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シンとトニーのムーンサルトレター 第143信

 

 

 第143信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、前回はムーンサルトレターをお送りするのが遅れてしまい、大変失礼しました。風邪と航空中耳炎と鬼の攪乱の三位一体で、満月夜の文通を忘れるという前後不覚、痛恨の極みでありました。今回は万全を期して、送らせていただきます。

 小倉は桜が満開です。Tonyさんは花見をされましたか? わたしは桜を見るたびに、わが人生の終わりをイメージし、その修め方について想(おも)いを馳せます。日本人は「限りある生命」のシンボルである桜を愛(め)でてきました。日本人がいかに桜好きかは、毎年のように桜に関する歌が発表されて、それがヒットすることからもわかります。

 平安時代より以前は、日本で単に「花」といえば、梅をさしました。平安以後は桜です。最初は「貴族の花」また「都市の花」であった桜ですが、武士が台頭し、地方農民が生産力を拡大させてくるにしたがって、しだいに「庶民の花」としての性格を帯びてきます。

 よく「花は桜木、人は武士」という言葉が使われますが、これは江戸中期の歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」に用いられてから流行するようになりました。国学者の本居宣長は桜を日本人の「こころ」そのものとしてとらえ、「敷島の大和心を人とはば朝日に匂ふ山桜花」という和歌を詠んでいます。桜を見て、「ああ美しいなあ」と感嘆の声をあげること、難しい理屈抜きで桜の美しさに感動すること、これが本当の日本精神だというわけですね。

 日本人は古代から、花を愛でてきました。そして、その心を多くの和歌に詠んできたのです。最古の文学作品である『古事記』にも、さまざまな和歌が出てきます。『万葉集』にも、桜の花とか、なでしことか、いろんな花を髪にさす歌がたくさんあります。『万葉集』といえば、数々の歌集の中でもことに多くの花々を詠んでいます。もちろん歌の数が多いこともその理由の一つでしょうが、何よりも万葉びとの歌が生活に密接に結びついていたからでしょう。この頃の人々にとって人間と自然の区別はなく、もろもろの存在は言葉によって表現されたときに初めて存在しました。Tonyさんには「釈迦に説法」ですが、言霊信仰と呼ばれるものですね。

 『万葉集』以後も、『古今和歌集』『新古今和歌集』をはじめ、多くの歌集で日本人は自らの心を花に託して歌を詠んできました。なぜかというと、花は「いのち」のシンボルそのものだからです。日本は農業国であり、もともと「葦の国」と呼ばれたように、植物とは深く関わってきました。冬に枯死していた大地を復活させるのは、桜の花をはじめとした春の花々です。古代の日本人は、花の活霊(いきりょう)が大地の復活をうながすと信じました。この農業国を支配する王は、花の活霊を妻とし、大地の復活を祝福し、秋の実りを祈願する祭礼の司祭となりました。この国の王は、何よりも花祭という「まつりごと」を司(つかさど)ることに任務がありました。政治は「まつりごと」と呼ばれました。

 この文通は満月の夜に交わされていますが、日本人は、月と花に大きな関心を寄せてきました。月も花も、その変化がはっきりと目に見えるかたちであらわれることから、自然の中でも、時間の流れを強く感じさせるものです。このような時間性ゆえに人間の「生」のシンボルとなったわけですが、特に日本においては桜が「生」のシンボルとなりました。桜ほど見事に咲いて、見事に散る花はないからです。そこから、日本独自の美意識も生まれたように思います。

 もちろん、日本においては満開の桜だけが賛美されてきたわけではありません。『徒然草』第137段には、「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」という一文が出てきます。最高潮のときではなく、むしろ散りゆく花にはかなさの美としての「あはれ」を見いだしたのです。

 そして、月と桜を誰よりも愛した日本人こそ、西行でした。彼が詠んだ歌の中でも、「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」はとくに有名です。「歌聖」とまで呼ばれた西行は、この歌に詠んだとおりの状況で、入寂したという伝説が残っています。結局、月も桜も、その美しさ、はかなさは限りなく「死」を連想させるのです。月は欠けるから美しく、桜は散るから美しく、そして人は死ぬから美しいのかもしれません。

