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シンとトニーのムーンサルトレター 第094信

第94信

鎌田東二ことTonyさんへ

 4月10日から14日まで、ミャンマーに行ってきました。わたしは北九州市の門司にある「世界平和パゴダ」を運営する「日緬仏教文化交流協会」の理事です。同協会は、日本とミャンマーの仏教文化の交流促進を目的としています。

 わたしにとって初めてのミャンマー行きでしたが、最近、仏教徒とイスラム教徒の抗争が激しいとのことで、社員や家族は心配していました。でも、今回は大きなミッションがありますので、気を引き締めて行ってきました。ミッションとは、現地の上座部仏教の祭事である「水祭り」の視察です。わたしは、この祭りを「パゴダ祭り」として「世界平和パゴダ」のある門司港で行いたいと考えています。

 百田尚樹氏の『海賊とよばれた男』が本屋大賞を受賞しましたが、作品のモデルは出光興産の創業者である出光佐三です。かつて出光佐三は、門司商工会議所の会頭時代に「門司みなと祭り」を門司港でスタートさせました。その70年後、同じ地で小生が「パゴダ祭り」をスタートさせるわけです。壮大なロマンに胸が熱くなりますが、2つの祭りを貫くキーワードは、もちろん「人間尊重」です。

 10日の朝、わたしはタイ国際航空(TG)649便で福岡空港からタイのバンコクに飛び、そこからTG305便でヤンゴンに向かいました。いま日本でも熱い注目を浴びているミャンマーですが、正式にはミャンマー連邦共和国といいますが、東南アジアの共和制国家で、1989年まではビルマと呼ばれていました。中国、ラオス、バングラデシュ、インドと国境を接しています。以前はヤンゴンが首都でしたが、現在の首都はネピドーです。多民族国家として知られますが、人口の6割をビルマ族が占めます。その他は、カレン族、カチン族、カヤー族、ラカイン族、チン族、モン族、ヤカイン族、シャン族の少数民族があります。

 ヤンゴン空港に着くと、モワッとした空気が流れてきました。気温が30度ぐらいあって、非常に暑いです。迎えの車に乗り込みましたが、トヨタのマーク2の中古車でした。ヤンゴン市内には日本製のバスや乗用車がたくさん走っています。また、ジープやトラックの荷台に多くの人が乗っていました。今日開通したばかりという陸橋を渡って、ホテルに向かいました。空港から30分ほど車で走って、ホテルに到着しました。「チャトリアム ホテル ロイヤル レイク ヤンゴン」というホテルですが、以前は日航ホテルだったそうです。わたしの部屋は9階でしたが、窓を開けると、真下にプールがありました。プールサイドはレストランになっていて、多くの人で賑わっています。遠くには、有名なシュエダゴン・パゴダのライトアップされた幻想的な姿が浮かび上がっていました。

 翌11日の朝は、小鳥のさえずりととともに目が覚めました。ヤンゴンは灼熱の真夏で、暑いです! やはり、ここは東南アジアなのだと納得します。

 さて、ミャンマーはパゴダの宝庫です。一口にパゴダと言っても、その数は膨大です。それこそミャンマー国内には大小あわせて数万のパゴダが存在します。それぞれ実にさまざまな形をしており、それぞれの物語も持っています。パゴダは、ミャンマー人の生活に深く関わっているのです。

 今回の訪問では、「世界平和パゴダ」と呼ばれるガバーエイ・パゴダ、巨大な「寝釈迦像」で有名なチャウッタージー・パゴダ、「坐像のパゴダ」として知られるチェイン・ティッサー・パゴダ、「洞窟パゴダ」と呼ばれるガバーエー・ライン・グードゥー、ファンタジックなマハウィザラ・パゴダ、そしてヤンゴン最大のシュエダゴン・パゴダを訪れました。特に、シュエダゴン・パゴダの壮大さ、そして壮麗さに圧倒されました。なんというか「仏教テーマパーク」といった観さえあります。ミャンマーの黄金に輝くパゴダの存在は知っていましたが、ここはもう黄金の洪水といった感じです。

