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シンとトニーのムーンサルトレター 第092信

第92信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、先日は梅ヶ丘「CRAZY CATS」でのライブ、お疲れさまでした。2月8日に行われた宿敵KOWさんとの対決ライブでしたが、勝利に終わって良かったですね。それにしても、Tonyさんが開始時間を過ぎてもなかなか現れないので、わたしはヒヤヒヤしましたよ。Tonyさんはケータイを持ち歩いていないので、途中経過の連絡も入らず、まったく事情がつかめませんでした。会場を埋め尽くした観客のみなさんも、主催者の人たちも、ものすごく不安そうな顔をしていましたよ。結局、40分遅れで会場にTonyさんが到着されたときは、みなさん一同にホッとしていました。

 Tonyさん、義兄弟の仲なので失礼を承知で申し上げますが、そろそろケータイをお持ちになったらいかがですか?(笑)同じ文明の利器であるノート型パソコンを持ち歩かれているので、ケータイも同じではないかと思うのですが。(微苦笑)また、昨今は公衆電話も激減して、連絡を取らなければならないときに不便ではありませんか?(苦笑)

 ところで、Tonyさんが遅刻して下さったおかげで、思わぬ有意義な時間を持つことができました。ライブで隣席の方とじっくりお話ができたのです。その方は、なんと島田裕巳さんです。島田さんとわたしには、知る人ぞ知る縁(因縁?)があります。なにしろ、島田さんが書いた『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)に対抗して、わたしは『葬式は必要!』(双葉新書)を書いたのです。それぞれ「葬式無用論」と「葬式必要論」の代表的論者として、島田さんとわたしは多くのメディアに揃って取り上げられ、ついにはNHKの討論番組でも意見を激突させました。

 先にライブハウスの最後列の端の席に着いていたわたしの目が、ドアを開けて店内に入ってきた島田さんの姿をとらえました。その瞬間、わたしは声をかけていました。島田さんは、わたしの顔を見ても、すぐに誰だかわからなかったようです。そのとき、わたしが哀川翔デザインのデコラティブなメガネをかけていたせいかもしれません。それで、わたしは大きな声で「一条真也です。ご無沙汰しております!」と言ったところ、島田さんは「あちゃー!」といった感じで、手で顔を覆われました。(笑)

 その上、なんと席が隣同士でしたので、必然的に会話が交されました。なんでも、島田さんは前日に行われた島薗進(元・東京大学大学院教授)さんの最終講義でTonyさんに会われたそうで、そこでライブに誘われたとのこと。ご自宅がすぐ近くの経堂でもあり、島田さんはライブを訪れたというわけですね。

  Tonyさんがライブの開始時間になっても姿を現わさず、いつまで経っても何の連絡もありません。主催者は困り果て、集まったお客さんたちも不安そうにしていました。そんな重苦しい雰囲気の中、島田さんは、「いっそ、ぼくたち2人でトークショーでもやりますか?」と笑いながら言われました。それも面白かったかもしれませんね。

 島田さんは「今度、こういうことをやるようになったんですよ」と言いながら、名刺を下さいました。そこには、自然葬を普及するという趣旨の団体である「NPO法人 葬送の自由を考える会」「日本自然葬協会」の会長と書かれていました。わたしは「散骨」と呼ばれる海洋葬や樹木葬などには大いに賛成していますので、島田さんの新しい活動を好意的に受け止めました。そもそも、葬送の自由を考えるという時点で「葬式は、要らない」とは考えていないことは明白です。

 それから、わたしたちは浄土真宗やミャンマー仏教の話などを少しだけした後、映画の話題で盛り上がりました。わたしは、島田さんが書かれた『映画は父を殺すためにある』(ちくま文庫)という映画論に深い感銘を受け、わたしのブログでも紹介しました。そのことを御本人にお知らせすると、翌日の島田さんのツイッターで早速わたしのブログを紹介されていました。わたしが「最近はどんな映画を御覧になりましたか?」と尋ねると、島田さんは「最近の映画はつまらないから、あまり観ていないんですよ」と言われました。

