京都伝統文化の森協議会のクラウドファンディングへのご支援をお願いいたします

シンとトニーのムーンサルトレター 第034信

第34信

鎌田東二ことTonyさま

 梅雨のため憂鬱な毎日が続きますが、Tonyさん、お元気ですか?5月24日(土)には、京大でお会いできて嬉しかったです。小倉から新幹線に乗って京都で降り、そこからバスに揺られて、やって来ました、京都大学!初めて訪れたのですが、かの時計台が見えたときは感動しましたよ。ここが多くの「知」の巨星たちが活躍した舞台かと想像すると、早稲田出身のわたしまで何だか身の引き締まるような思いがしました。

 その日は、時計台記念館の会議室で「第1回ワザ学研究会」が開催されました。Tonyさんからのご案内によると、「ワザ学研究会」とは、京都大学こころの未来研究センターの研究プロジェクトの一つで、「こころとモノをつなぐワザの研究」を実施する研究会とのこと。「こころ」に迫る観点として、「ワザ」に注目するわけですね。「ワザ(技・業・術)」を、人類が編み出し、伝承し、改変を加えてきたさまざまな技法であり、こころとモノをつなぐ媒介者としてとらえられています。

 その「ワザ学研究会」の共同研究員に小生を加えていただきまして、たいへん光栄に思っています。わたしが冠婚葬祭を業としていることから、おそらく、「儀式というワザの研究・開発をせよ」ということなのでしょうね。「ワザ」を英語にすると「ART」だと思いますが、わたしは、つねづね「ART」の意味について考えてきました。

 わたしは、地球を意味する「EARTH」という語にすべての秘密が隠されていると思っています。「EARTH」は三つに分解されます。「E」と「ART」と「H」です。その意味について考えると、おそらく「E」とは「EDEN」で、「H」とは「HEAVEN」でしょう。エデンの園から天国へ、地上の楽園から天上の楽園へ、人間の魂を導く手段が「ART」なのだと思います。つまり、人は「ART」によって天国に行けるわけです。すばらしい芸術作品に触れて心が感動したとき、魂が一瞬だけ天国に飛ぶのです。肉体はこの地上に残したまま、精神だけを天国に連れてゆく。絵画や彫刻などはモノを通して、いわば中継地点を経て天国に導くという間接芸術であり、音楽こそが直接芸術であると主張したのは、ヴェートーベンです。芸術とは天国への送魂術なのですね。

 そして、わたしは冠婚葬祭、とくに葬儀というセレモニーこそは「ART」そのものであると考えています。なぜなら葬儀とは、人間の魂を天国に送る「送儀」であり、人間の魂を天国に導くという芸術の本質をダイレクトに行なうからです。送儀=葬儀こそが真の直接芸術になりうると確信しています。その考えを基本としながら、今後、共同研究員としてさまざまな視点から儀式を追求し、鎌田教授のお役に立てればと願っています。

 さて、「第1回ワザ学研究会」では三つのテーマで発表が行われましたが、いずれも非常に興味深い内容でした。第一の発表者は、藤井秀雪(京都造形芸術大学教授)さんで、テーマは「京都の職人のこころとワザを考察する」でした。「職人にとってワザとは何か」という話の流れで、「人間の能力を頑なに信じ続けることもワザの一つと考える」という言葉が印象的でした。また、質疑応答での職人と作家の違いについての議論も刺激的でした。

 ただ、京都の職人さんたちのさまざまなエピソードを伺うと、孤独な作業ゆえか内向的なイメージが強く残りました。そして、わたしが気になったのは「作る人」「使う人」という言葉でした。腕の良い職人さんが寡黙であり、愛想がなくても何の問題もありません。しかし、自らが作った作品を愛用する人間に対して「使う人」という言葉が出てくるのは、わたしには違和感がありました。なぜなら、わたしは商売人です。どうしても「使う人」という表現には抵抗があり、「お客さま」という言葉が浮かんでしまうのです。

 一人の人間の満足や感性の世界に生きる職人さんたちの中には、顧客に対する愛、あるいは感謝という「こころ」はないのかなと感じました。もし、「お客さま」という言葉が顧客に対する「媚び」であり、職人のダンディズムに反するなどという考えが少しでも存在するのなら、間違っていると思います。どんなジャンルの職人さんといえども、ひとたび作品に価格がつけられ、資本主義市場の内に入る限りは、顧客への愛、感謝を欠いてはならないと思うのです。時間の制約のため、控えさせていただきましたが、本当は「職人の顧客に対する意識」について、藤井さんに質問したかったです。

