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シンとトニーのムーンサルトレター 第123信

 

 

 第123信

鎌田東二ことTonyさんへ

 いま、「月見会」から戻ったところです。北九州市八幡の猪倉の染織工房で開催された「北九州のヤクザな文化人の会」という秘密結社(笑)の月見会です。あいにくの雨でお月さんを拝むことは叶いませんでしたが、染織家の築城則子さんの手料理と美味しいお酒を味わいながら、みなさんとの会話を楽しんできました。

 Tonyさんはお変わりありませんか。ようやく暑い8月が終りましたね。8月は、日本人にとって慰霊と鎮魂の季節です。というのも、6日の広島原爆の日、9日の長崎原爆の日、12日の御巣鷹山の日航ジャンボ機墜落事故の日、そして15日の終戦の日というふうに、3日置きに日本人にとって重大な意味のある日が訪れるからです。そして、それはまさに「お盆」の時期と重なります。今年は終戦70周年という大きな節目の年であり、日本中が死者を想い、平和を願いました。

 特に、わたしは9日の「長崎原爆の日」には格別の想いがあります。70年前のこの日、広島に続いて長崎に落とされた原爆は、本当は小倉に落とされるはずでした。毎年、サンレー本社の朝礼では、わたしが小倉原爆についての話をします。その後、社員全員で長崎原爆の犠牲者に対して黙祷を捧げるのです。しかし今年は日曜で本社が休みなので、黙祷ができませんでした。

 その日、わたしは小倉の勝山公園で行われた式典に参加しました。昭和20年8月9日、長崎に投下された原爆の第一目標が小倉だったことに思いを馳せ、例年この日に原爆犠牲者慰霊平和祈念碑前(小倉北区勝山公演内)において、「北九州市原爆被害者の会」の主催(北九州市:共催、北九州市教育委員会:後援)で祈念式典が開催されています。70年目の節目となる今年、民間企業の代表として1人だけわたしが来賓としご招待を受けました。もう10年以上も、新聞各紙に「小倉に落ちるはずだった原爆」「長崎にこころからの祈りを」のメッセージ広告を掲載し続け、啓蒙に努めてきたことが認められたのではないかと思っています。

 式典の最後に、わたしは献花用の花を受け取りました。心を込めてその花を献じ、原爆犠牲者慰霊平和祈念碑に水を丁寧にかけ、数珠を取り出して犠牲者の御霊に対して心からの祈りを捧げました。そして、わたしは万感の想いを込めて「長崎の鐘」を鳴らしました。その鐘の音は、魂に響き渡るような気がしました。わたしは「長崎の鐘を鳴らせば この命いま在る奇跡 涙こぼるる」という歌を詠みました。

原爆犠牲者慰霊平和祈念碑への灌水

原爆犠牲者慰霊平和祈念碑への灌水長崎の鐘を鳴らす

長崎の鐘を鳴らす
 「献花・灌水・鳴鐘」を終えたわたしは、再び遺族会の方々に一礼しました。灌水用の水ですが、長崎の水・北九州の水・広島の水が合わさったものでした。わたしは、それを見て魂が揺さぶられる思いがしました。以前に観た「ヒロシマナガサキ」という映画で、ある被爆者が「きのこ雲というのは嘘です。近くから見たら、あれは雲などではなく、火の柱そのものでした」と語ったのが強く印象に残りました。火の柱によって焼かれた多くの人々は、焼けただれた皮膚を垂らしたまま逃げまどい、さながら地獄そのものの光景の中で、最後に「水を・・・」と言って死んでいったそうです。

 考えてみれば、鉄砲にせよ、大砲にせよ、ミサイルにせよ、そして核にせよ、戦争のテクノロジーとは常に「火」のテクノロジーでした。沖縄戦で「ひめゆり」の乙女たちを焼き殺した火焔放射器という兵器もありました。地獄と同じく、戦争の本質は火なのだと思います。戦争の本質が火なら、平和の本質は水ではないでしょうか。わたしは、「長崎の水」「北九州の水」「広島の水」と書かれたポリバケツを見て、金沢の結婚式で行われる「水合わせの儀」を思い出しました。両家から持ち寄った水を合わせるというセレモニーなのですが、まさに「結婚は最高の平和である」というわが理念を見事に体現したカタチであると思います。わたしは、ふと、「チグリス・ユーフラテス河の水」「ナイル河の水」「インダス河の水」「黄河の水」を合わせた世界平和のセレモニーをやればいいのではないかと思い立ちました。この人類史的平和セレモニー、いつか必ず必現したいと思います。