 そこで、わたしが最近観て面白かった「ライフ・オブ・パイ〜トラと漂流した227日」のことをお話すると、島田さんは「それは面白そうだな。ぜひ観てみます」と言われました。「ライフ・オブ・パイ」は主人公がヒンドゥー教徒であり、キリスト教徒であり、イスラム教徒でもあるという奇想天外な宗教映画の要素を持っています。なんだかTonyさんの名曲「君の名を呼べば」にも通じる部分があるように思います。

  そう、その夜のライブでは、わたしの大好きな「君の名を呼べば」が歌われました。この歌には、世界中の宗教のマントラが登場します。初めて聴いたときは、マジでぶっ飛びました。なにしろ、イスラム教の「アラー・アクバル」まで出てくるのです! 

 ここでいう「君」とは、「神」であり「如来」であり「ゴッド」であり「アッラー」。つまり、人智を超えた偉大なるもの、「サムシング・グレート」ということでしょう。

 この曲が収められたCD「この星の光に魅かれて」には、Tonyさん自身のコメントが次のように書かれています。「・・・この歌を歌うほとんどの人が笑う。なぜだろう。「君の名」とは、ここでは世界の諸宗教における信仰の対象や唱え言を指している。あなたも自分の大切な「君の名」を一緒に呼んでみてほしい。マントラ(真言)の渦のなかで。・・・」

 笑うどころか、わたしは泣きたくなるほど素晴らしい名曲だと思います。この歌を聴いて、わたしはサンレーの新しい社歌をTonyさんに即座にお願いしました。Tonyさんは「永遠からの贈り物」という素晴らしい社歌を作って下さいました。毎朝、約1500人のサンレーグループ社員全員で歌っています。

 それから、鎮魂の歌である「なんまいだー節」も一度聴いたら絶対に忘れられない奇跡的な曲です。以前、Tony家で飼っていた“チビ”という名前のネコちゃんが大往生を遂げたときに作られたとか。「なんまいだー」を限りなく連呼するこの世にも珍しい歌を、わたしは島田裕巳さんと並んで聴きました。

Tonyライブのようす

Tonyライブのようす
 『葬式は、要らない』の著者と『葬式は必要!』の著者が、仲良く並んで「なんまいだー節」を聴く!・・・・・そのシュールな現実を前に、わたしは軽い目まいをおぼえました。

 そして、ついにメガトン級のインパクトを持つ曲「フンドシ族ロック」が歌われました。もちろん、Tonyさんは衣服を脱いで、緑色のフンドシ一丁になりました。普段から鎌田さんはブリーフやトランクスなどはかず、もっぱらフンドシ専門だそうです。フンドシ姿が似合うことにかけては日本一ではないでしょうか。(笑)

 わたしが最初にこの曲を聴いたのは、神田にある東京自由大学のクリスマス・パーティーの席上でしたが、そのとき玄侑宗久さんが「わたしも、いつもフンドシですよ。フンドシ族の仲間ですね」と言われていたのを思い出します。ちなみに、島田裕巳さんは呆然としながら「フンドシ族ロック」を聴かれていました。

 それにしても、西ローマ帝国を滅亡させた「フン族」と日本古来の男性下着である「フンドシ」をかけるとは! ありえない言語感覚というか、恐るべきTonyワールド! まるで、ライブハウスの時間と空間が歪んでしまったようでした。

 ちなみに、驚愕のライブ体験を終えた島田裕巳さんは「神道ソングというけど、これは仏教的じゃん・・・・・」とつぶやかれていました。それから、「まあ、ボブ・ディランの世界だねぇ」とも言われていました。Tonyワールドが「ボブ・ディランの世界」に通じているのは、わたしにも理解できます。まさに、「風に吹かれて」の世界そのままですから。なんだか、すべての歌が「風に吹かれて」のアンサーソングのようにも思えてきます。そう、このご時勢にあってケータイを持たない生活を送るTonyさんは、自然のままに風に吹かれて生きている人なのかもしれませんね

 それにしても、一時は「天敵」のように世間から思われていたわたしたちが並んで談笑する姿を誰が想像したでしょうか? わたしは、「まんが日本昔ばなし」のエンディングの歌ではありませんが、「にんげんっていいな」と心から思いましたよ。いや、ほんとに。これも、40分も遅刻して会話の時間を作ってくれたTonyさんのおかげです。(苦笑)まさに、「現代の縁の行者」ここにあり!

