身心変容技法オンラインセミナーを開催します

シンとトニーのムーンサルトレター 第087信

第87信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、今夜は中秋の名月ですね。昨夜、北九州市八幡西区のサンレーグランドホテルで恒例の「月への送魂」が行われる予定でした。しかし、台風17号の北上による悪天候のせいで、月は姿を現わしませんでした。非常に残念でした。今夜は、染織家の築城則子さんの御自宅で開かれた観月会に招待されたのですが、なんとか少しだけお月様を拝むことはできました。

 台風といえば、先日は台風のおかげでTonyさんとお会いすることができました。Tonyさんが講演のため訪れている宮崎県の日向から沖縄に渡る予定が、台風の接近のために飛行機が欠航となりました。Tonyさんは急遽、小倉に行先を変更して、15日(土)の夜に小倉に来て下さいました。いやあ、嬉しかったですねぇ。「ミャンマー・日本仏教交流委員会」の委員長に就任したばかりの父も、委員就任をお願いしたTonyさんの突如の来訪をとても喜んでいました。その父も交えて、16日(日)の朝は松柏園ホテルで朝食を一緒に取りながら、世界平和パゴダのこと、それから緊迫する日中関係についても意見を交換させていただきました。

 じつは、9月末から10月の初めにかけて、某テレビ局の取材がわが社に入るはずでした。孔子の生涯と『論語』の教えを紹介した正月特番の取材で、来年一月に全国放映される予定でした。孔子の「礼」の思想を実践しているということで、わが社は数日間にわたって取材を受け、わたしがインタビューで孔子の思想とサンレーの経営理念について大いに語るという構成でした。「天下布礼」にとっても非常に有意義な取材であり、わたし自身も楽しみにしていました。ところが、9月の後半になって「取材も放映も延期になった」との連絡が入りました。取材受け入れの準備も進んでおり、わたしも大変驚きました。

 なぜ、このような事態になったのか。番組の制作会社の説明によれば、昨今の日中関係の悪化が最大の原因だそうです。この番組は中国国営テレビとの共同企画ということもあって、企画そのものが難しくなったようです。まことに残念ですが、たしかに現在における日本と中国との関係は最悪であると言っても過言ではないでしょう。

 日本の尖閣諸島の国有化問題で、中国ではこれまでにない大規模な反日デモが繰り広げられ、多くの日系企業が教われました。日本を代表する企業であるトヨタをはじめ、パナソニック、イオン、ユニクロなどの工場や店舗が次々に破壊され、商品を略奪される光景をニュースで見て、呆然とした人も多いと思います。

 歴史的に見ても、また国際法上も、尖閣諸島は明らかに日本固有の領土です。にもかかわらず、無法を繰り広げる中国の人々やそれを黙認する中国政府を見ていると、怒りを通り越して悲しくなってきます。混乱に便乗して台湾まで尖閣を狙ってきました。

 日本の外交問題は、中国だけではありません。8月19日、なんと韓国は島根県の竹島(韓国名は独島)で李明博大統領直筆の石碑の除幕式を行いました。これは、もう悪質な挑発行為以外の何物でもありません。日本には軍事力がないので、諸外国から完全に舐められています。加えて、基本的な外交方針を持たない現政権のていたらく。いくら軍事力がなくても、日本は国際社会に対して「間違っていることは間違っている。正しいことは正しい」と言い続けなければなりません。

 わたしは、こういう時期だからこそ、逆に孔子の思想が必要なのではないかと思います。孔子は、人間としての基本を「礼」という考え方に求めました。中国や韓国が崩したものは国際法という「法」だけではありません。「法」よりも大切な「礼」というものを崩しました。「礼」とは、2500年前の中国の春秋戦国時代において、他国の領土を侵さないという規範として生まれたものだとされています。

