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シンとトニーのムーンサルトレター 第035信

第35信

鎌田東二ことTonyさんへ

 せっかく梅雨は明けましたのに、あいにくの曇り空で今夜の満月が見えません。

 Tonyさん、またもや14歳による事件が発生しましたね。名古屋駅から東京へ向かう高速バスを乗っ取った疑いで16日に逮捕されたのは、なんと中学2年生でした。少年は、運転手の首にナイフをつきつけ、大胆にも車中から「バスジャックした」と自ら110番通報して「犯行宣言」しました。学校によれば、学級委員も務める積極的な生徒だったそうですが、その犯行の理由というのがまた驚きです。親に叱られて、腹いせに恥をかかせてやろうと思ったというのですから。

 わたしも、この事件を知っていろんなことを考えました。でも、真っ先に「きっとTonyさんが、またショックを受けているだろうな」と思いました。なにしろ、Tonyさんは、かつて、息子さんと同じ14歳の酒鬼薔薇聖斗が起こした事件に大きなショックを受け、神道ソングライターとしての活動をスタートされたのですよね。

 前回のレターでは、やはり酒鬼薔薇聖斗と同い年の加藤智大容疑者が起こした「秋葉原無差別殺傷」に大変なショックを受けられていましたね。2トントラックで歩行者天国に突っ込み、歩行者数人をはねる。さらにトラックから降りてサバイバルナイフで歩行者らを次々に刺す。この前代未聞の二重殺人行為で、7人が死亡、10人が重軽傷を負いました。加藤容疑者は調べに対し、「人を殺すために秋葉原に来た」「世の中が嫌になり、誰でもよかった」と供述し、事件当日には携帯電話サイト掲示板に「秋葉原で人を殺します。車でつっこんで、車が使えなくなったらナイフを使います」などと書き込んでいたといいます。わたしは、「世も末だ」と思い、暗澹たる気分になりました。

 ところで、わたしは加藤容疑者の「智大」という名前に興味を抱きました。わたしは、今年から当社の全社員にバースデーカードを書いています。1500名近い社員の名前を書きながら、思うことがあります。まずは、「世の中には、本当にいろんな名前があるなあ」ということ。そして、「この名前には親御さんの心が込められているのだなあ」ということです。当然ながら、名前のない人はいません。すべての人には名前があり、その名前には何らかの意味があります。

 じつはわたしは、名前というのは、世界最小の文芸ではないかと思っています。日本では短歌や俳句が浸透していますね。わたしは短歌を好みますが、普通の高齢者で俳句をやられていて、新聞などに投稿している方が多く存在します。それを見た外人には、「ジャパニーズは全員が詩人なのでは」と感心するそうです。たしかに短歌ならば31字、俳句だと17字の詩歌の「かたち」を国民が共有しているというのは、すごいことかもしれません。でも、名前で17字もある日本人はいませんね。つまり、名前は俳句よりさらに短いわけです。そして、名前は必ずつけますから、俳句よりさらにポピュラーです。

 もちろん、姓名判断のプロに頼む人もいるでしょうが、普通に結婚して子どもを授かったならば、だいたい命名というものに直面しますね。そこで、いろいろ頭を悩まします。これは文芸における創作の苦労とまったく変わらないように思うのです。誰でも、子どもに納得のいく名前をつけようとします。先祖や親の名前とか生まれた季節にちなんだり、たとえば「仁」「義」「礼」とか「真」「善」「美」といったハートフル・キーワードを入れようとしたり、美しい語感で飾ろうとしたりするわけです。