 パゴダは、日本では「仏舎利塔」の名で知られる宗教施設です。ブッダの遺髪や遺骨の一部を奉納していると言われています。ミャンマーの人々にとって、パゴダは心の支えであり、「生」のシンボルでもあります。中でも、ヤンゴンのシュエダゴン・パゴダは特別な存在で、じつに2500年の歴史を持つとされています。塔の高さは99.4メートル。基底部の周囲は433メートルあります。塔には5000を超すダイヤモンドや1300個のルビー、ヒスイが飾られており、まさに天上界の建造物のようでした。

世界平和パゴダ再開披露パーティーのようす

世界平和パゴダ再開披露パーティーのようす巨大寝釈迦像の前で

巨大寝釈迦像の前で
 シュエダゴン・パゴダを歩き回っていると、まるでお伽話の国に来たようです。ブッダの生涯をお伽話風に絵で紹介した「ジャータカ物語」の塔もありました。それを見上げていたら、ちょうど子どもの得度式が始まりました。多くのミャンマーの子どもたちが着飾って大人たちに抱えられ、行列となって過ぎて行きました。この国では、宗教儀礼が生き生きと輝いています。それは、やはり信仰心の強さから来るものでしょう。パゴダの周辺には仏画もあり、さらには菩提樹もありました。わたしは、菩提樹の下に座り、足の裏をさすっていました。固い石の舗道をずっと裸足で歩いていたのですが、一昨年に骨折したほうの足が痛くなったのです。しかも35度を超す灼熱で舗道も熱くなっており、足の裏がヒリヒリしていました。

 4月12日、その日最大の目的地である「ビルマ日本人墓地」に向かう途中で、わたしはミャンマーを代表する火葬場に立ち寄りました。かつてはラングーンと呼ばれた旧首都ヤンゴン市の火葬場です。2本の白い煙突が印象的な火葬場ですが、1日に20人〜30人の火葬が可能だそうです。

 日本映画「遺体 明日への十日間」では、日本の東北の火葬場が1日に数体の火葬しか出来ないために苦悩する人々の姿を描いていました。それからすると、1日30人というのは画期的です。ヤンゴン市の人口は約450万人ですが、ここと同程度の火葬場がもう1ヵ所あるそうです。この火葬場では、宗教儀礼としての葬儀も行われます。わたしが訪れたとき、ちょうど2件の葬儀が行われていました。会場を覗くと、シンプルなガーデンチェアのような椅子が並んでいました。前方には遺体を入れた透明のガラスケースがあり、傍らで数人の僧侶が経を唱えていました。

 葬儀会場のすぐ横には冷凍室がありました。葬儀が終了すると、いったんここに運び込むようです。それから、焼却場へと向かうのでしょう。2件の葬儀のうち、65歳の女性の葬儀がありました。その女性には、娘と息子がそれぞれ1人ずついたようです。娘さんは、母親の遺体を前にして狂ったように泣き叫んでいました。また、息子さんのほうは気絶したのか、友人たちに両脇から支えられていました。わたしは、これほど強く悲しみを表現する遺族を久々に見ました。どの国でも、どの民族でも、愛する人を亡くした人の悲しみは同じです。上座部仏教の国では葬儀に対する関心が薄いとされていますが、今日わたしが目撃した葬儀には非常に考えさせられました。わたしは、持参していた数珠をもって合掌し、2人の故人の御冥福をお祈りしました。火葬場を後にするとき、煙突から黒い煙が出ていました。白い煙突から黒い煙が出るさまを見ながら、わたしは「ミャンマーにグリーフケアが導入される日が来るのだろうか」などと考えました。

