんね。

 それから、環太平洋モンゴロイドユニットの演奏も素晴らしかったですが、途中から参加したTonyさんの笛も負けていませんでしたよ。第二部の「やちまた交流会」では、急逝された宇治土公貞明・猿田彦神社宮司を偲ぶビデオを拝見しました。ビデオの最後で宇治土公宮司から「涙腺が弱い」と紹介されたTonyさんは、その後のパーティーで「僕は涙腺が弱いので、今日はずっとサングラスを外しません」と挨拶されたのが印象的でした。本当に心がこもった良い会でしたね。宇治土公宮司も、さぞ喜んで下さったでしょう。わたしも生前は一度もお会いしたことはありませんでしたが、ビデオの映像やTonyさんをはじめとした皆さんの思い出話を聞いているうちに、なんだか昔からの知り合いのような気がしてきました。「亡くなってから結ばれる縁もあるのだなあ」という思いです。

 最後に、『神楽感覚』を拝読しました。Tonyさんが書かれた、序奏「神楽感覚・かぐらかんかく・カグラカンカク」が秀逸ですね。ダジャレ爆発、言霊炸裂!リズムがあって素晴らしい文章だと思いました。内容は、出会いから25年、最初の対談から17年という非常に長いスパンでの細野さんとTonyさんの相聞歌という感想を持ちました。それにしても「スタジオ・ヴォイス」1991年7月号に掲載された最初の対談は、まさに問題提起の宝庫ですね。その中で、Tonyさんはこう述べられています。

 「どうも僕は、今までの宗教は亡びると思うんですよ。もう既に亡びてきているんじゃないか、とね。宗教団体にしても、今までの宗教的なレトリックとか儀礼なんかだけでは、自分たちのハートやソウルやスピリットやボディを活性化できないことを自覚しているように思えるんです。それじゃあ唯一力の残っているものは何かというと、儀式よりも、聖地そのものというか磁場そのものなんですね。それぞれの宗教の文法みたいなものはそういった磁場の中での原初的な体験を通して既成の宗教を変えてゆかなければいけない」

 このとき以来、Tonyさんはずっと、ブッダやイエスとは違った形での「宗教改革」を行なってきたのかもしれませんね。わたしも冠婚葬祭業者として、既成の宗教を変えてゆくような儀式、本当に人間の魂のお世話ができるセレモニーを追い求めてゆきたいと強く願っています。今宵の満月も美しいです。今年も本当にお世話になりました。

 それでは、Tonyさん、良いお年をお迎え下さい。来年の満月まで、オルボワール!

2008年12月12日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 Shinさん、11月24日は先約をキャンセルしてまで父上とともにわざわざ「猿田彦大神フォーラムの道〜『神楽感覚』『聖地感覚』追悼出版奉告会」にお越しくださり、ほんとうにありがとうございました。ご厚情、こころより感謝申し上げます。おかげさまで、しんみりとこころが通い合った会になったと思います。宇治土公貞明宮司さんは「雨男」でしたが、この日も雨で、宮司のこころを感じました。雨にこころを感じたのは初めてでした。

 ところで、このムーンサルと・レターの返事を早く書かねばと思いながら、3週間ほど風邪が抜けず、10年ぶりくらいの風邪による絶不調で、そのために返事を書くのが遅れ、申し訳ありません。世の中の不調の状況を思えば、これくらい何でもないと思いながらも、思うように体が動かず失礼しました。それにしても、世界中が本当に大変な情勢になってきていますね。

 およそ20年前、「平成」という元号に切り替わった時、わたしはこれから大変な世の中になると覚悟しました。そのことは、何冊かの本の中でも書きましたが、「平成」という元号は「平治」に続いて「平」が元号になった2度目の時代ですが、「平治」が<平氏という兵によって治まる”兵治”の時代>になったように、「平成」も<兵制・兵政の世>になると言い続けてきて、頭のおかしなヤツと思われてきました。政治・経済・文化・気象、さまざまなレベルで「大中世」的な混乱・混沌・天変地異が起こると思っていましたが、いよいよ後がないまでに、一刻の猶予がないまでに迫ってきました。

