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シンとトニーのムーンサルトレター 第165信

 

 

 第165信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、あけましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になりました。今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。元旦の早朝、北九州の門司にある皇産霊神社を訪れ、初詣をしました。ここには、サンレーグループの総守護神である皇産霊大御神が祀られています。わたしは午前6時半ぐらいに現地に到着し、まずは参拝を済ませてから7時から獅子舞を見学しました。

 それから、初日の出を拝みました。昨年と違って、今年は見事な朝陽を遥拝しました。わが社の「サンレー」という社名には「太陽の光」という意味はあるので、大変ありがたく、また心強く感じました。その後、巫女舞を見学しました。とても幻想的でした。インスタ映えするので有名なこの巫女舞を観ようと、多くの人々が神社に集まっていました。

 初日の出を拝んだ後は、「歳旦祭」の神事が行われました。「歳旦祭」では、最初に、宗教法人・皇産霊神社の代表役員でもあるサンレーグループの佐久間進会長が、続いてわたしが玉串奉奠しました。多くの同志とともに、それぞれの家族の幸福と会社の繁栄を祈願しました。神事の終了後は、佐久間会長が新年の挨拶をしました。会長は「今年も、みなさんとお会いできて嬉しいです。ただただ、天に感謝するばかりです」と述べ、それから「わたしは最近、邪馬台国と聖徳太子について研究をしています。ここに日本人の原点があるように思います」などと述べました。

門司の青浜から見た初日の出

門司の青浜から見た初日の出皇産霊神社での歳旦祭のようす

皇産霊神社での歳旦祭のようす

 続いて、わたしがサンレー社長として挨拶しました。わたしは、「あけまして、おめでとうございます。平成31年をみなさんとともに迎えることができて嬉しく思っています。平成最後の元旦です。『年賀状じまい』などという言葉も聞かれます。新しい時代が来ると、多くの慣習が消えると予測されます。しかし、『こころ』を豊かにする『かたち』である冠婚葬祭という文化をなくしてはなりません。先程、素晴らしい初日の出を遥拝しました。太陽は昇るとき、一気に加速して上昇します。わが社もおかげさまで昨年は大きな目標を達成しました。ぜひ、今年はさらなる高みを目指して一気に駆け上がろうではありませんか。どうか、この一年を飛躍の年にしたいと考えていますので、よろしくお願いいたします!」と述べました。

 4日、サンレーグループの新年祝賀式典を行いました。式典に先立って、松柏園ホテルの顕斎殿で新年神事を行いました。神事には、佐久間会長以下、北九州の幹部全員が参加しました。会場を神殿からバンケットに移して、いよいよ新年祝賀式典の開始です。さまざまな部署から総勢500名以上が参集しました。わたしは、例年通りに佐久間会長とともに入場しました。

 まず、勇壮な「ふれ太参加者全員に配られた「2019年 年頭所感」にも詳しく書かれているように、佐久間会長は「新時代の幕開け、原点に立ち返り更なる発展を」として、「日本社会が国難に瀕し、しかも本当に必要な物事を見失いかけている今だからこそ、わが国の伝統と当社が保ち続けてきた哲学、そしてそれらに根ざした行動が必要とされる時が到来しているといえるでしょう。皆様におかれましてもその自覚と、何よりも誇りを持って、新たなる時代を共に歩んでまいりましょう」と述べました。

 そして、いよいよ「社長訓示」です。わたしは、以下のような話をしました。輝ける平成31年をみなさんととともに迎えることができて嬉しく思います。おかげさまで、サンレーグループは昨年、過去最高の業績で終わることができました。サンレーグループはますます発展します。今年の元旦も、門司にある皇産霊神社で初詣をしました。そのとき、初日の出も拝みました。見事な朝陽でした。最初は青浜の海にゆっくりと顔を出した真紅の太陽は、姿を見せるやいなや一気に加速して上昇していきました。太陽の光とは、英語でSUNRAYです。見事な初日の出は、今年のサンレー大躍進を予告しているように思いました。