黄金のシュエラゴン・パゴダにて

黄金のシュエラゴン・パゴダにてビルマ日本人墓地にて

ビルマ日本人墓地にて
 火葬場を訪れた後、わたしは念願だった「ビルマ日本人墓地」参拝を果たしました。ここには太平洋戦争のビルマ戦線で亡くなった方々の墓地が並んでいます。じつに19万人に及ぶ日本人がビルマで命を落としたのでした。「日本人墓地」と書かれた門を開くと、目に眩しいほど色彩の豊かなブーゲンビリアの花々がわたしたちを迎えてくれました。中に入ると、右脇に2体のおだやかな顔をした仏像があります。ビルマ日本人墓地は、正式には「エーウィ日本人墓地」といって、ヤンゴンから車で30分ほどの距離の北オカラッパにあります。もともとはヤンゴン市タモエ地区チャンドゥにありましたが、「ヤンゴン市都市計画により、ヤンゴン空港のさらに奥に移転したのです。チャンドゥ日本人墓地には、明治時代から自然と日本人の墓が集まってきたようです。日本とミャンマーの歴史的関係というと、『ビルマの竪琴』や「インパール作戦」に代表される太平洋戦争がまず思い浮かびます。しかし、実際にはもっと古くからビルマには日本人が来ていました。明治期の墓は女性、それも長崎県をはじめとする九州の出身者が多いのですが、彼女たちは、いわゆる「からゆきさん」と呼ばれた人々です。1910年前後には数百人の「からゆきさん」がビルマで生活していたそうです。九州の山村から、はるばる異国の地までやってきた若い娘たちは、幾多の辛苦を舐めながら、ビルマで生を終えました。

 チャンドゥに日本人墓地が正式に開かれたのは昭和15年といいます。もちろん軍人の墓が圧倒的に多いですが、医師などの職業が書かれた人たちの名前も目にします。歴史上の日本とミャンマーの関係が浮かび上がってくるようです。チャンドゥから北オカラッパに移転した日本人墓地は、3500坪に及ぶ広大な面積を有します。あちらこちらに、「英霊の墓」「家族が建てた碑」「無縁仏」などが建立されています。その他、都道府県別の慰霊碑もあり、「福岡県ミャンマー戦没者慰霊碑」というのもありました。

 比較的最近亡くなった日本人の墓もあります。「戦友と共にここに眠る」と記された墓は、2009年に逝去された故・稲田清氏のものです。また、『ビルマの竪琴』の主人公である水島上等兵のモデルになった故・中村一雄氏の墓もあります。中村氏は2008年に逝去され、墓には「祈世界平和」と大きく記されています。この方は、戦争から帰った後は曹洞宗雲昌寺の大和尚になられた方です。それらの墓や慰霊を見ていると、それぞれの方々の人生ドラマを垣間見たようで、いろいろと考えさせられました。そして、日本人墓地の一番奥には「ビルマ平和記念碑」が建てられています。

 1981年(昭和56年)、日本の厚生労働省が戦没者慰霊事業として「ビルマ平和記念碑」をチャンドゥ日本人墓地に建立しました。碑には、「さきの大戦においてビルマ方面で戦没した人々をしのび平和への思いをこめるとともに日本ビルマ両国民の友好の象徴としてこの碑を建立する」と記されています。ヤンゴン市政府の要請により、1998年(平成10年)に北オカラッパ地区、エーウィ日本人墓地内に移転しました。「ビルマ平和記念碑」は、今年1月にミャンマーを訪問した麻生太郎副総理兼財務相が参拝したことでも知られます。

 わたしも、記念碑の前で数珠をもって合掌し、鎮魂と平和の祈りを捧げました。記念碑の他にも日本人墓地に散在する多くの墓や慰霊塔を眺めながら、わたしは「こんなに遠い異国の地まで日本から来て、さぞ心細かっただろう。そして、帰国できなかったのはさぞ辛かっただろう」と思いました。明治の「からゆきさん」のことも、昭和の兵隊さんのことも、その他のすべてのミャンマーで亡くなった日本人のことが心に浮かんできて、胸がいっぱいになりました。わたしは合掌しながら、「でも、このビルマの地は、お釈迦様の生誕地に近く、また尊い教えにも近い上座部仏教の国ですよ。みなさん、この南の楽園で、どうか、安らかにお眠り下さい」と心からの祈りを捧げました。そして、次の歌を詠みました。 ふるさとを遠く離れて眠る地は 仏陀に近き南方楽土

 それにしても、ビーゲンビリアの花が美しかったです。この世のものとは思えぬほどの花の美しさに、ここが本物の楽土のように思えました。

 13日の朝、ホテルのスタッフたちから「ハッピー・ニューイヤー!」と声を掛けられました。そう、4月13日から17日までがミャンマーでは正月に当るのです。スーチーさんが来日した13日は、ミャンマーでは元旦というわけです。水祭りというのも、正月行事なのでした。チケット代を払った客が水かけ台に上がり、上から下を通る車や通行人に向けてホースで散水するのです。街のあちらこちらでも、水をかけ合っていました。ただし、僧侶・警察官・郵便配達人・妊婦にかけることは禁じられているそうです。水かけ台も市内各所に設けられており、想像以上に大掛かりでした。これを「パゴダ祭り」として門司港で行うには、少しアレンジが必要かもしれません。

