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シンとトニーのムーンサルトレター 第013信

第13信

Tonyこと鎌田東二さま

 Tonyさん、先日は思いもかけず東京でお会いできて嬉しかったです。
 待ち合わせ場所の渋谷ハチ公前でTonyさんを待っているあいだ、目の焦点が合っていないアブナイ若者たちが、わたしの周囲にたむろしていました。オヤジ狩りにでも遭うのかと身構えていましたが、そのとき、Tonyさんが現れてホッとしました。いつも二人で行っていた「八丈島ゆうき丸」はビルごと消滅していて残念でしたが、東急本店近くのイタリアン・レストランはなかなか美味しかったですね。

 さて、わたしが急遽東京に来たのは、翌日、肺炎のため84歳でお亡くなりになられた丹波哲郎さんの葬儀に参列するためでした。言うまでもなく、丹波さんは数多くの映画やテレビドラマに出演した大俳優であり、死後の世界の実在を説く「霊界の宣伝マン」としても有名でした。霊界についての本を60冊以上出版し、映画「大霊界」シリーズまで製作して空前の霊界ブームを巻き起こしました。

 実は、わたしは丹波さんには生前大変お世話になりました。今からもう15年くらい前のことですが、拙著『ロマンティック・デス』を読まれた丹波さんから連絡をいただき、新宿の中華料理店で会食したことがありました。そのとき、「こういう本を書くことによって人々の死の不安を取り除いてやることは素晴らしいことだ。でも、いつかは執筆だけではなく、大勢の人の前で直接話をしなくてはいけない。わたしが演説の仕方を教えてあげよう」と言われたのです。その後、新都庁近くにあった丹波オフィスを十数回訪れ、講演のレッスンを無料で受けました。現在、わたしが多くの講演や大学での講義ができるのも、丹波さんのおかげと心から感謝しています。大恩人です。レッスン後の「霊界よもやま話」も楽しい時間でした。理想の葬儀のあり方についても意見を交換しました。

 その後、わたしが東京から北九州に居を移したこともあり、お会いする機会は急激に減っていきました。それでも、年賀状や暑中見舞いなどは交わしていましたし、最近では昨年夏に『ロマンティック・デス』が幻冬舎から文庫化されたとき、お祝いの手紙を頂戴しました。文庫化を我が事のように喜んで下さいました。

 実は丹波さんの死をめぐって、わたしはとても不思議な体験をしたのです。9月25日に冠婚葬祭業界の全国総会が福岡で開かれ、議長を務めるわたしは少々ストレスを感じながら前夜にスピーチの練習をしていました。そのとき、ふっと丹波さんのレッスンの光景がリアルによみがえってきたのです。本当に何年ぶりかも忘れるくらい久しぶりに丹波さんのレッスンを思い出しました。幸い、翌日の総会は無事に終わりましたが、帰宅した夜、テレビのニュースで丹波さんの訃報に触れ、本当に驚きました。しかも、わたしが久方ぶりに丹波さんのことを思い出した、まさにその時刻に亡くなられていたという事実に、深い感動をおぼえました。そして、「これは、霊というものが存在することを、丹波さんが身をもって自分に証明して下さったのだ」と確信したのです。

 わたしは、なんとしても丹波さんの葬儀には参列しなければならないと思い立ち、すでに決定ずみのスケジュールを大幅に変更にして東京へと向かいました。東京に着いた夜にTonyさんとお会いしたわけですが、そのとき、Tonyさんから刊行されたばかりだという一冊の本を手渡されました。その本の名は『霊の発見』(平凡社)。作家の五木寛之氏との対談集です。タイトルそのままに、お二方が「霊」や「霊能力」や「霊界」について熱く論じ合った刺激的な本です。

 「霊」という言葉は、おどろおどろしい印象を与えがちです。そのせいか最近では「スピリチュアル」というキーワードが流行し、「スピリチュアル・カウンセラー」と称するカリスマ霊能者がメディアを賑わしています。実際に霊的な世界を題材にしたテレビ番組などは高い視聴率を示していますし、週刊誌や月刊誌、それに単行本などでも、霊をとりあげる風潮はいっこうに衰えを見せません。