 その「礼」の思想を強く打ち出した人物こそ孔子です。そして、逆に「礼」を強く否定した人物こそ秦の始皇帝でした。それは、始皇帝は自ら他国の領土を侵して中国を統一する野望を抱いていたからです。始皇帝は『論語』をはじめとする儒教書を焼き払い、多くの儒者を生き埋めにしました。世に言う「焚書坑儒」です。人類史上に残る愚行とされています。しかし、始皇帝が築いた秦帝国はわずか14年間しか続きませんでした。しょせんは「人の道」を踏み外した人間の作った国など、長続きしなかったのです。

 現在の中国は世界一の「礼」なき国と言えるかもしれません。「礼」の重要性を唱えた孔子や孟子もあの世で泣いていることでしょう。 冠婚葬祭という営みの中核となるのも、なんといっても「礼」です。わたしは、日頃から「礼」とはマナーというよりもモラル、平たく言って「人の道」であると言っています。

 原始時代、わたしたちの先祖は人と人との対人関係を良好なものにすることが自分を守る生き方であることに気づきました。相手が仲間だとわかったら、抱き合ったり、敬意を示すために平伏したりしました。このような行為が「礼」の起源でした。「礼」こそは最強の護身術であるとともに、究極の平和思想としての「人類の道」だと思います。

 日本、韓国、中国、台湾も含めて東アジア諸国の人々の心には孔子の「礼」の精神が流れているはずです。今こそ、その究極の平和思想としての「礼」を思い起こすべきでしょう。いずれ孔子特番が実現したら、そのことをインタビューでぜひ語りたいです。

 さて話は変わりますが、9月のはじめ、冠婚葬祭互助会業界の仲間たちとヨーロッパ視察に行ってきました。訪問国は、オランダとベルギーです。プロテスタントの国・オランダの人口は1669万人で、カトリックの国・ベルギーの人口は1095万人です。この両国は、もともとルクセンブルクを加えて「ネーデルラント王国」を形成していました。「ネーデルラント」とは「低地地方」という意味です。成田からANAでミュンヘンへ、そこからルフトハンザに乗り換えて、オランダの首都アムステルダムに入りました。オランダは、長崎にある「ハウステンボス」に本当にそっくりでした(笑)。

 オランダの伝統的葬送は、埋葬、すなわち土葬です。ドイツやフランスといった周辺国が火葬を容認していくのに対し、オランダでは火葬の導入が遅れましたが、1874年に「火葬を代替方法とするための王立協会」が設立され、火葬の容認と火葬場建設を推進する運動がスタートしました。40年後の1913年、オランダで初めての火葬場がついに建設されました。埋葬の代替方法としての火葬は、1968年の「遺体処理法」制定で公認されました。2011年現在、オランダ国内には95の火葬場があり、その約3割が埋葬墓地も併せ持っています。

 火葬が公認されると、今度は遺灰処置の問題が出てきます。オランダでは遺灰の埋葬地が足りず、火葬した上で埋葬するというコストのダブル負担に遺族の不満が大きくなってきました。そこで、散骨という方法が注目されました。オランダの立法府は、1991年に遺体処置法の改訂を行い、散骨の公認に踏み切ったのです。近年は散骨を希望する国民も増えており、オランダの埋葬場でも遺灰の墓地埋葬や散骨が行えるように敷地の再配分がなされています。

 わたしたちは、アムステルダムに本社のあるDELA社、PC Hooft社という2つの葬儀社を訪問しました。DELA社はオランダとベルギーで葬祭業および保険業を展開していますが、ヨーロッパ全体でも最大手の葬儀社です。1937年の創業で、もともとは葬儀の協同組合でした。DELAとは「みんなの負荷を各自が負担し合う」という意味のオランダ語の略語だそうです。その精神は「相互扶助」そのものであり、わたしは日本の冠婚葬祭互助会とルーツは同じだと感じました。

オランダの葬儀会場の様子

オランダの葬儀会場の様子オランダの墓地を取材する

オランダの墓地を取材する
 DELA社は現在では300万人以上の会員を有し、オランダで30000件、ベルギーで18000件、合計48000件の葬儀施行を誇る欧州最大手の葬儀社にまで発展しました。ベルギーにはアメリカ最大手の葬儀社SCIが進出していたのですが、数年前に撤退し、代わりにDELAがベルギー市場に参入したそうです。ガリバーの参入を恐れたベルギーの葬儀業界は国を挙げてDELAの成長に歯止めをかけているようです。