 すなわち、名前とは親が「このような人間に成長してほしい」という願いを込めた文芸作品だといえるのではないでしょうか。詩には詠む者の志が宿るといわれますが、名前には親の願いが宿るのです。かつて、わが子に「悪魔」ちゃんとつけようとした馬鹿親がいましたが、あれはあれでまさしく彼の文芸だったわけです。そして、「智大」という名前にも、明らかに加藤容疑者の両親の願いが込められています。「智大」を逆にすると「大智」ですが、これは聖徳太子の「冠位十二階」の階級名です。なによりも「智」とは「仁」「義」「礼」と並ぶ儒教の最重要コンセプトです。加藤容疑者の両親は非常に教育熱心だったといいますが、わが子に「大いなる智恵を持った人間」に育ってほしいと願ったのでしょう。しかし、その期待は裏目に出ました。すなわち、加藤容疑者は「名前負け」したのです。

 秋葉原無差別殺傷は、日本人の「こころの未来」に対する暗雲を感じさせる事件でしたが、逆に心あたたまる場面もありました。警視庁万世橋署が、事件発生時に被害者の救助に協力した72人に感謝状を贈ったのです。救護中に容疑者に刺されて負傷した3人には警視総監から感謝状が贈られました。わたしは感謝状を贈られた方々を心から尊敬し、同じ日本人として誇りにさえ思います。中には、被害者の救護中に刺されたため命を落とした方もいました。痛ましい限りですが、この方々は本当の意味で「勇気」のあった人々だと思います。まさに、「義を見てせざるは勇なきなり」です。これは『論語』に出てくる言葉ですが、孔子は「勇」を「正しいことをすること」の意味で使っています。

 この勇気ある人々を知って、わたしがすぐ連想したのは、2006年の「サンダーバード事件」です。サンダーバードは、いつもわたしが京都〜金沢間で利用するJR北陸線の特急です。一昨年、富山発大阪行きのサンダーバードの車内で、当時21歳の女性を乱暴した男が逮捕されました。当時36歳の植園貴光被告は女性客の隣に座って「声を出すな、殺すぞ」などと脅して体を触り、さらに女性をトイレに連れ込んで暴行したのです。

 当時、泣きながら連れて行かれる女性の異変に気づいた客もいましたが、植園被告が「何を見とるんじゃ」などとすごんだために、何もできなかったといいます。しかし、サンダーバードの車両には、犯行が行われた当時、40人ほどの乗客が乗車していたのです。自ら犯人に注意しなくても、せめて車掌を呼んだり、携帯電話で警察に通報するなどの行為はできたはずです。なぜ、彼らにはそれができなかったのでしょうか。蛮行を見て見ぬふりをした彼らは、「勇なき」人々でした。

 秋葉原の事件では、孟子のことも連想しました。孔子の思想を継承し、発展させた孟子は「性善説」で知られ、人間誰しも憐(あわ)れみの心を持っていると述べました。

 孟子はいいます。幼い子どもがヨチヨチと井戸に近づいて行くのを見かけたとする。誰でもハッとして、井戸に落ちたらかわいそうだと思う。それは別に、子どもを救った縁でその親と近づきになりたいと思ったためではない。周囲の人にほめてもらうためでもない。また、救わなければ非難されることが怖いためでもない。してみると、かわいそうだと思う心は、人間誰しも備えているものだ。さらに、悪を恥じ憎む心、譲り合いの心、善悪を判断する心も、人間なら誰にも備わっているものだ。

 かわいそうだと思う心は「仁」の芽生えである。悪を恥じ憎む心は「義」の芽生えである。譲り合いの心は「礼」の芽生えである。善悪を判断する心は「智」の芽生え(まさに「智大」という名前は皮肉の極み)である。人間は生まれながら手足を四本持っているように、この四つの芽生えを備えているのだ。このように孟子は説きました。

 秋葉原無差別殺傷事件で、被害者の救護をした人々も、何かの見返りが欲しいとか、ほめられたいとか、非難されるのが怖いとかの理由で行動したのではないはずです。そんなことを考える前に、人間として即座に体が動いたのではないでしょうか。彼らの偉大な行動を知って、わたしは孟子の「性善説」を思い出すとともに、「日本人も、まだまだ捨てたものじゃない」と思いました。わたしは、当社の社員に「皆さんも、困っている人がいたら、ぜひ助けてあげて下さい。そのような人として正しい行動を取った社員の皆さんには、警察から表彰される前に、社長のわたしが表彰します」と呼びかけ、「世も末とはかなむ前に心せよ 義を見てせざるは勇なきなりと」との短歌を詠みました。