 それにしても、日本を代表する作家と学者の二人が堂々と「霊」を語るとは!
 わたしは感慨深く本を頂戴しました。表紙カバーには「霊界は実在するのか」と書かれています。ちょうど、そのとき読書中だったスウェーデンボルグの『霊界日記』を持っていたのですが、『霊の発見』の目次を開いたとき、真っ先に「スウェーデンボルグは、どうやって霊界に行ったか」という文字が目に入って、その偶然に驚きました。たしかTonyさんにも申し上げましたよね。ところが、偶然はそれで終わらなかったのです。

 Tonyさんと別れた後、翌日の帰路の機内で『霊の発見』を開いてみました。すると突然、わたしの目に「丹波哲郎」という活字が飛び込んで来たのです!ちょうど80ページでした。すべて読了してみて、「丹波哲郎」という固有名詞はその一箇所にしか登場しないことを確認しました。またしても、不思議な偶然の一致。明らかにユングが「シンクロニシティ」と呼んだ現象です。その箇所は次のようなくだりでした。

 『五木』 話をもどすと、日本人はいま、いろいろなかたちで、霊のささやきというものに耳を傾けている。かつては、たとえば丹波哲郎さんが霊界の話をしても、みんな面白がりながらも、いわゆるトリックスターの言説として、受け止めているようなところがあったわけです。

 『鎌田』 ああ。『大霊界』のときですね。八0年代は、そんな感じでしたね。

 『五木』 なにか、おもしろいおっさんやな、というかたちで、吉本興業的なとまではいかなくても、そういう目で見ていた・・・ でもいまは、一見ふざけているようで、結構、彼らの予言あるいは神託、つまり霊能者といわれる人たちの言葉に、どこか左右されている部分があるんじゃないか、そんなふうに思えるんですね」

 五木氏は、最近の霊能者ブームに対して危惧します。人々が評判の霊能者のところに、どっと押しかけて、無防備に、人生におけるあらゆることのお伺いを立てている。子どもが生まれたら名前を相談する。子どもに向いている学校はどこかと見てもらう。合格するための行も授けてもらう。海外旅行から引越しから、見合いに着ていく服や髪型まで決め手もらう人もいるらしい。そうなると、依存症を通り越して、自分を見失い、霊能者に自分の人生を預けているとしか思えない。そのことをお二方は心配しています。わたしは五木作品の愛読者であり、Tonyさんのペンフレンドでもありますが、まったく同感です。

 丹波さんの説く「大霊界」はもっと大らかでした。そして夢がありました。丹波さんは数多くの臨死体験者の証言や、スウェーデンボルグをはじめとする心霊主義の研究書、エジプトやチベットの『死者の書』などの死のガイドブックなどから独自の霊界論をまとめ上げました。常々、「私は霊能者ではない。霊界研究者にすぎない」と広言されていました。そこに丹波さんの誠実さ、謙虚さを私は感じてしまうのですが、丹波さんの説く大霊界には誰にでも非常にわかりやすいという特徴がありました。

 わたしは、9月30日に東京の青山葬儀場で行なわれた丹波さんの葬儀に参列しました。黒柳徹子さんが弔辞で数々の芸能界における丹波さんの功績を讃えつつも、「もっとも偉大な功績は、死は怖くないと人々に説いたこと」だと述べておられました。また、俳優の西田敏行さんは、丹波さんが霊界の真相を説くことによって「自由で豊かな心を与えていただいた」と感謝し、丹波さんのモノマネで参列者を笑わせながらも、最後には「お見事なご生涯でございました!ありがとうございました!」と絶叫し、感動を呼びました。

 丹波さんの笑顔の遺影の前で献花したとき、「おい、霊界はやっぱり素晴らしいところだぞ!」という丹波さんの野太い声が聞こえたような気がし、合掌しながら、「死は怖くない」と多くの人々に伝えた丹波さんの志を自分なりに受け継ぎたいと強く思いました。

 では、死と霊界をどのように表現するか。『ロマンティック・デス』にも書きましたが、わたしは『青い鳥』と『銀河鉄道の夜』が臨死体験を描いた二大ファンタジーであると思っていました。ところが最近、宮沢賢治の妹トシがメーテルリンクの大の愛読者であったことを知りました。『青い鳥』を読んだトシは、やはり彼女の愛読書であった『死後は如何』に書かれたメーテルリンクの霊界観が夢のある物語として見事に表現されていることに感激し、仲の良かった兄の賢治にその感激を伝えたというのです。思うに、ともに結核という不治の病を抱え、つまり死の影とともに生きている自分と兄を、トシはチルチルとミチルに重ね合わせたのではないでしょうか。そして、妹から『青い鳥』の話を聞いた賢治は、さらにイマジネーションを膨らませて、『銀河鉄道の夜』を書いた。チルチルとミチルはジョバンニとカムパネルラになり、「青い鳥」は「ほんとうの幸福」に言い換えられたのです。両作品の因果関係を知って、わたしは魂が震えるような大きな感動をおぼえました。

