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シンとトニーのムーンサルトレター 第011信

第11信

鎌田東二ことTonyさま

 Tonyさん、前回の戦争についてのレターには心を打たれました。父上が特攻隊におられたこと、母上が呉の軍需工場から広島に原爆が投下された瞬間を目撃されたことなどの衝撃的なお話も含め、わたしの拙いサーブを渾身の力で打ち返してきて下さいました。Tonyさんが生半可な気持ちで神道ソングを歌われたり、平和活動をされているのではないということをあらためて理解いたしました。ありがとうございました。

 また8月がやってきました。昨年の8月1日の朝、サンレー本社における総合朝礼において、わたしは「ひめゆりよ 知覧ヒロシマ長崎よ 手と手あわせて 祈る八月」という短歌を詠みました。昨年の8月は、日本人だけで実に310万人もの方々が亡くなられた、あの悪夢のような戦争が終わって60年目を迎える大きな節目でした。

 60年目といえば人間でも還暦にあたり、原点に返るとされます。事件や出来事も同じ。どんなに悲惨で不幸なことでも60年たてば浄化される「心の還暦」のような側面が60周年という時間の節目にはあると思います。また現在、わたしどもの紫雲閣でお葬儀を執り行うとき、神風特攻隊で生き残られた方など、兵士として戦争に参加された方々の葬儀が、まさに今、行われていることを実感します。おそらく終戦70周年のときには戦争体験者はほとんど他界され、「あの日は暑かった」式の体験談を聞くことはないでしょう。過去の記憶と現実の時間がギリギリでつながっている「時の結び目」、それが60周年です。

 そのような重大な意義を持つ終戦60周年の昨年、当社では新聞広告を全国各地で打ちました。その中で北陸では「北国新聞」に、沖縄では「琉球新報」と「沖縄タイムス」に、それぞれ8月15日の終戦記念日に掲載しましたが、わたしは大変な事実に気づきました。

 「北国新聞」の広告内容を考える際、平和へのメッセージということで金沢にまつわる戦争の傷跡を調べましたが、それがほとんどないのです。先の戦争のみならず、あの幕末・維新の動乱期においても、さらには戦国時代においても、金沢は戦禍というものをまったく被っていない。なんと、日本でももっとも美しい城下町として知られている金沢は、加賀藩の藩祖である前田利家が金沢城に入城して以来、およそ420年間というもの一度も戦災に遭ったことのない、日本でもきわめて珍しい街だったのです!そこで金沢版の広告キャッチコピーは「歴史と文化に責任を持つ街 金沢の祈り」としました。

 一方、沖縄ほど戦禍を被ったところはありません。歴史的に見ても、薩摩藩の圧政など、金沢とは正反対に日本でもっとも苦労をされたのは沖縄の方々だと思います。先の戦争においても、ひめゆりの乙女の悲劇をはじめ、本当に詳細に述べるのは忍びないほどのものすごい苦労をされた。そんな沖縄の方々に「平和への祈り」を直接訴えることは、あまりにも不遜であると考え、沖縄版は「おきなわの力。守礼の心。」をキャッチコピーとしました。礼節を重んじる守礼の民として、明や東アジアの国々との交易を通じて心の交流をはかってきた沖縄の先人たち。サンレー沖縄も、その「守礼」の心を持ちたいと訴えたのです。「琉球新報」「沖縄タイムス」ともに全面広告でしたが、ビジュアルには世界遺産・首里城の代表的門である守礼門の写真を使用しました。民間企業の広告で使用されるのは史上初めてとのことでした。大変な栄誉だととらえていますが、それだけに当社はさらに真剣に「守礼企業」をめざさなければならないとの想いを強くしました。

 いずれにしても、日本でもっとも戦災に遭わなかったのが金沢、もっとも戦災に遭ったのが沖縄。この事実を前にしたとき、当社が両方の土地に深く根をおろし、事業の大きな柱としていることに不思議な因縁を感じないではいられませんでした。そして、当社の本社は小倉にあります。小倉とは何か。それは、世界史上最も強運な街です。なぜなら、広島に続いて長崎に落とされた原爆は、実は小倉に落とされるはずだったからです。

 長崎型原爆・ファットマンは61年前の8月6日にテニアン島で組み立てられました。そして、8日には小倉を第一目標に、長崎を第二目標にして、8月9日に原爆を投下する指令がなされました。8月9日に不可侵条約を結んでいたソ連が一方的に破棄して日本に宣戦布告。この日の小倉上空は前日の八幡爆撃による煙やモヤがたち込めて視界不良だったため投下を断念。第二目標であった長崎に、同日の午前11時2分、原爆が投下されました。この原爆によって7万4000人もの生命が奪われ、7万5000人にも及ぶ人々が傷つき、現在でも多くの被爆者の方々が苦しんでおられます。