ミャンマー水祭りのようす

ミャンマー水祭りのようす『徹底比較! 日中韓しきたりとマナー』

『徹底比較! 日中韓しきたりとマナー』
 最後になりますが、4月12日に、わたしが監修した『徹底比較!日中韓 しきたりとマナー〜冠婚葬祭からビジネスまで』(祥伝社黄金文庫)が刊行されました。本書には、東アジアの平和への強い願いが込められています。もともと、日本も中国も韓国も儒教文化圏です。孔子の説いた「礼」の精神は中国で生まれ、朝鮮半島を経て、日本へと伝わってきたのです。しかしながら、現在の中国および韓国には「礼」の精神が感じられません。

 尖閣諸島や竹島をめぐる領土問題も深刻化する一方ですが、もともと「礼」とは2500年前の中国の春秋戦国時代において、他国の領土を侵さないという規範として生まれたものだとされています。中国や韓国は、日本にとっての隣国です。隣国というのは、好き嫌いに関わらず、無関係ではいられません。まさに人間も同じで、いくら嫌いな隣人でも会えば挨拶をするものです。それは、人間としての基本でもあります。そして、この人間としての基本が広い意味での「礼」です。「礼」からは、さまざまな「しきたり」が派生しました。本書は、「ライフスタイル」「冠婚葬祭」「伝統行事」「子育てと教育」「ビジネスマナー」といった5つのパートに分かれ、それぞれの分野の「しきたり」を紹介しています。特に、「冠婚葬祭」や「伝統行事」は類書にない詳しさであり、資料的な価値も大きいのではないかと思っています。

 ということで、北九州の地より東アジアの平和を祈りたいと思います。なお、9月21日(土)には「日緬仏教文化交流協会」の第1回目のシンポジウムが開催される予定です。ぜひ、日緬仏教文化交流協会の理事でもあるTonyさんにもご参加いただき、門司の「世界平和パゴダ」の存在意義、「世界平和」の実現に向けての方策などをお話しいただきたく存じます。どうぞ、よろしくお願いいたします。それでは次の満月まで、元気で。オルボワール!

2013年4月29日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 Shinさん、ミャンマーに行っていたのですか? スー・チーさんとは、本当に、入れ違いになりましたね。

 4月13日にスー・チーさんが来日して、4月15日には京都大学東南アジア研究所も訪問されました。わたしの勤めているこころの未来研究センターは同じ建物(京都大学稲盛財団記念館)の中にあるので、その時、次のような連絡がありました。<本日、12:05から15分程度、ミャンマー下院議員・ノーベル平和賞受賞者、アウンサンスーチ−氏が東棟3Fおよび中庭を訪問されます。本学本部からの指示にしたがい、混乱を避けるために、下記の要領で施設利用を制限させていただきます。また、安全管理上の観点から建物内部からの見物および写真撮影はご遠慮下さい。ご不便をお かけいたしますが、ご理解をいただけますようお願い申し上げます。日時: 2013年4月15日(月) 11:50−12:20 東南アジア研究所>。スー・チーさんは、1985年から86年にかけてに京都大学の東南アジア研究センター(当時:現在は東南アジア研究所と改名)され、父のアウンサン将軍のことなどを研究していたようです。そこで今回の京大東南アジア研究所訪問が実現したということでしょう。

 ところで、半年前、Shinさんの父上の佐久間進サンレー会長が理事長(会長)を務められている「日緬仏教文化交流協会」でぜひスー・チーさんをお招きして参拝と講演をしていただきたいと、第1回目の同交流協会理事会で提案したことがありました。その提案はいまだ実現してはおりませんが、ぜひいずれ、スー・チーさんに門司の世界平和パゴダを参拝していただき、そこで講演ないし記念スピーチをしてほしいものだと今も思っています。「日緬仏教文化交流協会」の第1回目のシンポジウムがこの秋の9月21日(土)に開催されるようですから、ぜひその席でももう一度、門司の「世界平和パゴダ」の存在意義とスー・チーさんの来日・参拝のこと、また「世界平和」の実現に向けての方策についてなど、もろもろ論議できればと思います。その節は、よろしくお願いします。

