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シンとトニーのムーンサルトレター 第152信

 

 

 第152信

鎌田東二ことTonyさんへ

 今年最初の満月は、いきなり「スーパームーン」です。しかも、1月は31日も満月で、満月が2回あります。2月は満月の日はありません。非常に珍しいですね。改めまして、Tonyさん、あけましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になりました。今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。

 大晦日から元旦にかけ、わたしは年中行事についての原稿を書いていました。民俗学者の折口信夫は、年中行事を「生活の古典」と呼びました。彼は、『古事記』や『万葉集』や『源氏物語』などの「書物の古典」とともに、正月、雛祭り、端午の節供、七夕、盆などの「生活の古典」が日本人の心にとって必要であると喝破しました。この観点から現在、わたしは年中行事の入門書を書いているのです。今春、PHP研究所より刊行の予定です。

 日本人にとって、正月はお盆とともに「生活の古典」の最たるものです。もともと正月というのは、年神を迎える年中行事です。古い信仰の形では、年神は祖霊神としての性格が強かったといわれています。ですから、お盆と対の関係にあったわけです。



今年最初の満月(スーパームーン)

雲に隠れた初日の出

 今年の元旦の朝、わたしは例年通りに北九州の門司にある皇産霊神社を訪れ、初詣をしました。午前6時半ぐらいに現地に到着し、7時から獅子舞を見学しました。それから、初日の出を拝もうとしたのですが、あいにく雲に隠れてしまいました。その後、神事「歳旦祭」が行われました。最初に、宗教法人皇産霊神社の代表役員でもある父が、続いてわたしが玉串奉奠しました。多くの同志とともに、それぞれの家族の幸福と会社の繁栄を祈願いたしました。

 神事の終了後は、父が新年の挨拶をしました。父は「今年も、みなさんとお会いできて嬉しいです。ただただ、天に感謝するばかりです」と述べ、それから「この門司では梅花石というのが採れるのですが、その正体は地球最古の生物とされているウミユリの化石です」と梅花石の実物を示して説明しました。会長は梅花石のコレクターで、自宅にはたくさん飾られています。さらに父は「今年は婚活事業に力を注ぎたいと考えています」と述べました。

 続いて、わたしがサンレー社長として挨拶しました。わたしは、「あけまして、おめでとうございます。平成30年をみなさんとともに迎えることができて嬉しく思っています。日本が直面している最大の国難は北朝鮮問題ではありません。それよりも深刻なのが人口減少問題です。人口減少を食い止める最大の方法は、言うまでもなく、たくさん子どもを産むことです。そのためには、結婚するカップルがたくさん誕生しなければならないのですが、現代日本には『非婚化・晩婚化』という、『少子化』より手前の問題が潜んでいます。ぜに、この国難を克服するためにも今年は婚活事業を推進したいと思います。『産霊(むすび)』の力で、子どもを増やしましょう。30年は『サンレー』年です。どうか、この一年を良い年にしたいと考えていますので、よろしくお願いいたします!」と述べました。



皇産霊神社の獅子舞のようす

皇産霊神社の巫女舞のようす

 それから、外に出てみんなで巫女舞を見学しました。インスタ映えするので有名なこの巫女舞を観ようと、多くの人々が神社に集まっていました。巫女舞の後は、お神酒、ぜんざい、おせち料理などが参拝客に振る舞われました。みなさん、ニコニコしながら美味しそうに口にされていました。熱いぜんざいをフーフーしながら食べる姿には、心温まるものがありました。

 縁結びの「むすび神社」、七福神、河童大明神、さらには昨年建立されたばかりの聖徳太子像にもお参りして、お賽銭をあげる人の姿がたくさん見られました。皇産霊神社は、もともとサンレーグループの総守護神を祀った神社です。こよなく太陽を愛する父の「北九州で朝日が一番美しい青浜に神社を建てたい」という願いがかなって1996年に建立されました。毎年、元旦には何千人もの人々がこの神社を訪れ、初日の出を拝んでいます。鳥居の向うには、九州最北端の美しい青浜の海が広がっています。その両隣には、「お天道さま ありがとうございます」と「ご先祖さま ありがとうございます」の文字が書かれた2つの看板が飾られています。ここにはシンプルな日本人の信仰の原点があります。帰り道、門司は青浜の海に後光が射していました。「天使のヴェール」というのだそうです。来年から大学生になる次女が教えてくれました。



