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シンとトニーのムーンサルトレター第218信(Shin&Tony)

鎌田東二ことTonyさんへ

 

5月の満月は「フラワームーン」と呼ばれます。たくさんの花が咲く季節に由来し名付けられたようですね。Tonyさん、ゴールデンウィークはいかがお過ごしでしたか? わたしは、次回作である『ウェルビーイング?』『コンパッション!』(ともに、オリーブの木)のツインブックスの校正作業に明け暮れていました。ご恵送いただいたご高著『悲嘆とケアの神話学』(春秋社)は拝読中です。読了後は書評をブログにUPし、来月のムーンサルトレターでも感想を述べさせていただきたく存じます。


『供養には意味がある』(産経新聞出版)

 

著書といえば、4月13日に拙著『供養には意味がある』(産経新聞出版)を上梓いたしました。おかげさまで好評で、増刷を重ねています。わたしの本としては111冊目となり、「日本人が失いつつある大切なもの」というサブタイトルがついています。同書の帯には、昨年にお亡くなりになられたアントニオ猪木氏、稲盛和夫氏、石原慎太郎氏、安倍晋三氏の遺影が使われ、「なぜ、死者を追善し感謝するのか?」「『終活』『供養』は人間の『幸福』と深く関わっている!」「季刊誌『終活読本 ソナエ』連載の大人気コラム待望の書籍化!!」と書かれています。この4人の方々の遺影が使用できたのは、ひとえに「産経新聞」「サンケイスポーツ」両紙のおかげです。この4人の方々はわたしの人生にも深い関わりのある方々ばかりであり、わたしは多大な影響を受けました。本書の本文中にも、この方々の生涯や業績、そして葬儀について詳しく書かれています。


「新聞社系」三部作が勢揃い!

 

わたしは、これまで、日本経済新聞グループと毎日新聞グループの出版社から冠婚葬祭・年中行事・終活・供養に関する本を上梓してきました。『人生の修め方』(日本経済新聞出版社)と『人生の四季を愛でる』(毎日新聞出版)がそれです。このたび、産経新聞グループの産経新聞出版から刊行される『供養には意味がある』が加わって、「新聞社系」三部作が揃いました。同書は、タイトルのように「供養」についての本ですが、「終活」のこともたくさん書かかれています。なぜかというと、日本初の終活専門誌である『終活読本ソナエ』(産経新聞出版社)に連載した原稿を収録しているからです。同誌で、わたしは「一条真也の老福論」というコラムを全16回にわたって連載させていただきました。同時に、『WEBソナエ』でも、「一条真也のハートフル・ライフ」を全34回、さらにWEB版『ソナエ安心のお墓探し』でも「一条真也の供養論」を全50回連載しました。本書には、それらの連載原稿がすべて収録されています。「死」をインとすれば、「終活」はビフォアーであり、「供養」はアフターです。そして、いずれも人間の「幸福」と深く関わっています。本書は、新型コロナウイルスに代表されるパンデミック、気候変動、格差拡大、侵略と戦争といった混迷と分断の時代を生きる日本人の不安な「こころ」が少しでも安定することを願って世に問うものです。

 

さて、最近も多くの映画を観ましたが、今回はイギリス映画「生きる LIVING」をご紹介したいと思います。「最期を知り、人生が輝く」というテーマですが、主人公の「生きることなく、人生を終えたくない」という言葉が心に沁みました。第2次世界大戦後のイギリス・ロンドンを舞台に、仕事一筋で生きてきた男性が死期を宣告されたことで、自らの人生を見つめ直す物語です。1953年、第2次世界大戦後のイギリス・ロンドン。役所の市民課に勤めるウィリアムズ(ビル・ナイ)は、毎日同じことを繰り返し、仕事に追われる自分の人生にむなしさを感じていました。ある日、医師からがんで余命半年であることを告げられます。最期が近いことを知った彼はこれまでの味気ない人生を見つめ直し、残された日々を大切に過ごして充実した人生にしたいと決意するのでした。

 

「生きる LIVING」は、黒澤明監督の不朽の名作「生きる」(1952年)のリメイク作品です。「生きる」の主人公は、市役所の市民課長・渡辺(志村喬)です。彼は30年間無欠勤、事なかれ主義の模範的役人です。ある日、渡辺は自分が胃癌で余命幾ばくもないと知ります。絶望に陥った渡辺は、歓楽街をさまよい飲み慣れない酒を飲みます。そして、「自分の人生とは一体何だったのか?」と考えます。彼は人間が本当に生きるということの意味を考え始め、そして、初めて真剣に役所の申請書類に目を通します。そこで彼の目に留まったのが市民から出されていた下水溜まりの埋め立てと小公園建設に関する陳情書でした。

 

「生きる」は、非人間的な官僚主義を痛烈に批判するとともに、人間が生きることについての哲学をも示した名作でした。「生きる LIVING」は「ここまで同じか!」と驚くくらい、黒澤明版の「生きる」とストーリーがまったく同じです。しかしながら、黒澤版よりも上映時間が約30分短くなっており、その理由はストーリーは同じでも描写が違うからです。公園建設の嘆願書を持参した市民が市役所の中をたらい回しにされるシーンでも、黒澤版は15ヵ所ぐらいですが、イシグロ版は5ヵ所と少な目です。でも、人生をブルシット・ジョブに費やしてきた虚しさは両作品ともに見事に表現しており、公園のブランコに揺られながら、渡辺は「ゴンドラの唄」を、ウィリアムズは故郷のスコットランド民謡である「ナナカマドの木」を歌うシーンが哀愁に満ちていました。


「ナナカマドの木」を歌うウィリアムズ

 

半年の余命宣告をされたウィリアムズが外見的に物静かなままであると書きましたが、内心はもちろんそうではありません。自身の命があと半年という事実にショックを受け、迫り来る死の不安に怯えています。酒に逃げ、自死さえ図ろうとします。「生きる」の渡辺などは、傍から見ても混乱のきわみで、まるで狂人のように見えました。ここで、わたしは思うのです。ともに時代は1952年。第2次世界大戦が終結してから、わずか7年後です。日本でも、イギリスでも、膨大な数の死者を出しました。年齢的に渡辺やウィリアムズが従軍していないとしても、彼らの周囲には多くの死者がいたはずです。つまり、1952年当時は、もっと「死」が身近だったはずなのに、なぜ2人とも、それほど自身の「死」の宣告に驚くのでしょうか? もちろん、家族や友人や知人などが亡くなったとしても、それはあくまでも「二人称」や「三人称」の死です。自分という「一人称」の死とは訳が違います。


