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シンとトニーのムーンサルトレター第236信(Shin&Tony)

鎌田東二ことTonyさんへ

 

10月17日は満月。別名「ハンターズ・ムーン」と呼ばれる満月で、今年最も明るく、最大の満月になる「スーパームーン」でもあります。この日、わたしは東京にいます。一般財団法人 冠婚葬祭文化振興財団の理事会に出席したのです。8月に理事長に就任してから初の理事会でした。これからも「天下布礼」に努める覚悟です。


「日本経済新聞」2024年9月25日朝刊

 

9月20日の朝、父である故佐久間進が安らかに旅立ちました。ムーンサルトレター第235信の冒頭での追悼歌、誠にありがとうございました。Tonyさんが詠まれた「進みゆく 礼(ゐや)びのみわざ 八美道 神のみこころ伝え行く道」「進みゆく 礼(ゐや)びのみわざ 八美道 神のみこころ伝え咲く真道(佐久間道)」「進みゆく ゐやびの道の その果てに ついに至りし やすらぎの郷」の3首の歌は、父のたましいに届いたことと思います。父のために「南無天寿国眷属郎党佐久間進大人之命」という諡(おくりな)まで賜り、Tonyさんには感謝するばかりです。


実家に貼られた忌中札

 

父は家族に見守られて、堂々と人生を卒業していきました。入院先の小倉記念病院から自宅に戻った後、黄檗宗福聚寺のご住職に枕経をお願いいたしました。
実家に安置された父の側にいたとき、ふと思い立ち、門に「忌中」の札を貼りました。防犯上の観点とやらで最近はめっきり目にすることが減った忌中札ですが、やはり故人が地域のみなさまの縁に支えられて生きてこられた以上、掲げることには大きな意味があるかと思いました。これも少しは「有縁社会」の再生になればと思った次第です


松柏園ホテルを照らす月

 

忌中札を貼ったとき、目の前の松柏園ホテルの本館の上空に幻想的な月が見えました。生前の父は大の月好きで、実家の庭には月が映る御影石の舞台を作ったくらいです。また、「人間は死後、月へ行く」といつも父と言い合っていました。幻想的な月の下では、松柏園ホテルが月光を浴びて輝いていました。千葉県の富津市生まれの父は、東京で母と出会って結婚し、小倉にある松柏園ホテルの総支配人となりました。そこから冠婚葬祭互助会を設立し、サンレーグループの礎を築きましたが、「天下布礼」の原点である松柏園ホテルをこよなく愛していました。その松柏園の上にかかった月を眺めていると、父の人生や想いが次々にわたしの心に浮かんできて泣けてきました。松柏園を照らす月は、「佐久間進よ、頑張ったな。えらいぞ!」と言っているようでした。わたしは月を眺めながら、「父逝きて 行くべき月ぞ輝けり 松柏園に光注ぎて」という追悼歌を詠んだのでした。


松柏園ホテルのみなさんに見送られる

 

自宅に安置されていた名誉会長の遺体は、21日の午前中、小倉紫雲閣に移されました。その前に、天道館、松柏園ホテル、 皇産霊神社といった名誉会長の想いが込められたサンレーグループの諸施設を回りました。わたしは、リムジン霊柩車の助手席に乗りました。最初に「平成の寺子屋」と呼ばれた研修施設の天道館に寄りました次に松柏園ホテルに寄ると、大勢の社員のみなさんが整列して合掌してくれました。わたしは窓を開けて、大きな声で「ありがとうございます!」と言い続けました。


皇産霊神社の前を通りました

 

松柏園を出発した後は、皇産霊神社へ。「太陽を追う男」と呼ばれ父が「日の出の最も美しい場所」として選んだ門司の青浜に建立した神社で、父が崇拝してやまなかった聖徳太子の像も鎮座しています。神域なので霊柩車は鳥居をくぐれませんでしたが、その前を通ることができて、故人もさぞ喜んだことと思います。思えば、今年8月5日、父の生前最後の外出も皇産霊神社でした。わたしが車椅子を押して、神社境内の聖徳太子像を背景に父と記念写真を撮影したことが遠い昔のようです。神社からの帰りに見た青浜の海も、いつも「心如大海」と唱えていた父の死を悼んでいるようでした。


小倉紫雲閣の「月の広場」で迎えられる

 

