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シンとトニーのムーンサルトレター 第151信

 

 

 第151信

鎌田東二ことTonyさんへ

 今年最後の満月は、今年最大の「スーパームーン」です。6月の満月より3割も明るいとか。Tonyさん、お元気ですか? すっかり寒くなりましたが、風邪など引かれていませんか? とうとう師走になりましたね。もうすぐ今年が終わるなんて信じられません。わたしは相変わらずバタバタと日々を過ごしていますが、ここのところ毎日、「天皇制」と「大相撲」について考えています。

 まずは「天皇制」について。1日に開催された皇室会議では、天皇陛下が2019年4月30日に退位される日程が固まりました。平成は再来年の4月末で終わります。翌5月1日から改元となります。じつに200年ぶりの天皇の退位となりますが、安倍晋三首相は会議を踏まえ「天皇陛下のご退位と皇太子殿下のご即位が国民の祝福の中でつつがなく行われるよう全力を尽くしていく」との談話を発表しました。政府は退位や即位の儀式のほか、新元号制定に関する準備を本格化します。

 今上天皇の即位は1989年1月でした。前年秋から続いた昭和天皇の病状悪化による自粛ムードが社会に停滞感を漂わせていました。昭和天皇の崩御を経て、皇室の服喪期間があり、官房長官を委員長とした「即位の礼準備委員会」が発足したのは89年9月。90年11月12日〜15日、今上天皇が即位を宣言したのです。その後、国内外の代表らが祝福する「即位礼正殿の儀」、祝宴を開く「饗宴の儀」などの即位に関連する儀式が行われました。

 拙著『儀式論』(弘文堂)でも繰り返し訴えましたが、「わたしたちは、いつから人間になったのか。そして、いつまで人間でいられるのか」という根源的な問いの答えは、すべて儀式という営みの中にあります。わたしは、人間は神話と儀式を必要としていると考えています。社会と人生が合理性のみになったら、人間の心は悲鳴を上げてしまうでしょう。そして、天皇陛下ほど「神話」と「儀式」をその存在で体現されている方はおられません。

 まず、天皇陛下は神話的存在です。日本人のアイデンティティの根拠は、神話と歴史がつながっていることです。神話により日本人は、現在の天皇家の祖先が天照大神につながることを知っています。『日本書紀』の一書によれば、天照大神は天を支配し、月読尊は海を支配し、須佐之男命は地を支配したとされています。天照大神はいまも伊勢神宮に祀られており、その子孫が皇室です。

 また、天皇陛下は儀式的存在です。代々の天皇陛下は、自ら稲を栽培され、収穫が終わると新嘗祭、神嘗祭で、今年の収穫のご報告をされます。新嘗は、新しくできた米を嘗(な)めるお祭。神嘗は、神々が新穀を嘗(な)めるお祭りです。天皇陛下が即位後初めて行う新嘗祭だけは、「大嘗祭(だいじょうさい)」と呼び、その儀式は遠く神代の昔から毎年続いています。ちなみに、伊勢神宮の20年に1度の式年遷宮は、20年に1度の周期で行う大神嘗(かんなめ)祭でもあるのです。

 日本人にとって天皇陛下は、2600年にわたってこの国を、そして日本人を形作るのに欠かせない「扇の要」でした。天皇陛下は、無私になられて日々国民の安寧と世界の平和を祈ってこられました。国民を第一に、そしてご自分は二の次と考えられ、国民のことをお気にかけられてこられました。ブッダ、イエスといった「人類の教師」とされた聖人にはじまって、ガンディー、マザー・テレサ、ダライ・ラマ14世など、人々の幸福を祈り続けた人はたくさんいます。しかし、日本という国が生まれて以来、ずっと日本人の幸福を祈り続けている「祈る人」の一族があることを忘れてはなりません。

 次は「大相撲」についてです。国技である大相撲が激震しています。九州場所の終了後、横綱・日馬富士は貴ノ岩への暴行事件の責任を取って引退を表明しました。しかしながら、わたしは、先の九州場所で40回目の優勝を果たした横綱・白鵬も引退すべきと思います。