 丹波さんのように霊界をストレートに語るのも、メーテルリンクや賢治のように物語として提供するのも、ともに意義のある行為だとわたしは思います。それにしても、メーテルリンクが流行し、賢治が数々の童話を書いていた大正時代は、日本人が自らの魂について思いをめぐらせた時代でした。Tonyさんの言われるように、その流れで生まれたのが民俗学と心霊主義ですよね。現在、「妖怪」と「霊」が日本人の大きな関心となっている現状を見るにつれ、白樺派のわたしとしては、なつかしい大正に想いを馳せてしまいます。
 だんだん秋風が感じられ、寒くなります。くれぐれも、ご自愛下さい。それでは、また。

2006年10月3日 一条真也拝

Shinこと一条真也様

 Shinさん、しばしば行くイタリアン・レストラン、気に入ってくれて嬉しく思います。南欧風、スペインの感じも少しする、胎内窟の中のような空間ですね。月に1回か、2月に1回くらいのペースで行きます。

 丹波哲郎さんの葬儀。西田敏行さんの「お見事なご生涯でございました! ありがとうございました!」と絶叫したとのこと。西田さんも凄い人ですねえ。この前のNHKの「功名が辻」の豊臣秀吉の死を演じ切った柄本明の失禁する演技も凄かったけど、その秀吉の訃報を聞いて、フンドシ一丁になって、「長かった、長かった、長かった……」と呆けたように呟く西田敏行演じるところの徳川家康も凄かった。この二人の演技合戦、狸と狐の化かし合いのような闘いは壮絶だと思いました。二人とも芸達者という以上に、狂気を含んでいて、感心してしまいました。ほんとに役者なんですねえ、お二人は。その西田敏行の絶叫、聞きたかったなあ。丹波哲郎さんもさぞかし霊界で喜んでいるでしょうねえ。いいよ、そんな明るい葬式は。Shinさんと丹波さんの縁も深いものがありますね。

 ところで、『霊の発見』。五木寛之さんが熱弁を振るっています。五木さんは、昨今の「霊ブーム」や「スピ系ブーム」に大切な意識の変化とともに、危ういものを鋭く深く感じ取っているようです。どちらに行くかわからないような、不気味な気配を。その感じはわたしもよく分かります。今の日本の政治も、世界の政治も、文化状況も危ういですね、実に。教育基本法や、憲法の改正も時々刻々と迫ってきているようで。わたしは両法改正に大反対ですが、「改正」しても日本がよくなるとか、教育界がよくなるとは思えず、もっと悪くなる、「平成は兵制(兵政)になる」としか思えません。ともかく、事態は予断を許さないね。太田光・中沢新一両氏の『憲法九条を世界遺産に!』(集英社新書)だけでは弱いんだよなあ、現状は。

 感覚から平和になる方法、静かになる方法を編み出さないと。ヘルマン・ヘッセの『ガラス玉演戯』やジョン・ケージのプリペアド・ピアノ音楽の現代版が必要なんだよ。主張ではなく、感覚価値。鎮魂作法。現代世界能。現代戦国時代茶。現代の世阿弥や利休が出て、ヘッセやケージと四つに組んで、さらにパワーアップして、クールダウンして、鎮魂帰神するような道と方法が、要るのだ、今すぐ。

 一昨日、わたしは、京都造形芸術大学の学生たち90人ほどと一緒に、京都大学植物園を訪ねました。「生命論」という授業で、学外見学を実施したのです。造形大から京大植物園までは歩いて15分。園丁の中島和秀さんは、わたしが18・9の時、寺山修司演出の『A列車で行こう』やわたしの作演出の『ロックンロール神話考』を一緒に制作・上演した仲間で、両方とも彼が主演男優でした。また1973年2月には中島氏と一緒に、稲垣足穂にも会いに行きました。彼は「石川力夫」を名乗り、その後、神戸に住む俳人永田耕衣の弟子となり、今も俳人として独自の俳諧世界を遊に徘徊しています。

