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シンとトニーのムーンサルトレター 第015信

第15信

鎌田東二ことTonyさま

 Tonyさん、11月17日は株式会社サンレーの創立40周年記念祝賀会に、はるばる九州までお越し下さり、誠にありがとうございました。また、お祝いの法螺貝まで奏上していただいて重ねて御礼申し上げます。Tonyさんの法螺の音は宇宙まで響きわたるようで、その場の空気が浄化されるようでした。400名近くの参加者の方々も深く感銘を受けたようです。「これからも、世のため人のためになっていただきたい」というTonyさんからのエールの言葉も心に染みました。

 サンレーは「SUNRAY(太陽の光)」「産霊」「讃礼」という三つの意味を込めた社名を持つ、冠婚葬祭を業とする会社です。わたしは2001年10月に代表取締役社長に就任してから、とにかく無我夢中で走ってきました。ようやく社長就任から5年を経過し、おかげさまで無事に創立40周年を迎えることができました。これも、ひとえに社員各位、関係者の皆様、そしてサンレー会員様、お客様のおかげであり、めでたく会社として不惑の年に達することができたことを心から感謝しております。

 この5年間は、会社経営に対して困難なハードルが次から次へ登場した「小泉改革」の真っ只中にありました。経営をゲームとしてとらえれば非常に難易度の高いゲームをやってきた感もありますが、それだけに面白かったです。幸いにして、弊社はこの5年間を順調に歩んできました。社長に就任した直後こそ、ドラッカー理論の「選択と集中」で、全国展開していた営業エリアをシェアが1位の地域にのみ絞ったため売上は減少しましたが、その後はずっと増収・増益を続けております。借金も具体的には申しませんが、総額で当初の10分の1以下にまで減らすことができました。

佐久間庸和社長挨拶法螺貝を吹く鎌田東二義兄弟(左より、近藤高弘、鎌田、佐久間)

 社長としてのわたしの能力をはるかに超えて、好業績を残せた理由の一つに、実はTonyさんに作っていただいた社歌「永遠からの贈り物」の存在があると思っています。当社のM&A(Mission&Ambition=使命と志)をわかりやすく歌詞に込め、きれいなメロディーに乗せてくれた社歌を、全国のサンレー社員は毎朝歌っています。その後、男女の魂を結びつける結婚式、故人の魂をあの世に送る葬儀をはじめとした「魂のお世話業」としての冠婚葬祭の仕事をさせていただいております。会社が好調なのは、何よりも本業である冠婚葬祭サービスの評価の高さの結果ならば、社員が一日のスタートに歌う社歌が社員の心と魂に与える影響はきわめて大きいと言えます。もともと、わたしは「結婚は最高の平和である」「死は最大の平等である」の二つを口癖とし、日々提供する冠婚葬祭が「世界平和」と「人類平等」に直結しているのだと社員に常々訴えてきましたが、その根底には神道ソングライターであるTonyさんの社歌があったのです。
Tonyさん、すばらしい社歌を作っていただいて、本当にありがとうございました!

 さて、40周年を記念して、このたび本名の佐久間庸和の名で『ハートフル・カンパニー』を三五館より上梓いたしました。ペンネームの一条真也としては何冊かの著書を出しましたが、本名、そして、サンレーの社長としては初の著書です。嬉し恥ずかし、処女出版です。書名のハートフル・カンパニーとは、もちろん「心ゆたかな会社」という意味です。世界的なベストセラーとなった経営書に『エクセレント・カンパニー』や『ビジョナリー・カンパニー』があります。世の中には多様なタイプの優良企業があるわけですが、弊社はハートフル・カンパニーをめざしたいと考えています。それは、何よりも人間の心に最大の価値を置く哲学・芸術・宗教産業であり、「思いやり」「感謝」「感動」「癒し」といったポジティブな心の働きがつまった精神集約型産業でもあります。

 いじめ、虐待、自殺、殺人、テロ、戦争といったハートレス・ソサエティに向かって社会が進みつつある中で、サンレーは冠婚葬祭業を中心としたホスピタリティ・サービスの提供を通じて、ハートフル・ソサエティへと進路変更するエンジンの役割を果たしたいと願っています。

 『ハートフル・カンパニー』に収録された文章は、すべてわたしが社員の前で発言した、ここ5年間の「社長訓示」です。ですから、サブタイトルは「サンレーグループの志と挑戦」となっています。毎月の社内報に掲載してきたものですが、すべてのページを繰るたびに、その時々で直面していた問題や、抱いていた志が甦ってくるようです。当然ながら、サンレーより大きな会社、利益を出している会社、いわゆる優良企業は無数に存在します。しかし、使命の大きさ、志の高さは、どこにも負けない会社でありたいと願っています。