鎌田東二と一条真也

 

なぜ、自分の愛する者が突如としてこの世界から消えるのか、そしてこの自分さえ消えなければならないのか。これほど不条理で受け容れがたい話はありません。これまで数え切れないほど多くの宗教家や哲学者が「死」について考え、芸術家たちは死後の世界を表現してきました。医学や生理学を中心とする科学者たちも「死」の正体をつきとめようとして努力してきました。まさに死こそは、人類最大のミステリーであり、全人類にとって共通の大問題なのです。前回のムーンサルトレター第217信で、Tonyさんは、がんのステージⅣであることを明かされました。宣告を受けられた後、Tonyさんは残された時間で「やるべきこと」のリストを作成し、病気になってからも精力的に活動され続けておられます。


対談する鎌田東二と一条真也

 

それを知ったとき、わたしは心からTonyさんに尊敬の念を抱きました。また、自分が余命宣告されたとしても、粛然とその運命を受け容れ、人生を卒業するその日まで自らの使命を果たしたいと思いました。もっとも、「生きる」や「生きる LIVING」の時代は今から70年前であり、がんという病気が当時は現在のように「誰でもなる病気」と考えられるほど一般化していなかったのでしょう。それゆえ宣告されたときのショックも大きかったのだと思います。しかし、別に末期がんの患者でなくとも、誰だって半年後に、いや明日死ぬかもしれません。いつ人生が終わるかもしれない状況は、じつは万人が同じなのです。


「生きる」の葬儀シーン

 

原作が同じなので当然といえば当然ですが、「生きる」も、「生きる LIVING」も、主人公が亡くなって葬儀が行われます。そして、そこから本当の物語が始まります。葬儀に参列するために集まった人々が故人について語り合う中から、主人公のこの世での最後の日々の様子が明らかになっていくのです。そして、渡辺もウィリアムズも残り時間を自身のために使わず、市民のため、それも未来ある子どもたちのための公園作りに精力的に取り組んだことがわかるのでした。コロナ前、わたしは「終活」をテーマにした講演をよく依頼されました。わたし自身は、「人生の終(しま)い方の活動」としての「終活」よりも、前向きな「人生の修め方の活動」としての「修活」という言葉を使うようにしています。『人生の修め方』(日本経済新聞出版社)という本も書きました。


『人生の修め方』(日本経済新聞出版社)

 

そんな講演会でよくお話しするのが、「講演を聴いておられるみなさん自身の旅立ちのセレモニー、すなわち葬儀についての具体的な希望をイメージして下さい」ということです。自分の葬儀について考えるなんて、複雑な思いをされる方もいるかもしれません。しかし、自分の葬儀を具体的にイメージすることは、残りの人生を幸せに生きていくうえで絶大な効果を発揮します。「死んだときのことを口にするのは、バチがあたる」と、忌み嫌う人もいます。果たしてそうでしょうか。わたしは自分の葬儀を考えることは、いかに今を生きるかを考えることだと思っています。わたしは、「死」を「不幸」とは絶対に呼ばないようにしています。なぜなら、そう呼んだ瞬間、わたしは将来必ず不幸になるからです。死はけっして不幸な出来事ではありません。それは人生を卒業するということであり、葬儀とは「人生の卒業式」だと思います。


沖縄の海洋散骨に立ち合う

 

さて、4月25日、わたしは沖縄にいました。那覇市の三重城港から出港する船で行われる「海洋散骨」に主催者として立ち合ったのです。今回の船「勇海号」は13時30分頃に出港しました。出港の際は汽笛が鳴らされ、スタッフが整列して見送ってくれました。14時30分頃、散骨場に到着しました。そこから、いよいよ海洋散骨のスタートです。開式すると、船は左旋回しました。これは、時計の針を戻すという意味で、故人を偲ぶセレモニーです。それから黙祷をし、ここで「禮鐘の儀」を3回行いました。それから、日本酒を海に流す「献酒の儀」が行われました。そして、いよいよ「散骨の儀」です。ご遺族によって遺骨が海に流されました。そのとき、号泣された方、海に向かって「いってらっしゃーい!」「あんたの好きなようにしてあげたからね!」「ありがとー! また会おうね!」と叫ばれる方など、いろんなお別れの形がありました。改めて、海洋散骨とはグリーフケアのセレモニーであると感じました。


船上で主催者挨拶する

 

続いて「献花の儀」です。これも、ご遺族全員で色とりどりの花を海に投げ入れました。ご遺族が花を投げ入れられた後、主催者を代表してわたしが生花リースを投げ入れました。生花が海に漂う様子は大変美しかったです。それから、主催者挨拶が行われました。わたしが、マイクを握って挨拶しました。わたしは、「今日は素晴らしいお天気で本当に良かったです。今日のセレモニーに参加させていただき、わたしは2つのことを感じました。1つは、海は世界中つながっているということ。今回の海洋散骨には日本全国から申し込みいただいていますが、海はどこでもつながっています。どの海を眺めても、そこに懐かしい故人様の顔が浮かんでくるはずということです」と言いました。


世界中の海はつながっている!