皇産霊神社の歳旦祭のようす

初詣の帰路で見た「天使のヴェール」

 さて、昨年末の12月25日、つまりクリスマスの日に、嬉しい出来事がありました。Tonyさんのお力添えで拙著『唯葬論』の文庫版が発売されたのです。同書の単行本は、終戦70年の年である2015年の7月に三五館から出版されました。多くの新聞や雑誌の書評に取り上げられ、またアマゾンの哲学書ランキングで1位になるなど、かなりの反響がありました。しかし、2017年10月に版元が倒産するという想定外の事態が発生したのです。わたしの執筆活動の集大成と考えていた『唯葬論』ですが、同じく三五館から刊行された17冊の拙著とともに絶版になることが決まりました。当然ながら、わたしは大きなショックを受け、意気消沈していました。それを知ったTonyさんが仏教書出版で知られるサンガの編集部に掛けあって下さり、このたびサンガ文庫入りすることになったのです。Tonyさんには、感謝の念でいっぱいです。



『唯葬論〜なぜ人間は死者を想うのか』(サンガ文庫)

 『唯葬論』文庫版の帯には、中央部分に「問われるべきは『死』ではなく『葬』である! 博覧強記の哲人が葬送・儀礼のあり方を考え抜く・・・・・・途方もない思想書がついに文庫化!」というキャッチコピー書かれています。その右にはTonyさんが「弔う人間=ホモ・フューネラルについて、宇宙論から文明論・他界論までを含む壮大無比なる探究の末に、前代未聞の葬儀哲学の書が誕生した!」という過分な推薦文を寄せて下さいました。さらに左には、東京大学医学部附属病院循環器内科助教の稲葉俊郎氏が「人類や自然の営みをすべて俯瞰的に包含したとんでもない本です。世界広しといえども、一条さんしか書けません。時代を超えて読み継がれていくものです」との、これまた過分な推薦文を寄せて下さいました。お二人には、感謝の念でいっぱいです。

 帯の裏には「『唯死論』ではなく『唯葬論』」として、こう書かれています。「わたしは、儀式を行うことは人間の本能ではないかと考える。ネアンデルタール人の骨からは、葬儀の風習とともに身体障害者をサポートした形跡が見られる。儀式を行うことと相互扶助は、人間の本能なのだ。これはネアンデルタール人のみならず、わたしたち現生人類の場合も同じである。儀式および相互扶助という本能がなければ、人類はとうの昔に滅亡していたのではないだろうか。わたしは、この本能を『礼欲』と名づけたい。『人間は儀式的動物である』という哲学者ウィトゲンシュタインの言葉にも通じる考えだ。礼欲がある限り、儀式は不滅である。(「文庫版あとがき」)より)」

 さらにカバー裏表紙には、Tonyさんの「解説」から抜粋された文章が以下のように掲載されています。「『唯葬論』は、〈宇宙論/人間論/文明論/文化論/神話論/哲学論/芸術論/宗教論/他界論/臨死論/怪談論/幽霊論/死者論/先祖論/供養論/交霊論/悲嘆論/葬儀論〉全18章の構成。「宇宙論」から「葬儀論」まで、自然学(形而下学)から形而上学までの全領域を網羅した優れた問題提起作である。柳田國男が戦後社会の心と家族と共同体の荒廃を予見し、それを何とか防ぐために警世・警醒にして経世の書である『先祖の話』を出したように、直葬や0葬に向かいつつある世の風潮に、『唯葬論』は、この書を『すきとほつたほんたうのたべもの』としてこの時代にお供えし供養したのである」

