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シンとトニーのムーンサルトレター 第122信

 

 

 第122信

鎌田東二ことTonyさんへ

 水無月晦日の今夜、青白い満月が夜空に浮かんでいます。3年に1度の「ブルームーン」です。Tonyさん、猛暑が続きますが、お元気ですか? この1ヵ月間は本当にいろいろなことがありましたね。まずは、7月22日にお亡くなりになられた映画監督の故大重潤一郎さんのご冥福を心よりお祈りしたいと思います。かねてより沖縄県那覇市の日赤病院で療養中だった大重監督ですが、7月18日に容態が急変し、22日に息を引き取られました。大重監督のお別れのセレモニーは、サンレー沖縄でお世話をさせていただくことになり、沖縄県豊見城市豊崎の「豊崎紫雲閣」において、27日の18時から「偲ぶ会」(通夜)、28日の11時から「お別れ会」(告別式)が行われました。Tonyさんをはじめとした多くの友人・知人、そして家族・親戚の方々に見送られ、大重監督はニライカナイへ旅立って行かれました。Tonyさん、大変お疲れ様でした。

大重監督を偲ぶ会の会場

大重監督を偲ぶ会の会場大重監督のお別れ会のようす

大重監督のお別れ会のようす
多くの人たちに見送られて・・・・・・

多くの人たちに見送られて・・・・・・大重映画シンポジウムのようす

大重映画シンポジウムのようす
 7月5日、大重監督の遺作となった「久高オデッセイ第三部 風章」完成上映会&シンポジウム「大重映画と『久高オデッセイ』が問いかけるもの」が東京両国の「シアターX(カイ)」で行われたばかりでしたね。このイベントは、Tonyさんが理事長を務められるNPO法人・東京自由大学とシアターXの提携記念イベントでした。映画の製作者でもあるTonyさんは、大重監督の「久高オデッセイ」シリーズをずっと応援されてきました。この日、完成した第三部「風章」も含めて、「久高オデッセイ」三部作の一挙上映と記念シンポジウムが開催されたのです。わたしは、サンレー沖縄の紫雲閣事業部の責任者である黒木昭一部長とともにイベントおよび打ち上げに参加したのですが、その後、この黒木部長が大重監督のお別れのセレモニーの陣頭指揮を執ったわけです。

 上映会の当日に配布された「久高オデッセイ」三部作のパンフレットの表紙には、以下のような大重監督のメッセージが掲載されています。「昔から久高島では男は海人女は神人と定められて生きてきた。そして月の満ち欠けに基づいた旧暦の暦に沿って漁や祭祀が行われてきた。琉球王朝時代以降『神の島』と呼ばれてきた久高島では12年に一度の午年神女の継承式であるイザイホーが行われてきた。しかしイザイホーは1978年を最後に後継者不足のため途絶えた。イザイホーは途絶えたけれど地下水脈は流れ続けている。これは2002年から2014年までの12年間その地下水脈の流れを見続けてきた記録である」

 わたしは、すでに第一部を観ていましたが、この際良い機会であると思って、三部作を一挙に観ました。第一部も以前観たときよりずっと感銘を受けました。わたしは「久高オデッセイ」三部作を観て、まず、「これはサンレーのための映画だ!」と思いました。サンレー沖縄は、沖縄が本土復帰した翌年である1973年(昭和48年)に誕生しました。北九州を本拠地として各地で冠婚葬祭互助会を展開してきたサンレーですが、特に沖縄の地に縁を得たことは非常に深い意味があると思っています。

 「サンレー」という社名には「SUN‐RAY(太陽の光)」「産霊(むすび)」「讃礼(礼を讃えること)」という3つの意味がありますが、そのどれもが沖縄と密接に関わっています。沖縄は太陽の島であり、きわめてユニークな太陽洞窟信仰というものがあります。「東から出づる太陽は、やがて西に傾き沈む。そして久高島にある太陽専用の洞窟(ガマ)を通って、翌朝、再び東に再生する。その繰り返しである」という神話があるのです。おそらく、久高島が首里から見て東の方角にあるため、太陽が生まれる島、つまり神の島とされたのでしょう。そして久高島から昇った太陽は、ニライカナイという海の彼方にある死後の理想郷に沈むといいます。紫雲閣とは魂の港としてのソウル・ポートであり、ここから故人の魂はニライカナイへ旅立っていくのです。