サンレーグループ新年祝賀式典

サンレーグループ新年祝賀式典祝賀式典での社長訓示

祝賀式典での社長訓示

 今年は平成の最後の年です。ここにおられるみなさんの人生においても、平成はいろんな出来事があったでしょう。かくいうわたしも平成元年に結婚し、平成5年に長女が生まれ、平成11年に次女が生まれました。そして、平成13年に社長に就任しました。その思い出に溢れる平成があと4ヵ月足らずで終わります。今年の4月30日に今上天皇は退位され、翌5月1日に改元となります。新しい時代の訪れで、あらゆるものが変化することでしょう。

 今年も多くの方々から年賀状をいただきましたが、文面に「紙の年賀状は今年限りとさせていただきます」というものがたくさんありました。いわゆる「年賀状じまい」です。もう新しい時代が来るのだから、古い習慣は終わりにしよう」という考え方が広まってきています。年賀状の他にも、さまざまな礼儀やビジネスマナーをムダだと感じている人が増えてきているようです。VRエヴァンジェリストのGOROmanさんが書いた電子書籍『マッハ新書 – 礼儀2.0』がネット上で話題となっていますが、それによれば、20代〜40代前半の人たちの多くが、礼儀の定義が変わってきていると考えているそうです。古い礼儀は「相手を重んじる。自分の時間を犠牲にし、時間を相手のために使う。直接会う。スーツなど服装をわきまえる」でしたが、新しい礼儀は「相手の時間を奪わないようにする(電話しない、リモートで済むものはリモート)」のだそうです。

 たしかに、礼儀というものはアップデートします。世の中、変えてもいいものと変えてはいけないものとがありますが、窮屈なばかりで意味のない礼儀、いわゆる虚礼などは廃れていくのが当然でしょう。平成が終わって新元号となったとき、それらの虚礼は一気に消え去ります。もちろん、結婚式や葬儀、七五三や成人式などは消えてはならないものです。それらは「こころ」を豊かにする「かたち」であり、それらを守るのが、わたしたち冠婚葬祭互助会の使命です。

 とはいえ、冠婚葬祭互助会そのものも変わります。結婚式・葬儀以外のそれらの新型サービスを会員のニーズやウオンツをつかんでそれを形にしたとき、互助会は新しい共同体としての姿を浮き彫りにできる。そのように、わたしは信じています。

 いま、七五三も成人式も結婚式も、そして葬儀も大きな曲がり角に来ています。現状の冠婚葬祭が日本人のニーズに合っていない部分もあり、またニーズに合わせすぎて初期設定から大きく逸脱し、「縁」や「絆」を強化し、不安定な「こころ」を安定させる儀式としての機能を果たしていない部分もあります。

 いま、儀式文化の初期設定に戻りつつも、アップデートの実現が求められています。「無縁社会」が叫ばれ、生涯非婚に孤独死や無縁死などが問題となる中、冠婚葬祭互助会の持つ社会的使命はますます大きくなります。いまや全国で2000万人を超える互助会員のほとんどは高齢者であり、やはり孤独死をなくすことが互助会の大きなテーマとなっているのです。わが社が行っている「隣人祭り」をはじめとした隣人交流イベント、グリーフケア・サポート、さらには見回りや買い物支援など、そして婚活サポートなども互助会に求められてきます。

 将来的に、互助会が進むべき姿は、「互助会4.0」です。これは結婚をプロデュースし、孤独死や自死をなくす互助会です。この互助会4.0のめざすところは「結婚は最高の平和である」「死は最大の平等である」というわが社の理念の実現です。「結婚をプロデュースする」とは、いわゆる「婚活」のことですが、もともと、夫婦こそは「世界で一番小さな互助会」であると言えます。これらを実現することこそ、わが社の大きなミッションです。相互扶助の心と人生を肯定する冠婚葬祭は永久に不滅です。「新しい時代を高い志で切り拓いてゆきましょう!」と述べてから、わたしは「新しき時代(とき)を迎へて 日の本とわれらの社 ともに栄えん」という道歌を披露しました。

