シンとトニーのムーンサルトレター 第132信
- 2016.05.22
- ムーンサルトレター
第132信
鎌田東二ことTonyさんへ
Tonyさん、お元気ですか? Tonyさんとはもう10年以上もこの満月の往復書簡を続けていますが、最近、わたしは他の方とも往復書簡を開始しました。その方は、宗教学者の島田裕巳さんです。「葬儀」をテーマにした共著に掲載する往復書簡で、何通か手紙のやりとりをしてから最後に対談する予定です。『葬式は、要らない』や『0葬』を書かれた島田さんと、『葬式は必要!』や『永遠葬』を書いたわたしが共著を出すということに驚かれる方も多いようですが、たしかにわたしたちは、これまで「宿敵」のように言われてきました。「葬儀」に対する考え方は違いますが、わたしは島田さんを才能豊かな文筆家としてリスペクトしています。意見が違うからといって、いがみ合う必要などまったくありません。意見の違う相手を人間として尊重した上で、どうすれば現代の日本における「葬儀」をもっと良くできるかを考え、そのアップデートの方法について議論することが大切ではないかと思っています。
じつは、島田さんをわたしに初めて紹介して下ったのはTonyさんなのですよ。『魂をデザインする』を上梓した1992年のことだったと思いますが、わたしはTonyさんから仏教書出版の名門である法蔵館のパーティーに連れて行っていただきました。そこで養老孟司、山折哲雄、橋爪大三郎、正木晃、上田紀行、カール・ベッカーといった方々をTonyさんから次々に紹介されました。そのときに、島田さんも紹介していただいたのです。Tonyさんは憶えていますか。
それから、わたしと島田さんは2010年にNHKの討論番組で共演したのですが、その後に思わぬ再会を果たしたのは2013年2月8日でした。再会のキーマンは、またしてもTonyさんです。東京の小田急線の梅ヶ丘駅前にあるライブハウスで開かれたTonyさんのライブを訪れたとき、わたしの席の隣が島田さんの席だったのです。Tonyさんは、ライブの開始時間になっても姿を現わしませんでした。会場のライブハウスには非常に重苦しい雰囲気が漂いましたが、そのおかげで、わたしは島田さんとたっぷり話ができました。そして、今回の共著で対談するという運びになったわけです。本当に「縁は異なもの」ですが、その背後にはつねに「縁の行者」の存在がありました。
さて、話は変わりますが、わたしは先日ついに次回作である『儀式論』を脱稿いたしました。社会学、宗教学、民俗学、文化人類学、心理学などの諸学における先人の業績を渉猟しながら、「なぜ人間にとって儀式が必要なのか」を多角的な視点で考えました。エドワード・タイラー、ジョージ・フレイザー、ロバートソン・スミス、レヴィ・ブリュル、エミール・デュルケム、ファン・ヘネップ、ヴィクター・ターナー、ブロ二スラフ・マリノフスキー、ラドクリフ・ブラウン、エドマンド・リーチ、クロード・レヴィ=ストロース、ジョルジュ・バタイユ、ロジェ・カイヨワ、ルドルフ・オットー、ワルター・オットー、ジェーン・ハリソン、ジークムント・フロイト、カール・グスタフ・ユング、カール・ケレーニイ、ミルチア・エリアーデ、柳田國男、折口信夫、岡本太郎、倉林正次、柳川啓一、山口昌男、青木保、河合隼雄、それにTonyさんといった錚々たる人々が登場します。400字詰め原稿用紙で900枚以上書きましたが、註や索引も作成する予定で、総計500ページ以上の本になると思われます。「儀式」の存在意義を明らかにするなど、わたしの手に余る壮大すぎるテーマです。しかし、「俺が書かねば誰が書く!」という気概と使命感で、「これを書き上げたら死んでもいい」という覚悟で書きました。