 次に、サンレーとは「産霊(むすび)」です。生命をよみがえらせるという意味です。産霊といえば何といっても「祭り」ですが、沖縄は祭りの島といわれるほど祭りが多いですね。産霊は生命そのものの誕生も意味しますが、沖縄は出生率が日本一です。15歳以下の年少人口率も日本一で、まともな人口構造は日本で沖縄だけと言っても過言ではありません。「久高オデッセイ第三部 風章」でも、久高島に新しい生命が誕生していました。

 そして、サンレーとは「讃礼」(礼を讃えること)です。言うまでもなく、沖縄は守礼之邦。礼においても最も大事なことは、親の葬儀であり、先祖供養です。沖縄人ほど、先祖を大切にする人はいません。このように「太陽の島」であり「祭りの島」である沖縄はまさにサンレーの理想そのものです。わたしはサンレーが沖縄で40年以上も冠婚葬祭業を続けてこられたことを心の底から誇りに思います。そして、沖縄には本土の人間が忘れた「人の道」があり、それこそ日本人の原点であると確信します。戦後70年の今こそ、すべての日本人は「本土復帰」ではなく「沖縄復帰」すべきではないでしょうか。

 わたしは、「久高オデッセイ第三部 風章」を観ながら、久高島の「気」を感じました。そして、2つのキーワードが心に浮かびました。最初のキーワードは「儀式」です。わたしは今、『儀式論』(弘文堂)という本を書く準備を進めており、毎日のように「儀式とは何か」について考えています。儀式には大いなる力があります。わたしは、その本質を「魂のコントロール術」であるととらえています。儀式が最大限の力を発揮するときは、人間の魂が不安定に揺れているときです。まずは、この世に生まれたばかりの赤ん坊の魂。次に、成長していく子どもの魂、そして、大人になる新成人者の魂。それらの不安定な魂を安定させるために、初宮参り、七五三、成人式などがあります。「風章」では内間奈保子ちゃんという女の赤ちゃんが一生餅を背負う儀式が登場しました。

 それから、登場したのは長寿祝いのシーンです。老いてゆく人間の魂も不安に揺れ動きます。なぜなら、人間にとって最大の不安である「死」に向かってゆく過程が「老い」だからです。しかしながら、『老福論』(成甲書房)に書いたように、日本には老いゆく者の不安な魂を安定させる一連の儀式があります。そう、長寿祝いです。61歳の「還暦」、70歳の「古稀」、77歳の「喜寿」、80歳の「傘寿」、88歳の「米寿」、90歳の「卒寿」、99歳の「白寿」、などです。沖縄の人々は「生年祝い」としてさらに長寿を盛大に祝いますが、わたしは長寿祝いにしろ、生年祝いにしろ、今でも「老い」をネガティブにとらえる「老いの神話」に呪縛されている者が多い現代において、非常に重要な意義を持つと思っています。それらは、高齢者が神に近い人間であるのだということを人々にくっきりとした形で見せてくれるからです。それは大いなる「老い」の祝祭なのです。この映画には赤ちゃんの儀式と老人の儀式がともに登場し、儀式がいかに人間の魂を安定させ、幸福になるためのテクノロジーであるかが見事に描かれていました。

 次のキーワードは「涙」です。「風章」では、2度の場面で印象的な「涙」が流されます。1つは、満月の夜の砂浜で産卵しながら流すウミガメの涙です。もう1つは、本来はイザイホーが行われるはずの日にたった1人の神人である若い女性が祈りながら号泣する涙です。この映画は、「涙」の映画であると言えるでしょう。わたしには、その名も『涙は世界で一番小さな海』(三五館)という著書があります。その本で、わたしは、ドイツ語の「メルヘン」の語源には「小さな海」という意味があることを紹介しました。大海原から取り出された1滴でありながら、それ自体が小さな海を内包しているのです。ちなみに、童話の神様アンデルセンは「涙は人間がつくる一番小さな海」と言いました。

 「儀式」と「涙」がクロスする場が海洋葬です。サンレー沖縄では「海洋散骨」を定期的に行っています。青い「美ら海」に白い遺灰が溶け込んでゆくさまは詩的でさえありますが、それを見つめる遺族の方々の目からは涙が流れます。それを見て、わたしは「ああ、小さな海と大きな海がつながったなあ」といつも思います。

