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シンとトニーのムーンサルトレター第217信(Shin&Tony)

鎌田東二ことTonyさんへ

 

日本全国で桜が咲き誇っていますが、Tonyさん、お花見はされましたか?「願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃」と歌を詠んだのは西行法師ですが、4月の満月は、「ピンクムーン」と呼ばれ、春になって開花する花の色から名付けられたと言われています。満月といえば、文芸誌『新潮』に「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」という連載をされていた音楽家の坂本龍一さんの訃報に接しました。わたしは坂本さんの音楽の大ファンで、特に「戦場のメリークリスマス」や「ラスト・エンペラー」や「母と暮らせば」の映画音楽が大好きでした。心より御冥福をお祈りいたします。

 

じつは、坂本龍一さんの訃報に接する3日前、わたしは坂本さんのことを考えていました。石川県の白山市で「デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム」というボウイの伝記映画を観たのですが、そのレビュー・ブログの最後に、デヴィッド・ボウイと坂本さんが共演した大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」(1983年)で2人がキスするシーンについて言及したのです。ヨノイ大尉(坂本龍一)とジャック・セリアズ陸軍少佐(デヴィッド・ボウイ)のキスシーンの衝撃は、鑑賞から40年経った今も忘れられません。この映画の主題曲を坂本さんが作曲し、英国アカデミー賞の作曲賞を受賞しました。

 

「デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム」は、伝説のロックミュージシャンの人生と才能にスポットを当てた、デヴィッド・ボウイ財団初の公式認定ドキュメンタリー。ボウイが保管していたアーカイブ映像からの未公開映像を「スターマン」「チェンジズ」など40曲以上の楽曲と共に映し出し、ナレーションも全編にわたりボウイの音声で構成されています。久々に見たデヴィッド・ボウイの姿と音楽はすごく懐かしかったです。わたしの学生時代、白人ではデヴィッド・ボウイ、黒人ではマイケル・ジャクソンが世界的スーパースターでした。当時、マイケルもボウイも、わたしは「地球人らしくないな」と思っていました。さらに言えば、彼らは「月の住人ではないか」と思っていました。

 

マイケルが月の住人というのは「ムーンウォーク」からの連想ですが、なぜ、デヴィッド・ボウイが月の住人なのか。おそらくはボウイが初主演したイギリスのSF映画「地球に落ちてきた男」(1976年)のイメージがあったのだと思います。人間に似た姿の宇宙人が乗る宇宙船が、地球からはるか離れた惑星から飛来して、ニューメキシコ州の湖に不時着する物語です。彼は地球人と変わらない服装・容姿をしており、見た目では宇宙人とは分かりませんでした。ボウイの歌には「星」「月」「太陽」といった天体をテーマにしたものが多いですが、特に「月」が彼のイメージには合うと思いました。月を舞台にしたSF映画「月に囚われた男」(2009年)のメガホンを取ったダンカン・ジョーンズはボウイの息子です。この親子は、ともに魂が月に囚われていたのかもしれませんね。


ファミリーでお出迎えしました

 

さて、3月7日も満月でしたが、翌8日、Tonyさんが小倉の松柏園ホテルにお越しになられました。松柏園に来館されたのは、昨年6月5日に開かれた長女の結婚披露宴に参列されて以来です。そのとき、Tonyさんは新郎の母校である京都大学の名誉教授として、乾杯のご発声および祝いの法螺貝を奏上して下さいました。参列者の中には初めてTonyさんの法螺貝も聞いた方も多く、その荘厳な音色に感動しておられました。御挨拶もとても心がこもっておられました。この日は、長女夫妻も駆けつけて、Tonyさんに披露宴の御礼を申し上げました。


記念に集合写真を撮影しました

 