 非常に異色の社長メッセージ集であると自分でも思いますが、描きたかったのは、これから到来する「心の社会」における会社のあり方です。「社会」も「会社」も、明治時代に福沢諭吉が発明した日本語であるとされますが、ともに「人の集まり」といった意味です。福沢は英語の「company」を見て、これは「society」とほとんど同じだと気づき、「社会」という漢語をさかさまにして、「会社」という新しい単語を作ったとか。

 陽明学者の安岡正篤は、人が集まると、その中心に「社(やしろ)」ができると述べています。つまり、人の集まりの中心には神社が作られる。そこを中心として、会社という社、さらには社会という大きな社が生まれる、と非常に興味深いことを言っています。

 「会社は社会のもの」と喝破したのは、昨年末に逝去した世界最高の経営学者ピーター・ドラッカーです。当社は、「選択と集中」「知識化」「イノベーション」など、数々のドラッカー理論に基づいて経営してきたつもりですが、最も重要視したものこそ「会社は社会のもの」という思想でした。会社は社会のものであるということは、会社は社会を構成する大きな要素だということです。多くの会社が心ある存在になれば、心ある社会が生まれるのではないでしょうか。

 読み返してみると、「礼経一致」をはじめとした、わたしの考えのほとんどすべてが、父であり、サンレーの創業者である佐久間進会長から受け継いだものであることを再確認しました。中国では亡くなった父親のことを「先考」と呼ぶそうです。まさに父は、わたしの考えのほとんどすべてを先に考えていたことから、この言葉を用いて本を捧げたいと思いました。しかし、いまだ父は健在であるため、また、この先も健在であることを願っているため、本の扉には「わが生ける先考・佐久間進会長に捧げる」と記しました。著書に献辞を入れたのは、Tonyさんに捧げた『ロマンティック・デス』以来です。

 わたしは昨年、『ハートフル・ソサエティ』を一条真也として上梓し、このたび本名の佐久間庸和として『ハートフル・カンパニー』を上梓したわけです。この二書の内容は当然ながら密接につながっています。そこには、「フロム・ハートフル・カンパニー・トゥー・ハートフル・ソサエティ」という想いが込められています。

 心ゆたかな社会は、心ゆたかな会社から!わたしは、人間の「愛」と「死」を見つめ、魂のお世話をする冠婚葬祭業ほど、奥が深くて価値のある仕事はないと思っています。本当に心の底から誇りを持っています。これまで色々と紆余曲折がありましたが、社長として会社の40周年を無事に迎えたわたしは万感の想いを込め、「かねてより天からの命おぼえれど わが社いま不惑迎へり」という歌を祝賀会での挨拶の最後に詠みました。

 サンレーは、今後も冠婚葬祭業として「人間尊重」の旗を掲げ、「世界平和」と「人類平等」のシンボルである月に向かって航海を続けてゆきます。「2001年宇宙の旅」に出発したサンレー2号の曳航は今後も続いてゆくのです。そして、そのBGMは、スタンリー・キューブリックの映画「2001年宇宙の旅」で流れた「美しく青きドナウ」ではなく、もちろん「永遠からの贈り物」です!

 また、Tonyさんのみならず、弊社の創立40周年祝賀会には大勢の方々に御参集いただきましたが、京都から近藤高弘さんが来てくれたことが本当に嬉しかったです。久々の義兄弟の揃い踏みは、何よりの餞でした。近藤さんには、当社が経営する松柏園ホテルのラウンジにある加藤唐九郎作の大陶壁「万朶(ばんだ)」に対する、きわめて示唆に富んだアドバイスも多くいただきました。早速、このアドバイスを活かしたいと思います。

 Tonyさんが、「学者宗教家と芸術家と経営者の組み合わせは、最強の世直しトリオ」とメールに書かれていましたが、本当にそのとおりだと思います。ぜひ、やんちゃな末っ子が二人の義兄の足を引っ張らないように、今後も精進を続けてゆきたいと存じます。

 祝賀会の後は、三五館の星山佳須也社長や俳人の右腕(内海準二)さん、マーケティング・プランナーの前村敦子さんたちも加わって、小倉の夜の街に繰り出しました。その夜のカラオケで特に心に残ったのは、星山社長のド迫力ご当地ソング「花と龍」とTonyさんの「キスして欲しい」でした。カラオケの後は、いつものように深夜の豚骨ラーメン。この夜はビールにギョーザも加えて、体に悪いことこの上ないですが、わたしにとっては、この上なく幸福なひとときでありました。大好きなみなさんの笑顔をながめながら、「これが本当の俺のハートフル・カンパニーだ!」と実感しました。心ゆたかな仲間たち(先輩たち)こそ、人生最高の宝物です。しかも、この仲間たちは世直しの同志なのです。

 早いもので、もう師走。これが今年最後のレターです。この一年間の文通は、わたしの魂に大いなる養分を与えてくれました。Tonyさん、本当にありがとうございました。
また、来年もよろしくお願いいたします。それでは、良い年をお迎え下さい!