 映画上映の最後に、「久高オデッセイ第三部 風章」のエンドロールでは協力者として、わたしの本名である「佐久間庸和」の名前、協賛企業として「株式会社サンレー」のクレジットが流れました。自分の名前が映画で流れたのは初めての経験なので、ちょっと感動しました。Tonyさんとのご縁から、このような素晴らしい映画づくりに協力することができて本当に良かったです。

 そして上映会後、シンポジウム「大重映画と『久高オデッセイ』が問いかけるもの」が行われました。パネルディスカッションに出演したパネリストは、島薗進(東京大学名誉教授・上智大学グリーフケア研究所所長・宗教学)さん、宮内勝典(作家、大重監督とは高校時代からの親友)さんら5人で、コーディネーターは「久高オデッセイ第三部 風章」製作実行委員会副実行委員長であるTonyさんでした。

 それぞれ大変示唆に富んだご発言ばかりでしたが、パネリストのみなさんのお話を聴きながら、わたしは「いつの日か、イザイホーは復活する」という確信に近い予感が湧いてきました。そのとき、サンレー沖縄では全力でサポートさせていただきたく存じます。「久高オデッセイ」で描かれた久高島の人々の日々の祈りがあれば、大重監督のいう「地下水脈」は枯れません。その地下水脈はいつの日か人々の想いの強さによって、また天のはからいによって、必ずや再び地上に噴出するでしょう。

 パネルディスカッションの後半では、沖縄の施設で療養中の大重監督もスカイプ出演されました。ときどき体が辛そうな表情をされながらも、大いに語られ、その言葉は非常にパッションに満ちたものでした。パネリストの方々が大重監督にメッセージを伝えた後、司会のTonyさんが「この映画に縁のあった方々にも一言お願いしたいと思います」と述べられ、工芸美術家の近藤高弘さんに続いてわたしにもマイクを向けてこられました。打ち合わせなしの出来事だったので、ちょっと戸惑いましたが、わたしはまず、「大重監督、素晴らしい映画を作っていただいて、本当にありがとうございます」とお礼を述べました。

 それから、わたしは「つねに先祖とともに暮らしている人々の姿に感動しました。死者を軽んじる現代の日本人が失ってしまった精神世界です。わたしは、100年前に柳田國男や折口信夫が『日本人の源郷は沖縄にある』と喝破したように、沖縄には日本の初期設定があると思っています。今こそ、『本土復帰』ではなく『沖縄復帰』するべきであると思っています」と述べました。スカイプの中の大重監督が笑顔で「ありがとう」と言われ、わたしの胸は熱くなりました。

 その4日後となる9日、わたしは小倉駅から「のぞみ16号」に乗って京都駅へと向かいました。京都大学稲盛財団記念館で開催される東日本大震災関連シンポジウム「こころの再生に向けて〜5年目を迎えた被災地の『復興と現実』」に参加したのです。ここでもTonyさんにお世話になりました。玄侑宗久さんにも久々にお会いできて嬉しかったです。

東日本大震災関連シンポジウムのようす

東日本大震災関連シンポジウムのようす刊行された『永遠葬』と『唯葬論』

刊行された『永遠葬』と『唯葬論』
 そして、大重監督がこの世を卒業された22日には『永遠葬〜想いは続く』(現代書林)が、翌23日には『唯葬論〜なぜ人間は死者を想うのか』(三五館)が発売されました。ともに「死者を想う」ことの大切さを訴えた本です。もうすぐ、Tonyさんとの共著である『満月交遊 ムーンサルトレター』上下巻(水曜社)が刊行されます。5年分の「ムーンサルトレター」をまとめた内容ですが、大重監督はいつも「ムーンサルトレター」を楽しみに読んで下さいました。同書が刊行されたら霊前に捧げたいと思います。今夜は、幻想的なブルームーンを見上げながら、大重監督の魂の行方を想うことにいたします。

2015年7月31日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 故大重潤一郎監督の葬儀について、格別のご厚意をたまわり、心より感謝申し上げます。またブログなどでいち早くご紹介くださり、たいへんありがたく思いました。わたしは「お別れ会(いわゆる告別式)」のあとすぐにNPO法人東京自由大学の夏合宿で、7月28日から31日まで久高島に行っており、昨日そのまま上京し、今、国立音楽大学音楽療法夏期講座に参加していて、その会場で今回のムーンサルトレターの返信を書き始めました。