島田裕巳氏と再会しました

島田裕巳氏と再会しました
 それから、お伝えしたいことがあります。休止していたブログを再開しました。
 2010年2月14日のバレンタインデーに「一条真也のハートフル・ブログ」がスタートしました。それ以来、930日間、1日も休まずに続けてきました。しかも非常に長文のものも多く、その文章量はかなりのボリュームになると思われます。しかしながら、思うところあって、2012年8月31日に休止しました。ちょうど、2000本目の記事を書き上げた日でした。それから番外編をいくつかUPしましたが、「本格的にブログを再開してほしい」との声が多く寄せられました。そして、2012年2月14日のバレンタインデーの日、ついに新ブログをスタートさせました。それも、以下の2つのブログを同時に開始しました。

「一条真也の新ハートフル・ブログ」
「佐久間庸和の天下布礼日記」

 いわば、ブログの二刀流ですね。まあ、へっぽこ二刀流ですが・・・・・(苦笑)。

 これまで「一条真也のハートフル・ブログ」を読んで下さったみなさんには、心から感謝しています。休止後に書いた番外編も含め、いろんなテーマで2013本の記事を書いてきましたが、ちょっと一条真也と佐久間庸和が混在してきました。自分では使い分けてきたつもりでしたが、気づかないうちに難しくなっていました。それで、これからは一条真也]と佐久間庸和の色分けをきちんと区別してブログを書き分けたいと思います。

 もちろんブログを書くことだけがわたしの仕事ではありません。わたしは、ブログ中毒でもネット中毒でもありません。来るサンレー創立50周年のさまざまなプロジェクトに向けてますます忙しくなっており、そう以前のようには更新できないでしょう。毎日書くことも難しいと思います。あくまでも無理のないペースで、このブログを続けていくつもりです。新ブログの最初の記事は、Tonyさんのライブで島田さんに再会した話でした。最初の音楽記事は、Tonyさんの「君の名を呼べば」「なんまいだー節」「フンドシ族ロック」でした。そして、最初の書評記事は、Tonyさんの『古事記ワンダーランド』でした。これからも、わがブログでは摩訶不思議な「現代の縁の行者」の活動を紹介していきたいと思っています。これからも、どうぞ、よろしくお願いいたします。それでは、次の満月まで。オルボワール!

2013年2月26日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 Shinさん、先だっては、「対決ライブ!」への参画、まことにありがとうございます。わたしにとっては、「臥薪嘗胆」のこの1年でした。ピアノの弾き語りで4曲(前半の最後の3曲、後半最後の1曲)を決めようと、結構練習してきたのですよ。去年は3月初めにパリとロンドンに出張しており、まったく練習できずに臨んだので、歌詞は忘れるわ、コード進行もままならぬわ、でトチリまくりました。今回もずいぶんトチッタけど、でも、きちんと練習して臨んだので、覚悟は定まっていました。1月23日には、今回の曲順も、次のように決めていたのです。

 第一部
1、エレアコ:カマタ・ジャイアンの歌 2分
2、エレアコ:弁才天讃歌 4分
3、エレアコ:神 4分
4、エレアコ:なんまいだー節 4分
5、ピアノ:蟲の女 3分
6、ピアノ:風が運んでくる想い出 3分
7、ピアノ:時代 5分

