シンとトニーのムーンサルトレター 第157信
- 2018.05.29
- ムーンサルトレター
第157信
鎌田東二ことTonyさんへ
Tonyさん、お元気ですか? わたしは、いま東京に来ています。Tonyさんは久高島におられるそうですね。いよいよ、6月5日に久高島を舞台にした映画「久高オデッセイ」の完結篇「風章」の上映会が小倉昭和館で行われますね。映画の上映後はシンポジウムも開催され、映画製作者であるTonyさんと一緒にわたしも登壇いたします。久しぶりに小倉でTonyさんとお会いできること、とても楽しみです。
小倉といえば、松柏園ホテルの神殿で5月18日の早朝から月次祭が行われました。この日は、皇産霊神社の瀬津神職が神事を執り行って下さいました。祭主であるサンレーグループの佐久間進会長に続いて、わたしも玉串奉奠を行いました。神事の後は、恒例の「天道塾」を開催しました。これは、サンレーグループの第二創業期を拓いてゆくために従来の「佐久間塾」および「平成心学塾」を統合して新たに創設された勉強会です。
最初に佐久間会長が訓話を行い、「企業には哲学が必要です。哲学とは、考えることであると思います。先日はソクラテスの話をしましたが、今日はピタゴラスの話をしたい」と述べ、有名な「ピタゴラスの定理」などを紹介し、最後は婚活の話で締めました。
その後、わたしが登壇しました。わたしはピタゴラスの話題を受けて、彼の名言である「万物は数である」について言及しました。ピタゴラスは、「万物は数である」という有名な言葉を残しています。よく考えてみれば、あらゆるものは数字に置き換えることができます。1人の人間は年齢、身長、体重、血圧、体脂肪、血糖値などで、国家だって人口、GDP、失業率などで表わされます。そして、企業の場合も、売上、原価、利益、株価といった諸々の数値がついてまわります。
考えてみると、人間の儀式というものも数と無縁ではありません。人生の区切りとしての通過儀礼などは数の世界そのものです。七五三をはじめ、二十の成人式、六十一の還暦、七十の古希、七十七の喜寿と、長寿祝いは百の上寿まできます。四十九日や十三回忌に代表される追善供養や年忌法要も数のオンパレードです。人は死ぬまで、また死んだ後も数と関わっていくのです。ピタゴラスの「万物は数である」にならえば、わたしは「人生も数である」と言いたいです。
それから、「多死社会」の話題に移りました。現代日本社会は確実に「死ぬ人が多くなる」時代に突入しています。年間の死者数は2016年に初めて130万人を突破しました。これは20年前に比べて、1.5倍の数です。今や、1日あたり平均3500人以上が亡くなる「多死社会」を迎えつつあるのです。国の推計によれば、ピークの2040年には年間訳168万人に達します。これから20年余りでさらに40万人近く増えるわけです。
多死社会においては、もちろん子どもや若い人も亡くなります。しかし、統計によれば、日本で亡くなる人のうち64歳以下は10人に1人にすぎません。5月16日に亡くなられた歌手の西城秀樹さんは享年63歳だったので、ギリギリ64歳以下でした。死者数の90%は65歳以上の高齢者であり、今後その割合はさらに高まります。今から30年後には95%になると推計されています。亡くなる人の圧倒的多数は高齢者なのです。
そんな多死社会に向かう中で、いわゆる「平穏死」を求める人が多いですが、現実はなかなか希望通りにはいきません。互助会業界においては、亡くなってからの葬儀だけでなく、元気なうちに使える互助会が求められてきます。サンレーでは、各種の隣人交流イベントなどをはじめ、会員さんの老後を豊かなものにする取組みが多いですが、今後もその方針をさらに強め、「明るい世直しとして、1人でも多くの『光輝好齢者』を作りたいものです。高い志をもって頑張りましょう!」と訴えて、降壇しました。
さて、5月24日の朝、わたしは福岡空港からJAL3629便で宮崎ブーゲンビリア空港に飛びました。翌25日に宮崎県東臼杵郡門川町で「門川紫雲閣」の竣工式が行われるので宮崎入りしたのです。空港に到着したわたしは、現地に向かう途中、平和台公園に寄りました。ここには有名な「平和の塔」があります。正面に彫られた「八紘一宇」の4文字から「八紘之基柱(あめつちもとはしら)」あるいは「八紘一宇の塔」とも呼ばれています。じつは、この塔を見るのは生まれて初めてですが、その偉容に圧倒されました。「八紘一宇」の文字が刻まれていることで不幸な歴史を持つ塔ではありますが、もともと「世界平和」の願いをこめて建立されたものです。けっして日本一国だけの繁栄だけでなく、人類の幸福を願っての「平和の塔」であるべきだと思います。わたしは「平和の塔」を眺めながら、自然と地球人類の墓標である「月面聖塔」を想いました。
