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シンとトニーのムーンサルトレター 第010信

第10信

鎌田東二ことTonyさま

 まったく物騒な世の中ですね。北朝鮮が「テポドン2号」とみられる長距離弾道ミサイルを乱射しました。日本海に7発が着弾しましたが、北朝鮮はミサイル連射の事実を求めたうえに「今後もミサイル実験を継続する」と表明しました。国連を舞台に包囲網を築こうとするアメリカに対して執拗に挑発を繰り返しています。

 当然のことながら、誰もが「戦争」を連想し、嫌な予感を抱いています。先日、わたしが韓国の大学で特別講義を行った際、ちょうど50歳以下の男子が月に一度の軍事訓練を行う日で、多くの男子学生たちが迷彩色の軍服に身を包んでいたのが印象的でした。韓国の人々は常に有事を想定しており、毎日が臨戦態勢にあると言っても過言ではありません。

 さて、戦争について考えるとき、なぜかいつも第一次世界大戦のことが頭の中に浮かんできます。人類の歴史上、戦争は無数に起こっていますが、わたしの関心を最も引くのは第一次世界大戦なのです。第一次世界大戦といえば、レマルクの『西部戦線異状なし』が有名で、1930年に製作された映画版は何度も観ました。最近、DVDや劇場で観た映画の中にも、第一次世界大戦に関するものがいくつかありました。そのお話をしましょう。

 まずは、「ロング・エンゲージメント」。現在公開中の「ダ・ヴィンチ・コード」でトム・ハンクスと共演しているオドレイ・トトゥ主演のラブストーリーです。2004年の作品ですが、つい最近、DVDで初めて観ました。1919年、トトゥ演じる19歳のマチルドの元に一通の封書が届きます。それは第一次世界大戦の戦火の中、2年前に戦場に旅立っていった婚約者マネクが戦死したという悲報でした。しかし、マチルドは希望を捨てませんでした。「マネクに何かあれば、自分にはわかるはず」という直観だけを信じ、マチルドはマネクの消息を辿る、途方もなく遠い旅に出るのです。この作品の中には第一次世界大戦の実際の映像も多く使用され、リアルな映像美で戦火の中の愛を描いています。

 次に、ゴールデンウィークに観た「戦場のアリア」。第一次世界大戦中の1914年、雪のクリスマス・イブ。フランス北部の前線各地で起こった信じられない実話がありました。それは、フランス・スコットランド連合軍、ドイツ軍の兵士による「クリスマス休戦」という一夜限りの奇跡的な出来事でした。パンフレットによれば、この映画は、ドイツ占領下だったフランス北部出身のクリスチャン・カリオン監督が、1冊の本に偶然出会ったことから始まったそうです。そこには驚くべきことに、フランス北部の最前線ノーマンズ・ランド(相対する両陣営の中間にある無人地帯)で、クリスマスの夜に、敵国同士が一晩限りの「クリスマス休戦」に合意し、ドイツ人テノール歌手の歌声にフランス軍兵士が喝采を贈ったことや、戦地でクリスマスを祝うささやかな友好の様子が記されていたのでした。カリオン監督は、大半がごく普通の青年だった兵士たちが、愛する家族と離れて迎えるクリスマスの夜に「クリスマス休戦」として敵国と友好を結んだ勇気に心を打たれ、彼らへのオマージュとしてこの史実を映画化することを強く願っていたと語っています。

 そして、つい今しがた観たばかりの「バルトの楽園(がくえん)」。マツケンこと松平健と「ベルリン・天使の詩」や「ヒトラー〜最期の12日間〜」で主演したブルーノ・ガンツの重厚な演技が光る映画です。ベートーヴェンによる「交響曲第九番 歓喜の歌」は、日本の年の瀬を飾る風物詩として知られています。国境と時代を越えて、聴く者の魂を揺さぶるこの曲は、今から約90年前に第一次世界大戦のドイツ人捕虜たちの手によって日本で初めて演奏されました。映画「バルトの楽園」はその歴史的事実をベースに、日本人とドイツ人との間で結ばれた人間的な信頼と絆を描いた作品です。舞台となるのは第一次世界大戦中、徳島県鳴門市に実在した板東俘虜収容所。戦いに敗れたドイツ人捕虜を収容するために作られたこの場所では、軍人でありながら生きる自由と平等の精神を貫いた松江豊寿(まつえとよひさ)所長の指導によって、捕虜たちが収容所員や地元民と文化的・技術的に交流することができました。松江所長は明治維新のときに官軍に敗れた会津藩士の息子であり、負けた者の痛みを知り、捕虜たちに人間としての誇りを失わせまいと尽力します。そしてドイツ人捕虜たちは、松江所長をはじめとする収容所を取り巻く日本人たちへの感謝を込めて「交響曲第九番 歓喜の歌」の演奏会を開くのです。