 第二部
1、エレキ:犬も歩けば棒に当たる 4分
2、エレキ:君の名を呼べば 4分
3、エレアコ:星の船に乗ってゆこう 3分
4、エレキ:フンドシ族ロック+世界フンドシ黙示録 6分
5、エレアコ:約束 4分 (新曲)
6、ピアノ:神ながらたまちはへませ 4分

 わたしとしては、これまでになく、身心状態に注意を払い、風邪を絶対に引かないように注意し、そして当日に向け、臨みましたが。その当日、午前中に博士論文の審査会(口頭試問)があり、絶対に手抜きができないので、論文読みに時間がかかり、その上に、口頭試問が終わって採点付け。これが終わらないと上京できず、必死で採点。ようやく上京という段になって、舞台衣装の黒メガネを失くしたことに気づき、行きつけの眼鏡屋さんに行って、Ray Banのサングラスを買い求め、一路大荷物を抱えてタクシーで京都駅に向かい、東京に向かったのですが、電車事故などいろいろ重なり、遅れに遅れ、結局、40分の大遅刻。今まさに、もうこれ以上お客さんをお待たせすることができないので、とにかく始めましょう、というところに、ひょっこりとわたしが姿を見せた、という次第でした。

 そのタイミングが、あまりによすぎた(?)とかで、対決相手のKowさんも拍子抜けとなり、結果的に、この「巌流島の決闘」は、しびれを切らした佐々木小次郎Kowが不利となり、相手を待たせた宮本武蔵Tonyが勝利を収めることになりました。このような変則事態で、Kowさんには申し訳なくもありましたが、おかげさまで、ようやく、4対4のイーブンに辿り着きました。これを機に、さらなる2年間、いっそうの精進努力を続けたく思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。

 そんなこんなで、チューニングも何もできず、他の荷物が多くて、楽器も普段自分が使っているギターも持っていくことができず、すべて借り物。ピアノもアップライトのピアノがあるとばかり思っていたのが、実際にあったのがエレキ・ピアノ。これにはまいりました。鍵盤のタッチがピアノとエレキピアノとではあまりに違うので、どうしてもピアノの方に気を取られ、歌に集中できません。そのために、最後に決めようと思っていた歌の感覚が腰砕けになり、あやふやなまま終わりました。勝利は収めましたが、同情票や、集客票もあるので、対決としては、5分5分、増長することは許されません。

 ともあれ、わたしにとって、ありがたいことは、このような1年に1回の大祓のような、刑の宣告のような、判決の言い渡しがあることは、その結果がどうであれ、得難くも有難い機会となっています。そして、そこで負けることは、次なる1年に向かってさらなる精進努力を誓い、おのれを練磨する機会となっているので、ほんとうにいい勉強になっています。

 また、この時、Shinさんが詳しく書いてくれたように、宗教学者の島田裕巳さんが来てライブを視聴してくれただけでなく、彼の最初の小説『小説 日蓮 上下』(東京書籍)をプレゼントしてくれたので、これまたありがたいことでした。そこでわたしも、対決ライブが終わって、島田裕巳さんの小説を全巻読みました。鎌倉大地震と源空丸という不思議な念仏者の弟子(?)との関わりの中で見た日蓮は、なかなかおもしろい角度からの切り口だと思いつつ、小説家としての島田裕巳氏の世界を堪能しました。

 この前の1月末からわたしの方は超ハードスケジュールで、1月26日日本キリスト教文学会関西支部例会シンポジウム「遠藤周作と宮沢賢治」、27日京都大学地域研究統合情報センター研究発表会、30日第9回身心変容技法研究会、31日第10回身心変容技法研究会、2月2日天河大辨財天社鬼の宿、3日天川節分祭、4日天川立春祭、6日東京大学島薗進教授最終講義、8日博士論文査問会+対決ライブ、10日友愛平和の風白熱教室、11日和合亮一氏と対談、12日から15日まで沖縄・久高島ゼミ合宿、16日NPO法人東京自由大学「アートシーン21」、17日京都大江能楽堂「観阿弥生誕680年、世阿弥生誕650年記念 観阿弥と世阿弥の冒険」シンポジウム、18日~19日上京して非公開会議、20日世阿弥研究会、21日比較文明学会関西支部例会+研究科会議、22日〜23日和歌山県新宮市熊野学サミット、24日東洋大学「井上円了×南方熊楠」シンポジウム、25日智山伝法院「震災と仏教的自然観」シンポジウム、27日「日本の聖地〜相模国一宮寒川神社と延喜式内社研究」シンポジウム、そして今日28日京都伝統文化の森推進協議会第6回公開セミナー「森と人、森と街をつなぐ京都のキャラクター」。