 彼とは、昔、経本仕立ての『阿吽結氷』という題の二人句集を作りました。地水火風空識の空海の真言密教の六大体大説を章立てにして、六章仕立ての秘密曼荼羅的俳句世界を作り上げました。右手に阿手の石川力夫の俳句を金字で描き、左手に吽手の水神祥の俳句を銀字で描き、凝りに凝った手作り経本仕立てで、6冊だったか、7冊だったかしか、仕上がらなかった。だってすべて手書きだったモンね。でも、これは幻の名作句集と自信を持って言えます。誰もそんな阿呆なことやらへんし。中井英夫さんに送ったら、喜んでくれたなあ。

 平和になるためには、馬鹿なこと、阿呆なこと、おもろいこと、たのしいことをいっぱいいっぱいやらにゃなりまへん。それも、むりむりじゃなく、自然体で。一日一馬鹿運動の提唱者のワタクシはそう思います。

 さて、その京大植物園。中島園丁や京大大学院理学研究科博士課程4年生の大石高典さんたちがガイドをボランティアで引き受けてくれて、本当に充実した授業になったと思います。その大石君がわれわれのやっている「モノ学・感覚価値研究会」のホームページ中の「研究問答」の欄に、「京大植物園(生態植物園)と日本画家・三橋節子」という、とてもいい文章を寄せてくれています。(くわしくはこちら、http://homepage2.nifty.com/mono-gaku/

 三橋節子は、癌にかかり、35歳という若さで亡くなりました。梅原猛さんが1977年に三橋節子の伝記『湖の伝説』(新潮社)を書いてベストセラーになり、一躍世に知られることになりました。その三橋節子のお父さんが京大農学部教授の三橋時雄で、節子は子供の頃からこの植物園を遊び場のようにして通い続けたというのです。節子は、野山や雑木林に生えている植物や昆虫、鳥を繰り返し描きました。特に、植物園の池を描いた「池畔」(1966年制作)は傑作です。自分の子供にも「草麻生」とか「なずな」と名づけているのですよ。三橋節子は京大や造形大のすぐ近くの北白川に住んでいました。滋賀県大津市には三橋節子美術館があります。

 大石高典さんは、前記モノ学のホームページの中で、「私は三橋節子は相当のナチュラリストであったのだろうと思った。どこに何が潜んでいるのか分からないアモルファスな自然の中での生き物との出会いは、アフリカの熱帯雨林であれ、京都市街の「空き地」であれ、スリリングで楽しいものである。つまり、三橋の作品を見ているうちに、われわれはトリップしてしまう。無意識のうちに彼女の眼を通して擬似的な自然観察をしていることになるのだ。あるいは、三橋節子の小宇宙(ミクロコスモス)であった植物園と、そこでの彼女自身を含めた生き物たちの営みを覗いていることになる。(中略)三橋節子と生き物たちとの関係が一方方向的なものではなく、たぶんに双方向的で、言わばコミュニケショーナルなものだったことが推測される、ということである。三橋節子の植物画に、梅原も上に引用したように「野草への愛情」を見出しているが、いったい三橋は生き物たちをモノとして描いたのだろうか。私は三橋の絵の中に、そこに人物が書き込まれていなくても、小さく、「どこにでもいる」はずの生き物の存在ひとつひとつとの交歓を楽しんでいる、節子とそれら生き物との関係性を見てしまう」と書いています。

 三橋節子の作品には、ドクゼリ、カモジグサ、スズメノエンドウ、ヤマジノギク、ヘラオモダカ、スズメノカタビラ、ウマノアシガタ、ハナダイコン、キカタバミ、ヤマアジサイ、ウマノアシガタなどが描き込まれているそうです。これらは「雑草」の類に入れられるものだそうですが、彼女の中ではそれはそれ固有のいのちであり、「雑草」などというカテゴライズされるようなものではなかったということです。

 大石さんは続けます。
 「京大植物園は、創設以来ごく最近まで『生態植物園』という考え方のもと、言わば雑草にも、昆虫にも、子どもにもオープン・アクセスな、ゆるやかな空間として維持されてきた。もし、京大植物園が、学術調査により世界各地から収集される『珍しい』植物以外にも、雑草に代表される多種多様な普通種の存在を認められた場所でなかったなら、三橋節子の日本画に描き込まれる生き物たちはずいぶん違うものになっていただろう。数十億年にわたる生物や地球の進化を考えたとき、一世紀にも満たない80 年少々の京大植物園の歴史は、取るに足りないものだという見方もあるかもしれないが、三橋節子という夭折の一日本画家の作品にこめられた『美しく、楽しい呪いの物語』を読み解くためには、この植物園が、時代の最先端を行っているバイオテクノロジーの研究者ばかりではなく、ひとつひとつ名のある雑草たちや虫たちにとっても安心で暮らせる『楽園』であることが、ぜひとも必要なのだ」と。