 もし、この原爆が予定通りに小倉に投下されていたら、どうなっていたか。広島の原爆では約14万人の方々が亡くなられていますが、当時の小倉は広島よりも人口が密集しており、おそらく20万人以上の人々が瞬時にして生命を落とす人類史上最悪の大虐殺が行われたであろうと言われています。そして当時、わたしの母は小倉の中心部に住んでいました。よって原爆が投下された場合は確実に母の生命はなく、当然ながらわたしはこの世に生を受けていなかったのです。

 死んだはずの人間が生きているように行動することを「幽霊現象」といいます。考えてみれば、小倉の住人はみな幽霊のようなものであり、小倉とは幽霊都市に他ならないのです! それにしても数十万人レベルの大虐殺に遭う運命を実行当日に免れたなどという話は古今東西聞いたことがありません。普通なら、少々モヤがかかっていようが命令通りに投下するはずです。当日になっての目標変更は大きな謎ですが、いずれにせよ小倉がアウシュビッツと並ぶ人類愚行のシンボルにならずに済んだのは奇跡と言えるでしょう。その意味で小倉ほど強運な街は世界中どこをさがしてもなく、その地に本社を構える当社のミッションとは、死者の存在を生者に決して忘れさせないことだと、わたしは確信しています。

 小倉の人々は、原爆で亡くなった長崎の人々を絶対に忘れてはなりません。いつも長崎の犠牲者の「死者のまなざし」を感じて生きる義務があります。なぜなら、長崎の人々は命の恩人だからです。しかし、悲しいことにその事実を知らない小倉の人々も多く存在します。そこで長崎原爆記念日である8月9日、サンレー北九州では「昭和20年8月9日 小倉に落ちるはずだった原爆。」というキャッチコピーで「朝日新聞」「毎日新聞」「読売新聞」の三大全国紙に全面広告を掲載、当日の本社朝礼にて黙祷を捧げ、わたしは「長崎の身代わり哀し 忘るるな 小倉に落つるはずの原爆」という短歌を詠みました。

 そして8月15日、わたしは東京に向かいました。靖国神社に参拝するためです。その日は、奇しくも拙著『ロマンティック・デス』の文庫版と『ハートフル・ソサエティ』の見本が刷り上った日で、わたしはその2冊を持って九段に赴きました。周知のように靖国神社は現在、政治問題の大きな対象となっています。先日も「日本経済新聞」がスクープしたように、昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀に強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、当時の宮内庁長官に語っていたことが明らかとなり、大きな波紋を呼んでいます。靖国問題の根はあまりに深く、あまりに複雑であり、ここで簡単に語るというわけにはいきません。

 ただ、わたしは「死は最大の平等である」であると信じています。だから、死者に対する差別は絶対に許せません。官軍とか賊軍とか、軍人とか民間人とか、日本人とか外国人とか、死者にそんな区別や差別があってはならないと思います。いっそのこと、みんなまとめて同じ場所に祀ればよいと真剣に思うのです。でも、それでは戦没者の慰霊施設という概念を完全に超えてしまいます。靖国だけではありません。アメリカのアーリントン墓地にしろ、韓国の戦争記念館にしろ、一般に戦没者施設というものは自国の戦死者しか祀らないものです。しかし、それでは平等であるはずの死者に差別が生まれてしまう。

 では、どうすればよいか。そこで登場するのが月です。靖国問題がこれほど複雑化するのも、中国や韓国の干渉があるにせよ、遺族の方々が、戦争で亡くなった自分の愛する者が眠る場所が欲しいからであり、愛する者に会いに行く場所が必要だからです。つまり、死者に対する心のベクトルの向け先を求めているのです。それを月にすればどうか。月は日本中どこからでも、また韓国や中国からでも、アメリカからでも見上げることができます。その月を死者の霊が帰る場所とすればどうでしょうか。これは古代より世界各地で月があの世に見立てられてきたという人類の普遍的な見方をそのまま受け継ぐものです。

 靖国参拝の後、わたしは宇治の平等院を訪れました。もともと藤原道長の別荘としてつくられた平等院は、源信の『往生要集』に出てくるあの世の極楽を三次元に再現したものでした。道長はこの世の栄華を極め、それを満月に例えて「この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けこともなしと思へば」という有名な歌を残しています。わたしは、「天仰ぎ あの世とぞ思ふ望月は すべての人が帰るふるさと」と詠みたい。死が最大の平等ならば、宇治にある「日本人の平等院」を超え、月の下にある地球人類すべての霊魂が帰り、月から地球上の子孫を見守ってゆく「地球人の平等院」としての月面聖塔をつくりたい。