 3月末から4月末にかけては、2013年度の新学期が始まったこともあり、バタバタとしておりました。その間に、母の7回忌で徳島に戻ったり、奈良県吉野郡の天川や洞川を訪ねたり、志賀直哉の名作『城の崎にて』が書かれた城崎温泉に行ったりして、けっこうあちこち移動していました。本当は、3月中か、5月の連休にはヨーロッパの「身心変容技法」実践の現状をリサーチしたかったのですが、60肩の痛みがひどくて、重い荷物を抱えて一人で移動することが困難なので、それは肩の痛みがなくなるまでしばらくおあずけ、延期することにしました。その代わりに、以前から調査したいと思っていた対馬と壱岐の島に行ってこようと思っています。

 対馬のことは、「邪馬台国」のことを記した中国の史書『魏志倭人伝』(三国志魏書第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条)にも出てきますね。「始めて一海を渡ること千余里、対馬国に至る。その大官を卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。土地は険しく深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径(こみち)の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市てきす。」

 海中を1000里あまり渡っていくと、対馬の国に至るというのです。そして、そこの「大官」は「卑狗」(ひこ)と言い、「副官」は「卑奴母離」(ひなもり)と言うとあります。そこはしかし、「絶島」で400余里四方の広さを持ち、1000戸あまりの家々があるというのです。その山は険しく、林も深く、道も「禽鹿(きんろく)の径(こみち)」、つまり、獣道の如く、「良田」はなく、「海物」を食べて「自活」し、海の民もとして船で南北の「市」に行き来していると記されています。

 この対馬は、朝鮮半島から約50kmで本当に至近距離にあります。韓国の釜山ともすごく近いです。当然、朝鮮半島との交易で栄えてきました。宗氏はその棟梁です。彼らはみなウミンチュ(海人)ですから、当然、海の神様を祀ります。ワタツミの神とか、アマテル神とか、ツキヨミ(ツクヨミ)神とかが祀られていて、今年20年ぶりの遷宮になる伊勢の神宮との関係もありそうです。海洋民のネットワークとして。対馬の浅茅湾はアマテル信仰の発祥の地らしいので、興味津々です。

 わたしは、今回、延喜式内社と対馬・壱岐のシャーマニズムを予備調査してみようと思っています。壱岐・対馬の「卜部」に関心があるのす。ここは「卜部」氏による「占い」の拠点地だったのです。

 京都大学の吉田神社を管理したのが「吉田卜部氏」で、『徒然草』の著者の吉田兼好も卜部兼好とも言い、卜部一族です。もちろん、吉田神道(唯一宗源神道)の大成者の吉田兼倶も。

 卜部は、もともと亀の甲羅を焼いて吉凶を占う「亀卜」に従事する品部でした。その卜部一族の中でも、伊豆と壱岐・対馬の卜部は特別に取り立てられて、宮中の神祇官の官人となりました。神祇官の大副・少副という次官には伊豆の卜部氏が就任し、その下の下級神職として伊豆の卜部が5人、壱岐の卜部が5人、そして対馬の卜部が10人取り立てられたのです。興味深いでしょう、まっこと。

 卜部氏は、たとえば、常陸国にもいて、太占のワザで鹿島神宮に仕え、天平18年(746年)にはこの常陸国鹿島郡の卜部5戸が中臣鹿島連の姓を賜ったと『続日本紀』天平18年3月24日の条に記されています。その常陸国以外にも、下総国、陸奥国、駿河区に、近江国、大和国、因幡国、筑前国にいたことが古典史書に出てきます。『往生要集』を著した源信も大和の葛城の卜部だったといわれています。この卜部ネットワークに、わたしは関心があるのです。

 司馬遼太郎は『街道を行』2巻の中に、「日本神道というこの特異なシャーマニズムにおけるその古代的原型が対馬と壱岐に存在」していると指摘しています。この壱岐・対馬のシャーマニズム神道が「新羅花郎」や「修験道」とどうつながるのかに興味があるのです。そのあたりを探ってみたいと思います。対馬には、今の「占部」さんという方がいるようですから、ぜひお会いしたいものです。