 と、まあ、こう書くと、よくもやりにやったり、動きに動いたり、休む間もなく次から次へと将棋倒しのように前傾・前進・前屈あるのみ、ってな感じで進みました。いやあ、たいへんでしたわ。まったくね。

 問題は、しかし、そのような外面的なことではありませんでした。もっと深刻な思い事態が待ち受けていました。わたしが新宮から東京に向かった2月24日の朝5時55分に、わが家の雌の三毛猫のココが息を引き取ったからです。その時、わたしはまだココの死去の事実を知りませんでした。

 ココがわが家にやってきた顛末は次のようなものでした。1995年5月、わたしが和歌山県和歌山市の真義真言宗根来派のお寺・延命院(通称赤門寺)の落慶法要に行っていた折のことでした。妻が大宮の自宅近くのゴミ捨て場にゴミを捨てに行くと、ゴミの山の中のビニール袋がガサゴソ動いていたのです。ハッと思って、よく見てみると、その中に生まれたばかりの赤ちゃん猫が何匹も入っていたのです。それは、ありえないような、非情な、あまりにもひどい捨て方でした。ビニール袋に猫を入れて捨てるなどということは、猫神家の一族のわたしたちにとって絶対に許せない仕業でした。

 その光景を目撃してしまった妻は、それを見過ごすことができず、ビニール袋の猫たちを家に持ち帰ってきて、飼い始めたのでした。延命院に泊まって環栄賢住職と朝から酒を酌み交わしていい気分のわたしのとことに電話がかかってきました。ゴミ捨て場に猫がビニール袋に入れられて捨てられていて拾ってきたので飼うことにしたけど、それでいいかという電話でした。もちろん、飼うしかないよねと返事するしかありませんでした。それ以外の選択肢はなかったのです。延命院は、かの南方熊楠さんの生家の菩提寺で、南方熊楠と妹さんだったかのお骨も収められています。神社統廃合の反対運動に命を賭け、田辺湾の「神島」を守り抜いた熊楠っさんの手前、猫を見捨てることなどできるわけありませんよねえ。

 生まれたばかりの4匹の赤ちゃん猫たちとの生活は、しかし、なかなかの難問続きだったのです。というのも、この時、埼玉県大宮市のわが家には、ヒミコとチビという名の2匹の猫がいたのです。その上に、4匹の赤ちゃん猫が加わります。その猫同士が仲良く共生することができるかということが、一つの問題でした。それも、簡単ではなく、ヒミコが家出してしまうという事件もあり、大変でした。

 また、赤ちゃん猫を獣医さんに連れて行ったのですが、獣医さんは、「この状態では絶対に育ちませんよ」と言います。人間の手では育てきれないということです。妻はスポイトを使って4匹の赤ちゃん猫にミルクを与えましたが、生まれたばかりの子猫はそれがうまく飲めません。このままで衰弱死してしまいます。そこで、妻は近所にいる野良猫を拾ってきました。その猫は子供を産んでしばらく経っていたようでした。近くのスーパーマーケットのヨークマート周辺をうろついていて、何度も見かけ、なついていたので、その野良猫を拾ってきて、赤ちゃん猫の母親になってもらったのです。

 この子育て、いわば、ステップマザー育児作戦がうまく行くかどうかわかりませんでしたが、人間の手だけで生まれたばかりの赤ちゃん猫を育てることは不可能だったのです。この猫の乳を借りて、4匹の赤ちゃん猫は命を長らえたのでした。