2006年12月3日 一条真也拝

株式会社サンレー社歌 「永遠からの贈り物」

    作詞・作曲:鎌田東二  編曲:古川はじめ

1. 日の光 満ちあふれ
   愛の光 満ちあふれ
   虹を架け 夢を架ける
   Sun−Ray Sun−Ray Sun−Ray

   生まれて来て 感謝
   旅立つ日も 感謝
   すべてのいのち 尊し
   讃礼 讃礼 讃礼

   * あなたと出会い
   この時を過ごし
   助け愛
   共に生きる
   サンレー サンレー

   ラーラーラーラーラー ラーラー
   ラーラーラーラーラー ラーラー
   虹を架け 夢を架ける
   サンレー サンレー サンレー

2. 湧き出づる ちから
   生まれ出づる いのち
   永遠からの 贈り物
   産霊 産霊 産霊

   道開く 人生
   花開く 幸せ
   限りない夢 支え行く
   燦麗 燦麗 燦麗

   *くりかえし

   ラーラーラーラーラー ラーラー
   ラーラーラーラーラー ラーラー
   永遠からの 贈り物
   サンレー サンレー サンレー

   ラーラーラーラーラー ラーラー
   ラーラーラーラーラー ラーラー
   ラーラーラーラーラー
   ラーラーラーラーラー
   サンレー サンレー サンレー

一条真也ことShinさま

 Shinさん、さる11月17日は本当に記念すべきよき日となりましたね。株式会社サンレー創立40周年記念祝賀会は華々しくも、濃密に進みました。わたしもオープニングの法螺貝を奉奏させていただきましたが、サンレーの使命と理想がこの時代に大きく深く広がり伝わっていくことを祈念して心を込め、魂を込めて吹き鳴らしました。過分な言葉をいただいて恐縮しますが、同時に少しでもその使命と理想の実現のお役に立てて嬉しく思います。

 社歌に関しても、思い起こせば、大変不思議な成り立ちを持ちますね。前にも書いたように、Shinさんが社長に就任して間もないころ、渋谷のクサヤの店「八丈島 ゆうき丸」でクサヤを食べ、Shinさんは島の華だったか黄八丈だったかの焼酎を飲み、わたしは明日葉茶を飲みながら社長就任を祝った夜、ふとしたことから社歌を作ってほしいと言われたのでしたね。今にして思えばそれは、もののはずみだったかもしれませんが、そのはずみはShinさんにとってもわたしにとっても一つの飛躍、ジャンプの時でしたね。

 というのも、社長としてその手腕も未知数な時、社員全員がこれからどうなるのかという不安を心のどこかで抱いている時に、Shinさんが思い切って新しい社歌を作ると宣言し、それを実行したのですから。それまでの社歌は先代社長(現会長)時代に作られたもので、高度経済成長期の社歌の感じがします。わたしはもちろんすでに神道ソングライターとして100曲近く(今は200曲)作っていましたが、社歌など作った経験はありません(後にも先にもサンレーの社歌だけです、わたしが”社会参加”した歌は)。

 いわば、どこの馬の骨とも知れない(もちろん、会長とも幹部社員のみなさんとも面識はありましたが)、シンガーソングライターとしてはまったく未知数の、評価も何もまったくされていないわたしの作った(それも3分で)歌を社歌として採用するなんて、大変な冒険であったことでしょう。いや、暴挙、と言った方が正確かもしれません。一瞬、「社長の趣味でそんなことをして!」と陰口をたたかれることになるのではないかと心配しましたが、しかし、そこは神ながら主義のわたし、Shinさんの言葉を神(シンと読めますね)の啓示と受け止めて、自宅に戻ってすぐさまこの歌「永遠からの贈り物」を作ったのでした。本当にすらすらと、さらさらとあふれ出てきて、その日のうちに歌詞だけメールでお送りしたように記憶します。Shinさんはたぶん度肝を抜かれたのではないでしょうか?

