身心変容技法オンラインセミナーを開催します

シンとトニーのムーンサルトレター 第129信

 

 

 第129信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、一昨日は京都でお会いできて嬉しかったです。わたしは京都行きの直前までインドにいました。副座長を務める「アジア冠婚葬祭業国際交流研究会」の海外視察に参加したのですが、現地では聖なるガンジス河をはじめ、サルナート、ブッダガヤ、ラージギルなどの仏教聖地を回りました。今回、ブッダの教えというものを振り返ることができましたが、その一方で、毎日膨大な数の物乞いの人々と接し、偉大なるブッダをしても廃止できなかったカースト制度の根強さを痛感しました。

ブッダガヤのマハー・ボディ寺院にて

ブッダガヤのマハー・ボディ寺院にてダメーク・ストゥーパを背景に

ダメーク・ストゥーパを背景に
 インドの話を詳しく書くと優に1冊の本が書けてしまうので、今回はガンジス河を訪れた話のみをしたいと思います。15日の早朝、「ベナレス」とも呼ばれるバラナシを視察しました。言うまでもなく、バラナシはヒンドゥー教、仏教の一大聖地です。わたしたちは、まず、ガンジス河で小舟に乗りました。夜明け前は暗かったですが、次第に薄暗かった空が赤く染まっていく美しい光景が見られました。早朝からヒンドゥー教徒が沐浴をしている光景も見られました。ガンジス川で沐浴すると全ての罪が洗い流されるといわれています。舟からは火葬場の火が見え、わたしは合掌しました。

 バラナシには「大いなる火葬場」という別名がありますが、マニカルニカー・ガートとハリスチャンドラ・ガートの2つの火葬場があります。ハリスチャンドラ・ガートは地元の人間専用の小規模な火葬場ですが、国際的に有名なのはマニカルニカー・ガートです。ここは大規模な火葬場で、常に4ヶ所ほど同時に火葬しています。ここでは24時間火葬の煙が途絶えることがありません。

 マニカルニカー・ガートに運ばれてきた死者は、ガンジス河の水に浸されます。それから、火葬の薪の上に乗せられ、喪主が火を付けます。荼毘に付された後の遺骨は火葬場の仕事をするカーストの人々によって聖なるガンジスに流されます。ただし、子どもと出家遊行者は荼毘に付されません。彼らは、石の重しをつけられて河の底に沈められます。その理由は、子どもはまだ十分に人生を経験していないからであり、出家遊行者はすでに人生を超越しているからだそうです。

 わたしたちは船上から火葬場のハリスチャンドラ・ガートを視察し、それから上陸して、マニカルニカ—・ガートを訪れました。わたしたちは上陸して、直接火葬場を訪れました。また、写真の撮影も特別に許可していただきました。一般にカースト制度の存在するインドでは、最下層のカーストのさらに下のアウト・カーストが火葬に携わるとされています。彼らはバンブー(竹)の棒を持って遺体を焼くのです。そのときの燃料はマンゴーの木の薪なのですが、貧しいものは牛糞で焼かれるそうです。火葬場所の背後には電気式の焼却炉もありました。電気のほうが安いそうで、電気なら約2000円、火葬なら約5000円だそうです。

早朝のガンジス河で

早朝のガンジス河で火葬場から見たガンジスの朝日

火葬場から見たガンジスの朝日
 火葬場からガンジス河に昇った朝日がよく見えました。その荘厳な光景を眺めながら、わたしは「ああ、SUNRAYだ!」と思いました。太陽の光はすべての者を等しく照らします。そんな社名を持つわが社も、「人間尊重」の精神であらゆる人たちを平等に弔うお手伝いをさせていただきたいと心の底から思いました。ちょうど、その前日にガンジス河を舞台とした遠藤周作の『深い河』(講談社文庫)を再読したのですが、この小説ではマニカルニカー・ガートが非常に重要な役割を果たしています。このマニカルニカー・ガートで働く人々はアウト・カーストだそうですが、わたしには人間の魂を彼岸に送る最高の聖職者に見えました。