 刷り上がった『唯葬論』文庫版を手に取って、わたしはいくつもの感慨を抱きました。巻末の「参考文献一覧」もその1つです。というのも単行本のときはページ数の関係もあって、膨大な量の参考文献を詰めて掲載し、非常に見づらかったのです。読者は「参考文献一覧」によって、新しい本との出合いを果たすことがあります。わたしは「これでは読者も読みにくいし、参考文献の著者の方々にも礼を失する」と申し訳なく思っていました。『儀式論』の担当編集者である弘文堂の外山千尋さんからも「『唯葬論』はとても良い御本ですが、あの参考文献一覧は残念ですね」と言われていました。今回の文庫版では参考文献は1行に1冊ずつ掲載し、非常に読みやすくなりました。

 他にも、感慨深い出来事がありました。「文庫版あとがき」の最後に、三五館の社長であった星山佳須也さん、わたしの担当編集者であった中野長武さんの名前を謝辞として記させていただいたことです。前述したように、わたしは三五館から18冊もの著書を上梓しましたが、星山社長や中野さんへの謝辞はまったく書かれていません。じつは、わたし自身はお二人に謝意を表明したかったのですが、「出版には営業スタッフなど多くの人間が関わっている。編集者だけが感謝されるべきではない」という星山社長の方針で固辞されてきたのです。正直、わたしには腑に落ちない部分もありましたので、文庫化によってお二人の名前を記すことができて感無量です。本書の出版は、わたしにとって、三五館の葬送儀礼となったような気がします。

 最後の解説では、Tonyさんが情熱的な一文を寄せて下さいました。「『真球(まきゅう)あるいは『すきとほつたほんたうの食べ物』としての『唯葬論』」のタイトルで、その冒頭に「一条真也の『唯葬論』は、吉本隆明の『共同幻想論』(河出書房新社、1968年)や岸田秀の『唯幻論』(『ものぐさ精神分析』青土社、1977年)や養老孟司の『唯脳論』(青土社、1989年)のアンサーブック・カウンターブックとして書かれた、気迫に満ちた壮大な論理構成による理論武装した体系的な著作である。著者が自負する通り、これは一条真也にしか書けない運命・天命の書である」と書かれ、その後もなんと21ページにもわたって本書の解説を書いて下さっています。この渾身の解説を読まれるだけでも、本書を購入される価値はあると思います。

 Tonyさんは解説の最後に、『儀式論』(弘文堂)とともに『唯葬論』が「『人類の未来のために』捧げられた聖なる供物である」と書かれ、「こころして 心の道に 歩み入る 天地人(あめつちびと)に 捧げる 本書(ふみ)と」、「人として 生まれて死ぬる 道行きを 祈り祭らふ こころと きみと」という2首の歌を詠んで下さいました。わたしも、「文庫版あとがき」の最後に、「日の本の こころとかたち 守るため 天下布礼を さらに進めん」、「風吹けど 月は動かず われもまた 志をば 曲げずに行かん」という2首の道歌を詠みました。

 わたしは、葬儀とは人類の存在基盤であると思っています。約7万年前に死者を埋葬したとされるネアンデルタール人たちは「他界」の観念を知っていたとされます。埋葬という行為には人類の本質が隠されていると思います。そして、わたしは人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えています。人類は死者への愛や恐れを表現し、喪失感を癒すべく、宗教を生み出し、芸術作品をつくり、科学を発展させ、さまざまな発明を行ってきました。つまり「死」ではなく「葬」こそ、われわれの営為のおおもとなのではないでしょうか。わたしは本書で「唯葬論」という考え方を提唱しました。

 わたしは『唯葬論』を何かに取り憑かれたように一気に書き上げました。心中には「俺が書かねば誰が書く」という大いなる使命感がありました。いつも義兄の慈愛をもって、わたしを見守って下さるTonyさんに心からの感謝を捧げたいです。