 「舌の乾かぬうちに」という言い方がありますが、まさに「舌の乾かない内」に、あっという間に曲ができてきたのですから。前社長や社員のみなさんへの根回しもできていなかったんじゃないでしょうか。それが「社長の勇み足」になるか、「社長の先見の明」になるかの最初の瀬戸際、分岐点であったのではないか、と推測します。しかし、結果的に見て、それはShinさんが過分な言葉で評価してくださったように、サンレーという会社の理念と使命と志と希望を告げる歌となり、「社長の先見の明」を証明することになったと確信します。そのお役に立てたことは、神道ソングライターとしてのわたしの大きな誇りです。

 以前、サンレーのフェスタで、紫雲閣の舞台でロッカーとしてライブコンサートをさせていただいた翌日、会社訪問をした際、朝礼の時に社員の皆様が力強い声でこの「永遠からの贈り物」の社歌を歌っていたのを見、聞いた時には心から感動しました。わたしの社歌が社会の役に立っているという実感を感じて本当に嬉しく、幸せでした。それは今まで経験したことのない喜びだったのです。そのような機会を得たことは本当に本当に、心の底から感謝しています。

 また、この設立40周年に合わせて、著書『ハートフル・カンパニー』(三五館)の上梓、まことにおめでとうございます。上下二段組の大作ですね。世の中に「社長」は五万といますが、Shinさんのように、社長業として好成績を修めながら、著述家としてもベストセラーを出し、30冊も本を書いている人はいないと思います。その筆力、エネルギー、読書量は半端ではありません。ドラッガーの「選択と集中」ではありませんが、Shinさんの選択力と集中力には恐るべきものがあります。

 祝賀会の後の、カラオケ大会も楽しかったですね。タバコのにおいにはまいったけど。ほんとに、タバコ、だめなんだよね。三五館の星山佳須也社長のど迫力の「花と龍」、近藤高弘さんの尾崎豊本人よりうまい「1 love you」、俳人・内海準二さんやマーケティング・プランナーの前村敦子さんら、次々と歌を繰り出し、途切れることがありませんでした。Shinさんの歌も実にレパートリーが豊富で驚きましたよ。わたしは久しぶりでブルーハーツの「キスしてほしい」を歌ってみましたが、ブルーハーツはいい歌が多いですね。

 ところで、わたしは最近、「東山修験道」の開発・再興にはまっています。京都造形芸術大学は東山三十六峰の一峰である瓜生山の麓にありますが、地図もコンパスも何も持たず、法螺貝とパソコンの入った鞄を背負い、勘だけを頼りに、造形大から歩いて約15分のところにある詩仙堂や、その裏手にある宮本武蔵が悟りを開いたという八大神社、鷺森神社、弁才天社、曼殊院などを巡り、裏山から道なき道を歩き、山中にある詩仙堂創健者の石川丈山の墓を詣でたり、山中を抜けて北白川幼稚園へと降りたり。この前も、3時間近く独りで、野生だけを頼りに道なき道を辿り、谷道、山道、獣道を探し歩きました。

 わたしは「東山修験道」の開祖、あるいは、中興の祖になることでしょう(笑)。山を歩くと、ええ汗かいて、「ナチュラル拝」になりますが、気づいたのは、街中を歩くときはほぼ前面感覚しか使っていないのに、山を歩いていると、側面感覚や背面感覚を全開して使っているということです。この側面・背面の感覚の「奥深さ」には身震いするほど、興奮します。本当に道なき山の斜面などを這いずり、木の根っこにつかまりながら、エイヤッと攀じ登り、道なき道を掻き分け里山から奥山へ入り、比叡山山道に行き当たり、山中を徘徊してようやくにして、瓜生山山頂(標高301メートル)に行き着いた時には思わず「オオーッ!」と感嘆の声が漏れました。そこには、小さな社と塚があり、社には幸龍大権現が、塚には将軍地蔵が祀られていました。もちろんそこで、ホラ貝奉奏。そこから狸谷山不動尊に至ると、なんとそこは、「真言宗修験道大本山」を称しているお寺で、宮本武蔵が滝行をした谷だったのです。宮本武蔵は滝に打たれて不動心を練り、「我神仏を尊んで、神仏を恃まず」という悟りを得、一乗寺下り松のところで決闘に勝利を収めたといいます。宮本武蔵は、名門吉岡道場の当主の吉岡清十郎とその弟の伝七郎を倒したので、吉岡一門は、清十郎の子、又七郎を立てて70余人の門弟たち挙げて総力で京都一乗寺下り松の決闘に臨んだのです。武蔵はこの狸谷山から山道を一気に駆け下りて又七郎を斬り倒したといいます。伝記『二天記』には「京洛東北の地 一乗寺藪ノ郷下り松ニ会シテ闘フ」と記されています。わたしはおこがましくも、宮本武蔵という人に「神道ソングライター」と同じ無鉄砲さと自己放棄を見るのですが、見誤りでしょうか?

