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シンとトニーのムーンサルトレター 第008信

第8信

鎌田東二ことTonyさま

 今日は5月10日、わたしの43回目の誕生日です。朝、出社すると、みんなから「おめでとうございます」という声をかけられました。鎌田先生の誕生日は3月20日ですよね。今年は、忘れもしない前日の19日、京都の近藤高弘さんのお宅で三人で義兄弟の契りを交わしました。それからテレビで「功名が辻」と「愛と死を見つめて」を観て、しばらく語らっているうちに、先生が「もう、12時を過ぎたのかな」とつぶやかれました。日付が変更したことを確認すると、「今日は、ぼくの誕生日なんですよ」とおっしゃった。

 3月20日という日は、西洋占星術でいう魚座の最後の日であり、この日に生まれた者は、生まれついて激しく振幅し、揺れ動く人生を歩むように運命づけられているとか。このことを梅原猛先生の『仏教の思想』の角川文庫版の解説にお書きになっていましたが、梅原先生も3月20生まれなんですよね。

 それから、1995年の3月20日には、あの「地下鉄サリン事件」が起こっています。最近、オウム真理教の尊師だった麻原彰宏こと松本智津夫に、ついに死刑判決が出ました。あの事件がいかに日本の宗教界や精神世界を求める人々に大きな衝撃とダメージを与えたことか、本当に計り知れません。宗教学者にしても、鎌田先生以外のビッグネームはほとんど袋叩きに遭いましたよね。多くの日本人の宗教観も、あれ以来、一変しました。

 オウム真理教は仏教を名乗っていましたが、あのとき、日本の仏教界は「仏教が、なぜハルマゲドンを説くのか」真剣に反論すべきでした。親鸞は「悪人正機説」を唱えましたが、浄土真宗に心を寄せておられる五木寛之先生は、著書で「御聖人、麻原彰宏もまた往生できるのでしょうか」と問われています。核心を衝く問いであり、真宗関係者のみならず、すべての日本の仏教者が今一度考えてみるべき問題でしょう。

 誕生日の話に戻しましょう。わたしは、他人のお祝いをするのは仕事柄もあって得意ですが、自分が祝われることは正直、苦手です。でも、実は最近、誕生日というものを見直しています。まず、「祝う」という営みについて考えてみたいと思います。ヤフーで「祝賀会」を検索にかけると、たちどころに10万件以上ヒットし、その内容も企業の創立の周年記念にはじまって、叙勲、受賞、出版記念、還暦、金婚式など、実にバラエティに富んでいます。わたしの好きなポップス歌手のディーン・マーティンに「Everybody love somebody sometime」という名曲があります。日本語にすると、「誰かが誰かに恋してる」ですが、それにならえば、まさに今この瞬間にも「誰かが誰かを祝ってる」のです。

 わたしは、「祝う」という営み、特に他人に関することを祝うということが人類にとって非常に重要なものであると考えています。なぜなら、祝いの心とは、他人の「喜び」に共感することだからです。それは、他人の「悲しみ」や「苦しみ」に対して共感するボランティアと対極に位置しますが、実は両者とも他人の心に共感するという点では同じです。「他人の不幸は蜜の味」などと言われます。たしかに、そういった部分が人間の心に潜んでいることは否定できませんが、だからといって居直り、それを露骨に表現しはじめたら、人間終わりです。他人を祝う心とは、最高にポジティブな心の働きではないでしょうか。

 わたしは思うのですが、人生とは一本の鉄道線路のようなもので、山あり谷あり、そしてその間にはいくつもの駅がある。「ステーション」という英語の語源は「シーズン」から来ています。季節というのは流れゆく時間に人間がピリオドを打ったものであり、鉄道の線路にたとえれば、まさに駅はさまざまな季節ということになります。そして、儀式を意味する「セレモニー」も「シーズン」に通じる。初宮参り、七五三、成人式、長寿祝いといった通過儀礼とは人生の季節であり、人生の駅なのです。それも、20歳の成人式や60歳の還暦などは、セントラル・ステーションのような大きな駅だと言えるでしょう。各種の通過儀礼は、特急や急行の停車する駅です。