「平和の塔」を背に
「都萬神社」を参拝
「平和」といえば、わたしは「結婚は最高の平和である」とつねづね訴えていますが、宮崎には日本で最初の結婚式が行われたとされる「都萬神社」があります。「平和の塔」に続いて、ここを訪れました。都萬神社は宮崎県西都市にある神社ですが、式内社で、日向国総社論社、日向国二宮論社となっています。
宮崎県は「神話の国」として知られます。県内には『古事記』『日本書紀』」に描かれる舞台の地が多くあります。都萬神社こそは、日本最古の書である『古事記』の中で、邇邇芸命(ニニギノミコト)とその妻・木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)の日本初の婚礼儀式(結婚式)の場所なのです。それゆえに、都萬神社は「恋愛がうまくいく」「良縁にめぐりあえる」神社として有名で、多くの女性たちが訪れています。社名の「都万」は「妻」のことであり、祭神の木花開耶姫命が瓊々杵尊の妻であることによるといいます。「都万」の社名については、「妻万」とする説が古くからあります。
都萬神社には願いごとをしてくぐる「千年楠の洞洞木」もありました。わたしは「夫婦円満」と「娘の良縁」を願いながら洞洞木をくぐりました。わが社の「サンレー」という社名には「産霊(むすび)」という意味があります。新郎新婦つまり男女の魂が結魂を果たし、息子(むすこ)や娘(むすめ)といった新しい生命を想像することが産霊です。日本最大の国難とは人口減少であり、少子化に対する方策が求められています。子どもを増やすには、その前に結婚の数を増やさなければいけません。というわけで、わが社は「婚活」を救国の事業として推進しています。この日は、日本における「結婚式」のルーツともいうべき都萬神社で多くのヒントやインスピレーションを得ることができました。
都萬神社を訪れた後、木城町にある「日向新しき村」に寄りました。「新しき村」とは「食うための労働を全員で分担することで労働時間を1日6時間以内とし、残りの18時間は各自が自己実現のために時間を使う」ことをモットーにしたユートピア的共同体です。白樺派の作家・武者小路実篤とその同志により、理想郷を目指して1918年(大正7年)宮崎県児湯郡木城町に開村されました。1938年(昭和13年)にダムの建設により農地が水没することになったため、1939年(昭和14年)に一部が埼玉県毛呂山への移転を余儀なくされましたが、残りは「日向新しき村」として存続しました。そして、2017年に創立100周年を迎えました。
一般財団法人新しき村HPの「村の概要」には、「新しき村は、武者小路実篤が提唱した、新しき村の精神に則った生活をすることを目指して、その活動を続けている」と書かれています。そして、その精神とは以下の通りです。
●全世界の人間が天命を全うし、各個人の中にある自我を生長させることを理想とする。
●自己を生かすため、他人の自我を害してはならない。
●全世界の人々が我らと同じ精神、同一の生活方法をとることによってその義務を果たし、自由を楽しみ、正しく生き、天命を全うすることができる道を歩くように心がける。
●かくのごとき生活を目指すもの、かくのごとき生活の可能性を信じ、また望むもの、それは我らの兄弟姉妹である。
わたしは、2001年にサンレーの社長に就任してすぐの時期に「日向新しき村」を訪れました。ちょうどその頃、『ユートピア紀行』伊藤信吉著(講談社文芸文庫)という本を読んだのですが、「日向新しき村」について書かれていたので興味を持ったのです。『リゾートの思想』(河出書房新社)や『リゾートの博物誌』(日本コンサルタントグループ)などの著書で「理想土」なるコンセプトを提唱したように、もともと、わたしは「理想郷」というものに強い関心を抱いていたのです。その後、『愛情生活 虚構の告白 白樺記』荒俣宏著(集英社文庫)という小説を読んで、「新しき村」の内情などを知りました。荒俣氏によれば、武者小路実篤は「最も多くの本を書いた日本人」だとか。白樺派といえば理想主義者の集団といった印象がありますが、並外れた行動力も併せ持った武者小路は「白樺派の闘将」と呼ばれました。その後、わたしはTonyさんと「ムーンサルトレター」を交わすことになりましたが、その第1信(プロローグ)で「一条さんは、現代の『白樺派』やね」と言われたことを思い出します。Tonyさんは憶えていらっしゃいますか?
