身心変容技法オンラインセミナーを開催します

シンとトニーのムーンサルトレター 第016信

第16信

鎌田東二ことTonyさま

 あけまして、おめでとうございます。旧年中は、大変お世話になりました。本年も、どうぞ、よろしくお願いいたします。年末のTonysさんは、ほんと、大活躍でしたね。五木寛之さんや佐藤愛子さんと本や雑誌で対談され、クリスマス・イブには京都でライブを開催されたとか。お正月はいかがでしたか?

 わたしは、例年どおりに九州最北端にある門司・青浜の皇産霊神社に初詣でに出かけ、海上に昇る初日の出を拝みました。皇産霊神社には、サンレーグループの総守護神である皇産霊大神が祭られています。わたしの父でもある佐久間進会長の「朝日が美しい青浜に神社を建てたい」という願いがかなって1996年に建立されました。建立の直後には、Tonyさんもお越し下さり、石笛や竜笛を吹いていただきましたよね。ちょうどサンレー創立30周年のときでしたから、あれからもう10年も経ったのですね。

 わたしたち日本人にとって、正月に初日の出を拝みに行ったり、神社仏閣に初詣でに出かけるのは、いたって見慣れた、当たり前の光景です。これらの行事を日本の古くからの伝統だと思っている人は多いですが、実のところ、初日の出も初詣でも、いずれも明治以降に形成された、新たな国民行事と呼べるものです。

 それ以前の正月元旦は、家族とともに「年神」を迎えるため、家のなかに慎み籠って、これを静かに待つ日でした。民俗学では、この年神とは、もとは先祖の霊の融合体ともいえる「祖霊」であったとされていますよね。本来、正月は盆と同じように祖霊祭祀の機会であったことは、お隣の中国や韓国の正月行事を見ても容易に理解できます。つまり、正月とは死者のための祭り、今どきの言葉でいえば、スピリチュアルなイベントなのですね。

 さて、今年の初日の出に先立って、皇産霊神社の拝殿では「歳旦祭」が執り行なわれました。父が神事終了後の挨拶を務めましたが、その際、「サ神」の信仰について申しておりました。わたしにとっては初めて耳にする話で、とても興味深い内容でした。父は、西岡秀雄著『酒と桜の民族』(弥生叢書)という本を読んで参考にしたらしく、神事の後でその本を貸してくれました。帯には、「サナエ、サオリ、サナキ、サダメ、ササゲル、ヌサ、サカキ・・・人文地理学者として名高い著者の感覚が、全国に拡がる”サ音”の神聖視を手がかりに、日本民族の源流をさぐり、その国民性を明らかにする。」と書かれています。

 西岡秀雄という人は、大正2年生まれ。慶應義塾大学文学部教授、同名誉教授を務めた後、大田区立郷土博物館長にもなったそうです。慶應の文学部ということは、かの折口信夫の薫陶を受けたのかもしれません。彼は、民俗学者の早川孝太郎の『農と祭』(昭和17年刊)所収の「さんばいとさ神」と題する論考を読んだのがきっかけで、「サ神」信仰に興味を抱き、昭和25年には自著に発表したそうです。

 「サ神」という神は、元来は山の神であったようです。というのは、福島県、山形県、新潟県の山地狩人仲間では、実際に山の神を「サガミ様」と呼んでいました。三河(愛知県)、遠江(静岡県)、信濃(長野県)の山地狩人たちの間でも、山の霊を「シャチ」と呼ぶとか。これは言うまでもなく、「サチ」(幸)の転訛でしょう。魚のサケ(鮭)をシャケ、植物のサボテンをシャボテンなどと言うようなものですね。

 昔の人たちは、山の峠を越えるときには、その山神に向って手を合わせて無事を祈願したり、感謝したりしました。そこで、「テムケ(手向け)→タムケ→タウゲ→トウゲ(峠)」と、峠という言葉が生まれました。また、山神を礼拝するときに、昔の人たちは立ったままでは失礼なので、必ずしゃがんで合掌したと思われます。この「シャガム」という言葉も、「サオガム→シャオガム→シャガム」と、サ神を礼拝する姿勢から生まれた言葉と思われます。サ神は山神なので、通常は人気のない山頂に近い神域に住んでいて、みだりに一般庶民は近寄れなかったと思われます。そこで、その境界線をサカイ(境)、そこに具体的に設けられた垣根がサク(柵)といわれました。

