シンとトニーのムーンサルトレター第203信(Shin&Tony)
- 2022.02.17
- ムーンサルトレター
鎌田東二ことTonyさんへ
Tonyさん、こんばんは。
今夜の満月は「スノームーン」ですね。降雪の多い気候にちなんで名付けられたそうです。前回のムーンサルトレター第202信は、なかなか返信がなかったので心配しましたよ。Tonyさんにメールを送っても返信がないし、Tonyさんが比叡山山頂でバク転に失敗して大怪我をしたか、新型コロナウイルスに感染して入院したのではないかなどと思っていました。でも、何事もなくて良かったです。まだまだオミクロン株による感染は予断を許さない状況ですので、くれぐれもお気をつけ下さい。
ギリシャ文字クッキーがついに完成!
ところで、わたしはそのオミクロン株の呪殺を試みました。1月21日の「大寒」の翌日の朝、サンレー本社に出社すると、企画開発担当の山下取締役と流通事業課の梅林課長がアポを求めてきました。「ご依頼のギリシャ文字クッキーを作ってまいりました」とのことで、わたしは「おお、ついに完成したか!すぐ持ってきて!」と言いました。大きなバットの中には、ΑからΩまでのギリシャ文字のクッキーが24個並んでいるではありませんか!「ギリシャ文字クッキー」は、じつは世界初登場です!
Tonyさんは、「ABCクッキー」をご存知ですか? 動物の形をした「動物クッキー」のように、英語のアルファベット26文字をかたどったクッキーですが、アメリカの幼児はこれを食べながら英語を学ぶという一種の教育菓子ですね。昨今、アルファ株、ベータ株、ガンマ株、そしてオミクロン株などギリシャ文字が新型コロナウイルスの呼称に使われていることに注目したわたしは、「そうだ、ギリシャ文字のクッキーを作れば世界中で売れるかもしれない」と思い立ち、商品開発を重ねました。
24個の雄姿を見よ!
ギリシャ文字とは、古代ギリシャ人がギリシャ語を表記するために作った文字で、今のギリシャでも使われています。また、英語、数学、物理、化学、地理などの勉強とも深い関係があります。その順番は、英語ならabc・・・・・・と書きますが、ギリシャ文字ならアルファ(α)、ベータ(β)、ガンマ(γ)、デルタ(δ)、イプシロン(ε)、ゼータ(ζ)、イータ(η)、シータ(θ)、イオタ(ι)、カッパ(κ)、ラムダ(λ)、ミュー(μ)、ニュー(ν)、クサイ(ξ)、オミクロン(ο)、パイ(π)、ロー(ρ)、シグマ(σ)、タウ(τ)、ユプシロン(υ)、ファイ(φ)、カイ(χ)、プサイ(ψ)、オメガ(ω)となります。ちなみに英語のアルファベットの語源は、最初のアルファと2番目のベータを並べたアルファベータからきているとか。
デルタなんて食ってやる!
変異株はイギリス株、インド株など、最初に見つかった国の名前を使って呼ばれていました。しかしながら、それでは差別や偏見につながるとして、WHOは2021年5月から意味を持たないギリシャ文字で表すことにしました。当初は、見つかった順にアルファ株、ベータ株、ガンマ株といった具合に名付けられました。ミュー株までの12種類の変異株が見つかっていましたが、その次はミューの次のニューとクサイを飛ばしてオミクロン株としました。どうして、ニューとクサイは飛ばされたのでしょうか?
朝日新聞「EduA」の「一色清の『このニュースって何?』」には、「新たなコロナウイルス変異株は『オミクロン株』→ ギリシャ文字って何?」という記事があります。それによれば、「WHOは、ニューは新しいを意味する英語のニューと混同しやすく、クサイは英語でxiと表記し、xiを姓にする人が多いので飛ばしたと説明しています。ただ、中国の習近平国家主席の習が英語表記でxiなので、それを忖度して飛ばしたのではないかという疑いも出ています。変異株は次々に出てきますので、24のギリシャ文字では足りなくなる恐れがあります。WHOはそのときには星座の名前をあてる見通しだそうです」と書かれています。次は「星座クッキー」作らんといけませんね!