 

それから、「もう1つは、故人様はとても幸せな方だなと感じています。海洋散骨を希望される方は非常に多いですが、なかなかその想いを果たせることは稀です。あの石原裕次郎さんでさえ、兄の慎太郎さんの懸命の尽力にも関わらず、願いを叶えることはできませんでした。昨年、その慎太郎さん自身は愛する湘南の海に還られましたね。愛する家族である皆様が海に還りたいという自分の夢を現実にしてくれたということで、故人様はどれほど喜んでおられるでしょうか。皆様と故人様がいつかまた会う日まで、故人様の安寧と皆様のご健勝を祈念いたしましてご挨拶に代えさせて頂きます」と言いました。その後、散骨場を去る際、右旋回で永遠の別れを演出しました。


『ロマンティック・デス』(国書刊行会)

 

2009年4月、わたしはオーストラリアのレディ・エリオット島での海洋葬に参列しました。レディ・エリオット島では、まさにグレートバリアリーフの美しく雄大な海に遺灰が流されました。そこで、遺族の方がつぶやいた「これで、世界中どこの海からでも供養ができる」という言葉が非常に印象的でした。そうか、海は世界中つながっているんだ! そもそも、「死」の本質が「重力からの解放」ですので、特定の場所を超越する月面葬や海洋葬は「葬」という営みに最もふさわしいのではないかと思います。つながっている海に世界中の死者の遺灰がまかれることは「死は最大の平等である」のテーゼにも合致します。
『ロマンティック・デス』(国書刊行会・幻冬舎文庫)にも書いたように、わたしは月を「あの世」に見立てる月面葬を提唱する者ですが、その理由のひとつは月が世界中どこからでも見上げることができるからです。そして、地球上にあっても、海もどこからでも見ることができることに気づきました。月面葬も、海洋葬も、「脱・場所」という意味では同じセレモニーだったのです!


『メルヘン論』(書肆風の薔薇)

 

つながっている海に世界中の死者の遺灰がまかれることは「死は最大の平等である」のテーゼにも合致します。わたしは、拙著『涙は世界で一番小さな海』(三五館)の内容を思い浮かべました。ドイツ語の「メルヘン」の語源は「小さな海」という意味があるそうです。大海原から取り出された一滴でありながら、それ自体が小さな海を内包しているのです。ルドルフ・シュタイナーは著書『メルヘン論』(書肆風の薔薇)で、「メルヘンには普遍性がある」と述べました。ユングはすべての人類の心の底には、共通の「集合的無意識」が流れていると主張しましたが、アンデルセン、メーテルリンク、宮沢賢治、サン=テグジュペリらの魂はおそらく人類の集合的無意識とアクセスしていたのだと思います。


『涙は世界で一番小さな海』(三五館)

 

さらに、「小さな海」という言葉から、わたしはアンデルセンの有名な言葉を思い出しました。それは、「涙は人間がつくる一番小さな海」というものです。これこそは、アンデルセンによる「メルヘンからファンタジーへ」の開始宣言ではないかと思います。というのは、メルヘンはたしかに人類にとっての普遍的なメッセージを秘めています。しかし、それはあくまで太古の神々、あるいは宇宙から与えられたものであり、人間が生み出したものではありません。しかし、涙は人間が流すものです。そして、どんなときに人間は涙を流すのか。それは、悲しいとき、寂しいとき、辛いときです。それだけではありません。他人の不幸に共感して同情したとき、感動したとき、そして心の底から幸せを感じたときに涙を流すのではないでしょうか。


マスクを外して海の気を吸う

 

つまり、人間の心はその働きによって、普遍の「小さな海」である涙を生み出すことができるのです。人間の心の力で、人類をつなぐことのできる「小さな海」を作ることができるのです。そんなことを海洋散骨に立会いながら考えました。「大きな海」に還る死者、「一番小さな海」である涙を流す生者・・・・・ふたつの海をながめながら、わたしたちは葬送という行為もまたファンタジーだと思い知ります。海洋散骨においては、海を見るたびに大切な方との別離の悲嘆を感じ、悲しみと一緒に生きている自分に気づくことができ、また一緒に歩んでいくことがグリーフケアの第一歩ではないかと思いました。

 

最後に、アンデルセンに多大な影響を受けた宮沢賢治の話をさせて下さい。5日の「こどもの日」、この日から公開された日本映画「銀河鉄道の父」を観ました。観終わってスマホの電源を入れたら、石川県で最大震度6強を観測する強い地震があったことを知り、驚きました。わが社の社員や施設にはほとんど被害はありませんでした。「銀河鉄道の父」は、第158回直木賞を受賞した門井慶喜の小説を実写化したドラマで、息子の宮沢賢治を支えた父・政次郎の姿を描いています。わたしは原作小説を読んだとき、非常に感動しました。同書を読んで、わたしは賢治とその父の姿を、わたしと父の姿に自然と重ねました。賢治と政次郎のように、わたしも父と意見が対立することが多々ありました。特に、わたしの執筆活動のことで何度も口論となりました。もともと「一条真也」をプロデュースしたのは父であり、わたしの処女作『ハートフルに遊ぶ』(東急エージェンシー)も父の協力で世に出たのです。それから、わたしが本を出すたびに父は喜んでくれました。10年間の休筆期間を経て執筆活動を再開したときもとても喜んでくれました。しかしながら、わたしがあまりにも精力的に本を出すので、やはり経営との両立を心配するのです。


『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読 』(岩波現代文庫)

 

宮沢賢治といえば、Tonyさんには『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』(岩波現代文庫)という名著がありますね。わたしたち父子の関係もよくご存知のTonyさんは、かつてメールで「佐久間親子は、わたしから見ると、切磋琢磨し、相互補完する弁証法的な親子だと思っています。親子であり、同志であり、ライバル」と指摘された上で、「お父上の御心配も一理も二理もあるご心配だと思います。親という存在は、いつまでも、子供のことが心配なのです。その心配を払拭し、さらなる統合と止揚を果たされますよう、お願い申し上げます」と書いて下さいました。ただただ、有難かったです。今また、鎌田先生は、わたしたち父子の互助共生社会実現への実践記録である『ウェルビーイング?』(オリーブの木、近刊)に寄稿していただくことになっています。重ねて感謝を申し上げたいと存じます。

 

そんな想いで6年前に原作小説を読んだわたしは、映画「銀河鉄道の父」の公開を大変楽しみにしていました。そして公開初日に鑑賞したわけですが、「たぶん泣くだろうな」と予想してタオルハンカチを持参したことは正解でしたが、奇妙なことに気づきました。原作を読んだとき、わたしは完全に宮沢賢治に共感していたのですが、映画を観たときは父である政次郎に強く共感したのです。「こんな息子を持ったら、父親として不安だろうな」とか「賢治ほど、親不孝な者はいないな」とか、ついには「宮沢賢治より宮沢政次郎のような人になりたい!」と思ってしまうほどでした。これは政次郎を演じた役所広司の演技があまりにも素晴らしかったのと、長女が結婚したので、わたしに義理の息子ができたことが大きな原因かもしれません。いずれにしろ、わたしは父に感謝しています。そして、いつまでも元気でいてほしいと願っています。それでは、Tonyさん、次の満月まで!