 このように、ただただ不毛で救いのなさを感じる第二次世界大戦に比べ、第一次世界大戦には人間愛の名残が感じられます。いったいどんな戦争だったのでしょうか?学生の頃、世界史の授業で勉強はしても、日本人の印象は薄いようです。「バルトの楽園」を観て、日本とドイツが戦ったことを初めて知って驚いた若者も多かったとか。第二次大戦で両国が同盟を結んでいた味方としての印象のほうが強かったわけですね。

 1914年の6月28日、バルカン半島のサラエボで、オーストリア帝国皇帝の甥に当たる皇位継承者フランツ・フェルディナンド大公夫妻が、セルビア人に暗殺されました。この「サラエボの悲劇」が第一次世界大戦の発端です。しかし、当事者であるオーストリアやサラエボはどこかに行ってしまって、いつの間にか「ドイツ対フランス・イギリスの戦い」がメインになってしまう。ドイツの潜水艦Uボートは無差別攻撃を開始し、それをきっかけとしてアメリカが参戦します。そして、第一次世界大戦は潜水艦や毒ガスや飛行機や戦車といったニュー・テクノロジーが総登場する「近代戦」となっていきます。当時、日英同盟を結んでいた関係で、日本も参戦したわけです。それはいいとして、作家の橋本治さんが高校生だった頃、第一次世界大戦を学んだときに「オーストリアはどうなったの?」と首をひねったそうですが、わたしも含めて同じ疑問を抱いた人は多いでしょう。

 橋本さんの著書『二十世紀』にも書かれていますが、第一次世界大戦は、それをきっかけにして各国のナショナリズムが国民の間で盛り上がった戦争です。それまでの戦争は、「支配者とそれに率いられる職業軍人がするもの」でした。国民は、「関係ないよ」でもすんでいたのですが、それが20世紀になって変わりました。「戦争を支持して戦争に積極的に参加する一般国民」というのは、意外にも20世紀になってから登場するのですね。だからこそ、その反対意見としての「反戦論」も20世紀に登場します。わたしたちは20世紀の戦争しか知りませんから、戦争というのはそういうものだと思っています。でも実際は、戦争は「20世紀になってから異常になった」のです。

 第一次世界大戦に参加した各国の国民たちの間にも「異常な戦争だなあ」という空気が強く流れていたように思います。それまでは職業軍人の仕事だったものに自分たちも巻き込まれていくわけですから、当然です。塹壕にたまる糞便の臭いに鼻をつまみながら、一般国民出身の兵士たちも「冗談じゃないよ」と思いながら嫌々戦った者が多かったのです。

 クラウゼヴィッツが『戦争論』で述べているように、かつての戦争は外交の延長戦上にありました。また、一種のゲームあるいはスポーツの観さえありました。第一次世界大戦までは、ドイツのウィルヘルム2世をはじめ、皇帝という存在が世界中にいたことも影響しています。開戦して双方の皇帝が知恵を駆使しあい、負ければ潔く白旗を揚げて、賠償金を払う。もちろん、カントが『永久平和のために』で主張したように、戦争があくまで非人間的な愚行であることに変わりはありません。それでも、かつてのヨーロッパの戦争には、サッカーのようなゲーム性・スポーツ性が確かにあった。その意味で、ワールドカップとは世界大戦の見事な代用品だと言えますが、つまり戦争といえども、昔は一定のルールや作法に従っていたわけです。そのルールや作法が第一次世界大戦で壊されてしまった。おそらく毒ガスが登場したときに、それははじまりました。このあまりにも非人間的な殺人兵器に「シャレになってないよ」と当時の人々は戦慄したはずです。その後、アウシュビッツや広島や長崎で、人類は何度も「シャレになってないよ」を経験することになる。そのすべてのはじまり、ルールの逸脱の起こりは、第一次世界大戦にあったのです。