 新年祝賀式典の後は、新年祝賀会が同じく松柏園ホテルで行われました。最初に、社長のわたしが挨拶しました。わたしは「平成最後の新年祝賀会となりますが、これからは祝宴です。儀式の後は直会、セレモニーの後はパーティーです。大いに食べて飲んで歌って楽しんで下さい!」と言いました。

 各部署の代表者のカラオケ大会で大いに盛り上がりましたが、最後は社長であるわたしの番が来ました。わたしは背に「祭」の一字が入ったロングガウンを着て、昨年末のNHK紅白歌合戦に特別出演した北島三郎の「まつり」を歌いました。「まつり」の イントロ部分で「年がら年じゅう、お祭り騒ぎ!」と叫んでから「初宮祝に七五三、成人式に結婚式、長寿祝に葬儀を経て法事法要・・・人生は祭りの連続でございます。今日はサンレーグループの平成31年の新年祝賀会ということで、めでわたしが「男は〜ま〜つ〜り〜を〜♪」と歌い始めると、大漁旗や巨大団扇を持った男たちが次々に出現。ついには巨大龍まで登場し、会場はカオス状態になりました。「祭」と書かれたブルーの法被を着た営業所長たちも登場しました。みんなで歌い、踊り、大いに盛り上がりました。わたしは、会場中を練り歩き、みなさんと握手をしながら歌いました♪たいなあ。祭りだ、祭りだ〜!」と言うと、早くも会場が熱狂の坩堝と化しました。

 最後の「これが日本の祭り〜だ〜よ〜♪」の歌詞を、紅白のサブちゃんにならって「これが平成祭り〜だ〜よ〜♪」に替えて歌い上げると、興奮が最高潮に達しました。歌い終わって、わたしが「ありがとう〜!」と叫ぶと、巨大クラッカーが鳴らされました。まさに「狂乱のカーニバル」といった感じで、割れんばかりの盛大な拍手が起こり、感激しました。

 その後、アンコールの拍手が鳴り止みませんでした。それで、もう1曲歌うことにしました。曲目は、サブちゃんと同じく紅白に特別出演したサザンオールスターズのデビュー曲「勝手にシンドバッド」です。わたしが「ララララララ〜ラララ♪」と歌いだすと、すでに会場の熱気は最高潮に! もともとノリの良い営業スタッフのみなさんが大いに盛り上げてくれました。途中でわたしは、「ララララララ〜ラララ♪ 森さん」「ララララララ〜ラララ♪ 清澄さん」など、ステージ上のスーパースター営業員さんたちの名前を叫びながら、腰をクネクネさせて「胸騒ぎの〜腰つき〜♪」と歌いました♪

祝賀会で「まつり」を歌う♪

祝賀会で「まつり」を歌う♪「勝手にシンドバッド」で大盛り上がり!

「勝手にシンドバッド」で大盛り上がり!

 「まつり」「勝手にシンドバッド」と続けば、これはもう日本音楽界最強のコラボです。力の限りに歌い上げると、もう最高に盛り上がりました。

 その後、わたしは大分、宮崎、北陸、沖縄と、サンレーグループの事業部を回り、新年祝賀式典と新年祝賀会に参加しましたが、祝賀会の最後には必ず、「まつり」と「勝手にシンドバッド」の二曲を社員のみなさんと一緒に熱唱しました。全員の「こころ」が1つになり、非常に濃密でエネルギッシュな時間と空間が創出されたように思います。このエネルギーで今年も「天下布礼」の道を突き進んでゆきたいと思います。Tonyさん、今年も、どうぞよろしく御指導下さいませ。

2019年1月20日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 10年1日の如く、満月の到来するたびにこのムーンサルトレターを交換し合って、もう14年近くになります。平成の半分ほどを、このムーンサルトレターも生きたということになります。これまでの長い年月、まことにありがとうございました。心より御礼申し上げます。