 では、各駅停車で停まるような駅とは何か。わたしは、誕生日がそれに当たると思います。老若男女を問わず、誰にでも毎年訪れる誕生日。この誕生日を祝うことは、その人の存在そのものを肯定すること、存在価値を認めることに他なりません。別に受賞とか合格といった晴れがましいことがなくても祝い、祝われる誕生日。それは、まさに「人間尊重」そのものの行為です。わたしの会社では、毎月の社内報に全社員の誕生日情報を掲載し、「おめでとう」の声をかけ合うことを呼びかけています。冠婚葬祭とあわせて誕生日というものを盛り上げていきたいと思っています。そして古代の日本では「祝」も「葬」も同じく「ハブリ」と呼ばれたように、人生の卒業祝い、あの世への引越し祝いとしての、めでたい葬儀を提案していきたいと思います。

 それから、ぜひとも鎌田先生に報告したいことがあります。
 このたび、わたしは『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫、大和書房)を上梓しましたが、宗教間の平和の実現を考えるとき、月が大きな鍵になると書きました。鎌田先生には釈迦に説法で恐縮ですが、もともと太陽信仰と月信仰は、地球上のあらゆる場所において見られる普遍的な信仰でした。そして、常に不変の太陽は神の生命の象徴であり、満ち欠けによって死と再生を繰り返す月は人間の生命の象徴に他なりません。

 ユダヤ・キリスト・イスラムの三姉妹宗教においても、月は重要な意味をもっており、そもそも古代バビロニアでは 月は大神シン(!)でした。この最古の月神の聖なるすまいはシナイ山であり、彼はイシュタルの父でした。この神に対する信仰が、安息日の遵守をはじめとして、ユダヤ教をはじめとするヘブライの宗教に大きな影響を与えたとされています。後にこの神は主神マルドゥクと合体しました。モーセがヤハウェから十戒を授かった場所こそシナイ山であり、この月神シンはユダヤの唯一神の原像であると思います。

 キリスト教においては、月は「イエス・キリストの磔刑」を見事に象徴しています。毎月、月は三日間だけ、わたしたちの視野から消えます。そしてまた姿を現し、次第に大きくなって満月になります。人類のために死に、やがて復活して三日目に姿を現し、人間に光を当てたのが、かのキリストです。

 そして、イスラム教。ヒジュラ暦は太陰暦ですが、『コーラン』には月に関する記述がたくさん出てきます。イスラム神秘主義では三日月が楽園のイメージであり、かつ復活の象徴となっています。神とムハンマドの関係について、「月が太陽の光を映すように、預言者ムハンマドは、神アッラーを映す」と神秘詩人ルーミーは表現しています。 その他、アポロの宇宙飛行士たちが月面で神の臨在を感じたことを紹介し、「月の視線は神の視線であり、宇宙飛行士たちはまさに神の視線を獲得したのだ」と述べたあと、わたしは、「すべての宗教がめざす方向とは、この地球に肉体を置きながらも、意識は軽やかに月へと飛ばして神の視線を得ることではなかろうか」と書いたのです。

 その本の発売日である4月19日に、わたしは東京駅横の丸善の本店を訪れました。本が並んでいるのを確認したわたしは、そのままフラフラと半ば無意識に最上階の丸善ギャラリーに足を運びました。そこでは、「アルフォンス・ミュシャ展」の初日の展示が行われていました。言うまでもなく、ミュシャはアールヌーヴォーを代表する画家です。彼の膨大な作品は、広告業界にも多大な影響を与えました。もともとミュシャは好きだったので、わたしは何気なく会場を見回しました。すると、カラフルなアールヌーヴォー作品群の中に、ひっそりとモノクローム・リトグラフの作品が飾られており、「主の祈り」という題名がついていました。それを見た瞬間、わたしの身体に電流が走りました。

 なんと、それは、地上でうごめく多くの人間たちが夜空の月を仰いでいる絵なのです。しかも、その月は巨大な天上の眼でもあるのです!おどろいて丸善の学芸員の方にお聞きすると、1899年に描かれたこの絵はミュシャが最も描きたかったものであり、それ以前の膨大なアールヌーヴォー作品の版権を放棄してまで、この絵の制作に取り掛かった。多忙な彼が下絵を何十枚も描いており、最初は空に浮かぶ巨大な顔(ブッダの顔のようにも見えます)だったのが、だんだん一つ目になり、それが三日月になっていたとのこと。その絵につけられた解説文には、「月は主の目であり、その下に、あらゆる人間は一つになるであろう」といった内容が記されているというのです。もう、わたしは本当に仰天して、感激してしまい、世界に12枚、日本には1枚だけしかなく、19世紀象徴主義を代表するというその絵を、神の思し召しと思って即座に購入しました。