 それから、15日も忘れられない一日になりました。70回目の「終戦の日」を迎えたこの日、わたしは東京の九段にある靖国神社を参拝しました。『唯葬論』(三五館)と『永遠葬』(現代書林)の2冊の新刊を持参しました。

 昨年は参拝までに約30分待ちましたが、今年ははるかに参拝者の数が多かったです。その間、正午からは黙祷も行われました。そして、待つこと1時間以上、ようやく、わたしが参拝する順番が回ってきました。拝殿には「国のため命 ささげし人々の ことを思へば 胸せまりくる」という昭和天皇御製が掲げられていました。昭和34年の千鳥ヶ淵戦没者墓苑にて詠まれた歌です。70年前、昭和天皇の苦悩はいかばかりだったでしょうか。わたしは、安倍首相の公式参拝はもちろん、本来は天皇陛下がご親拝をされるべきだと思っています。二礼二拍手一礼で参拝すると、とても心が澄んだ感じがしました。

 神道は日本宗教のベースと言えますが、教義や戒律を持たない柔らかな宗教であり、「和」を好む平和宗教でした。天孫民族と出雲民族でさえ非常に早くから融和してしまっています。まさに日本は大いなる「和」の国、つまり大和の国であることがよくわかります。神道が平和宗教であったがゆえに、後から入ってきた儒教も仏教も、最初は一時的に衝突があったにせよ、結果として共生し、さらには習合していったわけです。

 宗教学者エリアーデは、「日本人は、儒教の信者として生活し、神道の信者として結婚し、仏教徒として死ぬ」と述べましたが、そういった日本人の信仰や宗教感覚は世界的に見てもきわめてユニークです。わたしは、靖国神社の拝殿脇において、「大戦(いくさ)より過ぎし月は七十年(ななととせ)和を求めんと誓ふ靖國」という歌を詠みました。

 それから、わたしは皇居へ向かいました。なぜ、わたしは戦後70年を迎えた日に、靖国から皇居に向かったのか? それは、70年前のこの日、日本の敗戦を知った人々が驚きと悲しみのあまり皇居の二重橋前の広場に集まったからです。「どうしても皇居に行かなければ!」と改めて思いました。

 わたしは、しばらく二重橋を眺め、昭和天皇をお偲びしました。歴代124代の天皇の中で、昭和天皇は最もご苦労をされた方です。その昭和天皇は、自身の生命を賭してまで日本国民を守ろうとされたのです。昨年の「終戦の日」、わたしは二重橋を眺めながら謹んで「大君の心しのびて二重橋 あの長き日は遠くなりけり」という歌を詠みました。そして、今年は万感の想いを込めて「日の本に平和のこころ戻したる玉の音より早七十年」という歌を詠みました。

終戦70周年の日に、靖国神社で

終戦70周年の日に、靖国神社で終戦70周年の日に、皇居・二重橋で

終戦70周年の日に、皇居・二重橋で
 天皇陛下の最も大切な仕事とは何でしょうか。それは、「国の平和と国民の安寧を願って祈られる」という仕事です。天皇陛下とは、日本で最も日本人の幸福を祈る人です。東日本大震災が起きたときも、昭和天皇の「終戦の詔書」以来となる復興の詔勅としての「平成の玉音放送」を行われました。また、世界史にも他に例がないほどの回数の被災地訪問をなされました。そして、心から被災者の方々を励まされたのです。

 これからも日本列島を地震や津波や台風が襲うたびに、天皇陛下はきっと「すべての日本国民が無事でありますように」とお祈りになられることでしょう。わたしたちは、日本という国が生まれて以来、ずっと日本人の幸福を祈り続けている「祈る人」の一族があることを忘れてはなりません。