 わたしは、白鵬ほど横綱にふさわしくない下品な力士はいないと思います。日馬富士暴行事件の現場に居合わせたこと、九州場所で1分半にわたって行司の判定に抗議をしたこと、優勝インタビューで暴行事件の当事者であるにもかかわらず「日馬富士関、貴ノ岩関を再び土俵に上げてあげたい」と発言したこと、その後あろうことか観客を巻き込んで万歳三唱をしたこと、そして全力士の前で「貴乃花親方を巡業部長から外してほしい」などと八角理事長に直訴したこと・・・すべてが礼儀と礼節を欠く行為です。日馬富士が引退会見で発言した「礼儀と礼節を大切にして生きてほしい」という貴ノ岩へのメッセージは、むしろ白鵬にこそ送られるべきでしょう。

 特に問題なのが、九州場所11日目の22日、結びの一番で初黒星を喫した後、土俵下で右手を挙げて勝負審判に立ち合い不成立をアピールし、約1分半、勝負後の礼をしない前代未聞の振る舞いをしたことです。暴行問題で揺れる九州場所で、横綱の品格が問われる所作でした。まったく、とんでもないことです。相撲の原則は「礼に始まり礼に終わる」であり、礼をしないで横綱が土俵を下りるなど言語道断! 

 『儀式論』の「芸能と儀式」にも書きましたが、相撲は各種の儀式によって構成された神事です。すでに『古事記』『日本書紀』に相撲の起源伝承が見られますが、史実としては「皇極天皇紀」のものが最古とされます。後に相撲は「相撲節会」として、承安4年(1174年)まで宮中の年中行事にとりこまれ、7月7日を式日として行事が営まれました。宮中での行事はのちに途絶しますが、相撲は武家や民間で流行します。近世になって盛んになった社寺への寄進を求める勧進相撲が、現在の大相撲の基礎となりました。民俗学者の折口信夫は「草相撲の話」で、体に草をつけて相撲をとっていたことを指摘し、この姿が異人のものであるとして、相撲を「遠くから威力のある神がやってきて、土地の精霊を征服するかたちだったのである」としています。

 しかしながら、マスコミの偏向報道もあって、世間では被害者である貴ノ岩や貴乃花親方をヒール扱いしてきました。貴乃花親方は「変人」として馬鹿にされ、ストールやマフラーやサングラスなどのファッションにまでケチがつけられました。

 今回の不可解な事件は、「八百長」「ガチンコ」というキーワードを含めて全体をとらえると、すべてがクリアになります。貴乃花親方の“八百長嫌い”は現役時代から徹底していましたが、そのような真実が背景にある事件について協会に報告しても揉み消されるのは目に見えています。

 そのために、協会からの聞き取りをはぐらかし、貴ノ岩本人への聴取を拒否し続けていたのでしょう。そのことを「貴乃花親方が次の理事長戦に利用しようとしている」などと邪推した連中を許せません。また、九州場所の千秋楽で白鵬とともに万歳三唱した人々は“九州人の恥”だと思います。現在の貴乃花親方の孤独な心中を思うと辛いですが、なんとか己の信念を曲げずに大相撲を正常化してほしいと願っています。

 じつは、貴乃花親方の父上である元大関・貴ノ花利彰氏(故人)は、わたしの父である佐久間進と交流がありました。もう35年前になりますが、両者は「土俵の上には儀礼の美がある」をテーマに対談しています。いま、わたしは貴乃花親方とぜひ対談したいと考えています。テーマは「大相撲と大和魂」です。なぜなら、貴乃花親方が本当に守ろうとしているものは「大和魂」であると思うからです。「大和魂」とは、その名のとおり、大いなる「和」の魂です。

 明治維新後から、日本中が「文明開化」の渦に巻き込まれます。『相撲、国技となる』風見明著(大修館書店)という本によれば、文明開化の流れの中で、世間では相撲無用論や相撲禁止論が起こったそうです。そして、明治4年(1871年)8月、当時の政府によって「断髪令」が布告されました。当然ながら力士は髷(まげ)を結っています。髷がなければ力士ではありません。空前の危機にあった相撲ですが、なんとか力士の髷は断髪令の例外として認められました。それでも、新しい時代を迎えるに当たって相撲への風当たりは強かったのです。