 靖国から月へ。平等院から月面聖塔へ。61年前の今日、長崎に原爆が落ちて、わたしという幽霊が未来の生を許されました。これからも地球に住む全人類にとっての慰霊や鎮魂の問題を真剣に考え、かつ具体的に提案していきたいと思っています。御指導下さい。

 本日、ハワイから帰国いたしました。平和なウクレレの調べとともに、真珠湾の夜空に浮かんだ銀色の月の美しさが今も心に残っています。

2006年8月9日 一条真也拝

一条真也ことShinさまへ

 今日は、8月15日、終戦記念日です。が、アジアの国々では日本帝国の植民地支配から脱することのできた「解放記念日」です。戦争は当事者の立つ位置でそのなまなましさも傷の深さも深刻なリアルさも微妙に決定的に異なってきます。戦争は人間社会と生命世界の最大の悪だと思いますが、しかしそれは複雑で、単純な善悪二元論で決め付けられないさまざまな局面と経緯を含み持っています。戦争ほど人間の愚かさと業の深さを感じさせるものはありません。そしてそれが今に至るも止むことがないという現実の過酷さ。小泉首相の靖国参拝が報道されている中で、怒りと哀しみと無念無力のないまぜになったなんともいえない思いを噛みしめています。

 8月9日にShinさんから力の籠もったレターをいただきながら、今日まで返事を書くことができなかったのは、この間わたしが「平安京・平城京 摩訶不思議の宴2006」の開催準備・実施・後始末にかかりきりになっていたからです。昨夜遅く奈良から大宮の自宅に戻り、ようやくパソコンの前に座る時間的余裕を持ちました。そんなわけで返事が遅れたことを心よりお詫び申し上げます。

 この「摩訶不思議の宴」は、昨年一年間東京財団主催で行ってきた「新妖怪談義研究会」の10人のメンバーが一堂に会して、京都と奈良で妖怪・怪異をめぐるシンポジウムとパフォーマンスを行ったものです。その10人のメンバーとは、鏡リュウジ(占星術研究家、翻訳家、平安女学院大学客員教授)、切通理作(文芸評論家、和光大学講師)、東雲騎人(画家、妖怪研究家)、多田克己(妖怪研究家、作家、イラストレーター、漫画家、グラフィックデザイナー)、田中貴子(甲南大学文学部教授、中世文学)、内藤正敏(東北芸術工科大学情報デザイン学科教授、写真家、民俗学)、西山克(関西学院大学文学部教授、東アジア在恠異学会代表)、辺見葉子(慶応大学文学部助教授、ケルト神話研究)、麿赤兒(俳優、舞踏家、大駱駝艦主宰)、そしてわたしの10名です。

 シンポジウムのテーマは二つに分かれ、「妖怪・怪異のイコノロジー(図像学)」と「妖怪・怪異のコスモロジー(宇宙論)」です。前者は主に図像という具体から、後者は主に歴史・民俗・文学・芸能などの精神世界からアプローチしていきました。そこでさまざまな視点や問題が提示されましたが、一例を挙げると、「妖怪を描く時にはルールのようなものがある」、「ぬっと出る感覚表現」、「大自然の表われとしての鬼、政治の表現としての鬼」、「都市が妖怪を生み出した、そのメカニズムを探る」、「都市の里山から出てくるモノとしての妖怪」、「神社の位置と活断層と怪異現象との関係」、「妖怪と境界性」などなど。

 パフォーマンスは、京都(京都芸術劇場・春秋座・京都造形芸術大学)では茂山千之丞一門の「豆腐小僧」(原作:京極夏彦)、奈良(橿原文化会館)では麿赤兒&大駱駝艦の「オ・ト・ナ・リ」が上演されました。京都の「豆腐小僧」はまさしく「カワイイ妖怪」、奈良の「オ・ト・ナ・リ」は「コワイ・セツナイ妖怪」。対照的で、どちらも心に残りました。

 とりわけ、麿赤兒さんは小学校3年生の時から畝傍高校を卒業するまで10年間、三輪山麓の大神神社の二の鳥居前で過ごし、毎日のようにフラフラと山に入って遊んでいて、自然にふらふらおどりのようなことをしていたというから、年期と気合が入っていて、実に感動的な舞台でした。冒頭の5分あまり、わたしも神主装束で、法螺貝・土笛・石笛・横笛・ハーモニカを吹き、神楽鈴を鳴らしてコラボレートできたことは嬉しくも感無量でした。

