シンとトニーのムーンサルトレター 第002信
- 2005.11.13
- ムーンサルトレター
第2信
鎌田東二ことTonyさま
前回のお便りで、わたしのことを「現代の白樺派」と表現していただき、まことに光栄でした。ならば、わたしの唱えるハートフル・ソサエティは「新しき村」に通じますね。また、Shinという愛称を頂戴し、ありがとうございます。この文通をネットで見た知人たちから「シンちゃん」とか「シンさま」とか呼ばれ、嬉しいような、恥ずかしいような・・・古代バビロニアの月神に由来するとのことですが、わたしとしては少し前に観た映画「シン・シティ」(罪の街)を連想し、罪深いわが身を省みたりします。
映画といえば、わたしは日々、かなりの数の映画を観ます。本業である冠婚葬祭業に何より役立つのは映画的情報だと確信していることもあり、DVDを含めてたくさん観ます。また毎月、東京、金沢、沖縄をはじめ、本当に出張ばかりしているのですが、以前は夜といえば、各地の盛り場で酒を浴びるばかりでした。「これではいけない」と思い、現在ではどうしても必要な懇親会などは別として、可能な限り、夜は劇場映画を観るように努めております。このレターでも、映画の話がたくさん登場することと思います。
最近観た映画にも、月がいろんな場面で登場しました。日本映画の秀作「蝉しぐれ」に出てくる幻想的な青い月、オムニバス映画「乱歩地獄」の中の一編、実相寺昭雄監督の「鏡地獄」に出てくる狂気の月、そして、グリム童話の誕生秘話を描いたテリー・ギリアム監督の「ブラザーズ・グリム」に出てくる森の魔物たちをよみがえらせる月食と、それぞれの作品で月が重要な役割を果たしていました。
さて、ついこの前、鎌田先生とご一緒に見事な満月を眺めたばかりだと思っていましたが、もう次の満月の夜が訪れました。本当に時の流れの速さを実感します。同じ月を見上げる者として、ともに心ゆくまで月見ができ、有意義かつ楽しい時間をすごせました。
「同じ月を見ている」という窪塚洋介クン主演の映画がもうすぐ公開されますが、「同じ月」という視線の対象が同一というのは、とても重要なことだと思います。同じ月でも、同じ桜でも、同じ富士山でもよいのですが、人間はまなざし、つまり視線のベクトルを一つにすることによって、こころざし(志)、つまり心のベクトルも一つにすることができるのではないか。特に夜空に浮かぶ月は、地球上のすべての人々、少なくとも半球上に住むすべての人々が同時に見ることが可能なわけですから、人類はもっともっと月を見るべきだと思いますね。
わたしは「月こそあの世」であると信じ、人が亡くなったら、その魂を月に向かって送るセレモニーである「月への送魂」を提唱しております。鎌田先生もおっしゃられていますが、月は輪廻転生の中継基地そのものであると思うのです。
数日前、「灯台守の恋」というフランス映画を観ました。鬼才フィリップ・リオレ監督による、ひっそりとした大人のロマンスを描いた恋愛映画ですが、舞台は「世界の果て」と呼ばれるブルターニュ海岸の辺境です。主人公は新任の灯台守の男なのですが、1963年(わたしが生まれた年です!)当時の辺境の灯台の内部や灯台守の具体的な仕事内容というのが、わたしにはたいへん興味深いものでした。かつて夜の海を航海する船は、夜空の星と羅針盤と灯台の灯だけを頼りにしていました。現在ではコンピューターが全面的に導入され、星や羅針盤の代りを務めていますが、手動から全自動に変わったとはいえ、灯台の存在はいまだに重要です。なぜなら、灯台の灯がなければ、船は海岸に衝突して座礁してしまうからです。