 こんな時にこそ、「こころの未来」が問われるのでしょうが、しかしこの今、わたしたちにどんな「未来」を語るビジョンがあるでしょうか。日本政府もアメリカ合衆国政府も「未来」構想を描くことは出来ない状態です。経済に関しては、どちらも「下方修正」の予測と修正報告をするばかりです。米国三大自動車産業の危機、日本のトヨタもホンダもニッサンもまったく余裕がなくなり、非正規雇用の従業員の大量首切り、正社員にもリストラが始まっています。新卒学生の内定取り消しが出たのは2ヶ月前で大騒ぎになりましたが、来年3月期決算までにこの問題が拡大再燃するのではないかと懸念しています。

 わたしはこれまで、「楽しい世直し」を掲げてやってきましたが、その旗印を降ろすわけではありませんが、今後、「悲しみと痛みの共同体」の構築が人類の死活問題になるのではないかと考えています。「人間尊重」を言うならば、そのような「悲しみと痛みの共同体」を抜きにして「人間尊重」などありえないと思いますし、またそれは、生きとし生けるものへの共感・共苦という深い心情と洞察に裏付けられた慈悲の菩薩道でもあると思っています。でも、そんな「慈悲」の実践など、お坊さんにもわれわれにも簡単に出来るわけではありません。そうとうな智慧と覚悟と胆力と技量が必要ですから。

 しかし、世界がこんなふうになっていくことは、ある程度、予想できました。環境問題にせよ、資源問題にせよ、共同体的社会構築の問題にせよ、問題点がどこにあるか、そこに何が必要か、多くはうすうすとはわかっていました。それでもわたしたちは、問題を先送りし続けてきたのです。けれども、もう先送りが出来ないことをみんながはっきりと悟ったと思います。それが今回の世界不況の意義です。

 いずれにせよ、世界の転調の速さは凄いものです。これが19世紀後半や20世紀前半だと、このような速度で進行しなかったでしょう。グローバリズムの持つ世界同時性が激烈に浮かび上がってきました。それは言い換えると、無意識高速度生態学的連鎖の因果律の中に生存しているという事態の自覚です。これは、人類史において未曾有の事態です。わたしたちは、こういう時代を生きるために生まれてきたのでしょう。

 わたしは、10年ほど前からこんなイメージで「楽しい世直し」を思い描いていました。昔ならば、「山賊」や「海賊」と言われた人たちと一緒に「世直し」をするのだと。ここに言う「山賊」や「海賊」とは、犯罪者という意味ではありません。一般社会のエスタブリッシュな体制的価値とは異なるオルタナティブなライフスタイルや価値を持つ新しい生き方を希求する人たち・実験者で、それを、修験道の開祖の役行者をもじって、「縁の行者」と言ってきましたが、<現代の修験者>とはそんな諸縁の行者的ホラ吹きであると思っています。

 それでは、ここで、どんなホラ吹きができるのかが問われます。どんな「人類の未来」や「生命の未来」や「こころの未来」をホラ吹きできるでしょうか?

 わたしはクリスチャンである渡部昇一氏のように動物や生命に「ランク」があるとは思っていません。そのような「ランク」思想をわたしは受け入れることができません。『旧約聖書』は人間を被造物の中でも特権的な存在、すなわち、唯一なる「神の似像」であり、他の被造物に命名し、支配統治するミッションを与えられた存在と位置づけています。それは「ヒエラルキア」という「ランク」思想ですね。その「ランク」思想は、真実でしょうか?

 わたしは世界には、「ランク」ではなく、ただ「役割」があるとは思っています。その「役割」、まさにそれこそ「役の行者」ですが、その「役=縁」を自覚して行動することが大事なのだと思っています。そこでは、「人間の尊重」ではなく、「人間の条件」の自覚に基づく謙虚な行動こそ、世界全体のバランスが求められていると考えます。

 人間は尊大になりすぎました。傲慢になりすぎました。その尊大や傲慢を戒めてきたのが、宗教だったとは思っています。神道も、大自然の大いなる力やはたらきの中にカミを見、畏怖・畏敬の念を以って、対してきました。仏教は煩悩や業という苦悩が無明という根源的な無知と渇愛に基づくものだとの自覚を促し、キリスト教は原罪という根源的な罪の自覚を促しました。この二大宗教はしかしたいへん人間的な、あまりに人間的な宗教であったと思います。真の意味での「人間尊重」の宗教だったのではないでしょうか?