 しかし、そういった風潮を吹き飛ばしたのが明治17年3月に浜離宮延遼館で行われた天覧相撲でした。明治天皇が相撲観戦をされたことによって、東京相撲は往年の人気を取り戻したといいます。この天覧相撲では、勝ち力士に与える花を挿した花道を設けたり、行事が力士を呼び上げるなど、平安時代に盛んに行われました。それは、以後途絶えていた宮廷での相撲節会を彷彿させるものでした。この天覧相撲は、明治天皇の信任が厚く、事実上実力一の政治家だった内務卿の伊藤博文が企画したものとされます。

 この天覧相撲は、一般庶民に先立って、実際に観覧した国政指導者層(上流階級)に、東京相撲の存在価値やステータスを認識させることに成功しました。浜離宮延遼館での天覧から2年後、両国の回向院の近くに野見宿禰神社が創設されました。野見宿禰は垂仁天皇の前で当麻蹴速と相撲をとって投げ殺し、後年、相撲の神と崇められるようになった人物です。ここに東京相撲は完全に日本国民から認知され、相撲は「国技」の地位を得たようです。やはり、日本におけるブランドは「天皇」と深く関わっていますね。

 来年のNHK 大河ドラマの主役である西郷隆盛は大の相撲好きでした。明治天皇と相撲をとって投げ飛ばしたという逸話もあります。西南戦争で賊となった西郷の名誉回復は1889年ですが、同年、天皇は西郷の弟の従道邸に行幸しました。この時従道邸前庭で天覧相撲が供されましたが、これは「兄を偲ぶよすがは相撲だ」という従道の配慮だったとされています。相撲の歴史に関する古典である『日本相撲史』にも、相撲蛮風論が吹きまくった折、廟堂では西郷隆盛をはじめとした諸名士がこれに反対だったと書かれています。

 わたしは、西郷隆盛が相撲好きだったというのは大いに理解できます。なぜなら、彼の本当の肖像写真は謎とされていますが、その体躯が巨大であったことは多くの人々の証言から間違いがありません。ならば、巨体の人間は当然ながら相撲が強いはずで、それゆえ自身が得意な相撲を愛好していた可能性は大だからです。「文明開化」の激流の中で、ハリウッド映画「ラスト・サムライ」のモデルにもなった西郷が相撲という武士道に通じる日本文化を残そうとしたことは大いに考えられます。また、相撲の丸い土俵は「輪」=「和」そのものであり、「日の丸」や「円」にも通じます。

 そして西郷のアドバイスがあったとしても、相撲存続の最終決定をしたのは明治天皇です。そこには日本人の「こころ」をそのまま「かたち」にした土俵に対する明治天皇の想いがあったように思います。当時は、急激な西欧化の中で、大和魂というものが希薄になっていました。明治天皇は、「『和』のシンボルである相撲を残すことによって大和魂を残すのだ」と考えたのではないでしょうか。わたしには、そのように思えてなりません。

 ということで、今年も大変お世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。Tonyさん、どうぞ良いお年をお迎え下さい!

2017年12月4日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 2017年最後のムーンサルトレター、ありがとうございます。最近は毎日「天皇制」と「大相撲」について考えておられる由。どちらも実に長い歴史と由緒がありますので、一筋縄ではいかない難問ですね。いろいろな考え方や捉え方や立場があって、その観点によっては真逆も対立も起こり得ますので。わたしの方はと言えば、年末なので、今年はどんな年だったか、折々に振り返っています。

 大変化と言えるのは、まず、アメリカでのトランプ政権が誕生です。そのトランプ大統領が年の暮れになって、エルサレムをイスラエルの首都して認証するという世界を揺るがす大統領令を出しましたね。それにより、一挙に緊張が走り、連動して株価が暴落しました。また、北朝鮮のミサイルが何発も発射され、東アジア情勢のみならず、世界中の政治状況にきな臭い動きが進行していることはご承知の通りです。その大きな原因に米国の振る舞いがあります。

 そのような中で、「楽しい世直し」を掲げる我ら義兄弟の活動は、ほとんどドン・キホーテの誓いと「空念仏」(決して念仏宗を貶めているわけではありませんので、くれぐれも誤解なきように。神道ソングの中核に「なんまいだー節」もありますので)のような空しい状況が国内外で生まれつつあります。無常・無情・無力の時代感が……

