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シンとトニーのムーンサルトレター 第054信

第54信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、ついこの前、新年を迎えたと思ったら、もう2月になりました。月日の経つのは本当に早いものですね。そして、今日は節分です。わが社では、例年通りに社内外の厄除け対象者を集め、松柏園ホテルで「節分祭」および「隣人祭り=合同厄除け祝」を開催しました。その後、帰宅してわが家でも豆まきをしました。

 節分といえば鬼です。鬼は日本を代表する妖怪、それも悪の化身的存在ですが、浜田廣介の「泣いた赤鬼」を読むと、一方的に悪者にはできなくなります。わたしは、この有名な童話をイメージして、「鬼は外 豆を投げれど 赤鬼の泣いた顔見て 鬼も内へと」という短歌を数年前の節分祭で詠みました。そういえば、Tonyさんには「虹鬼伝説」という神道ソングがありますね。孤独な鬼の哀しみがよく伝わってくる名作です。幼少の頃に実際に鬼を見ていたというTonyさんならではの歌だと思います。

 東に鬼あれば、西には悪魔がいます。それらの怪しきものたちを総称して、わたしは「幻獣」と名づけています。龍や河童や天狗や人魚や吸血鬼も、すべて幻獣です。幻獣はこの世界ではなく異界において実在するという考え方があります。

 宮沢賢治の童話や詩は、その強烈な幻想性で知られています。わたしは、賢治は本当に異界を覗くことができたのではないかと思っています。実際、さまざまな場所で賢治が鬼神を目撃したという証言も多く残されています。あるときは、窓の外を指さしながら「あの森の神様はあまり良くない、村人を悩まして困る」と知人に語ったといいます。

 日本民俗学の父である柳田國男は、妖怪とは神の落ちぶれた姿であると述べました。驚くべきことに、賢治には「神」と「妖怪」の区別がついたようです。また賢治は、「さまざまな眼に見えまた見えない生物の種がある」と詩に書き残しています。生物には、見える生物と見えない生物の二種類があるというのですが、後者こそ幻獣でしょう。

 賢治だけではありません。ヨーロッパにおいても、天使が見えたというスウェデンボルグや、妖精が見えたというウィリアム・ブレイクがいました。賢治は地元の人々から「狐つき」などと言われ気味悪がられたこともあったようですが、どうやら神秘家である彼らには、異界の生物、すなわち幻獣を見る力が備わっていたようです。

 ということは、幻獣とは単なる想像上の生き物ではなく、異界という別の次元に実在しているのかもしれません。この宇宙は、わたしたちの住む宇宙だけではなく、多くの次元から成り立つ多次元宇宙=マルチ・ユニバースなのだという説を連想してしまいます。

 そんな幻獣たちを集めた『世界の幻獣エンサイクロぺディア』という監修書が、このたび刊行されました。版元は講談社で、同社の創業100周年記念出版の一冊です。著者は、なんと、永井豪とダイナミック・プロ!いわずとしれた、わが国コミックの最高傑作のひとつである「デビルマン」を生み出した最強の幻獣クリエイターです。本書の表紙は永井先生自身が描かれ、本書に登場する多くの幻獣のイラストもダイナミック・プロの精鋭陣が描いています。わたし自身、小学生の頃から「デビルマン」の大ファンだったので、憧れの「永井豪」と「一条真也」の名前が並ぶなんて、本当に夢のようです。

 『世界の幻獣エンサイクロぺディア』は「世界編」と「日本編」に分かれ、幻獣108体を各10タイプにカテゴリライズし、徹底解説しました。「世界編」には、ドラゴン、ユニコーン、ケンタウロス、グール、マーメイド、サタン、ウィッチ、ヴァンパイア、ビースト、アンドロイドが収録され、「日本編」には、龍、鬼、天狗、河童、人魚、狐、狸、猫、蛇、幽霊が収められています。それぞれの項目はさらに細かく分かれていきますが、わたしは、西洋の幻獣を「モンスター」、東洋の幻獣を「化け物」として大別しました。永井豪とダイナミック・プロは、いずれも世にも恐ろしい姿で古今東西の「モンスター」や「化け物」たちを描いています。でも、この世で一番恐ろしい生物とは何でしょうか。