 しかしそれは、いつしか、人間中心的な「人間偏重」を生み出しました。いや、すぐさま「人間尊重」は「人間偏重」とか「**偏重」を生み出しました。バランスを欠くのが煩悩と業と罪にまみれた人間の生な姿ですから。もちろん、かく言うわたしにも、いろいろな「**偏重」があると思います。身に染み付いた「偏重」癖があると思います。

 しかし、だからこそ、そのような「偏重」を脱却する「身一つ修験道・身の丈修験道」を実践しなければと思い、夜中の森の中を懐中電灯も点けずに歩いたりしているのです。

 かつてニーチェは、白昼にランプをかざして「神は死んだ! だから、世界は暗い」と叫びゆく人を描きました。しかしわたしは、夜の森の中で、ランプもかざさず「この暗闇の中では、カミが息づいている」と呟きながら歩いています。世界が津波や大洪水や大吹雪やハリケーンやタイフーンや大地震に見舞われた時、人は人間が制御できない大きな力の存在とその深遠を感じ取るでしょう。

 宮崎駿監督の『もののけ姫』は失敗作だと思いますが(宮崎監督が勉強しすぎで、盛り込みすぎで、意気込みすぎなもので……)、しかし、その中で涙なくしては見られない場面が2箇所ありました。1箇所は、エボシが火縄銃を放ってシシ神を殺した場面のすぐ後に、シシ神を殺した「人間」をサンが激しく糾弾する場面がありました。それを聞いて、アシタカ少年は、サン=もののけ姫に「あなたも人間だ」と言います。けれども、サンは「わたしは山犬だ!」と言い放ちました。

 その「わたしはヤマイヌだ!」という言葉を、わたしは涙なくして見られませんでした。この映画の中で一番深く心の奥底にまで届いたのはこの言葉でした。そして、最後に、サンがシシ神の死によって森が死んだことを告げる場面で、彼女は、「わたしは人間を許すことができない」と言います。それは人間である彼女が「ヤマイヌ」としての立場から語った火の言葉です。そんな言葉を言わずにはいられないサンの哀しみにわたしは涙しました。『もののけ姫』を、タイトルどおり、わたしは、サンのどうにもならない「サンゲ(懺悔)」の物語として見ました。そして、それは宮崎駿監督のニヒリスティックな本音だったのではないかと思っています。

 わたしはニンゲンです。自分自身を、漢字の「人間」という言葉を使うことには抵抗があります。そんなエライ存在ではありません。申し訳ありません。ごめんなさい。という強い思いが「人間」という語を使わせることを躊躇させます。

 Shinさんといつもぶつかるのはここですね。儒教の人間主義は理解できても納得は出来ません。孔子よりも老子や荘子の方にどうしても肩入れしたくなります。お釈迦さんもイエスさんも孔子さんも、ほんとに偉い人たちだと思いますが、その人間主義にはいまだ納得し切れません。それよりも、老子や荘子さんの「道」や「無為自然」の方に頷く自分がいます。

 2008年12月。この月はわたしが「神道ソングライター」になってまる10年の月です。1998年12月12日に、わたしは初めて「神道ソングライター」として3曲人前で歌いました。その3曲とは、わたしが最初に作った3曲、「エクソダス」、「探すために生きてきた」、「日本人の精神の行方」、の3曲でした。

 あれから10年。人類は落日を前に長い夜を待ち受けています。この長い夜を生きていくためには「物語」が必要となるでしょう。「こころの未来」を生き抜いてゆく「物語」が。そんな「物語」を紡ぎだし、歌うこと。それが出来れば、この時代を生きる力と知恵の一端を担うことが出来るように思います。そうできるように、創造の火を燃やし続けたいです。Shinさん、共に世直しの創造の火を燃やし続けましょう。どこまでできるかわからないけど、どこまでも往きましょう!

2008年12月18日 鎌田東二拝