 日本の古代人たちが、弥生時代を迎えて、本格的に農業を営むようになると、日本各地の農村では豊作祈願のために、サ神に山から里へ降りてきていただく「サ降り」の行事が演出されることになりました。そこで、サ神が山から降りてくる道をサカ(坂)といい、サ神に山から降りていただく月を「サツキ」、つまり、昔から五月田植の月の呼び名というわけです。そして、乙女が苗を植えるといっても通じるのに、ことさら「サ乙女がサ苗を植える」というのも、実は、農民たちのサ神への大きな期待があったからなのですね。

 また、日本人が昔から神に祈るとき奉るものに、ヌサがあります。ヌサにつける糸がアサ、たくさんつければフサ(房)とか、フサフサするというのも興味深いことです。古代日本人はサ神様にいろいろ祈願しますのに、ただでは申し訳ありませんから、くさぐさのお供え物をしました。その最も欠かせない重要なものがサケ(酒)です。酒を出せば、つまみを添えるのが常識で、それをサカナ(肴)と呼びました。神様にお供えする肴を、地面の上にじかに置くのは失礼なので、サラ(皿)の上にのせます。皿に肴をのせますと、今度はハエが飛んできますので、これを追い払う道具に山の神聖な植物であるササ(笹)が好都合でしょう。後世になって、神道が形をととのえてきますと、悪魔払いにササに代わってサカキ(榊)が登場します。

 神へのお供物をササゲモノともいいますが、これは、サ神が下げ渡すものというのが原意でした。古代日本人に限りませんが、神前にお供え物をしただけでは物足りなく、少しでもサ神に喜んでいただくために、歌をうたったり、踊ったり、「サイバラ」などのお神楽も催しましたが、こうした奉納舞などを見物していただく「サ神」の貴賓席が実はサジキ(桟敷)であり、庶民は地面の芝のところで見ていたので、「芝居」の語が生まれたとか。

 日本人に限らず、古代の人々は、農作の豊凶や運命の吉凶などに関して、神に祈願をこめて、その判断を請うことはしばしばでした。したがって、日本人の先祖たちは、サ神によって運命をサダメ(定)、神の御サタ(沙汰)やサトシ(諭)を待ち、悪事を働けば、サバ(裁)かれる。サトル(悟)とか、サトッタという言葉も、当然ながら、サ神の神意を素直に受け取るとか、受け取ったという意味でしょうし、神そのものの正体を見るサニワ(審神)はサ神が降りる庭のことでしょう。

 さらに「幸福」という言葉は、中国から伝わったものですが、古く日本語では「サイワイ」とか「サチ」という言葉が幸福の意に用いられていました。すなわち、「サイワイ」とは、サ神に祝ってもらうことですし、また「サチ」とは、サ神が千も集まってほしいということに他なりません。「サカエル」(栄)とか「サカル」(盛)、花が「サク」(咲)など、いずれもサ神の祝福によると考えて生まれた古語でしょう。

 サ神のもたらす幸福はサクラという日本の国花に凝縮されます。クラとは、古語で、神霊が依り鎮まる座を意味したクラでしょう。イワクラ(磐座)やタカミクラ(高御座)などの例があります。秋田県の子ども行事として有名なカマクラも神クラが訛ったものでしょう。あの雪室そのものが、水神などの座とされていたのですね。こうした、サとクラとの原義から思うと、桜は、農民にとって、いや古代日本人のすべてにとって、もともとは神霊の依る花とされたに違いありません。日本人は桜の花の下で花見をします。サクラというサ神の神霊が宿っているクラの下で、お神酒を飲みあって、サ神の祝福つまりサイワイ(サ祝い=幸福)を享受したかったのですね。

 かつて國學院で折口学をかじった父は、「サンレー」や「佐久間」にも「サ」音があることから、「サ神」信仰に大いなる関心を持ち、今年から大いにサ祝い=幸いを日本中に振りまく花咲か爺さんをめざしています。そこで、「現代の折口信夫」とも呼ばれるTonyさんにぜひお尋ねいたします。Tonyさんは、「サ神」信仰についてどうお考えですか?そして、ずばり、謎の神であるサルタヒコは「サ神」と関係があるのでしょうか?