 インドから帰国したのは18日ですが、その夜からわたしは猛烈な下痢に襲われました。インド行きの前にかかりつけ医から出された整腸剤と下痢止めを飲みました。21日(日)の朝、体調が戻らぬまま、わたしは小倉駅に向かいました。小倉駅からは新幹線のぞみ号で京都へ向かいました。京都駅近くのホテルにチェックインしてから、JR奈良線で東福寺まで、そこからは京阪電車で神宮丸太町に向かいました。いつもは京都ではタクシーで移動するのですが、この日がまた「京都マラソン2016」の開催日に当たっており、大規模な交通規制が行われているのです。神宮丸太町駅で京阪電車を降りると、わたしは京都大学芝蘭会館の2Fにある「稲盛ホール」を訪れました。

 このたび、Tonyさんは教授を務められている京都大学こころの未来研究センターを定年退職されます。それを記念して、この日に講演会およびシンポジウムがこの稲盛ホールで開催されたのです。わたしは、頑張って京都まで駆けつけました。

 稲盛ホールは230名の定員ですが、満席になっていました。Tonyさんは会場入りしてわたしの姿を見つけると、固い握手を交わして下さいました。Tonyさんのラッキーカラーはグリーンですが、わたしがインドのブッダガヤで求めた緑色のブッダのレリーフと緑色の手鏡をお渡しすると、大変喜んで下さいましたね。

 Tonyさんは講演に先立ち、まず法螺貝を奏上されました。続いて、Tonyさんが直立不動のまま歌い出したので驚きました。まるでミュージカルの舞台を見ているようでしたが、その歌は「この光を導くものは この光とともにある♪」で始まり、最後は「生きて、生きて、生きてゆけ〜♪」で終わる不思議な歌でした。Tonyさんは10年程前にJR渋谷駅の階段の間でこの歌が思い浮かばれたそうですね。

法螺貝を奏上する鎌田東二

法螺貝を奏上する鎌田東二退職記念講演を行う鎌田東二

退職記念講演を行う鎌田東二
 そして、いよいよTonyさんの退職記念講演がスタートしました。演題は「日本文化における身心変容のワザ」でした。Tonyさんは開口一番、「日本文学、日本宗教の本質は歌だと思います」と述べられました。そして、「今日は日本文化の本質を語りたい」と言われ、『古事記』との出合いを語られました。Tonyさんにとって人生最大のイベントは小学生のときの『古事記』との出合いであり、スサノヲとの出会いでした。そして、スサノヲのメッセージを伝えることが自分のミッションであると思うようになったとか。

 ヤマタノオロチを退治したスサノヲノミコトは、愛するクシナダヒメと結婚し、ともに暮らしていくことになります。この結婚により、乱暴な暴力神、荒ぶる神だったスサノヲは初めて、この世界に調和をもたらす神になることができたのです。そして、これから命をつないでいく愛の営みのための御殿を作り、次の歌を詠みました。

  「八雲立つ 出雲八雲垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」

 この短い24文字の中に、住居をあらわす「八重垣」という言葉が3回も登場します。八重垣3回で9文字ですから、じつに全体の3分の1以上が「八重垣」です。ほとんど「ヤエガキ・シュプレヒコール」と呼んでもいいようなこの歌こそは、日本最古の和歌として『古今和歌集』の「仮名序」に紹介されている歌なのです。

 Tonyさんはこの「仮名序」は最高の歌の哲学であると言われました。『万葉集』には膨大な歌が集められていますが、「仮名序」のような歌の哲学は書かれていません。それが『古今和歌集』には書かれているのです。Tonyさんは京都に住んで初めてわかったそうですが、『古今和歌集』は日本文化の真髄であると喝破されました。そして、万感の想いを込めて「紀貫之すごすぎる!」と叫ばれるのでした。世阿弥の『風姿花伝』にも言及されたTonyさんは、「京都の気候は非常に変化に富んでおり、アイルランドを連想させる。季節の変化が』繊細な美意識を育てた」と述べられました。そして、西行に憧れた松尾芭蕉を絶賛されたのです。

