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シンとトニーのムーンサルトレター 第020信

第20信

鎌田東二ことTonyさま

 Tonyさん、先日は『モノ学・感覚価値研究(第1号)』をお送りいただき、まことにありがとうございました。単行本2冊分は優にあるボリュームですが、一気に拝読させていただきました。発刊の辞である「モノ学への挑戦」において、モノ学・感覚価値研究会代表者であるTonyさんは、「最新のトヨタやホンダの自動車づくりから伝統的な京都の西陣織まで、どのようなものづくりにおいても、すぐれたものはそれ自体の『もの』の力によって『もののあはれ』を喚起せしめる。きれい、すごい、おみごと、と思わせる。『もの』は常に『こころ』にはたらきかけ、ゆさぶり、うごかし、『たましい』まで発動させるのだ」と高らかに宣言されていますね。ちょっとモノモノしい印象さえ与えるくらいに。

 巻頭論文の「モノ学の構築」もTonyさんが書かれていますが、その中の「孔」の問題が、わたしには特に面白かったです。モノには次元があり、一次元(点)、二次元(平面)、三次元(立体)、四次元あるいは高次元・異次元(スピリチュアル)などの各次元がある。そして、Tonyさんによれば、これらの次元を繋ぐ回路が「孔」なのであると。銀河鉄道のようなものに乗れば、その次元回路である「孔」から霊界に入っていったり、現実世界に戻ってきたりする。そのような次元トンネルがあることを宮沢賢治は『銀河鉄道の夜』で示しているのであり、その次元トンネルからまた別の次元世界に至る。そして、ヘルマン・ヘッセは『荒野のおおかみ』の中で、そうした「孔」を目撃してしまうジョバンニのような人間を「一次元よけいに持っている人間」と表現したわけですね。

 これを読んで、わたしは古今東西でもっともリスペクトしている人のことを思い浮かべました。その名も、孔子(!)という人です。彼が開いた儒教ほど誤解されている宗教もないと思いますが、葬祭を司るシャーマンの母親から生まれた孔子は異界の神々や死者の霊ともダイレクトに交流できるスピリチュアルの巨人であったと、わたしは信じています。「孔」と「礼」の字は似ていますが、孔子が重視した「礼」とは、土地の神々や妖怪の類を霊的に封じ込めるサイキック・テクノロジーでもあったのです。その孔子は、ジョバンニやハリー・ハラーの大先達として、次元をよけいに持った人物だったに違いありません。

 陶芸家を超越した工芸・美術家である近藤高弘さんの「モノと感覚価値〜工芸と美術へのアプローチ」も興味深く読みました。近藤さんは、「日本のものづくりの良さは、素材に対する感性の深さだと思っています」と述べ、日本美術の感覚価値を明らかにされました。また、従来の骨壷を越えた、生と死をテーマにした土器である「解器(ほどき)」にも言及されています。近藤さんの「解器ワーク」については、わたしは日本人の今後の死生観に影響を与えうる注目すべき実験であると思っており、5月初旬刊行の『「あの人らしかった」と言われるための自分なりのお別れ』(扶桑社)にも紹介させていただきました。

 Tonyさんと近藤さんのふたりの義兄の他では、上林壮一郎氏の投稿論文「モノと身体動作価値〜作法をデザインすること」が個人的に面白かったです。わたしは、拙著『ハートフル・ソサエティ』(三五館)で、サイボーグやアンドロイド、ロボットなどの問題を取り上げたことがあります。手塚治虫の「鉄腕アトム」は人間の心を得ようとしてもがき苦しみ、また人間と敵対してしまうことを怖れるロボットの物語です。名作SF映画「ブレードランナー」や、アシモフの古典SFを映画化した「アイ・ロボット」、さらには日本映画「CASSHEEN」にも人間と人造人間との対立が描かれています。その「人間」と「人造人間」の関係性の問題を考えるうえでも、上林論文は興味深いものでした。

 そういえば、前回のレターでTonyさんは「CASHEEN」を絶賛されていましたね。じつは、わたしも「CASHEEN」を非常に高く評価しており、日本映画の最高傑作のひとつだとさえ思っているのです。あの映像センスはただごとではなく、名前は忘れましたが宇多田ヒカルと最近離婚した監督は天才だと思います。