 当然、サルタヒコは関係あるでしょうね。山で生活する人びとが、サルに対して独特の感情を抱いたことは容易に想像できます。東京都千代田区の日枝神社は、俗に山王様といわれ、御祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)だそうですが、神門の随身像になっている神猿のほうが一般に人気があります。日枝は、もともと滋賀県は比叡山の「ひえ」で、このあたりで昔はサルを山神またはその使いと考えていたことに由来するようですね。そうすると、サルのサも、山神の「サ神」に関係があったのかもしれません。なお、漢字の「神」という字にも申(さる)が付いていることは面白いですね。これから、Tonyさんが書かれた一連のサルタヒコの本を読み返してみようと思います。

 サルタヒコといえば、最近、サンレー本社のすぐ近くで奇妙な事件がありました。小倉の砂津というところにあるマンションから数体の高齢者のミイラ化した遺体が発見されて大騒ぎになったのですが、どうも一人の女性霊能者が関係しているというのです。そして、その女性霊能者は自ら「サルタヒコの娘」と名乗っているというのです。詳細はまだ判明していないようですが、かつてのライフスペース事件を思い起こさせます。それにしても、意外なところで「サルタヒコ」の名が出てきて驚きました。今回は民俗学チックなレターでした。「釈迦に説法」でまことに恐縮ですが、今年も縦横無尽にあらゆるテーマで敬愛するTonyさんと語り合いたいと願っています。よろしくお願いいたします。

2007年1月3日 一条真也拝

一条真也ことShinさま

 あけましておめでとうございます。こちらこそ、本年もよろしくお願いいたします。「サ神」の話、大変興味深いですね。少し時間をかけて議論してみたい問題です。「サルタヒコ」や「サニハ」も絡んでくるし……。

 さて、昨年の12月は、わたしにとって新しい発見の多い有意義な月でした。その第1は、何と言っても、比叡山延暦寺根本中堂まで往復徒歩で参拝したことです。勤務先の京都造形芸術大学に朝10時に集合して、モノ学・感覚価値研究会のメンバーとNPO法人東京自由大学の有志併せて11名で登り始め、大学に戻ったのは午後6時、外はすでに真っ暗でしたが、わたしたちは言葉にならないほど深い充足感に満ちていました。

 造形大学は銀閣寺や詩仙堂のある白川通りに面していますが、ちょうど大学前から少し北東に行く道があって、それが比叡山に通じる雲母坂(きららざか)に至る道です。わたしたちは、途中、詩仙堂や八大神社の前を通り過ぎ、雲母漬けの店(摂待所という名前の看板がかかっていたような?)の前を過ぎて、鷺森神社を参拝し、曼殊院を右手に見ながら音羽川に出て川を渡ると、修学院離宮の敷地に隣接した雲母坂に入りました。

 雲母坂は「雲母」の坂と言われるくらいですから、きらきらと光る雲母が土の表面に浮かび上がっています。東山山系は花崗岩質で石英や雲母が多い地質です。この雲母坂を法然も親鸞も日蓮も歩いて、都に降りていったと言われています。確かに途中に、親鸞旧跡という石碑がありましたね。

 この比叡山に至る雲母坂参道は、まさに母の胎内に入っていく産道のようで、先頭で歩を進めながらくらくらするような陶酔感に浸っていました。せりあがってくる土手(というのか? 道の両脇)、雲母、地形、そしてその日の朝降り積もった雪、さまざまな要素がわたしをエクスタティックな気分に誘導したのでした。東山連峰36峰の北端は比叡山、南端は伏見稲荷大社のある稲荷山とされますが、その南北の中に大変複雑な「リアス式の山並み」があるのです。複雑に入り組んだ起伏は迷路・迷宮のようで、歩いていると、どこをどういっているのか、わからなくなります。こんな不思議な山は初めて。

 もう30年位前、大学院生の頃に一人で比叡山に登った記憶があります。その時はバスで行きました。が、何か、ガランとした感じで、「延暦寺って、こんなスカスカのとこなの?」と感じただけでした。しかし今回は「コペルニクス的転回」といえるくらい、180度、見方が変わりました。比叡山に対して。開祖の伝教大師最澄に対して。「叡山、すごいじゃん! この密度。清浄さ。清々しさ。静けさ。緊張感。これを維持できるって、ほんと、すげーっ!」、「最澄さん、やるねえ、アンタ! こりゃ、高野山よりずっとモノ深いよ! ここから、法然さんや、親鸞さんや、道元さんや、日蓮さんなどの鎌倉時代の新仏教を創始したラディカル・モンクが出てくるのはよくわかる。この緊張感と自然と、都との絶妙の距離。俺は大学は街中にあるべきだと今まで主張してきた。叡山は確かに山奥にあるけど、それは同時に、都の真ん中、すなわち鬼門という軸線のど真ん中にある。この距離! この緊張! うーーん、凄いわ!」、こんな感じでした。

 わたしは自分の理性的判断をあまり信用していませんが(「魂能」に従っているので!)、今まで何を見てたのか、わが目の節穴をとことん自覚しました。造形大学から一面の銀世界を歩いて約3時間。根本中堂に辿り着きました。そして靴を脱いで中に入り、仰天しました。この闇の奥深さ、静けさ、宇宙性、スピリチュアリティ! 何だ、この空間は! この世界は!