 さて最近、「未来」について考えることが多いです。この4月から、わたしは北陸大学未来創造学部の客員教授に就任しました。また、Tonyさんとのご縁で、京都大学こころの未来研究センターのワザ学研究会の共同研究員に加えていただきました。「未来創造」に「こころの未来」、どちらにも「未来」がつきます。そういえば、わたしが最初にサンレーに入社したとき、「未来開発室」という部署が設置され、そこの室長になったことを思い出しました。どうやら、わたしは「未来」と縁があるようです。

 でも、「未来」とは「法則」と同様に、わかっているようでよく理解されていない謎のコンセプトであるように思います。わたしは『法則の法則』という本を上梓しましたが、最近は「未来の未来」というものを考えています。かつて、ヴェルヌやウェルズらのSF作家たちは、人類のバラ色の未来を描きました。アシモフやクラークや小松左京も未来をプレゼンしてくれました。ドラッカー、ガルブレイス、トフラー、ネイズビッツといった経済学者や未来学者たちも、さまざまな未来社会をデザインしました。

 しかし、いま、未来社会が描きにくくなっています。テクノロジーの進歩が人間のイマジネーションを超えてしまったのかもしれません(ほんと、i-phoneなんて完全に超えてしまっています!)。いまの子どもたちは、未来のイメージがないばかりか、欲しいモノもあまりないそうです。これからの「未来」、つまり、「未来の未来」はどうなるのでしょうか?なつかしい未来として「レトロ・フューチャー」という言葉があるように、「未来」にも流行があります。わたしは、これから常に「未来の未来」を考えてゆきたいです。

 1901年の「報知新聞」では、100年後の日本の姿を予想しています。それによると、たとえば7日間での世界一周。これはもう実現しています。機械で温度調節した空気を送り出す。これも冷暖房で実現していますね。

 他に実現できていないものでは、動物と会話ができて、犬がお使いに行く。蚊やノミが絶滅するというのもありました。いろいろと見ていくと、実現率はだいたい70パーセントだということがわかります。21世紀でも、今「こうなったらいいな」と思うことの70パーセントは実現できるという意見があります。マスコミなどが、今世紀に何が起きてほしいかというアンケート調査をすると、車が空を飛ぶようになる、ゴミが資源になる、太陽エネルギーで宇宙からコードレスで電気を取る、自動翻訳機ができて言葉の壁がなくなる、などの意見が多いようです。それらの70パーセントが実現されるかもしれません。

 でも、モンテーニュは「賢い人は将来のことを予想したり心配したりしない」と述べています。また、「将来は予想するものではない。創造するものだ」という言葉もあります。まったく同感ですね。ふと、こんな短歌が浮かびました。
「未来など予想するのは愚か者 みずから創れ!こころの未来」。

Tonyさん、一連の事件で心が沈んでおられることとは思いますが、わたしはTonyさんとともに日本人の明るい「こころの未来」を創造してゆきたいと切に願っています。それでは、猛暑が続きますが、くれぐれもご自愛下さい。オルボワール!

2008年7月17日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 Shinさん、この前わたしは天河に行ってきました。今年になって二回目の天河です。7月16日・17日の2日間、天河大弁財天社の例大祭が行われたのですが、今年は60年に一度の秘仏・秘神の「日輪天照弁才天」の御開帳があったのです。平成元年(1989年)の7月16日に二百数十年ぶりに本殿建替えの「正遷宮大祭」が行われて、20年。「荒れ狂う世の中」を鎮め、霊性に気づき、とどまることを知らない自然破局の事態に方向転換の楔を打つべく、弁才天の秘仏・秘神御開帳があえて行われたのだと思います。それだけ、天河の柿坂神酒之祐宮司さんの危機感と未来を思いやる心は深く切迫していると感じます。

 この秘仏・秘神の「日輪天照弁才天」ですが、仏像や神像の概念を吹っ飛ばすほどの迫力・パワーのある存在でした。わたしは言葉を失い、腰をぬかすかと思ったほど、愉快な驚きに満ちた感動を覚えたのです。唖然・呆然・愕然・陶然、どんな形容詞も無力なほど、その秘仏・秘神の存在感とパワーは圧倒的で、すべてをなぎ倒すほどのエナジーに満ち満ちていました。いやはや、なんとも。われをうしなっちゃったよ〜! すげーっ!