 さて、平成の時代にShinさんの人生に大きな転換があったこと、平成とともに歩まれてきた軌跡の一端を改めて伺うことができました。平成元年(1989)御結婚、平成5年(1993)長女誕生、平成11年(1999)次女誕生、平成13年(2001)社長就任、そしてそれから18年、社長業と作家業を車の両輪としながら、日本の社長の中で最も読書と著作を多様・多彩・多作に展開されてきましたね。その軌跡と達成に心からの敬意を表します。そんなShinさんの歩みから慈円の人生と時代を想起しました。

 慈円という人は、1155年、藤原摂関家の氏の長者の藤原忠通の子として生まれ、承久の乱後の1225年に滿70歳で没しました。父は摂政関白太政大臣を務めた公家中の公家、貴族中の貴族でしたが、天台座主に2度就任して在任中に殺害された明雲を師として、幼少にして出家し、実兄の九条兼実が摂政太政大臣になったことも関係し、源平の合戦から承久の乱の前後に、4度も天台座主になった僧侶で、歌人、当代第一級の知識人・文化人でした。その慈円が、承久の乱の起こる1年前の1220年頃には日本最初の歴史哲学書と言われる『愚管抄』を著し、順徳天皇や後鳥羽上皇や土御門上皇に献上したとされます。

 そこで、慈円さんが何をメッセージとして伝えようとしたかというと、時代というものにはそれを動かしている「道理」があるので、如何ともしがたい世の動きがあるものだ、だからそれに逆らわず道理の帰趨するところを見定めてその時代を生きていかねばならない。よくも悪しくも、「末世」である現代は保元・平治の乱以降、「乱世」となり、「武者の世」となった。そこには古代から今に至るまでの道理の変遷があり、元々は、天照大神と藤原氏の祖神である天児屋命との約束(約諾・幽契)があり、顕冥(顕幽)の表裏一体の絡まりの中で物事が進行し、今に至った。そして、王法と仏法をともに守ってきたわが国は、摂(摂政関白)の家である藤原摂関家を筆頭として王法を体現する歴代天皇を支え、今は武士の世となって、摂と武士を繋いでこの時代の安定を図ろうとしている。だから、この世の推移の道理をよく認識して、神仏冥会に祈りながら命脈を先に繋いでいくことが肝心である。そんなことを時の天皇や上皇に説得しようとして『愚管抄』を書いたと言われています。

 最近、わたしは歴史というものをよく考えます。人は「死」を目前にして「史」を振り返り、「詩」(物語)を紡ぐ、というのが持論ですが、本年3月に68歳となるわたしも、盟友であった故大重潤一郎(享年69歳)を2015年7月22日に亡くし、生老病死のいわゆる「四苦」を通して、『平家物語』ではありませんが、「諸行無常」の「響き」を聴くようになりました。

 「平成」と「平治」を結びつけ、「現代大中世」と言い続けてきたわたしにとっては、平成の世が終わることは、その先の新しい世の道理を見定め、そこでの生死をどう捉えるかという課題の突きつけでもあり、そのようなことから、日々、歴史を考えているわけです。

 年末年始にかけて、わたしは4本の音楽映画を観ました。その内、2本(『ボヘミアン・ラプソディ』と『アリー/スター誕生』)については、先回のレターに書いた通りです。その後、ホイットニー・ヒューストンについてのドキュメンタリー映画『ホイットニー オールウェイズ・ラブ・ユー』と、初代高橋竹山についてのドキュメンタリー映画『津軽のカマリ』を観ました。立て続けに音楽映画を4本も観たということになります。

 ホイットニー・ヒューストンは、よく知られているように、グラミー賞を8度も受賞した、アメリカのもっともポピュラーな人気女性歌手です。以前、ケヴィン・コスナーと共演した『ボディーガード』を観たことがありますが、そこでもホイットニー・ヒューストンは実生活と同じような大人気歌手を演じましたね。そして、その映画の中で、「オールウェイズ・ラブ・ユー」を歌って大ヒットしたのでした。