 オランダは複合民族国家ですが、ここ最近は無宗教の葬儀が増えているそうです。またオランダはプロテスタントの国として知られますが、教会と無縁の人々が多くなってきているというのです。一方、イスラム教徒の数は増加しているといいます。現在のオランダでは、宗教によらず「自分でやりたいようにやる」という葬儀スタイルが目につき始めています。日本における「お別れ会」に近い内容ではないかと感じました。

 わたしは、これまでアメリカやヨーロッパ、または韓国のセレモニーホールを回ってきましたが、今回のオランダおよびベルギーの葬祭施設には多大なインパクトを受けました。オランダとベルギーのセレモニーホールは、とにかく美しい!

ベルギーの火葬場は超モダン

ベルギーの火葬場は超モダンベルギーの古城ホテル

ベルギーの古城ホテル
 オランダでは、その名も「ライフアート・コフィン」という棺会社も訪問しました。この会社では植物や廃棄物を利用した棺を製作するのですが、その棺はアートそのもので、じつに美しいのです。エジプトのファラオのような棺や花柄のもの、その他、故人の人なりを表現した個性的な棺が大量に並んでいました。さすがはレンブラントをはじめとした偉大な芸術家を多数輩出した地方です。

 芸術大国の葬儀空間は、まさに美術館そのものでした。1人の人間の人生を締めくくる「人生劇場」としてのセレモニーホールは「人間美術館」でもあります。今後の日本のセレモニーホールが「人間美術館」を目指さなければならないことは言うまでもありません。

 もちろん、ヨーロッパでは葬儀だけでなく、冠婚関係の視察も行いました。西インド会社の本社だったという建物を再生した「West Indisch Huis」や砂糖会社を再生した「House Of Holland」、ベルギーではブリュッセル中央駅の前に位置するホテル「LE MERIDIEN BRUSSELS」、シャトー(古城)ホテルの「Chateau Gravenhof」などを視察しましたが、やはり冠婚よりも葬儀の視察において収穫が多かったです。

 今年は12月にも台湾の冠婚葬祭業界を視察する予定ですが、これからも世界各地に足を伸ばして各国の儀式の「いま」を見つめ、日本の儀式の「これから」を考えていきたいと思っています。

 また、「ミャンマー・日本仏教交流委員会」の委員として、Tonyさんとともに明るい世直しができることにワクワクしつつも、心から感謝しております。次にTonyさんにお会いできるのは、「ミャンマー・日本仏教交流委員会」の会議が北九州で開催される11月1日ですね。その日を心より楽しみにしています。日ごとに秋めいて涼しくなっています。この季節の変わり目、風邪など引かれませんよう、くれぐれも御自愛下さい。それでは、また! オルボワール!

2012年9月30日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 Shinさん、この前の9月15日には思いがけず、お父上ともどもお会いできたこと、大変うれしくも有難く思いました。台風12号が沖縄から九州を直撃したために、わたしが乗る予定の福岡空港から沖縄の那覇空港行きのJTAが欠航になり、そのために1日待機状態になったので、その夜、北九州・小倉の松柏園ホテルに向かったのでした。そして、その夜、翌朝、Shinさんやお父上の佐久間進サンレー会長とゆっくりお話しする機会を得、北九州市のパゴダのことや「ミャンマー・日本仏教交流委員会」について、いろいろと話をすることができ、とてもよかったと思います。

 さて、9月15日、わたしは宮崎県日向市で行われた「イワクラサミット IN 日向」で、「古事記にみる日向」と題する基調講演をしたのでした。前日の14日に日向市入りをし、『古事記』ゆかりの聖地(日向国一の宮の都農神社、八坂神社、立磐神社、大御神社)を参拝しました。特に、立磐神社と大御神社に深い感覚を持つと同時に、地元の人にとって、神武天皇伝承が日常の生活の中に溶け込んでいるのが大変印象的でした。