 その京大植物園を最初に訪れた印象をわたしは、2006年9月15日(金)付けの毎日新聞夕刊コラム「風の響き」に「京大植物園の価値」と題して、次のように書きました。

 「最近、京都大学理学研究科附属植物園を見学する機会を持った。京都のような平坦な盆地の街中に、ブナの木があることに驚愕した。けやきの木のような高木の中で、小さいがけなげに立っているブナを見て、胸が熱くなった。
 その一角は苔も素晴しく、柔らかな緑の絨毯を敷きつめたようで、世界遺産となっている下鴨神社(賀茂御祖神社)の境内の糺の森の静かで荘厳な雰囲気を思い出した。
 園内の巨大な山藤にはたくさんの蔓が絡まり、ターザンが雄叫びを上げながら、森の中から飛んできそうだと思った。山科からの疎水を引き込んだ水場も風情があり、池も多様な動植物の溜まり場となっていた。
 この植物園は、1923年当時の植物学教室が、珍しい植物を集めた栽培園ではなく、生態学的特色を持つ生態植物園として構想・設立し、これまで理学部だけでなく、農学部、工学部、薬学部の研究と教育に貢献してきた。ここをフィールドとして数多くの学術論文が公表されている。
 が、3年前、運営体制が変り、植物園の木を伐採する動きが起こった時、それに見直しを求め、京大植物園のありようを長期にわたり考えていこうとする「京大植物園を考える会」が発足した。当会は、ともに植物園の将来像を考え、植物園の存在を広く一般市民に知らせ、その存在価値を問いかけ、生命研究や現代社会の問題をも議論していこうと、シンポジウムや観察会の開催など、活発な活動を展開している。
 私の務めている大学からも歩いて十分ほどの距離にあり、現代世界における生命多様性の問題を身近なところから考えていく貴重な動きとして今後とも支援していきたい。」

 京都の街中に小さなブナの木が生きているのを見て、ブナ好きのわたしはすっかりうれしくなりました。「森のマドンナ」と呼ばれるブナの美しさを25年も前から、月山や羽黒山や湯殿山で見、青森県と秋田県の県境の白神山地や津軽の岩木山でも見ました。ブナの林のエロスと澄明には陶然となります。わたしの友人に何人か、「生まれ変わったら植物になりたい」とか「木になりたい」という人がいます。そういう人の言葉があまりよく実感できませんでしたが、ブナを見ると、わかるような気がします。誇大妄想狂のわたしは、友人たちに、「ぼくは生まれ変わったら、生命を育む地球のような星になりたいな」とよく言います。自分のお腹の中で、いろいろな多種多様の生命を生み出し、育てられるなんて、最高じゃないですか。何べん生まれ変わってもいつか必ず、生命の星になるんだ! かつて、恐竜だったわたしは、恐竜として滅んでいく時、そう心にかたくかたく誓ったのでした。

 今回の、京大植物園見学をきっかけにして、三橋節子と出会い、また、その存在を教えてくれた京大大学院生の大石君や他にも何人かの理学研究科の若き学徒と出会い、とても嬉しくなりました。学問することの喜びと、社会矛盾への純粋な怒りや悲しみ、また自然のさまざまな生物・生命に対する好奇心・関心・共感がひしひしと伝わってきて、何ともうれしいような、せつないようなこころもちになるのです。

 大石君、中島君(石川力男君)、京大院生のみんな、またボランティア協力してくれたみなさん、ほんとうにありがとうございました。このホームページを見て関心を持たれた方はぜひ、京大植物園を考える会:http://members.at.infoseek.co.jp/bgarden/ 京大植物園TODAY:http://blog.goo.ne.jp/bgfanclub のホームページをご覧ください。

 Shinさん、明日は「中秋の名月」ですね。それぞれの場所で、観月会を楽しみましょう!
 それでは、次の満月までごきげんよう。

2006年10月5日 鎌田東二拝