 Tonyさんは「短歌は心を容れる容器。俳句は宇宙を容れる容器」という名言を吐かれ、さらには俳句をその字義から「人に非ず皆言う」という芸術であり、写界主義であるといい、短歌は写心主義であると述べられました。そして、「芭蕉すごすぎる!」と叫ばれたのです。それにしても、Tonyさんの卓越したコピー・センスにわたしは唸りました。

 それから、Tonyさんの肩書は「宗教哲学者・民俗学者」となっていますが、この理由についても述べられました。なぜ、宗教哲学と民俗学を並べているのか? まずは宗教哲学のほうから説明すると、宗教学とは個別の宗教現象などを研究する経験主義の科学という性格を持っています。しかし、宗教哲学は対象そのものを捉えて、その本質を探り、抽象的な思考をするものです。「宇宙とは何か」「心とは何か」「鬼とは何か」といったテーマにも取り組みます。それは、数学と天文学をミックスしたような抽象的な学問なのです。

 一方の民俗学ですが、特定の地域の祭であるとか習俗であるとか、徹底してローカルなテーマを扱います。この「蟻の目」ともいうべき緻密な現場主義が民俗学にはあるのです。

 Tonyさんは、「宗教哲学はマックスであり、民俗学はミニマムであり、わたしは両方を求めたい」と述べられました。わたしは、これはまったく経営にも通じる考えだと思いました。経営には「理念」と「現場」の両方が必要だからです。「理念」だけでは地に足がつかないし、「現場」だけでは前に進めません。マックスとミニマム、鳥の目と虫の目、理想と現実・・・・・・Tonyさんが学問で追及していることは、すべて経営者としてのわたしの課題でもあったのです!

 講演後は、パフォーマンスの時間です。Tonyさんは「敬愛してやまない比叡山様」の画像に向かって、石笛、横笛、法螺貝を立て続けに奏上されました。なんという肺活量! 満員の聴衆はTonyさんのパフォーマンスに圧倒されましたが、さらに仰天する事態となります。なんと、Tonyさんはサングラスをかけ、エレキギターを持って神道ソングを歌い始めたのです。歌の好敵手であるKowさんを従え、Tonyさんはアカデミズムの殿堂である京都大学の稲盛ホールを一瞬にしてライヴハウスに変えました。いつの間にか、パワーポイントの画像も比叡山から地球に変わっていました。何から何まで型破り、稀代の「知のトリックスター」のラスト・パフォーマンスに満場の聴衆から盛大な拍手が巻き起こったことは言うまでもありません。

神道ソングライターに変身!

神道ソングライターに変身!鎌田東二と一条真也

鎌田東二と一条真也
 第一部の講演が終わると、第二部のシンポジウム「日本文化とこころのワザ学」が開催されました。パネリストのみなさんは話の冒頭で、Tonyさんに対して一言を贈られました。島薗進先生(上智大学グリーフケア研究所所長)は「紀貫之すごすぎる!」「芭蕉すごすぎる!」というTonyさんの言葉をもじって、「鎌田東二すごすぎる!」と言いました。河合俊雄先生(こころの未来研究センター教授)は「鎌田東二やばい!」と言いました。奥井遼先生(日本学術振興会・海外特別研究員/パリ大学)は「表現できない」という意味の「オララ」というフランス語を使って、「鎌田東二オララ!」と叫びました。わたしは、学者の先生方のユーモアのセンスと頭の回転の速さに感服しました。

 総合討論が終了すると、Tonyさんだけが壇上に残り、謝辞を述べられました。最初に「この8年間、わたしは幸せでした」と言われ、感謝の言葉をユーモアたっぷりに述べられました。そして、謝辞を述べ終わると、Tonyさんは「比叡山を去ってゆく」と言って法螺貝を奏上しながら退場されました。最後まで度胆を抜くパフォーマンスに盛大な拍手が送られました。まことに前代未聞、空前絶後の教授退職セレモニーでした。その後の懇親会も現代の「縁の行者」にゆかりのある方々が参集し、大盛況でしたね。

 Tonyさん、素晴らしい会にお招きいただき、本当にありがとうございました。8年間お疲れ様でした。これからも、どうぞよろしくお願いいたします!