 神武天皇東征の船出の地とされる美々津の海沿いに磐座と思しき巨石の林立する中に、底筒男命、中筒男命、表筒男命の住吉大神を祀っているのが立磐神社ですが、その海辺から、七ツバエと一ツ神という二つの無人の小島が沖合に浮かんでいるのが見えます。神武天皇は船出してその二つの島の間を通って大和に向かい、二度とこの日向には戻ってこなかったので、地元の漁師さんたちは、絶対にその二つの島の間を通らないのだそうです。この二つの島の間の航行はタブーになっているのです。

 このように、日常生活を規制しているタブーの存在にわたしは強い関心を持ちました。なぜなら、わたしの家も850年余り前から、正月に絶対に酒を飲んではならない、酒瓶など酒器類を家の外に出して年末から正月3ヶ日を過ごすという風習とタブーがあるからです。そのタブーを破ると「祟りがある」とわが家では信じられ、伝えられてきたのです。

 このような、迷信のようにも思える民間信仰を、昔は、とても理不尽に思いましたが、最近は、別の観点から興味を持つようになりました。このようなタブーが家や家族や親族や共同体をどのような力で統合するのか、とか、そのタブーを護ろうとする成員の人生観や世界観やはたまた行動にどのような規制や影響を与えるのかとか、という観点です。

  美々津の漁師さんたちの日常生活や航路を規制するこの力とはいったい何なのか、それは神武天皇出発時の二千数百年前とされる時からこのような形であるのか、それとも、後世、どの段階かで、このような伝承とタブーが生まれたのか、興味が尽きないのです。そして、何よりも、この伝承とタブーが日常生活の中にリアルな形(行動様式)と力(規制力)として生きているということ、そのことに、驚きと興味を抱くのです。

 もう一つ、印象に残ったのは、日向市伊勢ヶ浜の大御神社でした。ここは、天照大御神を祀っている神明神社ですが、「伊勢ヶ浜」という地名もあってか、地元では元伊勢とも称されているようです。その神社周辺の断崖に、巨大な洞窟があり、そこに、鵜戸神社が祀られていました。案内してくださった新名宮司さんの許可を得て、その洞窟前で禊したのですが、何とも表現しがたいものがありました。

 というのも、わたしの聖地探究は、17歳の時の青島参拝から始まっていて、その青島を訪れた後、延岡市まで行く途中でこの日向市を抜けていったのです。10歳の時に読んだ『古事記』がこの時、単に神話の物語というだけでなく、神社という場所として、施設として、神話が今ここにこのような形で存在し続けていることにわたしは深い衝撃を受けたのです。神話が今ここの現実とはっきりと結びついた瞬間。それが、わたしの魂の奥深いところをキックし、わたしは帰宅後、口から弾丸を吐き出すようにして、詩を書き始めました。そして、その詩を最初に認め、評価してくれたのが、寺山修司さんでした。

 「日向」は『古事記』における影や陰の世界の「黄泉」や「出雲」の対極にある光と陽の地ですが、『古事記』からみた「日向」とは、①神話伝承、②聖地伝承、③神楽伝承という3つの伝承文化を保持した地といえます。その神話伝承においては、「日向国」のある「筑紫島」は、四国と同様、「身一つにして面(顔)四つ」ある島で、①北の「筑紫国」は「白日別」(しらひわけ)、②東の「豊国」は「豊日別」(とよひわけ)、③西の「肥国」は「建日向日豊久比泥別」(たけひむかひとよくじひねわけ)、④南の「熊曾国」は「建日別」(たけひわけ)と呼ばれ、すべて「日別(ひわけ)」の語を含みます。その「日別(ひわけ)」とは、古くは「火湧け」であったと思います。

 この「日向」は、イザナギノミコトの「禊」の地、ニニギノミコトの「天孫降臨」の地、そして、カムヤマトイハレビコ(神武天皇)東征の出発地と『古事記』や『日本書紀』には記されています。

 このように、わたしにとって、「日向」とは、大きな転換が起こった地なのです。それからおよそ45年。わたしの転換地で、『古事記』から見た「日向神話」の話をする機会を持ったのです。人生というものは、面白いものですね。