 第二の発表者は、大西宏志(京都造形芸術大学准教授)さんで、テーマは「アニメーションを作るワザ教えるワザ・宮崎アニメと通信教育」でした。アニメーションとは、モノにイノチを与える芸術です。宮崎監督の「となりのトトロ」を使っての発表は非常にスリリングな知的好奇心に満ちていました。とくに、わたしが面白いと思ったのは、「トトロ」に出てくるドングリを「心のメタファー」としてとらえたところです。ドングリは、ころころ転がります。「こころ」の語源も「ころころ」ではないかと、Tonyさんが以前言われていましたね。ならば、ころころ転がるドングリはまさに「こころ」そのものであり、ドングリが成長した樫の木とは「こころの未来」そのものですね。

 ドングリは、前回のレターで触れたジェームズ・ヒルマンの唱える「魂の心理学」においても重要な役割を果たしています。わたしも『龍馬とカエサル』(三五館)に書きましたが、ドングリとは人間における「自己実現」のシンボルに他ならないと思っています。

 ドングリを割って、いくら顕微鏡で調べてみても、そのなかに樫の木の原型は見えません。しかし、しかるべき条件に置かれれば、やがて芽が出て、何十年後には大きな樫の木になるのです。つまり、ドングリの中には樫の木になる性質が潜在しているのです。同じことは人間についても言えます。人間の女性の子宮の中で、卵が受精すれば受精卵となります。この受精卵を取り出して百万倍の電子顕微鏡で見ても、そこに人間は見えません。しかしこの受精卵は、しかるべき条件に置かれるならば、やがて小さな赤ん坊になります。したがって受精卵という微細な蛋白質か何かの粒のなかには、将来、1.5メートル以上の人間になる可能性が潜在していることになります。

 ここまでは、ドングリも人間も同じことです。ところが人間には、生物的存在としての肉体の他に、自意識とか、精神と呼ばれるものがあります。つまり、「こころ」ですね。マズローなどの心理学者は、「自己実現」という言葉を唱えました。ドングリが樫の木になるのも自己実現であるし、受精卵が人間になるのも自己実現である。ドングリも可能性のかたまりであるし、受精卵も可能性のかたまりです。わたしたち人間は、自分の可能性を展開しているときに生きがいを感じますが、自己実現は生きがいそのものと言ってよいでしょう。そして、「会社や仕事を自己実現の場とすること、そこに生きがいを感じさせること、それこそがハートフル・マネジメントの核心である」と、わたしは書きました。

 それから、大西さんの発表で興味深かったのは、宮崎アニメにおける「水平葛藤→垂直浄化」のくだりでした。宮崎アニメの主人公たちは、みな水平の地平において葛藤し、最後には空中に舞い上がるという垂直移動によって浄化されるというものです。たしかに、どの作品もそうですね。わたしは、ご存知のように、「月の広場」や「月への送魂」といった新しいスタイルの葬儀=送儀を提唱していますが、これがそのまま「水平葛藤→垂直浄化」に当てはまることに気づき、たまらなく嬉しくなりました。そこで、その旨を研究会の場でも発言させていただきました。みなさん、「変な奴だな」と思われたのでは?

 そして、第三の発表者は石井匠(京都造形芸術大学非常勤講師)さんで、テーマは「縄文時代のものづくりとワザ—–土器を中心として」でした。考古学者としての立場を逸脱しないクールな姿勢には好感が持てましたが、岡本太郎が初めて縄文の(中期)火炎土器を見たとき、「まるで深海のようだ」と述べたというエピソードの披露は良かったですね。

 それから、縄文時代の野焼きの跡がなく、「どこで縄文土器を焼いたのかは謎です」という発言には、驚かされました。とんでもないミステリーではないですか、それは!近藤高弘さんは、火山の外輪山の溶岩を利用した可能性もあると言われていましたね。わたしは、海岸の砂浜などで野焼きをした可能性はないかと思いました。すぐ近くに消火用の海水がある場所を選んだのではないかと思いついたのです。それに、砂浜なら海岸線の変化で野焼きの跡が消えても不思議ではありませんよね。岡本太郎の「まるで深海のようだ」という言葉からも、わたしには海が連想されるのですが。

 まあ、こんな感じで、当日は京都造形芸術大学の三人の方々の発表にはワクワク、ドキドキさせられました。本当に有意義かつ楽しい時間でした。研究会後の懇親会は、帰りの最終新幹線の時間が迫っていたために途中で失礼しましたが、ワザ学研究員のみなさんとは、またお目にかかり、意見交換させていただきたいと願っています。