オミクロンだってガブリ!
そんなわけで、世界中でギリシャ文字が流通する運びとなったわけです。特に日本において、これだけギリシャ文字が広く知られたのは歴史を振り返っても前代未聞だと思います。わが社ではギリシャ文字クッキーを作り、インターネットを使って世界中で販売してやろうという企みを抱いていましたが、梅林課長によれば、ギリシャ文字は形状が複雑で製作が煩雑な上にロットが合わず、商品化は不可能とのこと。ガッカリしましたが、あきらめきれません。せめて、クッキーを食べて、各種の新型コロナウイルスを呪殺してやろうと思い、わたしはデルタやオミクロンに齧りつきました。目に見えない相手には、やはり目に見える手段で対抗するのが一番です。どうか、この「呪」が世界にとって「祝」に変わりますように!
お礼の色紙(先方から掲載許可をいただいています)
さて、今月の6日、各地で近年にない積雪でした。北陸も大雪とのことで、サンレー北陸の会員様や社員のみなさんのことを心配しました。そんな中で、小倉の松柏園ホテルの井口総支配人からLINEが届きました。井口総支配人のLINEには、北九州市児童養護施設「天使育児園」の先生と成人式を迎えられた方がお礼に松柏園を来館されたことが書かれていました。、わが社では児童養護施設のお子さんへ七五三や成人式の晴れ着・着付け・写真撮影などを無償でお世話させていただいております。成人式を迎えられたご本人は「とても嬉しかった」と、涙ながらに感謝の言葉を述べて下ったそうです。その際、七五三を迎えたお子さんたちのメッセージも添えた色紙をプレゼントしていただきました。井口総支配人のLINEには最後に「スタッフ一同目頭が熱くなりました。 私どもも感謝でございます」と書かれ、色紙の画像が添付されていました。
色紙の中央に貼紙で「感謝」とカラフルにデザインされた(その色彩感覚も素晴らしい!)、この色紙を見て、わたしは涙が出ました。こんな素敵な贈り物が他にあるでしょうか! 七五三の写真について、小1女子の「おとなになるまで大せつにします☆☆📷」とのメッセージが書かれています。その他のお子さんや先生方からのメッセージも読んで、さらに涙が出てきました。「本当に良かった!」と思いました。そして、「冠婚葬祭という本業を通じて世の中を少しでも良くすることができた!」という自信と誇りが湧いてきました。これは社長であるわたしだけでなく、社員のみなさんも同じだと思います。現在、コロナ禍で冠婚葬祭業はかつてない困難の中にあります。冠婚葬祭会社を経営するわたしも、現場で働く社員のみなさんも、いろいろと不安を抱えています。でも、この色紙を見て、いろんなネガティブな感情が消えました。「人を幸せにすることができる儀式は素晴らしい!」「冠婚葬祭の灯を絶対に消してはならない!」という勇気が湧いてきました。
わたしたちは、けっして一方的に児童養護施設のお子さんたちに贈り物をしたのではありません。わたしたちも素晴らしい「こころの贈り物」をいただきました。そして、お互いが「こころの贈り物」を贈り合う行為を「ケア」というのです。相手を支えることで、自分も相手から支えられることを「ケア」というのです。「ありがとう」と言ってくれた相手に対して、こちらも「ありがとう」と言うことが「ケア」なのです。そう、「サービス」は一方向ですが、「ケア」は双方向です。わが社は、サービス業からケア業へと進化したいと願っています。わが社が真のケア業になれる日を信じて、この色紙を大せつにします☆☆