 ニューヨークのブロンクス動物園のマウンテン・ゴリラとオランウータン舎の間には、「鏡の間」と呼ばれる鉄格子をはめ込んだ檻があります。この「鏡の間」は山崎豊子著『沈まぬ太陽』に登場します。主人公の恩地元が人間の上半身が映る鉄格子のはまった鏡の前に佇み、その上に記されている「THE MOST DANGEROUS ANIMAL IN THE WORLD(世界で最も危険な動物)」という言葉に眼を射られます。自身の姿を鏡に映した恩地は、その言葉から、自身が勤務する国民航空の首脳陣をはじめとする魑魅魍魎たちを連想します。「権謀術数をめぐらせ、私利私欲に群がる獰猛で、醜悪な人間の顔が、次々に浮かんできて、鏡を埋め尽くした」と、山崎豊子は書いています。

 国民航空のモデルは日本航空です。わたしが今年最初に観た映画は渡辺謙主演の「沈まぬ太陽」でした。3時間を超える大作を観終わって、今度は文庫本で全5巻の原作小説を一気に読みました。そして、今更ながらに日本航空という会社、および御巣鷹山の日航機墜落事故に深い関心を抱き、いろいろな資料を読み漁りました。

 1985年8月12日、群馬県の御巣鷹山に日航機123便が墜落、一瞬にして520人の生命が奪われました。単独の航空機事故としては史上最悪の惨事でした。『沈まぬ太陽 御巣鷹山篇』(新潮文庫)には、次のような墜落現場の描写が出てきます。

 「突然、眼前の風景が一変した。幅三十〜五十メートル、長さ三百メートルの帯状に、唐松が薙ぎ倒され、剥き出しになった山肌は、飛行機の残骸、手足が千切れた遺体、救命胴衣、縫いぐるみ、スーツケースなど、ありとあらゆるものが粉砕され、巨大なごみ捨て場の様相を呈していた。千切れた遺体には、既に蠅がたかっていた。」

 また、地元の体育館には遺体が次々に運び込まれて22面のシートを埋めましたが、山崎豊子は次のように書いています。

 「下半身のみの遺体や、頭が潰れ、脳味噌が飛び出した背広姿の遺体、全身打撲で持ち上げると、ぐにゃぐにゃになり、腹部から内臓が流れ出る遺体もあった。そんな中で、とりわけ憐れを誘ったのは、全身擦過傷だけの子供の遺体で、今にも起き上り、笑いかけてきそうな死顔であった。それだけに鑑識課員は『俺の息子と同じぐらいだ・・・・』と声を詰まらせ、カメラのシャッターを切る手を止めた。看護婦たちも涙を浮かべながら、男の子の体も洗い清め、髪の毛も、きれいに梳ってやった。」

 「中ほどのシートで、騒めきが起った。そこでは、割れた大人の頭蓋の中から、子供の顎が出てきたのだった。そこで、柩の中の遺体は必ずしも一体ではなく、二体の場合もあり得ることが解り、新しい別の柩に入れて、『移柩遺体』として扱われることになった。」

 『沈まぬ太陽』という小説は基本的にフィクションですが、御巣鷹山の墜落事故についての記述はほぼ事実に沿っているようです。それにしても、「移柩遺体」などという言葉、わたしも初めて知りました。遺体の確認現場では、カルテの表記や検案書の書式も統一されました。頭部が一部分でも残っていれば「完全遺体」であり、頭部を失ったものは「離断遺体」、さらにその離断遺体が複数の人間の混合と認められる場合には、レントゲン撮影を行った上で「分離遺体」として扱われたそうです。まさに現場は、この世の地獄でした。

 当時、遺体の身元確認の責任者を務めた群馬・高崎署の元刑事官である飯塚訓氏の著書『墜落遺体』と『墜落現場 遺された人たち』(いずれも、講談社+α文庫)を読むと、その惨状の様子とともに、極限状態において、自衛官、警察官、医師、看護婦、葬儀社社員、ボランティアスタッフたちの「こころ」が一つに統合されていった経緯がよくわかります。看護婦たちは、想像を絶するすさまじい遺体を前にして「これが人間であったのか」と思いながらも、黙々と清拭、縫合、包帯巻きといった作業を徹夜でやりました。そして、腕一本、足一本、さらには指一本しかない遺体を元にして包帯で人型を作りました。その中身のほとんどは新聞紙や綿でした。それでも、絶望の底にある遺族たちは、その人型に抱きすがりました。その人型が柩に入れられ、荼毘に付されました。