2018年1月2日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 新年、あけましておめでとうございます。2018年、平成30年の幕開けです。昨年末のクリスマス、2017年12月25日には、渾身の力作『唯葬論』がサンガ文庫入りし、新たな門出となりましたね。三五館の倒産は大変に残念なことで、わたしもいつか三五館から共著を出さねばと思い続けてきたので、本当に残念かつ申し訳なく思っています。星山佳須也三五館社長のご厚意に報えなかったことがかえすがえすも残念で悔いが残ります。

 が、文庫化された『唯葬論』は新たな装丁で、新たないのちを宿しましたね。『唯葬論』が予期せぬ「死」により弔いの「葬儀」を経て「再生」を遂げたとも言えます。少しでもその「再生」の助産の手助けをすることができたとすればうれしいかぎりです。「現代の縁の行者」として生きて行こうと30年余り前に誓ったことの一つでも実行できれば本望であります。

 『唯葬論』の「解説」を書きながら改めて思いましたが、『唯葬論』はShinさんのこれまでの100冊近い本の集大成であり、佐久間庸和=一条真也の人生の「萃点」(南方熊楠)となる最重要の著作ですね。宇宙論から葬儀論まで全18章、息つく間もなく疾走し続けた、ハイスピードにしてハイテンションにしてハイシステマティックな総合葬儀書(ホリスティック・ヒューネラル・ブック)です。

 よくぞここまで書きに書いたものです。ぜひ全世界に翻訳されて多くの読者を得て、葬儀という儀式を行なう人間存在について、人間の礼の本源について、知識と思索を深める機会となってほしいと願わずにはいられません。『唯葬論』は、そのための、最良のガイドブックであり、パートナーブックであり、アドバイザーブックの名著です。

 昨年、2017年を振り返ると、わたしの方は、5月に『日本人は死んだらどこへ行くのか』(PHP新書)を出し、7月に『言霊の思想』(青土社)、9月に恐山菩提寺院代の南直哉さんとの共著『死と生——恐山至高対談』(東京堂出版)、10月に編著の『身心変容の科学〜瞑想の脳科学』(サンガ)の4冊を出しました。その中の『日本人は死んだらどこへ行くのか』が2018年度の京都産業大学の国語の入試問題に使用されました。これまで入試問題には早稲田大学や名古屋市立大学で使用されたことがあるのでこれで3回目となります。いずれShinさんの『唯葬論』も入試問題に使われるようになるのではないでしょうか。また2016年4月に出した『世阿弥——身心変容技法の思想』(青土社)が2017年10月に第11回湯浅泰雄賞(著作賞、人体科学会)を受賞しました。

 上智大学グリーフケア研究所での勤めも2年目に入り、グリーフケアやスピリチュアルケアの領域の重要性と大変さと深刻さ・真剣さがよりいっそう身に染みて感じ取れるようにもなりました。やはり、65歳を過ぎて、前期高齢者の仲間入りをしたこともあって、葬儀を含む「死」の世界に一歩一歩近づき、「生老病死」の「四苦」の経験を積んでいることも原因していると思います。年を取らなければ身を以てわからないことがいっぱいあるものです。

 「としをとるのはステキなことです そうじゃないですか/忘れっぽいのはステキなことです/そうじゃないですか/悲しい記憶の数ばかり/飽和の量より増えたなら/忘れるよりほかないじゃないですか」と中島みゆきさんは「傾斜」(『寒水魚』1982年)で歌いましたが、「年を取るのは素敵なことです」と素直に言える人生というのは素敵なものと言えますが、「悲しい記憶の数ばかり/飽和の量より増えたなら」という「悲嘆(グリーフ)」の増加も伴う実態はなかなかうまくそうはいかないということでもあります。だからこそ、グリーフケアやスピリチュアルケの領域というか、その必要性が要請されてきているとも言えます。

 年末には、例年同様、出羽三山神社の松例祭に参りました。今年は年の暮れにかなりの吹雪と積雪があったので、羽黒山も山形県鶴岡市も結構雪がありました。「クラゲタリウム」で世界的に有名になった鶴岡市の名所のクラゲ水族館である加茂水族館にも見学に行きましたが、クラゲは本当に宇宙的です。その存在は宇宙を感じさせてくれます。