それから、一路、小倉紫雲閣へ。「月の広場」には、多くの社員のみなさんが並んでいました。「一同礼!」の合図で、みなさん一斉に深々とお辞儀をされました。その姿を見て、わたしは「やっぱり、うちの会社のお辞儀は日本一ですよ。見事なものです」と後席の棺に向かって語りかけました。わたしは、わが社が「礼の社」であることにこの日ほど強い誇りを感じたことはありません! 松柏園でも紫雲閣でも、迎えてくれた社員のみなさんはみな名誉会長である父の逝去を惜しんでくれました。ここまで社員のみなさんに愛された姿を見て、わたしは故人の偉大さを改めて再確認しました。


父には感謝あるのみです!

 

9月25日、通夜式が小倉紫雲閣の大ホールで行われました。まずは14時半から、大ホールで遺族が焼香し、その後、サンレーグループの役員および社員のみなさんの焼香に立ち会いました。みなさん涙ながらに父との別れを惜しんでおり、胸を打たれました。「ああ、父はこれだけ社員のみなさんに愛されていたんだなあ」と思い知りました。約1時間半後の16時に社員焼香が終わりました。


小倉紫雲閣の上に虹が!

 

その後、雨が降り始めました。小倉紫雲閣を取り囲んだ大量の供花が濡れていましたが、わたしは「弔問される皆様の足元が悪くなるかな」と心配もしましたが、その一方で「これは父との別れを惜しむ方々の涙雨ではないかな」と思いました。しかし、通夜直前には雨が上がり、小倉紫雲閣の上には見事な虹がかかっていたようです。ご弔問の方から画像を頂きました。まさに通夜が始まる直前に雨があがり、美しい太陽の光が差し込みました。わたしは、「ああ、太陽を追う男らしい奇跡だな」と思った次第です。Tonyさんは、「太陽を追う男が虹となり、天に昇って、太陽をつかんだ」と言って下さいました。

 

冒頭、父の追想ムービーが流れました。ちょうど1年前の2023年9月20日に開かれた父の「還暦を祝う会」で披露された「太陽を追う男『佐久間進』八十八年の軌跡」をベースとした動画に、多くの方が見入っていました。元気な頃の父の姿を見ると、「ああ、もういないんだなあ・・・」という思いがこみあげてきます。ムービーの上映が終了すると、「導師・式衆入場」です。小倉藩主の小笠原家の菩提寺である黄檗宗広寿山福聚寺のご住職を導師として、総勢10名の僧侶が入場されました。一列に並ぶと、さすがに壮観です。通夜式が開始されて、読経、導師焼香となり、続いて喪主焼香となりました。


遺族親族代表挨拶をしました

 

喪主焼香の後は、「遺族親族代表挨拶」です。故人の長男であるわたしがマイクの前に立ちました。わたしは、最初に「遺族親族を代表して、ひとことご挨拶申し上げます。皆様、本日はお忙しい中、父 佐久間進の通夜にご弔問いただき、心よりお礼申し上げます」と言いました。それから、「父は昨年3月頃に体調の不良を訴え、検査の結果『大腸がん』が発見されました。その後、今年2月には肝臓への転移が発覚しました。当初は放射線治療を行いましたが、その後は抗がん剤や手術を施すことなく、あるがままに自らの死を受け入れるが如く、穏やかに自宅で療養に努めてまいりました。そして9月20日、満88歳という米寿の節目で、父は静かにその生涯を閉じました。最後は、家族に見守られて、堂々と人生を卒業していきました」と言いました。


死は不幸ではないが、死別は寂しいです

 

それから、「わたしは、『死は不幸ではない』という信条を持っております。それでも父という存在を失ったことは、やはり寂しいです。この寂しさは決して不幸ではありませんが、それでも心の奥底に残るものです。明日26日、この日が偶然にも父の行年90歳の誕生日にあたります。父は90歳の誕生日を迎えることを望んでいましたが、残念ながら叶いませんでした。しかしながら、本日の通夜では、このように多くのかけがえのない皆様に見守っていただいております。いよいよ明日は、父が新しい世界へと生まれ変わる誕生祝いだとも考えています。寂しいながらも、微笑みと共に、父を送りたいと思っています」と言いました。


遺族親族へ変わらぬご厚誼とご鞭撻を賜りますよう

 

