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シンとトニーのムーンサルトレター 第009信

第9信

鎌田東二ことTonyさま

 お元気ですか? 先日の「朝日新聞」の書評欄に鎌田先生の新刊『霊的人間』(作品社)が取り上げられていましたね。わたしも一気に読了しましたが、たいへん興味深い本でした。ヘッセ、ブレイク、ゲーテ、本居宣長、上田秋成、平田篤胤、稲垣足穂、イエイツ、ハーン・・・次元をひとつ多く持つ、さまざまな霊的人間たちが次々に数珠の如くつながってゆくさまにコーフンしました!まるで一篇の叙事詩のように流れのある一冊ですね。

 特にゲーテと宣長の共通性のくだりに強く惹きつけられました。先生は、「わたしは昔から、ゲーテのことを考えるたびに本居宣長のことを思い、本居宣長のことを考えるたびにゲーテを思い出した。この二人はわたしにとって、二卵性双生児のようによく似ていて、切り離し難かった」と書かれています。古典主義とロマン主義との境界にあって、どちらにも足をつけながら、実に節制と調和とバランスの取れた立場を貫いた稀有の人物と思っておられたとのこと。「もののあはれを知る」ことを「やまとごころ」の本義と考えた本居宣長と、「美は芸術の究極の原理であり、最高の目的である」と語ったゲーテには、共通する知と美の巨人としての風格がある、と先生は述べておられますが、まったく同感です。

 それにしても、ゲーテと本居宣長の間に共通性を見出すなど、他の学者の先生には思いもつかぬことであり、「神界のフィールドワーカー」であると同時に「知のトリックスター」でもある鎌田先生の真骨頂ですね。わたしも最近、「儒教」の祖である孔子と「マネジメント」の発明者であるピーター・ドラッカーとの思想上の共通点に着目し、『孔子とドラッカー』」なる一書を上梓いたしましたが、異なるジャンルや体系に属するものの間に類似性や共通性を見ようとする姿勢はきわめて重要であると思っています。もともとドラッカーという人自身が、異なる分野の学問における理論や発見を互いに結びつけ、そこに新しい意味を与えることの天才でした。

 さて、わたしにとって、本居宣長は興味の尽きない人物です。最近も、小林秀雄の大著『本居宣長』を再読しました。宣長は国学者が歌を詠むことの大事さを強調し、生涯におよそ一万首の歌を詠んだとか。一日一首ずつ詠んでも約30年かかるという、途方もない数です。『霊的人間』にも、当時の松坂では夕暮れ時のことを「宣長先生の歌詠み時」と言っていたというくだりが出てきますね。薄暗くなって細かい仕事をすることはできませんが、歌を詠むことならできます。小児科医としての治療の仕事や古典研究の調べ物などはできないけれども、歌を詠むには会い相応しい時間だったわけですね。

 ゲーテも、こよなく詩を愛しました。「詩」を生み出す力は「精霊」だというゲーテの直観は、先生の指摘されるように、日本の国学者たちが「やまとことば」、とりわけ「やまとうた」の中に「言霊」の力の発現を見て取っていたことと相呼応するのでしょう。そう、大事なのは「言霊」です。わたしは経営においても「言霊」の重要性を力説する者ですが、会社の行事などではことあるごとに自作の短歌を披露しております。

 歌作といっても、なにぶん商売人の身であり、なかなか花鳥風月を詠んで風雅の世界に遊ぶというわけにはいかず、もっぱら会社や仕事に関する話題で歌を詠んでおります。最初は警戒まではしないにしろ、「また、社長が変なことをはじめたぞ」ぐらいにしか思っていなかった社員たちも、最近では「新作はまだですか?」とか「サラリーマン川柳ならぬプレジデント短歌ですね」などと言ってくれる者も出てきました。