 天河の本殿は三座祀られていて、中央の座に、伝空海作とされる、右手に宝剣、左手に宝珠を持つ八臂の弁才天像と十五童子、また吉野権現(蔵王権現)・熊野権現が祀られ、西の座(向かって左)に円空作の大黒天と後醍醐天皇が祀られ、東の座(向かって右)に今回御開帳の「日輪天照弁才天」が祀られています。今回そのすべてを拝することができました。天河には1984年4月3日以降、百回以上、おそらく120回くらい参詣していると思いますが、すべてを拝したのは今回が初めてです。いやあ、すごかった〜。

 その「日輪天照弁才天」を見た人がみな100%「凄い!」と言っているのだから、その「ちはやぶる神」の神威は圧倒的で、それを見た子供たちは秘仏・秘神を指差して、「オバケ〜!」と叫んだとか。その話を聞いて、大笑いしながら、「そうだよな。そういうほかないよな。おれも子供のころ、『オニがいる〜!』と何度も叫んだけど、それほど圧倒的だったんだよな」とふかくふかくなっとくしたのでした。子どもは正直だよ、ホント。

 この「日輪天照弁才天」については、林屋辰三郎・高取正男編『天川』(平凡社)中の論考に、正徳二年(1712年)に天河社社家が代官所へ出した「願書」に、「天川と申すは、天神七代の御末伊奘諾伊弉册二尊の御本宮、吉野熊野宮とも吉野熊野之中宮とも申し伝え、生身天女の御鎮座天照姫とも奉崇して、今伊勢国五十鈴之川上に鎮り座す天照大神別体不二之御神と申し伝え」るのだと記されているとのことです。わたしはこの「願書」の実物を見たことはありませんが、近いうちに宮司さんにお願いして現物を実見させていただきたいと思っています。

 また、戦後の天河を開くことに大きな功績を残した浜本末造(橘香堂)は、昭和48年11月5日に「弁財天は日の若宮とも丹生津比売とも弁財天とも申す」「弥山が本地じゃ、ここが高天原じゃ、ノアの箱舟と申すのはここにヒナ型がおいてある。ここがアマテラスじゃ。」という霊示を受け、『今が終わりの初め』(1983年、私家版)の中では、「弥山をアマテル大神、即ち太陽及び宇宙の種と見なし」と記しています。詳しくは、わたしが1991年に書いた論文「新・神仏習合の実験場——天河大弁財天社」(『翁童のコスモロジー——翁童論4』新曜社、2000年)や前掲『天川』所収の拙稿をご一読ください。

 いずれにせよ、大変不思議な伝承と、それにも増して神秘不可思議な神像が天河大弁財天社に伝わっており、それが今回御開帳となったのであります。この機会・機縁に拝観できた人は千載一遇のチャンスだったといえるでしょう。その「日輪天照弁才天」の神像が今も脳裏に浮かぶというより、幽体離脱のようななまなましさで、目の前に立ち現れてきます。いやはや、なんとも、これは、これは。

 そんなことがあって、天河に行く前と行く後とでは、わたしの何かが変わったような気がします。チャンネルが切り替わったというか、脳天を断ち割られたというか、頭の芯から尻の先まで心棒を突き刺されたというか、肝を入れ替えられたというか、あたまぐるぐるにされたというか、バク宙を30回くらい連続でやらされたというか……。まあ、どんなことばも無力でんな・・・。