 終戦70周年を記念して製作された2本の映画を観ました。松竹の「日本のいちばん長い日」]と東映の「この国の空」です。この2本は相互補完するような内容でした。「日本のいちばん長い日」ではポツダム宣言を受諾すべきかどうかと鈴木貫太郎首相をはじめとした閣僚たちが閣議で議論しますが、「この国の空」ではその頃の東京の庶民の生活が描かれています。

 「日本のいちばん長い日」は、昭和天皇と阿南惟幾陸相の心の交流に胸を打たれました。皇居の防空壕で開かれた臨時閣議の後で、阿南は天皇から呼び出されます。何事かと緊張する阿南に対し、天皇は阿南の娘の結婚式が無事に開けたかと問います。じつは阿南の長女が帝国ホテルで結婚披露宴を行う予定でしたが、空襲で帝国ホテルが休業に追い込まれたと聞き、天皇が心配して阿南に問うたのです。阿南は「九段の軍人会館で無事に行うことができました」と報告するのですが、天皇がそんな自分のプライベートな事にまで心配してくれることに感激し、「この方のために命を捧げよう」と思ったのでしょう。

 しかし、昭和天皇は阿南のどうでもいいプライベートな事を心配したわけではありません。愛娘の結婚式という重大事だから心配したのです。阿南の長女とその婚約者は「時節柄、婚礼は延期したほうがいいのでは?」と言いますが、阿南は「いや、こんな時節だからこそ、しっかりと結婚式を挙げておきたいんだ」と言います。このシーンは、結婚式が「人の道」であり、時代を超えた最優先事であることを雄弁に語っています。もちろん、葬儀も「人の道」です。昔の人たちは、冠婚葬祭の意義と重要性をよく理解していたことを知り、わたしは感動しました。

 「この国の空」にも、主人公の里子の親戚の女性が結婚式を挙げる場面が登場します。戦時中は新婦はモンペ、新郎は国民服が原則だったといいますが、実際はそれなりの立派な姿で結婚式を挙げたようです。当時の人々にとって「人の道」としての冠婚葬祭がどれほど重要なものであったかを再確認しました。戦況が緊迫し、空襲警報が鳴り響く時節であっても、人々は結婚式を堂々と行っていたのです!

 また「この国の空」を観ると、好き嫌いにかかわらず、当時の人々は困っている親類縁者の面倒を見ていました。また、近所の人々とも仲良く暮らしていました。まさに柳田國男が悲壮感をもって『先祖の話』を書いていた頃の東京には血縁、地縁がまだ生きていたことを知り、感慨深いものがありました。しかし、これから約50年後には血縁も地縁も希薄化して、「無縁社会」と呼ばれるような状況になっていきます。

 戦後70年を迎えた今こそ、日本人は「死者を忘れてはいけない」「死者を軽んじてはいけない」ということを思い知るべきであると思います。柳田國男のメッセージを再びとらえ直し、「血縁」や「地縁」の重要性を訴え、有縁社会を再生する必要がある。わたしは、心の底からそのように思っています。

 わたしは「家族葬」「直葬」「0葬」といった一連の薄葬の流れに対抗すべく、『唯葬論』および『永遠葬』を書きました。1人でも多くの日本人に読んでいただきたいと思っています。終戦70年を迎えて、「天下布礼」への想いはさらに強くなりました。

 9月には、Tonyさんとの共著である『満月交遊 ムーンサルトレター』上下巻(水曜社)がついに刊行されます。この本の出版を機に、「楽しい世直し」がさらに進むことを願っています。それでは、次の満月まで!

2015年8月30日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 今日は8月の終わり、今年の夏休みも終わりですね。わたしの方は、夏休みと言っても、普段は、ほとんどまったくと言っていいほど休みがなく、飛び回っているのですが、今年は7月27日〜28日の、貴サンレーの豊崎紫雲閣での大重潤一郎さんの葬儀の後、すぐにNPO法人東京自由代学の久高島合宿をした際に強烈な冷房に当たって夏風邪を引き、それをこじらせ咳が止まらなくなり、養生を余儀なくされたので、「服喪」状態でした。こんな出歩かなかった夏は初めてかも知れません。

