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シンとトニーのムーンサルトレター 第055信

第55信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、先日は京都でお会いできて嬉しかったです。「こころの未来」の研究、そして「明るい世直し」のために多くのプロジェクトを抱え、あいかわらずの忙しさですね。でも、お元気そうで何よりでした。

 わたしのほうのニュースはといえば、ブログをはじめたことです。「一条真也のハートフル・ブログ」と題して、2月14日のバレンタインデーからスタートしました。
そのファースト・ブログの冒頭に、わたしは次のように書きました。

「『今さら』と言われるかもしれませんが、今日からブログをスタートします。
わたしが、これまでブログをやらなかったのには、いくつか理由がありました。
最大の理由は、宗教哲学者の鎌田東二先生と『ムーンサルトレター』というWEB上の文通を行っているからです。二人のHPで同時に公開しています。
月に一度、満月の際に文通しているのですが、これがなかなかの長さなのです。
ちょっとしたブログ1ヶ月分のボリュームは優にあります。
ですから、この文通をずっとブログの代わりにしてきました。」

 そうです! このムーンサルトレターの存在ゆえに、わたしはブログをやらなかったのです。しかしながら、一回分のレターには書ききれない思いが増えてゆく一方なのです。毎回のレターにしても、いつもボリュームが多すぎるので、2分の1、あるいは3分の1に圧縮してTonyさんにお送りしているのですよ。これ以上、わたしが長文のレターをお送りしてもご迷惑だと思いますので。(苦笑)そもそも「ムーンサルトレター」というのはTonyさんのオフィシャルサイトのコンテンツであり、わたしはそこに招かれた、いわば「客分」です。ですから「客」としての「分」をわきまえないといけません。

 そんなこんなで、毎回の「ムーンサルトレター」からこぼれ落ちた思い、それに加えて日々、わたしが体験したこと、読んだ本や観た映画の感想などをブログに記そうと思った次第です。でも、毎回、ブログが長文になってしまい、周囲の人びとをあきれさせています。スタート2回目にして、すでにムーンサルトレター化している始末です!(笑)

 それと、わたしがブログをやらなかったのは他にも大きな理由があります。ずばり、ブログというものが苦手だったからです。正直に言うと、今でも違和感があります。特に「匿名ブログ」には根本的な不信感を抱いています。

 2007年に亡くなった哲学者の池田晶子さんは、早くからネット空間に充満する特有の悪意を指摘していました。彼女はパソコンの使用すら好まなかったといいます。なるほど情報検索の用途では、確かにそれは便利です。しかし、それ以外の生の言葉を伝え合う現場などには「ああ人間とはイヤなものだ」と嫌悪を感じることが多いというのです。

 2004年6月1日、佐世保市の小学校で小学6年生の女子児童が同級生の女子児童の首をカッターナイフで切り裂き、死亡させるという衝撃的な事件が起きました。被害児童がホームページに書き込んだ言葉に腹を立てたことが犯行の原因でした。この事件にショックを受けた池田晶子さんは、「産経新聞」2004年6月17日大阪夕刊に「ネットに群がる低劣」というコラムを書きました。死後に刊行された著書『私とは何か』(講談社)に収録されていますが、彼女はその中で次のように述べています。

「憎悪や嫉妬、揶揄や中傷、すなわち人間の感情の低劣な部分ばかりが、まるで汚物をこそ好んで群がる蝿の群のように、そこに集まってくる。互いの顔が見えないゆえに悪意が増殖するとは、情けないことではないか。しかし、どうやらそれが、通常の人間の心性らしいのである。ひょっとしたら、殺した女の子は、直に悪口を言われるよりも、そのほうが癪に障った。卑怯じゃないか、そう思ったのではなかろうか。しかし、ネット社会のある部分は、確かにこの卑怯により成立しているのである。」

 さすがに「平成の女ソクラテス」だけあって、ネット社会の暗部を見事に言い当てた名文だと思います。「互いの顔が見えない」というのはキーワードとなって、彼女は著書『勝っても負けても 41歳からの哲学』(新潮社)でも次のように書いています。

「互いの顔が見えないと、人間というのは、どうやら失礼になるらしい。顔が見えるといえないことも、顔が見えないと言えるようになるらしい。しかし、もしもそれが、そも言われて然るべき正しい言葉ならば、顔が見えようが見えなかろうが、言えるのでなければおかしい。顔が見えないから言えるというのは、そも正しくない言葉である。そういう正しくない言葉を大声で怒鳴り上げているのは、多くの場合、匿名の人である。ゆえに、これは完全に卑怯な行為である。言葉の仕事をする者として、そんな言葉には関わりたくないと私は感じる。」