そして、最後に「皆様には、父が生前に賜りましたご厚情に対し、改めて感謝申し上げます。今後とも、遺族親族へ変わらぬご厚誼とご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。簡単ではございますが、これをもちましてお礼の挨拶にかえさせていただきます。なお、明日の葬儀・告別式は当会場におきまして正午より執り行います。何卒、ご参列賜りますようお願い致します。本日は誠にありがとうございました」と述べたのでした。その後は、導師・式衆が退場し、それから遺族・親族焼香の後で、弔問者焼香が行われました。冠婚葬祭を生業とし、葬儀に関する本もたくさん書いてきたわたしですが、喪主を務めるのは初めてです。戸惑うこともありましたが、わが社のスタッフが親身になって寄り添ってくれました。おかげさまで、通夜式は滞りなく終了しました。


葬儀の前に家族写真を撮影しました

 

翌日は、葬儀・告別式でした。26日の朝、小倉紫雲閣でモーニングコートに着替えました。その後は遺族一同、「桜の間」でお斎をいただきました。その後、棺が大ホールに移され、11時からは遺族親族で大ホールにおいて集合写真を撮影しました。ドイツの哲学者ヘーゲルは「家族とは弔う者である」と述べましたが、それに加えて、わたしは「家族とは一緒に写真に写る者である」と言いたいです。40年以上にわたって富士フィルムの年賀状CMに出演し続けた樹木希林さんが、「写真は家族の形を整える」「写真は家族の記憶をとどめるもの」「写真がなかったら、うちの家族って何だったのっていうようなもんですよ」との名言を残したことを思い出しました。


葬儀前にしばし語り合う

 

開式前に、Tonyさんとしばし語り合いました。いきなり、TonyさんのYouTube番組の取材を受けました。この日、Tonyさんには葬儀の最後に父への追悼歌を捧げていただき、火葬場の収骨まで御一緒していただきました。11時30分から迎賓が開始され、多くの参列者をお迎えしました。業界の仲間たち、地元でお世話になっているみなさまをはじめ、多くの方々がお越しになられ、父の人間関係の豊かさを再認識しました。その後、導師・式衆入場。葬儀が開式され、読経が始まりました。昨日と同様、10人の僧侶が一斉に読経をあげる様子は壮観でした。


感謝を込めて焼香しました

 

それから喪主焼香となり、最初に足の悪い母が焼香するので、わたしが車椅子を押して焼香台まで行きました。母も心を込めて焼香しました。再び車椅子を押して喪主席に戻ってから、次にわたしが焼香をしました。頭上の父の写真を見上げ、父が無事に天寿国へ行けるようにと祈りました。続いて、弟が焼香しました。それから「弔辞」です。友人代表弔辞として、合馬内科クリニックの合馬紘院長。孫を代表して、弟・康弘の長男である佐久間弘明。そして社員代表弔辞として、 サンレー冠婚事業部の井口幸治部長が弔辞を読みました。それぞれ心に沁みる感動的な内容でした。


ミャンマー僧たちも祈りを捧げてくれました

 

それから「弔電拝読」です。自民党の岸田文雄総裁、麻生太郎副総裁、林芳正官房長官、福岡県の服部誠太郎知事をはじめ、政治家、経済人、文化人、そして生前の父と縁のあった方々からの弔電が披露されました。翌日が自民党総裁選の日で、石破茂新総裁が誕生したわけですから、岸田総裁、麻生副総裁としてはおそらく最後の弔電だったのではないかと思われます。最後は東京大学名誉教授で宗教学者の島薗進先生の弔電が全文披露されましたが、グリーフケアの第一人者の悲しみに寄り添う言葉は心に沁みました。みなさまには、心より感謝申し上げます。それから再び読経となり、遺族・親族が焼香しました。その後、弔問者焼香が行われました。父が支援し続けた世界平和パゴダのミャンマー僧たちも参列し、父のために祈りを捧げてくれました。


葬儀の遺族親族代表謝辞

 

それから、「遺族親族代表謝辞」として、わたしがマイクの前に立ちました。わたしは、最初に「遺族親族を代表して、ひとことご挨拶申し上げます。皆様、本日はお忙しい中、父 佐久間進の葬儀にご参列いただき、心よりお礼申し上げます」と述べました。昨日の通夜と重なる部分もありましたが、わたしは「合馬内科クリニック・合馬紘院長には、主治医として、時には大切な友人として、抗がん剤を使わない・手術をしない・延命をしないという父の信念に寄り添って頂きました。御多忙にもかかわらず、毎週、父が療養する自宅に往診していただき、父を励ましていただきました。心より感謝申し上げます。そして9月20日、満88歳という米寿の節目で、父は静かにその生涯を閉じました。最後は、家族に見守られて、堂々と人生を卒業していきました」と述べました。