 が、お盆明けに「服喪」を解き、始動し始めました。まず、東山修験道で2度比叡山に登拝し、北海道で市川きみえさんの助産院「バースカムイ」開院記念シンポジウムに参加し、福島で詩人の和合亮一さんたちが始める「ふくしま・未来の祀り」の神楽シンポジウムに参加し、そして、昨日、8月29日に、NPO法人東京地涌大学主催の「大重潤一郎監督を偲ぶ会」を催しました。大重監督と50年の交流のある映画人のみなさんを含め、46名の方が参加してくれました。高校時代からの友人の宮内勝典さん・喜美子夫妻も参加してくれました。その古くからの友人諸氏のみなさんの大重さんとの交友の話はどれもこれも一つひとつ面白くかつ味わい深く貴重なものでした。

 昨日の「大重潤一郎監督を偲ぶ会」の概要は次のようなものでした。

特別企画 大重潤一郎監督を偲ぶ会

7月22日(水)に亡くなった、「久高オデッセイ」三部作の監督であり、東京自由大学副理事長であった、大重潤一郎監督を偲びます。

大重潤一郎「大重潤一郎」

日時: 2015年8月29日(土)14:00〜19:30
場所: NPO法人東京自由大学(東京都千代田区神田紺屋町4 TMビル2階)

第一部

開会の挨拶
口上 鎌田東二
偲び言(想い出など)市東宏志さん(岩波映画および「黒神」助監督時代から)、板谷恒男さん(岩波映画および「黒神」助監督時代から)、太刀川潤さん(JSP、1985年頃から)、三木實さん(岩波映画時代から)、高尾正克さん(NHKエンタープライズ)、堀田泰寛さん(カメラマン)、四宮鉄男さん(映画監督、岩波映画時代から:代読)、宮内勝典さん(作家、鹿児島市甲南高校時代から、『深海魚族』同人仲間)など

第二部 大重潤一郎監督を偲ぶ映像

映像「神戸からの祈り」(1998年8月8日、神戸サンテレビ放送、45分、大重さんは「神戸からの祈り」という催しの神戸実行委員長、鎌田東二は代表)
「縄文革命」20分(2003年製作「古層三部作(『縄文』『ビックマウンテンへの道』『魂の原郷+」プロモーション映像:大重潤一郎+鎌田東二)
「久高オデッセイ第三部 風章」冒頭10分

第三部 交流会

スピーチ:古橋結さん(奄美三線、歌)、関口亮樹さん、久遠君(陀羅尼、法螺貝)、秋葉さん(大重さん、堀田さんの助手)、半谷さん(JSP時代、「死は近代化しない!」と書いたものを貰った)、溝口誠さん(岩波、「黒神」撮影)、長谷川公道さん(電通)、宮内貴美子さん(宮内夫人)、高橋あいさん(写真家)、井上きゆきさん(東京自由大学前事務局長)、酒井孝さん(東京自由大学元事務局長)、鳥飼美和子さん(東京自由大学運営委員長)、岡尾恵美子さん(東京自由大学前運営委員長、「久高オデッセイ第三部 風章」制作実行委員会事務局長)、鎌田東二閉めの挨拶

 この第一部の「偲び言」の中で大重さんとの交友や思い出がたっぷりと語られ、大重さんの岩波映画時代のことやJSP (Japan Science Planning)時代のことがいろんな角度から披露され、大重さんの人柄と思想性が滲み出ました。板谷恒男さんは、大阪能勢における「ナイキ」ミサイル基地建設反対運動の記録映画『能勢』(自主映画、1972年)の助監督を務め、そのシナリオを左派系にまとめると、日本共産党から強い批判を受け、映画がお蔵入りになったことを話されました。このことは初めて知りました。

 未完作品『天の川』では主演に矢沢永吉を構想し、やはり未完作品の『かりゆしの海』では喜納昌吉を主演に構想していたということが宮内喜美子さんと堀田泰寛さんの当時の回想からわかりました。宮内喜美子さんが、大重さんが宮内勝典さんに脚本の助っ人をお願いしていた時期にことを話してくれた後、堀田泰寛さんが実はそれは『かりゆしの海』でその脚本を持ってきている、そしてその主人公は喜納昌吉を考えていたということを補足したのです。確か、そんなことを、宮内勝典さんだったか、大重潤一郎さんだったか、どちらかから聞いたような記憶もありますが、すっかり忘れていました。そして、偲ぶ会が終わった昨日の夜遅く、独りしみじみと大重潤一郎脚本・監督の劇映画『準備稿 かりゆしの海』(仮題)を読みました。3ページ目には、「撮影 堀田泰寛」「録音 マイケル市川」「助監督 山本常夫」とありました。これは、1978年に書かれたもののようです。