 7月8日(火)、わたしは神田明神禰宜の清水祥彦さんと一緒に出雲大社(杵築大社)を参詣し、大遷宮のための本殿特別拝観をすることができました。普段は千家宮司さんしか上れない本殿に昇殿して周囲を2周し、思う存分、出雲大社本殿のたたずまいを味わうことができました。

 出雲大社は昔、96メートルもの高層建築であったと伝えられています。それが平安時代には48メートルに半減し(下の図1)、鎌倉時代にはさらに24メートルに半減し、現在に至っているというのです。100メートルもの高層神殿! なぜそれほど高い神殿が必要であったのか? わたしはその謎についてあれこれと考えてきて、その考えの一端をいくらか書いたこともありますが、それは出雲の神々への鎮魂と顕彰のためだったと考えます。

図1 古代の出雲大社

図1 古代の出雲大社図2 金輪造営図

図2 金輪造営図
 わたしが天河を初めて訪れたのは1984年4月3日でしたが、出雲大社に初めて参詣したのは1975年3月20日でした。わたしはその時、出雲大社と大本教の綾部の弥勒殿を参拝し、どちらの本殿前でも龍笛を奉奏し、祈りをささげてこれから神道、とりわけ「国つ神々」の研究をしていくことを神前に固く誓ったのでした。そしてその後、大和の天河大弁財天社に足繁く通うようになり、大神神社(祭神:国つ神の大物主神)で神社(神務)実習を行って神職資格を得、猿田彦神社(祭神:国つ神の猿田彦大神)で毎年10月に「おひらきまつり」を開催するという深いご縁をいただき、さらには今年から神田神社(祭神:国つ神の大己貴命)主催の神田明神塾の塾長になって「神々との出会い——神道ルネッサンス」という連続講義(全6回)を行っています。

 思えば、すべて、不思議なご縁です。昭和50年3月の出雲大社初参拝から33年の時を経て、こんな事態になってきたのですから。ところで、わたしの考えでは、「天つ神」と「国つ神」という二大神統カテゴリーが作られ、設定されたのは、この世界=国つ神の統治していた葦原中国(豊葦原瑞穂国)の統治者としての天つ神=天孫一族の存在証明、その正統性のインフォームドコンセント(説明と同意)のためだと思います。つまり、「天つ神」/「国つ神」という設定によって統一と統治の周知をはかったのです。
この時、
    天つ神系——国つ神系
    高天原———葦原中国——黄泉国(あるいは根国底国、あるいは幽世)
    天照大神——大国主神
    大日?貴——大己貴神
    天孫降臨——国譲り

 の二大対極が生まれ、天皇家の支配の大きな権威を確立するためにも、出雲の神殿は大きな建物である必要があったのだと考えます。『日本書紀』には、「是に、共に日の神を生みまつります。大日?貴と号す。(大日?貴、此をば於保比盧咩能武智と云ふ。一書に云はく、天照大神といふ。一書に云はく、天照大日?尊といふ。)此の子、光華明彩しくして、六合の内に照り徹る」(本文)、「児大己貴神を生む。因りて勅して…」(本文)、「素戔嗚尊、(奇稲田姫を)妃としたまひて、生ませたまへる児の六世の孫、是を大己貴命と曰す。大己貴、此をば於褒婀娜武智と云ふ。」(一書)とあり、オホヒルメムチ(天照大神の古名)とオホナムチ(大国主神の古名)は明確に対応しています。