 ちょうど、そんな折、台風12号が押し寄せてきたのです。わたしは講演が終わり、イワクラ学会の渡辺豊和会長の話を途中まで聞いて、急ぎ、宮崎空港から福岡空港を経由して沖縄・那覇に行く予定でしたが、台風の影響で欠航となり、そこで、まずは一晩、小倉に泊まって、翌日まで様子を見ることにしたのでした。そしてその時、Shinさんとお父上にお会いすることができたのでした。

 結局、15日、16日と、福岡空港から那覇空港にフライトすることはできず、17日に神戸空港からは沖縄にフライトすることができました。そして、その日の夕方には、『久高オデッセイ』の映画監督・大重潤一郎さんのいるNPO法人沖縄映像文化研究所で、大重監督、須藤義人さん(沖縄大学専任講師・映像民俗学)、今津新之助さん(株式会社ルーツ代表)の3人とじっくり話をすることができたのでした。そして、翌18日・19日・20日朝まで、久高島に渡っていたのでした。

 というのも、10月20日(土)に、久高島と京都の中学生との三校合同で、「地元文化授業交流」の催しを、京都府と京都大学こころの未来研究センターとの共同企画として行なうことになっているからです。その打ち合わせをするために、久高中学と久高島留学センターを訪ねたのです。その催しとは、次のようなものです。


<第1回こころを整えるフォーラム 沖縄久高島と京都の中学生の「地元文化自慢授業」>

「久高島」は、沖縄本島の東南にある小さな離島ですが、古来、「神の島」として尊崇されてきました。しかし、過疎化の波の中で一時は小中学校の存続も危ぶまれましたが、久高島留学センターができて、日本各地から生徒が集まり、息を吹き返しました。その島で、子供たちがどのように自分たちの島を捉え、生きていこうとしているか、久高中学校の生徒を迎えて、地元京都市と京都府の二つの中学校の生徒とともに、地元文化を「自慢」する授業とディスカッションを行ないます。関心のあるみなさまのご参加をお待ちしています。

日時:2012年10月20日(土)13:00〜17:00 (受付開始 12:30〜)
会場:京都大学稲盛財団記念館3階大会議室
   京都市左京区吉田下阿達町46 (荒神橋東詰)
   http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/jp/about/access.html#center
参加費: 無料
定員: 80名(申込先着順)
プログラム:
  趣旨説明
  挨拶 兼島景秀(南城市立久高小中学校長)
  久高中学校(沖縄県南城市久高島)の中学生による「島自慢授業」
  西賀茂中学校(京都市左京区)・和知中学校(京都府船井郡京丹波町)の中学生による「地元文化自慢授業」
  生徒たちを中心としたディスカッション
コメンテーター:やまだようこ(京都大学名誉教授・立命館大学特別招聘教授・発達心理学)
司会:鎌田東二


 ところで、Shinさんは、9月の始めにオランダに行って、オランダとベルギーの葬儀産業を見学・交流されたようですが、わたしは、9月26日から28日まで、3日間、韓国に行ってきました。

 Shinさんも書かれているように、日本は、東日本大震災や福島原発の爆発や近畿などの大洪水被害などの打撃に加えて、中国や韓国との国境・領土問題で厳しい対応を迫られています。二国者間・あるいは三国者間の対立は激化しています。

 そんな緊張のさ中、どういうわけか、わたしは韓国の大学に招待されました。ソウル市南部近郊の京畿道城南市寿井区福井洞山にある嘉泉大学校で、全12学部の有志受講学生と先生方総勢210名に向かって、「アジア共同体の構築に向けた宗教の役割」という題で講義することになったのです。1982年に設立されて、本年創立30年になる嘉泉大学校は「真理・創造・雄志」を教育理念・建学の精神とする総合大学で、12学部74学科、約2万人の学生数を持つ、韓国内でも5番目の大きさの私立大学だそうです。