 その第一次世界大戦が勃発する前年、哲学者アンリ・ベルグソンは、ロンドンの心霊研究協会(SPR)において、『「生きている人のまぼろし」と「心霊研究」』と題する講演を行っています。ベルグソン以外にも、詩人のテニソン、批評家のラスキン、心理学者のウィリアム・ジェームスなどがSPRに名を連ねていました。そして、第一次世界大戦で発生した大量の死者との交信を遺族が求めて、戦後は「霊界通信」をはじめとしたスピリチュアリズムが大流行します。ベルグソンは「透視」や「精神感応」といった現象に関心を示していたことで知られていますが、実は「ロング・エンゲージメント」の主人公マチルドの直観とはテレパシーに他ならず、この作品は一種の心霊映画となっています。

 そして、「戦場のアリア」や「バルトの楽園」は音楽映画でもあります。殺伐とした戦場に静かに流れる「アヴェ・マリア」、捕虜収容所に響き渡る「歓喜の歌」・・・戦争を行う人間はどうしようもなく愚かだけれども、音楽というものを愛するところは、まだまだ人間も捨てたものではありません。喜納昌吉さんの言葉のように「すべての武器を楽器に!」ですね。鎌田先生!人類の平和のために、これからも神道ソングを歌い続けてください。

 それにしても、本当に第一次世界大戦の周辺には、人間の謎を解く秘密がたくさん隠されているような気がします。わたしたちが戦争の根絶を本気で考えるなら、まずは、戦争というものが最初に異常になった第一次世界大戦に立ち返ってみる必要があるでしょう。再び人類に「シャレになってないよ」と北朝鮮が思わせないことを願ってやみません。

2006年7月9日 一条真也拝

一条真也ことShinさまへ

 Shinさん、「戦争の世紀」と言われる20世紀の戦争がそれまでの戦争とまったく違ってしまったこと、そのとおりだと思います。まさしく、「戦争は『20世紀になってから異常になった』」のです。戦闘における名乗りも敵方への敬意もなく、ただ圧倒的な武力=軍事力の衝突で、兵隊(軍人)はその駒にすぎなくなった。第一次世界大戦が終って、母国に戻った兵士はこの戦争の奇怪さと非人道性に深刻な傷を負ったといいます。学生時分、芥川賞作家で『清貧論』の作者のドイツ文学者の中野孝次さんのドイツ語上級の授業で、ベンヤミンだったか誰だったかのドイツ語文献を読まされて、そんな箇所があったことを覚えています。わたしが学生の頃、國學院大學には、英語に丸谷才一、フランス語に飯島耕一・入沢康雄・渋沢浩輔、ドイツ語に中野孝次など、錚々たる作家・詩人・評論家がいたのですよ。しかも、革マルの拠点校でもあったから、新左翼と右翼がゲバ棒と白刃の真剣を振りかざしあって激突していたという不思議な光景が繰り広げられました。こればかりは、他大学にない、國學院の特色と言えるものでしょうね。

 ともかく、わたしは「戦争を知らない子供たち」と呼ばれた世代に属するのでしょうが、しかしその言い方にはまったく同意できず、むしろわたしたちは「戦争の申し子」だと思っていました。つまり、父親や母親の多くが10代後半から20代に戦争を体験し、その深い傷を負ったまま彼らのカルマを受けてこの世に生れてきたのがベビーブーマーと呼ばれる昭和22年から24年くらいまでの生れの子供たちでした。わたし自身はそれより少し後の昭和26年(1951年)生れですが、わたしの兄や姉はもろベビーブーマーです。しかも、父親は特攻隊の生き残り。母親は広島県の呉の海軍の軍需工場に駆り出されて兵器を作っていて、広島に原爆が落ちた光景を目撃しているのです。そして、父親はいつも酒を飲むと特攻隊で死んでいった「同期の桜」の同志を偲び、涙ながらに歌を歌い、説教を垂れた。耳にたこができるくらい。