 国宝・根本中堂の中は、この世とは思えない異世界でした。天上世界といえば天上世界のようだけど、仏国土というか、仏天国への階段というか、迷える穢土の衆生世界に咲いた蓮台というか。「般若心経一巻を奏上します」と言って先導しながら、結局続けさまに般若心経三巻を誦経してしまったほど、没入してしまいました。同行した東大大学院印哲博士課程で華厳経を研究している若き仏教学者の魚川祐司君は、「経を誦しながら、身体が浮き上がってしまいそうだった」そうです(詳しくは、「モノ学・感覚価値研究会」ホームページ・研究問答欄 http://homepage2.nifty.com/mono-gaku/ をご覧ください)。

 宇宙船のような根本中堂。内陣が漆黒の宇宙空間の中に漂う珠玉の小惑星のようで、美しく、はかなく、ありがたく、せつなく、びりびりとその美しさにただただ圧倒され、痺れてしまいました。一目惚れの心境でした。この日、2006年12月18日は、わたしにとって記念すべき「東山修験道」の開山の日となりました。その日の奇瑞現象(山頂の雲間に見た多宝塔のような蜃気楼)など、同行の面々も心と魂に深く深く感じ取るものがあったようです。

 わたしはこれまで、日本宗教史の大枠を作った宗教家は空海であると確信していましたが、その核心が激しく揺らぎました。山家学生式と大乗戒壇を造った日本天台宗の開祖最澄こそ、日本宗教史の大枠を作った影の仕掛け人ではなかったかと。比叡山という地を選んだ彼の地政学的センスに脱帽すると同時に、そこでの修行を天台(法華)・密教(台密)禅・念仏の四門とし、そこから法然を始め、時代の新しい地平を切り開く世直し仏教を産出せしめた母体は最澄だったからです。

 空海は庶民教育を掲げ、藤原三守の邸内に「綜藝種智院」を天長5年(829年)に開校しました。空海、54歳の冬のことでした。「綜藝」とは、各種学芸の意味です。空海は18歳で大学に入学し、貴族の門閥主義に嫌気がさし、ドロップアウトし、中退して、ヒッピー坊主となり、虚空求聞持法を修する私度僧となった人です。当時の大学教育の問題点を誰よりもよく知っていたと考えられます。当時の中央の教育機関であった大学は五位以上の貴族の家柄主義を支える機関と化し、地方の教育機関である国学も地方官吏の郡司の子弟教育をする機関で、身分制度に支えられていたのです。また、そこで学ぶ学問も儒教中心で、空海は理想に燃えて、人の身分に関係なく学ぶことのできる学校を設立し、学問的にも儒教ばかりでなく、仏教や道教や諸技術も学ぶことのできるような教養と実用の機関としたようです。しかし、その綜藝種智院も財政的な困難によって、残念ながら、空海の死後10年ほどで廃校となりました。空海は何百年も続く学問の府を作ることはできなかったのです。

 確かに、現在も高野山は真言宗の本拠地として続いています。しかしながら、高野山が比叡山に較べてどれほど優れた人材を輩出したかを考えるとその差は歴然としてきます。空海と最澄の二人だけを較べるならば、わたしは迷うことなく空海に軍配を上げるでしょう。けれども、彼らの死後約1200年を含めて比較すると、高野山人脈と比叡山人脈とでは、後者に軍配を上げねばならないでしょう。最澄の「山家学生式」はそのような未来を明確に構想するものだったと言えるからです。

 その「山家学生式」は次のような文章で始まります。「国宝何物 宝道心也 有道心人 名為国宝(国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝となす)」。凄い気迫だね、最澄さん。「道心」こそが「宝」で、その「道心」を持って生きる人こそが「国宝」だという宣言。格調高いよ! テンションタケーヨ! そして12年、山を降りずに一心不乱に勉強する。こういう教育方針を立てたこと自体が、百年・千年の計を持っていたというべきでしょう。比叡山はこの最澄の「山家学生式」のマニフェストによって世界に冠たる学道の府となったのです。もちろん、比叡山はその後僧兵を持ったり、権力闘争に耽ったりもし、僧侶集団の堕落も見られましたが、それを内部から批判し、突き抜けていく自浄力・昇華力・止揚力があったといえるでしょう。ただし、そうした批判者の多くは比叡山を飛び出しましたが。