灯台のかすかな光だけを頼りに、船が暗い夜の海を航海する場面を観て、わたしはふと、「月とは魂の灯台ではないか」と思いました。人間の肉体が死に、離脱した魂は宇宙空間を漂う。そのとき、何も光がなく、目的地がなければ永遠に暗黒の空間をさまようことになってしまう。灼熱の光を放つ太陽のもとに近づけば焼かれて消滅してしまう。ただ太陽の光を反射して柔らかな光を放つ月のみが、魂の灯台として、その行方を導くことができる。無事に航海を終え、目的地である月に到着した魂は、そこでしばらく時を過ごした後、再び地球に向かって飛び立ち、新たな人間として再生するのではないでしょうか。
月とは魂の灯台である。いつの日か地球人類の墓標として月面に建立する予定の「月面聖塔」は、ぜひ灯台を連想させるデザインにしたいなどと、映画を観ながら思いました。
それと、印象に残ったのが、ケルト文化を色濃く残すブルターニュの神秘的な風景でした。岩だらけの海岸の場面を観て、わたしは以前に鎌田先生と一緒に観た「地球交響曲」を思い浮かべました。龍村仁さんのガイア・シンフォニーの弟1作で、二人でその試写会に行ったのです。エンヤが登場するアイルランドの海岸が岩だらけで、わたしはアポロが着陸した月面を連想し、映画が終わった後のタクシーの車内で「アイルランドの海岸って、まるで月みたいですね」と先生に申し上げました。とても懐かしいです。先生は、おぼえてらっしゃいますか? アイルランドと同じケルトの香り漂うブルターニュの岩場に立つ灯台。それを観て、月と灯台のアナロジーを思いついたわけです。
鎌田先生もきっと、「灯台守の恋」を気に入られることと思います。もうご覧になられましたか? まだなら、ぜひご覧下さい。有楽町のシャンテシネで上映されています。
映画以外の話をしましょう。先月の終わりに中国に1週間ほど行ってきました。上海や広州で大規模な交易会が開催され、毎年のように中国には行くのですが、今回は西安と、その近郊の兵馬俑を初めて訪れました。兵馬俑は、言わずと知れた秦の始皇帝の死後を守る地下軍団です。一度は訪れてみたいと想い続け、今回ついに願いを果たすことができました。二重の城壁を備えた始皇帝の巨大陵墓の下には、土で作られた将軍や兵士や馬の人形が置かれています。実に8000体におよぶ平均180センチの兵士像が整然と立ち並ぶさまはまさに圧巻で、「世界第8の不思議」などと呼ばれていることも納得できます。
2200年以上も前に広大な中国を統一した始皇帝は人類史上に特筆すべき大権力者です。彼がいなければ、中国は現在のヨーロッパのごとく、いまだに複数の国家に分かれ、その言語もバラバラだったことでしょう。言語のみならず、度量衡や戦車の車輪の幅なども統一していますが、そのうちのどれ一つを取っても、世界史に残る難事業です。
また、この文通は満月の夜に交わされ、鎌田先生も小生も月面に立って地球を眺めてみたいという想いを強く抱いていますが、月から肉眼で見える地球上の唯一の人工建造物こそ、始皇帝による万里の長城であることはよく知られています。とにかく超スケールの大英雄なのです。しかし、それほど絶大な権力と富を手中にした始皇帝でしたが、その人生は決して幸福なものではありませんでした。それどころか、人類史上もっとも不幸な人物ではなかったかとさえ私は思います。なぜか。それは、彼が「老い」と「死」を極度に怖れ続け、その病的なまでの恐怖を心に抱いたまま死んでいったからです。
「老い」と「死」は人間にとっての必然ですが、始皇帝ほど、老いることを怖れ、死ぬことを怖れた人間はいません。中国統一という誰もなし得なかった巨大プロジェクトを成功させながら、その晩年は、生に執着し、死の影に脅え、不老不死を求めて国庫を傾け、ついには絶望して死んだ。そして、その墓は莫大な財を費やし、多くの殉死者を伴うものでした。兵馬俑とは、不老不死を求め続けた始皇帝の哀しき夢の跡に他ならないのです。