 また、『日本書紀』には、「一書に曰はく、大国主神、亦の名は大物主神、亦は国作大己貴命と号す。亦は葦原醜男と曰す。亦は八千戈神と曰す。亦は大国玉神と曰す。亦は顕国玉神と曰す。其の子凡て一百八十一神有す。夫の大己貴命と、少彦名命と、力を戮せ心を一つにして、天下を経営る。復顕見蒼生及び畜産の為は、其の病を療むる方を定む。又、鳥獣・昆虫の災異を攘はむが為は、其の禁厭むる法を定む。是を以て、百姓、今に至るまでに、咸に恩頼を蒙れり。」(一書)とあって、大国主神の名前は、7つも異名があるのです。『古事記』では、「大国主神。亦の名は大穴牟遅神と謂ふ。亦の名は葦原色許男神と謂ふ。亦の名は八千矛神と謂ふ。亦の名は宇都志国玉神と謂ふ。併せて五つ名有り。」とあるように、5つですが、なぜこのように5つも7つも異名があるのでしょうか? それはその神格、すなわち大国主神格が天照大神に対峙する最終的な先住国家神格として束ねられたからではないでしょうか? つまり、神格のM&A、一種の吸収合併あるいは買収が行われたからではないでしょうか?

 『日本書紀』には、「高皇産霊尊、乃ち二の神を還し遣して、大己貴神に勅して曰はく、『今、汝が所言を聞くに、深く其の理有り。故、更に条にして勅したまふ。夫れ汝が治す顕露の事は、是吾孫治すべし。汝は以て神事を治すべし。又汝が住むべき天日隅宮は、今供造りまつらんこと、即ち千尋の栲縄を以て、結ひて百八十紐にせむ。其の宮を造る制は、柱は高く太し。板は広く厚くせむ。又田供佃らむ。又汝が往来ひて海に遊ぶ具の為には、高橋・浮橋及び天鳥船、亦供造りまつらむ。亦天安河に、亦打橋造らむ。又百八十縫の白楯供造らむ。又汝が祭祀を主らむは、天穂日命、是なり』とのたまふ。/是に、大己貴神報へて曰さく、『天神の勅教、如此慇懃なり。敢へて命に従はざらむや。吾が治す顕露の事は、皇孫当に治めたまふべし。吾は退りて幽事を治めむ』とまうす。乃ち岐神を二の神に薦めて曰さく、『是、当に我に代りて従へ奉るべし。吾、将に此より避去りなむ』とまうして、即ち躬に瑞の八坂瓊を披ひて、長に隠れましき。故、経津主神、岐神を以て郷導として、周流きつつ削平ぐ。逆命者有るをば、即ち加斬戮す。帰順ふ者をば、仍りて加褒美む。是の時に、帰順ふ首渠は、大物主神及び事代主神なり。乃ち八十万の神を天高市に合めて、帥ゐて天に昇りて、其の誠款の至を陳す。」(一書)とオホナムチが皇統に服従することが記されていますが、そのあたりをどうとらえて、伊勢や出雲の神殿建築のありようを考えるかが重要になるでしょう。

 いずれにしても、先住神格や、また「ムチ」神格と「ヌシ」神格の系譜や霊統にわたしは30年以上前から強い関心を抱いているわけです。沖縄の久高島でも、ニライカナイの神格「ウプヌシ(大主)ガナシー」に対し、旧暦2月中旬と12月に行う男たちの航海安全・健康祈願祭があります。

 それから、特筆すべきは、益田勝実『火山列島の思想』(筑摩書房、1968年、後に『益田勝実の仕事2』ちくま学芸文庫に収録)ですね。益田は、「日本の神々がどこから来たかは、日本人がどこから来たかの問題である。そういう比較神話学的な問題の立て方に対して、わたしは片手落ちのようなものを感じている。同時に、この日本でしか生れなかった神々、この列島生えぬきの神々のことも重視すべきではないか」という問いかけ、その「列島生えぬきの神々」の中で、特に、「オオナモチ」とか「大国主」とか「天の下作らしし大神」と呼ばれている「日本固有の神」に探りを入れ、そこに火山の活動の影を透視するのです。