 長々と社長訓示などをするよりも、五七五七七の短い言葉の中にメッセージを凝縮して入れた方が効果があるように思います。経営者の最たる仕事とは、経営理念や経営方針などのメッセージをわかりやすく社員に伝えることであり、その意味でも短歌は大切なコミュニケーション・ツールなのです。なお、わたしの短歌は、清水の舞台から飛び降りる心境でホームページ上で披露しておりますので、よろしかったら御笑覧ください。

 かつて、和歌や連歌は戦国武将たちの教養として欠くべからざるものであったそうです。北条早雲などは、「歌道を心得ていれば、常の出言に慎みがある」と述べています。和歌は五七五七七の31文字、連歌は五七五の上の句と、七七の下の句の連続で、いずれにしても、きわめて短い言葉で自分の思いを表現しなければなりません。早雲は、そうした鍛錬が、日常、何気ない言葉にも表れると見ていたのです。

 また、連歌の場合にはもうひとつの意味があり、「出陣連歌」として合戦の前に連歌会を開き、詠んだ歌を神社に奉納し、戦勝祈願をするためにも必要でした。「連歌を奉納して出陣すれば、その戦いに勝つことができる」という信仰があったわけですね。わたしも、当社が新規施設をオープンするときや営業の進発式のときなどは常に歌を詠むことを心がけていますが、いつの日か社員とともに一緒に車座になって連歌会を開くのが夢です。

 もちろん、そこでは当社の「志」を詠みたいと思います。「志」と「詩」と、さらには「死」は本来分かちがたく結びついていました。古来、中国でも日本でも詩歌とは心を語るものとされました。志なく、ヴィジョンなく、夢さえも持たぬ者に、詩想は宿りません。吉田松陰、久坂玄端、高杉晋作、そして坂本龍馬といった幕末の志士たちは、その目で「明治」という新時代を見ずに、この世を去って行きました。だが彼らには青雲の志があり、新社会建設の夢があり、将来へのヴィジョンがありました。そして、彼らは驚くほど大量の歌を残しています。

 また、日本人は辞世の歌や句を詠むことによって、死と詩を結びつけました。死に際して詩歌を詠むとは、おのれの死を単なる生物学上の死、つまり形而下の死に終わらせず、形而上の死に高めようとするロマンティシズムの表われではないでしょうか。そして、死と志も深く結びついていました。死を意識し覚悟して、はじめて人はおのれの生きる意味を知ります。有名な龍馬の言葉「世に生を得るは事を成すにあり」こそは、死と志の不可分の関係を明言したものに他なりません。

 当社は、今年で創立40周年を迎えるにあたり、「サンレー俳句賞」を設けました。短歌にしろ俳句にしろ、日本人が再び死に際して辞世の詩歌を詠む文化を得ることを、わたしは心から望んでいます。客観的に自分の人生を振り返って詩作をすることは、死の不安から解放され、心ゆたかに生きることにつながるからです。そして、「死」を「詩」に変えることが、わが「志」です。

 さて実は、わたしは韓国から帰国したばかりです。韓国の新聞社や大学から招かれて、日本人の死生観および冠婚葬祭についての講演・特別講義を行ってきました。日本人経営者の特別講義は珍しいようで、多くの現地マスコミから取材を受けました。儒教が盛んな韓国では、葬礼学科(!)を持つ大学が9校もあります。また、三星グループや現代グループといった韓国を代表する巨大資本も堂々と葬祭業を営んでいます。

 世界でも珍しい「葬礼歴史博物館」も昨年11月にオープンしており、視察しました。葬祭業者のイム・ズン氏が京幾道竜仁市に開設したもので、2万坪に及ぶ敷地の一角にあります。世界中の葬儀文化を多角的に紹介するこの葬礼歴史博物館は、広大な構想のほんの一部であり、イム氏は今後、誕生、結婚、死に至るまでの通過儀礼に関する歴史博物館をつくる予定でした。しかし残念なことに今年の四月、イム氏は急逝したのです。葬礼文化を研究し、民俗博物館理事など多くの公職を務めた氏の願いは、葬祭業の社会的地位の向上だったといいます。風水や家庭儀礼に関する著書を7冊も執筆し、その分野の第一人者でもあったイム氏との面会を楽しみにしていましたので、その訃報はまことに残念でした。しかし、死そのものは決して不幸な出来事ではありません。イム氏の志を継いで、いつの日か通過儀礼の博物館を日本の地に建設することを、わたしは氏の墓前で誓いました。