 「散る桜残る桜も散る桜」は良寛の辞世とされる句ですが、海軍特別攻撃隊いわゆる神風特攻隊員が遺書に引用したことで有名になりました。「人生のはかなさ」を見事にとらえた素晴らしい句です。明日無事である保証は誰にもありません。人生を豊かに深めていくためには「老いる覚悟」もさることながら、桜花を愛でながら「死ぬ覚悟」を持つことが大事なのかもしれません。

 散りゆく桜の花びらを眺めていると、死が怖くなくなっている自分の存在に気づきます。
 こんな桜の季節に、わたしは新著『人生の修め方』(日本経済新聞出版社)を上梓しました。
この本は、日経電子版=NIKKEI STYLEに連載した「一条真也の人生の修め方」というコラムを40本分掲載しています。発信力の大きい日経電子版に隔週連載することで、わたしの予想をはるかに超える反響がありました。おかげさまで大変好評をいただき、「読まれている記事」ランキングでは何度も1位になりました。なんでも、日経電子版の記事はスマホで読まれることが多いそうですが、わたしのコラムだけは圧倒的にPCで読まれた方が多かったとか。おそらく、高齢の読者が多かったのでしょう。

 わたしは、1人でも多くの高齢者の方々に美しく人生を修めていただきたいので、嬉しいかぎりでした。わたし自身も、これから老いて死んでいくわけですが、美しく人生を修めたいと願っています。

『人生の修め方』(日本経済新聞出版社)

『人生の修め方』(日本経済新聞出版社)『人生の修活ノート』(現代書林)

『人生の修活ノート』(現代書林)
 現在、世の中には「終活ブーム」の風が吹き荒れています。

 しかし、もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。正直に言って、わたしは「終末」という言葉には違和感を覚えます。そこで、「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案しました。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。

 よく考えれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」であるという見方ができます。学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活だからです。そして、人生の集大成としての「修生活動」があるわけです。かつての日本人は、「修業」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」ということを深く意識していました。これは一種の覚悟です。いま、多くの日本人はこの「修める」覚悟を忘れてしまったように思えてなりません。

 ずいぶん以前から「高齢化社会」と言われ、世界各国で高齢者が増えてきています。各国政府の対策の遅れもあって、人類そのものが「老い」を持て余しているのです。特に、日本は世界一高齢化が進んでいる国とされています。しかし、この国には、高齢化が進行することを否定的にとらえたり、高齢者が多いことを恥じる風潮があるようです。それゆえ、高齢者にとって「老い」は「負い」となっているのが現状です。人は必ず老い、そして死にます。「老い」や「死」が不幸であれば、人生はそのまま不幸ということになります。これでは、はじめから負け戦に出るのと同じではないですか。

 そもそも、老いない人間、死なない人間はいません。
 死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかなりません。老い支度、死に支度をして自らの人生を修める。この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないでしょうか。わたしは、同書で「豊かに老いる」そして「美しく人生を修める」ヒントのようなものを書きました。わたしは冠婚葬祭互助会を運営していますが、現在互助会会員様のほとんどは高齢者の方々です。わたしは互助会をある意味で「修活クラブ」ととらえ、会員のみなさまが豊かに老い、美しく人生を修めるお手伝いをさせていただきたいと考えていますが、同書もその一助になることができれば、こんなに嬉しいことはありません。先に上梓している『人生の修活ノート』(現代書林)と併せて、多くの方々に御一読いただけることを願っています。不遜ながら、Tonyさんにも送らせていただきました。ご笑読の上、ご批判下されば幸いです。

 さて、わたしは本を書いているだけではありませんよ。(苦笑)本業である冠婚葬祭業のほうもしっかりと頑張っております。先日、新しい紫雲閣もオープンしました。3月30日の大安に竣工式を行った「別府(びゅう)紫雲閣」です。宮崎県延岡市別府(びゅう)町に建設しました。サンレーグループとしては宮崎県内で6番目、全国で67番目(いずれも完成分)の紫雲閣です。神事は地元を代表する由緒ある神社である「春日神社」の木村健男宮司にお願いしました。

 もともと宮崎という県名は「宮の崎」すなわち「宮殿の前」といった意味で、とても高貴な名前です。延岡という地名は江戸時代の延岡藩からの流れですが、それ以前は縣(あがた)と呼ばれていました。この縣の地名の由来は古事記や日本書紀にみられる吾田(あがた)という説があります。ちなみに延岡市には現在も安賀多という地名が残っています。「別府紫雲閣」の正面に見える愛宕山はかつて、「笠沙山」や「笠沙の御碕」と呼ばれていました。高千穂に降臨された、天照大神の孫のニニギノ尊が吾田長屋の笠沙の岬でコノハナサクヤ姫と出逢い結婚される。そして火照尊(海幸彦)、火須勢理尊、火遠理尊(山幸彦)の三皇子をもうける。この火遠理尊の孫が神武天皇であり、ここから日向市美々津のお船出に繋がっていくのです。