 すっかりこれを書いているわたし自身のテンションが高まってきたので、先ほど少し、体ほぐしに近くの広場に出てきました。午後5時から6時半頃まで1時間半あまりいましたが、東北の方角から満月が昇ってくるのがよく見えました。穏やかな満月の下、バク転をしました。わたしの自浄力はバク転・バク宙です。これがなかったらわたしは根詰まりしていたでしょう、とっくの昔に。叡山にもバク転をするアホなヤツがいたってことかな?

 年末には天理大学大学院の臨床心理学専攻者に「現代社会と宗教」の集中講義をしました。去年は初日にひどい風邪を引いたので、今年は慎重に慎重を重ねて臨みました。あったかかったこともあって、無事、3日間の集中講義を済ますことができました。法螺貝や石笛を吹き、ギター片手に「神道ソング」まで歌いましたねえ。そして、久しぶりで天理大学の宗教学者・小林正佳教授に会って、トーテミズムの話ができたのがとても嬉しかったです。わたしの根本哲学と信仰はトーテミズムですが、「わたしもトーテミストです!」と宣言する人に初めて会いました。もう20年来の友だちなのにお互いにそれぞれの内奥の信念を知らずにいたのですね。ちなみに、わたしのトーテム動物は恐竜です。わが先祖は恐竜!

 また、年末のクリスマス・イブには、京都ギリシャ・ローマ美術館で1時間半のソロ・ライブをしましたが、その前に、甲南大学人間科学研究所の研究会で、宗教における「超越」の問題について、研究発表もしました。「超越」とは、変容・変身するということ、この世界でない世界を見るということ、未来を感受するということ、ですから、宗教にとって本質的な問題となります。甲南大学教授で、精神科医で臨床心理士の横山博さんの司会の下で、討議がありましたが、面白かったなあ。所長の森茂起さんの宮沢賢治論もとても興味深かったし。それに甲南大学のすぐ裏は六甲山系で、「六甲修験道」ができそうで。イノシシが相談室に降りてくるらしい。イノシシのカウンセリング。最近はイノシシもノイローゼ気味だから……。人間界もイノシシ界もタイヘンですよ、煩悩まみれで。ホント。でも、その原因はすべて人間の側にあります。イノシシさんは悪くありません。

 ともかく、久しぶりの神戸で、なつかしかったです。阪神淡路大震災の時に最初にお見舞いに行ったところが住吉の住吉神社でしたから、ほぼ12年ぶりに住吉神社を再訪したことになります。ずいぶん変わっていましたね、12年前とは。被災地神戸の「復興」の内実を確かめねばと改めて思いました。見かけの変化と内的変化の両方を見定めないと。「神戸からの祈り」という催しを行った頃、実行委員長の大重潤一郎監督の家が六甲山の麓の三宮の北野にあって、よくそこに泊めてもらったのです。六甲の山と瀬戸内の海に向かって法螺貝や石笛を吹き鳴らした記憶が蘇えってきて、今、という時代の流れをひしひしと感じました。

 ところで、最近観た映画はイングマル・ベルイマンの『サラウンド』、韓国映画の『王の男』、日本映画の『NANA2』。古いところで、『アマデウス』。『NANA2』は1がとてもよかったので、楽しみにしていったのですが、見終わった感想は「ガッカリ」でした。『王の男』は悪くはないけど、見世物的過ぎて、見せ場はいろいろあったが、もっと芸人の内側を描いてほしかったなあ。『サラウンド』については、85歳(?)のベルイマン監督に敬意を表して、批評や感想の言葉はありません。ただただ「ようやったなあ!」と感心。『アマデウス』はモールアルト好きのわたしにはとても面白く、モーツアルトの笑い声が狂気じみていて秀逸でした。

 今月、1月末にわたしが編者となって春秋社から、『思想の身体 霊の巻』を出します。論者は、島田裕巳、田中貴子、川村邦光、樫尾直樹、中沢新一、という海千山千の錚々たるメンバーです。ぜひ感想などお聞かせください。

 サい後に、「サ神」問題についてはよく考えてみます。とても興味深い問題です。サ行音が神聖感情を表現する語を多く持つことも前から気になっていたので。それでは、サようなら、サらば。お父上にくれぐれもよろしくお伝えください。

2007年1月3日 鎌田東二拝