 この時期に、このテーマで講義や講演をするなんて、ちょっと無謀のように思いませんか? もちろん、半年前ほど前に招待が決まり、準備をしなければと思っているさ中に、緊張と対立が高まりました。

 結果的には、行って、話をし、交流ができて、本当によかったと思います。そして、これからも、長く交流を重ねていきたいと思いました。政府間の外交や政治経済的なやり取りだけでなく、民間の文化交流や議論の場がとても大事だと思いました。

 わたしの招聘元は、嘉泉大学校Sesaimaul研究所ですが、そのセサイマウルとは日本語の諺に言う「三つ子の魂百までも」という意味合いとほとんど同じだそうです。「三歳の子どもの心が80歳まで続く(基礎づける)という意味だそうです。まさに、拙著『翁童論——子どもと老人の精神誌』(新曜社、1988年)の世界です。

 韓国を訪問するのは、1977年頃以来、5回目か6回目になります。従兄がソウルに住んでいたこともあって、韓国には近しさを感じていましたが、同時に、日韓併合以来の日本帝国の植民地支配に対する歴史認識や、その「歴史認識」そのものの立場による種々の対立を身近に見ていて、日韓・韓日交流の困難さを強く感じていました。これまで、韓国では、20年ほど前に京畿大学校で、10年ほど前に梨花女子大学で行われたシンポジウムで、2度発表したことがあります。その時にも、この「歴史認識」や立場の相違を強く感じました。なので、わたしはこの問題について、Shinさんのように、明快に割り切ることはできません。微妙で強烈な亀裂を抱え込んでいます。

 けれども、そんな中で、1997年10月に伊勢の猿田彦神社で行った「おひらきまつり」で、韓国を代表する舞踊家金梅子(キムメジャ)氏を招待して、創作民族舞踊「日巫(イルム)」を上演していただきました。猿田彦神社の神田に設けられた仮設舞台で演じられたその舞踊に、わたしは、心底、震えるほどの感動を覚えました。そして、「芸術は国境を超える」という当たり前の真実と力を感じ、それこそが「平和のワザヲギ」であり、Arts of Peaceだと感じました。

 さらにその後、2009年4月9日と4月10日2日間、その金梅子(キム・メジャ)氏と創舞会(チャンム・ダンスカンパニー)の世宗劇場Mシアターでの舞踊公演「舞本」(チュンポン)の舞台に、音楽家の細野晴臣氏らと共に招かれ、石笛・横笛・法螺貝を演奏しました。その時のことを以下のように、「モノ学・感覚価値研究会」のMLに投稿したことがあります。


2009年4月14日 鎌田東二:東山修験道その42 東山修験道、韓国ソウルの交わりに昇天す

2009年4月10日
 今宵も、韓国のソウルのど真ん中の光化門の近くの世宗劇場Mシアターで、法螺貝を3回、思いっきり吹き鳴らす。昨日の4月9日と今日4月10日の二夜、金梅子(キム・メジャ)氏と創舞会(チャンム・ダンスカンパニー)の舞踊公演「舞本」(チュンポン)の舞台に、音楽家の細野晴臣さん、三上敏視さん、高遠彩子さん、嵯峨治彦さんと一緒に、5人のユニットで、“ミュージシャン”として参加し、そこで、石笛、法螺貝、横笛、神楽鈴、鐘などを演奏したのだ。

 昨日は、世宗劇場Mシアターの630席が満席になるほどの盛況で、今日も8割がた入っていた。金梅子氏と創舞会の舞踊は抑制と訓練がよくできていて、内容的にも大変深く高度で、好評だった。

 金梅子氏は1943年生まれの韓国を代表する舞踊家で、12歳で韓国の伝統舞踊を学び始め、宮中舞踊、民俗舞踊、儀式舞踊など、あらゆる舞踊技法を学び、修めた。伝統舞踊に基づく現代創作舞踊を創造し、韓国現代舞踊界の第一人者と評価も高い。1972年から1991年まで20年間、梨花女子大学の舞踊学科の教授として、舞踊教育また舞踊指導者の育成に尽力した。1976年に、創舞会を設立し、現在それは社団法人・創舞芸術院として運営され、伝統舞踊を継承し普及すると同時に、独創的でクリエイティブな現代創作韓国舞踊を探究し、実験的な作品も多く手がけている。1988年のソウルオリンピックでは閉会式の演出を行い、自らもソロを踊った。