「ケア」といえば、1月25日の夜、アカデミー賞最有力の映画「コーダ あいのうた」をシネプレックス小倉で観ました。コロナ禍の中ではありますが、映画館は換気設備が整っているのと上映中は会話しないため飛沫感染も防げるので、じつは最も安全な場所の1つです。また、この映画はずばり「ケア」をテーマにしており、どうしても観なければならない作品だったのです。鑑賞後は静かな感動をおぼえ、人間の尊厳を考えさせられました。ただ「泣ける」だけではなく、「幸せになれる」素敵な映画でした。耳の不自由な家族の中で唯一耳が聞こえる少女が歌の才能を認められたことをきっかけに、夢と現実のはざまで葛藤するドラマです。「エール!」のリメイクで、「タルーラ ~彼女たちの事情~」などのシアン・ヘダーが監督・脚本を務めました。主人公を「ゴーストランドの惨劇」などのエミリア・ジョーンズが演じ、「シング・ストリート 未来へのうた」などのフェルディア・ウォルシュ=ピーロ、「愛は静けさの中に」などのマーリー・マトリンらが共演。サンダンス映画祭で観客賞など4冠に輝きました。
「コーダ あいのうた」の舞台は、とある海辺の町。耳の不自由な家族の中で唯一耳が聞こえる女子高生のルビー(エミリア・ジョーンズ)は、幼少期からさまざまな場面で家族のコミュニケーションを手助けし、家業の漁業も毎日手伝っていました。新学期、彼女はひそかに憧れる同級生のマイルズと同じ合唱クラブに入り、顧問の教師から歌の才能を見いだされます。名門音楽大学の受験を勧められるルビーでしたが、彼女の歌声が聞こえない両親から反対されてしまいます。ルビーは夢を追うよりも家族を支えることを決めますが、あるとき父が思いがけず娘の才能に気付くのでした。
この映画の主人公のルビーは、耳の不自由な家族の世話をしています。主に通訳が彼女の仕事ですが、彼女なしでは他の家族は仕事も生活もままなりません。つまり、高校生の彼女はヤングケアラーなのです。ヤングケアラーとは、家族にケアを要する人がいる場合に、大人が担うようなケア責任を引き受け、家事や家族の世話、介護、感情面のサポートなどを行っている、18歳未満の子どもを指します。ケアが必要な人は、主に、障害や病気のある親や高齢の祖父母、きょうだい、他の親族です。手伝いの域を超える過度なケアが長期間続くと、心身に不調をきたしたり遅刻や欠席が多くなったりして、学校生活への影響も大きくなります。進学・就職を断念するなど子どもの将来を左右してしまう事例もあるとされます。この映画でも、ルビーが歌のレッスンに何度も遅刻したり、音楽大学への進学をあきらめるというシーンがありました。
『ケアとは何か』(中公新書)
ヤングケアラーを描いている「コーダ あいのうた」という映画は「ケア」についての映画です。わが社では、愛する人を亡くした人の悲しみに寄り添う「グリーフケア」のお手伝いに取り組んでいますが、ここにも「ケア(care)」という言葉が出てきます。最近、『ケアとは何か――看護・福祉で大事なこと』村上靖彦著(中公新著)という素晴らしい本を読みました。同書によれば、人間なら誰でも病やケガ、衰弱や死は避けて通れません。自分や親しい人が苦境に立たされたとき、わたしたちは「独りでは生きていけない」ことを痛感します。そうした人間の弱さを前提とした上で、生を肯定し、支える営みがケアなのです。同書では、看護の現象学の第一人者が、当事者やケアワーカーへの聞き取りをもとに、医療行為を超えたところで求められるケアの本質について論じています。
英語の熟語「take care of」は、「・・・を世話する」「大事にする」という意味です。ここから、「世話」「配慮」「関心」「気遣い」などの意味が出てきます。「ケア」という日本語がよく使われるようになったのは、最近のことです。倫理学者の川本隆史氏によれば、1978年に刊行された柏木哲夫氏の『死にゆく人々のケア』(医学書院)が先駆的な例であるそうです。もともと、「ケア」は、「health care(医療)」「nursing care(看護)」といった、もっと限定された、専門的な術語として使われてきました。しかし今では、ケアは「幸福」「倫理」「愛」「善」などの概念と密接に関わる言葉となっています。どうやら、人間存在の根源的なものが、「ケア」に通じていると言えそうです。