『唯葬論』と『儀式論』を2年続けて書き下ろすのは、正直言って大変でした。しかし、わたしは「Tonyさんだって、『世直しの思想』と『世阿弥』の2冊をほぼ同時に書き上げられたのだから」と思って頑張りました。Tonyさんが『唯葬論』をわたしの総決算的作品であると言って下さいましたが、『儀式論』はわたしにとって新しい出発の書になるような気がしています。10月の刊行を目指していますが、本が刷り上がったら、真っ先にTonyさんに送らせていただきます。
そんな熱気溢れる北九州市を後にして、わたしは熊本へ向かったのです。全国冠婚葬祭互助会連盟(全互連)の会長として、仲間の互助会であるユウベル熊本さんが甚大な被害に遭われ、その支援について現地で打ち合わせをするとともに、義捐金をお届けするのが一番の目的でした。
なんとか、地震が発生した月に熊本に入ることができました。東日本大震災のときは、早々に被災地を訪れる予定でしたが、尾道で足を骨折してしまい、叶いませんでした。足にギプスをはめ、松葉杖をつきながら、悶々とした日々を過ごしました。怪我が治ってから被災地入りしたときは、「こんなに遅くなって申し訳ない」という思いでいっぱいでした。ですから、今回はいち早く熊本入りしたかったのですが、道路も閉鎖されたところが多く、九州新幹線も運転を休止しており、地団駄を踏んでいたのです。しかし、ようやく新幹線も運転再開し、義捐金の額も決定しましたので、今回の訪問が実現した次第です。
本当は最大の被害を受けた益城町も訪れたかったのですが、GW期間中で大量のボランティアが活動しており、かえって今行くと現地に迷惑がかかるというので断念しました。また日を改めて訪問したいと考えています。地震により、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された方々にお見舞いを申し上げます。の不安や心配や苦悩が少しでも軽減されることを心からお祈りいたします。
大型連休の狭間となる5月2日の朝、サンレー本社において恒例の月初の総合朝礼が行われました。ラジオ体操、社歌斉唱に続いて、わたしが社長訓示を行い、以下のような話をしました。今回の地震では改めて自然の脅威を嫌というほど思い知らされました。
サンレー本社のお見舞い看板
5月度総合朝礼で「世直し」の道歌を披露
よく、「自然を守ろう」とか「地球にやさしく」などと言います。しかし、それがいかに傲慢な発想であるかがわかります。やさしくするどころか、自然の気まぐれで人間は生きていられるのです。生殺与奪権は人間にではなく、自然の側にあるということです。
日本人固有の信仰といえば、神道です。神道とは何か? Tonyさんは、ご著書『神道とは何か』(PHP新書)において、「さし昇ってくる朝日に手を合わす。森の主の住む大きな楠にも手を合わす。台風にも火山の噴火にも大地震にも、自然が与える偉大な力を感じとって手を合わす心。どれだけ科学技術が発達したとしても、火山の噴火や地震が起こるのをなくすことはできない。それは地球という、この自然の営みのリズムそのものの発動だからである。」と述べておられます。
神道において、「祭り」が重要な役割を果たします。「儀式」は「祭り」とも不可分の関係にありますが、そのルーツはどこにあるのか。Tonyさんの最新刊『世阿弥』(青土社)によれば、「神楽」という芸能的要素を交えて神々の御霊を慰め、怒りや崇りを鎮める所作、それが祭祀の原型だといいます。そして、それは「天岩戸」という洞窟の前で行われた神々の祭り・儀式です。「天岩戸」という洞窟空間は死と再生という両極のはたらきと運動をもたらす両義的空間であり、墓場にして産屋、死と生の融合した原初空間と言えるのですね。
