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シンとトニーのムーンサルトレター 第144信

 

 

 第144信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、ゴールデン・ウィークはいかがお過ごしでしたか? わたしは、久々に自宅でゆっくり過ごしました。しかし、4月は20日から24日まで中国を訪れました。冠婚葬祭総合研究所が主催する「アジア冠婚葬祭業国際交流研究会」の視察研修ですが、わたしは同研究会の副座長を務めています。これまで、前身の「東アジア冠婚葬祭業国際交流研究会」の時代から、韓国、台湾、ベトナム、ミャンマー、インドなどを訪問しました。しかし、「アジア」を名乗る研究会なら、やはり中国を外すわけにはいきません。

 今回は、10年ぶりの上海をはじめ、長沙、西安などを訪れました。上海では在上海日本国総領事館、長沙では長沙民政職業技術学院、さらには各地の冠婚葬祭施設や霊園などを視察しましたが、強く印象に残ったのは西安で訪れた大雁塔、青龍寺、兵馬俑です。22日の朝、わたしたちは宿泊していた西安の「シャングリラホテル西安」を出発し、まずは専用車で、西安の観光名所である大雁塔を訪れました。

 大雁塔は、652年に唐の高僧玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために、高宗に申し出て建立した塔です。西安市の東南郊外にある大慈恩寺の境内に建っています。「大雁塔」という名前は、菩薩の化身として雁の群れから地上に落ちて死んだ1羽を、塔を建てて埋葬したことに由来するとか。高さは7層64mですが、当初は5層でした。各階に仏舎利が収められ、経典は上層部の石室に置かれました。玄奘自ら、造営に携わったと伝えられています。

大雁塔を背景に

大雁塔を背景に玄奘三蔵像の前で

玄奘三蔵像の前で
 玄奘三蔵といえば、その最大の功績は『大般若経』を漢訳したことでしょう。般若経典は150年頃に現在の形の原形が成立したとされます。その後、サンスクリット文字にて文書化され、以後長短様々な般若経典へと発展していきました。630年頃、玄奘がインドからそれらの般若経典群を中国へ持ち帰り、さらに玄奘自ら翻訳の指揮を取って4年の歳月を掛けて漢訳しました。こうして、663年に『大般若経』(『大般若波羅蜜多経』)が完成したのです。この膨大な教典を300余文字に要約したものが『般若心経』だとされています。玄奘がインドから持ち帰って漢訳した『大般若経』および『般若心経』が日本に伝わり、日本仏教に多大な影響を与えたことは有名です。

 今年の4月8日、ブッダの誕生日である「花祭り」の日に、わたしは『般若心経 自由訳』を完成させました。「空」の本当の意味を考えに考え抜いて、死の「おそれ」や「かなしみ」が消えてゆくような訳文としました。美しい写真を添え、お盆までには上梓したいと願っています。わたしは、玄奘三蔵の像に向かって、『般若心経』自由訳の完成を報告しました。

 それから、わたしたちは青龍寺を訪れました。中国陝西省の古都、西安市南郊の雁塔区鉄炉廟村にある仏教寺院です。ここは、弘法大師空海ゆかりの寺として知られています。それも、唐代の中国密教の第一人者であった恵果と空海が邂逅した場所なのです。わたしは、2014年末に監訳書である『超訳 空海の言葉』(KKベストセラーズ)を上梓しましたが、それ以来、ずっと青龍寺を参拝したいと願っていました。その故地は、唐朝の都、長安城においては、左街の新昌坊に当たる場所でした。

青龍寺の「0番札所」の塔

青龍寺の「0番札所」の塔青龍寺の空海記念碑の前で

青龍寺の空海記念碑の前で
 青龍寺の創建は、隋の開皇2年(582年)で、当初は霊感寺と呼ばれました(すごい名前ですね!)。初唐の武徳4年(621年)に一度、廃寺となりましたが、龍朔2年(662年)に再建され、観音寺と改められました。青龍寺と改称されたのは、景雲2年(711年)のこと。唐中期には、恵果らの密教僧らが住持するようになり、入唐留学僧たちとの関係が生まれました。空海は恵果に学び、天台宗の円仁や円珍らも恵果の法系に連なる法全に就いて密教を学びました。会昌5年(845年)、会昌の廃仏によって再び廃毀されましたが、大中6年(852年)にいったん復興を果たし、護国寺と改められています。ただ、唐末五代の動乱によって、都の長安は急速に寂びれてしまいました。そのため、以後三たび姿を消すこととなりました。