2023年5月6日 一条真也拝

 

一条真也ことShinさんへ~「ガン遊詩人10日間の旅記録」

Shinさん、4月13日に111冊目の著作『供養には意味がある』(産経新聞出版)を出版されたこと、まことにおめでとうございます。「111」冊目ですか、凄いです。お見事です。それが、「供養には意味がある」というタイトルであることも絶妙の符号です。

 

じつは、わたしの大腸がんの手術は本年2023年の「1月11日」でした。昨年末の12月27日に、消化器内科の主治医の佐久間先生と消化器外科の木下先生と一緒に手術日の相談をした際、一番早い手術日が2023年1月11日で、その次が1週間後の1月18日だと言われたので、「先生、1月11日にしてください。わたしはゾロ目が好きなんですよ。1998年の8月8日に『神戸からの祈り』という催しを映画監督の大重潤一郎さんと一緒にやったり、とにかく『222』『333』『444』『555』『666』『777』『888』『999』など3ツ揃いのゾロ目が大好きなので、ぜひ『111』にしてください。」と頼みました。

 

もしその手術がうまく行かずにあの世に逝っていたら、『供養には意味がある』の実例になっていましたね。なにしろ、30年前から、わたしの葬儀はShinさんにすべてお任せしているのですから。「鎌田東二葬儀実行委員長佐久間庸和(一条真也)」様、くれぐれもよろしくお願い申し上げます。

 

またその本『供養には意味がある』は、「日本人が失いつつある大切なもの」という副題が付いています。これが意味深ですね。

本書は、

■第1章 葬儀に迷う日本人・・・・・・「家族葬」の罪と罰
■第2章 コロナ禍が供養の姿を変えた……葬儀崩壊を起こすな
■第3章 「供養の心」を季節に重ねる……8月は死者を想う月
■第4章 忘れてはいけない供養の日……「追悼」と「記念」、「周年」と「年」
■第5章 死とグリーフ……『鬼滅の刃』にみる供養のあり方
■第6章 「供養心」の源泉……「遺体」と「死体」の違い
■第7章 あなたのことを忘れない……石原慎太郎氏、安倍晋三氏らの旅立ち

の全7章構成で、多くが産経新聞のコラム記事であったため、見開き2頁に収まり、実に読みやすいエッセイ集となっています。大好評で増刷を重ねているとは、現今の出版状況の中では快挙です。本当によかったですね。おめでとうございます。

各章のタイトル、

A:起「葬儀に迷う日本人」→「コロナ禍が供養の姿を変えた」→

B:承「「供養の心」を季節に重ねる」→

C:転「忘れてはいけない供養の日」→「死とグリーフ」→「「供養心」の源泉」→

D:結「「あなたのことを忘れない」

もキャッチ―で、見事な展開です。起承転結の構成にもなっていますね。

 

Shinさんは、「終活」や「供養」が死者と生者の「幸福」と結びついていることをさまざまな角度からスペクタクルに示します。そして、「終活ブーム」と言われる苦悩・苦難・難題の絶えないこの世で、「直葬」とか「ゼロ葬」とかというこれまたキャッチーな言葉で急速に簡素化されていく風潮に逆らって敢然と警鐘を鳴らします。忘れてはならない、失ってはならない「大切なものがあるよ!」と。

それは、日本人はの「供養の心」を深く掘り起こし、想起する「メメント・モリ!」的な呼びかけです。日本初の終活季刊誌である『終活読本ソナエ』(産経新聞出版)に掲載した人気連載を核とした本書は、現代社会に強烈な警鐘を鳴らしつつ、日本人の「供養の心」を喚起することでしょう。そうなってほしいと願わずにはいられません。

 

また、同書82頁から83頁にかけて、「第4章 忘れてはいけない供養の日」の中の「11年目の3・11」の文章の中で、上智大学大学院実践宗教学研究科とグリーフケア研究所を去る際の最終講義のシンポジウムを取り上げてくださり、まことにありがとうございます。伊藤高章、島薗進、鎌田東二という初期の上智大学大学院実践宗教学研究科を担ってきた3人が一度に退職するので、このようなシンポジウム形式になりましたが、6年間の上智生活の区切りをつけることができました。そこでの黙祷の呼びかけと、儀式が持つリアルからフィクションへのシフトとスライドの意味を取り上げていただき、嬉しく思います。

そこでわたしが語りたかったことは、源平の合戦という「リアル」がどうフィクショナルに成るかの実例を挙げて「供養の意味」論を考察して見ることでした。たとえば、能の世阿弥の名作「敦盛」では、源平の合戦のリアルをドキュメントした『平家物語』を素材にしていますが、「怨霊」と化している16歳で殺された「平敦盛」を舞台上にリアルと「霊」の「複式」で呼び出し、敦盛を殺した熊谷次郎直実というリアルの前にフィクショナルに「霊」として顕現させて、これもフィクショナルに「和解」と不成仏霊の「成仏」を導いていくというようなストーリーの意味論を考察してみたかったのです。この点、「天下の御祈祷」としての能の意味論は極めて重要なものがあると思っています。それこそ、けっして「忘れてはならない大切なもの」です。

 

さて、この4月末から5月にかけてのわが最大のイベントは、10日間の「ガン遊詩人の旅」でした。これを無事最後まで完走・完遂することができるかどうかに賭けていました。何を賭けていたか? 我が余命・余生を、です。体調が悪化して途中で京都に戻ることになれば、今後のステージⅣの抗がん剤治療も苦しいものになるだろう、しかし、完遂できれば次の道が開ける、というような予測でした。

おかげさまで、すべての予定を無事終了し、4月28日から5月7日までの全行程と全イベントをそれぞれ有意義に行なうことができました。ありがたいことです。天地人に心からの感謝を捧げます。