まさに、この「天の岩戸」から儀式は生まれました。「世直し」とは「岩戸開き」のこと。すなわち、暗い闇に陽光(サンレー)を射し込ませることなのです。そして、わたしたちは冠婚葬祭という儀式のお手伝いこそ、「こころ」に「かたち」を与え、社会を明るくする世直しであるということを知らなければなりません。日々の仕事が、そのまま「世直し」となるのです。以上のような話をした後、わたしは「岩戸開き世を照らし出す陽の光 儀式で拓く世直しの道」という道歌を披露しました。
それから、5月5日の「産経新聞」朝刊に驚くべき記事を発見しました。弟から教えてもらったのですが、見ると、「上海『死亡体験館』若い世代に大人気」「熱風火葬→再び誕生」「生きる力もらった」という見出しが目に飛び込んできました。なんと、死亡をシミュレーション体験する施設が上海にオープンし、大変な人気を呼んでいるという内容でした。記事には、「中国で9万人近い死者と行方不明者を出した8年前の四川大地震で被災地ボランティアを経験した男性らが、上海市内で一般の人に『死亡と誕生』を疑似的に体験してもらう施設を4月にオープンし、若い世代からの入場予約が殺到している。異例のシミュレーション施設『4D死亡体験館「醒来」』の入場料は1人444元(約7500円)。参加枠は1日24人まで。20〜30代の中国の若者を中心に問い合わせが相次ぎ、すでに6月分まで満席でキャンセル待ちとなっている。初対面の12人が家族の死や自分の悩みなど身近な問題について、さまざまな角度から議論。その上で“火葬場”に運ばれ、炎の映像と全身を包む熱風や、激しい音で“火葬”を体験。さらに母親の胎内を模したトンネルを通って、再び“誕生”する3時間の旅だ」
「産経新聞」5月5月朝刊
いやあ、これには仰天しました。「死亡体験館」のような施設を日本にも作るのは「あり」だと思います。上海でも大人気で、ビジネスとしても成功しているようですし。しかし、単なる覗き見趣味的な発想で作るのは反対です。それだと、かつて温泉地に乱立した「秘宝館」の二の舞になりかねません。もっと、「葬儀」や「グリーフケア」、そして「死生観」をテーマとした真面目な施設にすることが望まれます。「死亡体験館」は、中国らしいというか、少々ベタな印象も受けます。しかし、「死と再生」というのはイニシエーションそのものであり、生きる気力のなくなってしまった人々を「死んだ気」にさせることができるでしょう。また、死ぬのが怖くて仕方がない人にも有意義な施設になるかもしれません。いずれにせよ、一度、上海に行って「死亡体験館」を訪れてみたいと思います。
それでは、次の満月まで。オルボワール!
2016年5月22日 一条真也拝
一条真也ことShinさんへ
今回は、返信が遅れに遅れ、ごめんなさい。4月16日のライブ時に引いた風邪が抜け切れず、また5月末に沖縄・久高島行きなどが重なり、返信が遅れに遅れてしまいました。重ねてお詫び申し上げます。
島田裕己さんとの往復書簡、興味深い試みですね。「葬式は要らない」派と「葬式は必要」派とのガチンコ往復書簡ですからね。興味津々。日本の未来を占う往復書簡ですね。
それから、500頁を超える畢竟の大著『儀式論』、大変楽しみです。Shinさんでなければ書けない本になりますね。エドワード・タイラー、ジョージ・フレイザー、ロバートソン・スミス、レヴィ・ブリュル、エミール・デュルケム、ファン・ヘネップ、ヴィクター・ターナー、ブロ二スラフ・マリノフスキー、ラドクリフ・ブラウン、エドマンド・リーチ、クロード・レヴィ=ストロース、ジョルジュ・バタイユ、ロジェ・カイヨワ、ルドルフ・オットー、ワルター・オットー、ジェーン・ハリソン、ジークムント・フロイト、カール・グスタフ・ユング、カール・ケレーニイ、ミルチア・エリアーデ、柳田國男、折口信夫、岡本太郎、倉林正次、柳川啓一、山口昌男、青木保、河合隼雄、といった大家に加えて、Tony Parisも入るとは。光栄かつ恐るべし。