 ですが、このステップマザー(マリという名前を付けました)と赤ちゃん猫は、最初はなつかず、マリが赤ちゃん猫を警戒し、威嚇し近づこうとはしませんでし。が、2日くらいしてからでしょうか、一緒にいても徐々に平気になり、自分の乳を吸わせるようになりました。すごいものですね、いのちあるものの柔軟性というものは。

 そこで、赤ちゃん猫たちは、産みの母親とは違うけれども、ママハハであるマリのおなかにくらいついて、お乳を吸うようになったのです。そして、すくすくと成長していきました。それは、目をみはるような生命の輝きでした。マリは4匹の赤ちゃん猫の母猫となってかいがいしく面倒を見ました。すばらしい、ステップマザー(ママハハ)でした。よくやりました。マリちゃん。

 けれども、わが家の「ママハハものがたり」は、3ヶ月ほど経って、大きな変化に見舞われました。それまで丸々と太っていたオスネコの2匹が相次いであっけなく死んでしまったのでした。昨日まであんなに元気だったのに、なせ? というほど、あっけない突然死でした。12歳になっていた一人息子はオスネコのリーキーが死んだ時、「僕の弟だと思っていたのに」と言って泣きました。そして、2匹の三毛のメスネコが残りました。その1匹がココでした。

 拾ってきた4匹の猫は、みな生まれつき目に障害がありました。中でも、一番深刻な障害を持っていたのがココでした。ココには生まれつき眼球がなかったのです。もちろん、まったく目は見えません。眼球それ自体がないのですから。後の猫3匹は、みな眼が半濁していたりしましたが、眼球自体はあったので、目が悪くても見えることは見えたのです。しかし、ココには世界はまったく見えません。最後に残ったもう1匹の三毛猫は吉祥寺の知人にもらわれていって、モモと名付けられて、とてもかわいがられていましたが、昨年の9月に17歳と4ヶ月で死んでしまいました。

 そのようなわけで、結局、4匹の内、最後まで残ったのがココだったのです。でも、やはり、いのちというものには、寿命というものがあるのですね。この1ヶ月のあいだに、ココは急速に弱っていって、ものを食べなくなりました。妻が抱いてスポイトで水を飲ませると、少し飲んだりして、一時期は回復するかに見えましたが、また徐々に弱り、終に、2月24日の朝5時55分に、妻が添い寝しながら看取る中、息を引き取ったのでした。彼女は3日3晩、自分の寝床をココのベッドのところに移動させて、看病し続けました。寛恕はココを拾い、懸命にココを育て、そしてココを看取りました。彼女がいなければ、ココは生きられませんでした。そして、ココがいなかったら、妻もこれほどやさしさにつつまれるような体験することができなかったでしょう。彼女にとっても、ココは最高の天からの贈り物だったと思います。

 わたしは、その24日の朝6時21分の特急ワイドビュー南紀2号に乗って上京し、午後からの東洋大学での井上円了と南方熊楠のシンポジウム「円了×熊楠」に参加して、基調講演をしなければならなかったので、途中で電話をする余裕などなく、シンポジウムと懇親会が終わってから、ようやく自宅に電話すると、ココが今朝息を引き取ったということでした。すぐにわたしにメールで知らせてくれたらしいのですが、Shinさんが忠告してくれたように携帯電話嫌いのわたしは、すぐに妻のメールを受信できず、またパソコンのメールチェックをするところもなく、ココの死の知らせに気づきませんでした。電話口で妻はくりかえし「とてもきれいなの。ほんとうにきれいなの」と言って泣いていました。

 それを聞いて、胸が詰まりました。わが家に優しさと幸せをもたらしてくれ、わたしの師(グル)となってやさしさとはなにか、平和とはなにか、静けさとは何か、なかよくするとはどういうことかを、身を以て教えてくれたココ。ココに教えられたことは山ほどああります。それは、感謝しても感謝しきれません。