 顔が見えないと人間は失礼になる。卑怯になる。そして、残酷になる。心理学の実験においても、死刑執行のボタンを押すという実験を行った場合、押す人間の顔をわからなくすると容易にボタンが押せるという結果が残っています。かの悪名高きKKK(クー・クラックス・クラン)の構成員であったアメリカ南部の白人たちは、みな教養も豊かで上品だったとされています。それなのに、黒人に対してあれほど残虐な行為をすることができたのは頭巾をかぶっていた顔がわからなかったことも大きな要因とされています。

 そう、「匿名」というのは「頭巾」のことなのです!なんでも、日本ほど匿名ブログが多い国はないそうです。影響力の高いアルファブロガーとして知られる経済学者の池田信夫氏によれば、日本の会社では、職場で言いたいことの言えないストレスがたまり、それを発散するのが飲み屋や宴会での「無礼講」であるとして、著書『希望を捨てる勇気』(ダイヤモンド社)に次のように書いています。

「2ちゃんねるなどの匿名掲示板や、日本に異常に多い匿名ブログも、そういうストレスのはけ口になっている。そこでは欧米のブログのように自分の意見を表明するという目的はなく、他人の前ではいえない悪口や汚い言葉を書き連ねることが目的だ。その熱心なユーザーは、実生活では共同体から排除されたフリーターが多く、そこで見られるのは似たもの同士で集まり、異質なものを『村八分』で排除することに快楽を見出す、ほとんどステレオタイプなまでに古い日本人の姿だ。」

 これは、わたしにも思い当たることがあります。ある葬祭業者による匿名ブログで、わたしが本を書くことや大学の客員教授をしていることを揶揄したり、「一条真也は葬儀という仕事が嫌だから、逃げようとしているのだ」などと頓珍漢なコメントを書いたりしているとか。業界関係者から、そのブログを書いている人物の正体を教えてもらったので、一度、彼の会社に乗り込んで話をしたいとも考えました。でも、相手は最初から匿名にすることで逃げているわけですから、まあ相手にしても仕方ありませんけどね。

 池田信夫氏は、「世界のどこにも見られない、この巨大な負のエネルギーの中には、自分を取り巻く不合理な状況と闘うことをあきらめた、無力なサラリーマンや若者の姿がみえるとして、さらに次のように書いています。

「2ちゃんねるや『はてなブックマーク』のような書き捨てに適したアーキテクチャが、結果的にはこういう卑怯者が評判コストを負わないで他人を罵倒するのに最適のツールになっている。警察が2ちゃんねるを摘発しないのは、これをつぶすとアングラ情報が無数の『裏サイト』に分散してしまうためだといわれるが、これによって社会への不満が『ガス抜き』される効果もねらっているのかもしれない。」

 自らがアルファブロガーとしてネット社会で大活躍されている池田信夫氏の洞察には頭が下がります。そして、わたしは社会のIT化が加速すればするほど、人と人が実際に会うことの重要性を痛感しました。ITだけだは人類の心は悲鳴をあげて狂ってしまいます。ITの進歩とともに、「冠婚葬祭」や「隣人祭り」など、人が会う機会がたくさんある社会でなければなりません。

 そして、匿名ブログ同士の議論ほど虚しいものはありませんが、逆に実際に人が集まっての活発な議論や意見の交換ほど素晴らしいものはありません。最近、二回続けてそのような至福の機会に恵まれました。一回目は、2月16日に行われた「東京自由大学」の海野和三郎学長とのコラボ「いのちを考えるゼミ」です。

いのちを考えるゼミで 海野和三郎先生と一条真也(撮影:中野長武)

いのちを考えるゼミで 海野和三郎先生と一条真也(撮影:中野長武) 海野先生のテーマは「進化の法則」で、わたしのテーマは「法則の法則」でした。ご自身がおっしゃられるように、海野先生のお話は老荘思想に立脚されている印象を持ちました。一方、わたしはバリバリの孔孟思想の人間です。「老荘」vs「孔孟」では話がまったく噛み合わないように思いますが、意外とスウィングしたようです。我ながら「面白いコラボになったのではないか」と満足しています。賢者の胸をお借りして、思いのたけを存分に語らせていただきました。わたしの話が終了したとき、東京自由大学の事務局長である井上喜行さんが、目に涙をいっぱい溜められて、「今のお話に非常に感動いたしました」と言われたときには、わたしの胸も熱くなり、こみあげてくるものがありました。