 わたしは、つねづね、「死は最大の平等である」と語っています。また、冠婚葬祭とは結局のところ人間を尊重する営みであると悟り、わが社の大ミッションを「人間尊重」に定めています。今回、御巣鷹山の日航機墜落事故の遺族の文集である『茜雲 総集編』(本の文化社)も含めて多くの資料を読み、あらためて冠婚葬祭とは「人間尊重」の実践であるという思いを強くしました。そして、いつの日か、520名の犠牲者が昇天した霊山であり、4名の奇跡の生存者を生んだ聖山でもある御巣鷹山に登ってみたいと思いました。

 事故の当時、わたしは大学生でしたが、日航が提供しているFM東京の「ジェットストリーム」をよく聴いていました。「遠い地平線が消えて、ふかぶかとした夜の闇に心を休める時、はるか雲海の上を音もなく流れ去る気流は、たゆみない宇宙の営みを告げています・・・」という城達也のナレーションが大好きでした。事故が起こった8月12日の深夜、ラジオをつけたところ、通常通りに番組が開始され、城達也のナレーションとテーマ曲「ミスターロンリー」のメロディーが流れてきたことを記憶しています。「ジェットストリーム」は、イージーリスニング・ブームを起こした伝説のラジオ番組で、多くの名曲が流されましたが、わたしは特に「80日間世界一周」が好きでした。それを聴きながら、いつの日か、JALに乗って世界一周したいと夢見ていました。

 その日本航空がついに破綻しました。事業会社としては過去最大の2兆3221億円の負債を抱え、1月19日に会社更生法の適用を申請したのです。そして、日本航空の会長に京セラ名誉会長の稲盛和夫氏が就任することが決定しました。わたしが最も尊敬する経営者の一人が稲盛氏です。政治にしても、経営にしても、倫理や道徳を含めた首尾一貫した思想、哲学が必要であることは言うまでもありません。しかし、政治家にしても経営者にしても、その大半は哲学を持っていません。そのような現状で、稲盛氏は、経営における倫理・道徳というものを本気で考え、かつ実行している稀有な経営者ではないでしょうか。

 かつて、御巣鷹山の墜落事故の直後に、鐘紡の伊藤淳二会長が日航会長になりましたが、労務対策に失敗して、早々に辞任しています。『沈まぬ太陽 会長室篇』は、彼の苦闘の歴史が下敷きになっています。ですから、本当は77歳と高齢の稲盛氏は会長を引き受けないほうがいいのかもしれません。激務とストレスが稲盛氏の寿命を縮めるかもしれません。

 いくつも存在する日航の労組は一筋縄ではいきません。『沈まぬ太陽』の主人公のモデルは日航労組の委員長であった小倉寛太郎ですが、彼はカラチ、テヘラン、ナイロビと海外の僻地ばかりを10年もたらい回しにされた人物として知られています。『沈まぬ太陽』のテーマの一つに「会社と人間」がありますが、いたずらに小倉寛太郎を美化し、一方的に日航という企業を絶対悪として叩くだけではダメだと思います。会社にも悪いところがあり、組合にも悪いところがあったというのが実態ではなかったでしょうか。

 「会社は社会のもの」であり、「人が主役」と喝破したのはドラッカーです。会社とは経営者のものでも組合のものでもなく、社会のものなのです。そして会社とは、人間を幸せにするために存在しているのです。その意味で、「なぜ、日航会長を引き受けたのか」というマスコミの質問に対して、「日航の社員を幸せにしたいから」と即答した稲盛氏には感動しました。氏が敬愛する西郷隆盛ゆずりの「敬天愛人」の哲学が死せる日本航空を再生させ、再びJALの翼が世界の空を天がけることに期待したいと思います。

 最後に、2月16日には東京自由大学で海野和三郎学長とコラボで「いのちを考えるゼミ」を行い、19日と20日の京都大学「こころの未来研究センター」の研究発表会にも参加しますので、よろしくお願いいたします。それでは次の満月まで、オルボワール!