 日本でも「梅の会」を主宰し、在日韓国人や韓国舞踊に関心を持つ日本人の舞踊指導に力を注ぎ、文化交流・芸術交流にも活発な活動を続けている。1999年には藤原智子監督のドキュメンタリー『伝説の舞姫 崔承喜〜金梅子が追う民族の心』に主演し、伝説の舞踊家崔承喜の仕事を再評価し、顕彰した。

 崔承喜は、1911年(明治44年)、日本帝国の統治下の韓国に生まれ、15歳の時、日本の前衛舞踊家・石井漠の門下生となり、1934年に日本青年館で行った第1回新作舞踊発表会で、その美貌と独創的で斬新な舞踊によって観客を魅了し、絶賛された。その後、活動を世界に広げた。1944年、帝国劇場で20日間のロングラン独舞会開催。連日満員の記録を打ち立てたがが1960年代半ば以降、消息不明となり、伝説の舞踊家として人々の記憶に残るだけとなった。

 金梅子氏は、ここで、崔承喜にかかわりのあった人を訪ねてインタビューし、また資料や文献なども調べ、崔承喜の仕事とその舞踊世界を明らかにしつつ、舞踊の可能性と未来を展望している。

 金梅子氏は、まったく、「踊る哲学者」だ。その作品は思索的、瞑想的、哲学的、宇宙的で、深遠である。コズミック・ダンス・パフォーマンスと言ってよい。彼女の代表作の「舞本」は、宇宙の中での生命や人間の誕生を表現した作品で、1、2、3とシリーズになっている。1は1987年に初演、2は1889年に初演。今回は開幕冒頭で1を、ラストで2を踊った。その1の音楽をわれわれのユニットが担当したのだ。

 金梅子氏は、梨花女子大学舞踊学科の教授を長く勤め、韓国舞踊界の70%ほどの韓国舞踊のダンサーが金梅子氏に教わっているといわれるほどだ。韓国舞踊界の重鎮中の重鎮で、人間国宝並みである。舞踊家というよりも、魔術師とかシャーマンとか、魔法使いと形容するのがふさわしい。

 金梅子氏は、国際交流基金から派遣されて、1996年に日本文化研究のために日本にしばらく滞在した。その時、金梅子氏を高千穂夜神楽や沖縄に案内したことがある。それが縁になり、1997年の猿田彦神社での遷座祭で、「日巫」(イルム)という太陽のシャーマンの創作舞踊をソロで1時間踊っていただいた。それは、日本のサルタヒコ−アメノウズメ神話と韓国の檀君神話の伝承に基づく日韓文化融合の創作舞踊で、その舞踊に、全観客が魅了されたのである。身も心もたましいも、すべてが震えるほどに。

 1970年前後、土方巽や笠井叡などの暗黒舞踏や聖霊舞踏を観たことがあった。舞踏家として期待された神領國資は親しい友人だったので、彼の作品も含め、かなりな舞踏や現代舞踊の作品を観ていた。が、それと金梅子さんの舞踊とは違った。何が違っていたのか?

 そこに、民族的文化伝承の現代的継承と自由なる表現者としての独創的な創作との幸福な結婚があり、それがもたらす象徴性とインパクトによる深い感動があったのである。それが違っていた。金梅子氏の舞踊には本当に震えた。

 金梅子氏の舞踊を最初に見たのは、美学者で元慶應大学教授の高橋巌先生が代表をしていた日本人智学協会の主催で行われた舞踊公演で、1985年の暮れか、1986年の初めだった。それから10回以上、金梅子氏の舞踊を観てきたが、観るたびに凄いと思う気持ちが深まる。