 1982年以来、西安人民政府は、青龍寺の遺址と伝承されてきた石仏寺周辺の発掘調査を行いました。多数の唐代の遺物を発掘し、この地がいにしえの青龍寺であったことを確かめました。青龍寺は復興され、そこには、日本からの寄贈で、空海記念碑、恵果・空海記念堂が建ちます。また、元四国霊場会会長蓮生善隆(善通寺法主)により四国八十八箇所の零番札所と名付けられました。

 そう、この場所は四国遍路の「0番札所」なのです。日本宗教史上最大の超天才である空海の跡を辿る者にとっての「永遠の0」です! じつは、『般若心経』を自由訳するにあたって、わたしは空海の『般若心経秘鍵』をベースにして解釈しました。ですので、わたしは空海記念碑に向かって、『般若心経』自由訳の完成を報告しました。

 青龍寺の後は、昼食を取ってから、いよいよ兵馬俑を訪れました。兵馬俑は、言わずと知れた秦の始皇帝の死後を守る地下宮殿です。二重の城壁を備えた始皇帝の巨大陵墓の下には、土で作られた兵士や馬の人形が立ち並んでいます。じつに8000体におよぶ平均180センチの兵士像が整然と立ち並ぶさまはまさに圧巻で、「世界第8の不思議」などと呼ばれていることも納得できます。

兵馬俑を再訪

兵馬俑を再訪始皇帝像の前で

始皇帝像の前で
 古代中国の「俑」は死者の墓に副葬される明器の一種で、被葬者の死後の霊魂の『生活』のために製作されました。春秋戦国時代には殉葬の習慣が廃れ、人馬や家屋や生活用具をかたどった俑が埋納されるようになりました。華北では主として陶俑が、湖北湖南の楚墓ではとくに木俑が作られました。兵馬俑は戦国期の陶俑から発展したものですが、秦代の始皇帝陵兵馬俑においてその造形と規模は極点に達します。漢代以降も兵馬俑は作られましたが、その形状はより小型化し、意匠も単純化されたものとなりました。

 わたしは、2005年以来、じつに12年ぶりに兵馬俑を訪れました。あのときは、兵馬俑の発見者である楊志発氏にもお会いしました。この兵馬俑をながめながらも、わたしはさまざまなことを考えました。春秋・戦国の舞台は、それが当時の全世界でした。秦、楚、燕、斉、趙、魏、韓、すなわち『戦国の七雄』がそのまま続いていれば、その世界は7つほどの国に分かれ、ヨーロッパのような形で現在に至ったことでしょう。当然ながらそれぞれの国で言葉も違ったはずです。そうならなかったのは、秦の始皇帝が天下を統一したからでした。その意味で、始皇帝は中国そのものの生みの親と言えます。中国を知ろうと思えば、それを生んだ秦の始皇帝を知らなければなりません。彼は前人未到の大事業を成し遂げましたが、その死後、彼の大帝国は脆くも崩壊してしまいました。とはいえ、統一の経験は、中国の人々の胸に強く、そして長く残りました。

 三国時代、南北朝、宋金対峙など、中国はその後しばしば分裂しましたが、そのときでも、誰もがこれは常態ではないと思っていたのです。中国が1つであることこそ、本来の自然な姿であると思っていたのです。これは、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、スペインなどの国々に分かれ、20世紀の終わりになってやっとEUという緩やかな共同体が誕生したヨーロッパの歴史を考えると、本当にものすごいことです。よほど強烈なエネルギーがなければ、中国統一のような偉業を達成することはできませんし、1人の人間が発したそのエネルギーの量たるや、私などには想像もつきません。

 中国すなわち当時の世界そのものを統一するとは、どういうことか。他の国々をすべて武力で打ち破ったことは言うまでもありませんが、それだけでは天下統一はできません。始皇帝は度量衡を統一し、「同文」で文字を統一し、「同軌」で戦車の車輪の幅を統一し、郡県制を採用しました。そのうちのどれ1つをとっても、世界史に残る一大事業です。始皇帝は、これらの巨大プロジェクトをすべて、しかもきわめて短い期間に1人で成し遂げたわけです。かくして、広大な中国は統一され、彼はそのシンボルとして「皇帝」という言葉を初めて使いました。以後、王朝や支配民族は変われど、中国の最高権力者たちは20世紀の共産主義革命が起こるまで、ずっと皇帝を名乗り続けました。すなわち、秦の始皇帝がファースト・エンペラーであり、清の宣統帝溥儀がラスト・エンペラーでした。この2人の皇帝の間には2000年を超える時間が流れています。