2010年2月3日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 Shinさん、確かに時が経つのは速いですね。日本を代表してきた航空会社の日航が経営破綻、民主党政権は首相と幹事長の金銭疑惑、世を騒がせた仕分け作業の基準も成果も見えないまま、時だけが、世の中のほころびを何食わぬ顔で横目に見ながらたんたんと打ちすぎてゆく。

 そんなたんたんの中にあって、この1ヶ月、わたしは目の回るような忙しさでしたよ。毎日のように催しやその準備があり、いっときたりと気が抜けませんでした。去年の11月からずっと、そんな目の回るような忙しさが続いています。2月末まではそんな感じですね。

 1月には、レターでも書いたように、さいたま市のブックデポ書楽で『超訳 古事記』の朗読会&神道ソング歌い初め(1月11日)を行い、また、科研「モノ学・感覚価値研究会」の4年間の研究成果の発表の展覧会とシンポジウムとセミナーとワークショップを2週間余(1月16日〜31日)にわたって行ったのです。

 この「モノ学・感覚価値研究会」は、2006年4月21日付けで、日本学術振興会科学研究費補助金交付に採択された「モノ学の構築—もののあはれから貫流する日本文明のモノ的創造力と感覚価値を検証する」を研究し、「モノ」と「感覚価値」をあらゆる角度と発想から考察し、表現してゆく研究会です(詳しくは、モノ学・感覚価値研究会のホームページをご覧ください。)。また4年間の研究成果発表として、『モノ学の冒険』を創元社より2009年12月に刊行しました。これは絶対お勧めです。刺激的です。知的探求の最前線の一つが繰り広げられていると確信しています。

 さて、そのモノ学・感覚価値研究会4年間の成果発表として、2010年1月16日より31日まで、京都大学総合博物館において、「物からモノへ〜科学・宗教・芸術が切り結ぶモノの気配の生態学」展を開催し、30点以上の研究者とアーティストとの「モノ」をめぐるコラボレーションを縦横に展開し、「モノ学曼荼羅」の世界を開陳しました。

 その展覧会と平行して、3つの大きなシンポジウムと、4つのセミナー、3つのワークショップ、1つのイベントを行いました。特に、最後のイベントは、最終日の1月31日の午後3時から行われたのですが、なんと、能と神道ソングのコラボレーションだったのですよ。観世流能楽師の河村博重さんとコンピュータ・グラフィックスの大西博志さんとわたしの3人のコラボレーションで、能舞「ランビルの森」を上演したのですよ。京大の総合博物館の2階で。博物館で能をやるのは初めてでしょう。もちろん、博物館で神道ソングを披露するのも初めてです。CGは博物館の熱帯雨林の森「ランビルの森」の展示を包み込むような地球と宇宙の映像で、なんともファンタスティックでした。宇宙という森と地球という森と熱帯雨林の森の、3重の森に包まれているような、深い包摂感の中で、いろいろハプニングはありましたが、心置きなく法螺貝・石笛・竹笛・龍笛を吹き鳴らし、「弁才天讃歌」「神」「銀河鉄道の夜」の神道ソング3曲を思う存分歌いました。神主の白装束で。

 これまで、何度も何度も繰り返してきましたが、日本語の「モノ」は、漢字では、「物」「者」「霊」の字を当てることができますね。この「モノ」の物的次元(物質的・身体的次元)を1月30日(土)に開催した科学部会のシンポジウム「多層的な感覚価値モデル」で、者的次元(人格的次元)を1月16日(土)に開催した芸術部会のシンポジウム「もの派とモノ学—ものからモノへ」で、霊的(精神的)次元を1月23日(土)に開催した宗教部会のシンポジウム「モノと琴とシャーマニズム」で問いかけました。それぞれ、大変刺激的な内容で、問いと考えるヒントの宝庫であったと思います。

 わたしは、この「感覚価値」を、「もの」という語を用いて表現するとすれば、「もののあはれを知る」ことと同じであるととらえてきました。「感覚」はその「もの」の量的側面を、「価値」はその質的側面を指します。そして、さらに、<人間の「モノを見立てる感覚」が価値を生み出す。それは、「異質なモノを結びつける力」であるため、「モノとモノとの間に異常接近や超越などの変異を起こす」のである。>と規定しました。

 これに関連して、わたしがいつも思い浮かべるのは、『2001年宇宙の旅』の「人類の夜明け」の一シーンです。それは、モノリスの波動を受けていくらか変性意識状態(すなわち、超越の回路の形成!)に入っているようなチンパンジーが、目の前に転がっていた「骨」を「武器」に見立てて、それを棍棒のような武具に仕立てる場面です。このチンパンジーの頭(あるいは心)の中に起こったメタファー的関係、つまり、AをBとみなすような(「骨」を「武器」に見なすような)イマジネーションと思考の形態が「見立て」の能力なのです。それによって、「異質なモノを結びつける」ことが可能となり、「モノとモノとの間に異常接近や超越などの変異を起こし」始めたのです。それが人類文化であるとわたしはとらえています。