わたしの父であるサンレーグループの佐久間進会長も、Tonyさんの来訪を心待ちにしていました。父とTonyさんは國學院大學の先輩・後輩です。父はここのところ体調を崩していたのですが、「なんとか、お会いしたい」という一念で、Tonyさんをお迎えしました。父は、お互いの健康のこと、サンレーグループの総守護神である皇産霊大神(『古事記』『日本書紀』の伝える天地造化の大神、高皇産巣日神、神産巣日神の二神大神を主祭神としての尊称)を奉祀する皇産霊神社の今後などについて語り合われました。國學院で神道や日本民俗学を学び、冠婚葬祭互助会事業を始めた父は、Tonyさんとお話できて本当に嬉しそうでした。


再会した「魂の義兄弟」

 

さて、このたび、Tonyさんとわたしは「神道と日本人」をテーマに対談し、その内容は単行本化されることになりました。これまでにもTonyさんとは何度か対談やトークショーやパネルディスカッションなどで御一緒しています。最初は、『魂をデザインする』に収録されている1990年11月でした。そのときに初めてTonyさんにお会いしたので、わたしたちの親交も33年になります。わたしたちは大いに意気投合し、義兄弟の契りを結びました。今回の対談は、三分の一世紀を共に生きてきたわたしたち魂の義兄弟の1つの総決算となりました。


対談のようす

 

対談は、松柏園ホテルの貴賓室で行われました。対談は5部構成で、1「神道とは何か」、2「神道と冠婚葬祭」、3「現代社会と神道」、4「神話と儀礼」、5「注目すべき人々との出会い」となっています。最初の「1.神道とは何か」では、●「カミ」とは何か●日本人が畏れ敬ってきたものは何か●神道の起源(鎌田先生の縄文説、一般的な弥生説等)●神道での“まつり”と“いのり”の意味と役割●国学→日本民俗学→冠婚葬祭互助会●現代でも身近な神道的要素●現代サブカルチャーにも生きる神道的色彩(アニメ・漫画『となりのトトロ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『鬼滅の刃』など)について語り合いました。


大いに語る鎌田東二

 

2「神道と冠婚葬祭」では、●結婚式の神話的な淵源と歴史・変遷●古代~近世までと、近代に成立した神前式以後●神道における“むすひ”と“修理個性(つくり、かため、おさめ、なせ”の意味について●神道の通過儀礼・年中行事の種類と意味●“むすひ”によって生まれた命をどの様に育んでいくか●時間や人生(各個人の存在を肯定する)を手段としての儀礼について●神道の死生観・葬儀・祖先祭祀●“むすひ”が生んだ命の終焉とその後の世界(黄泉の国・根の国・底の国・妣の国・常世の国)●鎌田先生が帰幽された後のイメージなどについて語り合いました。


大いに語る一条真也

 

3「現代社会と神道」では、●日本人の精神性の基層としての神道・儒教・仏教●現代における理想的な関係性について●神道とグリーフケア●現代で宗教が担うべきグリーフケアという役割を神道はどう果たせるか●災害とむきあうための神道●人間中心主義から神中心主義と自然中心主義(生態智・エコソフィア)へ●神道の祭が担うグリーフケアとしての役割●ウェルビーイングに神道が果たす役割●現代社会と心身の健康●マインドフルネスと身心変容技法の共通点と相違点●身心変容技法をウェルビーイングにどのようにつなげるか(つなげられるか?)●神道とコンパッションとインターフェイス(Interfaith)●コンパッションとインターフェイスの意味と他宗教における位置づけ(基督教:隣人愛、儒教:仁、仏教:慈・・・など)●救済的側面が強くない神道にコンパッションは見出せるか●コンパッションを実現する方法としての祭●現代社会に必要なWC(Well-being & Compassion)を結ぶ方法などについて語り合いました。


神話について語る鎌田東二

 

4「神話と儀礼」では、●儀礼の源としての神話(『古事記』など)●儀礼が依拠する存在としての神話を概観する●今後の社会変化に神道儀礼はどのように向き合うのか●進展するキャッシュレス化に神社はどう対応するのかなど、社会変化と儀礼の関係の視点から●主題は「変化する社会で冠婚葬祭・年中行事をどの様に継続させるか」について●メタバース神社とリアル神社とアバター人格とリアル人格●歌の持つ力●宇宙を動かしうる歌という存在(『古今和歌集』仮名序などを題材に)●人類および日本人にとっての歌の起源と意味●神道ソングと庸軒道歌●二人が歌い続ける理由などについて語り合いました。