 また、始皇帝は2つの水利工事や阿房宮という未完の宮殿を造ろうとしたことでも知られていますが、何と言っても有名なのが、かの万里の長城です。いま残っているのは明時代のもので、始皇帝の時代はもう少し原始的なものだったそうですが、それにしても国境線をすべて城壁にするというのは、実に雄大な英雄ならではの発想です。月から地球をながめるというのは私の人生最大の夢ですが、万里の長城こそは月面から肉眼で見える唯一の人工建造物だと俗に言われています。この上ない壮大なスケールと言う他はありません。

 それほど絶大な権力を手中にした始皇帝でしたが、その人生は決して幸福ではありませんでした。それどころか、人類史上もっとも不幸な人物ではなかったかとさえ思います。

 なぜか。それは、彼が「老い」と「死」を極度に怖れ続け、その病的なまでの恐怖を心に抱いたまま死んでいったからです。始皇帝ほど、老いることを怖れ、死ぬことを怖れた人間はいません。そのことは世の常識を超越した死後の軍団である兵馬俑の存在や、徐福に不老不死の霊薬をさがせたという史実が雄弁に物語っています。

 中国統一という誰もなしえなかった巨大プロジェクトを成功させながら、その晩年は、ひたすら生に執着し、死の影に脅え、不老不死を求めて国庫を傾け、ついには絶望して死んだ。そして、その墓は莫大な財を費やし、多くの殉死者を伴うものでした。兵馬俑とは、不老不死を求め続けた始皇帝の哀しき夢の跡にほかならないのです。わたしは、「不老不死求めてあがく夢の跡 まこと哀しき兵馬俑かな」という歌を詠みました。

 いくら権力や金があろうとも、老いて死ぬといった人間にとって不可避の運命を極度に怖れたのでは、心ゆたかな人生とはまったくの無縁です。逆に言えば、地位や名誉や金銭には恵まれなくとも、老いる覚悟と死ぬ覚悟を持っている人は心ゆたかな人であると言えます。どちらが幸福な人生かといえば、疑いなく後者でしょう。心ゆたかな社会、ハートフル・ソサエティを実現するには、万人が「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」を持つことが必要なのではないでしょうか。兵馬俑をながめながら、そんなことを考えました。

 最後に、昨日10日、わたしは54回目の誕生日を迎えました。これからも、自分なりに「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」を持てるように努力する所存です。どうぞ、ご指導下さいませ。それではTonyさん、また次の満月まで。ごきげんよう、さようなら。

2017年5月11日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 ムーンサルトレター、ありがとうございます。5月10日の第54回目の誕生日、まことにおめでとうございます。「五十にして天命=天下布礼を知る」境地を日々邁進されていることと存じます。

 このたびは、中国への研修旅行、興味深く拝読しました。中国に行かれていたのですね。
 わたしも7月初旬に1週間、中国の峨眉山に行って、そこで「峨眉気功国際大会」に参加し、日本と中国の身心変容技法の歴史と思想と行法について講演も行ないます。

 昨今、隣国である中国韓国との関係が悪化し、ヘイトスピーチも行なわれていますが、「東京自由大学」を有志と共に作ったわたしたちにとって、多様性と自由は生きてい上で欠かせない二大原則だと思っています。自由であり多様であることを認めるならば、人は寛容にならざるを得ませんが、大らかさを失い、ギスギスと攻撃的になる一方の世相を大変危うく感じています。「共謀罪」の衆議院通過も大変危惧を感じています。何でもありの乱世ここに極まれりという最悪事態にどんどん突き進んでいますね。

 Shinさんは今回、西安(昔の長安)で玄奘三蔵や空海の記念碑を見て廻られました。わたしは四国の阿波徳島で育ったために、小さい頃から弘法大師空海には親しんできました。近くには、四国遍路の第21番札所の太龍寺と第22番札所の平等寺の2つがあり、従兄弟は真言宗の僧侶で、住職もしていましたから、空海についてはかなりの関心がありました。

 そして、長い間、日本の宗教界のトップスターにしてスーパースターは空海だと思い込んできましたが、11年前から比叡山の麓の一乗寺に住み、比叡山に420回以上も上り下りするに至って、もしかすると、日本仏教界最大の人物は伝教大師最澄ではないかと思うようになりました。このことはすでに何度もこのレターのやり取りの中で触れたことがあるように記憶します。