 また、「別府」という地名は日本各地に存在しますが、読み方は「べふ」「べっぷ」「びょう」「びゅう」とあるようです。延岡の別府ですが、王朝時代に田地を別に開拓し、別府賜田に指定され、別府賜田が私有地となったために、地名を「別府」と名付けられました。

完成した「別府紫雲閣」の前で

完成した「別府紫雲閣」の前で「別府紫雲閣」の竣工式で歌を披露

「別府紫雲閣」の竣工式で歌を披露
 竣工式の最後の施主挨拶で、わたしは以下のように述べました。

 「別府地区は本当に素晴らしい場所です。また、『びゅう』という音は英語の『ビューティフル』を連想させます。まことに、うるわしい地名であると言えるでしょう。この美しい場所で、『礼』という『人間尊重』の風を吹かせたいものです。そして、多くの方々の美しい人生の卒業式のお世話をさせていただきたいです」

 最後に、わたしは、「この地よりびゅうびゅう吹かせ礼の風 その名うるわし別府紫雲閣」という歌を詠みました。

 この後、直会に参加してから、わたしは小倉に戻りました。そして、4月1日にはサンレー創業の場所である「松柏園ホテル」で入社式を行いました。これからも、儀式と歌を大切にしながら、会社の経営に励んでいきたいと思っています。それではTonyさん、また次の満月まで。ごきげんよう、さようなら。

2017年4月12日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 先回は、Shinさんからのレターが遅れているので、病気か事故で入院しているのではないかと心配になってきた矢先に連絡があり、一安心した経緯がありました。Shinさんでも忘却することがあるのですね。本務の冠婚葬祭業界大手のサンレーの社長業とめざましい執筆・作家業の二足のわらじを履いての道行、いつも心から敬意を感じてします。その貴重で創造的なお仕事、素晴らしいことだと思います。常人にはできないことです。くれぐれも御身大切にしつつ、社長業と作家業の二足のわらじを履き続け、前人未到の世界を切り拓いていってください。いつも応援し、見守っています。

 さてわたしは、最近ずっと遠藤周作を読み続けています。もともとわたしは遠藤周作が大好きですが、どうしてこれほど遠藤周作が好きなのだろうと不思議に思います。遠藤さんの人柄や感受性も全部含めて、遠藤さんの書くものが大好きなのです。本当に、昔から。

 今回、『遠藤周作文学全集全15巻』(新潮社、1999-2000年)を読み返して、改めて、遠藤周作が好きだ、遠藤周作は凄い、と敬服しています。わたしは遠藤周作を敬愛するとともに、深く尊敬しています。その理由は自分でもよくわかりませんが、推測すると、たぶん、その悲しみとそこにはたらく神、「基督」の愛の感覚の表現に魅かれるのだと思います(ちなみに、遠藤周作さんはいつも「キリスト」とカタカナ書きではなく、常に漢字の「基督」と書かれます)。三島由紀夫や大江健三郎や村上春樹の小説にはまったく魅かれるどころか、時に反感さえ覚えるほどなのに、遠藤さんの小説や評論や文章を読んでいると、いつも泣けてくるのです。なぜかな? 我ながら、始末に負えません。困ってはいませんが、不思議に、不審に思っています。

 『遠藤周作文学全集』を再読・三読しながら、読めば読むほど、ノーベル賞委員会はやはり遠藤周作さんにノーベル文学賞を与えるべきだったと、今さらながら思います。日本のノーベル文学賞受賞が、川端康成と大江健三郎の二人だけというのは悲しすぎます。お二人とも確かに立派なお仕事をされたと高く評価されているようです。それを否定するものではありません。が、超越性、普遍性、世界性と、日本性との引き裂かれた緊張と葛藤と矛盾をこれほど骨身を削って探究し、深め、表現した人は、日本では、遠藤周作ただ一人ではないでしょうか? ゆえに、遠藤周作さんこそ、ノーベル文学賞にふさわしいと思わずにはいられません。