儀礼について語る一条真也

 

5「注目すべき人々との出会い」では、聖徳太子について、吉田兼倶について、本居宣長について、平田篤胤について、柳田國男について、折口信夫について、南方熊楠について、そして最後は出口王仁三郎について語り合いました。また、現在のわたしのメインテーマである「ウェルビーイング」と「コンパッション」についても意見交換をしました。鎌田先生いわく、神道的ウェルビーイングとは「あっぱれ(天晴)」、神道的コンパッションとは「(ものの)あはれ」であり、どちらも語源は同じだそうです。ウェルビーイングとコンパッションが見事に繋がりました。じつに多様なテーマで自由自在、縦横無尽に思考を巡らせ、言葉を紡いできましたが、対談しているうちに、「はるか昔にも、わたしたちは語り合ったことがある。それも何世代にも渡って・・・」という不思議な既視感をおぼえました。わたしたちが「魂の義兄弟」なら、その縁は過去からずっと何度かの転生を経て続いてきたものかもしれません。そして、それは未来へも続いていくのでしょう・・・・・・きっと。


サプライズ・ケーキに大喜び!

 

対談後は、Tonyさん御夫妻とわたしたち夫婦で会食しました。フグを中心としたメニュー構成でしたが、Tonyさんは、「どれも大変美味しい」と喜ばれ、モリモリと完食されました。奥様もとても喜んでいただきました。食後、サプライズでバースデー・ケーキが運ばれてきました。3月20日がTonyさんの72歳のお誕生日なので、早めのお祝いをさせていただいたのです。Tonyさんは大喜びで、ローソクを吹き消し、イチゴのショートケーキを完食されました。会食は3時間に及びましたが、わたしにとって魂の義兄弟と共に夫人同伴で食事をしたのは初めての経験であり、忘れぬ思い出となりました。


72歳分のローソクを吹き消す!

 

翌日の9日も引き続き、対談が行われました。朝から、Tonyさん御夫妻とわたしは朝食を共にし、8時半から対談の第2部を開始しました。前日だけでは語り尽くせなかった部分を約4時間にわたって語り合いました。まずは、「神道と冠婚葬祭」について対談しました。現在、日本で結婚する人のうち結婚式を挙げる割合は50%弱、チャペル式は63%、神前式8%、その他は人前式22%強となっています。こういった流れの中で、神前結婚式の重要性と意味を問いました。わたしは「神前式を挙げる夫婦の方が離婚しにくい」という仮説を持っており、その考えも示させていただきました。


神道と葬儀について語る鎌田東二

 

また、葬儀についても話し合いました。明治以降、政府は神道による葬儀、すなわち神葬祭を普及させようとしましたが、うまく行きませんでした。日本人の葬儀は仏教の支配下に置かれ続けてきたわけですが、鎌田先生は「海洋散骨や樹木葬などの『自然葬』が増えていますが、これは一種の神道的葬儀と言えると思う」と述べられ、目から鱗が落ちた思いがしました。日本人の他界観についても語り合いました。“むすひ”が生んだ命の終焉とその後の世界として、黄泉の国・根の国・底の国・妣の国・常世の国が挙げられますが、わたしは日本人の他界観は「海・山・星・月」に集約され、それぞれ海洋葬・樹木葬・宇宙葬・月面葬の四大「永遠葬」を提唱しています。また、人類共通の祈りのカタチとして「月面聖塔」「月への送魂」の実現を訴えていますが、その思想的根拠などについてお話しました。


別れ際、固い握手を交わしました

 