『ケアの本質』(ゆみる書房)
アメリカの哲学者であるミルトン・メイヤロフも、著書『ケアの本質』(ゆみる書房)において、「ケア」を非常に広い概念で捉えています『ケアの本質』は大変な名著で、わたしも何度か読み返しています。メイヤロフは、「ケア」とは、「そのもの(人)がそのもの(人)になることを手助けすること」だと定義しています。そして、「他の人々をケアすることをとおして、他の人々に役立つことによって、その人は自身の真の意味を生きているのである」との名言を残しています。看護、介護、グリーフワーク・・・・・それらすべての核となるものこそ「ケア」なのです。拙著『アンビショナリー・カンパニー』(現代書林)の帯にもあるように、わが社は「サービス業からケア業へ」を標榜しています。これまでサービス業の範疇であった仕事の本質がどんどん「ケア」に変貌していきます。
『アンビショナリー・カンパニー』(現代書林)
わたしは、「ケア」とは「相互扶助」という言葉と深く関わっていると考えています。人間は誰もが1人では生きていません。必ず他人の存在を必要とします。それはそのまま「相互扶助」が不可欠であるということであり、誰もがケアを必要としているということです。約7万年前のネアンデルタール人の骨からは、葬儀の風習とともに身体障害者をサポートした形跡が見られます。儀式を行うことと相互扶助は、人間の本能なのでしょう。これはネアンデルタール人のみならず、わたしたち現生人類の場合も同じです。儀式および相互扶助という本能がなければ、人類はとうの昔に滅亡していたのではないでしょうか。そして、相互扶助とはまず何よりも家族の間で行われるものです。
『サピエンス全史』上下巻合冊(河出書房新社)
ユヴァル・ノア・ハラリの世界的ベストセラー『サピエンス全史』上下巻、柴田裕之訳(河出書房新社)で、ハラリは「家族とコミュニティの崩壊」として、「産業革命以前は、ほとんどの人の日常生活は、古来の3つの枠組み、すなわち、核家族、拡大家族、親密な地域コミュニティの中で営まれていた。人々はたいてい、家族で営む農場や工房といった家業に就いていた。さもなければ、近隣の人の家業を手伝っていた。また、家族は福祉制度であり、医療制度であり、教育制度であり、建設業界であり、労働組合であり、年金基金であり、保険会社であり、ラジオ・テレビ・新聞であり、銀行であり、警察でさえあった(柴田裕之訳)」と述べます。
続くハラリの言葉は、わたしの心に突き刺さりました。
「誰かが病気になると、家族が看病に当たった。誰かが歳を取れば家族が世話をし、子供たちが年金の役割を果たした。誰かが亡くなると、家族が残された子供の面倒を見た。誰かが家を建てたいと思えば、家族が手伝った。誰かが新たな仕事を始めたいと思えば、家族が必要な資金を用立てた。誰かが身を固めたいと思えば、家族がその相手候補を選んだり、少なくとも厳しく審査したりした。誰かが隣人と揉め事を起こせば、家族が加勢に入った。だが、病状が重すぎて家族の手には負えなくなったとき、あるいは、新たな商売を起こすために大きな投資が必要なとき、さらには、近隣の揉め事が暴力沙汰にまで発展したときには、地域コミュニティが助け舟を出した(同訳)」
『ハートフル・ソサエティ』(三五館)
拙著『ハートフル・ソサエティ』(三五館)には「相互扶助というコンセプト」「ホスピタリティが世界を動かす」という章がありますが、この「相互扶助」や「ホスピタリティ」をそのまま「ケア」に置き換えても意味は通ります。真の奉仕とは、サービスではなく、ケアの中から生まれてくるものだと言えます。ここでいう奉仕とは、自分自身を大切にし、その上で他人のことも大切にしてあげたくなるといったものです。自分が愛や幸福感にあふれていたら、自然にそれを他人にも注ぎかけたくなります。「情けは人の為ならず」と日本でもいいますが、他人のためになることが自分のためにもなっているというのは、世界最大の公然の秘密の1つなのです。アメリカの思想家エマーソンによれば「心から他人を助けようとすれば、自分自身を助けることにもなっているというのは、この人生における見事な補償作用である」というわけです。