 その他にも、『モノ学・感覚価値研究(第1号)』は刺激的な論文が盛りだくさんで掲載されていますが、内容の充実ぶりにも劣らず、表紙と裏表紙を飾る松生歩画伯の絵が素晴らしいですね。タイトルが「初夏の朝 本郷の村で」となっていますが、段々畑のある農村のパノラマは幽玄的ですらあります。何よりも、モノ学の研究報告誌の表紙画がモノ(物)を描いた静物画ではなく、風景画であることが、この研究会の壮大な志を示していますね。



松生歩「初夏の朝 本郷の村で」

 そして私はこの研究報告と並行して読んでいた中沢新一著『ミクロコスモスⅡ』(四季社)の内容と、この絵がシンクロするのを感じました。同書では、奇しくも中沢氏が「モノ」について語っているのですが、「庭園は民衆の阿片であった」というエッセイで、現代は生命とモノとの境界があいまいになり、大量のモノに囲まれた世界は混乱の極みに達しようとしているとしています。そのような時代であるからこそ、人間はこの「モノ」という対象の本質を究めなくてはならず、そのためには、モノに対する直感的な知性を形成していく必要がある。そして中沢氏は、そのような知性を養う場所として庭園というものが大きな意味を持ってくるというのです。

 なぜなら、庭園こそ、人間が非人格的なモノとのあいだに同盟関係や契約関係を結んで、人間にとってもモノにとっても、それぞれのプログラムを実現できるような関係性をつくろうとしてきた場所だからであるとし、「今日までの庭園においても、植物や動物などのモノは庭園の主要な要素ではったが、今後はさらに大きな意味をもってくるようになる」と述べています。わたしはかつて「リゾートとは理想土である」と主張しましたが、その理想土とは庭園の進化した形に他なりません。松生画伯が描いた幽玄の本郷村は、農村というより庭園そのものです。まさに日本人の心の理想土であり、「まほろば」のイメージそのものです。そして、中沢氏の表現を借りれば、人間の「モノに対する直感的な知性」に満ち溢れた「モノ」すごいアートであると思います。

 さて、中沢新一氏といえば、島田裕巳著『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』(亜紀書房)が話題になっていますね。わたしも読みましたが、じつに考えさせられました。島田氏によると、中沢氏の正体が暴力革命を肯定するコミュニストであり、地下鉄サリン事件も9・11もその根本において容認しているそうです。地下鉄サリン事件については、中沢氏は「犠牲者が数十人のレベルでなく数万人のレベルであったら、東京の霊的磁場が劇的に変化したのに」と発言したそうです。さらには、麻原彰晃や江川紹子氏らに対して差別的偏見に満ちたデマを意図的に周囲に流したとか。

 もともと麻原彰晃をはじめとしたオウム真理教の幹部たちが中沢氏の『虹の階梯』をテキストとして愛読していたことはよく知られています。そこに書かれている密教の瞑想法や徹底したグルイズムが彼らの教義にもマッチしたのでしょうか。しかし、この島田本の内容が真実なら、大変なことですね。多くの人は、中沢新一という現代日本を代表する「知」のヒーローへの見方を一変するでしょう。島田氏は中沢氏にガチンコで喧嘩を売っているわけですが、二人ともTonyさんが編者の『思想の身体 <霊>の巻』(春秋社)に揃って登場しています。また、最近出版された『宗教と現代がわかる本 2007』(平凡社)でも、Tonyさんも含めて三人揃って登場しており、まさに切っても切れない縁ですね。

 島田氏は、東大の宗教学科で中沢氏の後輩です。ともに柳川啓一教授の弟子だったこともあり、二人はかつて非常に親しかったそうです。しかし、チベット密教の修行にネパールに行く前には鬱気味であった中沢氏が、帰国後はとてもハイになっており、島田氏が「この人は、別の中沢新一ではないか」と強い違和感を持ったなど、興味深い記述もあります。また中沢氏は、基本的に「宗教とは狂気である」とし、たとえ暴力的な方法にせよ、この矛盾に満ちた社会をリセットすべきであると考えているとか。

 Tonyさんは「世直し」の必要を唱えられ、わたしも共鳴して義兄弟とさせていただいているわけですが、その「世直し」とは社会の「リセット」とはどのように異なるのですか?もちろんアウトラインは理解しているつもりですが、もう一度、確認したいのです。