 『遠藤周作文学全集』を再読し始めたきっかけは、2月から3月にかけて、京都三条新京極と東京有楽町で2回、マーティン・スコセッシ監督の『沈黙』を観たことにあります。そして、日本ではその映画が不入りで、それほど評判にならなかったことも、再度、遠藤文学を考え直す動機となりました。

 はっきり言って、遠藤周作の小説に出てくる「基督教」は、ヨーロッパ人にも、日本人にも、よくわからなかったのではないでしょうか。ヨーロッパ人には、その汎神論的生命観が???で、日本人には神の超越性とそのはたらきとあらわれについての表現が????で、また、両者に「棄教」や「背教」の理由・必然・意味が???であったり・・・。

 という次第で、「基督教」と日本の宗教や存在感覚との葛藤や矛盾や確執の深さを、誰も遠藤さんのように深く鋭く切実に感じとることができなかった、ということになるでしょうか。おそらく、その感覚の共有者は、遠藤周作さんと一緒に1950年6月にフランス船でフランスに渡って、苦労して神父になった井上洋治神父一人だったのではないでしょうか? この井上洋治神父は遺作となった『深い河』(1993年)に描かれた大津神父のモデルだと言われています。

 遠藤周作さんの「基督」は、たいへんみすぼらしく、みにくく、弱い存在です。しかし、徹底して、貧しき人々、病んだ人々、見棄てられた人々に寄り添う存在です。これほど、「基督」の弱さと寄り添い人としての切実さを描いた作家は、世界中でも、遠藤さんの他にはいないのではないでしょうか? もちろん、外国文学のすべてを知っているわけではないので、自信を持って言えませんが、そのような予想を持っています。たとえば、1973年に発表された長編小説第6作目の『死海のほとり』には次のように記されてます。。

 「イエスの話はサドカイ派やパリサイ派の教師(ラビ)や獣の皮をまとった預言者のそれのようではなかった。教師(ラビ)や預言者たちはいつも人間の弱さを責め、神の怒り、神の罰の怖ろしいことを烈しく威嚇するように説いたが、イエスはそんなことは一度も口にしなかった。彼は神もさびしいのだと言った。神は女が男の愛を求めるように人間をほしがっていると語った。神は預言者たちの言うようにきびしい山や荒野にかくれているのではなく、辛い者のながす泪や、棄てられた女の夜のくるしみのなかにかくれているのだと教えた。」(『遠藤周作文学全集3』28頁、新潮社、1999年)

 遠藤さんは、人間の悲しみ、弱さ、苦しみの中に「神」が「「基督」がいる、はたらくと言います。そして、「基督」は、徹底的に、そこに寄り添うのです。弱さのそばに。そして、問います。

 「神にとって神殿が何であろう。もし一人のまずしい男が人間を、命を捨てるほど愛したならば……」、「神にとって神殿が何だろう。もし、あなたたちの蔑む娼婦たちが一夜自分のみじめさを泣いた時は、そのひとしずくの泪のほうをこの神殿より神は選ばれるだろう。神は神殿をほしがらぬ。神は人間をほしがっているのだ」(『遠藤周作文学全集3』61頁下段、新潮社、1999年)

 遠藤さんは、「神は人間をほしがっている」となまなましい表現をします。そんな「基督」なのです。遠藤さんの「基督」とは。そして、そのような感応力を持つ「基督」の激しく反応する人間=使徒=初期信者を生け捕るのです。その「基督」が。

 しかし、その不出来な(?)、弱き弟子たちは、「基督」が磔刑にあった時、一人も、自分が本当の弟子だと名乗らなかったのです。弟子たちにも見棄てられた哀れな教祖を遠藤さんは徹底的に描きます。

 「教師(ラビ)たちの教えるようなことを彼はひとつも触れなかった。律法(トーラ)を毎日厳しく守ることも律法(トーラ)を毎日唱えることも強要しなかった。律法(トーラ)や安息(サバー)日(ト)を厳守しないものは、神の怒りや裁きに触れるとも言わなかった。彼はただ神はさびしがりで、人間が自らを慕ってくれるのを待っているのだと言った。神は本当は母を必要としない学者や祭司たちや人生に自立できる善人を求めているのではなく、泣きじゃくなりながら歩いている人間を母親のように探しているのだと語った。」(『遠藤周作文学全集3』135頁下段、新潮社、1999年)