最後に、「注目すべき人々との出会い」として、聖徳太子について、吉田兼倶について、本居宣長について、平田篤胤について、柳田國男について、折口信夫について、南方熊楠について、そして最後は出口王仁三郎について語り合いました。神道の世界におけるこれらの重要人物たりがお互いに絡み合って、じつに興味深いエピソードもたくさん聞けました。最後に、わが社の本業である冠婚葬祭互助会に対する熱いメッセージを鎌田先生より頂戴しました。2日間、魂の義兄弟と思う存分語り合うことができて幸せでした。対談終了後、わたしたちは松柏園のカレーライスを食べてから、JR小倉駅に向かう鎌田先生御夫妻をお見送りしました。『神話と儀礼~神道と日本人』(仮題、現代書林)はとても面白い本になると思います。


桜の眼帯で総合朝礼に参加

 

さて、冒頭に紹介した映画「デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム」を鑑賞したのは3月30日の夜でしたが、そのとき、わたしは左目に「ものもらい」を患っていました。デヴィッド・ボウイは左目を永遠に失った隻眼だったので、「不思議な縁だなあ」と思いました。すると、映画鑑賞直後に左目に激痛が走りました。瞼に膿が溜まり、翌日31日に小倉に戻ってから切開しました。その翌日となる4月1日には入社式を控えていたため気分が沈みましたが、「何事も陽にとらえる」精神で、桜をイメージしたピンクの手作り眼帯をつけて出ました。白い眼帯だとどうしても痛々しいので、社員のみなさんが気を遣います。特に、新入社員にはストレスを与えたくなかったので、あえて桜色の眼帯(妻の手作りです)を桜色のマスクと一緒に着用したのです。


入社式で辞令を交付しました

 

素晴らしい晴天となった1日、小倉紫雲閣の大ホールで8時45分から開かれた「4月度総合朝礼」で社長訓示を述べた後、 松柏園ホテルで11時から行われた「株式会社サンレー新入社員辞令交付式」に参加しました。マスク姿で登壇したわたしは、辞令を交付した後、以下のようなメッセージを伝えました。入社、おめでとうございます。みなさんを心より歓迎いたします。いつもこの時期になると、社長として、新入社員のみなさんの人生に関わることに対して大きな責任を感じてしまいます。そして、世の中の数多くある会社の中から、わがサンレーを選んで下さって感謝の気持ちでいっぱいです。みなさんと縁をいただき、お会いできて嬉しいです。世の中には農業、林業、漁業、工業、商業といった産業がありますが、わが社の関わっている領域は「礼業」です!


マスクを外して話しました

 

その後、マスクを外してから以下のような話をしました。わが社は、「ウェルビーイング」と「コンパッション」を追求しています。ウェルビーイングは、自らが幸福であり、かつ、他人を幸福にするという人間の理想が集約された思想と言えるでしょう。「コンパッション」も時代のキーワードです。「コンパッション都市」とは、老・病・死・死別の喪失を受け止め、支え合うコミュニティですあり、グリーフケアを中核とした都市です。コンパッションとは「思いやり」であり、仏教の「慈悲」「利他」、儒教の「仁」、キリスト教の「隣人愛」にも通じます。仏教の「慈悲」といえば、ミャンマー仏教が最重要の経典とする『慈経』はブッダの最古の教えとされています。


ウェルビーイングとコンパッション

 

ウェルビーイングとコンパッションを包括すると、「ありのままの自分を大切に、他人に優しく生きる」というメッセージが浮かび上がってきます。さらに、ウェルビーイングには「平和」への志向があると思います。実際、ベトナム戦争に反対する対抗文化(カウンターカルチャー)として「ウェルビーイング」は注目されました。一方、「コンパッション」の原点は、『慈経』の中にあります。ブッダが最初に発したメッセージであり、その背景には悲惨なカースト制度があったと思います。ブッダは、あらゆる人々の平等、さらには、すべての生きとし生けるものへの慈しみの心を訴えました。つまり、コンパッションには「平等」への志向があるのだと思います。


「平和」と「平等」を実現する!