 NPO法人東京自由大学の夏合宿は1年前からプログラムが決まっていて、7月28日の夜には「久高オデッセイ第一部 結章」、29日には「久高オデッセイ第二部 生章」、31日には「久高オデッセイ第三部 風章」の上映会を行ないました。NPO法人東京自由大学の参加者28名に加えて毎日40〜50名の方々が観に来てくれました。特に島のオバアたちがたくさん観に来てくれたことが何よりもうれしく思いました。また、久高小中学校の前校長の兼島景秀現南城市立船越小学校長先生も観に来てくれ、心の籠った感想・コメントを寄せてくれました。本当に有難く嬉しく思いました。2日目の29日には、久高区長さんが映画上映の島内有線放送をして協力してくれました。それにより、大勢の方々に観ていただけたことが何よりの大重さんへの供養になったと思います。人口実数が150人ほど小さな島ですので大変有難いことでした。久高島では連日美しい朝日を拝しました。

 7月27日の大重潤一郎監督を「偲ぶ会」と翌28日の「お別れ会」、ともにとても心の籠った会となりました。大重さんの業績と人柄を讃え、「偲ぶ会」では参列者のみなさんお一人お一人に大重さんとの関わりや思いを語っていただきました。そこで、スギさん(杉崎さん)によるジャンベの演奏、純天人(西尾純)さんによるコンテンポラリーダンスの即興舞踊があり大変賑々しくも盛り上がりました。わたしも最後に神道ソング2曲「も一度君に逢えるなら」「永訣の朝」を歌いました。

 28日のお別れ会では、大重潤一郎さんの弟の鹿児島市在住の大重徹郎さんと沖縄在住の建築家の真喜志好一さんと久高島在住の内間豊さんに最後の別れの言葉を述べていただきました。そして、17時半の最終の船で久高島に渡り、NPO法人東京自由大学の参加者29名と島のオバアのみなさんたち50名ほどのおよそ80名ほどで、19時から「久高オデッセイ第一部 結章」を観賞したのでした。そして、終了後、内間豊さんに挨拶していただきました。また、20時半過ぎから21時半まで内間豊さんを囲んでいろいろと話を伺いました。

 そして29日は、朝食後、9時から内間豊さんに案内されて、みんなで久高島を巡り、今は大重潤一郎監督の遺作となった「久高オデッセイ第三部 風章」にも重要人物として出演する内間映子さん(内間豊夫人)の指導により離島振興センターで草木染めの実修をしました。参加者はみんな大喜びでした。

 この7月27日の「偲ぶ会」と28日の「お別れ会」のことを、Shinさん(佐久間庸和サンレー社長)が以下のブログで紹介してくれました。本当にありがとうございます。

大重潤一郎監督を「偲ぶ会」
http://d.hatena.ne.jp/shins2m+tenka/20150728/p1

 大重潤一郎監督との「お別れ会」
http://d.hatena.ne.jp/shins2m+tenka/20150728/p2

 「久高オデッセイ第一部 結章」(2006年製作)と「久高オデッセイ第二部 生章」(2009年)助監督で、沖縄大学准教授・地域研究所副所長の映像民俗学者須藤義人さんの「琉球新報」2015年7月28日朝刊掲載の追悼文と、28日の「お別れ会」で奏上した「大重潤一郎大人之命に捧げる別れの言葉」をレターの一番下に貼り付けておきます。

 5月28日に女優の鶴田真由さんを案内して久高島に渡り、ほぼ1ヶ月後の6月21日に「久高オデッセイ第三部 風章」久高島初上映会で島に渡り、確かな手ごたえを得、それを踏まえて7月5日、東京両国のシアターΧで上映会&シンポジウムを行ない、300席で満員のところに316人もの方々が観に来てくれたのでした。まことに申し訳ないことながら、定員一杯で20名ほどお断りせざるを得ないような凄い反響でした。