 その後、会場いっぱいに集まっていただいた参加者の方々から矢継ぎ早の質問が寄せられました。いつも大学の講義などでは質問のなさに虚しさを感じていましたが、今日ほど質問攻めに遭った経験はありません。また、そのどれもが哲学的で本質的な質問ばかりで驚きました。こんな凄い方々の前でお話をさせていただいたことに感謝するばかりです。

 二回目は、2月20日と21日に開催された京都大学「こころの未来研究センター」の研究報告会です。いずれの基調報告も非常に興味深く、考えさせられる内容でした。Tonyさんの基調報告のテーマは「こころの練り方〜モノ・ワザ・身体・場所を通して」でしたね。「こころと生き方」領域における問題のあり方を考えさせられました。

こころの未来研究センター研究報告会で 鎌田東二先生と一条真也(撮影:秋丸知貴)

こころの未来研究センター研究報告会で 鎌田東二先生と一条真也(撮影:秋丸知貴) 最後には、「解器(ほどき)」制作を通して「こころの練り方」が見えてきたという話をされていましたね。いま、島田裕巳さんが書いた『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)という本が話題になっています。しかし、わたしは「葬式は、要るさ!」と考えています。そして新しい葬送儀礼を創造する鍵が、「解器」には確実に潜んでいます。

 ところで、研究報告会場でTonyさんとわたしが話していたら、図像研究家の秋丸知貴さんという方から「おお、リアル・ムーンサルトレターですね!」と声をかけられました。なんでも、秋丸さんは、毎月、「ムーンサルトレター」を楽しみに熟読されているとか。いやあ、うれしかったなあ!秋丸さんには昼休みに京大の学食にも連れて行っていただき、そこで国際日本文化研究センター教授の稲賀繁美さんも紹介していただきました。

 その他、京都造形芸術大学教授の藤井秀雪さんや高野山大学准教授の井上ウィマラさんたちとも親しく交流させていただいた二日間でした。倫理研究のサポートをされている丸山登さんには葬儀について有意義なお話を聞かせていただきました。基調報告ももちろんですが、ご縁を得た参加者の方々との会話からじつに多くのことを学ばせていただきました。この成果を、ぜひ執筆や経営に活かしていきたいと思います。

 「縁の行者」のTonyさんに感謝いたします。では次の満月まで、オルボワール!

2010年3月1日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 Shinさんの筆力と好奇心と旺盛さにはいつもながら感心させられます。凄いですねえ。その馬力。ブログではこころの未来研究センターの研究報告会のことなどもお書きくださり、ありがとうございます。また、それよりもなによりも、報告会にご参加くださり、まことにありがとうございました。創立後3年間の総括の行事となりました。わたしも精一杯務めましたが、これからさらに文書で総括のまとめをする必要があり、今、その編集の最後の詰めをしています。

 ともかく、この間、忙しかったです。忙しすぎたですね。たぶん、こんなに忙しかったのは生まれて初めてかもしれません。モノ学の展覧会、シンポジウム、天河での「解器(ほどき)」制作、そして、研究報告会。と、次から次への押し寄せる大波を掻き分け掻き分け、渡り切るのに必死でした。

 2月20日、21日の研究報告会が終わって、少しほっとしたこともあり、2月25日は自転車で二条城の近くのライブハウス「拾得(じっとく)」に行って、あがた森魚さんのライブを堪能しました。あがた森魚さんほど、ファルセット(裏声)の上手な歌い手はいませんね。すごいなあ、と思いました。いつから、どこから、表の声から裏の越えに移行しているのか、わからないくらい、自然になめらかに移行できるなんて。

 ファルセットの一番上手い人は、なんと言っても、美空ひばりさんです。彼女の「悲しい酒」など、あまりの見事さ、その超絶技巧の声のグラデーションに驚愕してしまいます。神道ソングライターになって初めてわたしは美空ひばりという歌い手の真の実力に気づきました。自分が歌ってみて始めて分かることがいろいろありましたが、その一つが歌の上手い下手が本当によくわかるようになったことです。そして、結論。「美空ひばりはサイコーです!」

 ところで、わたしは2月12日に姫路の市民会館で五木寛之さんとトークをしました。姫路城は何度見ても美しいですね。わたしはお城は嫌いですが、姫路城は好きです。どこか、愛嬌があって。人の顔のようにも見えるし、笑っているような感じもするし。白鷺城と呼ばれるように、鳥が飛んでいるようにも、天空の城ラピュタのようにも、見えますから。