 もちろん、ミュシャがそのような絵を描いているなどとは、まったく知りませんでした。わたしの本の内容とシンクロして、夢みるように会場へと導かれ、運命の出会いを果たしたのです。わたし自身は、スピリチュアルな体験だったと確信しています。ミュシャは薔薇十字会の人間だったそうです。また、『ケルトと日本』に鶴岡真弓先生がお書きになっているように、ミュシャはメイヴ像やエリン像などに代表されるケルトの女神をたくさん描いていますね。非常に秘教的な、宗教の根源にかかわるものを彼の絵には感じます。

 ともあれ、ミュシャの「主の祈り」は、今、わたしの部屋にあります。この絵を見るたびに、魂が揺り動かされる気がします。またそれ以来、夜空の月を見ると、神に見つめられているような気がしてなりません。鎌田先生にも、ぜひご覧いただきたいと思います。それでは、次の満月まで、ごきげんよう!

2006年5月10日 一条真也拝

ミュシャの「主の祈り」

一条真也ことShinさまへ

 シンさん、ミュシャの「主の祈り」の絵、まさに邂逅ですね。なまなましく、リアルで迫力のある絵ですね。絵でも文学でも哲学でも宗教でも、出逢い、邂逅があると思います、運命的な。シンさんが43歳の誕生日のまさにその日に、丸善のギャラリーで、三日月に向かって祈りを捧げる人々の姿を描いた絵画と出逢い、すぐさま購入したというのは、そのような運命的な邂逅に他ならないと思います。

 今から11年前の1995年3月20日、44歳の誕生日の朝未明、わたしは大宮の自宅の寝床の中で、突然飛び跳ねるような寒気に襲われ、ガクガクと布団の中で激しく震え始めました。なぜ突然そのような寒気が襲ってきたのか、今に至るも理解できません。その日の朝8時頃だったか、東京の地下鉄丸の内線の霞ヶ関駅あたりで、「地下鉄サリン事件」が起きたのでした。

 その事件でわたしは社会的なバッシングを受けたわけではありませんが、しかしそれ以上の「衝撃」を受け、それを受け止めかねて、3年間近く、荒れに荒れました。1997年6月に「酒鬼薔薇聖斗事件」が起こって、その「衝撃」が違うところから木っ端微塵に破砕されるまで、わたしは自分を持て余し、どうしていいかわからず、先行きに希望も持てず、絶望的な気持ちに陥っていました。自暴自棄になり、このポジティブなわたしが自殺まで考えたのですから、相当まいっていたのだと思います。もちろん、自殺などによって解決されるものでないことはよくよくわかっていましたが、まさに、ミュシャの「主の祈り」のような、光と救いと出口を求める日々でした。その頃わたしは「失楽園」のただ中にいたのです。ですから、この絵の世界はわたしには何か、生々しすぎます。ぞぞっと肌に触ってきます。フラッシュバックします。

 ともかく、その43歳の誕生日に、シンさんはこの「主の祈り」の絵と出遭ったのですね。今度ぜひ実物を見せてください。9月に大学の授業「地域文化演習」で宗像大社と小倉に行きますので、その折にでも見せていただければ幸いです。

 さてわたしはこの間、5月1日を以って、「モノ学・感覚価値研究会」を立ち上げました。日本学術振興会の科学研究(いわゆる「科研」)に申請していたテーマ「モノ学の構築——”もののあはれ”および”もののけ”から”ものづくり”までを貫流する日本文明のモノ的創造力と感覚価値を検証する」が採択されたので、早速研究会を立ち上げ、来週の土日、5月20日・21日に第1回目の研究会を開催します。