 その他、世界の最先端を行く巨大納骨施設「ユートピア」の視察や韓国「国立墓地」の参拝など、有意義な出張となりました。大田保健大学で行われた各大学の合同講義では、わたしは「礼」をテーマに、孔子や孟子の思想について語りました。もちろん、葬礼についても。もともと朝鮮半島の百済から日本に儒教が伝えられたのであり、当然ながら「礼」も同様です。わたしは深い感慨を覚え、講義の最後には「日の本に 礼を伝えし 韓国(からくに)で 礼を語れり カムサハム二ダ」という歌を詠みました。

 それにつけても儒教に基づく葬礼の手厚さを韓国で痛感しました。ところで、本居宣長がその「遺書」に記した自らの葬義や墓地についての記述は、日本人の歴史において最も詳細であるとされています。小林秀雄の『本居宣長』も、そのエピソードからはじまっているほど、宣長の「遺書」は謎に満ちていますが、葬儀および墓地、すなわち「葬礼」に最大の情熱を傾注する宗教とは儒教に他なりません。伊藤仁斎や荻生徂徠といった巨人の影響を受けながらも、儒学の最大の批判者となった宣長ですが、実は儒教の最高の理解者だったのではないか。学問としての「儒学」は否定したが、宗教としての「儒教」は肯定したのではないか。宣長の「遺書」を読み返すたびに、そのような想像が湧いてきます。彼の「遺書」こそは、「ダ・ヴィンチ・コード」ならぬ「宣長コード」だったと思うのです。

 今度、鎌田先生の御高説を伺いたく存じます。うっとうしい梅雨が続きますが、くれぐれも体調にお気をつけ下さい。それでは、次の満月まで、アンニョン・ハセヨ!

2006年6月10日 一条真也拝

一条真也ことShinさまへ

 アンニョン・ハシムニカ! 今日、久し振りでライブを行ってきました。青山の骨董通りに面したラ・タントという素敵なミュージックグッズショップで、JAZZピアニストの笹川典生さんとジョイントライブを行ったのでした。カメレオンコンサートを銘打ったこの会は今年で3回目となります。笹川さんの軽快なジャズと神道ソングライターのケッタイな歌との取り合わせはなかなかオツなものですよ。わたしは、石笛や法螺貝やハーモニカを取り混ぜながら、「神ながらたまちはへませ」「犬も歩けば棒に当たる」「この空を飛びたい 僕の翼で」「フンドシ族ロック」、新曲「十方世界闇」「この光を導くものは」「弁才天讃歌」の7曲を歌いました。アンコールがあったので、世界の諸宗教の真言陀羅尼聖句を歌にした「君の名を呼べば」を最後に歌いました。歌い足りなかったなあ、まだまだ。やはり、2時間くらいはびっちりと歌いこみたいですよ、やるならば。でも、聞く方も大変、苦行かも。

 シンさんも、俳句やら短歌やらウクレレ片手に歌うたうやら、だんだんと神道ソングライターぽくなってきましたね。実にいいことです。レターに本居宣長の歌のことが取り上げられていますが、「国学者は歌詠みでなくちゃいかん!」というのは真実だと思います。わたしはナショナリストではありませんが、自分では「国学」の徒であり、「神主」であると思っているので、「神道ソングライター」を名乗って歌っているわけですが、「もののあはれ」も「もののけ」も歌を通して蠢いてきます。歌は魂の通路です。たましいの通い道。