 さて、五木さんの新刊『親鸞』は、2010年1月1日に出版されましたが、本当に傑作だと思いました。一気に読了しました。五木さんて、第一線の作家活動をほとんど半世紀近くやってきてるんですね。すごいことですよ、それは。人間国宝、です。

 そして、いつまでも、すごい探究心のある方で、感心します。「うつのちから」を説く五木さんによれば、「鬱」の本来の語義は、「草木が生い茂るさま」で、「うつ」とは、その力、エネルギー、生命力を意味するとのことでした。「鬱の力」という、五木さんらしい逆転の発想は、この末法のような時代に必要な知恵だと思いました。

 その五木寛之さんに、乱世を90歳まで生き抜いた『親鸞』(1173〜1263)の著者として、変化の時代のこころのありかたを聞きました。わたしは、最近、日本の歴史を次のように大きく区分し、特徴づけています。

◆時代区分と時代特性
①古代詩歌の時代神道の時代(神話・詩歌)歌い、物語る心祭祀・供養②中世宗教の時代仏教の時代(戦乱・怨霊)信心、修行する心信心/芸能(平家物語/能)③近世学問の時代儒教の時代修養、遊楽する心修養・作法④近代科学技術の時代「西洋教(洋学)」の時代苦悩、葛藤する心技能
 日本の歴史のドミナントな宗教文化は、古代の神道、中世の仏教、近世の儒教、そして近現代の西洋教、と移行してきました。そういう中で、それぞれの時代の文化も花開きました。

 古代には、『古事記』(稗田阿礼・太安万侶)、『日本書紀』(舎人親王)、『風土記』、『万葉集』(大伴家持編纂)、『山家学生式』(最澄)、『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』(空海)、『延喜式祝詞』、『往生要集』(源信)、『源氏物語』(紫式部)が書かれ、そこでは、曼荼羅、マントラ、即身成仏、天台本覚思想、神人一如(合一)が説かれ、仏教は一つの心の理論として、はたまたニーチェのいう「精神の衛生学」として導入されていきました。

 それが、中世となり、『選択本願念仏集』(法然)、『神道秘録』(卜部兼友)、『愚管抄』(慈円)、『歎異抄』(唯円)、『教行信証』(親鸞)、『正法眼蔵』(道元)、『一遍語録』(一遍)、『神道五部書』(度会氏)、『風姿花伝』『花鏡』(世阿弥)、『唯一神道妙法要集』(吉田兼倶)などの諸本が登場し、統一なき乱世における根源的統一の希求、リアリズム(即物性・武力・権力)と神秘主義(秘伝性・霊力・呪力)とスピリチュアリズム(霊性思想)が台頭してきました。そんな中世をわたしはとてもおもしろい時代だと思います。

 そして、近世に入り、『鬼神論』(林羅山)、『童子問』(伊藤仁斎)、石田梅岩、『宇比山踏』『古事記伝』(本居宣長)、『霊の真柱』(平田篤胤)など、儒学や国学、水戸学等の学問的著作が行われます。中世の神秘主義が消えて、合理主義と実用主義が台頭してきます。そして、そこに等身大の心を見つめる思考が展開されます。それは、“等心大”の発見とも、“女々しさ”(女・子供)の評価でもありました。それが、「もののあはれを知る」ことの意味論と価値論を説いた本居宣長の要諦です。

 こうして、今、NHKの大河ドラマ『竜馬伝』のような、近代社会となり、『こころ』「行人』(夏目漱石)、『遠野物語』(柳田國男、1875−1962)、『注文の多い料理店』『春と修羅』(宮沢賢治)、『新しき科学』(柳宗悦)、「書簡」(南方熊楠、1867−1941))、『古代研究』(折口信夫、1887−1953)が書かれますが、そこで、近代・西洋化の波をかぶりながら、独自の心の探究を成し遂げた人たちが登場してきます。

 そんな、日本史の中で、わたしが興味を持つのは「古代的な心性」を持つ人びとであり、そんな心性を深く持ちながらも、新しい時代の意識を切り拓く人びとです。とりわけ、日本中世には、あらゆるレベルでの「チ」の変化が起こりました。
  ①知(意識・認識)
  ②血(つながり・家族・共同体・きずな)
  ③地(大地・自然・環境)
  ④治(政治・社会構造・社会関係)
の変化です。中世は、確固たる「チ」平がどこにもない時代、でした。支えになるもの、頼りになるもの、信頼に足るものが見つからない時代。そのような時代を、いかに、「生きる」か、が問われました。