 映画監督の篠田正浩さんや詩人の吉増剛造さんも観に来てくれて、絶賛してくれました。本当にたくさんの方々から絶賛の讃辞が届いています。それをリアルタイムで大重さんに伝えましたが、大重さんは7月10日に容体が悪化しました。急ぎ、予定変更して、7月20日から23日まで沖縄に駆けつけ、看病の手伝いをしている間に、「久高オデッセイ第一部 結章」監督補佐をした一人息子の大重生さん、第一部と第二部の助監督の須藤義人さん、伊豆有加さんとわたしの4名が見守る中で、大重さんは静かに息を引き取りました。スーッと息をしなくなり、とても静かな最期でした。

 いったん京都に戻り、仕事をこなして、7月27日の「偲ぶ会」、28日の「お別れ会」、そして同日から31日までのNPO法人東京自由大学の久高島夏合宿のために沖縄に再度渡りました。5月から7月末までの間に4回、沖縄に行ったことになります。9月11日から15日までに京都大学でのポケゼミ「沖縄・久高島研究」のために4泊5日でまた久高島に渡るので、この間、集中的に沖縄・久高島行きが続いています。これも大重さんがもたらしてくれた最期の縁です。

 今回、大重潤一郎さんの弟さんと初めてお会いすることが出来ました。そこでいくらかは聞いていた大重さんの幼少期のエピソードを弟さんからさらに詳しく聞いて、なるほどと納得するところが多々ありました。

 まず、大重さんは10歳の時にお母さんを亡くしますが、その後、後妻として入った継母にどうしても「お母さん」と言うことができなかった、そのことが大重さんの人生にある一つの重りを作っていると再認識しました。当時6歳であった三男の弟さんは素直に「お母さん」と言うことができたけれど、長男である大重さんと二男の方はそれが言えなかったということでした。

 高校1年だったか2年だったかのある日、大重さんは、家族の止めるのも聞かず、一人桜島の北岳に登ったそうです。南岳は常時噴火していたので、もちろん登ることはできませんが、北岳も危険地帯で登ることができなかったのです。それを禁止を破って、単独登山したのです。ズボンに蝋を塗って防水にして。これも危険を顧みず突進する「大重弁慶」の姿を示すものとして、心に残りました。

 大重さんは鹿児島市の甲南高校に進みましたが、ほとんど学校には行かず、毎日鞄をどこかに置いて映画館に入り浸ったとのことです。その時、大重さんが好きだった映画は何だったのですかと聞きましたら、「よくわからないけど、『西部戦線、異状なし』とか観ていたように思う。」とのことでした。

 後に作家となった宮内勝典さんは大重さんの1年先輩で、大重さんがとてもいい短歌を作っていたので、スカウトして一緒に『深海魚』という文芸同人誌を作ったのですが、「大重さんに洋画の面白さを教えたのは俺なんだよ。」と宮内勝典さんは、7月5日の上映会&シンポジウムの時の楽屋話で語ってくれました。

 もう一つ。大重さんは、甲南高校では落第生で、高校三年時に国分高校に転校しました。そして、大学受験して法政大学に合格したので、父親から入学金や授業料などをもらって、それを握ったまま、大学には行かず、映画界に入り、岩波映画で助監督になっていったとのことでした。

 無軌道な「大重弁慶」の青春残酷物語は心に染み入るさまざまなエピソードとスピリチュアル・ペインを与えてくれます。大重さんの繊細さと豪胆さは、生まれつきの性格ももちろんあるでしょうが、その風土と経験が彫琢したものなのでしょう。類稀なる感性を持った映像詩人大重潤一郎物語をわたしは弟さんの口から直接聴き取ることができました。

 30日の夜、第三部上映会後のミーティングが終わり、参加者全員が感想なりを話した後、わたしは一人で伊敷浜に出ました。14夜のお月様が煌煌とまたたいていました。沖を見ると、イノーの向こうのリーフの上に白波が立つのですが、それが北から南へ、つまり左から右へ、金の蛇のようにうねりながらスーッと走っていくのです。それはそれは途轍もなく神秘的な光景で、金色の宇宙船の飛行か、金龍の飛翔か、金蛇の疾走かを思わせました。また浜辺に近いところの白波も満月近い月光に照射されて、巨大な蛍のようにピカピカと光り輝くのでした。もう20回近く久高島に通っていますが、こんな神秘的な光景を見たのは初めてでした。「金龍海」体験!