 

平和と平等といえば、「結婚は最高の平和である」「死は最大の平等である」というわが社の二大テーゼに繋がります。地球環境の問題は別にして、人類の普遍的な二大テーマは「平和」と「平等」です。その「平和」と「平等」を実現するという崇高な志をわが社は抱いています。誰でも幸せになりたいでしょう。でも、「自分が幸せになりたい」というのは夢であり、「世の多くの人々を幸せにしたい」というのが志です。夢は私、志は公に通じているのです。自分ではなく、世の多くの人々、「幸せになりたい」ではなく「幸せにしたい」、この違いが重要なのです。若いみなさんは、ぜひ、志を高く、強く持っていただきたい。わが社は「志のみ持参」という人を歓迎したいです。最後は「本日は、本当におめでとうございました!」と述べてから降壇しました。


イラストの実写版・松柏園の桜を眼帯姿で見上げる

 

式典の後は、記念の集合写真を撮影してから、新入社員歓迎昼食会が開かれました。全員がマスクを外して無言で松柏園の美味しい松花堂弁当をいただきました。やはり、極度の緊張を伴う儀式の後には、「直会(なおらい)」としての会食が必要です。ストレスの後には、リラックスが必要です。途中、新入社員全員による動画が上映されました。テーマは「入社式を迎えて、今この瞬間を誰かに伝えよう!」でしたが、みんなスピーチも上手だし、笑顔も自然なので驚きました。そのままYouTuberになれるレベルでした。さすがは、WEB面接世代ですね! 動画終了後は、マスクを着けて楽しい歓談タイムを過ごしました。ということで、今年も新入社員歓迎の「こころ」を「かたち」にできて本当に良かったです。それでは、Tonyさん、次の満月まで!

2023年4月6日 一条真也拝

 

一条真也ことShinさんへ

Shinさん、先月、3月8日にお会いできて本当に嬉しかったです。お父上の佐久間進会長とも、またご家族の皆様とも久しぶりにお会いできて、楽しく、賑々しく、ありがたかったです。お父上の情熱には恐れ入りました。お父上は、深いコンパッションとともに、激烈なパッションをお持ちなのですね。すばらしい! すごい! すてき! 3S、です。

3月8日の午後いっぱいと、翌9日の午前いっぱい、「神道と日本人」や「神道と儀礼」について対談したのも、楽しくもあり、面白くもあり、有意義でもありました。本になるのが、大変楽しみです。Shinさんおよびサンレーのみなさまのこまやかで、こころあたたまるホスピタリティに心より感謝申し上げます。おこころ、たしかに、かんじとり、うけとらせていただきました。

対談が終わって、わたしたちは長崎に向かいました。もうずっと、この20年近く、長崎に行きたい、長崎に行きたいと言い続けてきて、やっと念願が叶いました。8年ほど前だったか、共同通信の記者の西出勇志さんが長崎支局長として赴任していた時、何かの折に訊ねていきますと約束していて、行く前日が前々日だったかに西出さんのお父上が亡くなったとかで、急遽長崎行きを断念したことがありました。そのようなこともあったので、今回の35年ぶりくらいの長崎行きは本当に思いが叶いました。

桑野中学3年の時の修学旅行で長崎に行って、長崎の港と街とそして西海の海を見た時の感動、特に西海の西の果てから望んだ東シナ海は、わたしの大好きな地の涯、この世の涯のようで、夢幻でした。わたしは、「諸国一見の僧」のように、そこから常世の国か、極楽浄土に行けると思ったのでしょう。とにかく、その風景が心に沁みて、忘れることができず、1年の内に何度も思い出すんですよ。

その西の海に面したところに、わたしの大好きな文学者・遠藤周作の記念館があるのですよ。「長崎市遠藤周作文学館」。もし彼が存命であったら、先月、2023年3月27日に遠藤周作は100歳になっていました。しかし、遠藤周作は残念ながら1996年9月29日に73歳で亡くなりました。遠藤が生れたのは1923年(大正12年)3月27日でした。そこで、長崎市に在る「長崎市遠藤周作文学館」では、生誕100年を記念して展覧会を開催し、また生誕100年記念誌を発行します。その記念誌に頼まれて原稿書きました。その原稿はいずれ公開されると思いますので、ここでは、遠藤周作文学館を訪ねて出来た動画と詩を載せておきます。