 確かに、個人として評価すれば、空海、道元、法然、親鸞、一遍、日蓮が突出していると思いますが、日本仏教を底上げし、日本仏教界の土台を据え、そこから幾多の人材を輩出したかという、最澄や空海以降の日本仏教1200年の歴史を見ると、やはり最澄に軍配を上げざるを得ないように思います。

 ともあれ、その空海の『般若心経秘鍵』をベースにしたShinさんの『般若心経自由訳』、大変興味深く、楽しみにしています。空海の『般若心経秘鍵』はわたしも若い頃から何度も読み込んできました。密教思想から見た優れた『般若心経』釈義だと思います。

 わたしの方は、この間、銀座6の地下3階にオープンした「新観世能楽堂」のこけら落としの「翁」式三番の幕開け公演に招待されて、観世清和観世流宗家・家元の「翁」、後継者の高校2年生の観世三郎太さんの「千歳」、人間国宝の山本東次郎さんの「三番叟」を拝見しました。大変に気迫の籠った幕開きの式三番で、これから間違いなく銀座の名所になると確信しました。そして、日本の能、東京銀座にあり、と世界に発信していくことになると思います。

 ところで、世界発信と言えば、わたしの方も、2009年に出版した角川選書の『神と仏の出逢う国』が、このほど、英訳書“Myth and Deity in Japan 〜 The Interplay of Kami and Buddhas”(一般財団法人出版文化産業振興財団、2017年3月27日刊)として翻訳出版されました。これは、海外に日本文化を国際発信するための本として選ばれて翻訳されたものです。

“Myth and Deity in Japan”KAMATA TOJI

Myth and Deity in Japan”KAMATA TOJI

 また、5月2日から6日までの5日間、東北被災地を巡ってきました。初日に最初に福島県飯舘村を訪問しましたが、そこでの放射能除染土の仮置場では、線量計は1.142ms/hを示していました。福島原発から20キロ以上離れている飯館村でもまだまだこんなに線量が高いのかと暗澹たる思いに囚われました。

 東北被災地の訪問は、以下のように、今回で通算12回目になります。その内、9回は石の聖地の写真家の須田郡司さんと一緒です。また、その内、2回は東洋大学研究員の若き宗教学者井関大介さんと一緒でした。そしてその内の2回はNPO法人東京自由大学の有志20人ほどと訪問しました。

第1回目2011年5月2日~5日(宮城県仙台市〜岩手県久慈市)須田郡司氏と
第2回目2011年10月10日~13日、11月6日(福島県相馬市〜岩手県久慈市)須田郡司氏と【陶芸家近藤高弘氏制作の「いのちのウツワ」を被災地に届ける】
第3回2012年5月1日~6日(青森県八戸市〜福島県南相馬市)須田郡司氏と
第4回2012年8月24日〜27日(宮城県仙台市〜岩手県久慈市)NPO法人東京自由大学夏研修
第5回2013年3月10日~14日宮城県仙台市〜青森県八戸市)須田郡司氏と
第6回2013年8月29日〜9月4日(宮城県仙台市〜青森県八戸市)須田郡司氏と
第7回2014年4月29日〜5月4日(福島県浪江町〜青森県八戸市)須田郡司氏と第8回2014年8月21日〜26日(福島県浪江町〜岩手県久慈市・花巻市)NPO法人東京自由大学夏研修
第9回2015年5月2日〜7日(福島県飯舘村・南相馬市〜青森県八戸市)須田郡司氏と
第10回2015年9月18日〜23日(福島県飯舘村・南相馬市〜青森県八戸市)須田郡司氏・井関大介氏と
第11回2016年6月17日〜20日(福島県飯舘村・南相馬市〜宮城県気仙沼市)井関大介氏と
第12回2017年5月2日〜6日(福島県飯舘村・南相馬市〜青森県八戸市)須田郡司氏と

  この12回の訪問の過程で、飯舘村に行くようになったのは、2015年5月2日からでした。それまでは、一路、南相馬市か浪江町に向かっていたのでした。しかし、原発基地20キロ範囲からは遠く離れた「日本一美しい村」の飯館村の現在と抱えている困難を知りたいと、遅ればせながら2015年5月から、飯舘村を訪問し始めたのでした。そして、まず訊ねたのが虎捕山の麓に鎮座する山津見神社です。以来、山津見神社と奥宮の鎮座する霊山の虎捕山に詣で、神主さんに話を伺ってきたわけですが、実に美しくパワフルな霊山虎捕山を仰ぐ山津見神社や飯舘村の未来を考えると、何でこんな事態になったのと、福島原発事故を今さらながら糾弾したくなってしまいます。