 そして、京都の次は金沢です。6月5日(木)、6日(金)の二日間、北陸大学のリベラル・アーツ・ウイークで講演を4回やりました。リベラル・アーツというと、「教養教育」とされ、「専門教育」に対して低い位置にあると思われているようです。しかし、それは日本だけの話で、アメリカの大学などでは4年間リベラル・アーツしか教えません。医学にしろ法学にしろ、専門教育とは「職業教育」と同じであり、その後に教えられるものです。そもそも、13世紀のヨーロッパで誕生した大学とはリベラル・アーツを教える場所でした。いわゆる、「三学四科」ですね。文法・修辞学・論理学の「三学」と、算術・幾何・天文学・音楽の「四科」を修めなければ、真の教養人とは見なされませんでした。

 そして、わたしの講演テーマは、「法則の法則」でした。この6月23日に上梓する新しい著書のタイトルと同じです。この世に存在する、ありとあらゆる法則に共通するメタ法則を導き出そうという狙いの本ですが、その最重要人物とは、かのニュートンです。彼が発見した「万有引力の法則」こそは、アリストテレスも信じていた「月より上の世界」と「月より下の世界」という二つの異世界を初めて一つに統合する「史上最大の法則」でした。ニュートンといえばリンゴが有名ですが、実は天上の月をながめているうちに「万有引力の法則」を発見したといいます。この本では、その「万有引力の法則」が現在流行の「引き寄せの法則」へと「引用」されてゆく流れを描き、わたしなりの「幸福の法則」および「成功の法則」についても述べています。

 古代ギリシャには、ピタゴラスという大物法則ハンターが存在しました。有名な「ピタゴラスの定理」や「天上の音楽」などで知られる彼は、四つの方法で宇宙の「法則」を追求したとされています。その四つの方法とは、「数の学」「形の学」「星の学」「調和の学」でした。そして、中世ヨーロッパにおいて、それらの学は「算術」「幾何」「天文学」「音楽」と名前を変えました。すなわち、古代の秘教的な「法則」追求の方法がリベラル・アーツの原型になったわけです。わたしは、このことを『法則の法則』を脱稿して、講演のためにリベラル・アーツの歴史について調べたときに初めて知り、その偶然に驚きました。

 『法則の法則』(三五館)は刊行次第に送らせていただきますので、ご笑読下さいませ。おかげさまで、4月に出した前作『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)もまずまずの反響のようです。この本では、過去の聖人たちの「こころ」を求め、わたしなりに人類の「こころ」の未来を考えました。Tonyさんも登場しますので、ぜひ御批判を頂戴できれば幸いです。よろしくお願いいたします。梅雨が終われば、いよいよ夏。お忙しい毎日でしょうが、くれぐれも御自愛下さい。オルボワール!

2008年6月17日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 このところ、言葉にならないいろいろな感情を噛み締めていました。一つの原因は、6月8日の日曜日、秋葉原で連続無差別殺傷事件が起き、17名の方々が死傷した出来事にありました。あの事件が起きる直前にわたしは秋葉原の隣の神田紺屋町の今川中学校の校庭で法螺貝を吹いていました。実行委員長の中村哲さん(愛称:紺哲さん)が「江戸エコを始めるに当たって、場をお清めしてもらいます」とアナウンスしてくれた後、わたしは思いっきり、祈りの気持ちと共に、神田の町並みに法螺貝の波動を響き渡らせました。

 その日、地元の人たちが中心となり、NPO法人東京自由大学も参加して、「江戸eco」という、江戸時代の神田紺屋町を見直しながら現代の環境問題を考える大きなイベントが開催されていたのです。当日の目玉として、安藤広重の「富嶽百景」の中の一枚、ちょうど神田紺屋町の今川中学辺りから見た富士山の版画を展示しました。そこには、紺染めの幟のはためく中から優雅にまた雄大に顔を覗かせている、どこから見ても美しい富士山が描かれていて、「ああ、江戸時代って、実に風情豊かな、風流な時代だったのだな、などと思わせる力がありました。この「江戸エコ」の催しは神田紺屋町主催のイベントではありますが、同時にそれは、東京自由大学の10周年記念の協力事業としても行われたのです。そしてちょうどその催しが行われ始めた時間に、わずか1キロ先の秋葉原で加藤智大容疑者による事件が起こったのでした。事件が起こったその時刻、わたしは何も知らず、神田から鎌倉に向かっていました。