 ところで、全国の延喜式内社は、3132座、2861社、ありますが、対馬国には29座(大6座・小23座)、壱岐国には24座(大7座、小17座)もあります。これは凄い数なのですよ。というのも、同じ「西海道」の九州の他の国々は、筑前国19座・筑後国4座、豊前国6座・豊後国6座、肥前国4座・肥後国4座・日向国4座・大隅国5座・薩摩国2座、しかないのですから。あの神話のふるさとと言われる日向の国ですら4座なのですよ。そして、最南端の薩摩の国ではわずか2座しかありません。これに比べて、壱岐・対馬の式内社の多さが異様に多いことがわかるというものです。

対馬国上縣郡:16座(大2座・小14座)

① 和多都美神社(名神大)
② 嶋大國魂神社
③ 能理刀神社
④ 天諸羽命神社
⑤ 天神多久頭多麻命神社
⑥ 宇努刀神社
⑦ 小枚宿祢命神社
⑧ 那須加美乃金子神社
⑨ 伊奈久比神社
⑩ 行相神社
⑪ 和多都美御子神社(名神大)
⑫ 胡禄神社
⑬ 胡禄御子神社
⑭ 嶋大國魂神御子神社
⑮ 大嶋神社
⑯ 波良波神社

対馬国下縣郡:13座(大4座・小9座)
① 高御魂神社(名神大)
② 銀山上神社
③ 雷命神社
④ 和多都美神社(名神大)
⑤ 多久頭神社
⑥ 太祝詞神社(名神大)
⑦ 阿麻留神社
⑧ 住吉神社(名神大)
⑨ 和多都美神社
⑩ 平神社
⑪ 敷嶋神社
⑫ 都々智神社
⑬ 銀山神社

壱岐国壹岐郡:12座(大4座・小8座)
① 水神社
② 阿多弥神社
③ 住吉神社(名神大)
④ 兵主神社(名神大)
⑤ 月読神社(名神大)
⑥ 国片主神社
⑦ 高御祖神社
⑧ 手長比売神社
⑨ 佐資布都神社
⑩ 同佐農布都神社
⑪ 中津神社(名神大)
⑫ 角上神社

石田郡:12座(大3座、小9座)
① 天手長男神社(名神大)
② 天手長比売神社(名神大)
③ 弥佐支刀神社
④ 国津神社
⑤ 海神社(大)
⑥ 津神社
⑦ 與神社
⑧ 大国玉神社
⑨ 爾自神社
⑩ 見上神社
⑪ 国津意加美茄神社
⑫ 物部布都神社

 と、まあ、上記のような神社名が『延喜式』神名帳に記載されているのです。実は、昨日、4月29日(日)に、京都大学CIAS(地域研究統合情報センター)の研究報告会があって、そこでわたしは、「癒し空間の総合的研究—聖空間としての延喜式内社とアジアの聖地の比較研究」という2年間の研究報告をしたのです。その冒頭で、わたしは次のようなスライドを示して説明しました。

 <本研究は2011年3月11日に起こった東日本大震災によって研究計画と調査地域を急遽変更した。東日本大震災の被災地における「癒し空間」と「延喜式内社」の現状確認と機能実態についてのフィールドワーク的研究を優先したからである。

 研究内容:本年度も、昨年度に引き続き、①2012年5月1日から6日までの6日間(第3回追跡調査)、青森県八戸市から福島県南相馬市の立ち入り禁止区域までの海岸線約500キロの被災状況とそこにおける延喜式内社(塩竈神社・鼻節神社・石神社など)を含む神社仏閣の調査を共同研究員の須田郡司氏と行ない、鎌田が②8月24日から27日まで宮城県名取市から岩手県宮古市までを第4回目の追跡調査をし、さらに③2013年3月10日から14日までの5日間、宮城県仙台市から青森県八戸市までを第5回目の追跡調査をした。また、天河大辨財天社と丹生川上神社下社を3回に渡り追跡調査した。