 そんな幼少期を過ごしてきているので、わたしは戦争に対してナーバスです。一言で言えば、わたしは反戦平和護憲派ですが、戦争というものを仕掛ける人間と社会の「業」の深さを身に沁みて感じてきました。というのも、理不尽にも、正月に御屠蘇やお酒を飲めなかったのは、平安時代末期に起きた平治の乱で先祖がお酒を飲まされて騙し討ちにあったからなどという言い伝えを父や母から言い聞かされ、「なんだよー、それは! 八墓村かよ、おれんちは!」と反発しながらも、今に至るも正月にお酒をのんだことがないという人生を送ってきて、先祖や父母が体験したことの重みを理不尽ながらいやというほど感じてきたので、正直、戦争という「業」には複雑な思いを禁じえません。

 今年の4月に『霊的人間——魂のアルケオロジー』(作品社)という本を出しましたが、その第一章はヘルマン・ヘッセの『デミアン』や『荒野のおおかみ』や『ガラス玉演戯』を取り上げました。ヘッセも筋金入りの反戦平和主義者でしたが、彼は第一次世界大戦に大変深い衝撃を受けた人です。確か、看護兵として志願従軍したのではないかと思います。私はその霊的人間の第一章を次のような書き出しで始めました。

 <世の立て替え立て直しを説いた皇道大本は第一次世界大戦(1914−18)の終わる頃から目覚しい教線拡大を果たしたが、出口王仁三郎は大正10年(1921)、不敬罪と新聞紙法違反により逮捕された。出口王仁三郎はその頃、鎮魂帰神法と言霊学を二本柱に内部生命の探究としての「霊学」を提唱し、強力に推進していた。

 ほとんど時期を同じくして、第一次世界大戦末期に一人のドイツ人作家が苦闘の果てに霊的探究の物語を著し、戦後の1919年に匿名で発表し、話題を呼んだ。エミール・シンクレール作『デミアン、ある少年時代の物語』という。やがてその作者がヘルマン・ヘッセであることが知られ、ヘッセはそれを『デミアン、エミール・シンクレールの少年時代の物語』と改題して自作であることを公表した。

 その本の「はじがき」には、第一次世界大戦における死者への鎮魂の念いが充満している。「自然の貴重な、ただ一度きりの試みであるような人間が、おおぜい弾丸に当って死んでいる。われわれが一度きりの人間以上のものでないとしたら、われわれのだれもが一発の銃丸で実際に完全に葬り去られうるのだとしたら、物語を話すことなんか、なんの意味ももたないだろう。しかし、すべての人間は、彼自身であるばかりでなく、一度きりの、まったく特殊な、だれの場合にも世界のさまざまな現象が、ただ一度だけ二度とはないしかたで交錯するところの、重要な、顕著な点なのだ。だから、すべての人間の物語は、重要で不滅で神聖なのだ。だから、すべての人間は、とにかく生きていて、自然の意志を実現しているかぎり、驚きと注目とに値する。すべての人の中で、精神が形となり、生物が悩み、救世主がはりつけにされているのだ」(高橋健二訳、新潮文庫)。

 ここには一個の命の「一度きり」のかけがえのなさと「神聖」さが祈りのように訴求されている。だが、大量破壊兵器による大量殺人を現実のものとした第一次世界大戦は、戦争の非人間性を浮き彫りにし、人間の尊厳を踏み躙った。ヘッセは自分たちの生や幸福が実に危うい不確実な地盤の上に立っていたことに気づいて愕然とする。

そうした生の不確実性の中で、真に拠り所となるものはいったい何なのか。ヘッセはそれを自己の内側に発見していくのだが、それはもう一つの「内部生命の探究」の試みであったといえよう。ヘッセはこの小説の中で、自分が知っている者ではなく、探し求める者であると述懐している。何を探し求めるのかといえば、それは「自己自身への道」である。

 「すべての人間の生活は、自己自身への道であり、一つの道の試みであり、一つのささやかな道の暗示である。どんな人もかつて完全に彼自身ではなかった。しかし、めいめい自分自身になろうとつとめている」とヘッセは言う。この自己探求と自己実現の物語は、しかし痛みと喪失を通してしか果たされない。幸福は不確実性の基盤の上にあるがゆえにすぐさま揺らぎ変動するが、自己探求と自己実現は痛みという確実性の基盤を掘り進むことによって深化し、終には大いなる稔りをもたらす。

  (中略)