 その事件のことを知ったのは夜、鎌倉から帰ってきてからでしたが、事件の詳細を知れば知るほど、どうしようもないほど事態は深刻だと思わざるを得なくなってきています。そしてそのほぼ1週間後に、岩手・宮城内陸地震が起き、大きな被害が出ました。続けさまに大きな衝撃波が走ったのです。

 11年前の6月、1997年6月、神戸の連続児童殺傷事件で酒鬼薔薇聖斗を名乗る少年が逮捕されました。犯人は14歳の中学3年生でした。わたしはちょうどその年、埼玉県大宮市(現在はさいたま市)大成中学校のPTA会長を務めていました。そして、同中学校の設立50周年を記念する行事の実行委員長も務めていました。わが子が酒鬼薔薇と同学年だったこともあって、わたしはこの事件を大変深刻に受け止めました。2000年に『エッジの思想——翁童論4』(新曜社)を上梓したのも、その衝撃への止むに止まれぬ反応でした。また、その後、2004年に、主にこの酒鬼薔薇事件とオウム真理教事件の二つを取り上げた考察した『呪殺・魔境論』(集英社)を出したのも、事件に対する責めを何とか果たさねばならないという一心からでした。

 実はわたしは、このような事件が起こるかもしれないという予感を抱いていたのです。30代にわたしは高橋巌先生からルドルフ・シュタイナーの思想を学びました。その過程で、シュタイナーの悪や悪魔やキリストについての独自の考察のことがずっと気になっていました。『ルドルフ・シュタイナーの「大予言」』(イザラ書房)によると、シュタイナーは、「666」の3倍数になった時に、①唯物論的世界観、②エゴイズム、③暴力的欲望が強くなり、破壊的な状況が生まれてくると予言しました。この3つは相互に結びつきながら、優性思想的な特権的排他的排撃的思考を生み出すというわけです。シュタイナーはナチスドイツに毒を盛られて体を悪くし、病死したと言われていますが、わたしはこの「1998年」問題が頭から離れず、オウム真理教事件後の1996年には「宗教を考える学校」を1年間開催し、1997年2月2日の「鬼の宿」から「天河護摩壇野焼き講」を始め、1998年8月8日に「神戸からの祈り」を喜納昌吉さんの呼びかけを受けて開催し、同年(平成10年)10月10日に鎌倉の大仏さん(浄土宗高徳院)の境内で「東京おひらきまつり」を実行し、その年の暮れから準備して、1999年2月20日に、「東京自由大学」の旗揚げシンポジウムを西荻窪ウエンズで行ったのでした。

 さて、シュタイナーは「悪の力」の増大・強化に対応するのは、①友愛の精神、②完全なる宗教の自由、③精神科学による宇宙の霊性への洞察であると指摘しましたが、わたしは、それに関連して、①利他心、菩薩道、愛、友愛、②祈りと祭り、③八百万神思想、曼荼羅思想、仏性・如来蔵思想を自分たちの文化土壌から切り出すことができると考えていました。だからこそ、「神戸からの祈り」や「東京おひらきまつり」や東京自由大学などの活動を実施してきたのです。真正面から悪を認識し、それを無化していく道がないものか。わたしが考えてきたのはそのような「悪」と向き合う道でした。振り返ってみれば、わたしは高校時代に「ひとはなぜ犯罪や悪を犯すのか? 悪とは何か?」という問いに取り憑かれ、犯罪心理学や異常心理学と呼ばれる分野の研究をしてみたいと思ったのでした。そして、以来、「悪」について考え続けてきました。

 そして、そんなこの13年、また40年の流れの中で、今回の秋葉原の事件が起こったのです。この事件についての報道で大変気にかかったことがあります。その一つは、加藤智大容疑者の母親が、おそらく青森高校時代(太宰治や寺山修司が卒業した高校)に、「酒鬼薔薇聖斗みたいで気持ち悪い」と語ったと『週刊文春』で報道されていたことです。二つめは、事件が起きた時、その場にいた多くの人たちがいっせいに携帯電話を向けて事件による混乱の様子を写真に収めていて、そのシャッター音が異様に聞こえたと報道されていた点。三つめは、2チャンネルのスレッドなどで、加藤容疑者を「神」とか「聖人」と称える書き込みが急増していると『週刊新潮』に出ていたことです。