 研究成果発表:そこで得た被害状況の報告と癒し空間としての機能の発現について、昨年度刊行した鎌田東二著『現代神道論——霊性と生態智の探究』(春秋社、2011年11月30日刊)、鎌田東二編著『日本の聖地文化——寒川神社と相模国の古社』(創元社、2012年3月31日刊)、に引き続き、『叢書 宗教とソーシャル・キャピタル4 震災復興と宗教』(稲場圭信・黒崎浩行編、明石書店、2013年4月1日刊)の鎌田論文「民俗芸能・芸術・聖地文化と再生」にまとめ、各種シンポジウム(3回)において、その成果を発表した。>

 そして、その研究成果のポイントを次の6点にまとめたのでした。


①JAXA&京都大学宇宙総合学ユニットの中野不二男による衛星データ(ALOS deta)に基づき日本列島の海水準画像を作成し、延喜式内社との位置関係を調べることによって、主要古社が海岸線に近い河岸段丘に立地している確率が高いことを突き止め、日本列島に生まれた「聖地・霊場」が自然の恵みに深く依拠し、それに対する敬虔なる畏怖・畏敬の念を以って維持されてきたことの地質学的・生態学的・自然地理学的意味を再確認したこと。(→『日本の聖地文化』など)
②延喜式内社などの各国主要古社が縄文遺跡など先史時代の遺跡および古代遺跡と近接し、縄文時代からの信仰・生活と切り離せないことを推定。(→同上)
③陸奥国(東北太平洋岸4県・福島県・宮城県・岩手県・青森県)延喜式内社100社の内、石巻市や女川町のある牡鹿半島周辺沿岸部に10社も密集していることが地震や津波などの自然災害の多発を関係があることを推定した。(→同上)
④それに関連して、伊豆国に92座の延喜式内社があることの意味も地震や火山の噴火などの自然災害と密接な関係があることを推定した。
⑤東北被災地の津波浸水線上に多くの神社があり、避難所になっている事実とその安全・安心装置としての意味を確認した。
⑥日本を代表する日本三大祭りの一つに挙げられている祇園祭の発生が貞観11年(869)に起こった貞観地震を直接的な契機としていることを推定した。

 かくして、日本の「癒し空間」の具体例といえる延喜式内社が自然災害の襲来(「祟り」とも捉えられた)に対する防災・安心・安全装置や拠点でもあったことを確認した。


 このような観点から言うと、対馬国と壱岐国は延喜式内社が多く、それは陸奥国牡鹿郡や伊豆国のように災害に対する鎮撫・鎮護の安全装置としてではなく、海の交通要所として、航海安全や交易守護の海の神を祀る式内社が多かったということだと思うのです。そしてそれは、大和朝廷の祭祀や呪術・儀礼の中核にも深く関与していたということです。それが、「卜部氏」だったのです。

 ところで、延喜式内社の陸奥国100座の分布は次のようになります。

① 白河郡7座
② 苅田郡1座
③ 名取郡2座
④ 宮城郡4座(大2)志波彦神社・鼻節神社
⑤ 黒川郡4座
⑥ 賀美郡2座
⑦ 色麻郡1座
⑧ 玉造郡3座
⑨ 亘理郡4座(3座は鹿島系)
⑩ 信夫郡5座
⑪ 志太郡1座
⑫ 磐城郡7座
⑬ 標葉郡1座
⑭ 牡鹿郡10座(大2)零羊埼(ひつじさき)神社・拝幣志(おろへし)神社、鹿島御児神社、香取伊豆乃御子神社 他
⑮ 桃生郡6座
⑯ 行方郡8座
⑰ 栗原郡7座
⑱ 胆沢郡7座
⑲ 新田郡1座
⑳ 会津郡2座
21 小田郡1座
22 磨郡1座
23 斯波郡1座
24 気仙郡3座
25 柴田郡1座
26 宇多郡1座
27 伊具郡2座
28 磐井郡2座
29 江刺郡1座