 今回、12回目の被災地追跡調査は、言葉にならない思いをいくつも呑み込みました。その中に、希望の芽もいくつかは感じますが、しかし多くは困難さと歎きです。

 ちょうど、そんな東北被災地訪問の最中に、新著『日本人は死んだらどこへ行くのか』(PHP新書)を出しました。店頭には、5月16日から並び始めたのですが、Shinさんの仕事にも深く関わる日本人の死生観を問うた本ですので、ぜひブログや冠婚葬祭業の知り合いの皆様にも紹介していただけると幸いです。この本の表紙カバーの写真は、沖縄玉城城から見た久高島の風景です。

『日本人は死んだらどこへ行くのか』PHP新書
『日本人は死んだらどこへ行くのか』PHP新書

 参考までに、目次を挙げておきます。

PHP新書『日本人は死んだらどこへ行くのか』(256頁)

序章 変容する「死」の風景—孤独、矛盾、そして安心

  ジョバンニの孤独と私たちの孤独
  被災地のタクシードライバーが出会った幽霊
  「無縁社会」と「パワースポットブーム」
  変容する葬儀の形
  「トトロ」から「千と千尋」へ
  臨死体験と「あの世」のイメージ
  曖昧模糊としながらも響きや香りは残る

第一章 臨死体験、生まれ変わりへの興味−「死」を探究する

  遠藤周作『深い河』に見る日本人の死生観と信仰
  死んでいく側と看取る側が何を感じるか
  愛する者の喪失、信仰、砂漠のような心
  『深い河』と『銀河鉄道の夜』に共通するもの
  遠藤周作と三島由紀夫の「死生観の違い」
  書かれなかった「明確な結末」
  たとえ答えは出なくとも問題を解こうとする
  現代のスピリチュアルなものへの大きなうねり
  日本では古代から「生まれ変わり」観念があったか?
  日蔵上人の臨死体験と冥界遍歴
  生まれ変わりの記憶を持つ子供—『勝五郎再生記聞』
  現代における臨死体験報告の共通点
  チベット仏教の輪廻転生観の影響
  死についての伝統的な資源を組み立て直す
  「生まれ変わり」へのポジティブ・イメージ
  「あの世」は「いま、ここ」にある

第二章 「縁」をいかに結び直すか−『先祖の話』と個人の救済

  大ヒットした二本の映画『君の名は。』と『シン・ゴジラ』は何を描いたか
  「縁の結び直し」を求める心
  SNSの隆盛が物語るもの
  「無縁社会」になる前の「縁」とは−柳田國男の挑戦
  敗戦の悲劇の中で書かれた『先祖の話』
  代替わりしながら巡っていく「生命の循環構造」
  「まれびと」への興味—折口信夫の着想
  「神仏習合」の中に顕れるまれびと
  未完成霊の鎮魂はいかにして可能か
  「まれびと同士の結合」という供養の姿
  「魂の世界に行く」ということ
  「循環」でも「個の救済」でもない状況
  現代日本人の死生観の両極

第三章 『古事記』の死生観—本居宣長と平田篤胤の探求

  パワースポットブームと二人の国学者
  「安心なきが安心」か、「安心をつくる」か
  平田篤胤が唱えた霊的世界観
  釈迦は「死後の方法論」を語ったか?
  「もののあはれ」を重視した本居宣長
  ただ「死の悲しみ」を受けとめて生きていけばいい
  賢しらを超え、執着を超える
  死後の世界を漠然としたままにしておく
  日本人の根源的な原風景を描く『古事記』
  生を生み出す神が日本で最初の死者に
  スサノオの喪失と悲しみ「我が御心、すがすがし」
  世界各国の創世神話と『古事記』の比較

第四章 怨霊と鎮魂—悪しき霊をいかに救うか

  噂・ゴシップと怨霊
  菅原道真の恐るべき祟り
  死者を味方につけるにはどうすればいいか
  和歌には万物を動かす力がある
  「仮名序」は日本文化復興のマニフェスト
  猿楽で魔縁を退け、幸いをもたらす
  この世は霊力に満ちた世界
  末法の世に高まる不安
  保元の乱と平治の乱の悲惨
  草薙剣が失われたせい?
  『平家物語』の成立を支えた慈円
  ひたすらに道理によって
  慈円の献策むなしく……
  まるで現代のラップのような『梁塵秘抄』
  『梁塵秘抄』に詠まれた宗教観
  『新古今和歌集』の神祇歌、釈教歌
  「能」はさながらカウンセリング形式
  民衆を救おうとした高僧たち
  「憂き世」から「浮世」へ
  現代の〝怨霊を鎮魂化するには
  心の痛みを普遍的な形で解消するために