 そしてそこで、14夜の月に向って法螺貝を吹き鳴らし、「大重弁慶、ありがとう! 大重弁慶、ありがとう! 大重弁慶、ありがとう!」と三回大声で叫びました。それがわたしの大重さんとの真のお別れ会でした。たった独りの。

 大重さんの看取りや葬儀で慌ただしくしていたその間、政治状況は安保法制の大反対運動が各地で展開されており、無理やり成立させようとしている政権与党に対する反発は相当高まっています。この数年、「三省祭り」を継続してきて、今年からは「三省・大重祭り」をやろうとしているわたしは非暴力不服従の立場ですが、ガンディーのそれが「サチャグラハ(真理把握)」と「アヒンサー(不殺生)」の哲学と信念に基づくように、その立場は揺るぎのない信念と信仰が定立していなければ維持貫徹が困難なものだとも肝に銘じています。

 ガンディーは述べています。

「殺さないというだけの意味でしかない非暴力は、私には何ら訴えるものがありません。もし心に暴力があるなら、暴力を振るう方が、無力を隠すために非暴力の外套をまとうよりもましです。いかなる時でも、無力を嘆くくらいなら暴力を振るう方が好ましいです。暴力的な人が非暴力的になる希望はありますが、無力なままでいる人にはその希望もありません。真実とアヒンサー(不殺生)をただ機械的に支持するだけでは、危機的な瞬間がくると挫けてしまう可能性が高いです。果実を期待して断食をする者は、概して失敗します。」

「サテャーグラハ(真理の宣示)は決して報復を支持しません。破壊が良いことではなく、改心が良いことだと信じるからです。サテャーグラヒ(真理の信奉者)の武器は愛です。そして揺らぐことのない確かさがその愛から生まれるのです。隣人愛がなければ、つまり、人が溢れんばかりの隣人愛で満たされていなければ、アヒンサー(不殺生、非暴力)の実践は不可能です。殴られても、花束をもらったように受け取ることができるような心で敵対者と接する人にのみ、それはできることです。そのような人がたった一人であったとしても、神が彼に手を差し伸べるならば、その人は一千人分の働きが可能です。つまり、最も高度な魂の力、道徳的勇気が求められているのです。真に勇敢であれば、そこには敵意、怒り、不信などの入りこむ余地はありません。死や肉体的苦痛に対する恐れもありません。このような本質的な特性に欠けている人々は決して、非暴力を自分のものとすることができません。神への生きた信仰なくして、真実や非暴力を実現することは不可能です。というのも非暴力の抵抗者は、神の無限の助けを信頼しているからです。神は困難な中でずっと支えてくださいます。出来事の中で目に見える効果が認められなくても、自らの信念を貫く生き方が求められています。自分達の行為がやがては、確固とした結果をもたらすのだと確信すべきであります。どのような困難があろうとも、自らの使命を確信している人は、挫折することがありません。非暴力を自分の中で発展させて行けば行くほど、それは感染力を増します。そしてついには、周囲を飲みこみ、やがて世界中に非暴力の風が吹くようになるでしょう。」

 ガンディー的な「非暴力」の核には「真理把握」や信仰や超越的契機があります。それはイデオロギーではなく、「啓示」「開示」「黙示」「召命」「使命」なのです、ガンディーにとって。

 スパイラル史観や現代大中世論を提唱してきたわたしは、平成に元号が変わった時点で、「兵制」になっていくなどと言い触らしては失笑を買ってきました。ですが、わたしが本当に一番恐れているのは、気象変化です。どのように地球の気象が変化してくるのか、それによって生物界や人間世界にどのような変化がもたらされるのか、予測がつきません。というよりも、激変する可能性が高いのではないかと思っています。日本列島に引き付けて言うなら、富士山の噴火、南海トラフの大地震、各地の火山の噴火活動、地球のいのちのいぶきがこれまでになく雄叫びを上げるに違いないと思っています。その変化に対して何をどのような準備ができるのか、それを日々考え、実践していきたいと思っています。まもなく出版される『満月交遊』(上下)も、そのことを繰り返し語っています。

 来週、わたしは出雲に参ります。その後、北海道と福島に参ります。和合亮一さんたちが主催する「ふくしま未来祀り」に参加します。9月には九州、高野山、久高島に参ります。自分ができることは小さなことでしかありませんが、先ずはその小さなことに心を尽して、一つひとつ丁寧に関わっていきたいと思います。今日から始まった国立音楽大学音楽療法夏期講座もその一つです。

 いつまで生きられるかわかりませんが、今後ともよろしくお願い申し上げます。最後になりましたが、Shinさんの新著『唯葬論』、傑作ですね!