2016年2月23日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 インドに行かれていた由、またベナレスのガンジス川での火葬の体験、興味深く拝読しました。わたしも1989年だったかに初めてインドに行き、Shinさん同様、ベナレスガンジス河での火葬も朝日も見たことがあります。

 わたしにとって、最大のカルチャーショックはベナレスではなく、カルカッタですが、あのカルカッタの雑踏の体験はまるで夢のように今もよく思い浮かびます。人間にはカルカッタを知っている人間か、知らない人間の二種がいると言ったのは、ギュンター・グラスだったでしょうか? ともあれ、カルカッタの底なしの、無底の生命力にわたしはただただ圧倒されていました。

 ところで、先だっては、京都市民マラソン開催中の大変な状況の中、退職記念講演会・シンポジウムに起こしくださり、まことにありがとうございました。講演会とシンポジウムはShinさんが書いてくれたような形で進行しました。

 その後の懇親会では、折口信夫の最後の弟子で、國學院大學名誉教授の岡野弘彦先生、情報工学者で京都大学元総長の長尾真先生、ゴリラおよび霊長類研究者の山極壽一現総長、我らの義兄弟の造形美術家の近藤高弘さんの4名の方々から励ましとお祝いのお言葉をいただき、大変嬉しくも有難く思いました。

 思い起こせば、学生時分、母校の國學院大學で、歌人の岡野弘彦先生、教育学者の竹内常一先生、作家でドイツ文学者の中野孝次先生、宗教学者の戸田義雄先生に学んだことはわたしの生涯の宝となっています。その岡野弘彦先生が92歳のご高齢を押して、わざわざ伊豆・伊東から来てくださったことにわたしは大変恐縮するとともに感銘しました。そしてそのご挨拶もとても威厳と味のある矍鑠たるものでした。不遜かもしれませんが、國學院の中で、折口信夫から岡野弘彦へ、そして岡野弘彦から鎌田東二へと受け継がれている何らかの歌の精神があるはずだと思いました。そのような思いを持ったのは初めてのことで我ながら驚きました。

 2番目にご挨拶してくださった京都大学元総長、元独立行政法人情報通信研究機構理事長、前国立国会図書館館長、現国際高等研究所所長を歴任された長尾誠先生は、実は、橿原神宮の宮司の長男でいらしながら、敗戦後、京都大学工学部に進学し、情報工学や言語処理の研究で世界的な権威となられました。これはとてもすばらしい偉業です。

 その長尾先生のご挨拶に、「普遍を超える」という言葉が出てきました。そしてその言葉とそれが意味する事態に深い感銘と感慨を持ちました。今回の催しの中で一番突き刺さった言葉は、この「普遍を超える」という言葉でした。それこそまさにわたしが求めていたものだと、ハッとしました。「普遍=法則=骨組みを越えて、そこに肉付けすること」、それこそがわたしが立ち向かう仕事だと改めて覚悟した次第です。

 わたしは「神道」を中心に、主に、「日本の宗教文化」を研究してきましたが、自分の探究はそれを超える「宇宙教」だと思っていました。この「宇宙教」という言葉は、岡本太郎の養女の岡本敏子さんが岡本太郎記念館でわたしに言ってくれた言葉です。岡本敏子さんは、こう言われました。「鎌田さんは、何で『神道』という言葉に留まっているのですか? 鎌田さんの『神道』は、単に『神道』ではないと思いますよ。『宇宙教』と言ったらいいと思いますよ」と。