 ところで、最近、わたしは『知ってビックリ!日本三大宗教のご利益〜神道&仏教&儒教』(だいわ文庫)という本を上梓しました。タイトルは版元がつけたものですが、わたしは「ご利益」という言葉が嫌いでなりません。しかし、最近、五木寛之さんの『21世紀仏教への旅 朝鮮半島編』(講談社)を読んでいたら、宗教戦争に対する批判の後、「宗教とは、人間がよく生きるためにつくりだしたものなのだ。宗教によって人が争うなど本末転倒だ、としかいえない」という五木さんの言葉が目にとまりました。たしかに、宗教から「狂気」の部分を差し引いて「人間の幸福の供給源」としてのみ宗教をとらえれば、「ご利益」という言葉にもポジティブな意味があるのかもしれません。

 その五木さんによると、松岡正剛と中沢新一と鎌田東二の三人は現代の「妖しい文体」の代表格であるそうです。Tonyさんは、このことを松岡正剛著『ルナティックス』の中公文庫版解説で紹介され、「大変光栄な評言だ」とされていますね。たしかにお三方は当代きっての魔術的文体の持ち主であり、それはTonyさんが推測されるように「太陽族」ではなく、「月球派」にあることに由来すると、わたしも思います。そして、当然ながら「月球派」はその文体のみならず感覚や思想も月的であるはず。同じ「月球派」として、ぜひ渦中の中沢新一氏に対する率直な感想および意見をTonyさんからお聞きしたいと存じます。八十八夜の満月の光の下、月球派として心のままに語っていただければ幸いです。

2007年4月28日 一条真也拝

一条真也ことShinさま

 今、雷が鳴り始めました。最近の天気はおかしいです。1995年の阪神淡路大地震前から日本の気候が熱帯化しているとわたしは周りに言い触らし、「またまたカマタがヘンなこと言ってる」と思われていましたが、一昨日も今日もまだ4月下旬であるにもかかわらず、お昼の2時3時ごろ晴れているのに突然雷が鳴るのを見て、「これは雨季と乾季に2極化しているのかも」と感じました。雷の鳴り方や夕立の降り方や風の吹き方などから、熱帯化していることは間違いないと確信しています。ホント、ヘンです。天気の具合が。何があっても生き抜いていく「鈍感力」と危機に迅速に対応できる「敏感力」の両方が必要な時代になってきましたね。

 さて、Shinさんからいろいろと宿題を出されました。どれも難題のように思えますが、まずリスポンスしやすいところから始めましょう。思いがけなかったのは、Shinさんが「CASHEEN」を高く評価していたことです。なかなか、隅に置けないですね。うれしかったな。じつは、わたしはあれほどリアルというか切実な日本映画を観たことがなかったのです。何も知らないで偶然見て、眼が釘付けになってしまいました。この感覚、この映像、この遠さ……。すべてが切ないほどのリアリティに満ち溢れ、自分でもどうしたのかなと思うくらいにのゾクゾクとしてのめり込んでしまいました。あの感覚を俺は知っている、というのが実感です。そのざらついた無限遠点のような肌触りのなまなましさが今も消えません。あれは何だったのか? わたしもこの映画を作った監督は頭がヘンな人か、それとも天才かと思いました。堕天使的というか、グノーシス主義的というか。が、そうですか。宇多田ヒカルのパートナーだった人ですか。宇多田ヒカルもその才能に惚れてたのかもしれませんね。でも才能や感覚と人格はイコールではないからねえ。困ったことに、というか、面白いことに、というか。

 そのことは、中沢新一というとびきりすぐれた「作家」にも感じることです。わたしは中沢君はたいへんすぐれたアーティストであり、作家であると思っています。彼の発想力、イマジネーション、切り口、表現力、レトリック、そのどれもが魔術的な魅力を持っています。また、宗教や芸術についての造詣と洞察力も際立ってセンスがいいと思います。当代一級であることは間違いありません。そのことは、30年以上前に東大の宗教学研究室で初めて会った時に直感しました。そしてその直感はいまでも変わりません。