対して、伊豆国92座は、

① 賀茂郡46座(大4)
② 田方郡24座(大1)
③ 那賀郡22座

で、寒川神社が一宮の相模国13座は、

① 足上郡1座
② 餘綾郡1座
③ 大住郡4座
④ 愛甲郡1座
⑤ 高座郡6座(大①)大庭神社・深見神社・宇都母知神社・寒川神社・有鹿神社・石楯尾神社

 となります。そして、これら全体を表化すると、次のようになります。

延喜式内社 全体図

延喜式内社 全体図
 Shinさんの住んでいる北九州は、宗像大社も近く、壱岐・対馬も近いので、大変面白いところです。でも、延喜式内社の数からすると、筑前よりも対馬国と壱岐国が圧倒的に多いのです。このあたりの秘密を探って解明したいと思います。

 ところで、わたしは、来月の5月18日(土)、「京大俳句会50回句会記念イベント in 西部講堂」で講演とライブを行ないます。それは、次のようなプログラムです。


京大俳句会50回句会記念イベント in 西部講堂
日時:5月18日(土) 13時〜18時30分
場所:京大西部講堂
主催:京大俳句会
入場料:1000円(学生500円)
イベント終了後、懇親会あり(500円)

 プログラム
13:00-13:30 講演 鎌田東二(京都大学こころの未来研究センター教授)「言霊あるいは言語遊戯としての俳諧」
13:40-16:00 公開句会「あなたの好きな俳句を選ぼう」
16:15-17:40 ライブ 仲田コージ & Boogie Baby Band(京都で唄い続けて40年、地元屈指のブルーズマン)
           鎌田東二(神道ソングライター)
17:50-18:30 映像 連句アニメーション「冬の日」川本喜八郎監督(2003年)-松尾芭蕉七部作「冬の日」のアニメーション作家35名のコラボ-

[公開句会・投句募集]
句会に参加出来る方 一人一句 締切:5月11日(土)
E-mail または fax で送って下さい
E-mail : nakajima.kazuhide.7x(アットマーク)kyoto-u.ac.jp
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京大西部講堂
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京大俳句会blog
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 この「京大俳句」は、大変面白い歴史があります。田島和生著『新興俳人の群像—「京大俳句」の光と影』(思文閣、2005年)に詳しいのですが、それによると、「京大俳句」は、昭和8年(1933)に、平畑静塔、井上白文地、中村三山、波止影夫、鈴鹿野風呂、日野草城、水原秋桜子、山口誓子、五十嵐播水ら、錚々たる俳人を顧問に発刊したと言います。さらに、その後、西東三鬼、三谷昭、高屋窓秋、石橋辰之助、渡辺白泉らの超おもろくアヴァンギャルドな俳人も次々と参加して新興俳句の新しい動きを生み出します。そして、日中戦争、特高の取り調べ、獄中俳句、スパイ俳人の暗躍など、新興俳句運動の盛衰が繰り広げられ、「太平洋戦争へと突入した戦争時代、全国の多感な俳人たちの心をとらえた俳句同人誌」の「京大俳句」は時代の荒波に揉まれ、抵抗しつつも、新興俳句運動全般が弾圧により衰退し滅んでいきます。

 そんな伝統のある「京大俳句」の会が再興されて5年になるのです。わたしが京都造形芸術大学から京都大学に移ってまもなく、京都大学理学部植物園の園丁の中島和秀さんや京都大学農学部図書館司書の大月健さんたちが中心になって再興し、以来、50回目の節目の句会の記念イベントが行なわれるのです。その中島君は、わたしが作演出した芝居「ロックンロール神話考」(1970年5月、大阪市心斎橋エルマタドールで1ヶ月間上演)の主演男優で、その後、舞踏家、俳人になりました。とてもおもろく、美学的な人で、「石川力夫」の名前で句集や短編集を何冊も出しています。ぜひ取り寄せて、読んでみてください。また、紹介してみてください。

 わたしは、その会で、40年に及ぶわが持論の「言霊俳句論、言語遊戯俳句論」をぶつけ、その勢いで、「神道ソング」7曲30分を歌いまくります。エレアコと緑のエレキギターと電気ピアノを使い分けて。京大西部講堂、伝説のライブになること、請け合いですよ! お暇でしたら、ぜひ見に来てほしいものです。

 というわけで、次回のムーンサルトレターには、その報告と雄姿(?)が写真付きで投稿される可能性、無きに死もあらず、でんなあ〜。では、ごきげんよろしゅうに。

2013年4月29日 鎌田東二拝