最近、わたしはピエル・パオロ・パゾリーニ監督(1922-1975)の『奇跡の丘』(1964年製作)と『アポロンの地獄』(1967年)を改めて立て続けに観ました。そして、いろいろと考えさせられるところ、大でした。
もともと、パゾリーニは大好きな映画監督です。わが映画鑑賞ベストスリーは、以下の通りです。
第一位:17歳の時、銀座のテアトル東京でシネラマで観たスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』(1968年製作)
第二位:19歳の時観たジャン・リュック・ゴダール監督の『気狂いピエロ』(1965年製作)
第三位:同じ頃観たバゾリーニの『アポロンの地獄』(1967年製作)
今初めて気づいたのですが、この3本ともに1960年代後半の製作になりますね。1960年代後半が如何に昂揚したおもろい時代であったか、証明しているようです。これ以来、これほどおもろく刺戟的な映画をあまり見ていません。
わたしは、Shinさん同様、大の映画好きです。18歳の頃には、1日3本か4本、毎日のように映画を観ていました。映画館はわたしの揺り籠か、胎内か、アルタミラの洞窟のようでした。わが夢想の身心変容空間は、間違いなく、映画館でしたね。あのまっくらな映画館には「死の臭い」がありました。その「死」から「詩」と「再生」が香り立ってきたのです。
さて、パゾリーニですが、『奇跡の丘』は凄い映画ですね。これほど忠実にイエスの言行を追っている映画だと19歳の時に観たときはわかっていませんでした。ほとんど、『新約聖書』の冒頭に置かれた「マタイによる福音書」そのままですね。この作品は、1964年の第25回ヴェネチア国際映画祭審査委員特別賞と国際カトリック映画事務局賞をダブル受賞していますが、カトリックの国イタリアでカトリック映画として認められたのですから、大したものですよね。確かに、このどこにも、反カトリック的なところはありませんし、わたしの好きな異端のグノーシス主義のグの字もありません。大変忠実な「マチウ書試論」です。
ところが、パゾリーニの手にかかると、この「福音」を告げるイエスが、実に過激な社会主義者か共産主義者に見えてくるのです。つまり、「神の国共産主義者」「神の国社会主義者」としての「革命家イエス」が実に大胆不敵に、過激に描かれているのです。これは「マタイ伝」に忠実ではあっても、「救世主イエス」というよりも、「世界革命家イエス」、ですね。
う〜ん、と唸りました。わたしはこの4月1日からイエズス会によって設立された上智大学に所属することになったので、日々キリスト教やカトリックを意識するようになりましたが、これは「聖書」に忠実でありながら、実に大胆不敵にアンチカトリックではないか、とも思いました。つまり、カトリック的な「組織」や「ヒエラルキア」を徹底批判し否定するような「神の国」思想ではないか、と。
そして、19歳で初めて見た時も実に印象に残りましたが、イエスを裏切ったイスカリオテのユダがイエスの逮捕後、木に首を吊って自殺する場面の背後に恐ろしいような滝があるのを、再見して初めて意識しました。この自死場面の恐ろしさ、畏怖すべき風景の描き方は半端ではありません。凄い。魂消た。脱帽!
パゾリーニはん、あんたは、凄いよ。凄すぎる!