 神は「さびしがり」で、「母を必要としない学者や祭司たちや人生に自立できる善人を求めているのではなく、泣きじゃくなりながら歩いている人間を母親のように探している」と遠藤さんは言います。なまなましいですね、じつに。この表現は。

 「母」を必要として、「泣きじゃくりながら歩いている」神が、『古事記』のスサノヲでした。そしてそのスサノヲに、キリストの姿を望み見たのが、出口王仁三郎と折口信夫という「二つの口」でした。出口王仁三郎と折口信夫という「二つの口」は、「贖罪神」としてのキリストをスサノヲの中に見、その巨大な口をこじ開けて、愛の言霊と和歌を発信したのでした。

 「私はあなたの病気を治すことはできない」「でも私は、その苦しみを一緒に背負いたい。今夜も、明日の夜も、その次の夜も……。あなたが辛い時、私はあなたの辛さを背負いたい」(148頁)

 啼いてばかりいたスサノヲノミコト。啼きいさちる神・スサノヲ。そこにキリストを見た出口王仁三郎も折口信夫もともに追放された痛い悲しい経験を持っています。遠藤周作も同様です。スサノヲもイエス・キリストも、出口王仁三郎も折口信夫も遠藤周作も追放されねばならなかった。放逐された神人・・・。

 遠藤周作さんは、慶應義塾大学文学部で、折口信夫の授業を受け、大変感銘を受けていたようです。特に、折口の「貴種流離譚」は物語元型として、遠藤周作の小説論や評論に何度も顔を出します。イエスも、スサノヲも、共に「貴種流離」の物語元型を結びつくことによって、それぞれの場所で深く受け止められ、繰り返し尾ひれはひれをつけながら物語られ続けた遠藤さんは言います。

 ともあれ、今回、改めて、遠藤さんの長編小説を全部読み返して、遠藤さんの探究と表現があまりに一貫しているので驚きました。これほど一途に探求し、表現し続けたのか、と、その研鑽・努力・求道に頭が下がりました。

 一般には、「狐狸庵先生」として、いたずら好き、ユーモアたっぷり、お笑い芸人風、道化風、芝居っけたっぷりの遠藤周作のイメージが流布していると思いますが、それは、本心や内心や深奥を隠すためのカモフラージュでもあったのでしょう。

 遠藤さんは、1950年から3年近くフランスに留学しました。1923年生まれの遠藤さんが27歳から30歳までのとても大事な3年間でした。その3年間で彼が学んだことは、もちろん、表向きはカトリック文学・基督教文学でしょうが、その本質は、ヨーロッパにおける人種差別と民族対立・差別、また、基督教と日本人の宗教観・存在感覚との間の齟齬と葛藤だったのではないでしょうか? その間に横たわる断絶、分断、深淵を、遠藤さんは深く切実に、ある意味で絶望的に感じとったように思います。

 そして、遠藤さんは、帰国後、本格的に、研究者ではなく、表現者・作家としての道を歩み始めます。研究者としてもユニークな存在になられたと思いますが、研究という中途半端な位置に立つには彼の苦悩と矛盾は深刻すぎ、切実過ぎたのです。どうしてもそれは、「表現」を求めたのです。それも、評論では言い表し難いものなので、小説にならざるを得なかった。遠藤周作は、「成るべくして小説家に成った人」だと思います。

   「その人、我等のかたわらにまします。
   その人、我等が苦患の歎きに耳かたむけ、
   その人、我等と共に泪ぐまれ、
   その人、我等に申さるるには、
   現世(うつせみ)に泣く者こそ倖(さいわい)なれ、その者、天(パラ)の(イ)国(ソ)にて微笑まん。」(『侍』全集415頁)

 「なぜ、あの国々ではどの家にもあの男のあわれな像が置かれているのか、わかった気さえする。人間の心のどこかには、生涯、共にいてくれるもの、裏切らぬもの、離れぬものを——たとえ、それが病みほうけた犬でもいい——求める願いがあるのだな。あの男は人間にとってそのようなあわれな犬になってくれたのだ」、「あの男が生前、その仲間にこう申した、と。おのれは人に仕えるためにこの世に生れ参った、と」(417頁)

 わたしは、このような探究と表現を一途に成し遂げた遠藤周作さんの愚直と誠実を心から愛し、尊敬いたします。

 2017年4月12日 鎌田東二拝