 島田裕己君の『中沢新一批判——あるいは宗教的テロリズムについて』(亜紀書房)を読んで、オウム真理教およびオウム真理教事件に対する二人の関わり方や対し方の根本的な違いには二人のパーソナリティと存在感覚・世界認識の違いが横たわっていると感じました。道義的には島田君の指摘のとおり、中沢君には責任があると思います。島田君は事件のあおりを食らってバッシングされ、誹謗中傷の渦巻く中で日本女子大学教授を辞職せざるを得なくなりました。辞職後の苦しさは筆舌に尽くしがたいものがあったでしょう。しかしその後彼は粘り強く誠実にこの問題に取り組み、大著『オウム——なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』(トランスビュー)を上梓し、宗教学者・宗教研究者としての責任を果たしてきたと高く評価できます。

 それに対して中沢君は、島田君が言うとおり、事件直後の一時期「過剰反応」したかのように事件や麻原彰晃のことを饒舌に語りながら、その後はほとんど無しのつぶてで、麻原同様、ダンマリを決め込んでいるように見えます。その意味では中沢氏はオウム真理教事件問題への責めを果たしていないと非難できるでしょう。だから、島田君が『中沢新一批判』の最後で、「中沢は、オウム真理教の事件について語る責任を果たさなければならないのである」と述べているのはそのとおりだと思っています。わたしもそんな気持ちをずっと持ってきたので、島田君の中沢批判の道義的部分と心情的部分は共感できるし、同感するところがあります。

 しかしながら、宗教の狂気性や麻原評価をめぐっての分析については、島田君の理解はその本質というか、深奥に迫っていないのではないかと思います。この点では、中沢君の方が宗教の危険性を含め、宗教の創造的魔力を体感し、体験し、深く理解し、表現しえていると考えます。まさに宗教が持つ超越の魔力や「トランスビュー」の次元に攻め込んでいかなければならないのです。そのへんは、島田君の理解は平板で、常識的で、宗教を宗教たらしめるトランス的視点と感覚が弱いのではないでしょうか。問題の核心の一つは、「解脱」とか「成仏」とか「神秘体験」とか「魔境」とかの意識の変性状態にあるのです。

 中沢君はこれまでいろいろと批判もされているようですが、わたしは中沢君のもろもろの欠点を差し引いても、彼の思考の柔軟さや面白さや新鮮さを高く評価しています。島田君を含め何人かが指摘しているように、人格的な点で疑問符がつくところもあるかもしれませんが、わたしは彼のいい面も見ているので、単純評価も単純批判もできません。

 島田君も中沢君も東京大学教授であった柳川啓一先生の弟子ですが、わたしも柳川先生が東大教授時代に國學院大學大学院に非常勤講師として来られた時、3年間だったか、続けて「宗教学特殊講義」だったかの授業を休まずとりましたので、柳川先生のことは良く知っています(その後、柳川先生は東大を定年退職されたあと、國學院大學教授として転任されました)。柳川先生が國學院での非常勤を辞められると聞いた時、わたしは当時の神道学科の主任教授であった安津素彦教授に、「柳川先生を辞めさせずに、ずっと授業を続けてもらってください」と頼みに行って、「学生の分際で何を言うか!」と一喝されたことがあります。しかし安津先生は口では辛口なことを言っても、ちゃんとそのことを受け止めてくれるとても深みと誠実さのある先生でした。柳川先生がのちに國學院に移ってこられた時にも安津先生のお力と見識もあったのではないかと思っています。

 それはともかく、そんなこんなで、島田君や中沢君とは教えられた先生を含め、同時代の宗教学や思想・学問・芸術など、さまざまなことを共有していると思います。島田君は演劇に詳しく、特に歌舞伎にはクロウトはだしで、自身劇作家としても活躍しています。中沢君も『サクヤ』だったか、コノハナサクヤヒメをテーマにした戯曲を書いています。わたしもまた19歳の時、『ロックンロール神話考』という芝居を作・演出したり、吉田一穂の『神曲』を翻案・脚本・演出していますので、3人には共通するところが多々あります。