いくら権力や富を手に入れようとも、老いて死ぬといった人間にとって不可避の運命を極度に怖れたのでは、心ゆたかな人生とはまったくの無縁です。逆に言えば、地位や名誉や金銭には恵まれなくとも、「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」を持っている人は、心ゆたかな人であると言えます。どちらが幸福な人生であるかといえば、疑いなく後者でしょう。心ゆたかな社会、ハートフル・ソサエティを実現するには、万人が「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」を持つことが必要なのだ・・・兵馬俑を眺めながら、そんなことを考えました。
人の死といえば、わたしが敬愛してやまない方が11月11日に亡くなりました。世界最高の経営学者として知られるピーター・ドラッカー氏です。経営学そのものの創始者でもあり、社会学でいえばヴェーバー、心理学でいえばフロイトやユング、宗教学でいえばエリアーデ級の巨大な存在です。ウィーン生まれですが、ナチスを嫌ってアメリカに移住し、最近までクレアモント大学の大学院で教授を務めていました。世界のビジネス界にもっとも影響力を持つ思想家であり、東西冷戦の終結、転換期の到来、社会の高齢化をいち早く知らせるとともに、「マネジメント」という考え方そのものを発明しました。また、マネジメントに関わる「分権化」「目標管理」「経営戦略」「民営化」「顧客第一」「情報化」「知識労働者」「ABC会計」「ベンチマーキング」「コア・コンピタンス」、そして「選択と集中」などの理念の生みの親で、それらを発展させてきました。
世界最大の大企業の一つであるGEのジャック・ウェルチをはじめ、世界にはドラッカーを信奉する経営者が数多く存在します。日本でも、ソニーの故盛田昭夫氏、出井伸之氏、イトーヨーカドーの伊藤雅俊氏、富士ゼロックスの小林陽太郎氏、ファーストリテイリング(ユニクロ)の柳井正氏など、多くの経営者がドラッカーに共感し、こうした方々は「ドラッカリアン」と呼ばれています。
わたしは若輩かつ会社も小さく、ドラッカリアンというにはおこがましいので、これまでドラッカー・チルドレンと自称してきました。約4年前に社長に就任して以来、ドラッカーの経営理論を愚直なまでにそのまま導入して会社の経営に当たっています。
19世紀を代表する思想家がマルクスなら、20世紀最大の思想家こそドラッカーであると信じています。もともとわたしは、19世紀の「知」はダーウィンとニーチェとマルクスに代表され、20世紀のそれはアインシュタインとハイデガーとドラッカーに代表されると思っていました。でも、マルクスとドラッカーは世界を解釈するだけではなく変革してきました。マルクスは、レーニンをはじめとした世界中の革命家を通じて。そしてドラッカーは、ウェルチをはじめとした世界中の経営者を通じて。
数多く翻訳出版されているドラッカーの著書はもちろん全部読みましたが、なかでも遺作となった『ネクスト・ソサエティ』のインパクトは、21世紀の社会像について漠然と考えていたわたしには、きわめて大きなものでした。わたしは同書をドラッカーからわたし個人への問題集であると勝手にとらえ、「あなたなら、ネクスト・ソサエティとはどのような社会であると考えるか」という質問に対する提出レポートとしてのアンサーブックを書きたいと思い至りました。そうして上梓したのが、拙著『ハートフル・ソサエティ』です。幸い、多くの方々に高い評価をいただき、なんと「ドラッカー学会」の設立推進メンバーに選んでいただくという栄誉にも浴しました。