 日本列島のことを『古事記』は「クラゲなすただよへる国(島)」と記していますが、よくぞまあこの世界一の変動帯の日本列島のことをクラゲのように漂っている国(島)と命名したものです。折口信夫に従えば、年中行事という「生活の古典」を続ける中で、日本の動態をかくも精確にむことができるようになったということ自体が、凄いことではありませんか。

 Shinさんは年中行事についての本を書いているとのことですが、わたしは今年は、まず、編著『身心変容技法シリーズ第2巻 身心変容のワザ〜技法と伝承』(サンガ)を3月に出し、新書本を1冊か2冊、また単行本で『1910年のハレー彗星インパクト』(仮題)と『天皇論』(仮題)を出す予定です。この20年、懸案となっていた『スサノヲ論』もいよいよ平成の終わりとなった今年か来年春までには出したいものだと思っています。また、Shinさんとの共作の戯曲も完成させねばならないし、12世紀から13世紀の院政期から鎌倉時代初期までの歴史を踏まえた宗教と政治と生き方を描く小説も書き上げたいし、いろいろと書きたいテーマ、書かねばならないと思っているテーマや本があります。中でも、晩年の仕事として小説や童話や絵本や詩集や歌集や句集はずっとまとめたい、書きたいと思っていましたが、いよいよ今年から本格的に取りかかりたいと強く思っています。

 自分の生き方も書くものも絞り込みながら、第4コーナーを回っていきたいものです。が、世の中の動向や、それにも増して激動する可能性がある自然現象の変転に対応・対処できるように常に心構えと覚悟と準備をしておく必要があるとも思っています。これまで何十年もくどいほど言っていますが、わたしにとってもっとも恐ろしいことは、人間世界の戦争よりも、地球の自然現象の大変化です。これにより、戦争なんかしている場合ではなくなり、戦争よりも過酷な取り組みに全人類が向き合わなければならなくなります。

 NPO法人東京自由大学で、南方熊楠についての全3回のゼミ「森の守護者 南方熊楠」をやり始めているのですが、熊楠生誕150年だった昨年の南方熊楠ブームの中で南方熊楠を再検討してみることは、未来を構想する上でもとても大切だと感じています。Shinさんは折口信夫の所説を元にしながら本を書いているとのことですが、わたしは今年中に南方熊楠とその時代について本を書くつもりです。

 南方熊楠が「エコロギー」という言葉を明治44年(1911)に使って「神社合祀反対運動」を展開したことはよく知られています。「殖産用に栽培せる森林と異(かわ)り、千百年来斧近を入れざりし神林は、諸草木相互の関係はなはだ密接錯雑致し、近ごろはエコロギーと申し、この相互の関係を研究する特種専門の学問さえ出で来たりおることに御座候。」(和歌山県知事川村竹治宛て書簡、『南方熊楠全集』第7巻、526頁)。南方熊楠は、「森」のような多様多彩多元を「博物学」と「生態学」で包含した在野の研究者です。学者というより、研究者と言った方が適切だと思います。

 熊楠の名となった「熊」も「楠」もともに「神」として崇められてきた動植物ですが、神社に祀られるようになる神々は「八百万の神」と呼ばれるように、実に多様です。同時に、神々が寄り付いてくる「森」も実に多様です。

 そんな多様な神社を「一町村に一社」に統廃合するという政策を明治39年(1906)に第一次西園寺公望内閣(1906-1908)の内務大臣原敬が出してきます。最初はその勅令はそれぞれの地域事情に合わせた幅のあるものだったようですが、第二次桂太郎内閣(1908-1911)の内務大臣平田東助(1849-1925)がこの勅令を強く進めたので、およそ20万社あった神社が約半分の13万社近くに減ったと言われます。このわたしの祖父と同じ名前の平田東助は、明治43年(1910)5月に大逆事件が起こった時、幸徳秋水らを逮捕し処刑しました。幸徳秋水は社会革命党を結成していましたが、明治天皇暗殺計画には関与していなかったとされているので、冤罪ということになります。が、この平田東助は、この事件後、華族に列せられ、子爵となります。このあたりの政治と世相の動向も今の状況と似ているようにも思います。