小倉・長崎・遠藤周作文学館 2023年3月8日~10日 念願の「沈黙の碑」の前で法螺貝を奉奏す。
動画リンク:https://youtu.be/FY4D9zZ3Er4

 

<大妣の文学者・遠藤周作に捧ぐ>2023年3月10日

地の涯てにあるというそこに魅かれていた

そこに

「沈黙の碑」と

〈人間が

こんなに

哀しいのに

主よ

海があまりに

碧いのです〉

ということばが

刻まれていた

 

そこは

地の涯 この世の果て

キリシタン信仰が上陸した最西端の地

であるが

じっさいには

「外海」と書いて

「そとめ」と呼ぶ

 

外目にはどう見えるか?

そして

内目にはどう見えるか?

 

そこは

「出津」と書いて

「しつ」と呼ぶ

 

SHITSUのことを

わたしは

悉とも

質とも

執とも

疾とも

呼んできた

 

東北には

志津

と書いて

「しづ」

と呼ぶ地名がある

 

うつくしい名前だ

「しづ」と濁音化するところに

東北の風土が反映する

 

西日本の「しつ」と東日本の「しづ」

「出津」と「志津」の交響

 

さて

「しつ」の「そとめ」のその土地の

西海に面する断崖の上に

この世の涯ての 涯ての果てに

長崎市遠藤周作文学館はある

 

いつからか なにゆえか

われは遠藤周作が好きで好きで

彼の人柄も文学も好きで好きで

なぜこれほどあからさまにあっけらかんに好きだと言えるのか不思議なくらいに好きで

われながら 呆れ 笑えるほどだが

 

そんなこの世の涯てに誘われて

遠藤周作文学館を訪ねたのだ

オホナムヂが須佐之男命のいる根の堅州国と訪ねていったように

いのちの帰趨に惹き込まれていったのだった

 

その遠藤周作が大好きなのがお母さんである

お母さんなしに遠藤周作は成り立たないのである

 

その遠藤周作のイエスは母なるイエスだ

と喝破したのが

遠藤文学を理解した

同じ慶應義塾大学出身の文芸評論家江藤淳だった

 

遠藤よ

江藤よ

えんえんとうよ!

 

そうであろう

そうであろうとも

そうであるにちがいなかろうとも

 

たしかに

遠藤の信仰の核心には 母がいる

ははがおる

おおははがいる

そして

実在の遠藤郁がいる

 

だから

遠藤の文学的故郷には「はは」がいて

その「はは」は

常世の国や根の国や妣の国の大妣ともつながっていて

その「大妣」を『古事記』は「伊邪那美命」と呼んだのだった

 

だから

遠藤周作の母の遠藤郁の向こうに大妣のいざなみを透かし見る

 

そして

遠藤のその「遠目」の中にスサノヲのまなざしを見る

この世の涯ての「外海」の「そとめ」でスサノヲとイザナミを視る

いのちの帰趨を透かし見るのだ

 

だから

そんな遠藤文学は

スサノヲ文学である

大妣を思慕する

スサノヲ文学にほかならない

 

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに

八重垣作る その八重垣を

 

そのスサノヲ文学であることが わたしを引っ張り 引き摺り 引き回す のである

そして

恥ずかしげもなく

泣かせるのである

 

遠藤はスサノヲを通して

ははを

そして

母なる神イエスを

大妣を抱く

 

そして

大妣に抱かれる

 

この世の涯ての その果てで

 

「見つかった 何が? 永遠

太陽と手を取り合って往った海」

その永遠の海の大妣に

いだかれる

 

のである

 

わたしは

その地の涯ての

大妣の大ふところの「ラ・メール」というレストランで

カツカレー定食を食べたのだった

 

青い 蒼い 碧い 海を見ながら

3月10日 鎌田東二拝

 