 ヘッセの『デミアン』という作品には第一次世界大戦の体験が色濃く影を落としている。デミアンは霊的直観によってあるヴィジョンを見る。それは「国全体が町々や村々みんないっしょに燃え」、古い世界が崩壊してゆくヴィジョンであった。デミアンはそのヴィジョンをシンクレールに告げる。「古い世界の崩壊が近づいてくるのを感じているのだ。はじめはまったく弱い遠い予感だったが、だんだんはっきり強くなった。(中略)世界は改まろうとしている。死のにおいがする。死なずには、新しいものは生じない。——ぼくが考えていたより恐ろしい」と。しかしデミアンはそれ以上教えない。

 しばらくしてデミアンは言った。「これはほんの始まりだ。おそらく大戦争になるだろう。非常な大戦争に。だが、それも始まりにすぎないんだ。新しいものが始まる。古いものに執着している人たちにとっては、新しいものは恐ろしいだろう」と。

 『デミアン』という小説にはある独得の昏い影がある。その影が人を目に見えない不定形な魂の領域に誘う機縁となる。この『デミアン』という特異な作品の縦軸には、確かにシンクレールという少年の内面的成長ないし霊的自己実現が描かれている。が、その内的成長が実際に生起する時代状況としての横軸は、第一次世界大戦である。この両軸が緊張関係を保ちつつ立体交差する中で、シンクレールの霊性の目覚めが実現してくるのだ。

 『デミアン』の中で予告された「古い世界の崩壊」のヴィジョンは、まったく同じ頃、出口王仁三郎らが提唱していた「世の立て替え・立て直し」という、終末論的な危機意識に促された世直し運動のヴィジョンとよく似ている。第一次世界大戦のさ中の大正六年(1917)四月号の『神霊界』の冒頭に、出口なおの筆先が「神諭」として掲載されているが、その中に、「世界国々所々に、世の立替へを知らす神柱は、沢山現はれるぞよ。皆艮金神国常立尊の仕組で、世界へ知らして在るぞよ。(中略)からと日本の戦ひがあるぞよ。此いくさは勝ち軍、神が蔭から、仕組が致してあるぞよ。神が表に現れて、日本へ手柄致すぞよ。露国から始りて、モウ一と戦があるぞよ。あとは世界の大たゝかひで、是から段々判りて来るぞよ」という一節がある。つまり、日清・日露の二つの戦争があり、その後で「世界の大たゝかひ」があることが予言されている。ちなみに、この年の三月十五日、いわゆる二月革命によりロマノフ二世は退位させられ、ロマノフ王朝が滅亡した。

 出口なおは「獣の世」から「神の世=松の世=水晶の世=みろくの世」への転換、すなわち「世界の大峠」の到来を説いた。皇道大本幹部の浅野和三郎らはそれを「大正維新」運動として推進し、大正十年立替説を主張した。浅野は「審判の火の手は近づいた。一切の邪悪は大正十年を期して滅されて了ふのだ」(『皇道大本の真相』)と述べている。

 『デミアン』という小説が舞台となる時代の闇と光をヘルマン・ヘッセも出口王仁三郎や浅野和三郎もともに深刻な危機感と希望として予感的に感じ取り、表現したのである。>

 ながながと自著を引用して恐縮ですが、わたしにとっても第一次世界大戦の問題は根深く大きいのです。ヘッセは、1927年、50歳の年に『荒野のおおかみ』を発表し、第二次世界大戦中の1943年に大作『ガラス玉演戯』を上梓します。『荒野のおおかみ』の主人公ハリーは、第一次世界大戦で非戦論を主張し、ドイツ国民から非難の集中砲火を浴び、アウトサイダー的な孤立状況の中で精神状態は分裂し、昔の純朴な叙情詩人のナイーブな情念を保つことはできなくなっています。愛と理想を失い、生きる意欲を喪失し、自殺願望にとり憑かれた初老の男がヘッセの戯画的・自虐的自画像ともいえるハリーです。ハリーは、「一次元よけいに持つ人間」ではありますが、生のさ中へ、肉体の中に限りなく降下してゆくことが大きな課題となっています。かつての『デミアン』が上昇的なイニシエーション物語であるとするならば、『荒野のおおかみ』はその反対に、下降的な脱イニシエーションないし自己解体の物語と言えます。その意味で、『荒野のおおかみ』はビルドゥングス・ロマン(教養小説)の破壊の小説であり、世界受苦の受肉小説ですが、であるがゆえに、この小説の最後の場面は、パブロとヘルミーネの導きによるハリー自身の「魔術劇場」における「地獄めぐり」となります。後にこれがコリン・ウイルソンの『アウトサイダー』やヒッピー・ムーブメントやニューエイジ運動で高く評価されるようになりましたが、ヘッセは本当にこのとき分裂と破壊のすれすれのところを行き来していたのだと思います。