 かなり以前に、東京大学教授の島薗進氏がこの3人の宗教学を「体験的宗教学」と一括りにしたことがあって、わたしはそれに『宗教と霊性』(角川選書、1995年)の「あとがき」で噛みついたこともあります。要は3人を一括りにしてカテゴライズして終らせずに、その内実の違いをどう見るかが重要ではないかと批判したのです。この『宗教と霊性』はわたしのオウム真理教事件に対する最初のレスポンスの本でした。その次には『エッジの思想——翁童論4』(新曜社、2000年)、そして続いて『呪殺・魔境論』(集英社、2004年)で、オウム真理教問題と酒鬼薔薇聖斗事件問題に自分なりに切り込みました。が、これについての責めは自分の中ではまだまだ終っておりません。これからも考え続け、取り組み続けていきます。またわたしが1996年以降行なってきた「宗教を考える学校」や「神戸からの祈り」や「天河護摩壇野焼き講」や「NPO法人東京自由大学」の活動もみなオウム真理教事件や酒鬼薔薇聖斗事件への自分なりの応答でもあると思っています。

 『呪殺・魔境論』で引用したところですが、中沢君は「BRUTUS」(1991年12月15日号、「特集 新興宗教ブームは悪なのか」マガジンハウス)で麻原と対談し、同時に、同誌に掲載したエッセイ「幸福と科学——現代宗教論」の末尾を次のような言葉で締めくくっています。

いま僕たちのまわりにおこっているこの宗教ブームは、いままでのものとは違うのだ。それは、世界資本主義がつくりだした、アンフォルメルなものによる一元化という、新しい現実に対応している。それは、豊かなポストモダン社会にしか発生しない現象だ。そこでは、文化全体が音楽化の傾向をしめす。つまり、生命や無意識が、むきだしに表面にさらされる世界をつくりだす。そういう状況をつくりだしたのは、経済による一元化の力にほかならないが、そうしてむきだしにされた生命は、そこでもういちど多方向に自分を開いていく、自由を獲得したいと欲望する。宗教は、そのとき、アンフォルメルなものを多次元に開き、生命に豊かさをとりもどしていく可能性を、期待されているのだ。しかし、宗教がそうして自分のまわりに集まってくる生命たちを、ふたたび自分の世界の中に閉じこめてしまおうとするのなら、そんな宗教など破壊してしまうにこしたことはない。
 すべてを「一元化」する世界資本主義経済のはたらきの抑圧から、不定形なものを「多次元」に開いて「自由」を獲得し「生命に豊かさをとりもどしていく可能性」の中心として「宗教」がありうることを中沢君は一貫して主張し、それを求めてきたと思います。そしてあの時点で、麻原彰晃とオウム真理教にはそうした「宗教」の可能性があると認識していたのではないでしょうか。その当時、わたし自身は麻原彰晃にもオウム真理教にも懐疑的でしたが、中沢君には同行者的なシンパシーがあったと思っています。そしてその根っこにあるものは今も消えていないのではないでしょうか。

 地下鉄サリン事件後の1995年8月に、中沢君が責任編集して緊急出版した『Imago臨時増刊 総特集 オウム真理教事件の真相』(青土社)の巻末に、中沢君のエッセイ「『尊師』のニヒリズム」が書かれています。中沢君はそこで基本的に麻原を評価していますが、それは中沢君のマンダラ理解と麻原のそれとか共振することが核になっています。中沢君は自分自身の日本的マンダラ嫌いを告白し、「このマンダラが、オウム真理教では、あまり重要視されていない」どころか、むしろ「オウム真理教のマンダラにたいするすこぶる冷淡な態度に、興味をいだいた」ところから麻原彰晃とオウム真理教に関心を示すのです。中沢君は述べています。

私は、日本人によって語られたマンダラの思想というものが、どうしても好きになれなかった一人なのだ。日本人によって語られると、それは宇宙の秩序の象徴なのであるという。森羅万象の事象が、この図形の中に包含されている。そこでは、中心的な価値に対する反逆でさえもが、あらかじめ全体の秩序の活性化に役立っている。マンダラの秩序にとって、真実に異質なるものの力も、このシステムの中に入り込んだ瞬間に、その異質性を解除されて、柔らかい秩序の中に、包み込まれていくような仕組みになっている。

 日本の神道と仏教に浸透してきた、この「マンダラの思想」は、日本人のものの考え方や、そこでつくられる文化に、大きな影響をおよぼしてきた。マンダラは、日本的な秩序や調和の生み出される深層で、作動をつづけてきた霊的な機械なのだ。それは、日本人の精神をきわめ柔軟な構造を持つものとしてつくりあげ、働きつづけてきたが、同時にそれは、日本人の精神に、深刻な限界づけをあたえてもきた。この機械は、森羅万象を自分の内側のものにつくりかえてしまう、すぐれた能力を持っている。しかしそのおかげで私たちは、自分たちにとって真実に異質なものの持つ、ざらついた裸の現実(リアル)に触れることを、ひどく困難にしてきたのだ。