長々と、その時の思いを書いた詩を貼り付けましたが、そのまま、でした。じじつそのまんま。わたしは、やはり、遠藤周作の大大大ファンなのでした。

 

ところで、Shinさんの書いた通り、坂本龍一さんががんで亡くなりました。享年71歳は、若いとも言えるし、十分生きたとも言える微妙な年齢だとおもいます。わたしは細野晴臣さんとは1984年に天河大辨財天社で会って以来の友人で、2022年7月17日に斎行された天河大辨財天社の例大祭の日に合わせて奉納リリースしたサードアルバム「絶体絶命」の12曲目の「銀河鉄道の夜」のベースを弾いてもらいながらカンパネルラに成って歌をうたってもらったのですが、元YMOのユニット仲間の坂本龍一さんにはそれほどよい印象を持っておりません。作品もそれほどふかくピンと来るものはありません。

しかし、自然・環境に対する彼の思いと行動にはまったく共感します。大賛成です。敬意を表します。

けれども、1999年ごろ、当時山形県鶴岡市の市会議員で、自然派であった草島進一さんが、「月山炎の祭り」か何かの関係で、坂本龍一さんとわたしを引き合わせてトークをさせようと企画したことがありました。そのとき、坂本さんは、「かまたさんは、ウヨクでしょ!」という反応で断られたと聞いています。このとき、わたしは、「サカモトリュウイチって、意外に表面的で、イデオロギー的にレッテル張って、それで性急な判断をしてよし、としているような人なんだ~」と失望して以来、坂本さんに、ほんとうに物事を深く本質を究める眼があるのか、という疑問をどこかで持つようになりました。

 

そんなこんなで、Shinさんと意見が合わないところは、映画でも多々ありますが、坂本龍一さんの音楽に対しても意見が合わないのもまたよしとしましょう。他意はありませんので。

 

さて、初めてこのサイトでは初めて公表しますが、わたしはステージⅣのがんです。大腸がんが、肺と肝臓数ヶ所とリンパ節に転移しています。大腸がん(上行結腸癌)の手術は1月11日にしましたが、入院が2週間の予定が乳糜腹水という合併症を併発したために、2週間の絶食療法などをしなくてはならなくなり、退院は2月8日に延期。ほぼ1ヶ月の入院生活でした。くるしかった~! ごはんたべたかったあ~!

しかし、がん告知されて以来、死期を意識したためか、その間(2回の入院中に)猛烈に文章をまとめ、それらを、4月末には、新著『悲嘆とケアの神話論―須佐之男・大国主』(春秋社)を出し、その後、第七詩集『いのちの帰趨』(港の人)を出す予定です。それは、たぶん、7月頃になるでしょうか。また、『出口王仁三郎と田中智學』についての本も秋には出します。なので、今年は、出版が目白押しになります。これも、怪我の功名ならぬ、がんの功名でしょうか? がんどころが、だいじです。がんもどき、ですが。

『悲嘆とケアの神話論ー須佐之男と大国主』(春秋社、2023年5月3日刊)カバー案

わたしは、がんになって、いっそうパワフルになったような気がしています。不思議なことに。がんになってよかったな、という感謝の思いがつよくあります。それによって、いよいよ自分に近づいた、自分の本性や本領に近づいた、恥も外聞もとっくに捨てていますが、もっともっと虚飾を捨てて、自分自身の「素」に近づいた。この「ス」の感覚がとても大切だと感じています。素の等身大の自分。自然の自分が。

それは、もはや、むだなことにエネルギーを割く余裕がなくなったからかもしれません。死をつよく意識したから。

死期を意識すると、

表層意識は、とても現実的になる、

深層意識は、とても神秘的になる、

という感じですね。

「だから、もう、表層意識はいいよ、深層意識で行きたいよ!」と、わがいのちが叫んでいます。それが、「詩」に近づける動力かもしれません。

 

わたしは、前掲した詩にも書いたように、3月生まれのせいか、3月になると、いつもウキウキします。そして、旅立ちたくなります。どこか遠くへ行きたくなる。それは、小さな頃からの習性でした。このところ、そんな旅を求める心が再燃していました。