とりわけ、5月6日と7日は東北はとても寒く、7日の最終日の仙台もけっこう雨は本降りでしたが、しかしそんな雨の中でも最終日に定員いっぱいの20名の方々がクロージングトーク(鼎談)を聴きに来てくれました。そして、写真展とトークイベントをじつに有意義に完了することができました。「臨床宗教師」養成講座を立ち上げた宗教民俗学者で今は東北大学名誉教授の鈴木岩弓さん(日本スピリチュアルケア学会常務理事・日本臨床宗教師会理事)も、「臨床宗教師」養成の初期から指導的な実践「カフェ・デ・モンク」を主宰してきた宮城県栗原市通大寺住職の金田諦應さん(日本臨床宗教師会副会長・日本スピリチュアルケア学会評議員)も、鶴岡市議会議員の草島進一さん(元「神戸元気村」副代表)も鶴岡から車で駆けつけて参加してくれました。

鈴木さん、金田さん、草島さん、寒い寒い雨の中、参加してくださり、とても大切なところをコメントしていただき、まことにありがとうございました。また、鈴木さんには自家用車で仙台駅まで送っていただき、たいへん助かりました。本当にありがとうございました。道々、いろいろと話ができたのもとてもよかったです。

 

しかし、帰りの新幹線特急はやぶさ号は事前購入時でも満席で、仙台から東京までの1時間40分は立ち席の立ちっぱなしでしたが、東京から京都までは座れました。

 

ともかく、今回は、10日間のガン遊詩人としての初旅で、しかもコロナ禍以後最長の長旅だったので体調不安があったのですが、何とか乗り切りました。4月28日の東京大学での講義、29日の岡本太郎美術館「顕神の夢」展でのトークとその後の隣町珈琲でのトーク、30日の円覚寺塔頭龍隠庵での詩の朗読会、5月2日から7日本日までの宮城県立美術館県民ギャラリー1での「須田郡司・鎌田東二写真展」とオープニングトーク鼎談とファイナルトーク鼎談。そして、その間の被災地訪問・フィールドワークの丸4日間。すべてが有意義で、感謝の連続・連発でした。大変有り難いことです。

でも、抗がん剤治療4クール目の副反応はしっかりあって、口中の痺れ感や不快感が増して蓄積されている感があります。とはいえ、予定通りの行程を無事終えることができて、体調維持に一定の自信もつきました。途中で体調が悪化したらどうしようかという不安があったことは確かでしたが、何とかなるさという思いも一方ではあり、ほんとうに何とかなりました。すべてを天にまかすという心境でした。

いずれにせよ、多くの方々のご協力なしには、これほど有意義な形で終えるができませんでした。出逢った方々、さまざまなコラボレーションをしていただいた方々のお心遣いとご協力に心より感謝申し上げます。

 

おととい、京都に戻り、昨日は朝日新聞文化部の岡田匠記者による「こころのはなし」欄の3時間に及ぶインタビューを受けました。今まで、新聞インタビューを何度か経験しましたが、最長の取材・インタビューでした。岡田記者も京都在住で、わが家に訪ねて来てくれたのでずいぶんたすかりました。

インタビューは、中高齢者の読者の方々に、ガン患者としてどのようなサジェスチョンやメッセージを発せるかというテーマでした。この朝日新聞文化面の「こころのはなし」欄は、「40代、50代、60代の働き盛りの悩みに答える」という方針で、中高年に向けたメッセージを適切に発することが求められます。たとえば、「がんの告知を受けたときの心境」とか、そのことの家族への説明のこととか、告知を受けてからの日々や手術への不安や家族に不安をかけないためにしたこととか、手術を受けて仏教でいう「生老病死」をどのように感じたかとか、死への不安や手術を受けて毎日の過ごし方が変わったかとか、現役世代に向けて突然やってくる病や死への備えやその際の心の持ち方とか、たとえ体が病におかされても心が病におかされないためにはどうすればよいかとか、介護の問題とか、負の感情に陥った時にどのように対処したらいいかとか、難問続きでした。

これらは、まさにShinさん言うところの「終活―修活」の仕様の問題です。わたしはそこで、芸能や芸術やユーモアなどを含め、「ガン遊詩人の遊戯三昧道」を提唱したのですが、これは、残念ながら、今のところ「独り道」で、一般性がないのが問題点であり、課題でもあります。でも、これからは、続々と「ガン遊詩人」も出て来るとおもっています。すでにそのような生き方をされた先人もたくさんいらっしゃるのではないでしょうか? すべては「生き方」に関わっています。「死に方」もじつは「生き方」の一過程ですから。

わたしは、がんになって、がんが発覚して手術して抗がん剤治療をして、よりいっそう「自由」になったとおもっています。よりいっそう「自らに由る」「自ずから由る」という存在様式に近づいたような感があります。とても、清々しく、自分らしいなとおもえるような。「がんになって自由になった」なんて言うと、「おまえはアホか!」と言われそうですが、ほんとうにそんな気持ちなので、しようがありません。

この10日間のうち、4月29日(土)の川崎市岡本太郎美術館「顕神の夢」展「顕神の夢」展と、5月2日から7日までの6日間の動画を撮影・編集してyou tubeにアップロードしていますので、ぜひ時間のある時に見てください。

1,2023年4月29日 ファイル名:「顕神の夢」展オープニングトークの前の展示見学(江尻潔足利市立美術館学芸次長案内)

動画リンク:https://youtu.be/46_9qvhPwBY

2,同4月29日「顕神の夢」展動画 動画リンク:https://youtu.be/bG1uuTDDj8U

ファイル名:川崎市岡本太郎美術館「顕神の夢」展鼎談

3,5月2日(92分)ファイル名:「東日本大震災の記録と巨石文化」オープニングトーク鼎談2動画リンク:

 

4,5月3日ファイル名:東北被災地訪問第1日目 波分神社から釣石神社・大川小学校まで 2023年5月3日
動画リンク:https://youtu.be/–5UZrpgyBg

被災地訪問1日目は、笑いの絶えない珍事が連続しましたが、何とか乗り切りました。仙台のビジネスホテルR&Bから、波分神社、荒浜小学校・鎮魂碑の観音像、七ヶ浜・鼻節神社、塩竃神社、松島、石巻、釣石神社、大川小学校を訪問しました。