第五章 星になる、風になる−「草木国土悉皆成仏」の思想

  「千の風になって」が示した死生観
  あらゆるものに仏性が宿っている
  極めて創造性を持った聖地霊場霊地
  比叡山は日本人の霊性の拠り所
  伝統的感覚を詩的命題に昇華する
  求められる広範なパワースポット
  自分たちの心を反映できる物語
  〝グーグル宇宙〝グーグル存在の視点を
  一人、二人、多人、そして宇宙……

終章 「死」と「史」と「詩」—ディープエコロジーと自分史

  現代はまるで中世の再来のよう
  無縁化していく者への新しいケア
  たとえ正解はなくとも
  お墓とお盆の問題
  無縁仏の救済装置とは
  「死」から「歴史」へ、そして「物語り」へ
  自分史における「死」を見つめる
  自分の人生を「余生」と語っていた父
  「ご先祖感覚」が怒濤のように流れ込む
  「酒についての禁忌」のリアリティ
  こちらから彼方へ、彼方からこちらへ
  我々は死者の委託を受けて生きている

あとがき

 今回の本では、最後の方で、わたし自身の自分史的看取り体験を告白しました。グリーフ(悲嘆)ケアやスピリチュアルケアにおいては、当事者の「体験」しかありません。その生な体験にどう向き合うことができるか。「体は嘘をつかないが、心は嘘をつく。しかし、魂は嘘をつけない」というのをモットーにしていますが、体と魂は正直だと思います。それに対して、心は軟弱というか実に千変万化します。それが、人間の姿なのでしょう。

 ところで、来月にはいよいよ博士論文を本にします。『言霊の思想』(青土社)と題する450頁ほどの本ですが、これが50年間の研究成果かと思うと忸怩たる思いに駆られます。が、それが現実です。その等身大の吾が身を振り返りつつ、6月には「こころとからだのケア学」という連続講座を上智大学大阪サテライトキャンパス(大阪駅より徒歩5分)で行ないます。ぜひいろいろな方々に来てほしいと思っています。

「こころとからだのケア学Ⅱ」※詳しくはこちら
第1回・第2回 2017年6月12日(月)
13:00〜14:30 講義:鎌田東二「からだに聴く、こころに訊く」
14:45〜16:15 実修:萩原邦枝(峨眉養生文化研修院理事・事務局長)「峨眉養生気功実修①」

第3回・第4回 2017年6月19日(月)
13:00〜14:30 講義:林紀行(ほうせんか病院医師・精神科医・マインドフルネス瞑想)「マインドフルネスと精神医学の接点」司会:鎌田東二
14:45〜16:15 実修:萩原邦枝「峨眉養生気功実修②」

第5回・第6回 2017年6月26日(月)
13:00〜14:30 講義:井上ウィマラ(高野山大学教授・スピリチュアルケア・瞑想指導)「スピリチュアルケアとヴィパサナ瞑想」司会:鎌田東二
14:45〜16:15 実修:萩原邦枝「峨眉養生気功実修③」

第7回・第8回 2017年7月3日(月)
13:00〜14:30 講義:永沢 哲(京都文教大学准教授・宗教学・チベット仏教瞑想) 「密教瞑想から見たこころとからだ」司会:鎌田東二
14:45〜16:15 実修:萩原邦枝「峨眉養生気功実修④」
◆「こころとからだのケア学Ⅱ」チラシ表 (pdf 240KB)
◆「こころとからだのケア学Ⅱ」チラシ裏 (pdf 640KB)

 このような催しを含め、これからも地道にできることをやり遂げていきたく思いますので、今後ともよろしくお願いします。

 今回の東北被災地訪問において、もっとも心に残った言葉は、金光教の教祖の金光大神の「生きても死にても 天と地とは わが住みかと思えよ」でした。究極の至言だと思います。そして、金光大神は、「この道は人が助かりさえすればよい」と述べたようです。その通りと、頭が下がります。

 2017年5月24日 鎌田東二拝