 ともあれ、この神社合祀政策が特に励行されたのが皇祖神・天照大神の祀られている伊勢神宮のある三重県と、元徳川御三家の一つの紀州藩のあった和歌山県の二県でした。ちなみに、三重県は、9割もの神社が神社整理されて合祀されたとのことです。

 この神社合祀政策に、南方熊楠は、
  ①敬神思想を弱める
  ②民の和融を妨げる
  ③地方を衰微させる
  ④国民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する
  ⑤愛国心を損なう
  ⑥土地の治安と利益に大害がある
  ⑦史蹟と古伝を滅却する
  ⑧天然風景と天然記念物を亡滅する
という8つの反対論点を提示して猛反対しました。

 とりわけ、最初に、「敬神思想を弱める」と主張したところに、熊楠の一つの工夫と戦略があります。というのも、明治政府は、明治5年(1872)4月に国民教化策として出した「三条の教則」で「敬神愛国」を第一に挙げていたからです。 教部省は、
  ①敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事
  ②天理人道ヲ明ニスヘキ事
  ③皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事
の3つを「三条の教則」として掲げました。

 「敬神愛国・天理人道・皇上奉戴/朝旨順守」。南方熊楠はこの明治政府の国民教化運動のテーゼを逆手に取ったのです。これはいつも行き当たりばったりの事実列記の記述が多い南方熊楠にしては、なかなか効果的なインパクトのある戦略思考であったと思います。というのも、南方の思考はいつも根本的に事例主義の事実列記がだらだらと続き、「横一面」に際限なく連なり延びていくことが多いからです。誰か、近くに批評意識の高い鋭く論理明晰なブレーンがいたのかもしれません。南方熊楠も頻繁に寄稿した「牟婁新報」の社長・主筆の毛利柴庵(1871‐1938)とか。

 この毛利柴庵は大変面白い人物です13歳で、後に南方熊楠の墓ができる真言宗の名刹・高山寺(和歌山県田辺市)で得度し、高野山大学林(現在の高野山大学)を首席で卒業し、高山寺の住職となった真言僧ですが、東京日々新聞の社員も経験し、1900年に「牟婁新聞」(後の「牟婁新報」)の主宰者にして主筆として健筆を揮います。

 この「牟婁新報」には、大逆事件で処刑された12人中の幸徳秋水(1871-1911)・大石誠之助(1867‐1911)・成石平四郎(1882−1911)・管野スガ(1887-1911)が寄稿しているほか、堺利彦(1871-1933)・荒畑寒村(1887-1981)など多くの社会主義者も寄稿している大変進歩的な地方紙でした。南方熊楠はこうした社会主義者に交じって「牟婁新報」の常連寄稿者でしたが、社会主義者のような明確な政治信条を持って政治活動を行わうことはなかったので、彼らとは一線を画しています。

 ともあれ、南方熊楠の標本採集的な全事例明記主義にはまったく恐れ入ります。その目くるめくような地理学的・形態学的・空間的・博物学的・曼荼羅的記述。ここまでの併記・列記主義は、柳田國男にも折口信夫にもありません。三者三様にこだわりも文体も特色がありますが、南方熊楠のこの事例第一優先主義は群を抜いているというよりも、ほとんど狂気の沙汰、異様・異常・異形です。彼の思考・知識世界においては、すべての事例が空間的に並列的に存在しているかのようです。

 精神医学者の京都大学名誉教授木村敏さんは、個的心理的時間体験を、
  ①アンテ・フェストゥム〜祭りの前〜統合失調的
  ②ポスト・フェストゥム〜祭りの後〜鬱病的
  ③イントラ・フェストゥム〜祭りの最中〜癲癇的
と3類型化しました。