「思いやりの作法」の人でした

 

それから、「父は3人の孫に恵まれ、孫たちからは『大パパさん』と親しまれていました。運動会を見に来てくれたり、お祭りに連れていってくれたり・・・『優しいおじいちゃん』の一面を見せていましたが、その一方で礼儀作法に対しては厳しく指導しました。しかし、父のいう作法とは挨拶やお辞儀の仕方というより『こころ』を『かたち』にする『思いやりの作法』でした。亡くなる直前まで自宅で療養していた父は、わたしたち家族や、介護や看護をして下さる方々にいつも『疲れてないか』『食事はしてるか』『寝てるか』などと声をかけていました。そして必ず両手を合わせて『ありがとう』と言いました。自分の体調が優れないのに、周囲の人を思いやる父の姿は、最後の最後まで大切なことを教えてくれました」と述べました。


長い年月を経て、普通の親子に戻れました

 

それから、「わたしは、昭和から平成に変わった1989年にサンレーグループに入社致しました。子供の頃や学生時代の父は、本当に優しく温かい存在でしたが、入社後はその優しさが一転し、非常に厳しい上司となりました。35年間、ほぼ毎日のように叱られ、顔を合わせるたびに叱責を受けることも多く、時には反発もしてきました。入社した瞬間から『親子の関係』ではなく『上司と部下』という関係に変わり、わたしはプライベートでも父のことを『社長』や『会長』と役職で呼んできました。しかし亡くなるその日、35年ぶりに・・・本当に久しぶりに私は父に『お父さん』と声を掛けました。まさに亡くなる直前に『お父さん、ありがとう』と言いました。長い年月を経て、父と私の関係は『普通の親子』に戻れた気がします。その瞬間、父の厳しさの裏にあった深い愛情と、わたしへの期待を改めて感じ、温かな感謝の念が泉のように湧き上がりました。父の表情も柔らかなものになりました。自然と涙がこぼれました」と述べました。


本日は誠にありがとうございました

 

そして、私は「本日、この日が偶然にも父の行年90歳の誕生日にあたります。父は90歳の誕生日を迎えることを望んでいましたが、残念ながら叶いませんでした。本日の葬儀では、このように多くのかけがえのない皆様に見守っていただいております。本日、この日は、父が新しい世界へと生まれ変わる誕生祝いだとも考えています。寂しいながらも、微笑みと共に、父のことを送りたいと思っています。皆様には、父が生前に賜りましたご厚情に対し、改めて感謝申し上げます。今後とも、遺族親族への変わらぬご厚誼とご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。簡単ではございますが、これをもちましてお礼の挨拶にかえさせていただきます。本日は誠にありがとうございました」と述べたのでした。


追悼歌を捧げるTonyさん

 

その後、導師・式衆が退場し、四重奏で父が大好きだった「あぁ人生に涙あり」を献奏しました。生前、会社の宴会などの大トリでいつも父が「あぁ人生に涙あり」をカラオケで歌っていた姿が思い出されて、また泣けてきました。献奏が終わると、Tonyさんが、父に「進みゆく 礼(ゐや)びの道の その果てに ついに至りし やすらぎの郷」という追悼歌を捧げて下さいました。歌を詠む前に、Tonyさんは「佐久間進様の御霊は天寿国へと旅立たれました。まことに、おめでとうございます」と言われました。「天寿国」は、聖徳太子が死後に向かったという浄土です。父は聖徳太子を深く崇拝しており、天寿国を極楽浄土そのものととらえて、「自分は天寿国へ行きたい」といつも語っていました。Tonyさんが詠まれた追悼歌は棺の中に入れられ、葬儀は閉式となりました。


棺に『佐久間進のすべて』を入れました

 