ドラッカー学会は、学者、コンサルタント、新聞社や出版社の代表者が集まり、ドラッカーの業績などを研究する学会です。いわゆる企業経営者の類はわたし一人なのですが、今月9日には、第1回の発足準備会合が東京の目黒において開かれ、わたしも参加し、自己紹介を含めたスピーチをさせていただいて、ドラッカーに対する熱い想いを述べました。ドラッカー本人からも学会の発足を祝うメッセージが寄せられ、クレアモントを訪れて彼に面会するプランも出ました。ドラッカー学会の代表世話人である上田淳生先生(ものづくり大学名誉教授)の「ドラッカーにノーベル賞を!」の一言には歓声があがりました。後は19日のドラッカー96歳の誕生日に正式発足するのを待つばかりの矢先の訃報でした。
突然の訃報に経済界からは惜しむ声が多くあがっていると新聞などで報じられていますが、わたしは深い感慨はあるけれども、悲しくはありません。直接ドラッカーに会って、教えを受ける夢がかなわなかったことは残念ではありますが、彼は月に帰っただけであり、この地上に置き土産として多くの著書を残していってくれたので、寂しくはありません。ただ学会の発足準備会合から正式発足まで10日間しかないのに、そのわずかな間に彼が旅立って行ったことの不思議と、残されたわたしたちの役割というものを深く考えさせられました。
上田先生は、多くの経営者を引きつけたドラッカーの魅力について、「一貫して産業社会で人はどうすれば幸せになれるかを追求してきた視点だ」と13日の「読売新聞」朝刊で述べられています。わたしも、まったく同感です。利益優先でなく、従業員などを含めた利害関係者の幸せを重視する考えが、日本の経営者にも大きな影響を与えたのは間違いありません。ドラッカーは、日本でも急速に広がってきたM&A(合併・買収)や株式売買による利益追求を厳しく批判し、最後まで「人が主役」の企業経営を説き続けました。
ドラッカー・チルドレンとして、わたしはドラッカーの思想を今後も多くの人々に説き続けていく所存です。来年1月には、平成心学3部作の第2弾として『ハートフル・マネジメント』を刊行する予定で、安岡正篤、中村天風、松下幸之助などの思想も取り入れながら、ドラッカーの人間重視の経営理論を全面的に紹介します。また、今年の12月2日からは北九州市立大学の経営学部で特別講義を行うことになりました。次代を担う若い人たちに対して、ドラッカー理論を中心としたマネジメントの話をしていこうと思います。
もちろん、わたしは現実の企業経営者ですので、会社の業績によってドラッカー理論の正しさを証明することが最大の恩返しであると思っております。「すべての産業は知識化する」というドラッカーの説を受けて、当社ではことあるごとに「知識」の大切さを社員に訴え続けてきました。そのおかげで、この10月末には国家資格である1級葬祭ディレクター試験の合格者数も全国1位となることができました。典型的な労働集約型産業であると考えられていた冠婚葬祭業を、知識集約型産業へと発展させ、さらには「思いやり」「感謝」「感動」「癒し」といったポジティブな心の働きが集まった精神集約型産業へと高めてゆくことが、わたしの夢です。
そして、産業社会および高齢社会のなかで多くの方々に「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」を持っていただき、心ゆたかに生きていただきたい。微力ながら少しでもそのお役に立ちたい。それが、わたしの志です。それは、ドラッカーの考えた「人の幸せ」ともつながり、彼の視線とそのベクトルは同じであると確信しています。わたしには、今夜の十三夜の満月の中にドラッカーの顔が浮かんでいるように思えてなりません。
敬愛するドラッカーの急な訃報を受けた直後ということで、思わぬ長文の手紙となってしまい、たいへん失礼いたしました。11月になって、朝夕はめっきり冷え込みます。わが家ではストーブもヒーターも稼動しはじめました。