 というのも、わたしは神主修行の神社実習を1ヶ月間、この大和の大神神社で行ったからです。ちょうど20年前のことです。そんなこともあり、11日(金)、京都での催しが終るとすぐ奈良に駆けつけ、30人ほどの参加者と一緒に「ナイトツアー」を行いました。大神神社・狭井神社・万葉の丘・山の辺の道・檜原神社・国津神社・箸墓古墳を、夜の10時から12時まで2時間かけて巡拝しました。17夜の朧月が三輪山から差し上ってくるのがよく見え、月明かりに照らされて、地面からは地蛍がまたたき、闇の中、上からと下からの光の中を静かに静かにしずしずと歩みました。手に提灯を下げて。ふとした瞬間に、今この時はいつの時代なのだろうと思ったりしました。

 昔、神社実習をしていた時、夕暮れ時に神主姿の白装束のまま一人山の辺の道を檜原神社まで辿ったりしましたが、その時も、今は奈良の時代か、平安時代か、あるいは鎌倉・室町の時代か、いつの時代かわからなくなるような時空錯乱のひとときがよくありましたが、そんな錯乱した時空間がわたしはたまらなく好きで、落ち着くのでした。最高の幸せな時間でした。

 もともと、わたしは海が好きで、盆地は嫌いです。狭苦しく、息苦しく、かつ共同体的な呪縛のようなものを感じて盆地的な日本文化をどうしても好きになれませんでしたが、大和盆地だけは別なのですね。ここに来て、山の辺の道から大和三山や平野が見えたり、二上山や葛城・金剛山が見えたりすると、ひろびろとした、清々と胸がすくような風の靡きを感じるのです。そして時に大和盆地が海に見えてきて、大和三山がその海の中の浮島のように見えてくるのです。そんな時、えもいわれぬよろこびとしあわせを感じ、このまま時間がとまってほしいとねがいたくなるのです。わたしにとって大和とはそんな気持ちにさせる不思議な土地なのです。まさにそこは、

  倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし

と『古事記』の中で倭建命が国偲びの歌を歌った懐かしの土地なのです。その大和の聖の中心軸が三輪山であり、大神神社です。三輪山には山頂に奥津磐座、山腹に中津磐座、山麓に辺津磐座があり、山全体を磐座群が取り巻いていて、強烈な渦巻き磁場を形成しています。

 平安時代に作られた儀式書である『延喜式』には、全国に式内社3132座があり、内訳は、「社2861処 前271座 大 492座 小 2640座」ですが、その中で、大和国は286座もの神々が祀られていて、全国でその数が一番多いのです。二番目が伊勢国で253座。ちなみに平安京のある山城国は122座で、出雲国は187座、尾張国121座です。わたしの出身地の阿波国は僅か50座しかありません。それでも四国の中では一番多く、讃岐国は24座、伊予国は21座、土佐国も21座という数です。

 それを考えると、大和の国の式内社の数は異常に多いということができましょう。その大和の国の城上郡の筆頭に「大神大物主神社」とあるのが、大神神社を指します。不思議な呼称の仕方ですね、「大神大物主神社」とは。「大物主大神神社」とか、「大物主神社」とかだとわかりやすいのですが、「大神大物主神社」という名前には何か謂れがありそうで、匂いますね。

 そもそも、出雲の大国主神と大和の大物主神は出自の違う神だと思われるのですが、『日本書紀』ではそれが同一視されているのです。『古事記』ではそんなことはありません。『日本書紀』神代上巻の最後のくだりに、「一書に曰く、大国主神、亦の名は大物主神、亦は国作大己貴命(くにつくりおほなむちのみこと)と号す」とあります。その後、大己貴神が少彦名命とともに国作りをしたが、やがて少彦名命は常世郷に渡り、独り出雲の国に至りて嘆いていると、「神光」が海原を照らして浮かび近づいてきて、「わたしがいなければ汝はよくこの国を平定できなかったのだぞ」と言う。大己貴神は不審に思い、「汝は何者か?」と問うと、その霊は、「吾は是れ汝が幸魂奇魂なり」と言い、さらに「吾は日本国の三諸山に住まむと欲ふ」とのたまった。そこで三諸山に宮を作ったのだが、この神こそが「大三輪之神なり」と『日本書紀』は記すのです。