 そんな中で、ぬっと出てきたのが、親鸞さんで、五木さんの『親鸞』は、そのような中世の中の親鸞の登場を非常に生き生きとダイナミックに、また新時代意識と生き方の登場として描き切っています。五木さんは書きます。

「真実の言葉を語れば、かならず周囲の古い世界と摩擦をおこすものです。できあがった体制や権威は、そんな新しい考えかたや言動に不安をおぼえることでしょう。おそれながら、(法然)上人さまの説かれることの一つ一つが鋭い矢のように彼らの胸に突き刺さり、肉をえぐるのです。ことに上人さまがつねづねいわれる選択ということは、骨から肉をけずりとるように、これまでの仏法の権威を否定する教えです。わが国の仏法は、異国から伝わってくる教えや知識を、必死でとり入れ、つけくわえ、つけくわえして大きく豊かに花開いた世界です。ところが、上人さまは、それらの教えや、修行や、教説を一つ一つ捨てていこうとなさっておられます。知識も捨てる。学問も捨てる。難行苦行も、加持祈祷も、女人の穢れも、十悪五逆の悪の報いも、物忌みも、戒律も、なにもかも捨てさって、あとにのこるただ一つのものが念仏である、と説かれております。これまでそのような厳しい道にふみこまれたかたは、だれ一人としておられません。それが真実だからこそ危ういのです。」(『親鸞』下、54頁)

 五木寛之さんは、1932年に、Shinさんと同じ、福岡県に生まれました。お父さんは学校の先生で、終戦までの時期を朝鮮半島で教師生活をされていたようです。終戦後、艱難辛苦の果てに北朝鮮より引揚げて来られ、早稲田大学文学部ロシア文学科に入学するも、学費が払えず、除籍となりましたが、後に、その功績により、名誉ある「中退」と修正してもらったそうです。1966年に、『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞を受賞。わたしは、当時、リアルタイムで、その雑誌の小説を読みました。続いて、『蒼ざめた馬を見よ』で第56回直木賞受賞。この頃、わたしは五木さんの小説を次々に読んでいました。

 そして、『青春の門』で吉川英治文学賞受賞。代表作には、『朱鷺の墓』、『戒厳令の夜』、『蓮如』、『大河の一滴』、『21世紀仏教への旅』、『人間の覚悟』、などがあります。また、翻訳に、チェーホフの『犬を連れた貴婦人』、リチャード・バックの『かもめのジョナサン』、ブルック・ニューマンの『リトルターン』などもあります。

 第一エッセイ集の『風に吹かれて』は刊行40年を経て、現在総部数約460万部に達するロングセラーとなっているそうです。また、ニューヨークで発売された英文版「TARIKI」は大きな反響を呼んで、2001年度「BOOK OF THE YEAR」(スピリチュアル部門)に選ばれたとのことです。また2002年度には、第50回菊池寛賞を受賞。

 しかし、そんな作家活動の過程で、1981年より休筆し、京都の龍谷大学において仏教史を学んでいます。そんなことができるのも、すごいことだと思います。そして、1985年より執筆を再開し、現在、直木賞や泉鏡花文学賞など、多くの選考委員を務めています。そして、そして、2008年9月より2009年8月まで1年間、全国の主要地方紙で小説「親鸞」を連載し、2010年1月1日、講談社より『親鸞』上下を出版したのです。

 わたしは、五木さんの小説の中では、第一に、『戒厳令の夜』が好きです。第二に、『風の王国』。そして、今回の『親鸞』。これは、『戒厳令の夜』や『風の王国』に優るとも劣らぬ本だと思います。いや、前二著よりも深く透徹した本かもしれません。とにかく、改めて、五木寛之さんという作家の力量に畏敬の念を抱きました。

 五木さんが学んだ(というよりも、在籍した)早稲田大学からは、すばらしく、おもしろい作家や政治家や文化人が輩出していますが、作家の立松和平さんもその一人でした。立松さんは、NPO法人東京自由大学でも、「人類の知の遺産」の講座の中で、「道元」を話してくださいました。また、昨年の10月31日(土)に、神田神社で行った東京自由大学の「三省祭り」(山尾三省さんを顕彰するシンポジウム)を行った時も、喜んで参加してくれ、山尾さんの「一人暮らし」の詩を朗読してくれました。その立松和平さんが、この2月8日に急逝されました。わたしは東京自由大学のニューズレターに次のような追悼文を書きました。