 ところで、シンさんは韓国で礼について講演されたのですね。韓国の大学には「葬礼学科」がある! 凄いですね、ソ(ウ)レ(イ)は! それも9つもの大学で! うーん、と、唸っちゃいますね。そこで日本人の死生観や冠婚葬祭について講演をしたとは。加えて、「日の本に 礼を伝えし 韓国(からくに)で 礼を語れり カムサハム二ダ」と歌まで披露したとは。やりますねえ。

 わたしも2度、18年前に韓国の慶畿大学校で「神道とシャーマニズム」、5年前に梨花女子大学で「産霊(むすび)論」を話したことがあります。そこで、笛は吹きましたが、短歌までは披露できませんでした。今度機会があったら、「日の本に 礼を伝えし 韓国(からくに)で 霊を語れり 神サ食ム荷駄」と歌を詠んでみたいです。

 さて、5月から6月にかけて、いろんなことがありました。ちょっとブログ風にしたためてみます。
 5月18日から毎週木曜日、3回にわたり、横浜のみなとみらいのクーンズタワービル14階にある神奈川大学エクステンションセンターで「宮沢賢治の宇宙」という連続講座を行った。ヨコハマは学生時分10年近く住んでいたところ。庭みたいな感じ。ぼくにとっては東横線は「銀河鉄道」で、元町から石川町や山手は一番心の落ち着くところだった。外人墓地の前に「シベール」というレストラン・カフェがあって、そこでよくテキーラやマティニを呑んでたな。酔っ払ったら港の見える丘公園で海を見ながら潮風に当たって。そんなことを、神奈川大学のエクステンションセンターの教室から海を見つめながら思い出していた。ヨコハマ・タソガレの時……。

 5月20日、京都造形芸術大学で「第1回モノ学感覚価値研究会」を実施。32人の参加者で、美学者の梅原賢一郎さんの実にユニークな「肉彩論」(モノ学感覚価値研究会のホームページ「研究発表」欄に掲載、臨床心理学者の河合俊雄さんの乾いた皮肉交じりのモノと心とたましいの交点の探索、そしてわたしの「モノ魂論」。第1回目で、3者3様、おもろかったよ。賢さんは独白調、俊さんは講談調、東さんは法螺吹き調。一番濃かったのは賢ちゃんですかね。独自の世界の全面展開。他の追随を許さぬ論法。翌日21日の聖地フィールドワークも実に稔りがあった。御所から下鴨神社、上賀茂神社、貴船神社、鞍馬寺と歩き、新たな発見も多々あった。やっぱり歩かなきゃな。次回の「第2回モノ学・感覚価値研究会」は7月23日(日)、京都造形芸術大学で。

 5月27日、NPO法人東京自由大学「アートシーン21」で麿赤兒さんの「現代舞踏と天賦典式」についての話。これまたおもろく、興奮した。麿さんは三輪山の山麓の育ちだから。小学3年から高校3年まで、ほとんど大神神社の境内で育ったのだ。大物主の神さんに愛されてんだなあ、麿さんは。「モノ」が憑いてるよ、確かに、麿さんには。そして「ヌシ」なんだよなあ、敬愛すべき。34年もこの活動を続けてきた麿さんにはホント、心から親愛と尊敬の念を抱きます。5月18日には前進座で行われた麿さんと大駱駝艦の「魂戯(たまざ)れ」の舞踏公演を見た。おらー、泣いちゃったよ。その舞台には。踊りを見て泣いたのは初めて。言葉にならないほど感動したんだよ。本当に素晴らしかった。泣けた。笑えた。かきたてられた。鏡面ダンス。異界のモノタチとともに。麿御神体健在なり! 万歳!!!