 この「感覚価値」について、このシンポジウムの企画者の渡邊淳司さん(日本学術振興会/NTTコミュニケーション科学基礎研究所・認知科学)は、<人間の「物語」を定位・所有する感覚」が価値を生み出す。それは、「物語は質感とともに存在」するため、「物質の質感は知覚的想像力の根拠」となる。>と定義し、明和政子さん(京都大学大学院教育学研究科准教授・比較認知発達科学)は、<人間の「自己をメタ的に理解する感覚」が価値を生み出す。それは、「自己の認識が他者の認識を生み出す」ため「自己の内部状態を他者との関係において自己調整することが可能」となる。>、岡田美智男さん(豊橋技術科学大学知識情報工学系教授・社会的ロボティクス)は、<人間の「身体とモノとの切り結ぶ感覚」が価値を生み出す。それは「私たちの身体は不定さを伴う」ため、いつも「環境との間に新たな意味や価値を求める」のである。>、吉岡洋さん(京都大学大学院文学研究科教授・美学芸術学)は、<人間の、「情報を圧縮する感覚」が価値を生み出す。それは、「身体的文脈を利用して行われる」ため、「直感的(aesthetic)」である。>、原田憲一さん(京都造形芸術大学芸術学部教授・地球科学・資源人類学・比較文明学)は、<人間の「生存の危機と安心と結びついた感覚」が価値を生み出す。それは、「常に変化する人間自体と取り巻く環境との相互関係から生み出される」ため、「時間と場に規制」される。>と、それぞれに大変興味深い定義をしました。

 いかがですか? 考えるヒントがいっぱい詰まっていると思いません? 物語、質感、メタ認知、他者性、自己調整、身体、不定さ、切り結び、環境、情報、圧縮、直感、生存危機、安心、時間……。うふふむうふふむ、ですね。わたしは、「見立て」は「物語」を作り語る能力であり、それが超越の回路を開く「メタ認知」能力であり、「他者性」の浮上と「自己調整」の複雑化をはかり、「身体」や「心」の「不定さ」を引き起こすと同時に環境との間に諸種の「切り結ぶ」創造性を付与し、「情報」を「圧縮」して事態を「直感」的にとらえつつ「生存危機」に直面してもその瞬間のみにとらわれずに「時間」の広がりの中で「安心」を作り出すと考えているのです。ですから、このシンポジウムの各論者との「切り結び」はわたしの中で激しくダイナミックに「メタメタ認知」されていたのでした。

 そんな激動の1月が過ぎてすぐに恒例の天河大弁財天社の鬼の宿・節分祭・立春祭(2月2日〜4日)でしたので、いつものように、天川詣ででした。もう何十回も通ったこの鬼の宿ですが、何度行っても不思議な感覚にとらわれます。わたしにとって、この鬼の宿が正月儀礼のようなものです。これが終わり、鬼様がやって来て、「福は内、鬼は内」と豆撒きをし、節分の時の立て分けの中から新しい年を寿ぐ立春の祭りを行う。この一連の祭礼がわたしの新年行事なのです。

 今年、2月3日に行われた天河太々神楽講天河護摩壇野焼き講の護摩壇野焼きの中に、わたしは「解器(ほどき)」を投じました。「解器(ほどき)」とは、平たく言えば、いわゆる「骨壷」のことです。自分の手で、自分の骨壷や近親者の骨壷を作る。わたしは、3年前に他界した母の骨壷を作りました。そして、母の遺骨をその中に納めるつもりです。

 この生は、仏教的に言えば生老病死という四苦の中にあり、神道的に言えば「産霊(むすび)」の生成化育の中にあります。生を「むすび」ととらえることができるとしたら、死は、その「むすび」固めたかたちが「ほどかれていく」過程でありましょう。その「ほどかれ」の過程を収める器を、天河護摩壇野焼き講先達にしてわれらの義兄弟の造形美術家の近藤高弘氏は、「解器(ほどき)」と命名したのです。その「解器(ほどき)」の第1号をわたしと天河護摩壇野焼き講事務局長の岡野恵美子さん(NPO法人東京自由大学運営委員長でもあります)が作ったのです。岡野さんも3年前の1月に母上を亡くされました。ちょうどそのほぼ1ヵ月後の2月17日にわたしの母も84歳で逝きました。そこで、わたしたちは、自分の骨壷を作る前に、まず母の骨壷である「解器(ほどき)」を作ることにしたのです。