 立松和平さんが亡くなった。突然の訃報に、多くの人が「まさか!」という思いを持った。わたしもその一人だ。

 昨年の11月、東京自由大学の「三省祭り」であんなにお元気な姿を見ていたから、当然だ。驚いた、というよりも、まさか、であった。訃報ではなく、誤報ではないか、と一瞬疑ったほどだ。だが、それは事実だった。

 立松さんは1947年に栃木県宇都宮市に生まれた。地元の高校を卒業して、1966年に早稲田大学政経学部に入学した。学生運動が盛り上がった頃だった。フーテン、アングラなどが流行していた。

 1970年、デビュー作の「途方にくれて」を『早稲田文学』に投稿、掲載された。そして、「自転車」で、早稲田文学新人賞を受賞した。その頃、わたしはリアルタイムで『早稲田文学』を読んでいた。中上健次が同誌に発表した「灰色のコカコーラ」もリアルタイムで読んだ。そんな中に、立松和平さんの小説もあった。

 小説は地味で、華やかなところがなかった。中上健次のような激しさもなかったような記憶がある。だが、地道ながら、しっとり、じっくりと伝わってくる情調があった。

 しばらくして、宇都宮に戻り、市役所の役人になったという話を聞いた。筆を折ったのか、文学で生きていくのは大変だな、と他人事ならず思ったものだ。だが、その間も、立松さんは小説を書き続けていたのだ。

 そして、1980年、『遠雷』で野間文芸新人賞を受賞した。それからの活躍は質量ともに凄いものだった。

 わたしの中では、立松和平と寺山修司と山尾三省が重なる。わたしの中の、早稲田大学三人組だ。わたしは高校3年の時に寺山修司と出会った。寺山さんが最初にわたしの書いたものを認めてくれた。その寺山修司の独特の訛りと含羞に似た匂いを立松さんに嗅ぎとった。

 でも、立松さんは寺山さんのようなはったりというか演劇性はなく、何よりも素朴で実直だった。その点で、山尾三省さんとよく似ていた。

 早稲田大学はいろいろな方面に面白い人材を輩出している。そんな、早稲田族の典型の一人と言えるのが、立松さんであり、寺山さんであり、山尾さんである。

 その三人ともに、今は無い。さびしいが、しかし、彼らのたましいとメッセージはわたしの中で生きている。この三人の言葉がわたしの中で星雲のように輝き、活動している。

 その星雲を抱えて、生きていきたい。立松さん、またお会いする日まで! ありがとうございました。


 Shinさんも、立松さんと同じ早稲田大学政治経済学部出身ですが、五木さんも、立松さんも、早稲田大学が生んだ大作家だと思います。そして、五木さんは『親鸞』を、立松さんは『道元』を書きました。どちらも、大変な力作であり、中世という時代に新しい宗教意識を切り拓いた人物の心と行動に新しいまなざしと息吹を注ぎ込み、甦らせました。作家として、すばらしいお仕事をなさったと心より敬意を表します。

 わたしも、いつか小説を書いてみたいという気持ちがあります。特に、中世に題材を取った小説。保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)の前後を舞台にした小説。慈円や法然や親鸞が活躍する源平の合戦の時代のことを。もちろん、その中で、わが家の先祖の鎌田正清が平治の乱において源義朝とともに殺されたこともきちんと書きたいのですが、とにかく、その「乱世」にわたしは興味を持ち続けてきたのです。そして、「乱世の力」:を描きたいのです。実はそのタイトルまでひそかに決めているのですよ。

 中上健次さんは、わたしに「小説を書け!」とけしかけてくれました。中上さんは会う人みなにそう言ったそうですが、その言葉をわたしはしかし本気で受け止めています。そして、いつか、すごい小説を書いてみたいと思っています。それは、五木『親鸞』とも、立松『道元』とも、中上『熊野』とも違う、中世像世界になるはずです。それを書き切ることが、寺山さんや山尾さんや立松さんや中上さんに対する、わたしなりの恩返しにもなるとも思っています。

 そんな、鎌田『乱世の時じく』が書かれたら、Shinさん、その時は、ブログで大いに紹介してくださいね。そんな時が近いうちに訪れるよう、精進したいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。オルボワール!

2010年3月3日 鎌田東二拝