 わたしは、市民社会における反戦平和運動も大事だと考えますが、同時にヘッセのような戦争と破壊を魂の内側から受け止め浄化しようとするいとなみに、それぞれの個的な魂が抱える課題と業に沿った取り組みを感じて、尊敬の念を禁じえません。そしてわたしのヘッセへの尊敬は、『ガラス玉演戯』において頂点に達しました。ヘッセは1931年から1942年まで11年もの歳月をかけて『ガラス玉演戯』を完成させ、1943年にスイスで出版しました。それはナチスドイツ下では到底出版できるような内容ではなかったのですが、戦時下のドイツで密かに回し読みされたと言われます。ヘッセはカスターリエンという芸術宗教理想国の名人ヨハネス・クネヒトの生涯を語りながら、聖なる世界への飛翔と、この闘争と絶望に満ちた歴史世界へ深く再受肉することの両方を力強く訴えています。これがヘッセの到達した境位かと思うと感慨深いものがあります。ヘッセはこの『ガラス玉演戯』を書き上げたあと一篇の長編小説を書いておりません。彼はこの作品のすべてを注ぎ込んだのでしょう。これ以上の小説はもう書けないと静かに悟ったのでしょう。

 わたしはヘルマン・ヘッセの『ガラス玉演戯』を20世紀最高の文学的達成だと高く高く評価しています。実際、ヘッセは戦後すぐ1946年ノーベル文学賞を受賞しました。非戦主義者のヘッセはドイツでは「非国民」と非難されましたが、スイスに居を移して、孤独の中、戦時下に彼はこの作品を書き継ぎ、仕上げたのです。それことまことの文学者、芸術家の仕事だと感嘆せずにはいられません。ここには静かな反戦の意思と理想の国への燃えるような希求とヘッセ自身が生涯追い求めた内的実現の三位一体的な止揚が表現されています。そのヘッセの仕事を想うたびに、わたしは深く、静かに励まされるのです。自分もこんな仕事がしたいと。時流に流されず、しかし、時勢に断固として意思を持って対峙し、自分の持てる方法論で最大限に闘いきるという仕事を。

 「神道ソングライター」としての活動はわたしにとってはそんな思いを込めた闘い方の一つです。先だって、東京大学で倫理学科教授の竹内整一さんが主催する「他分野交流演習・生命と価値フロンティア」で「翁童論、場所の記憶、モノ学」という話をしましたが、この30余年の自分の学問的追求を総括し、法螺貝・石笛・横笛・ハーモニカを吹き、最後に「フンドシ族ロック」「君の名を呼べば」「なんまいだー節」の3曲を歌いました。緑のフンドシをしていったので、フンドシ一丁になって歌うつもりでしたら、パソコンのメカニックトラブルで時間を取られ、フンドシにならないまま歌いましたが、わたしにとっての本気の闘いはやはりフンドシ一丁で「フンドシ族ロック」を歌うことにあります。

 以前、9・11の平和集会「Be-in」が東京明治公園であった時、2002年、2003年と2年続けて白いフンドシ一丁で歌いました。みんなあっけにとられ、引いていましたが、なりふりかまわず歌うことがわが「神道ソング」の神髄ですので、この初心を忘れてはいけませんね。たとえ国会前でも国連前でもこの歌を歌う時にはフンドシ一丁になって歌うという緊張感と希求心を忘れないようにします。

 Shinさん、拙い、また未熟なわたしの歌を応援してくださり、感謝に堪えません。株式会社サンレーの社員の皆様がわたしの作った社歌「永遠からの贈り物」を毎朝歌ってくれていると思うだけで感謝の念と勇気が湧いてきます。同時に、Shinさんとの本当に不思議な縁を感じます。今宵は月光が美しく、溶け入っていきそうです。

2006年7月10日 鎌田東二拝