 ホイットニー・ヒューストンが歌の名手であることは映画を観てよくわかりましたが、しかし、エルビス・プレスリーを含め、歌手やロックミュージシャンやジャズメンがしばしば麻薬の虜になって身を滅ぼしていく「諸行無常」を目の当たりにするのはなぜなのか、これまでよくわかりませんでしたが、一つは資本主義の市場を生き抜いていくために自分自身を駆り立て鼓舞し続けなければやっていけないのか、歌うことが、あるいは音楽することが喜びではなく仕事となって、それも大市場の中での大仕事になっていった時の回転力を維持していくための彼らにとってはやむにやまれぬ「魔法の杖」だったのかと思いました。それがどれほどリスキーなことか、周りを見ていたら、分かりすぎるくらいに分かるだろうに、と理性では思いますが、しかし、スターとしてあることの緊張、いわゆるテンションとリラックスを保つために、それに手を出さざるを得なかったのか。コマーシャリズムの中における歌や音楽の麻薬性というものを考えさせられました。

 一方、青森県小湊生まれの高橋竹山は、3歳の時に病気となり失明寸前になります。当時、青森県では、目の見えない男の子は津軽三味線と歌を習ってボサマ(盲目の門付芸人)となり、目の見えない女の子は修行してイタコとなる以外に生きていく道はなかったと聞きます。もちろん、みながみなどのような道を歩んだというわけではないでしょうが、しかし、そのような民間芸能というものが一つの生きる手立てであったということは、グリーフケアやスピリチュアルケアの領域にいる今、いっそう切実に考えさせられました。

 今回、この映画を観て初めて、初代高橋竹山の奥さんがイタコであったことを知りました。高橋竹山は、明治43年(1910)、青森県東津軽郡中平内村小湊に生まれました。若い頃は東北と北海道を門付けして歩いたと映画で知りましたが、猛烈な寒さの中で、三味線を片手に弾き語りをして歩くのですから、その三味線も歌もどこか地の果てからの呼び声や叫び声のような、切実な響きと哀愁を奏でざるを得ないだろうと思われました。その響きの中には、「諸行無常」などという言葉も「無常」に響くような「人生無常」そのものの哀切と痛みと、しかし、そこにおける生存の切なる力と祈りがおのずと込められているようにも思いました。

 これは確かに芸能ではありましょうが、しかし、芸能という言葉では一括りにできないものがあると思わざるをえません。実はわたしは、1973年に、高橋竹山の生演奏を渋谷のジャンジャンで聴いたことがあります。わたしが22歳の大学生の頃です。大学は渋谷でしたので、よくジャンジャンや渋谷公会堂などにも行きました。蜷川幸雄演出の「マクベス」を観終えた後、パルコ劇場のエレベーターの中で平幹次郎と偶然乗り合わせて二人きりで1階まで下りた時の何とも不可思議な濃密な時間を忘れることができません。その時に俳優という存在がまとっているオーラというのか、眼には見えないけれども確かに発しているエネルギーというものを間近に感じ取りました。

 高橋竹山が時代の表面に浮き上がってきたのは、秋田出身の土方巽の暗黒舞踏や、青森県出身の寺山修司の天井桟敷の演劇活動などのアングラムーブメントが作用していたと思います。地の底から這い上がってくるエネルギー、地の底からの叫び、人間存在の業とも痛みとも力ともいえる言葉にならない力動を、津軽三味線と歌は響かせます。

 ところで、年末に、新潟市新津の「ささえ愛よろずクリニック」で、「久高オデッセイ第三部 風章」の上映会とトークを行ないました。今から27年前の1992年、ささえ愛よろずクリニック院長・理事長の今村達弥さんは、当時、新潟大学医学部の4年生でした。そして彼は、医学生の仲間とともに、「一日丸ごと宮沢賢治」を企画し、新潟大学理学部教授のオーロラの研究者の天文学者で宮沢賢治の研究者でもあった斎藤文一先生やわたしを招待してくれたのですよ。

 その時の医学部の同級生で仲間だった今井洋介さんも「久高オデッセイ」を見に来てくれた、大変有難くも嬉しかったですね。わたしの鍼灸の主治医で、今は故郷の柏崎市に住んでいる小林宏亮さんも夫婦で駆けつけてくれました。最初は20名くらいといっていたのが、結果的には3倍の60名の参加で、盛り上がりました。今村達弥さんとのトークも質疑応答も弾みましたが、その後の懇親会での全員トークも大変多様で多彩で、しかしそれでいて心地よいハーモニーもあり、心に沁みました。