「マタイによる福音書」第3章には、「悔い改めよ、天国は近づいた」と告げるイエスが描かれています。ヨルダン川でヨハネから洗礼を授けるバプテスマのヨハネもまた「悔い改めよ、天国は近づいた」と説きます。ヨハネは洗礼を受けにきたパリサイ人やサドカイ人に次のように激しい口調で言います。
「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。 また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」
いやあ〜。ヨハネもイエスも激しいわ。もちろん、『旧約聖書』の「出エジプト記」のモーセも、ですが。
パゾリーニの『奇跡の丘』には、「マタイ伝」に従った印象的な場面がいくつもありますが、有名な悪魔による三つの誘惑の場面も実に恐るべきシーンでした。イエスは御霊に導かれて荒野に赴き、40日の断食をします。そこに悪魔が来て試みます。「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。これが第一の誘惑です。するとイエスは、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」と答えます。続いて悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行って、宮の頂上に立たせ、こう言います。「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。 なかなか悪魔も狡猾です。イエスが聖書の引用で反撃してきたら、さらにそのカウンターを聖書に基づいて返しているのですから。するとイエスは、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」といなします。
最後に、悪魔は、イエスを高い山に連れて行ってこの世のすべての国々と栄華とを見せてつけてこう言うのです。「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。これは野心や権力を持ちたいと思う人すべてをノックダウンするような誘惑でしょう。それに対して、イエスは、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」と言い放つのです。
イエスは漁師のペテロとアンデレ兄弟を最初の弟子にする時に、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と言います。 彼らはすぐに網を捨ててイエスに従います。
こうして「マタイ伝」はイエスの福音の最初のクライマックスである「山上の垂訓」を描きます。
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」
と。
この「山上の垂訓」の冒頭の「八福の教え」の最初の「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」という文言は、なかなか難しい表現です。「こころの貧しい人」とは何か、そして、その「こころの貧しい人」たちが何を感じて、求めているがゆえに、天国に行くことができるのかが、そこだけでは明示的ではないからです。英語ではこの文章は次のように訳されています。
Happy are those who know they are spiritually poor; /the Kingdom of heaven belongs to them.
Blessed are the poor in spirit: for theirs is the kingdom of heaven.
「spiritually poor」も、「the poor in spirit」も、大変デリケートで意味深長な表現ですね。物質的なプアではない、精神的・霊的プアというのは、おのれの未熟さを知る者、おのれの罪深さや救われなさを知る者という意味でしょうか? 伝統的な言い方では「業が深い」とか。
この後にも、「山上の垂訓」には激しい言葉が続出します。
「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。」
「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。」
「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。」
「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。」
これが「神の国社会主義」「神の国共産主義」でなくて何でしょう!
さらに、しばらくあって、有名な「主の祈り」が続きます。
「天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。
御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの食物を、
きょうもお与えください。
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。
わたしたちを試みに会わせないで、
悪しき者からお救いください。」
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」
「にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。」
イエスの「福音」の説き方に群衆はいたく驚きます。なぜなら、その説教は、「律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられた」からです。イエスのカリスマは神の聖霊に拠るからでしょうか。「神の言の受肉(incarnatione Verbi)」。