 2015年8月1日 鎌田東二拝


2015年7月28日付け 琉球新報朝刊記事:須藤義人「大重潤一郎氏を悼む」

2015年7月28日付け 琉球新報朝刊記事:須藤義人「大重潤一郎氏を悼む」
大重潤一郎大人之命に捧げる別れの言葉 2015年7月28日  鎌田東二

 大重潤一郎大人之命のみたまの大前に慎しんでお別れの言葉を申し上げます。

 2015年7月22日(水)15時50分、大重潤一郎さんの呼吸が止まりました。その後、15分以上心臓は動いていました。那覇赤十字病院の主治医の豊見山先生が死亡を確認してくれたのが、16時41分。その場に、一人息子の大重生さん、須藤義人さん、堀田泰寛さん、比嘉真人さん、伊豆有加さん、坪谷令子さん、吉野千鶴さん、わたしの八名がいました。大重さんは最後の最後まで本当によく頑張ってくれました。ユーモアもありました。そして最後まで煙草を手放しませんでした。それは、単なるたばこ好きというだけでなく、男の美学、ダンディズムだったのかもしれません。

 亡くなる2日前、大重さんと死について話を交わしました。大重さんは、「若い頃は、死が恐かった」と言いました。だが、ある時から死が恐くなくなったとも。そしてその死が恐くなくなった時の体験を詳しく語ってくれました。ある日、大重さんの奥さんとなった敦子さんと清水寺を参拝し、音羽の滝を見、その後満天の星を眺めた時、不思議と死が恐くなくなったのだと。とても美しい一篇の詩のような話でした。大重さんはこの時、いのちの循環と永遠を感じとったのではないかと思いました。そしてそのような永遠を前にしたとき、死の恐怖から解放されたのだと。そしてその永遠の感覚が大重さんの遺作となった「久高オデッセイ第三部 風章」には実にリリカルに表現されています。

 大重さんは、亡くなる前日の朝方から「起きたい、歩きたい、聖者の行進をする」と言って、何度も起きようとし、周りの者をてこずらせました。気をそらすために、大重さんが京都のわが家にプレゼントしてくれた金柑のことを話したら、ニコニコ笑いながら、「金柑はいいなあ〜。かまっさん、緑の葉っぱが欲しいよ。」と言うので、「家から送ってもらうから後二日待って」と答えると、「わかった。わかった。」と言ってくれました。それが最期の会話となり、その後しばらくして昏睡状態に入り、7月22日午後4時にみんなが見守る中、大重さんは立派に「聖者の行進」をしてニライカナイに渡っていったのでした。

 大重潤一郎大人之命は、1946年3月9日に鹿児島県鹿児島市天保山で、薩摩半島の南端の港町坊津に出自を持つ一族大重家の長男に生れました。海の一族の末裔に生れ、生涯海を愛し、海のエロスに感応しながら、ニライカナイに憧れ、「海人(ウミンチュ)」として生き抜いた大重さんは、十歳の時に母を亡くしました。スサノヲノミコトがそうであるように、母への思慕が大重さんの生を突き動かす根源の原動力であったように思います。

 その大重さんは、岩波映画で記録映画のワザを学び、1970年に『黒神』を製作し、映画界にデビューを果たします。その独創的な作品は、黒木和夫監督に「十年早い傑作」と称されたそうですが、10年どころか、45年早い傑作だったと言って過言ではありません。2011年3月の東日本大震災後、「黒神」を観て、大重さんの観てきたもの、追求してきたものが実に一貫していることに改めて驚き、心から敬服したものでした。

 大重さんは、処女作の「黒神」から、遺作の「久高オデッセイ第三部 風章」まで、一貫して、大自然の中で慎ましくも逞しくけなげに生き抜いていくいのちの輝きと祈りと祭りとエロスを描いてきました。「気配の魔術師」大重潤一郎の水の、風の、空気のエロティシズムは、澄明で永遠性を感じさせるリリシズムを横溢させています。