 その翌日、ホテルのレストランで今井達弥さんと朝食を食べながらいろいろと話をし、彼が書いた当事者研究の論文などを話題にしながら話をしているうちに、わたしが研究代表をしている科研の研究会の身心変容技法研究会でぜひ発表してもらいたいということになり、とんとん拍子で次のような研究会を企画しました。


第74回身心変容技法研究会
日時:2019年3月24日(日)13時〜17時30分
場所:上智大学四谷キャンパス中央図書館9階911会議室(予定)
テーマ:身心変容技法と精神医療とケア
発表者①今村達弥(精神科医・新潟市ささえ愛よろずクリニック院長)「当事者研究によりかいま見た不思議な世界とその拡がり」
発表者②糸川昌成(東京都医学総合研究所病院等連携研究センター センター長・副所長、東京都立松沢病院精神科非常勤医師)「分子生物学者が挑んだ形無きものの科学〜病の意味と命」
司会:鎌田東二(上智大学グリーフケア研究所特任教授)

 四半世紀以上前の新潟大学医学部の医学生たちとの出会いがこのような実を結んだということに縁の不思議さと有難さを感じます。それもまた「諸行無常」の歴史の一面であります。今村達弥さんが立ち上げて6年になる「ささえ愛よろずクリニック」とは、次のような理念と特徴を持つものです。

新潟市秋葉区の心療内科・内科・精神科「ささえ愛よろずクリニック」のHP:http://www.yorozu-caretown.com/message/

院長ごあいさつ
院長ごあいさつ
 私は約20年間この旧新津地域に育てられた医者です。このご縁に対し医者として地域に責任を果たすべく、地域住民の人生フルステージをサポートする医療福祉総合ケアタウンを開設いたしました。 ストレス社会を乗り切るためのよろず相談に応じながら、生活を診て支援していくため、随時、地域へも出向いてまいります。そうして、ストレス社会を脱し、縁を大切にする’迷惑歓迎社会’を目指していきたいと考えます。あまり自力を頼り過ぎることなく、必要なときにはいつでもヘルプが言えるような関係性を築いていきましょう。

プロフィール
大阪大学人間科学部中退後
1994年新潟大学医学部卒業。学生時代より「よろず医療会」を結成し、専門家・市民ネットワークの活動を行う。
下越病院・沼垂診療所などで地域医療を研鑽し、1999年より精神科へ転じ、都立豊島病院、新津信愛病院を経て、2012年9月ささえ愛よろずクリニック開設。

役職・資格
2006年「ささえあいコミュニティ生活協同組合新潟」設立にかかわり現在、同理事
精神保健指定医
日本精神神経学会専門医
日本老年精神医学会専門医
日本サイコオンコロジー学会認定コニュニケーション技術研修会ファシリテーター
日本仏教看護・ビハーラ学会 理事

理念と特徴
理念と特徴
理念と特徴
 今村達弥さんの「ささえ愛よろずクリニック」の試みに多大なインスピレーションを与えたのは、宮沢賢治の「羅須地人協会」の理念と活動だったとのことですが、27年前の「一日丸ごと宮沢賢治」の精神が種となって、新潟市秋葉区の新津の地に根づいたのだと思うと感慨深いものがあります。年末には、例年通り、山形県鶴岡市の出羽三山神社の松例祭を鶴岡市議会議員の草島進一さんと一緒に参拝しました。羽黒山伏で、この数年、元旦午前零時に行なわれる「国分神事」で羽黒権現の所司役を務めている星野文紘さんにもお会いしました。毎年の恒例行事の営みは同じようであっても、またそこに一回一回の違いがあることを感じながら、年末年始を過ごしておりました。この一年、改めまして、よろしくお願い申し上げます。

 2019年1月21日 鎌田東二拝