閉式後は「お別れの儀」が行われました。父の柩を囲み、最後のお別れをしました。遺族親族は胡蝶蘭、会葬者は白デンファレを柩に入れました。わたしは、柩の中に父の生涯と思想を1冊にまとめたムック『佐久間進のすべて』を入れました。この本の完成が間に合って、本当に良かったです。棺は白い花で埋め尽くされ、父が生前に愛用した帽子やシャツやスーツなどが収められました。その後、生前はお酒が好きだった父のためにお気に入りの日本酒が用意され、それをグラスに移して百合の蕾に浸して父の唇につけてあげました。闘病中はずっと好きなお酒が飲めなかったので、さぞ父も喜んでいるでしょう。


「また、会いましょう!」と言いました

 

そして、この日が誕生日だった父のためにバースデーケーキが用意され、わたしたちは「ハッピー・バースデー」を歌って、ケーキを棺に入れてあげました。このサプライズには、今日で行年90歳を迎えた父も驚いていることでしょう。そして、喜んでくれているでしょう。蓋を閉める直前、わたしは、父の頬をなでながら「お疲れ様でした。ありがとうございました。また、会いましょうね!」と言いました。ときには父に反発したこともありました。“霊界の宣伝マン”と呼ばれた俳優の故・丹波哲郎さんは、わたしたち父子のことを「あなたたち親子は前世で友人というか、同志だったんだよ。それが今世では父と子に生まれ変わったわけだから、子であるあなたは『偉そうにしやがって』と腹を立てることもあるが、根っこでは目指すところが同じなんだよ」と言って下さったことを思い出します。


「月の広場」から出棺しました

 

その後、遺族親族と会葬者は月の広場へ。父が眠る棺も運ばれ、霊柩車に乗せられました。そのとき、柩はわが社の役員のみなさんが持ってくれました。出棺の際は、弟が挨拶をしました。それから、わたしが位牌、弟が骨壺、最後まで父を献身的に介護してくれた妻が写真を持って霊柩車に乗り込みました。そして、そのまま門司にある東部斎場へ向かったのでした。昨日の通夜に弔問していただいた方々、本日の葬儀に参列していただいた方々、供花や弔電を賜った方々、2日間、親身になって支えていただいたサンレーグループのみなさんにも感謝いたします。そして、Tonyさんは火葬場まで御同行され、収骨まで付き添って下さいました。いくら家族同然の関係とはいえ、感謝の言葉もありません。こうして、葬儀は閉式となりました。


映画「男神」の撮影シーン

異変に驚く演技をしました

 

父の葬儀の後も「天下布礼」の旅は続きます。10月7日、わたしは愛知県の日進市にある愛知牧場にいました。ここで行われる映画「男神」の撮影に参加し、同作に出演するためです。恥ずかしながら、今回が5回目の映画出演となります。「男神」は、普遍的な家族愛を描くファンタジーホラーです。当初、わたしの役柄は儀式を司る神主でしたが、喪中なので、さすがに神主の役はまずいと思い、辞退しました。すると、商工会議所会頭の佐久間進一郎(!)役に変更となりました。この映画の益田祐美子プロデューサー、志賀司共同プロデューサーとは懇意の仲であり、これも何かのご縁と思い、お引き受けした次第です。益田プロデューサーから、「玉串奉奠の所作が美しくて、さすがでした。来年、『法師』という仏教映画を作るので、今度はぜひ焼香のシーンで出演してください」と言われました。考えてみれば、玉串奉奠にしろ、焼香にしろ、儀式のシーンで映画出演するのは、冠婚葬祭文化振興の活動ではないかと思っております。これも「天下布礼」の一環と考え、これからも頑張ります!


学術集会に参加いたしました

学術集会での発表のようす

 

また、13日には金沢市にいました。金沢歌劇座で開催される一般社団法人 日本エンドオブライフケア学会の学術集会で、学者や医療関係者の方々とともに、わたしも発表しました。演題は「葬儀とグリーフケア~悲縁をつなぐ取り組み~」でした。今回の学術集会での発表ですが、学術集会長の浅見洋先生からの依頼で参加しました。浅見先生は、西田幾多郎記念哲学館の館長で、東京大学名誉教授の島薗進先生とは旧知の仲です。その御縁で、浅見先生に『ウェルビーイング?』『コンパッション!』(ともに、オリーブの木)を献本させていただいたところ、学術集会への出講を依頼された次第です。この学術集会で発表するのは学者や医療関係者ばかりで、わたしのような冠婚葬祭業者は初めてだそうです。わたしは、サンレーグループ代表、株式会社サンレー代表取締役社長として出講しました。