 が、もとより覚悟で、「楽しい世直し」を掲げているので、というより、世の中が急速に劣化し悪化し残酷化することを予測予想予知しつつ、このような活動を「平成」の世になってから意図的に始めているので、へこたれることはありませんが、「日暮れて道遠し」の感は日々募ります。年末、師走の極月12月でもありますし。

 さらに振り返れば、いくつかの著作でそれこそ「百万遍の念仏」のように何度も言っていることですが、現代が「中世」のようになってきているという時代変化があります。拙著『現代神道論』(春秋社、2011年)では、次のように述べました。

<現代大中世論とは、一言で言えば、4つのチ縁の崩壊現象とそれを踏まえた再建への課題を指している。それはまず、地縁・血縁・知縁・霊縁という4つのチ縁の崩壊現象として現れてくる。限界集落を抱える地域共同体やコミュニティの崩壊。家族の絆の希薄化と崩壊。知識や情報の揺らぎと不確定さ。「葬式は要らない」とか「無縁社会」と呼ばれるような先祖祭祀や祖先崇拝などの観念や紐帯や儀礼が意味と力を持たなくなった状況。物質的基盤から霊的・スピリチュアルなつながりまで、すべてのレベルでチ縁が崩落し、新たな効果的な再建策やグランドデザインを生み出せないでいるのが今日の現状である。>

 ホントに、今なおいっそう、そう思っています。また、『月刊京都』2011年12月号の「霊性の京都学27」(白川書院刊)には、次のようにも書きました。

<わたしは以前より「スパイラル史観」と「現代大中世論」を主張してきた。その歴史観は、古代と近代、中世と現代に共通の問題系が噴出しているとして、近代と現代を古代と中世の問題系の螺旋形拡大再生産の時代と見て取る史観の提示であった。古代と近代の共通項とは、巨大国家の確立、すなわち帝国の時代の到来であった。古代帝国と近代国民国家の確立の中で覇権を争い、中央集権的な国家体制の確立を見、植民地支配を含む「帝国化」の過程が進んだのが古代と近代の特性である。

 対して、中世と現代には、二重権力や多重権力に分散し、権力と社会体制の混乱が深刻化する。日本では、源平の合戦や南北朝の乱や応仁の乱が続き、朝廷・天皇と幕府・征夷大将軍という二重権力体制が進行し、西欧においても十字軍の戦乱により教会と封建諸侯に権力分散していくが、この時代はまた、宗教と霊性・スピリチュアリティが自覚的に捉えられた時代で、日本では一向一揆などが起こり、現代の「パワースポット」ブームにも該当するような蟻の熊野詣や西国三十三ヶ所などの聖地霊場巡りが流行した。同時に、この時代に「無縁・無常・無情」が時代的キーワードともなっている。政治経済や文化面だけでなく、自然そのものが繰り返し猛威を振るい、対策を講じがたい疾病が流行する。そんな「乱世」に突入しているのだ。>

 その「乱世」という言葉を使って、歴史の「道理」の移り行きを考察したのが慈円です。わたしはこの30年ほどずっと慈円(1155‐1125)に注目してきました。なぜなら慈円こそ、「乱世の申し子」だからです。慈円が生まれた1155年の翌年、保元元年(1156年)に保元の乱が起こり、慈円はこれを以て「武者の世」「末世」「乱世」の始まりと『愚管抄』で位置付けています。慈円はわが国で最初に「歴史哲学」的思考を展開した人として知られています。また、『新古今和歌集』の最有力歌人としても著名です。

 慈円は、天台座主を4度も務めた藤原摂関家の御曹司で、同腹実兄は『玉葉集』などの日記を著し、法然に『選択本願念仏集』を書かせた摂関家長者ともなった摂政関白九条兼実です。だから平安時代の当代一の名門貴族の生まれなのです。

 慈円の晩年、1201-1216年に、源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮の6名を編者として、『新古今和歌集』が編纂されます。もっとも、寂蓮は編纂の命があった翌年に死去したため、実質、撰者の仕事はできませんでした。建仁元年(1201年)、後鳥羽上皇の命により編纂が始まり、元久元年(1204年)にひとまず完成しますが、その後、歌の修正や切り継ぎをし、建保4年(1216)に最終的に完成します。しかし、その5年後、後鳥羽上皇は承久の乱(1221年)で隠岐の島に流され、そこで19年の歳月を過ごす中、さらに自ら『新古今和歌集』を精選して『隠岐本 新古今和歌集』を編纂しました。