そこで、3月8日に、京都から小倉に行ってShinさんたちにお会いして『神道と日本人』をめぐる対談をおこない、そのあと、長崎に行って、翌10日に、「遠藤周作文学館」を訪ねたのでした。予定通り。

それは、遠藤周作さんの大大大ファンであるわたしにとって、西海の涯てにあるその文学館はこの世の涯、世界の涯、いのちの果てと先をつないでくれる場所でした。それが上に示した動画です。

わたしは、遠藤周作記念館の誓いのバス停で定期バスを待っている時、青い蒼い碧い西の海を見ながら、妻に思わず、「もう思い残すことはないよ~。ここで死んでもいいよ~。」と言ってしまいました。すると彼女はすかさず、「海に投げ込んであげようか」とチャチャを入れてくれました。そのチャチャがありがたかったです。ほんと、投げこんでほしかったなあ~。

その後、京都に戻り、用事で東京に出たりしていますが、退院後、比叡山には2月11日の建国記念の日に東山修験道827を、昨日の4月5日に東山修験道840を登拝していますので、合計14回登拝していることになります。しかし、バク転3回は完全復活しておりません。この間、2回ほどバク転しましたが、まだジャンプ力と背筋力と腕の筋力が戻っておらず、不完全です。ので、年も年なので、自重し、運動能力をリハビリしてから、万全の態勢でバク転3回を復活させたく思います。

ですが、本日は、左京区の病院で抗がん剤治療の3クール目が終わってすぐに2時間余りびっちりオンライン講演をし、無事終了しました。けっこう、ギンギンで、ノリノリでしたよ。そして、明日夜は、日本臨床宗教師会の「インターフェイス論議Ⅰ」をおこないます。これ、ぜったい、おもろい、ですよ!!!

 

しかしながら、抗がん剤治療の3クール目の副反応はしっかり強化されて来ています(手足のびりびり、握力の低下、冷たさを感じる感覚変容、顔面の硬直・顎の動きなど)が、何とか3クール目もいけそうな感じですので、まずはご安心ください。

 

こんな状態ですが、あさってとしあさっての4月8日と9日の土日は、お医者さんたちを含め、「ホリスティックヘルス情報室」からの参加者11名を引率して比叡山や清水山を巡回するんですよ。主治医に行ったらドクターストップがかかるかもしれないので言っておりませんが、おもろいですよ、これは。でも、わたしは、以前より、からだの声に注意深く耳をかたむけるようになりました。

 

そして、ますます、

<からだはうそをつかない。

が、こころはうそをつく。

しかし、たましいはうそをつけない。>

と、ほんと、おもうようになりました。中でも、からだは、正直と本当に思います。それが、この世というものなのですね。

 

4月29日は、川崎市岡本太郎美術館での「顕神の夢展」初日のトークイベント、その夜は中延の隣町カフェでのトークイベントをします。これは、12月17日(月)の夜に企画されていたのに、緊急入院で直前ドタキャンした埋め合わせの会です。何としてもその時の返礼をしたいという一心です。すべて、「遺言」のつもりでやっていますが、「吟遊詩人」なりたての「神道ソングライター」としては、すべてを「遊戯三昧」でやりたいですね。るんるん。

 

4/29の隣町珈琲イベント告知:https://tonarimachicafe.jp/contents/cn1/2023-03-27.html

チケットサイトURL:https://peatix.com/event/3541223

そして、いよいよ、全身全霊で、わが「遺言ライブ」を7月8日(土)夜大阪・阪急中津駅地下1階のライブハウス「Vi code」で、7月9日(日)夜京都の老舗ライブ「拾得」で行ないます。集客のことも、全力で行ないます。ぜひご協力くだされば幸いです。ご都合がつきましたら、わが「遺言・絶体絶命」フルバンドライブを見に来てください。この編成で行なう最後になるかもしれません。

4月6日 鎌田東二拝