 だが、宗教というものは、社会のつくりあげる観念や常識を踏み破ってでも、そのざらついた裸の現実に触れようとする、はげしい衝動の中からしか、生まれてこない。マンダラは、日本人の精神的な制度をつくりあげるのに、力を発揮してきたが、制度としての宗教をこえようとするものは、逆にこのマンダラ的な秩序を、否定していかなければならないのではないか。だから、私たちは「マンダラを裂く」必要がある。そして、その裂けた切り口から、裸の現実を、すすんで進入させる必要があるのだ。
 中沢君は即身成仏とか天台本学論とか曼荼羅とかの「日本的な秩序や調和を生み出す」「霊的な機械」を壊し、「マンダラを裂く」ことを求めていると言います。これは彼が「コミュニスト」であるとか「唯物論者」であるからとかとは思いません。わたしは今まで一度も中沢君を「コミュニスト」であるとか「唯物論者」であるとは思ったことがなく、むしろ「トリックスター」とか「稀代のレトリシャン」とか「アーティスト」と考えてきました。

 長くなりますが、わたしの麻原—中沢批判の要所を『呪殺・魔境論』から以下に引いておきます。


< このようなマンダラ認識を持つゆえに、中沢は密教を標榜しているにもかかわらずマンダラをまったく重視しないオウム真理教に共感と関心を示すのである。中沢は麻原の高弟・石井久子の神秘体験(クンダリーニーの覚醒体験)にマンダラの観想技術がまったく使われていないことに注目する。そして、「むきだしであること、直接的であること。これがこのグル(麻原彰晃のこと)の教える、覚醒への道」であることに注意を喚起する。そして、「このやり方」は、神秘体験をそのまま「解脱」とはとらえない仏教の基本的なポジションを守っていないという点で「まちがっている」けれど、チベット密教のマハームドラーないしゾクチェンの「エネルギー露呈の直接性に力点をおく」思想に照らしてみる時、「正しい」ともいえると言う。つまり、神秘体験の実体化については基本的に誤りを犯しているけれども、純粋エネルギーのむきだしの直接体験自体には密教的根拠があるということである。言い換えると、麻原は前者の所産的有にとらわれ、実体視し、それによって彼の思想と身体技法は、きわめて素朴な実在論の枠組みに規制されることになり、仏教本来の後者の能産的無の思想と技法を明確に意識化できなかった。それが麻原の限界であったということになる。

 中沢は、「オウム真理教の実在についての考え方は、ヒンドゥー教のヨーガ理論と、それをもとにした仏教の実在論、それらを近代的に表現しなおした西欧神智学などの合成品として、できあがっている。基本的な骨格は、ヒンドゥー・ヨーガ理論だが、それはすでに神智学によって再解釈され、色づけされたものにもとづいている」と指摘している。この中沢の指摘は正しい。

例えば、次のような麻原のニルヴァーナ理解は、きわめて実体論的・実在論的で、仏教的な空性思想の入り込む隙間もない。「修行の最終的な目標とは、煩悩を破壊して、”マハー・ボーディ・ニルヴァーナ”に到達することである。ここに存在する魂は、非形状界・形状界・愛欲界という三界に存在することも自由、存在しないことも自由、つまり真我独存になり、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の境地に浸ることも自由にできる」(『奇跡のエンパワーメント』オウム出版、1992年)。身体と心のすべてを数値化してマニュピュレイトし、コントロールできるという実体論的思考こそ、ヘッド・ギアを生み出し、水中クンバカを生み出したのである。

 中沢は、オウム真理教のヨーガ理論がヒンドゥー教のヨーガ理論から逸脱したのは、西欧神智学の影響によるものと指摘している。宮内勝典は『善悪の彼岸』(集英社、2000年)において、それをルドルフ・シュタイナーの影響によると記しているが、それは誤りで、この点ついては中沢の指摘が正しい。もっとも、そのシュタイナーの人智学はもともと神智学から分派したものともいえるが、しかしそれは元のブラヴァツキーの神智学とは根本的なところで異なっている。例えば、イエス・キリストやキリスト教の位置づけにおいて、両者はまったく異なる思想を示している。この点については、神智学はきわめて異教的であり、人智学は秘教的キリスト教あるいはキリスト教神秘主義だといえる。