鎌田先生も、風邪など引かれませんように、くれぐれもご自愛下さい。
2005年 11月13日 一条真也拝
一条真也ことShinさま
月とドラッガー氏のことなど、とても話題豊富かつ熱のこもったレターをいただき、心から感謝申し上げます。「月は魂の灯台にして、輪廻転生の中継基地」とは、じつに刺激的な、素晴らしいキャッチフレーズですね。シンさんは著作家としても実に明晰で魅力的なプレゼンテーション能力をお持ちですが、キャッチコピーのセンスも抜群ですね。そもそも、20代で「ハートフル」とか「リゾート(理想土)」という言葉をはやらせた張本人ですから、当然と言えば当然かもしれませんが。ともあれ、一条さんのお父上もアイデアマンで行動家ですが、一条さんも父上に負けないアイデアマンの実行家ですねえ。ほんとうに感心してしまいます。
満月の夜に、こんなレターの交換をするようになるとは、15年前に始めてお会いした時にはもちろん思いもしませんでしたが、しかし初対面ですぐ地球をイメージした六本木のディスコに行ったり、龍村仁監督の『地球交響曲』第一部の試写を一緒に観に行ったり、二人で天河大弁財天社に出かけ、途中の近鉄八木駅でばったり当の天河大弁財天社の柿坂神酒之祐宮司に会ったり、「月に鳥居を建てるムーンサルト・プロジェクト」をヒントに「月面聖塔」プロジェクトが実行されたり、社長に就任したばかりの一条さんと昔行きつけの渋谷のくさやの店「八丈島ゆうき丸」でくさやを肴に呑み(8年近く前に完全に酒を飲まなくなったわたしは明日葉茶だったけど)社歌の作曲を依頼されて自宅に帰り着くや否やあっという間に社歌「永遠からの贈り物」を作ってしまったり、とにかく、Shinさんとは不思議な縁だとほんとうに思っています。こんなに親しくなることって何か変ですよ。前世からの縁があるとしか思えませんね、まったく。
一条さんとは二人でよくカラオケに行って、変わりばんこに何十曲も歌い合いをしましたね。こんなに二人だけで一緒にカラオケに行った人はいません、わが人生には。何なんでしょう、これは。考えるとほんと、ふしぎ、なのです。
先月の満月の夜にわたしが招待されて小倉に行かなかったら、そしてその夜実に神秘的な部分月蝕を共に見上げることがなかったら、このような「ムーンサルト・レター」の交換が始まることがなかったことを思うと、奇妙な、嬉しい錯乱に陥ります。ともあれ、今後とも末永くよろしくお願いいたします。
さてわたしは、11月5日・6日と、戸隠に行きました。戸隠修験の坊=御師の宿坊である横倉旅館で「戸隠遊行塾」という催しが行なわれ、その第8回目の講師として、「戸隠追想——山岳修験、その気配の周囲」と題して話をしたのです。その後、久し振りで戸隠神社奥社をゆっくり参拝しました。横倉旅館のご主人の横倉さんと一緒に。秋の落ち葉の中を。
わたしは、最近、「戸隠」という時の「隠し−隠れ」に関心があるのです。というのも、『古事記』に登場するいわゆる造化三神はみな「独神」(ひとりがみ)にして「隠身」(かくりみ)だからです。この「隠身」の神、すなわち、”身を隠したまいし神”の表象が気になるのです。
『古事記』冒頭には、「天地初発の時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神。此の三柱の神は、みな独神に成り坐して、身を隠したまひき」とありますが、この「隠し」は、「ムスビ」の神の初発のエネルギー潜勢状態です。「隠し−隠れ」こそが、やがて「ムスビ」の発現により「顕わ(あらわ、露わ)−顕し(うつし)」になるのです。隠=幽と顕=現の変換互入となるのです。