5,5月4日ファイル名:東北被災地訪問第2日目 葉山神社奥宮の石神社の磐座と神籬、地福寺、岩井崎、大島神社、金光教気仙沼教会 2023年5月4日

動画リンク:https://youtu.be/ozrc6yV6rgc

被災地訪問第2日目は、石神社、地福寺、岩井崎、大島神社、金光教気仙沼教会などを巡りました。特に、葉山神社の奥宮の磐座と神籬、気仙沼大島の延喜式内社大島神社の小松勝麿宮司さん、金光教気仙沼教会の奥原志郎教会長さんとの話は、圧巻でした。ほぼ全体を動画に収録してあります。一期一会のナラティブでした。感じ入り、堪能するもの・ことが多々ありました。ありがたいことです。3時間近い動画です。

6,5月5日ファイル名:東日本大震災訪問第3日目 五十鈴神社、龍舞崎、奇蹟の一本松、慈恩寺、古山敬光住職、山神社、尾崎神社、大槌稲荷神社、荒神社 2023年5月5日

動画リンク:https://youtu.be/bzOTrkXzFgQ

東日本大震災被災地訪問第3日目は、陸前高田市和田地区の臨済宗妙心寺派の古刹・慈恩寺の古山敬光住職とじっくりと話しました。とりわけ、「住職」から「自由職」へという語呂合わせ的なビジョンは、禅僧の禅機に充ちていて希望を感じました。気仙沼大島の龍ヶ崎、五十鈴神社、岩手県陸前高田市の月山神社と慈恩寺、釜石市の尾崎神社と山上社、大槌町の仮設住宅と大槌稲荷神社、山田町の荒神社を訪問して、宮古駅前のビジネスホテルに泊まりました。

7,5月6日ファイル名:東北被災地訪問第4日目 宮古から八戸まで 宮古市浄土浜、田老町防潮堤、野田村

愛宕神社、久慈市釣鐘洞、八戸市西宮神社・蕪神社・新羅神社 2023年5月6日

動画リンク:https://youtu.be/vPXtbDqv0r4

被災地訪問最終日(4日目)の動画記録。宮古の浄土浜から初めて、田老町の東洋一の防潮堤、野田村の愛宕神社と海蔵寺、久慈の釣鐘洞、八戸の西宮神社や蕪神社や新羅神社を巡りました。

8,一昨日5月7日の最終日の動画記録です。

ファイル名:「東日本大震災の記録と巨石文化展 ファイナルトーク」須田郡司×山田政博×鎌田東二+鈴木岩弓・草島進一・金田諦應・佐藤 2023年5月7日(3時間33分)

動画リンク:https://youtu.be/A_RiOP2FPz4

この動画はわたしの編集なので粗雑ですが、県民ギャラリー2で開催されていた「阿部好江展」の全貌を画家の阿部好江さんご本人の案内と解説付きで回っているので、その点、とても贅沢なオプション付きです。

9,山形県鶴岡市議会議員の草島進一さんが撮影してくれた動画が、「鶴岡持続可能性研究所TSSI」のサイトから見られます。こちらは、2時間32分40秒で、パワーポイントスライドもしっかりと映っていて、とても見やすいです。

ファイル名:「須田郡司・鎌田東二写真展鼎談」ゲスト:山田政博前大蔵山スタジオ代表、コメント:草島進一鶴岡市議会議員、鈴木岩弓東北大学名誉教授、金田諦應曹洞宗通大寺住職、佐藤暁子羽黒山伏2023年5月7日草島進一撮影

草島進一さんは、アウトドア系の著名雑誌の編集者でしたが、阪神淡路大震災の後、5日後に神戸にボランティアに行き、そのまま3年間「神戸元気村」の副代表をしていた、バリバリの社会活動家です。

 

最後に、日本の「緩和ケア」を牽引してきたお一人の山崎章郎さんの著書『ステージ4の緩和ケア医が実践する がんを悪化させない試み』(新潮選書、2022年6月25日刊)の紹介をしておきます。

以下のサイトには、次のような紹介記事が載っていました。

 

【新潮選書】山崎 章郎 作品 2025年、団塊の世代が最期を迎える病床は不足する。ならば自宅で尊厳ある死を覚悟しよう。終末医療の第一人者がたどり着いた後悔なき人生の閉じ方。 がんになった医師が、自ら実験台となり標準治療以外の方法を探した。抗がん剤の辛い副作用を避けて、穏やかに生きたい人への新提案。

商品の説明

出版社からのコメント

ベストセラー『病院で死ぬということ』の刊行から30年、緩和ケア医として活躍してきた山崎章郎さんが4年前に大腸がんを宣告されました。
抗がん剤治療を受けるものの、強い副作用が出たため治療を中断。自身ががんになったことによりいくつかの問題に気づきます。抗がん剤治療を選択しない患者さんに十分な医療保険のサポートがないことの不条理。「がん治療の終了」と「緩和ケア」の間に空白の時間があり、多くの「がん難民」が不安な日々を送っている事実等々。
山崎さんは「がんを消すのではなく、これ以上大きくしないようにすれば、すぐに命に関わることはない」という考えのもと、普段どおりに生活しながらできる治療、しかも高額な費用がかからず誰もが受けられる「がん共存療法」を目指して、自らの身体を実験台に試行錯誤を続けてきました。その経緯をまとめたのが本書です。

(目次)
第一章 やはりその日はやって来た
来るべきもの 進行大腸がん 腹腔鏡手術へ 手術は成功 壊れかけた日常 予期せぬ結果 交通事故

第二章 ステージ4の固形がんに対する標準治療の現実
標準治療とは 薬物療法とは 抗がん剤治療の現実 残された時間 緩和ケアと延命効果 抗がん剤治療は選択しない 免疫療法 後悔 最善とは何か 公的医療保険の不条理

第三章 「がん共存療法」の着想
抗がん剤治療は、選択肢の一つ
提案1 公的医療保険による「診断時からの緩和ケア外来の保証」
提案2 「生きがい給付金」
提案3 死にも備える
提案4 「がん共存療法」

第四章 DE糖質制限ケトン食
目からうろこのケトン体 「糖尿病性ケトアシドーシス」は間違い? 抗がん治療法としての「糖質制限ケトン食」――その理論 EPAの効果 「EPAたっぷり糖質制限ケトン食」にチャレンジ コンビニが強い味方 目的は達成されているか ケトフルについて ビタミンDの存在 体調変化とCT検査 検査結果を聞く 遜色のない効果