 研究分担者と研究協力者と研究会助手は次のような方々です。研究分担者として、梅原賢一郎(滋賀県立大学人間文化学部教授・美学)、河合俊雄(京都大学大学院教育学研究科教授・臨床心理学)、船曳建夫(東京大学大学院総合文化研究科教授・文化人類学)、島園進(東京大学大学院人文社会系研究科教授・宗教学・日本宗教学会前会長)、黒住真(東京大学大学院総合文化研究科教授・倫理学・日本思想史)、原田憲一(京都造形芸術大学教授・地球科学・比較文明学会副会長)、中村利則(京都造形芸術大学教授・比較藝術学研究センター研究員・茶道文化・茶室研究)、中路正恒(京都造形芸術大学教授・宗教哲学)、藤井秀雪・京都造形芸術大学教授・比較藝術学研究センター研究員(マネキン研究・空間デザイン)、小林昌廣(京都造形芸術大学教授・芸術生理学・医療人類学)、尾関幸(京都造形芸術大学助教授・比較藝術学研究センター研究員・美術史・ドイツロマン主義美術)の諸氏。——うーん。

 研究協力者として、竹村真一(京都造形芸術大学教授・文化人類学・情報メディア論)、関本徹生(京都造形芸術大学教授・アーティスト・近代産業遺産アート再生学会副会長)、松生歩(京都造形芸術大学教授・アーティスト・日本画)、大西宏志(京都造形芸術大学助教授・メディアアート、アニメーション)、茂木健一郎(ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー・京都造形芸術大学客員教授)、岡田美智男(豊橋技術科学大学大学院工学研究科知識情報工学専攻教授、生態心理学・認知科学)、近藤高弘(アーティスト・陶芸家)、辺見葉子(慶應大学文学部助教授・ケルト神話学)、田中貴子(甲南大学文学部教授・中世文学)、西山克(関西学院大学文学部教授、東アジア恠異学会代表・中世史)の諸氏。——うーん、うーん。なんとも、錚々たるメンバーだなあ。

 そして、研究会助手として、井関大介(東京大学大学院人文社会系研究科博士課程1年、宗教学、上田秋成研究)、石井匠(國學院大學大学院文学研究科博士課程1年、考古学、縄文図像学)、菅原一真(京都造形芸術大学卒業生、大学院・イスラム図像学専攻進学予定)、鎌田諭紀(京都大学総合人間学部3回生)の諸君に手伝ってもらいます。おもろい、多彩な顔ぶれでしょう? 「おもろい、楽しい世直し」がわたしのモットーなので、それを実践に移すアヴァンギャルドな研究会にしていきたいものです。

 この「モノ学・感覚価値研究会」とはどんな研究を行うかというと、
① 日本人が「モノ」をどのように捉え、「モノ」と心と体といのちおよび自然との関係をどう見てきたかを検証すると同時に、「カワイイ・カッコイイ・ワクワク・ドキドキ・こわい・すてき・おもしろい・たのしい」などの快美を表わす感覚価値形成のメカニズムを分析します。② 「モノ」が単なる「物」ではなく、ある霊性を帯びた「いのち」を持った存在であるという「モノ」の見方の中に、「モノ」と人間、自然と人間、道具や文明と人間との新しい関係の構築可能性があると考えます。③ 21世紀文明の創造には新しい人間認識と身体論と感覚論が必要であり、感覚基盤の深化と再編集なしに創造力の賦活と拡充はないでしょう。それゆえ、「モノ」の再布置化と人間の感覚能力の可能性と再編成を探ることは極めて重要な21世紀的課題となるはずです。④ 人間の幸福と平和と結びつく「モノ」認識と「感覚価値」のありようを探りながら、認識における「世直し」と「心直し」をしていくのが本研究の大きな目的となります。⑤ また、「モノ」と「感覚価値」を新しい表現に結びつけ、大胆な表現に取り組んでいきます。
というようなこと、もろもろです。

 実は、この科研は、以前2004年に文科省のCOEに申請して残念ながら不採択になったものをベースに、新に再編し直して再挑戦し、「敗者復活戦」で生き返ったものです。ぜひ一度、この「モノ学・感覚価値研究会」のホームページを覗いて見てください。
http://homepage2.nifty.com/mono-gaku/

 第1回めの研究会は、京都造形芸術大学人間館402教室で開催します。お時間があればぜひ来てください。最初、簡単な自己紹介の後、3つの発題とディスカッションが行われます。
① 鎌田東二「モノ学の構築——モノとたましいからのアプローチ」
② 梅原賢一郎(滋賀県立大学教授)「感覚価値論への視座——モノと肉からのアプローチ」
③ 河合俊雄(京都大学大学院教授)「モノ学・感覚価値への視座−−モノと心からのアプローチ」