 『新古今和歌集』の構成は、真名序、仮名序、巻第一春歌上、巻第二春歌下、巻第三夏歌、巻第四秋歌上、巻第五秋歌下、巻第六冬歌、巻第七賀歌、巻第八哀傷歌、巻第九離別歌、巻第十羇旅歌、巻第十一恋歌一、巻第十二恋歌二、巻第十三恋歌三、巻第十四恋歌四、巻第十五恋歌五、巻第十六雑歌上、巻第十七雑歌中、巻第十八雑歌下、巻第十九神祇歌、巻第二十釈教歌、です。

 「真名序」を藤原親経、「仮名序」を藤原良経が書いています。歌数は1979首で、全て短歌。中でも、西行94首、慈円92首、藤原良経79首、藤原俊成72首、式子内親王49首、藤原定家46首、藤原家隆43首、寂蓮35首、後鳥羽院33首と有力歌人の収録数は続きますが、とにもかくにも、慈円は、歌の名人「歌聖」西行の94首に並ぶ92首なのです。これは凄いことです。

 『新古今和歌集』には、「幽玄」と「有心」の美学が表現されているとされ、唯美的、耽美的、幻想的、絵画的、象徴的、技巧的な情調と韻律が特徴とされます。また、題詠も多くあり、大変演出的・演技的です。

 『新古今和歌集』の中心的な編者となった藤原定家は、承元3年(1209)に第3代征夷大将軍源実朝の求めに応じて著わした歌論書『近代秀歌』の中で「余情妖艶体」を主張しますが、「詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬ高き姿をねがひて」と述べています。また『毎月抄』では、「実と申すは心、花と申すは詞なり」とか、「(秀逸の体の)歌は、まづ心深く、長高く、巧みに、詞の外まで余れるやうにて、姿気高く、詞なべて続け難きが、しかもやすらかに聞ゆるやうにて、面白く、微かなる景趣たち添ひて、面影たゞならず、景色はさるから心もそゞろかぬ歌にて侍り。それをば、わざと詠まむとすべからず。稽古だにも入り候へば、自然に詠み出ださるゝ事にて候」とも述べています。

 「心深い」とは、どのようなことでしょうか? 心深く、技巧的で、しかもわざとらしくなく洗練されていて、気品があって、言葉を越えて「余情」が溢れ出す歌。

 後鳥羽上皇は、『後鳥羽院御口伝』の中で、西行(1118-1190)について、次のように述べています。「西行はおもしろくて、しかも心もことに深くてあはれなる、有難く出来がたき方も共に相兼ねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。これによりておぼろげの人のまねびなんどすべき歌にあらず、不可説の上手なり」

 面白く、心が深く、情趣たっぷりで、あわれの感がにじむ。人が絶対に真似することのできない生まれつきの天才歌人だ。名人西行を褒め称えます。キーワードは、やはり、「心深く」、ですね。

 その西行は、弟子の蓮阿に、「和歌はうるはしく詠むべきなり。古今集の風体を本として詠むべし。中にも雑の部を常に見るべし。但し古今にも受けられぬ体の歌少々あり。古今の歌なればとてその体をば詠ずべからず。心にも付けて優におぼえん其の風体の風理を詠むべし」とか、「大方は、歌は数寄の深なり。心のすきて詠むべきなり」とか、「和歌はつねに心澄むゆゑに悪念なくて、後世を思ふもその心をすすむるなり」とかと語ったと、蓮阿著『西行上人談抄』には記されています。『古今和歌集』を手本に詠むべきだと言っているのは注意すべき点です。

 また、『栂尾明恵上人伝記』には、西行の語った言葉として、有名な、「西行法師常に来りて物語して云はく、『我歌を詠むは、遥かに尋常に異なり。花・ほととぎす・月・雪、すべて万物の興に向ひても、凡そ所有相皆是虚妄なること、眼に遮り耳に満てり。又詠み出すところの言句は、皆是真言にあらずや。花を詠めども実に花と思ふことなく、月を詠ずれども実に月と思はず。只此の如くして縁に随ひ興に随ひ詠み置くところなり。(中略)此の歌即ち是如来の真の形体なり。されば一首詠み出でては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ。我此の歌によりて法を得ることあり。もしここに至らずして妄(みだ)りに人此の道を学ばば、邪路に入るべし』と云々」が載っていますが、これは後世「和歌即陀羅尼説」(鎌田東二『言霊の思想』青土社、2017年参照)として知られるようになります。歌を詠むことは、真言陀羅尼を唱えることと同じとまで言い切るのです。