 物語の構成は、大変大重さんらしく、まったく派手さも外連味もない地味そのものの映画で、「縄文」「母・母性」「自然」というキーテーマが繰り込まれていました。

 鹿児島県出身らしい主人公「仲村裕造」(28歳)は東京の下町の佃で運送業の仕事をしながら、鬱屈した日々を過ごしています。以前には本の編集の仕事をしていたようなのですが、そのチームが崩壊し、心に傷を負い、都会生活にも馴染めず、ますます乖離感が増してきています。そうした中、仲村裕造は毎夜琉球料理屋「おきなわ亭」に通って泡盛を飲むのを日課としています。というのも、そこで働き始めた沖縄出身の娘「嘉手納夕子」(21歳)に思慕の念を抱いているからでもあります。裕造は、釣り船の船頭をしている夕子の祖父「嘉手納昌栄」と親交を持ち、いろいろと教えを受けたり、島の三味線と歌を習ったりもしているのです。裕造はその昌栄宅で一緒に泡盛を飲み、小魚をつつきながら、昌栄に向ってこう言います。

 「魚なんて買ったことなかった。海に出ればアサリにしても、青ノリにしても、いつでも採りに行けた。鶏だって、何羽も飼って、玉子食べて、大概のことは自分達の手でやっとった。ここらだってそうだったはずだ。」
 「今じゃ、金がないとバッタリ、何にも食えないもんな。やりたいこともやれん。なんでじゃ。……都会じゃタダのもんなんか、何一つ並んどらんもんな。」(13頁)

 その「裕造」は、ある意味で、大重潤一郎さんの若い時の姿です。というよりも、鹿児島出身の大重さんそのものと言えます。文明生活に牙を剥く、「海賊」的な意思を、持っていつかレジスタンスを果たそうとしているギラついた若者。

 「おきなわ亭」で、嘉手納夕子に言い寄る有能商社マンらしき羽振りのよい中年男佐島(35歳)が女将に、沖縄かどこかに石油基地を作る計画のことを漏らし、「今、石油はプールしておけば値がどんどん上る時代だからね。」と言うのを裕造が聞きつけ、血相を変えて佐島に激しくこう言い放ちます。

 「その時の利害しか考えない奴隷! 何でもやりちらかしてあんた等、あとのことを考えたことあるのか。……あんた等の勝手にやることは、のちのち必ずツケがまわってきてるじゃないか……泣かんとならんかったことも多い。おかげでまともに生きられんようになってくる。あんた等、まるで二千年、日本を占領した奴等と同じじゃ。勝手に日本を牛耳ってそれ迄、八千年も続いとった縄文が、今だに埋もれとらんとならん。」(27頁)

 しかし、この仲村裕造の「八千年も続いとった縄文」とか、「まるで二千年、日本を占領した奴等」という声を、高度経済成長に向かう現代日本文明の大都会生活に慣れ切った女将も佐島もまったく理解できなかったでしょう。「縄文?」〜「はあ〜?」、「占領?」〜「はあ〜?」てな感じだったでしょう?

 大重潤一郎さんが貧しさと孤独の中で、「たった独りの闘い」をし続けていたことがよくわかります。基本的にそれは、大重さんのお母さんが亡くなった10歳の時から変わっていないと思います。

 この仲村裕造の「回想」シーンで、恐らく鹿児島県の「田舎」のプラットホームで学生服の裕造と見送りの弟二人(雅雄と拓郎)との別れのシーンが出てきます。別れに際して、裕造は列車の窓から身を乗り出して弟たちにこう言います。「雅雄、拓郎、兄ちゃんは頑張ってくるからな。よう待っとれ。」(34頁)と。