実はこの「神の言の受肉(incarnatione Verbi)」のことは、2010年6月10日付のわが「ムーンサルトレター58信」にかなり詳しく書いていたのです。もちろんその時は、わたしは京都大学を定年退職した後、上智大学に移籍するなどということは露ほども考えたことはありませんでした。
「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」
ともあれ、パゾリーニの『奇跡の丘』のイエスは過激な「神の国原理主義者」というか「神の国社会主義者」というか「神の国共産主義者」のようでした。
続いて観た『アポロンの地獄』も、『平家物語』のように悲劇的でした。ソフォクレスの悲劇を現代に接続しながら、運命に翻弄されて予言をそのまま実行して父殺しと母犯しの深い罪を犯してしまうエディプスの事績がじつに乾いたタッチで描かれていきます。この映画でエディプスの実の母である王妃イオカステー役を演じたシルヴァーナ・マンガーノも大変魅惑的でした。
思いがけず、パゾリーニ談義の長広舌になって失礼しました。
最後に、中国の「死亡博物館」についてのとても興味深い記事、ありがとうございます。
「運営責任者の1人は四川大震災で被災地ボランティアを行った黄衛平氏(46)。かつてビジネスで成功したが麻薬に溺れ、死のふちをさまよった経験をもつ。そのころに起きた震災の現場に入った黄氏は、家族を亡くした人たちへの支援などを行ううちに『死生観』が変化した。その後、上海のホスピスで働き、意気投合した丁鋭氏(43)らと生命教育に関する非営利団体を設立。「死を通じて生命の大切さを実感する」ための施設を思いついたという。4年前から約400万元を投じて準備し、開設にこぎ着けた。黄氏らは『死亡体験館』で今後、医療関係者や警察・消防、葬儀業界関係者など、『死が』身近な職業の人たちへの心理ケアも行っていく考えだ」
死生観の転換が起こる現代大中世=乱世の「メメント・モリ!」のうねりの一つですね、この流れは。その質がいかにあれ、大変現代的だと思います。死生学博物館もいよいよ現実に近づいています。
円空仏で有名な飛騨高山の名刹・千光寺の大下大圓住職が、『講座スピリチュアル学第1巻 スピリチュアルケア』(BNP、2014年9月刊)の中で、千光寺の死生観ワークショップのことなどを書いてくれていますが、わたしもその千光寺で死生観ワークショップを体験しました。3〜4年前のNPO法人東京自由大学の夏合宿で。このあたり、中国や米国に先を越されているかもしれません。
内モンゴル出身のシャーマニズム研究者の文化人類学者のアルタンジョラーさんが調べてくれたところでは、中国の大きなサイトで「死亡体験館」と検索すると629,000の出てきたとのことでした。ネットでは若い層を中心に普通に語られており、『来自星星的』(星から来たあなた)というドラマの中にも「死亡体験館」のシーンがあったとのことです。
◆2014年の初めに洪全氏が上海で始めた「死亡体験管」が中国で最も権威ある「死亡体験館」。
http://news.163.com/16/0405/11/BJSQQBN800014AEE.html
◆2015年の記事では、瀋陽のある心理治療所が施設内に棺を置き、訪れた人に治療の一環として死亡体験をさせるということを行っていたようです(体験者の多くが20−40代の人で、一回の体験は4-5時間程度)。
http://slide.eladies.sina.com.cn/qg/slide_3_36411_16881.html#p=1
◆また、韓国の「棺材学院」(2009年設立)という会社の「模擬葬式」の記事もあります。韓国では中国よりも多いそうです。
http://news.sohu.com/20121112/n357328671.shtml
◆「生命体験館」の中に「4D火葬炉」があります。「情感迷路」の中の状況によって、「死亡方法」(意外か、自然か、疾病か)が判断され、告知されます。そして「4D子宮」を通って「生まれて」くると、心理専門家が体験者の疑問に答えてくれるようになっているとか。
凄いですね、中国や韓国の「死生観」体験館やそのプログラムも。一種のテーマパークとも言えますが、「終活」が話題となっている昨今の日本でも、この手のビジネスやワークショップも広がりを持ち始めるのではないかと思います。それは決して悪くはありませんが、一人ひとりがそれをどう深め、自分の問題として問いかけ、生きていくことができるかが問題です。
ところで、5月24日付の「読売オンライン」の「深読みチャンネル」に、「なぜ流行に敏感な女性はパワースポットを巡るのか?」と題する記事を寄稿しましたので、ご一読くだされば幸いです。
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20160523-OYT8T50144.html
最後に、5月28日から30日まで、沖縄・久高島に行って参りました。島の振興をどうするかを話し合う古謝南城市長との対話集会にも参加してきました。実質人口170人の久高島がこれからどうしていくか、さらに見守っていきたいと思います。「久高オデッセイ」三部作で、2002年から2014年までの12年間をドキュメントし、見守り続けてきた故大重潤一郎監督の遺志を引き継いで。
その故大重潤一郎監督を偲ぶ「久高オデッセイ祭り」(通称「大重祭り」を、7月21日から23日にかけて、沖縄大学と南城市と久高島で行ないます。7月22日が大重さんの命日になります。ちょうどその頃に、大阪の十三の「淀川文化創造館・シアターセブン」で、7月2日から大重潤一郎監督の命日=1周忌の7月22日まで、「久高オデッセイ」三部作+「光りの島」「黒神」の3週間ロングランを行ないます。ぜひ多くの方々に「久高オデッセイ」三部作を始め、大重作品を観てほしいです。
久高オデッセイ祭り@淀川文化創造館・シアターセブン(大阪)
2016年6月3日 鎌田東二拝
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