そして、2017年に「新しき村」は開村100周年を迎えました。それを記念して出版された『「新しき村」の百年』前田速夫著(新潮新書)を読んだのですが、世界的にも類例のないユートピア実践の軌跡をたどり、その現代的意義を問い直す内容でした。改めて「人類共生」の夢を掲げた「新しき村」に興味を抱きました。同書の中でも述べられているのですが、武者小路実篤の理想の中には「無縁社会」を乗り越えるための大きなヒントが隠されているように思います。また、「相互扶助」の実現を目指して生まれた生協や互助会などがアップデートするためのヒントもあるように思えてなりません。わたしも社長に就任してもうすぐ17年になりますが、17年前に「新しき村」を訪れたときの想いや志が思い起こされました。
「日向新しき村」にて
「門川紫雲閣」の竣工式で
「日向新しき村」を再訪した翌25日には、「門川紫雲閣」の竣工式が行われました。竣工清祓神事は「日向のお伊勢さま」と呼ばれる由緒ある大御神社の新名光明宮司にお願いしました。「君が代」のさざれ石があるという由緒ある神社の宮司さんの祝詞は素晴らしかったです。主催者挨拶で、わたしは「門川紫雲閣の南には五十鈴川が流れています。伊勢神宮の西端を流れる川と同名です。この一帯には『伊勢』『五十鈴』『日向』の地名がありますが、同様の地名が三重県の伊勢地域にもあります。神武天皇の東征に参加した猿田彦一族の後裔が地名を移植したといわれていいます」と述べ、最後に「五十鈴川流れる聖地門川の 空に浮かぶは紫の雲」という道歌を披露しました。
さらに翌26日には、北九州八幡の「サンレーグランドホテル」で世界同時「隣人祭り」が開催しました。今年は記念すべき10周年で、多くの方々が集まって下さり、大いに賑わいました。これからも、さまざまな方法で「有縁社会」の再生を図り、「新しき“新しき村”」の創造に努めたいです。現代の「白樺派」として・・・・・・。それでは、Tonyさん、6月に小倉でお会いできることを楽しみにしております。
2018年5月29日 一条真也拝
一条真也ことShinさんへ
今しがた久高島から沖縄本島に移動して、佐藤善五郎さんという友人と一緒にお昼を食べながらゆっくり話をしていたところでした。まもなく、空港に移動して那覇空港からフライトします。
佐藤善五郎さんとは5年ぶりくらいに再会したでしょうか。佐藤さんは、元那覇市文化協会の事務局長であり理事でもあり、20本くらいの沖縄を舞台にした演劇の演出家でもありました。宮城県塩竈市出身で、Shinさんと同じ早稲田大学で学びました。現在82歳ですから、Shinさんの大学の大先輩になります。佐藤さんは、第一文学部演劇学科で学び、本田安次教授から民俗芸能を、郡司正勝教授から歌舞伎を学び、宮中神楽の研究でお二人に指導を受けたとのことです。半分は研究者、半分はプロデューサーや演出家として活躍しました。奥さんは琉球舞踊の師範です。息子さんの佐藤文彦さんは、東京芸術大学で尚氏王朝の「おごえ」(肖像画)の研究と復元で芸術博士号を取った研究者であり画家で、ご家族は芸術家一家ですね。佐藤さんが東京から沖縄に移住したのが、沖縄が本土復帰した1972年ですから、それから46年、ほぼ半世紀が過ぎたこととなります。
その佐藤さんとは、下地裕典さんの紹介で初めて会って、もうかれこれ30年来の交友になりますが、この数年は沖縄に毎年2〜3回は来ているもののお会いする機会がなかったので、久々の交流となります。今回わたしは、NPO法人久高島振興会の総会に出席し、島の方々や来訪者と交流したり意見交換する目的で、久高島に参りました。総会では、友人の音楽家でスギ(SUGEE)さんこと杉崎任克さんから「ヤポネシア音楽祭」の提案をしました。スギさんは、東京オリンピックが開催される前の2020年7月25日(土)・26日(日)の2日間を目途に、久高島からオリンピックとは異なる「競争」ではない「共演・供宴・協演」の祭りを発信しようと企画書をまとめました。その企画の根っこと背景には、「久高オデッセイ三部作」の故大重潤一郎監督がいます。