 この岡本敏子さんの言葉はわたしの魂にグサリと突き刺さりました。敏子さん、図星を突いてきたな、とその時思いましたが、わたしは、「いや、わたしこそ、『神道の保守本流』ですよ」と返していたのです。が、内実は、両方とも正しいと思っていました。わたしは「神道の保守本流」だと自負していますが、同時に、岡本敏子さんが言われた「宇宙教」を生きてきた、そしてそれが宮沢賢治を同朋のように同志のように思ってしまう根源だと思ってきましたが、この長尾元総長の「普遍を超える」という言葉で、わたしの「神道」の探究の筋道が明白となったように思ったのです。そしてこれからは、それをクリアーに意識、鮮明に闡明し宣明していこうと決心しました。

 3番目のご挨拶は、総長職という激職をゴリラのように悠然と乗り切っておられる姿が頼もしくも凛々しい山極壽一先生でした。山極さんは世界のゴリラ研究の第一人者で、ゴリラと1時間だったか、2時間だったが、ハグしたまま、ゴリラが眠ってしまったという逸話を持つ猛者でもあります。いつも、そのゴリラとの接触・融合・一体化のワザとこころを学びたいと思っていますが、山極さんは若い頃から屋久島に通い、そこで山尾三省さんと出会い、交流を重ねて来ていたのです。

 京都大学に来た当初、山極さんと一緒に、山尾三省のシンポジウムをやりましょう、と約束したのですが、それがまだ果たせていません。この懇親会の席で、その約束を再度確認できてことは何にも増して有難い機会となりました。屋久島学ソサイエティの会長で、4月1日から霊長類研究所の所長になる現副所長の湯本貴和教授と共に、京大版「三省祭り」をやろうと、改めて約束したのでした。

 いずれにしても、学問の探究が持つ奥の深さや幅の広さを、より自在に、自由に探求していくことができる日本の中の数少ない大学研究教育機関が京都大学だということを、この8年間で実感しましたが、京都大学はよくまあ鎌田東二を迎えたものだと他人事のように感心しています。凄いですね、京大は。懐深いよ。

 とはいえ、2008年4月1日に京都大学こころの未来研究センターに赴任し、以来、8年間、無事に定年まで過ごすことができたことは、ひとえに同僚・スタッフを始め、先生方や周りの皆様方のご支援ご協力の賜物と心より感謝しております。Shinさんにもワザ学や震災関連プロジェクトの連携研究員になってもらって、シンポジウムに参加してもらったりしましたが、本当にご支援・ご協力、ありがとうございました。

 わたしは、京都大学を退職するに当たり、これまでの研究成果の一端を、ささやかではありますが、2冊の本にまとめました。そしてその1冊目の『世直しの思想』(春秋社、2016年2月21日刊)を退職シンポジウムに合わせて上梓し、懇親会参会者の全員に配布させていただきました。お時間のある時にご一読くだされば幸いです。またいろいろとご紹介くだされば幸いです。

 2冊目の本は、3月末に、『世阿弥—身心変容技法の思想』(青土社)と題して上梓します。これも出ましたら、お送りさせていただきますので、ご一読賜れば幸いです。

 シンポジウムの方は、当代第一級の最前線で活躍されていてわたしとは深い縁と交流のある先生方に来ていただき、問題提起をしていただきました。40年近くの長い間、もっとも信頼を寄せてきた宗教学者の島薗進さん、またこの25年共に遊び探究し働いてきた臨床心理学者の河合俊雄さん、この7年、大学院の院生から博士論文『ワザを生きる身体—人形遣いと稽古の臨床教育学』(ミネルヴァ書房、2015年4月刊)を仕上げて研究員生活をしてきた臨床教育学者の奥井遼さんの4名の問題提起を、千葉大学教授で4月1日からこころの未来研究センター教授に転任する公共政策・公共論の広井良典さんが深いところで汲み上げ、練り上げて、コメントと質問をしてくれて、シンポジウムも次につながる問題のありようをしっかり確認することができたと思います。