 ココは生まれつき眼球がなかったために、家の中や外を走り回ったり、出歩くことはできまえせんでした。その上に、てんかんの持病があったので、1週間に1回ほど、とてもひどい発作を起こしました。その時、必ず、飛び跳ねるような激しい痙攣とともに失禁するのです。その姿を見るたびに、わたしたちではどうすることもできず、ただ見守り、手を合わし、発作が治まってから撫でさするしかありませんでした。

 時々、妻はココをカンガルーの母親のように赤ちゃんを抱っこする帯を肩から下げてその中にココを入れて、わたしたちの散歩に同行させてました。そんな時のココは、ごろごろを喉を鳴らして、とても安らいで、うれしそうでした。そのような盲目のココは、何歳になっても童女のような無垢さを持ち、また、凛とした静かで気高い気品を持っていました。

  ココは、普通の猫がするような、威嚇するというふるまいを一切したことがありません。もちろん、猫同士の喧嘩もしたこともありませn。家の別の猫や、他所の猫がココを見て、威嚇しても、平気で相手の方にすりすりとすり寄っていって、相手が根負けして、いつしか仲良く体を寄せ合って眠ってしまう。そんな不思議な親和力を持っていました。敵愾心とか、敵対心とか、闘争心というものが、ココにはまったくなかったのです。たぶnそれでは、野生の状態では、1日たりとて生きていけなかったでしょう。

 でも、そうであるがゆえに、この生来の静かな平和主義者(というのも変ですが)は、老子や荘子にように、わたしに、闘争せずに生きていく術を教えてくれたのです。天然のタオイストが仲良くするワザを教えてくれたのです。それは、一切の敵対心を持たないという徹底した自己放棄の態度の教えでした。おそらく、弱肉強食が横行する生存世界でそんな生き方は不可能である、と人は言うでしょう。

 けれど、ココはわが家に拾われ、その生き方を最後まで全うし、家族や近隣の動物やわが家に来る人々に愛され、優しさと幸せを与えました。慎ましさと聖なる静けさ、気高さと気品を教えてくれました。そして、そのようなありようこそが、この世界から闘争や暴力を一掃することができる唯一の道であることを、お釈迦さんや老子のような言葉ではなく、ただそのふるまいと存在によって、教えてくれたのです。

 そんなココは、わたしにとっては、南方熊楠と共にわが家に来て、南方熊楠と共に、熊野の海から補陀落という観音浄土に還って行った観音様でした。観世音菩薩は、三十三身に化身して衆生の苦しみを救済するといいます。熊野の那智青岸渡寺は、その観音霊場西国三十三ヶ所の一番札所です。ココが死の世界に旅立った朝、わたしは、その那智の大滝が流れ込む熊野灘から射し昇ってくる朝日を見ました。ココが死んだことも知らずに。それを知った後、わたしの中で、南方熊楠と観音菩薩とココが結びつき、熊楠や観音様が発するメッセージがココの教えともなりました。ココは最期の最後までわが師でありました。そのわが師ココの遺訓をこれからも身に体して生きていきたいと思います。

2月24日 熊野灘から昇ってくる朝日

2月24日 熊野灘から昇ってくる朝日
ココの死顔(2月25日夜)

ココの死顔(2月25日夜)ココを埋葬する(2月26日昼)

ココを埋葬する(2月26日昼)
 2月26日のお昼、京都の家の日当りのい東南の庭の木の下にココを埋葬しました。祓詞と般若心経と真言を唱え、感謝の口上を奏上しました。石笛・横笛・法螺貝を吹き、鎮魂・供養し、心からのありがとうの気持ちを伝えました。ココは死んでも生きています。わたしたちの中で、わたしたちと共に。そして、いつも生きる力とヒントと範を示してくれます。南無ココ大師遍照金剛、南無ココ大師遍照金剛。ほんとうに、ありがとう、ありがとう、ありがとう。ありがとうございました。

2013年2月28日 鎌田東二拝