ジャンベ奏者のスギさんは、15年ほど前の久高島のとある祭りの夜、ある出来事があって落ち込んでいた彼を大重さんと島人の内間豊さんが慰めてくれ、そこ励ましによってこれまで音楽を続けていくことができたということです。その恩返しの想いと、大重さんが海洋アジアの親睦交流と平和構築を目指していたので、その遺志を継いいきたいという強い気持ちをスギさんは持っているのです。この提案がNPO法人久高島振興会や島の人たちにどのように受け止められ、2年後にどのような形で共有され、展開していくことになるか見守り応援していきたいと思っています。
NPO法人久高島振興会総会の後は理事役員や会員や来訪者などの懇親会となり、そこで、大重さんの「久高オデッセイ第三部 風章」(95分、2015年制作)を2回上映し、大重さんと「久高オデッセイ第三部 風章」を取り上げてくれた2015年11月26日沖縄テレビ放送の報道を7分ほど見ました。
この久高島の風とスピリットを6月5日の北九州市小倉の「小倉昭和館」での「久高オデッセイ第三部 風章」上映会&アフタートークの時に届けたいと思いますので、よろしくお願いします。当日を大変楽しみにしています。ぜひこの機会に多くの方々に、大重さんの出身島である「筑紫の島=九州」で「久高オデッセイ第三部 風章」を観ていただきたいです。
ちなみに、大重さんは鹿児島県鹿児島市天保山生まれで、一族は坊津の出身で、今、NHKの大河ドラマ『西郷どん』でやっている西郷隆盛と月照上人の逃亡を大重さんの先祖が支援したとかで、大重さんの先祖も島流しだったか、名前を変えて身を隠していたと大重さんから聞いたことがあります。ともかくも、その頃から大重さん一族の血には、やさしさと反骨精神が流れていて、それがこの時代に「光りの島」「風の島」「久高オデッセイ」三部作などの沖縄を舞台にした劇映画やドキュメンタリー映画になったのだと思っています。わたしたちは、自分で思う以上に、先祖の因縁を引きずっていると痛感しています。
ところで、佐藤善五郎さんは、年末の12月15日に、沖縄・那覇の新国立劇場で、沖縄の神歌「おもろそうし」第八番の詩人「アカインコ」を主人公にした演劇を上演するとのことでした。佐藤さんが脚本を書き、プロデュースも担当するそうです。その「アカインコ」ですが、沖縄県読谷村「楚辺公民館」のHPには、次のような伝説が掲載されていましたので、長文ですが、そのまま引用します。大変悲劇的でもありますが、とても興味深いので、読んでみてください。
http://sobekouminkan.jp/modules/pico/index.php?content_id=1
赤犬子(あかいんこ)
昔、読谷山間切楚辺村の《屋嘉》に、チラーという大変美しい娘がいた。その娘には大変可愛がっている赤犬がいた。ある年、長い早魃が続き村の井戸はすべて枯れ果てて、村人は大変困っていた。
そんなある日、赤犬が全身ずぶ濡れになって戻ってきた。赤犬はチラーの前で吠え立てて、着物の裾を口でくわえて引っ張って行った。この日照りに犬がずぶ濡れになってくるのはおかしいと思ったチラーは、さっそく後について行くと、その赤犬は部落南側の洞窟に入って行った。しばらくすると、赤犬は再びずぶ濡れになって戻ってきたので、びっくりしたチラーは急いで家に戻り、そのことをみんなに話した。それから洞窟の中に水があることが分かり、早魃をしのぐことができた。これが暗川発見の由来である。
それ以前は楚辺は水不足のためにミーハガーが多かった。しかし、赤犬が暗川を発見してからは、楚辺にはミーハガーはいなくなってしまった。
又、この美しいチラーは、村中の若者の憧れの的であったが、チラーの心を見事に射止めたのは、《大屋》のカマーであった。ところが二人の幸せそうな様子を妬んだ村のある若者が、嫉妬のあまりカマーを殺してしまった。チラーは愛するカマーを失った悲しさのあまり、毎日泣いて暮らしていた。そんなチラーの悲しい心を慰めてくれたのが、以前から可愛がっていた赤犬であった。