 すると、上の弟の雅雄は「兄ちゃん、腕時計、忘れんでな。」と言い、下の弟の拓郎は「僕はグローブとバット。」と言います。雅雄はさらに、「質流れのじゃないよ。」と加えます。すると、「兄ちゃん」の仲村裕造は、「バカ、まかしとけ、新品な。」と返します。汽笛とともに鹿児島から東京行きの夜行の長距離列車が動き出します。弟たちは、「兄ちゃん、兄ちゃん、手紙を出してよ。」と叫びます。裕造は「泣きだしそうな顔」で「うむ、元気にしとれよ。」と言います。弟たちは「はい、兄ちゃん、兄ちゃん。」と叫び、泣きながら列車に追いすがります。

 この光景は、実際にあった大重さんの経験そのものの表現だと思いました。というのも、大重さんには二人の弟がいます。下の弟さんの名前は「大重徹郎」さんです。そして、大重さんは高校卒業後、法政大学に合格した入学料を持って上京したものの、大学には入学せず、映画を観たり、制作に関わる映画三昧に耽りつづけ、その内に、大映の助監督から岩波映画の助監督になりました。

 この後、大重潤一郎そのものとも言える主人公・仲村裕造が、弟二人と墓参りする「回想」シーンが続きます。墓碑には「仲村悠子三十五才」と刻まれています。大重さんの実母は大重さんが10歳の時に亡くなりましたから、実際にお母さんが亡くなったのも「三十五才」だったと思われます。仲村裕造は弟たちに言います。

 「おまえたちは小さかったから、よう覚えてないかもしれんが……母さんはな、最後は、もう骨と皮になって、手をにぎる力もなかった。……それでも、母さんが死んだら、いい母さんをもらえよって俺達のことばかり心配しとった。どんなに苦しかったかも知れんのに……雅雄、拓郎、……母さんはな、体はああなっても気持は俺達に、あふれ続けとったぞ。最後迄、あふれにあふれて、あふれたおしてしまった。……母さんはすごい人や。人間ちゅうもんはあそこまで強くなれるもんじゃ……忘れるな、俺達も負けんように生きたおさにゃならんぞ。」

 この仲村裕造の「母さんはな、体はああなっても気持は俺達に、あふれ続けとったぞ。最後迄、あふれにあふれて、あふれたおしてしまった。……母さんはすごい人や。人間ちゅうもんはあそこまで強くなれるもんじゃ……忘れるな、俺達も負けんように生きたおさにゃならんぞ。」という言葉は大重さんの短かった69年の人生の通奏低音だったのです。脚本のこの箇所を読んだ時、わたしの涙腺も「あふれにあふれて、あふれたおして」しまいました。そして大重潤一郎さんも、その「母さん」同様、「あふれたおした」人生を生き切ったと思います。

 仲村裕造は、死んでしまった嘉手納昌栄の遺骨を運ぶ昌栄の息子(夕子の父)や夕子とともに沖縄らしき島に帰り、そこに住みつきます。そして、島の生活に少し馴染み始めた頃、夕子に誘われて「暗河」に行きます。島の道路脇の茂みの下に湧水があるのです。裕造は、「こんな所に水が……。」と驚きます。すると、夕子は素っ気なく、「島の底を河が流れているんです。」(60頁)と言い、「さっさと茂みの中へ入ってゆき、薄暗い洞窟の階段を下り」ていったのです。

 この「島の底を河が流れている」という言葉が、「久高オデッセイ」三部作では、この三部作を貫くライトモチーフである、島の生活の底を脈々と流れ続けている「地下水脈」と言う言葉になります。大重さんの遺作「久高オデッセイ第三部 風章」の最後に大重さん自身のナレーションで次の言葉が語られます。

地下水脈がわき出るような歌声であった。
祭りは途絶えているが、祭りの命は息づいている。
祭りは人間が生きている限り行われる。
生きていることの証が祭りである。
やがて、違った形で復活するだろう12年間待っていた島の姿を確認しました。

 「地下水脈がわき出るような歌声」を12年間、大重さんは久高島で待ち続け、そしてイザイホーが行なわれるべき日の2014年旧暦11月15日の満月の日(新暦=太陽暦の2015年1月5日)に、大重さんはその「地下水脈がわき出るような歌声」を久高殿の神アシャギの庭で聴いたのでした。