 その次の日の21日には、地球科学者の原田憲一さんたちと一緒に賀茂川沿い聖地フィールドワークをします。現地を歩きながら「モノ学」や「感覚価値論」を体感しつつ語り合う、「歩きながら考える=足で考える」一日にしたいですね。京都御所、賀茂御祖神社(下鴨神社)、上賀茂神社、貴船神社(奥社も)、鞍馬山を周り、賀茂川を北上していきます。最近わたしは京都という土地や御所や下鴨神社や上賀茂神社を新しい角度から見直し始めているので、みんなで歩いてみるのを楽しみにしているのです。

 わたしはこの研究会で、モノと次元・影・裏・奥・身・場・波動・音とのつながり、関係、位相などについて話をしてみようと思います。絵画表現としてはドイツロマン派の画家カスパー・ダヴィット・フリードリッヒの絵を使ってそのイメージを語りたいと思っています。フリードリッヒは不思議な人で、背面画を得意とした画家なのです。この「背面」の世界の深遠を覗き込むと、モノは霊でもあり、者でもあり、物でもある様相と関係性がより明確に見えてきます。とにかく、SpiritualityからMaterialまで、もののあはれからもののけ・ものがたり・ものづくり・ものぐるい・つきもの・つけもの(?)まで、モノづくしで行きたいと思うのです。ちょっとモノモノシイかな?

 さて、シンさんの本、『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫、大和書房)も読みでがありますが、『孔子とドラッガー』(三五館)も読みでがあると同時に、実に面白いですね。アイデアとヒント満載ですねえ、この本は。いい本だと思いましたよ、シンそこ。

 このところ、わたしは「次元」と「孔」についてよく考えます。孔から覗く−覗かれるという関係性や構造が、一挙にふさがったり、拡大されたりした時、世界は混沌と破壊と創造の渦に巻き込まれます。眼という孔、耳という孔、鼻という孔、口という孔、肛門という孔、臍という孔、それらの孔はまた次元回路になっていて、チャンネルとしてあちらとこちらをつないだり、切ったりしています。その孔の性能によって世界の解像度が変ってくるのです。世界の奥行きや影の長さや大きさが変って見え、感じられるのです。孔によし、奈良の都は咲く花の、匂ふがごとく今盛りなり!

 わたしは『霊的人間——魂のアルケオロジー』(作品社)の第1章で、ヘルマン・ヘッセを取り上げましたが、ヘッセは『荒野のおおかみ』(新潮文庫)の中で、「一次元よけいに持つ人間」の苦悩と歓喜を描きました。これはなかなかおもろい小説で、「知覚の扉」を開放するトランス/エクスタシー物語でもあります。一次元だけでなく、もし何次元もよけいに持っている人がいたとしたら、世界はその人の中でどのようなあり方をしているでしょうか? 見え方も聞こえ方も違うはずです。

 知覚の遠近法が変り、未来が過去となり、過去が未来となる座標軸の転換や、こちらとあちらがポジネガのように反転したり、肉体が霊魂となり、霊魂が肉体となったり、男も女も両性具有化したり、夢と現実は二元対立するものではなく、ただの位相間のグラデーションにすぎなかったり、子供はそのまま老人で、老人がそのまま子供であったり、神と悪魔が反転同位したり、卵が裏返って黄身が殻になったり、光が闇に包まれるのではなく闇が光に包まれたり、寝返りを打つと超新星が爆発したり、次元回路がさまざまなチャンネルによって結ばれてしかも理路整然として混乱のように見えて混乱ではなく実にロジカルに運動していて、世界は高次な混沌秩序の海のリズムを波打たせている……

 そんな、見るともなく見えてくるさまを、次元という異回路を通してとらえ直してみたいと考えているのです。ちょっと、頭の回路がぐちゃぐちゃしてきましたね。もっとぐちゃぐちゃにしてみたい気分ですが、今夜はここまでにします。このレター、京都から東京までの新幹線の中で書いていて、バッタリーがなくなってきたこともあるし、もう新横浜も過ぎて品川に近づいているし……。それではまた次の満月まで、Shinさん、ごきげんよう!

2006年5月10日 鎌田東二拝