 『新古今和歌集』に収めされた西行の歌をいくつか拾っておきます。

  ・岩間とぢし氷も今朝はとけそめて 苔の下水みちもとむらん(7)
  ・吉野山こぞのしをりの道かへて まだ見ぬかたの花をたづねむ(86)
  ・ながむとて花にもいたくなれぬれば 散る別れこそ悲しかりけれ(126)
  ・あはれいかに草葉の露のこぼるらむ 秋風立ちぬ宮城野の原(300)
  ・心なき身にもあはれは知られけり 鴫たつ沢の秋の夕暮(362)
  ・きりぎりす夜寒に秋のなるままに 弱るか声の遠ざかりゆく(472)
  ・さびしさに堪へたる人のまたもあれな 庵ならべむ冬の山里(627)
  ・都にて月をあはれと思ひしは 数よりほかのすさびなりけり(937)
  ・年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけりさやの中山(987)
  ・逢ふまでの命もがなと思ひしは くやしかりける我が心かな(1155)
  ・面影の忘らるまじき別れかな 名残を人の月にとどめて(1185)
  ・くまもなき折しも人を思ひ出でて 心と月をやつしつるかな(1268)
  ・今ぞ知る思ひ出でよとちぎりしは 忘れむとての情けなりけり(1298)
  ・月を見て心浮かれしいにしへの 秋にもさらにめぐり逢ひぬる(1532)
  ・風になびく富士の煙の空に消えて ゆくへも知らぬ我が心かな(1613)
  ・さやかなる鷲の高嶺の雲ゐより 影やはらぐる月よみの森(1879)
  ・闇晴れてこころのそらにすむ月は西の山辺や近くなるらむ(1979)

 寂蓮法師(1139‐1202)の「寂しさはその色としもなかりけり まき立つ山の秋の夕暮れ」と藤原定家(1162-1241)の「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮」(363)と並ぶ「三夕の歌」の一首として知られる西行(1118‐1190)の「心なき身にもあはれは知られけり 鴫たつ沢の秋の夕暮」も、しみじみ、「無常」と「あはれ」を感じさせてくれます。「心なき身」という大胆不敵な言い方は、「心深き」西行以外の誰にもできない離れ業です。

 その西行の94首に並ぶ92首の慈円の歌は、と言えば……

  ・散りはてて花のかげなき木のもとに たつことやすき夏衣かな(177)
  ・身にとまる思ひをおきのうは 葉にてこの頃かなし夕暮の空352)
  ・いつまでか涙くもらで月は見し 秋待ちえても秋ぞ恋しき(379)
  ・おほえ山かたぶく月の影さえて 鳥羽田の面におつる雁がね(503)
  ・ながむれば我が山の端に雪しろし 都の人よあはれとも見よ(680)
  ・みな人の知りがほにして知らぬかな かならず死ぬるならひありとは(832)
  ・うち絶えて世にふる身にはあらねども あらぬ筋には罪ぞかなしき(1756)
  ・思ふことなどとふ人のなかるらむ 仰げば空に月ぞさやけき(1782)
  ・思ふべき我がのちの世はあるかなきか 無ければこそは此の世にはすめ(1827)
  ・君をいのる心の色を人とはば ただすの宮のあけの玉垣(1891)
  ・ねがはくはしばし闇路にやすらひて かかげやせまし法のともし火(1931)
  ・いづくにも我が法ならぬ法やあると 空吹く風に問へど答へぬ(1941)