 大重さんの作品世界は、実に、実に、一貫しています。そのことをこの幻の未完成映画「かりゆしの海」の脚本で再確認できました。最後の方で、仲村裕造は、初めて島を独り歩きした時、「海が一望のもとに見渡せる高台」に出て、海を見つめ、「咽び泣き」、「やっとの思いでこらえると顔をあげて海にむかい体全身で声を限りにして叫」(85頁)びます。「オーイ、兄ちゃんはここにいるぞー! オーイ、兄ちゃんはここにいるぞー!」(85-86頁)と。

 そして最後に、夕子が「こんな小さな島は、またどこから攻められるかもしれません。ここにいちゃいけません。」と言うのに対して、裕造は「夕子さん、俺は、やっと見つけた。もうここを離れはしない。」(87頁)と応えて、砂糖黍畑で夕子をひしと抱きしめ激しく唇を重ねたのです。どこか、アルチュール・ランボーの「見つかった。/何が?/永遠/太陽と手を取り合って往った海」(『地獄の季節』)の詩篇を思い出させます。「永遠の今」というノルタルジックな神話時間を。

 この「仲村裕造」(28歳)と「嘉手納夕子」(21歳)が、処女作「黒神」(1970年製作)の桜島の麓のシラス台地に開拓農民として生きる若い夫婦と重なります。そして「黒神」の最後に「八月の祭り」の踊りの場面があったように、満月の夜の踊りが一晩中繰り広げられるのでした。

 大重さんの未完の『天の川』も大重さんらしい味わいのある脚本でしたが、この『かりゆしの海』も同様です。1978年に書かれた『かりゆりの海』を初めて読んで、大重潤一郎を偲びました。その日、「大重潤一郎監督を偲ぶ会」の最後に、「久高オデッセイ第三部 風章」制作実行員会事務局長でNPO法人東京自由大学の前運営委員長(現副運営委員長)に、事務局長としてまとめの挨拶をしてもらいました。

「久高オデッセイ第三部 風章」制作実行委員会事務局長 岡野恵美子さんの挨拶

「久高オデッセイ第三部 風章」制作実行委員会事務局長 岡野恵美子さんの挨拶
 しかしその3日後、岡野恵美子さんが70歳で急死してしまったのです。その驚き、衝撃は今も続いています。自宅が火事となり、その火煙に巻き込まれて亡くなってしまったのです。わたしは1983年頃から岡野恵美子さんと一緒に同志的な活動をしてきました。「天河曼陀羅実行委員会」、「宗教を考える学校」、「神戸からの祈り」、「東京おひらきまつり」、「NPO法人東京自由大学」、「天河護摩壇野焼き講」など、いろいろな催しや組織の委員や世話人や事務局長や運営委員長を務めてくれ、そして「久高オデッセイ第三部 風章」制作実行委員会では名事務局長を務めてくれたのでした。その死を心から痛み、生前の常不軽菩薩のような献身的活動を讃え、心より冥福を祈ります。

 これは、信じたくない事ですが、現実です。わたしは、常々、この「ムーンサルトレター」やNPO法人東京自由大学のみんなや岡野さんに、「現代は大中世の大乱世である」という「現代大中世」を主張してきました。この「大中世=大乱世」には、何が起っても不思議はなく、いつ富士山や蛤良カルデラの大噴火や戦争があるかもしれない大動乱の時代です。岡野さんの急死は哀しいけれど、同志として32年間共に生きてきたかけがえのない時間と活動はわたしの宝物であり、誇りです。

 8月26日に岡野さんはメールで「久高オデッセイ第三部 風章」制作の収支決算書を送ってくれ、そこに、「きっちり1円の違いもなく収支が合いましたので、報告します。」と誇らしげに書いてくれました。それが、救いであり、支えです。

 大重さん、岡野さん、どうかニライカナイやあの世から、この「大乱世」の真っ只中を生き抜き、生き切り、「あふれてあふれて、あふれたおそう」とする「八千年も続いとった縄文」の末裔たちを見守ってください。これまで、本当に、ありがとうございました!

 2015年8月30日〜9月1日 鎌田東二拝

徳島新聞2015年9月1日朝刊記事

徳島新聞2015年9月1日朝刊記事