 わたしにとって、この3つの報道は大変気にかかるものでした。10年余り前に予感し、恐れもしていた事態がいよいよ本格到来した、と思わざるをえなかったのです。加藤容疑者は酒鬼薔薇聖斗と同学年です。この世代は、14歳の中学3年の時、酒鬼薔薇事件で問題視され、3年後の17歳の高校3年の時、「キレル17歳」として問題となり、そしてその8年後の25歳となった今、加藤事件でまた問題視されることになるでしょう。オウム真理教事件と酒鬼薔薇事件が戦後精神史のターニングポイントを象徴する事件の一つであったとすれば、その十数年後に起こった加藤智大事件もその延長線上にある次なるターニングポイントを告げる事件かもしれません。この世代の親の世代として、突きつけられた問題になりふり構わずぶつかっていかねばならないと思っています。酒鬼薔薇事件の1年余り後、わたしは清水の舞台から飛び降りる心持ちで「神道ソングライター」になり、歌い始めました。最初に作った歌は、「ぼくは15歳 旅に出る」というフレーズで始まる「エクソダス」という歌でした。それは、モーゼによるエジプトで奴隷の境遇に堕ちていたユダヤ民族の解放の闘争と旅の物語である「出エジプト記=エクソダス」のイメージをもとに、子供たちの自立・自存と旅立ちを歌う歌でした。2番目に作った歌は、「探すために生きてきた」という歌で、これははっきりと酒鬼薔薇聖斗に向けて作った歌です。そして、3番目に作った歌は「日本人の精神の行方」という歌でした。その3曲を、1998年12月12日、埼玉県浦和市(当時、現在さいたま市)の教育会館で数百人を前にして歌ったのでした。それが「神道ソングライター」としての最初のアクションでした。それから、まもなくまる10年がやってこようとしている矢先のこの事件でした。重い、重い問いとしてわたしの胸に突き刺さってきます。加藤事件も今日の世界情勢も。

 そんなことも重なり、言葉がすらすらとは出てこないのです。言い淀み、しこりを抱えた思いが胸の内を重苦しく塞いでいます。今回、お返事が遅くなった理由の一番の原因はそれでした。それ以外にも、いろいろと考えなければならない問題群が山積しており、まさに「こころの未来」も「環境の未来」も、「子どもたちやわたしたちの未来」も、到底、楽観視できるものではありません。しかし、あまりに深刻視していても、身動きが取れなくなります。わたしが止むに止まれず歌い始めたのはそうした「深刻」から「出エジプト=エクソダス」する出立の決意表明でもありました。だから、今回も、確かに胸塞がりますが、そこから出立する歌や言葉やアクションに投じていきたいと思います。

 そんなこんなで、今回、京都大学こころの未来研究センターでの「ワザ学研究会」のことについて、丁寧な報告やご意見をいただきましたが、それに返答することができないでいます。また、最近アマゾンの「伝記ランキング」と「PHP新書ランキング」の1位になったShinさんの近著『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)にも言及できませんでした。ごめんなさい。

 Shinさんは、最新著『法則の法則』(三五館)で書いていますね。「物識りよりも物分り」が大事だと。「物識り」とは「単なる論理やいろんなことを知っているだけ」だけれど、「物分り」とは「情理や実理、真理、道理など本当の理を解」していることだと(192ページ)。またそこで、イエスが「言葉によって多くの人々を呪い殺した」不良少年であったという、大変興味深い「新約外典」の記事を紹介していますね(222〜226ページ)。この点にわたしはとても関心を持ちました。なぜならわたしは17歳の頃から、「ヒトはなぜ犯罪を犯すのか? ニンゲン社会にはなぜ『悪』が存在するのか?」という問いに取り憑かれてきたからです。

 Shinさんは、結論として、
  1、「夢」から「志」へ
  2、「求めよ、さらば与えられん」から「足ることを知る」へ
  3、「黒魔術」から「白魔術」へ
  4、「呪い」から「祈り」へ
 という方向性を示し、そして、二つの法則、すなわち、
 第一法則=自分を産んでくれた親に感謝すること
 第二法則=世のため人のために志を立てること
 を、「究極の成功法則」であると提起しています(232ページ)。

 わたしはなぜニンゲンが「失敗」を繰り返す種族なのか、興味があります。戦争にせよ、暴力にせよ、それは破壊をもたらし、「自滅」「他滅」をもたらすことは明らかです。にもかかわらず、強迫観念のようにそこから逃れられず、それをくりかえす、その人類の「業=行為・カルマ」とは何なのか? 何のために「悪」が生まれたのか? 「犯罪」という現象が生起するのか? 堕落・退廃・崩壊への「引き寄せの法則」が生まれてくるのか?

 そのことを、考え続けながら、歌い続けたいと思うのです。

2008年6月22日 夏至の夜に 鎌田東二拝