 例えば、「大隈の国の海中に神ありて、島を造る。その名を大穴持の神と曰ふ。ここに至りて官社となす」といった事例から、益田は「海底噴火の神がオオナモチと呼ばれた」と推測し、それは「大きな穴を持つ神」であり、「噴火口を擁する火山そのものの姿の神格化以外ではない」と断じ、「今日南九州一円を貧困に縛りつけているシラス地帯の一角で、その神はシラスを噴き浴びせる猛威の神として、生きた姿で暴れていた」となまなましくその荒ぶる神の姿を描き出すわけです。益田によれば、オオナモチとは、「大穴持の神として、この火山列島の各処に、時を異にして出現するであろう神々の共有名」で「火山の国に固有の神」ということになる。とすれば、「ダイコクさまは、噴煙を濛々とあげ、火の灰を降らす火山神」なのです。

 わたしは学生のころ、この益田説を読んで、甚く痛く感動したのでした。そして、その益田さんの直観と論理を引き継いだ考察を展開したいと考え続けてきたのです。それをこれから存分に展開してみたいものだと思います。この地球異変の時に当たって。

 さて、天河で岩田慈観という高野山真言宗のお坊さんと会いました。彼は三年前に高野山にて得度して僧侶となり、京都市北部の上賀茂にある自坊「青蓮庵」にて、ターラ菩薩を本尊として密教の行法を続けています。岩田さんは、東北大学文学部印度学仏教史研究室を卒業して、「変性意識状態; altered states of consciousness)の体験と世界認識(リアリティ)の体験」を人類普遍の意識探究として研究したいと考え、北陸先端科学技術大学院大学情報科学研究科に進学して、「変性意識状態を含む動的意識モデル」の研究を始めました。そして、「フローテーションタンク」と呼ばれる、体温と同じ程度の温度のお湯を張った密閉式のお風呂のようなものに裸で浮くことで感覚遮断の状態を作って瞑想状態・変性意識状態に入る装置を使って、このフローテーションタンクのセッション前後での対人イメージの変化を計量心理学の手法で定量化して修士論文を仕上げ、さらには、通常の入眠時やREM睡眠時を含む睡眠中と、フローテーションタンクの中にいる時とでは、脳や自律神経系などの生理学的状態と視覚的イメージの体験などの意識状態がどのように違うかを脳波や心拍などの生理計測と被験者の体験報告から比較・分析して博士論文を書いて博士号を取得し、東北大学大学院情報科学研究科研究員や東北大学未来科学技術研究センター研究員を歴任しつつ、脳波や機能的MRI等を使った脳機能画像などの脳科学の立場から意識の研究をしていたのですが、それでは「意識状態の多様性、意識空間の広大さに関する洞察」を深めることができないと悟り、2005年に一切の職を捨てて、終に出家して修行僧となったのです。高野山真別処で百日間の四度加行を経て翌年伝法灌入壇、さらに已灌頂の者のみに許される行法の伝授を受けつつ、自坊にてターラ菩薩の行法を続けているといいます。

 実はわたしは国際日本文化研究センターで初めて研究者の卵の時代の岩田さんと出会い、彼の関心の重要なことに共感したわけですが、わたしも10年以上前にチベットを訪れた時にグリーンターラと出会い、観音様の涙から生まれたというターラ菩薩への深い帰依の気持ちを持ち続け、数年前にインドに行った時、インドの霊能者からターラ菩薩の真言「オンターレ・ツッターレ・ツレスヴァーハー」を教えられ、その真言を祝詞や般若心経とともに唱えているという生活をしているので、天河弁財天の、それも「日輪天照弁才天」を拝した後で、岩田さんに再会したことには弁才天さんのご配剤としか思えないほどの巡り合わせを感じた次第です。

 いずれ、近いうちに、岩田さんの自坊を訪ねて、彼のターラー菩薩行に与ってみたいと思います。わたしは「東山修験道研究所」を開いたので、それとターラー菩薩との接点を探ってみたいと考えているところです。

 そんなわけで、今回もShinさんへの返信としてはまったく噛み合わないような返信レターになってしまいましたが、しかし、今現在起こっていることへの大きな示唆を今回の出雲大社や天河大弁財天社詣でで得たように思っていますので、いずれ大きく、太くShinさんの問題提起に切り結んでいくと確信しています。その時まで、まずは、オルボワール!

2008年7月20日 鎌田東二拝