 2日目の楽日、われわれの担当演奏が終わり、「舞本2」を客席で観た。ううむ、ううむ、UUUMMMMM。すごい! 心の底から凄い舞踊家だと敬服し、感嘆した。


 今回わたしが招待された嘉泉大学校のセサイマウル研究所の所長さんは、金梅子氏の教え子でした。縁とは実に不思議なものですね。竹島—独島問題で緊張の高まっている中での招待講義でしたが、大変有意義で未来につながる交流ができたと思っています。これも、韓国を代表する舞踊家の金梅子(キム・メジャ)さんとの出会いと交流の積み重ねがあったればこそでした。そのことに、心より感謝したいと思います。

 わたしに与えられた講演題目は、<アジア共同体の構築に向けた宗教の役割>でした。わたしは、招かれたお礼の気持ちを込めて、法螺貝を奉奏することから始め、90分の講演途中で、石笛と横笛も吹きながら、このテーマを日本の宗教文化の視点を中核に次のような流れで講義しました。

1、地球環境問題と東日本大震災と近畿大洪水による災害
2、「宗教」とは何か? 宗教(4つの世界宗教:仏教・儒教・キリスト教・イスラーム)の特徴とはたらき
3、日本固有の伝統宗教である「神道」について
4、わたしが関わった平和活動と「アジア共同体の構築」の理念との関連性
5、まとめ

 上の「わたしが関わった平和活動」とは、具体的には、猿田彦神社のおひらきまつりや猿田彦大神フォーラム、天河文化財団、神戸からの祈り、虹の祭り、月山炎の祭り、9・11後の地球的公共平和会議などの運営や催しでした。そのような活動の中で、2003年に東京大学出版会より『公共哲学叢書3 地球的平和の公共哲学〜「反テロ」世界戦争に抗して』(公共哲学ネットワーク編)を出版したのですが、この会議と本の中で、わたしは「平和の感覚・平和のワザオギ・平和の創造」という問題提起をし、平和をもたらすワザ(技法)、すなわち、「アート・オブ・ピース」としての芸術と祈り(宗教的儀礼を含む)を取り上げたのでした。その頃、わたしは、「足の裏で『憲法第9条』を考える会」という集りを主宰していました。

 ともかく、そうした活動の場での取り上げた宗教の重要な役割とは、祈りであり、鎮魂・供養であり、愛や慈悲や誠の実践であり、深い生命的な共感に基づく多様な他者性の認識であり、その上に生まれる実際的な相関性・協働性の活動でした。わたしは、自分ではかねがね「保守本流」だと思ってきましたが、日本には「伝統文化」として、「神道」や「仏教」や、また顕著ではないかもしれませんが「儒教」があります。とりわけ、「神道」には「八百万の神々」の観念や「神仏習合」や「神儒習合」の歴史があります。そのような伝統文化を活かす形で、「arts of peace」、平和を生み出す活動を展開していきたいとかねがね主張してきましたが、基本的にはその考えは今も変わってはいません。それが、どのような効力を持つか、これからも地道な実践を積み重ねたいと思います。

 わたしに与えられた講演題目は、「アジア共同体の構築に向けた宗教の役割」ですが、それはこの時期、とても、非現実な理念であるかのように見えてきます。が、そうした中にあればこそ、民間における地道で真剣な文化交流が意味と力を持ってくると思いました。迂遠な道のようですが、それが一番力強くも生気のある友好の道ではないでしょうか。

ソウルで見上げた2012年9月27日夜の月

ソウルで見上げた2012年9月27日夜の月
 NPO法人東京自由大学の顧問を務めてくれた故山尾三省さんは、原発の廃止と「憲法九条を世界の憲法に」という遺言を残して2001年8月に逝かれました。わたしは、そんな山尾さんの遺志を継ぐを決意しましたが、しかし、その後の11年の世界の主たる動向は、山尾さんの遺志とは反対の方向に向かっています。けれども、わたしはあきらめてはおりません。たとえ、ドン・キホーテのようであっても、そのような方向に繰り返し向かおうとする飽くことなき努力を重ねたいと思っています。どこまで、何ができるか、わかりませんが、そう決意しています。

2012年10月1日 鎌田東二拝