 「解器(ほどき)」は、ちょっと特殊な仕方で作られます。それが、単なる「骨壷」とは異なるところです。1度作ったものを素焼きし、天河の護摩壇の中に投じて焼き上げます。が、それを1度こなごなに粉砕します。そして、自分によってゆかりのある地で(岡野さんとわたしは天河大弁財天社の天河火間のところで作りました)、その粉々にしたものを新しい粘土に混ぜて作り直します。そして、さらに素焼きをしたのち、次の年の2月3日に行われる天河護摩壇野焼きの火の中に投じるのです。ですから、素焼き2回、護摩壇2回、合計4回の火を経験してきているのです、この「解器(ほどき)」という骨壷は。

 そのようにして、念入りに作られた骨壷は、まさに「念念入り骨壷」で、普通一般に市販している骨壷とはその「モノ」が異なってきます。モノ学・感覚価値的に言っても、その「モノ」と「感覚価値」の位相が超越の回路を形成しているので、おのずと異なってきます。

 図画工作が大の苦手のわたしの作った「解器(ほどき)」はお世辞にもきれいとかいいかたちとかいえない、じつに無骨なものですが、しかし、その無骨なたたずまいの中から、母とわたしのいのちのつながりのえにしのありかたが浮かび上がってきます。そこには、「念入り」に「切り結ばれた」「モノ(物・者・霊)」としての骨壷「解器(ほどき)」があるのです。

 母はわたしをこの世に誕生させました。わたしは母の胎内でバク宙を何度もした結果でしょうか、ご丁寧にも臍の緒を3巻巻いたままこの世に出てこようとしました。しかし、出ようとすればそのいのちの綱であるへその緒で自分の首を絞めて窒息しそうになります。いのちを与えるへその緒が、そこでは、いのちを奪う首を絞め殺す死のロープに変わっているのです。母は大変な難産だったといいます。出てこようとしては、そのつど、引っ込んでしまうのですから。わたしも必死だったと思いますが、母も必死でした、たぶん。

 そして、わたしがこの世に誕生した時、わたしは精根尽き果て、一声も泣かなかったそうです。もはや泣く力も使い果たしてしまったのでしょう。わたしは、この世に死にかかって生まれで来たのでした。産婆さんが取り上げてくれ、急ぎへその緒をはずし、全身紫色に鬱屈したわたしの顔面をパシパシとはたき、ゆさぶると、ようやっと「ふにゃ〜」と力なくため息ともつかぬ泣き声を上げたと言います。

 そんなわたしのこの世での初体験は、たぶん、わたしの人生を深いところで規定しているような気がします。わたしが生まれつき緑が大好きなのも(そして子供の頃から緑の服ばかり好んで着ていたことも)それと密接に関係していると今では思っています。子供の頃から抱いていた理不尽な使命感はその死にかかってこの世に出てきたことと関係があるような気がしています。こんなレターを書いているのも、そんな生まれ方をしたせいでしょう、きっと。

 母はわたしに「人に笑われない立派な人間になってください」と手紙を寄越しました。わたしがどうしようもないバガボンドの20歳の頃。その手紙を読んで、わたしは覚悟しました。「ぼくは、人に笑われるリッパなニンゲンになるんだ」と。その時の思いの火はわたしの中で今もあかあかと燃え続けています。

 母はわたしにいのちを与えてくれました。そして、母を通してわたしのいのちを届けてくれたモノがわたしにたましいを吹き込んでくれました。生まれ出づるその時に。禅では「大死一番」と言いますが、死にかかって生まれてきたわたしは本当にしばしば「死」のことを考えます。いつなんどき死んでも悔い無き人生を。この世での使命を果たしてから往きたい。「死の器」を前にして、わたしはそう思っています。母の「解器(ほどき)」は今、わが家の床の間に飾ってあります。人間国宝だった近藤高弘さんのお祖父さんの近藤悠三さんの青の染付けの壷の隣りに。その床の間に、出口王仁三郎さんの寿老人の絵の掛け軸がかかっています。「解器(ほどき)」を通して、これからもしっかりと自他の生き死にを見つめていきたいと思いますので、今後ともなにとぞよろしくお願い申し上げます。

2010年2月8日 鎌田東二拝