カマーを殺した若者は、チラーが暗川へ水汲みに行くことを知っていた。かねてから機会を狙っていた若者は、ある日、暗川に先回りして、チラーがくるのを待ち構えていた。何も知らないチラーは、暗川の入り口付近までさしかかった時に、急に気分が悪くなり、その場に座り込んでしまった。そこへたまたま通りかかったのが若者の妹であった。そこに座り込んでいるチラーを見て、いたわって家に帰し、代わりに自分が暗川へ水汲みに行った。
なかで待ち構えていた若者は、入ってきた女をてっきりチラーだと思い、無理矢理に犯してしまった。やがて外に出て見ると、なんと二人は兄妹であることに気付いた。恥ずかしさと恐ろしさのあまりに、その兄妹はその場で自害してしまった。
その頃、チラーはカマーの子を身ごもっていた。しかし、カマーは親が決めた縁談でもないし、今はすでに亡き人である。身ごもっているとはおかしい、赤犬の子を身ごもってしまったんでは、という噂がたちまち村中に広まった。そして、とうとう村にいることもできずに、チラーは行方をくらましてしまった。
その後、何ヵ年か後に両親は、チラーが伊計島にわたっているという噂を耳にして、娘を訪ねて行った。しかし、両親に逢うことを恥じたチラーは、男の子を残したまま自害してしまった。両親は悲しみながら、我が娘をその地に葬って、男の子は一緒に楚辺村に連れ帰った。この子が後の赤犬子である。
成人した赤犬子は、ポタボタと雨の落ちる音を聞いてひらめき、クバの葉柄で棹を作り、馬の尾を弦にして、三線を考え出した。その後赤犬子は三線を弾きながら、歌をうたって村々を旅するのであった。
その旅の途中、北谷村にさしかかった時に、喉が乾いたので、水を乞うためにある農家に立ち寄った。するとそこには4歳くらいの子どもがいた。「おまえのお父さんは何処に行ったかごと尋ねると、「ユンヌミ取りに。」と答えた。今度は「おまえのお母さんは何処に行ったか。」と尋ねると、「冬青草 夏立枯かりに。」と答えた。
ところがさすがの赤犬子も意味が分からずに、どういうことかと尋ねたら、「お父さんは松明り(トゥブシ)取りに。」、「お母さんは麦刈りに」と答えた。すっかり感心した赤犬子は、再びその農家を訪ねて両親に、「あなた方の子は、普通の人より特に優れた知能を持っているから将来は坊主にしてやれ。」と言い残して去って行った。この子が後の「北谷長老」であったという。
それから赤犬子が中城の安谷屋を旅している時に、大変喉が渇いた。近くを通りがかった子どもに、「大根をくれ」と言うと、持っていた大根の葉っぱも取り、皮も剥いで、食べやすいように切って赤犬子に渡した。「この子どもはきっと偉い人になるだろう。」と言ったら、その子どもは後の中城若松になった。
又、国頭方面を旅している時に、恩納村瀬良垣にさしかかった。その時におなかがすいていたので、海辺で船普請をしている船大工に物乞いをしたところ、むげに断わられてしまった。それで瀬良垣の船を、「瀬良垣水船」と名付けた。
その足で谷茶に向い、そこでも同じように物乞いをした。するそこの船大工は、丁寧にもてなしてくれた。それで谷茶の船を、「谷茶速船」と名付けた。その後、赤犬子が予言した通りに、瀬良垣の船は沈んでしまい、谷茶の船は爽快に水を切って走った。
そのことに大変怒ってしまった瀬良垣の船大工たちは、赤犬子を殺そうと後を追ってきた。そこで現在の赤犬子宮のある場所に追い詰められた赤犬子は、そこの岩に杖を立てて昇天してしまった。
又、赤犬子はその他に唐から麦・豆・粟・ニービラなどを持ち帰り、それを沖縄中に広めた。赤犬子が嘉手納を歩いている時に、道も悪く疲れていたので転んでニーピラを落としてしまった。それで赤犬子は、「この土地にはニ−ピラは生えるな。」と言ったので、嘉手納にはニ−ピラは生えなくなったということである。