 オウム真理教についての中沢の指摘でもっとも重要なポイントは、オウムの密教が「サイバネティックス(情報理論)密教」であるという指摘だ。そこからグルのデータを転送するとされるヘッド・ギアが生み出されるのだ。その行き着いた先が、次のような麻原の論法(『教学システム教本』)である。

金剛乗の教えというものは、もともとグルというものを絶対的な立場において、そのグルに帰依をすると。そして、自己をからっぽにする努力をすると。その空っぽになった器に、グルの経験、あるいはグルのエネルギー、これをなみなみと満ち溢れさせると。つまり、グルのクローン化をすると。
 オウム的金剛乗におけるグルへの帰依が、究極的に「グルのクローン化」を実現することに至るというグル・ファシズム。この「グルのクローン化」のイメージは、酒鬼薔薇聖斗が創造した「バモイドオキ神」とほとんど表裏一体のように結びつくとわたしは思う。その意味では、酒鬼薔薇聖斗は、麻原彰晃のカリカチュアである。
ここではしかし、伝統的な密教でいう「入我我入」や「加持」というダイナミックな相互貫入性が完全に欠落してしまっている。これはグルによる個体的人格の完全乗っ取りであり、完全侵略である。こうした論理からは、必然的に「法皇庁」を作り、みずからを「法皇」を名乗らせる思考が生まれてくるだろう。これは鈴木大拙が『霊性的日本の建設』(『鈴木大拙全集第九巻、岩波書店』)の冒頭の「魔王礼讃」の中で物語った「魔王」の特性と等しい。

 鈴木大拙は言った。「魔王」は、①力、②無意識、③狂信、④うそ、⑤恨み、の中に忍び込み、発動すると。麻原は鈴木大拙の言う「魔王」的特性を正確に体現しているように思われる。「グルのクローン化」などという言葉と発想は、まさに「魔王」のもっとも好みそうな言葉であり発想ではないだろうか。

 わたしの問題意識は、麻原彰晃とオウム真理教を「魔境」と「魔物」という観点から読み解くというものである。それに対して、中沢新一は、麻原彰晃とオウム真理教をチベット密教やインドのヨーガ理論との共通性と違いという観点から読み解き、その出発点にあった「マンダラを裂く」というラジカリズムには共感を示しながらも、最終的には批判的に考察を終える。なぜなら、オウム版金剛乗とインドやチベットのマハームドラーやゾクチェンとの間に「決定的な乖離」が起こるからであるという。中沢によれば、マハームドラーやゾクチェンでは、存在を「データ性(方便、男性性)」と「無に内蔵された生産性(般若、女性性)」との緊密な二重性やパラドックス性として思考されるという。オウム真理教には、後者が欠けていると中沢は批判する。

 そうだとして、この①データ性と②無に内蔵された生産性の二重構造とは、伝統的な密教の言葉では、①金剛界(智、男性性)と②胎蔵生(理、女性性)という二種の曼荼羅のことにほかならない。ということは、中沢はオウム真理教に「マンダラ」性が欠けていると批判していることになる。とすれば、その論旨は、オウムの「マンダラを裂く」ラジカリズムに共感した出発点とは矛盾する帰結ではないだろうか。少なくとも、オウム批判としては一貫性を欠く。ジレンマとアンビバレンツの中で分裂しているというほかない。 中沢はこの「『尊師』のニヒリズム」の論考の最後を次のような文章で締めくくる。

マハームドラーは、ラジカルに「マンダラを裂く」精神の運動として、生まれた。しかし、その内部には、無限に豊穣な「生産する無」の思想が、その運動をささえていたのである。オウム真理教もまた、この日本において、なにがしかの意味で「マンダラを裂く」運動として、出発した。しかし、それは本質において、内部に「生産する無」の原理を欠如した、サイバネティックス機械として、成長をとげてしまうことになったのだ。その姿は、奇しくも、現代日本の文化や経済の本質を、合わせ鏡のように映し出している。はたして今日の日本社会に、オウム真理教が陥ったニヒリズムを否定し去るだけの、思想的な潜在力が、残されてあるだろうか。
 端的にいえば、オウム真理教は「胎蔵生原理」=「生産する無の思想」を持っていなかったという批判である。だがそれは、先に述べたように、<マンダラを否定する曼荼羅>というような自己矛盾を含んでいる。わたしの観点からすれば、オウム批判の核心は麻原彰晃の「魔境」の批判的追求になる。そしてそれは、密教そのものの存立構造を批判的に吟味する作業ともなるだろう。(以上、鎌田東二『呪殺・魔境論』集英社、2004年)>