その上、戸隠は、隠れ里にして「忍者」の里でもあります。それから、これは直接戸隠には関係ありませんが、隠し念仏や隠れ念仏や隠れキリシタンの「隠し−隠れ」文化も興味深いものがあります。九州には隠れ念仏や隠れキリシタンがありますね。それに対して、東北・北陸地方には隠し念仏がかなり根強く残っています。宮沢賢治もまた「隠し念仏」の徒であったというのがわたしの仮説です。
その宮沢賢治が生まれ育った花巻から車で40分ほど東に行くと、柳田國男の『遠野物語』で有名な遠野があり、そこには、さまざまな「神隠し」の民譚が伝承されています。というよりも、『遠野物語』の主題は「神隠し」ではないかと思うくらい、大きな問題です。昔は、江戸時代の国学者平田篤胤が著した『仙境異聞』の仙童寅吉のように、神隠しにあった者は多く天狗の棲む異界へと連れ去られたと考えられました。天狗は「山神」で、「神隠し」に遭った者には行方不明のままの者と無事生還してきた者とがいました。帰ってきた者も、「神隠し」の期間は数日あるいは数年とさまざまでした。無事に帰ってきた人の多くは、行方不明になった場所から遥かに離れた所や高い木の上や奥深い山中で発見されているようです。そして、「神隠し」にあった人々の話には、仙童寅吉のように、天狗に連れ去られて山中をさまよい歩いたり、僧の姿をした大男と一緒に空を飛び回ったり、浦島太郎の竜宮訪問譚のように、美しいところへ連れて行かれてご馳走をふるまわれたりしたという異界訪問譚が多いのです。いったい、「神隠し」とは何でしょう? 柳田國男が指摘したと記憶しますが、「神隠しに遭いやすい子供」がいるのでしょうか。わたしはそう思います。民俗学の創始にかかわった柳田國男も折口信夫も南方熊楠もみな、「神隠しに遭いやすい子供」だったと思うのです。
さてその「神隠し」がテーマになった映画『奇談』(諸星大二郎原作・小松隆志監督作品)が、まもなく11月19日に封切になります。この映画では、7歳の子供だけが「神隠し」になるのですが、それはとても怖い話です。民間伝承に、「7歳までは神の内」という諺があることが柳田國男以来報告されていますが、とても面白い伝承だと思ってきました。そうしたことへの関心が元となって、『翁童論』4部作(新曜社)を書きました。ともあれ、この『奇談』はお勧めです。Shinさん、絶対見てくださいよ。
ところで、戸隠神社のホームページには、「天の岩戸神話」が取り上げられています。
というのも、戸隠神社のご祭神や由来が、天の岩戸神話と関連すると社伝は伝えているからです。天照大神は弟の素戔鳴尊の乱暴に悲しみ怒り、天の岩屋へ隠れてしまいます(=岩戸隠れ)。すると、世界は真暗になり、さまざまな災いが起こってパニックとなりました。そこで、神々は岩屋の前に集い、対策会議を開催。その時、戸隠神社の中社にお祀りされている天八意思兼命が意見を集約して祭りを行なうこととし、鏡を作り、榊を立ててひもろぎとし、鶏を集めて鳴かせ、火之御子社のご祭神天鈿女命(あめのうずめのみこと)が神懸りし、胸乳と女陰(ほと)を露わにしました。このあたりの経緯を、わたしは今月出版した最新著『神様たちと暮らす本』(PHP)の中で、こう表現しました。
<面白・楽しのライフスタイル——「おもしろい」っていう言葉の由来は実におもしろい。
これは、天の岩戸神話に由来する話。
むかしむかし、スサノヲノミコトという神さまが
あまりの乱暴狼藉をはたらいたために、
姉のアマテラスオオミカミという日の神さまは、
天の岩戸と呼ばれる洞窟にこもってしまいました。
すると、世界は真っ暗くらのくらのすけ。
たちまち、あちこちに災いが起こり、みんな大パニック。
そこで、神々は相談し、
衆議を決して、祭りを行なうことにしました。
榊を立ててヒモロギとし、神聖な鏡や玉を取りつけて祝詞奏上。
アメノウズメノミコトが手に笹を持って踊りました。
ウズメは踊っているうちに神懸りし、