「月への送魂」前の主催者挨拶をしました

 

14日は、能登半島の珠洲にいました。「ラポルトすず」の中庭において、「月への送魂」を行ったのです。夜空に浮かぶ月を目指して、故人の魂をレーザー(霊座)光線に乗せて送る新時代の「月と死のセレモニー」です。儀式に先立って、わたしが主催者挨拶をしました。わたしは、「一言ご挨拶させていただきます。令和6年1月1日に発生した能登半島地震は最大震度7の揺れで家屋の倒壊、津波など甚大な被害が発生し、多くの方が犠牲となりました。そして9月の奥能登豪雨においても川の氾濫や土砂崩れなどによって大きな被害が発生し、家を失い、家族や友人を失った方のその喪失による悲嘆の大きさは計り知れないものであります。


月下の主催者挨拶

 

わたしたちの人生とはさまざまな喪失の連続であり、その喪失により多くの悲嘆が生まれますが、その中でも『愛する人を亡くす』という悲嘆はもっとも大きいものといわれています。今回の能登半島で発生した大災害によって犠牲になられた方々へ、そして残されたご家族に対してわたしたちはいったい何ができるのか、ということを考え続けました」と述べました。


父の遺影を持ちました

 

また、わたしは「世界中の古代人たちは、人間が自然の一部であり、かつ宇宙の一部であるという感覚とともに生きていました。死後への幸福なロマンを持っており、死者の魂は月に行くものだと信じました。多くの民族の神話と儀礼において、規則的に満ち欠けを繰り返す月は、人間の『死と再生』のシンボルとされております。そこで、月にわれわれの供養の想いとしての『魂』を送る『月への送魂』を行い、このたびの能登半島地震および奥能登豪雨の犠牲者の方々への鎮魂として哀悼の意を捧げたいと思います。わたしたちは、これからも愛する人を亡くされた方々とともに歩んでいきたいと思います」と述べたのでした。


月への送魂in能登半島

遺影に見せてあげました

 

わたしは、「死は不幸ではない」ことを示す「月への送魂」の普及に、死ぬまで、そして死んだ後も尽力したいと思っています。この夜の月を見ていると、父の笑顔に重なってきました。父は病床にありながら、能登半島の惨状を心配し続けていました。わたしは、父の遺影を持ちながら即興で「父逝きて 行くべき月ぞ輝けり ラポルトすずに光注ぎて」および「父逝きて 行くべき月ぞ輝けり 能登半島に光注ぎて」の二首の歌を詠んだのでした。その後、送魂の儀が行われ、魂弓より放たれた霊座(レーザー)光線が宇宙空間を通って、月に到着したのでした。能登半島地震および奥能登豪雨の犠牲者の方々の御霊が安らかでありますように・・・・・・。それでは、Tonyさん、また次の満月まで!


最後に、月に向かって礼拝しました

2024年10月17日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

お父上、佐久間進名誉会長の天寿国ご昇天を寿ぐとともに、こころより敬意を哀悼の意を表します。

まもなく、Shinさんは、新著『心ゆたかな言葉』を出版されますが、その本の序に

<父はその子によっていっそう父として輝き聳え、

子はその父によっていっそう自らの深みと高みをめざす。>

という言葉を寄せさせていただきました。

佐久間進ー庸和(一条真也)という今世紀「最強の父子」のダイナミックな相互研鑽と同行二人のありようをそのように表現させていたきました。

わたしのすなおなおもい、です。

 

ファイル名:京都面白大学第279講 佐久間進サンレー名誉会長通夜式 @ 北九州市小倉 紫雲閣  2024年9月25日

ファイル名:京都面白大学第280講 佐久間進サンレー名誉会長告別式 @ 北九州市小倉 紫雲閣  2024年9月26日

京都面白大学第268講 聖徳太子磯長の御廟(大阪府 叡福寺)での佐久間進サンレー名誉会長分の祈り 2024年9月6日

進みゆく ゐやび(礼美)のみわざ 八美道
神のみこころ 伝え 咲く真(佐久間)道

進みゆく 礼(ゐや)びのみわざ 八美道 神のみこころ伝え行く道

進みゆく ゐやび(礼美)の道の その果てに ついに至りし やすらぎの郷

2024年10月18日 鎌田東二拝