第五章 次なる戦略
「DE糖質制限ケトン食」の限界 「クエン酸療法」にも取り組む 「クエン酸療法」の注意点 組み合わせによる進化 足踏み状態 クロノテラピー――時間治療 サケのハラミと至福の時 目的は達成できている 患者さんを前に葛藤 丸山ワクチン 自然退縮?の一例 4月がやってきた

第六章 「がん共存療法」の見直し
糖質制限の意味とは 抗がん剤治療の再検討 抗がん剤を少量に 「少量抗がん剤治療」を試してみる 11回目のCT検査 「がん共存療法」の基本形が完成

第七章 臨床試験に臨みたい
4つのハードルの先 臨床試験を成功させたい 外来はこのようにしたい 治療の実際 突然の入院 再入院 挫折 拾う神あり とにかく前に進む

著者について

1947年、福島県出身。緩和ケア医。1975年千葉大学医学部卒業、同大学病院第一外科、国保八日市場(現・匝瑳)市民病院消化器科医長を経て、1991年聖ヨハネ会桜町病院ホスピス科部長。1997年~2022年3月聖ヨハネホスピスケア研究所所長を兼任。2005年在宅診療専門診療所(現・在宅療養支援診療所)ケアタウン小平クリニックを開設したが、体調のこともあり、2022年6月1日より、同クリニックは医療法人社団悠翔会に継承され、現在は同クリニック名誉院長として、非常勤で訪問診療に従事している。認定NPO法人コミュニティケアリンク東京・理事長。著書に『病院で死ぬということ』(主婦の友社、文春文庫)、『続・病院で死ぬということ』(同)、『家で死ぬということ』(海竜社)、『「在宅ホスピス」という仕組み』(新潮選書)など。

 

じつは、わたしはこの本が出たばかりの昨年の6月末にこの本を購入して全部読んでいたのですよ。というのも、山崎さんは一般社団法人日本スピリチュアルケア学会の役員(監事)を務めてくれていたので、役員会(理事+監事)でよくご一緒し、そのご意見に共感するところ大であったからです。なので、山崎さんが日本スピリチュアルケア学会の監事役を1期のみで退任されることを大変残念に思っていたので、本が出たというのですぐに買って読み、そのようなご事情があったのかと納得したのです。

その本の冒頭の「第一章、やはりその日はやって来た」「来るべきもの」は次のように書き始められています。

<こんな時が、いつかは来ると思っていた。いや、 来ないはずがないと思っていた。そして、その時はやって来た。

予兆は、2018 年6月の鬱陶しい梅雨の季節に始まった。正確に言えば、もう少し前からだったかもしれない。

その頃から、ごろごろという、時ならぬ腹鳴が始まった。下痢や腹痛などの症状はなかった ので、一時的なことかもしれないと様子を見ていた。だが、8月には下腹部を中心に、腹鳴 は頻回になった。これは、腸内ガスが狭い場所を通過する際に、腸の蠕動運動が亢進して出現する音だ。大腸に狭い場所がある?  きっとこれは大腸がんに違いないと確信した。そう確信した時、失意や落胆よりは、遂にその日がやって来たかと、むしろ腑に落ちた気持ち だった。理由は、少し長いが下記の通りである。>(同書16頁)

わたしの場合も、山崎さんとまったく同じような「腹鳴」から始まり、それが腹痛や腹部の膨張感や強い不快感を伴うものだったので、これは「食あたり」に違いないと最初は思っていましたが、それが2~3ヶ月も続くのでおかしいと何度も病院で検査をしてもらった挙句に、大腸がん(上行結腸癌)であることが判明したという次第です。

山崎さんは、この後の文章を、1975 年に28歳で千葉大学医学部を出て同大学病院の外科医になった経験から話を説き起こしていきます。そして、外科医としてがん治療に当り、2005年以降は専門的に緩和ケアを中心に臨床に臨むようになりますが、がん医であった自分は必ずがんとなると確信していたようです。山崎さんは同書18頁に次のように書いています。

<いつの頃からか、私も、きっと、がんになり、がんで死ぬことになるだろうと、考えるようになっていた。>

そのような予感・直感を持っていた山崎さんのがんになってからの過程が簡潔明瞭に記され、化学療法である抗がん剤治療(標準治療)のこと、そこでのゼローダによる副作用の激烈さなどがリアルに当事者の立場から書かれています。とても参考になると思いますので、Shinさんもお父上もぜひ同書を読んでみてください。

じつは、わたしも昨年の12月16日にがんの宣告を受けて、入院中に山崎さんのこの本のことを思い出して、山崎さん宛てに1月25日に以下のようなメールをお送りしました。

<Subject: ご無沙汰しています。鎌田東二です。 FW: [ケア学会理事会2020] 高木慶子先生、山崎章郞先生が、監事を退かれました

山崎章郎先生

大変ご無沙汰しております。

日本スピリチュアルケア学会の監事をされていた時のメールアドレスを今もお使いかと思い、本メールアドレスにお送りさせていただきます。

まず、山崎先生が昨年6月に新潮社から出版されたご本『がんを悪化させない試み』を、出版されてまもなく読ませていただきました。

日本スピリチュアルケア学会の監事退任時にコラム記事を書いていただきたいとお願いした際、ご辞退されたので、この本を読んで、先生のがんのことを初めて知った次第です。

それから、半年、わたしも山崎先生と同様、大腸癌(上行結腸癌とも盲腸癌とも言うようです)となり、リンパに転移があるのでステーションⅢと言われています。かいつまんで経緯を記せば、次のようになります。

1,2022年10月31日の夜、突然、胃の膨張感とともにこれまでにない大きな腹鳴(ゴロゴロ、グルグル)が鳴って、大いに違和感があった。翌朝、すこし収まったけれども、時々差し込むようなこともあり、一進一退だった。

2,京都市左京区の近くのかかりつけ医嶋田医院での検査(血液検査と検便)では異常はなく、腫瘍マーカーの異常もなく、紹介されていった11月下旬に行なった左京区のバプテスト病院での胃カメラ検査でも異常は認められませんでした。