思わず、胸乳とホトが露わに・・・・・・。
それを見て神々は、一斉に花が咲いたように大笑い。
そして神々は口々に、
「天晴れ、あな面白、あな楽し、あなさやけ、おけ!」
と叫び、共に歓び踊ったのです。
「天晴れ」とは、天が晴れてサーっと光が射すこと、
「面白」とは、その聖なる光を受けて、顔の面が白くなること、
「楽し」とは、楽しくなって、自然に手が伸び(手伸し=たのし)踊りだすこと。
「さやけ」とは、笹がさやさやとなびくこと、
「おけ」とは、木の葉がふるふるとふるえること、
こうして、神々がみずから行なった祭りの中から、
「神楽(かぐら)」が生まれたのです。
だから、神道とは、「面白・楽し」を生き方の根本に据える道。
「神楽」な生き方を楽しむ道。
あな、神楽ながらたまちはへませ。>
この時、天八意思兼命はみんなの思い(=八意)を兼ね、まとめ、天手力雄命は岩戸の扉を力いっぱい開いて、天照大神を岩屋から引き出すことに成功したのです。その時、飛んで行った岩戸が戸隠山となったというのですから、大変なことですね。この岩戸神話に端を発する縁起譚が戸隠の古い記録である「戸隠山顕光寺流記」や「戸隠本院昔事縁起」にも記されているとのことです。
戸隠神社は現在、奥社・中社・宝光社の三社に分かれ、奥社は天手力雄命、中社は天八意思金命、宝光社は天表春命を主祭神として祀っています。中社の御祭神・天八意思兼命と宝光社の御祭神・天表春命は父子とされます。また、火之御子社には天鈿女命がお祀りされています。
今回、わたしは奥社を参拝して、その「奥=隠し−隠れ」の世界の奥行きに深い感銘を受けました。そして、20年近く前、幽体離脱して飛んできた社がこの戸隠神社の奥社であったことを改めて不思議なことと思いました。深い縁があるのかなあ、と感じ入りました。そこにお祀りされている九頭龍神には衝撃を受けるような強烈なインパクトを感じました。本当に奥社にお参りできてよかったです。
この「戸隠」の気配の世界と文化はきわめて貴重なものだと思います。それは言うなれば、自然の中の霊性を感じる場所であり、この岩戸的神隠し文化のありようがこれから再発見され再興されるにちがいないと思いました。そして、「修験」とは見えないもの=隠し−隠れ(霊性)との交感の技法と文化であると改めて認識しました。この戸隠忍法ならぬ「隠れ身」の再構築は、喫緊の課題ではないでしょうか? 少なくとも、わたしにとってはそれは大問題となり、主要課題となりました。
さて、一昨日と昨日の2日間、神道国際学会理事専攻研究論文発表会が御茶ノ水のソフィアビルで開かれました。発表者は、神道国際学会の理事の方々です。米山俊直氏(京都大学名誉教授)「日本の民間信仰とアジアの民間信仰」、マイケル・パイ氏(マールブルグ大学元教授)「今日の神道と仏教の接触点」、ジョン・ブリーン氏(ロンドン大学教授)「靖国:戦争記憶と喪失」、アレックス・カー氏(作家)「タイの文化研修プログラム」、茂木栄氏(國學院大學助教授)「神道の映像民俗学的探求」、ベルナール・フォール氏(スタンフォード大学教授)「山王神道を十禅師の立場から見る」、薗田稔氏(京都大学名誉教授)「日吉山王社をめぐる神仏関係」、王宝平氏(浙江工商大学教授)「明治時代の地誌編纂と中国人の日本研究」、栗本慎一郎氏(東京農業大学教授)「神社建築の聖方位と大陸の価値観の交流」の9つの発表でした。
わたしは、建築家の渡辺豊和氏(京都造形芸術大学教授)とともに、栗本慎一郎氏の発表のコメンテーターとして参加しました。栗本さんの発表は大変壮大な立論と仮説でとても面白いものですが、その資料解読と方法論と分析になお疑問や問題点を感じました。しかし刺戟的で頭をフル回転させられました。十分回転しきれなかったかもしれませんが。栗本先生、ごめんなさい!