 京都造形芸術大学は、京都市左京区瓜生山2丁目116番地にありますが、この地名となっている瓜生山の山頂で、戦後まもなく徳山詳直理事長は、この山裾に芸術の学校を建てることで芸術教育を通して世直しをするという決意を固めたと理事長自身の口から聞いたことがあります。その瓜生山の山裾に京都造形芸術大学も宮本武蔵が滝行をした狸谷山もあるのです。この狸谷山には、不動院(不動尊)が建てられますが、その本尊・不動明王は、寺伝によると、平安京の城郭東北隅に鬼門守護として、桓武天皇勅願により祭祀され、以来、「タヌキ(咤怒鬼)不動明王」として、悪鬼退散の霊験あらたかなお寺として尊崇されてきたといいます。

 時下って、享保三年(1718)には、木食上人正禅養阿上人がここの洞窟に17年間も参籠して「狸谷修験者」の先駆となったそうです。そして、昭和19年(1944)大僧正亮栄和尚が「修験道大本山一乗寺狸谷山不動院」とし、狸谷山開山第一世貫主として寺院を再興したとされます。詳しくは、狸谷山不動院URL:http://www.tanukidani.com/hp/engi1.html

 この狸谷不動尊(不動院)には、たくさんの狸の陶器の奉納像が置いてあって、なんともいえぬキッチュな不気味さがありました。アニミスティック・カオス。この木食正禅養阿上人(1687〜1763)は、京都の11ヶ所の無常所(6つの墓など)を念仏回向し、各所に永代供養の名号碑を建立した霊能者でした。中でも、日ノ岡峠と蹴上浄水場の間にある谷が京都で一番大きな処刑場だったので、そこに南無阿弥陀仏の大名号碑を建立し、さらには日ノ岡峠の大規模な改修工事をし、のちに地元の人がそれを称えて立札を立てて顕彰しています。わたしはこの夏、養阿上人が改修工事をした日ノ岡峠に行きました。「平安京・摩訶不思議の宴」の催しのナイト・ツアーの候補地として、日向神宮を入れていたので、そこに下見に行った折、養阿上人が改修した橋を渡り、その碑も見上げた覚えがあります。京都ってところは実に底深いねえ。そう実感しているこの頃です。

 先週の土曜日、12月2日、東京国立博物館で開催されている「仏像展」に行ってきました。「一木にこめられた祈り」と副題されたその展覧会は、奈良時代から江戸時代の円空・木喰までの日本の代表的な一木彫仏が展示されていて見応えがありましたが、やはりなんと言っても圧巻は円空と木喰でしたね。これまで、円空仏をアラミタマ、木喰仏をニギミタマ・サチミタマと対照化していましたが、そんな単純な分類が不可能なことがよくわかりました。円空にもすばらしくやわらかで慈愛に満ち溢れた仏像があり、もちろん木喰仏はその大放射です。円空さんも木喰さんもやるなあ、と尊敬心を新たにし、励まされました。わたしは特に木喰仏の底抜けの明るさと優しさと慈愛が好きです。

 最後に、11月24日(金)に青山のウイメンズプラザで行った大重潤一郎監督の映画上映会とシンポジウムは300人近い人が来てくれて、立ち見がでるほどの大盛況でした。NPO法人東京自由大学の総力を挙げて取り組みましたが、その甲斐がありました。大重監督の「光りの島」「風の島」「原郷ニライカナイへ—比嘉康雄の魂」と最新作「久高オデッセイ」の上映。そして、大重監督の高校時代からの友人で映画の脚本も担当した作家の宮内勝典さん、昨年国際宗教学宗教史学会実行委員長として映画上映を運営してくれた東京大学教授の島薗進さん、そして、同学会のシンポジウムで司会を担当してくれた立教大学教授の阿部珠理さんとわたしの4人で、「久高島の再生と先住民文化の現在」について討議しました。大重監督は「久高島の地下水脈は枯れていない!」と大獅子吼しましたが、その「枯れていない地下水脈」をさらに豊かに保持・再生していく努力を続けたいと思います。

 12月23日(土)14時〜16時まで、京都ギリシャ・ローマ美術館でソロ・コンサートをします。今年の歌い収めになります。わたしも、声の限り、獅子吼してみることにします。小倉の空の下で耳をすませてみてください。この一年、本当にいろいろとありがとうございました。よいお年を!

2006年12月4日 鎌田東二拝