3,が、それでも治らず、やはりおかしいと思い、再度バプテスト病院を紹介してもらい、今度は大腸のCT検査を受け、12月16日にガンを宣告されました。19日に入院し、内視鏡でも、組織検査の結果でも、確認され、その時点ではステージⅡかⅢかいずれかとのことでした。

4,年末年始は自宅に戻り、1月10日に再入院して、11日に上行結腸の全摘と横行結腸のいくらかを切除しました。

5,術後経過は順調に復食し、流動食、3分粥から5分粥に入った時点で、乳糜腹水となり、再び3分粥に戻り、退院が遅れました。

6,4日ほどして、23日に5分粥に戻ると、再度乳糜腹水となり、25日退院予定だったものが、それを治すためにさらに1週間の絶食療法が必要とのことで、現在、絶食3日目となります。

7,来週の月曜日の30日が絶食が終わり、5分粥から始めて脂肪の漏出が見られなければ3日後くらいに退院できるとの流れです。

8,予定では、本日25日に退院でしたが、2月初旬まで延びてしまい、上智大学グリーフケア研究所大阪での「スピリチュアルケアと芸術」の授業のことなどあり、最終回を対面でできず、病室からZoomで行なうことになっています。

9,ステージに関しては、リンパへの転移が見られるので、ステージⅢで、3月初めから抗がん剤治療を始めるのが転移を防ぐために効果的とされている標準治療ということになるとの主治医の話でした。

一人息子が、昨年の3月まで東京医科歯科大学で循環器内科医をしていて、4月から川崎市のAOI国際病院に勤務しているのですが、手術までのインフォームドコンセントを、看護師をしているパートナー(嫁)と妻と一緒に聞いてくれ、手術と第一段階の入院加療のこともそれしか選択肢がないという結論でした。

そして、次の山崎先生が書いておられる「標準治療」の抗がん剤治療という化学療法を3月から行なう予定になっており、今のところ、それを受けてみるか、という気持ちでおります。

おそらく息子も同様の考えかと思いますが、もしその後転移が見つかりステージⅣになった場合、山崎先生が辿られたように抗がん剤治療はしないで、食事療法と日常を自分らしく保つ(「東山修験道」と称して比叡山に登拝する。2022年12月時点で826回。何とか1000回を目指したいという気持ちが強くあります)生き方をしたいと考えています。

何か、現時点でアドバイスがありましたら、お時間のある時にお返事くだされば幸いです。

がんを告知されて、年末年始に『神話詩集』をまとめ、それを『わが遺言ー須佐之男・大国主』と改題しました。

PDFで添付しておきますので、お時間のある時にご笑覧くだされば幸いです。長々と長文、大変失礼いたしました。くれぐれも御身お大事にお過ごしください。1月25日 鎌田東二拝>

とまあ、このようなメールを山崎章郎先生に出していたのです。そして、その後、アドバイスの返信をいただき、その中に次のように書かれていました。

<ステージ3までであれば標準治療を選択される事が、現状ではベターと思います。

ステージ4になりますと、悩ましくなりますが、標準治療としての抗がん剤治療がベターとは、言い切れないと考えております。

2週間ほど前から、ビデオニュース社のインタビューを受けまして「ステージ4のがん医療に一石を投じる」と題しました動画がユーチューブに流れております。

体調、お時間許すようでしたら、ご参考までにご覧いただければ幸いです。

ちなみに、2月8日読売新聞の朝刊に私のインタビュー記事が載っております。現在オンラインでご覧いただけます。https://www.yomiuri.co.jp/life/20230207-OYT8T50137/

山崎さんのご意見では、ステージⅢまではゼローダを使ういわゆる「標準治療」が現状「ベター」であるが、ステージⅣでは「悩ましく」、「ベターとは言い切れない」とのことでした。そのようなアドバイスをいただいていましたが、わたし自身は一度は「標準治療」を受けてみようという気持ちになっていたので、ステージⅣであることが判明して「標準治療」の実施を早めて2月24日から「標準治療」を受け、今4クール目で、5月18日から5クール目に入ります。

4クール目の現在、口中の違和感が強くなってきていて、これが嵩じると、食事をすることに困難をきたす可能性はあると感じています。そうなると、体調維持や管理もこれまでとは異なる段階に入るので、何とも今後の予測はできません。山崎先生は2クール目で次のような「副作用」を強く感じ始めたとのことです。

<1クール目は大きな副作用もなく経過した。日常生活は仕事も含め、順調であったが、2 クール目から副作用が出現してきた。

先ずは食欲の低下である。それに軽度ではあったが慢性的な嘔気が続くようになった。さらに、下痢が始まった。だが、それらは予測されていた副作用が、確実に起こってきたという ことだ。>(『ステージ4の緩和ケア医が実践する がんを悪化させない試み』27‐28頁、新潮選書)

その後、「手足症候群」が現われ、「徐々に手足の皮膚が黒ずんできた」(28頁)ので、しばらく服用を中止していたのですが、その頃にCT検査の結果、ステージ3からステージ4になっていると告げられて落胆したのか、病院からの帰りに交通事故を起こしたそうです。

山崎さんのその後は、これまでの食事療法などの研究と実践を踏まえて、「がん共存療法」に進まれているのですが、わたしも、「東山修験道」という自然療法と、「ガン遊詩人」という文化療法を併用して、「がん共存療法」を開発実施している最中です。

山崎さんにお送りしたメールの中で、『神話詩集』と書いたものを、今月5月18日に春秋社から『悲嘆とケアの神話論―須佐之男・大国主』と改題して出版します。また、7月22日の故大重潤一郎さん(1946年3月9日‐2015年7月22日)の命日に合わせて、第七詩集『いのちの帰趨』(港の人)を出版します。この2冊は「わが遺言」詩集(前著の一部は神話論)です。

これがわたしなりの「がん共存療法」となります。がんを消そうとか、退治しようなどとはさらさらおもっていません。「がん君、ごめんね。ありがとね。」という気持ちがあるだけです。

 

それでは、次の満月までくれぐれも御身お大事にお過しください。

 

本日2023年5月9日の比叡山つつじヶ丘のつつじ天国(東山修験道846)

2023年5月9日 鎌田東二拝