ということで楚辺では、昔から赤犬子を琉球古典音楽の始祖、或いは五穀豊穣の神として奉り、毎年9月20日には、「赤犬子スーギ」 として盛大に執り行っている。(楚辺誌民族編より)
大変興味深い伝説ですね。まるで、『古事記』の中のスサノヲ神話のような。わたしは「スサノヲ組」の組員で、親分がスサノヲ、わたしが子分ですので、親分が日本で最初の歌手・歌人・詩人であったために、わたしも親分を見倣い(?)、その命を受けて(?)、「神道ソングライター」となって、1998年12月12日から「神道ソングライター」として歌を歌っていましたが、いよいよ来月6月には、第一詩集『常世の時軸』(思潮社)を出版します。67歳で「詩人」としてデビューするのはまあ照れ臭いですが、しかし17歳の春からある日突然詩を書き始めたわたしにとって、詩集を出すことは一つの念願でもあり、祈りでもあり、使命でもありました。今回、その第一詩集のタイトルが『常世の時軸』となったのも、不思議な縁だと思っています。
先回のムーンサルトレター156信に書いたように、「時じくのかぐの実」は、『日本書紀』巻第六・垂仁天皇紀90年の条に、「非時香菓」と出て来ます。大変象徴的な言葉ですね、「非時」の「香菓」とは。「非時」とは「ときじく」、つまり、「常世=ユートピア=桃源郷」ということでしょう。「香菓」とは「かぐの木の実」、つまり、不老長寿をもたらすという伝説の「香しい木の実」のことです。これは、秦の始皇帝の命を受けて不老長寿の薬を蓬莱の島に探しに行って日本に上陸した徐福の伝説とよく似ていますね。
この「常世の時じくのかぐの実」を、ヤマトタケルのお祖父さんに当たる垂仁天皇の重臣・田道間守(たじまもり)が、天皇の命を受けて、「常世国」に不老長生の実=「非時香菓」(ときじくのかぐのみ)を探しに行って、苦労の末に、10年かかってようやく探し出し、持ち帰ります。しかし、まことに残念ながら、すでに垂仁天皇はタジマモリが帰ってくる前年に崩御していました。そのことを知って、タジマモリはたいそう悲嘆し、終に後を追って亡くなってしまったのでした。それは、嘆きの追死、「悲嘆死」だったといえます。
わたしの第一詩集『常世の時軸』は、そのような『日本書紀』のエピソードや、スサノヲの神話を背景に、現代のタジマモリが「常世の国」を目指して航海し、「時じくのかぐの実」を見出すことができるかどうかを探り、物語る一種の神話詩集です。内容は、大変昏く悲劇的ですが、それはこの時代の苦悩、スピリチュアル・ペイン(霊的・精神的痛み)を受けているからだと思っています。つまり、スサノヲが「妣の国」「根の国・底の国」を恋い慕って啼き叫んでいたように、現代のタジマモリも悲嘆の窮りを感じ取って啼き叫ぶしかありません。そして終に、「常世の時じくのかぐの実」を獲得することができたかのかどうか……
それは、読んでからのお楽しみというか、お悲しみというか。ともかくも、なぜか、このような『常世の時軸』という詩集になってしまいました。6月中には出来上がると思います。出来たらお送りしますので、ぜひ忌憚なき書評を書いてください。楽しみにお待ちしています。
その『常世の時軸』の詩の世界も、「おもろそうし」の詩人の「アカインコ」の物語の世界も、どこか、深いところで通じているような気がします。『古事記』には、雄略天皇の段に、「アカイコ(赤猪子)」の物語が出て来ます。アカイコは、三輪山の神に仕える巫女で、雄略天皇に見染められます。天皇のお声がかりがあったので、いつお召しが来るかと、今か今かと待っていたのですが、80年経ってもお召しのお迎えが来ないので、痺れを切らしたアカイコが宮中を訪ね、雄略天皇にかくかくしかじかで今までお待ちしていたのですが、もうずいぶん年を取ってしまったので、意を決して天皇様に昔のことをお伝えし、確認しに参りましたと告げたのです。