 このように、かつて麻原彰晃や高弟の石井久子の神秘体験と解脱を考察するという観点からわたしなりの中沢批判をしましたが、島田君の中沢批判の言説にも納得できないところがあります。「宗教は狂気である」というのを「宗教は神秘体験である」という意味を含むととらえるならば、それはそのとおりでしょう。狂気は創造の病でもあり、思想飛躍です。宗教にはそのような創造的病や思想飛躍や超越やトランスやオルギーがつきものです。また、中沢君の思想は単純な宗教テロリズム肯定でもなく、単純な平和主義思想でもないのではないでしょうか。 中沢君の言説はトリックスターのように巧妙でチャーミングです。問題は「神秘体験」や「解脱」が「権力」や「暴力」に転化していく「捏造」とねじまげの構造であり、回路です。まさにその回路を切り裂き、断ち切らなければならないのです。

 さて、Shinさんは、わたしの言う「世直し」と「社会の『リセット』」がどのように異なるのかと質問されました。わたしにとっての「世直し」とは一言で言えば、「創造力の開発深化」と「幸福の実現」です。『モノ学』の雑誌冒頭の巻頭言にも書いたように、人間の創造力の開発と展開による社会創造力の活性化と幸福の具現が「世直し」でもありますが、しかしわたしは生物界の中で人類が一番愚かで悪い存在だと考えています。わたしはニヒリストではありませんが、ヒューマニストでもありません。分かりにくい言い方かもしれませんが、「ごめんなさい。申し訳ありません」という言葉と、「ありがとうございます」が前後し、表裏をなすのがわたしの「世直し」観であり、その「世直し」の具体的実践に芸術(「フンドシ族ロック」などの音楽を含む)は欠かせない方法だと思っています。「モノ学・感覚価値研究第1号」の拙論「モノ学の構築」や巻末の研究会の概要の中にも少しそのあたりのことに触れています。これに関連して、「VOICE」5月号(PHP)に「柳宗悦——モノの霊性の発見」という文章を書きましたので、機会がありましたらご一読ください。

 じつはわたしは、確信犯の「トーテミスト」、です。動物が人間より偉いし品性も霊性も高いと思っています。しんそこそう思っています。年とともにその思いは強くなってきています。くりかえしますが、わたしはニヒリストでも厭世主義者でもありませんが、人間の業というか悪というか条件というか、そのどうしようもなさとそれゆえの特殊な可能性についてしょっちゅう考えます。にんげんて、なんて因業なの? なぜこんないきものがこの地球に誕生してしまったの? その意味と意図は何なの? 偶然にしてはひどすぎるし、できすぎています。動物や植物を見ていると、人間讃歌ではなく、人間懺悔がまず必要だと痛感します。そこからしか始まらないと思っています。「解脱」なんて、とんでもない。人類史のバランスシートをどう受け止め、その負債をどう返していくことができるのか、わたしたちは度重なる借金と犯罪にまみれて今を生きているのです。

 話が飛躍しすぎたようですね。語りつくせないほどの、また何度も言いよどむような問いを発せられてどこからどのように答えていけばいいのか、わからなくなります。ともあれ、島田君の本『中沢新一批判』には共感と違和感の両方が強烈にあったということ、それから、中沢君の『緑の資本論』(集英社、2002年)や『精霊の王』(講談社、2003年)や『対称性人類学』(講談社、2004年)には中沢君なりの婉曲なオウム真理教問題への回答があること、しかしそれによって責任が解消されたわけではけっしてないこと、を付け加えておきます。Shinさんの率直なお返事を待ってまた応答したいと思います。今日は五月晴れとなりました。ではごきげんよう。風薫る五月に幸あれ。

2007年4月29日 鎌田東二拝