 などがあります。「おほえ山かたぶく月の影さえて 鳥羽田の面におつる雁がね」、なんて、いいですねえ。絵になりますねえ。

 一方、46首を載せた編者の一人の藤原定家は、

  ・春の夜の夢の浮橋とだえして 峰にわかるる横雲の空(38)
  ・大空は梅のにほひにかすみつつ 曇りもはてぬ春の夜の月(40)
  ・梅の花にほひをうつす袖のうへに 軒もる月のかげぞあらそふ(44)
  ・霜まよふ空にしをれし雁がねの 帰るつばさに春雨ぞ降る(63)
  ・桜色の庭の春風あともなし とはばぞ人の雪とだに見む(134)
  ・さむしろや待つ夜の秋の風ふけて 月をかたしく宇治の橋姫(420)
  ・駒とめて袖うちはらふかげもなし 佐野のわたりの雪の夕暮(671)
  ・たまゆらの露も涙もとどまらず 亡き人こふる宿の秋風(788)
  ・旅人の袖ふきかへす秋風に 夕日さびしき山の梯(953)

 など詠っています。「春の夜の夢の浮橋とだえして 峰にわかるる横雲の空」。なんて、技巧的、巧みなのでしょう。まさに、「余情妖艶体」。

 実は、わたしは拙著『歌と宗教—歌うこと。そして祈ること。』(ポプラ新書、2014年)の中で、実に不遜にも、西行と対抗歌合戦をやっているのですよ。わたしは西行に対抗して、鎌田東行と名乗っています。

  西行:よしの山 こぞのしをりの道かへて まだ見ぬかたの 花をたづねん
  東行:花祭り 鬼さえ鬼と知らずとて まだ見ぬ君の 天の乳房か

  西行:年たけて またこゆべしと思ひきや 命なりけり 小夜の中山
  東行:いのちはてて 超えてゆくらむ奥山を 照らせ今宵の 不死の新月

  西行:心なき 身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮
  東行:身も心も 尽き果ててなお 秋の気配ぞ 立ち惑いける

  西行:仏には桜の花を奉れ 我後の世を人弔はば
  東行:仏には仏の道の巡り花 神には神の魂寄りの歌

  西行:願はくは 花の下にて春死なむ そのきさらぎの 望月の頃
  東行:願うても願うてもうち砕かれて 木端微塵の流星の人よ

  西行:身を捨つる 人はまことに捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ
  東行:捨つるべき 何ごとのあるや花時雨 道なき道に 拾う神あり

 いかがでしょうか? 西行と東行の戦いは? 軍配はいかに?

 さて、Shinさんが日々考察している「天皇制」ですが、わたしの遠縁に鎌田純一という神道学者がいます。鎌田純一さんは、大正12年(1923年)に生まれ、平成26年(2014年)に亡くなりました。神道史学者で、皇学館大学教授、宮内庁掌典・祭事課長・侍従職御用掛などを務めました。皇学館大学名誉教授でもあります。

 神道史学者としては、『先代旧事本紀』の研究で知られ、著書に、『先代旧事本紀の研究 校本の部』『先代旧事本紀の研究 研究の部』(ともに、吉川弘文館、1960‐62年)、『神道文献』(神社新報社、1993年)、『中世伊勢神道の研究』(続群書類従完成会、1998年)、『平成大禮要話 即位礼大嘗祭』(錦正社、2003年)、『神宮史概説』(神社本庁、2003年)、『皇室の祭祀』(神社本庁研修所、2006年)、『神道概説』(学生社、2007年)、『神道史概説』(神社新報社、2010年)、共著に、上田正昭京都大学名誉教授との『日本の神々 『先代旧事本紀』の復権』(大和書房、2004年)があります。

 その鎌田純一さんが1988年に皇学館大学教授から宮内庁掌典に転職しました。そのことを知ってわたしは「ええっ〜!」と声を出すほど驚きました。この時期に宮内庁の掌典となるということは、新天皇即位に関わることが明らかだったからです。そして翌1989年、宮内庁祭事課長に任命されて、今上天皇の即位の礼や大嘗祭に奉仕したわけです。無事その務めを終えて、1994年に退任。その後は、宮内庁侍従職御用掛を務めました。雅子妃殿下に宮中祭祀や神宮祭祀の御進講もしたとのことでした。また大嘗祭に際して天皇の命により皇族に大嘗祭について講義をしたとのことです。ある時には、長く宮中に仕えることができることをたいへん嬉しそうに手紙で知らせてくれたことがあります。2014年に鎌田純一さんが90歳で亡くなった時、わたしは大変後悔しました。「ああ、生前、鎌田純一さんにいろいろと話を聞いておけばよかった」と。しかし、すでに後の祭り。どうすることもできません。