すっかり、そんなことを忘れていた無責任男・雄略天皇は、恐れ入って、申し訳なさに、アカイコと一瞬まぐわいをしようと思ったのですが、あまりの高齢のために恐れをなし、歌のやりとりで心を伝え合います。この歌のやり取りがまことに切なくも格調高いのですよ。このあたりのことは、『古事記ワンダーランド』(角川選書、2012年)でかなり詳しく書きました。そのアカイコの想いを、三輪山の麓の大神神社で神社(神務)実習をして神主(神職)の資格を得たわたしはこれまで長い間ずっと考え続けてきたのでした。
そして今回、佐藤善五郎さんから、「アカイコ」ならぬ「アカインコ」の話を聞いて、何とも不思議の感に打たれたのでした。21年前、1997年に、わたしたちはサルタヒコゆかりの地を沖縄から南九州・出雲・伊勢と巡りましたが、その沖縄と九州を巡った時、当時、九州工業大学教授で数学者の安仁屋真昭さんと斎場御嶽や久高島や霧島の高千穂の峰や高千穂神社を訪れ、神楽と「おもろそうし」を奉納演舞しました。安仁屋さんはその「おもろそうし」の沖縄における唯一の伝承者だったのです。佐藤善五郎さんは、今回の劇「アカインコ」をその安仁屋さんと協力しながら上演するというのです。21年前にわたしたちが辿った道行が、全く別の形で「アカインコ」という沖縄の神歌「おもろそうし」の詩人の物語として表現され、わたしはその沖縄の民間伝承とも通じる常世伝承を踏まえた現代の「2001年宇宙の旅(スペース・オデッセイ)としての『常世の時軸』を詩集として表現することになりました。まったくの偶然ではあるとはいえ、不思議な符号とも思います。
ところで、Shinさんは、宮崎県の「日向新しき村」を再訪された由。Shinさんが「現代の白樺派」であると言ったことはよく覚えております。何を隠そう、かく言うわたくしも、「現代の隠れ白樺派」で、「白樺派」が持っている「世直し・心直し・人直し」の志向性を引き継いでいるのです。特に、柳宗悦の仕事と軌跡は、わたしに一つの先行モデルとなっています。が、武者小路実篤の「新しき村」の運動も、NPO法人東京自由大学の先駆形態とも思っています。宮沢賢治の「羅須地人協会」は白樺派の影響を強く受け、特に「新しき村」の運動などの影響下に展開したものではないかと思っています。宮沢賢治の親友であった保坂嘉内は、もろ白樺派のシンパだったのではないでしょうか?
たぶん、わたしの『常世の時軸』は武者小路実篤のヒューマニズム小説とは対極にあるものかと思いますが、しかしながら、わたしは武者小路実篤の小説も昔よく読みました。彼の一種のヒューマン小説は、わが敬愛する遠藤周作のユーモア・ペーソス小説とどこか通じているような気がします。ポジティブさとやさしさと人間愛に溢れ、その中にそこはかとない哀しみやユーモアやペーソスが混じり込んでいたと記憶します。高校時代にもっとも心に沁み込んだのは、ドストエフスキーの小説群とロートレアモンの『マルドロールの歌』です。『常世の時軸』は、どちらかというと、そうしたドストエフスキーやロートレアモンの系譜に属するといえるかもしれません。あるいはスタンリー・キューブリック「2001年宇宙の旅」の。
ともあれ、6月5日、久々に小倉で再会できること、そこで「久高オデッセイ第三部 風章」を上映し、トークができることを大変たいへん楽しみにしています。今日は、満月、フルムーンです。昨夜は、10時頃、一人、久高島のピザ浜で十四夜の月を眺めました。イノーの浜の沖のリーフの淵に白い波が立って動いていくさまを満月に近い十四夜の月が照らし出します。それは「銀龍」がうねって、大空を蛇行していくような、常世の国に船が曳航されていくような、大変神秘的な光景でした。「2001年宇宙の旅」、「久高島スペース・オデッセイ」そのものだと思いました。そんな光景を見つめながら、大重潤一郎がこの世にはいないのだということを身に染みてさびしく感じたのでした。
2018年5月29日 鎌田東二拝
-
前の記事
シンとトニーのムーンサルトレター 第156信 2018.04.30
-
次の記事
シンとトニーのムーンサルトレター 第158信 2018.06.28