 「久高オデッセイ」という名称に象徴されているように、大重さんは「オデッセイ」を歌う吟遊詩人でした。映像の詩人、視覚の抒情詩人でした。
 1995年、阪神淡路大震災が起きた時、大重さんは神戸に住んで、大阪に事務所を構えていました。その日その時刻、大重さんは大阪の事務所にいました。そこから急ぎ、家族の住む神戸の自宅に向かいましたが、電車が途中から動きません。大重さんは電車を降りてひたすら神戸に向かって歩きました。高速道路がへし折れ、ビルも民家も倒壊し、粉塵が上がり、どこもかしこも無秩序な瓦解した世界。それは黙示録的な終末世界のようでした。

 大重さんはその中を歩いて、神戸市中央区北野のわが家まで帰りました。その阪神淡路大震災を体験した後、大重さんは猛然と「光りの島」の編集に取りかかり、完成させます。震災で廃墟のようになったアスファルトからタンポポが芽を吹き出す。花好きの大重さんはそのタンポポを見逃すことはありませんでした。この地面の下には縄文時代から続いているいのちが埋蔵されている。大重さんの野生の感覚、生命感覚はそう告げたのです。それを取り戻すのだ。

 「光りの島」は大重さんにとって、廃墟となった神戸とポジとネガの関係にあるいのちの発露です。そこに大重さんの死生観が表出されています。
 主演者の上條恒彦さんが八重山諸島のアラグスク島に入っていきます。そしてこの島の光と風に晒され、見えないモノを視、聴こえない声を聴き、「いのちの帰趨」に触れていいきます。無人島の寂しい島に渡った「わたし」は、「いのちの根源」である「母の声」を反芻するのです。

 大重さんは、どんな気持ちで、阪神淡路大震災が起こったこの1995年に集中的に「光りの島」を編集し完成させたのでしょうか? その2年半後にわたしは初めて大重さんと出逢い、1998年8月8日に神戸メリケンパークで「神戸からの祈り」という鎮魂供養のコンサートイベントを行ないました。その後共に「東京自由大学」を立ち上げ、NPO法人となった時には大重さんに「副理事長」になってもらいました。この17年間、同志として共に生き抜いてきたと思っています。

 その後、大重さんは2002年に沖縄に移住し、比嘉康雄さんの遺志を継いで、途中脳出血で倒れ、17回も肝臓癌の過酷な手術に耐えながら、「久高オデッセイ」三部作を12年かけて見事に完成させました。その偉業は、大重さんでなくては成就できないものだったと心の底から思います。

 カトリックの司祭で上智大学教授でもあった故トマス・インモースさんは、「詩人の存在意義というのは、太古からの人間の普遍的な体験を言葉で表現するところにある。」「詩人は彼個人の哀しみや歓びを、それが人間的普遍性をもつような形に凝固させなければならない。詩人の魂には、その民族、その宗教、いえ、全人類の集合的記憶が蓄えられている。」と述べていますが、その言葉は映像の詩人大重潤一郎の姿を表わすのにぴったりの言葉です。

 また、大重さんが2001年に製作した『ビックマウンテンへの道』でナレーターを務めてくれた屋久島に住む詩人の故山尾三省さんは、「詩人というのは、世界への、あるいは世界そのものの希望(ヴィジョン)を見出すことを宿命とする人間の別名である。」と言っていますが、まさにそれは大重潤一郎を形容するのにふさわしい言葉でしょう。

山尾さんは、「祈り」と題する詩の中で、
   「祈りのことばは
   わたくしが 人間としてたどりついた
   最初のことばにすぎないが
   最終の ことばでもある」
と書いてくれましたが、遺作となった『久高オデッセイ第三部 風章』は、まさに大重さんが辿り着いた「最終のことば」としての「祈り」であったと思います。

 すべてのいのちを「久高オデッセイ」三部作に託して、大重潤一郎大人之命は、ニライカナイへと旅立っていきました。その思う存分生き抜いた一貫した見事な人生に、心からの敬意を表するとともに、「大重弁慶、あっぱれ!」と称えます。大重さん、これが今生の別れとなります。心から大重さんへの感謝と敬愛の念いを捧げます。

   神ながらたまちはへませ 神ながら
   神ながらたまちはへませ 神ながら
   神ながらたまちはへませ 神ながら