 しかも、この神の娘がヒメタタライスズヒメノミコト(『古事記』では、ホトタタライススキヒメノミコト)で、この女性が神武天皇の后、すなわち初代皇后となった女性なのです。『古事記』ではさらに不思議で、大物主神が「容姿甚麗」な「美人」が「厠」で「大便」しているところに、「丹塗矢」となって下り、その美しい女性の「陰(ホト)」を突いたので、ヒメは驚き矢を持ち帰って床の辺に置くと、たちまちのうちに麗しい「壮夫(をとこ)」と成り、できた娘が「ホトタタライススキヒメノミコト」であるというのです。とすれば、我が国の最初の皇后は三輪山の大物主神の娘で、かつ女性の性器、すなわち「ホト」という名称を名前の冒頭にいただいた女性であるということになりますね。実に不思議な面白い伝承ではありませんか?

 また、この大物主神は神妻・ヤマトトトヒモモソヒメの前に蛇の姿で現れます。しかし、「驚くでないぞ」と念押しされていたにもかかわらず、櫛箱に入っていた美しい蛇の姿を見てヒメは驚き、ために怒った大物主神は空を踏んで御諸山に帰ったので、ヒメは悔やんで箸でホトを突いて死んだと『日本書紀』は記しています。そののち、このヤマトトトヒモモソヒメの墓を昼は人が造り、夜は神が造ったというのです。それが3世紀後半最大規模の前方後円墳・箸墓で、それが卑弥呼の墓であるという説は昔からありましたが、時期が合いませんでした。しかし、そのすぐ近くにホケノ山古墳が発掘され、それが卑弥呼の次のシャーマン女王となったトヨ(イヨとの説もあり)の墓だという説が俄に浮上し、ヤマタイ国畿内説を強化しています。

 九州人であるShinさんには申し訳ありませんが、わたしは昔からヤマタイ国大和説でしたので、大いにありうることと思います。卑弥呼は『魏志倭人伝』によると、3世紀中期の247年か248年に死去したとされます。この古代の環濠集落のある纏向遺跡の箸墓(箸中山古墳)は全長約280メートルの最初期の巨大前方後円墳です。この近くには、崇神天皇陵=行燈山古墳や景行天皇陵=渋谷向山古墳が三輪山に向かって並ぶように築造されています。

 もう一つ、『古事記』に記された三輪の美しい女・赤猪子の悲話を忘れることができません。ある時、雄略天皇が美和河で衣洗う容姿甚麗な童女・赤猪子(アカヰコ)と出会い、その美しさを見初め、今に宮中に召すと言い残したにもかかわらず、80歳を過ぎても天皇のお召しがないので、赤猪子は意を決して参内し、心情を奏上します。そのことをすっかり忘れていた雄略天皇は赤猪子のけなげさに思わずほろりとし、事に及ぼうとしますが、あまりの老女ゆえ事に至らず、次の4首の歌を交します。この歌は特に「志都歌(しづうた)」と呼ばれるものです。

  御諸の 厳白檮(いつかし)がもと ゆゆしきかも 白檮童女(かしはらをとめ)
  引田の 若栗栖原 若くへに 率寝てましもの 老いにけるかも  <雄略天皇>
  御諸に つくや玉垣 つき余し 誰にかも依らむ 神の宮人
  日下江の 入江の蓮 花蓮 身の盛り人 羨(とも)しきろかも   <赤猪子>

 ここで、赤猪子が「御諸」の「神の宮人」と歌っているところに注意したいのです。彼女は三輪山祭祀をする巫女だったに違いありません。雄略天皇はその三輪山の神に仕える女性を掌握する必要があったのです。

 一昨日・昨日と、時間の合間を縫って、神武天皇を祀る橿原神宮の傍の畝傍山を縦走し、東大谷日女命神社や畝傍山山口神社やイトクノモリ古墳や神武天皇陵を参拝しました。三輪山、畝傍山、耳成山、天香具山、これらの地には古代王朝の謎が今なお秘められています。わたしは大和朝廷成立期の神々の世界を正しく歴史認識し、いにしえの神々を祀り直したいのです。

 2010年、奈良は「平城京遷都1300年」を迎えます。わたしはぜひその時に飛鳥の石舞台の上で麿さんと大駱駝艦の舞踏公演「オホモノヌシ」をし、併せて、「妖怪・怪異・異界シンポジウム」をやりたいと思っているのです。日本の古層をできる限り正確に公正に炙り出し祭り直すことによって戦乱の歴史の鎮魂と怨念の解消を果たし、延いては世界平和への礎とつなげていき、すべての国々を「まほろば(本当に麗しいすばらしい土地)」としたいのです。

2006年8月15日 鎌田東二拝