ところで、渡辺豊和さんも理事として参加して、京都造形芸術大学プロジェクトセンターが事務局となって「近代産業遺産アート再生学会」が来る12月5日(月)設立されます。その分科会として「摩訶不思議アートツーリズム分科会」が設置される予定ですが、なぜか、その座長を仰せつかりました。たぶん、”ホラ吹き変人・Tony Paris”と思われているのでしょう。
この学会は「近代産業遺産アート再生に関する調査研究およびその実施を目的とし、世界中の近代産業遺産を芸術・文化で蘇えらし、芸術を通じて地域活性化に、また人間社会本来の豊かな生活を取り戻し、人間社会を救い貢献する事を目的とする」とされます。その目的を達成するために、近代産業遺産アート再生に関する学術的研究大会、研究報告会、講演会、シンポジウム、機関紙、会報および研究資料等の発行、調査研究に関する交流の促進、実施作業にともなう打合せ・報告会、実施の助成その他の事業を行います。名誉会長には芳賀徹氏(京都造形芸術大学学長)、会長には大野木啓人氏(京都造形芸術大学芸術学部長・プロジェクトセンター長)、副会長には関本徹生氏(京都造形芸術大学プロジェクトセンター主任研究員)が就任し、渡辺さんやわたしは理事として参画する予定です。
この「近代産業遺産アート再生学会」の中の「摩訶不思議アートツーリズム分科会」は、聖地、異界、魔界、妖怪、怪異など、ありとあらゆる「摩訶不思議」世界を”芸術”という切り口から旅し観光していこうというたくらみで、まあ、現代の”山師・ホラ吹き文化再興”というところでしょうか。わたしは「楽しい世直し!」をモットーに生きてきましたので、こういう試みには基本的に大賛成です。楽しみながら、笑い飛ばしながら、こころとからだとたましいを活性化させていく道を辿りたいのです。
そんなこんなで、実に慌しく日々を過ごしていますが、今週末の19日・20日には札幌、また11月末から12月初めにかけてベトナムに行ってきます。東京財団の神話と漫画の交流シンポジウムに参加してくるのです。ベトナムは初めてなので楽しみにしています。次回のムーンサルトレターで報告できると思いますので、楽しみにしてください。
それでは、12月から始まる北九州市立大学での特別授業が豊かな実りあるものとなりますように!
最後になりましたが、11月9日に哲学者の湯浅泰雄先生が亡くなりました。享年80歳でした。湯浅先生は、戦後の心霊研究、超心理学研究、ユング研究、人体科学研究の先鞭をつけられた先駆的な哲学者でした。巨大な頭脳と明晰な論理と瞑想的な語り口をお持ちでした。大阪大学教授、筑波大学教授、桜美林大学教授を歴任されましたが、現代の物質主義的な学問状況に満足されることなく、新たに人体科学会を設立され、気や霊性の探究を進め、長らく会長など要職を務められました。NPO法人東京自由大学の顧問としても、わたしたちの活動に理解と協力を惜しまれませんでした。その湯浅先生のお仕事の大きさと重要さは今後もっともっと評価されると確信します。
湯浅先生、今生での大仕事を終えられ、今度は霊界から働かれることと思います。また必ずどこかでお会いできると信じています。先生が今生で実現しようとしたお仕事の一端なりとも引き継いでいきたく思います。ご冥福とさらなるご活動を心より祈念申し上げます。
それでは、Shinさま、次の満月の夜まで、ごきげんよう
2005年11月14日 Tony Paris・鎌田東二拝
-
前の記事
4shinsletter 2005.10.19
-
次の記事
シンとトニーのムーンサルトレター 第001信 2005.11.18