 遠縁に宮中祭祀に関わる神道学者・祭祀者がいたのですが、わたし自身は天皇家に関わる「天つ神の神道」ではなく、先住土着の「国つ神の神道」を掘り下げることを使命として神道を研究し始めたので、鎌田純一さんの神道史学とはずいぶん趣を異にした神道学を展開してきたと思います。おそらく、皇室第一の神道学を奉戴する鎌田純一さんや神社本庁や宮内庁は、鎌田東二の神道認識や神道研究を認めないのではないでしょうか? しばしば、「鎌田東二さんは鎌田純一さんの息子ですか?」などと聞かれたことがありますが、純一と東二というのは少しつながりがありそうに見えますが、実質的な神道論ではかなりな距離があると言えるでしょう。

 ともあれ、「平成」という元号になった時から、「乱世」が始まるという直観を持ってしまったわたしは、いつも慈円の『愚管抄』の「乱世」論を念頭に置きながら、「今」を見つめてきました。そして、日本列島文化の掘り下げと再構築をベースに「楽しい世直し」を展開したいと活動してきました。故大重潤一郎監督の遺作『久高オデッセイ』三部作の製作担当をしたのも、そのような考えと縁の延長にありました。

 わたしは「権威」や「権力」というものの顕われや在り方には慎重でありたいのです。人々の自由や創造性を侵害するような権威や権力が抑圧的な圧力となる時にはそれを解き放つようなワザヲギをしたいのです。そうでなければ、創造的な未来はない、と思ってきました。ですので、非常にアンビバレントな位置にいる「申楽(能)」を大成した世阿弥を常に参照してきたわけです(拙著『世阿弥—身心変容技法の思想』青土社、2016年)。しかし、その世阿弥も佐渡に流されました。また、大本の出口王仁三郎は二度の弾圧を受けました。不敬罪、新聞紙法違反、治安維持法違反などにより。

 権力は国民を守るとは限らない。国民を犠牲にし、捨てることがある。確かに、今の日本国憲法は国民を護るように保障されていますが、しかし、時の権力はそうとは限らない。歴代権力は国益、国家を護ることを至上命題としており、「国民」を護るという命題と相反すること時、どちらを優先し、選択するでしょうか? 歴史上、ほとんどすべての権力が「国家」や「国体」を護ることを最優先してきたと思います。

 実質的に国家が分裂していたような二重権力体制の中世・武士政権時代は微妙な揺れがありますが……。ではありますが、そうだとしても、たとえば「征夷大将軍」職という「官位」を任命する任免権は天皇にあるのですから、律令体制以降今日に至るまで天皇を越える権力は日本には存在しないということになります。そのような特異構造を持ってきた日本の体制や文化構造は、大国主神の「国譲り」以来一貫した構造を持っているように思います。

 それが「現代大中世」という時代に、どのような弾け方をするのか、まったくもって予断を許さない。何が起こるかわからない、と思っています。そして、わたしが一番恐れ入るのは、何度も何度も耳にタコができるほど言っていますが、一番恐ろしいのは「権力」ではなく、「自然」です。「気象」です。地球気象がどうなるかが、運命の分かれ道だとさえ思っています。そうした気象の安定を図るのが宮中祭祀の重要使命であったことも歴史的事実です。「乱世」は人間の世の戦争や疾病だけでなく、一つは自然界の暴発となって現れます。地震、津波、台風、洪水、豪雪、竜巻、噴火、猛寒暑などなど。人間社会はその自然の中にあるので、そのダイレクトな影響をもろ受けます。

 Shinさんの本年最後のムーンサルトレターを受けて、思いもかけず、年末の長話になってしまいました。何が起こるかわからない不穏さを潜在させているこの時代、浮かれていることはできませんが、しかし、そのような「乱世」であるがこその「楽しい世直し」の道があるはずだと肝に銘じて生き抜いていきたいと思います。言葉だけでなく、心からよきお年をお迎えくださいと祈ります。

 2017年12月8日 鎌田東二拝

「徳島新聞」2017年12月4日朝刊(クリックで拡大表示できます)

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