 ①の「アンテ・フェストゥム」においては、時間は未来から流れ、祭りの前に感じるそわそわ感や何が起こるか分からないという不安感などから来るハイテンションな分裂感があるようです。②の「ポスト・フェストゥム」では、時間は過去から流れ、それゆえに、事後の感覚に囚われ、無力や欠如や喪失や完結を感じ、もう手遅れという、「自己自身への遅れ」を感じてしまうとされます。そして③の「イントラ・フェストゥム」では、時間は「永遠の今」として、強烈な高揚感や感情の洪水に取り巻かれ、未来も過去もなく、ただただこの今の一瞬を生きているとされます。木村敏さんの弟子の野間俊一さんの『身体の時間——“今”を生きるための精神病理学』 (筑摩選書、2012年)には、この「イントラ・フェストゥム」においては「過去も未来もない純粋な現在だけがある」とされます。

 南方熊楠は、間違いなく、この「イントラ・フェストゥム=祭りの最中」的人間であると思います。わたしは、今回、『南方熊楠全集』を再読しながら、そのことをはっきりと認識しました。南方熊楠は「イントラ・フェストゥム=祭りの最中」的人間であるゆえに、その思考の中に「歴史学」がない、「時間」論がない、と。彼には明確な時間軸がありません。これは若い頃に癲癇発作を起こしたこととも関連があるかもしれません。

 わたしは、ある臨床心理士の京都大学教授に、「鎌田さんは『アンテ・フェストゥム〜祭りの前〜統合失調的』ですね」と言われたので、その違いがよくわかる気がしますが、南方熊楠は、完璧なる「イントラ・フェストゥム=祭りの最中」的人間でした。

 それに対して、折口信夫には「古代」あるいは「生活の古典」という「古」の基準軸がありました。その「古代」という時間軸は、幸運なことに、大正10年(1921)の沖縄探訪旅行によって沖縄という空間に転移し、明示的かつ体系的に確かめられました。一方、日本民俗学の「父」であり、「祖」である柳田國男も、「日本民俗学」を立ち上げ、市民権を獲得しようと努める中で、常に「歴史学」を意識し、拮抗したので、明確な時間軸を持っていました。歴史学は基本的に文献学、テキスト・クリティックを時系列的に行うことによって成り立つ学問ですから。

 しかし、柳田國男や折口信夫や、またすべての歴史学者が持つような歴史認識や歴史意識が南方熊楠には無いのです。歴史的思考・時間的意識がないために、事例だけが「永遠の今」に空間的に配列されます。『南方熊楠全集』第1巻に収められた『十二支考』は、十干十二支の干支の時間軸をテーマにしているにもかかわらず、時間についての言及が一切なく、すべてが空間的に際限なく配列され続けます。それは、彼の「腹稿」(下書き原稿)を見ると明らかです。

 こうした一回起的意識が欠如していることは、南方熊楠が研究した粘菌が永劫回帰的・循環的・自己変容的ということとも密接に関係しているかもしれません。南方熊楠にとって「心」は「複心」で、「密接錯雑」しています。 すべてがそのような「錯雑」系の複雑系、それが、南方空間です。そしてその「イントラ・フェストゥム=祭りの最中」の空間感覚を容れる社会運動が神社合祀反対運動だったのです。そんな思考のありようを第1回目の南方ゼミで行ないましたので、1月12日(金)に行なう次回・第2回目は、それを比較民俗学的に、さらに詳細に敷衍・腑分けしてみようと考えています。

 昨夜というか、今日の未明、1月2日の午前5時頃、西の方に沈んでいくお月様を見ました。ほとんど満月でしたね。凄く煌々と照っていました。本日1月2日の午後8時20分に、外に出て満月を見上げようとしましたが、先ほどまで顔を出していたお月様が残念ながら雲間に隠れていました。夜中に再び顔を出すかもしれないので、何度か見上げてみようと思います。この1年、どのような年になるか予測はつきませんが、しかし、どのような年になろうとも、慌てず騒がず、たんたんとやるべきことをやり遂げていきたいものです。この1年もまたよろしくお願いします。お互いにやるべきことをしっかり、地道にやり上げましょう!

 2018年1月2日 鎌田東二拝