 5月28日、宇都宮市立美術館で井村君江さんと鏡リュウジさんと会う。お二人の講演とトークを聞きに行ったのに、時間を間違えて、着いたら終っているという始末。残念至極! が、二人と語らえたのはよかった。

 6月4日、姫路獨協大学で行われた比較民俗学会の「柳田國男の21世紀」シンポジウムにパネリストとして参加。柳田の妖怪論を中心に話をする。コーディネーターの實川幹朗さんの闘いぶりに「おおーっ!」とエールを送る。帰りに、大阪高島屋で開催されていた近藤高弘さんの個展「黒と白」を観る。近藤さんも活躍するなあ。

 6月6日、地域芸能まつり実行委員会。座長の梅原猛さんに久しぶりでお会いできた。梅原先生、実にお元気ですね。衰えを感じさせません。角川学芸出版から『神と仏のかたち』と『神と仏のすまい』という対話集を立て続けに出したし。梅原さんとわたしは誕生日と血液型が同じなんだよなあ。だからかもしれないけど、よくわかるんだよねえ、これが。同じ星の作用を受けてるんだろうか。

 6月8日、京都の延喜式内社である平野神社の尾崎保博宮司や清明神社の山口禰宜さんたちと一緒に和歌山県の丹生津比売神社と高野山金剛峰寺を参拝する。丹生津比売神社はほんとうに素晴らしい神社だ。丹生宮司夫人の千佳絵さんと15年ぶりくらいであえたし。今度、丹生津比売神社で神道ソングライターとして絶対に奉納演奏しなくちゃ。宮司さんたちと約束したし。それにしても、高野山の金剛峰寺の金堂と根本大塔のすぐ西側に大きな丹生津比売神社があるのには改めて感銘を新にした。空海は丹生津姫の神とその御子神狩場明神の力を借りて初めて高野山を開創することができたのだ。この神仏協働関係の形は重要だ。神仏習合の一つのモデルとして。

 そして、昨日、6月9日、NPO法人東京自由大学の講座「人類の知の遺産」では「空海」を元高野山大学学長・名誉教授で、高野山宝壽院院主・専修学院学院長の松長有慶先生が講演してくださった。松長さんは山折哲雄さんと東北大学大学院の同級生。山折先生にこの講座の前回の講師を務めていただき、「世阿弥」について話をしてもらったので、期せずして同級生リレーとなった。そういえば、その時、山折さんは日本の宗教文化は空海が基礎を作ったというようなことを言ってたな。「ダ・ヴィンチコード」ならぬ「空海コード」を書かねばとも。もうその連載を始めたみたいだけど。わたしもこのところ空海再検討のモードに入っている。

 とまあ、そんなこんながありました。まだ他にもいろいろおもろいことがあったけど、書ききれないので、省略します。本では宮迫千鶴さんの新著『官能論——祝福としてのセックス』(春秋社)とか、田中貴子さんの新著『鏡花と怪異』(平凡社)とか、おおえまさのりさんの新著『夢見る力』(作品社)とか、玄侑宗久さんの新著『ベラボーな生活——禅道場の「非常識」な日々』(朝日新聞社)とか。面白い、刺激的な本が出ました。それぞれ、パワフルな本ですよ。

 そうそう、最後にとっておき。岡野玲子さんとNPO法人東京自由大学の講座「アートシーン21 陰陽師とシャーマニズム」(詳細はこちら)の打ち合わせをしました。自由大学での講座日は、日にちは11月18日(土)に決定しましたが、何より面白かったのは、平安京が五茫星型の中にあるという岡野説です。わたしも御所のあまりの無防備さにこれはなんぞとその謎を解明しようと思っていたので、平安京が実は呪術都市であり、霊的国防都市であることをはっきりと確認した次第。この霊的防衛体制をきちんと読み解くことが平安京の読解には必要ですね。内藤正敏さんや岡野玲子さんと来年あたり、平安京の霊的防衛をめぐるシンポジウムをやってみたいなあ。京都出身の鏡リュウジさんも入れて。ますますおもろく、刺激的で謎めいてきます、この「平安京・平城京コード」は! それから、「平安京・平城京 摩訶不思議の宴2006」(詳細はこちら)も着々と準備ができつつありますので、乞うご期待! ということで、次の満月まで、アンニョン・ケセヨ!

2006年6月11日 鎌田東二拝