 この間、この催しの準備と運営の総指揮を取ってくれたのがこころの未来研究センターの次代を担う若き准教授のチベット仏教学者・ブータン学研究者の熊谷誠慈さんでした。熊谷さんには本当に何から何まで全面的なお世話になりました。本当に有難く、嬉しいことでした。こころの未来研究センターでは、この8年間、本当に豊かさで楽しく面白く活き活きと過ごすことができました。これも、吉川左紀子センター長を始め、同僚、スタッフの皆様方の暖かく大らかな心と対応によって初めて可能となるものであったことは言うまでもありません。

 今後は、このこころの未来研究センターという、日本の大学や研究機関では大変希少で貴重な「里山」を、さらに豊かなものにしていくために、側面から応援させていただきます。京大での残るわずか1ヶ月余り短い任期ではありますが、楽しみながら、「楽しい世直し」への一里塚を精いっぱい務めさせていただきますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。

 ところで、退職シンポジウムの少し前の2月16日から19日まで、長野県湯田中で、<2016年度国際学術セミナー「日本文化研究の拡充と連携」>が行なわれ、発表者として参加しました。この国際学術セミナーのプログラムの全部が大変興味深く、学ぶところ大でしたが、加えてもう一つ、感慨深かったのが「地獄谷温泉」の現在確認でした。

 実は、國學院大學の学生時分の1972年頃、わたしはつげ義春の『ねじ式』や『ガロ』の愛読者で、聖地巡礼と秘湯巡りを趣味にしており、熱心に独り全国「地獄めぐり」を続けていたのですがが、その過程で、長野県上林温泉郷の「地獄谷温泉」と出逢ったのでした。わたしにとって、この「地獄谷温泉」は日本の秘湯トップ3に入る温泉で、大変心に残り、過去に2回訪れていました。そして今回は30年ぶりくらいに3度目の訪問となります。

 或る晩、しこたま日本酒に浸って、深夜、この「地獄谷温泉」の露天風呂に入ると、先客がいました。「しつれいしまっす!」と声をかけると、ザバーッと山に駆け上がっていくモノがいました。それが「地獄谷温泉」のヌシである野猿であったことは言うまでもありません。翌日、二日酔いの目が覚めて、窓を開けようとして仰天しました。地獄谷中の猿たちがわたしの部屋を覗き込んでいたからです。30匹以上はいたと思います。恐かった〜。けど、おもろかった〜! びっちりと窓の周りを取り囲んでいた野猿たちに囲まれて、わたしは本当に「猿の惑星」の中にいるような気分でした。それが今では「スノーモンキー」で世界中で大人気の「地獄谷の猿」となっています。

  「時代は変わる!」

 のです。もう一度、その懐かしの「地獄谷温泉」を見たい。 猿の温泉を見たい。という一心で、この地を訪れたのでした。その結果は・・・

鎌田東二の持つ法螺貝を興味深げに見上げる地獄谷温泉の野猿(横山玲子氏撮影)

鎌田東二の持つ法螺貝を興味深げに見上げる地獄谷温泉の野猿(横山玲子氏撮影)

 42年前、わたしはまだ國學院大學の学部学生でした。その頃には、どんな「こころの未来」も描けていなかったでしょう。そして42年後、あと1ヶ月で「こころの未来」研究センターを「定年退職」します。この40年余の年月を感慨深く振り返りました。そして問いました。何がここまでわたしを導いてきたのか? と。ここにいる野猿たちは、42年前にわたしが見た猿の子孫であることは間違いないありません。猿の平均寿命は15歳位といわれます。だとすれば、今ここの野猿たちは、あの時出逢った野猿の曾孫くらいの世代なのでしょう。とてつもなく、とりとめもなく、ノスタルジーに浸ったのであります。

 そして、これからの「道なき道」を歩む覚悟をいっそう定めたのでした。光も道しるべも定かにはないこの「現代大中世」、「道なき道」ではありますが、大切な同朋義兄弟として、これからもいっそうよろしくお願い申し上げます。大変有難くも頼りになる力強い道連れであります。さようなら、そして、こんにちは。

 2016年2月26日 鎌田東二拝