『心ゆたかな社会』(現代書林)
『ハートフル・ソサエティ』のアップデート版『心ゆたかな社会』(現代書林)でも述べましたが、与えるのが嬉しくて他人を助ける人にとって、その真の報酬とは喜びにほかなりません。他人に何かを与えて、自分が損をしたような気がする人は、まず自分自身に愛を与えていない人でしょう。常に自分に与えて、なおあり余るものを他人に与える。そして無条件に自分に与えていれば、いつだってそれはあり余るものなのです。真の奉仕とは、助ける人、助けられる人が1つになるといいます。どちらも対等です。相手に助けさせてあげることで、自分も助けています。相手を助けることで、自分自身を助けることになっています。
相手に助けさせてあげることで自分を助け、相手を助けることで自分自身を助けるというのは、まさに与えること、受けることの最も理想的な円環構造と言えるでしょう。その輪の中で、どちらが与え、どちらが受け取っているのかわからなくなります。それはもう、1つの流れなのです。「コーダ あいのうた」のヤングケアラーであるルビーもこの流れの中にいます。観客は、健聴者であるルビーが耳の不自由な家族の犠牲のように思うかもしれません。実際、ルビーも映画の中でそのようなことを訴えています。しかし、それは間違いです。ルビーも、家族によって助けられているのです。というのは、「自分を必要としてくれる」というのは最高のケアだからです。ケアとは相互扶助だと述べましたが、この映画では漁業協同組合の設立というリアルな相互扶助の組織作りも描かれていて興味深かったです。まさに「相互扶助」の映画です!
劇中でルビーが歌った“You’re All I Need To Get By”は「あなたは私が生きるのに必要なすべてです」といった意味でしょうが、まさにケアの歌であり、相互扶助の歌です。そして、この映画は「歌」の映画でもあります。Tonyさんは、ご著書『歌と宗教』(ポプラ新書)で「「心の状態をきりかえ整えていくために。歌や音楽には、心のチャンネルを切り替える力とワザがある。人類はそういう技法を編み出してきた。チンパンジーから人に変化していく時に歌うコミュニケーション体系を発達させることによって人類は生存活力を編み出し、言語を発達させることで生存戦略と生存手段を多様かつ有効に展開することができた」と述べておられます。相互扶助なくして人類は存続できなかったように、歌がなくても人類は存続できませんでした。つまり、相互扶助と歌こそが人類を持続可能な状態に保ってきたと言えるのではないでしょうか?
『歌と宗教』(ポプラ新書)
Tonyさんは同書で「歌は宗教を超える」と喝破します。そして、歌の本質について、「歌が万国共通であるゆえんは、『宇宙が歌』であるということに由来する。それは、キリスト教であろうが仏教であろうが、関係ない。そういう、宇宙が歌、音楽である、ということの精神性、霊性を伝えたかったのだ。これは、異教徒であろうが、通じるはずだ。キリスト教徒でないわたしたちでも、バッハやモーツァルトやグレゴリア聖歌を聴いて、心が洗われたり、慰められたり、感動したりするからだ。アメリカ先住民(アメリカ・インディアン)の歌声を聞いても、深いところで心が震えるような気持ちになる。アフリカの歌もそうである。歌は、宗教や人種や民族を超えているのだ」と述べています。まったく同感です。ちなみに歌は人間の心だけでなく魂にも届くと思います。だから、耳の不自由なルビーの家族たちも彼女の歌声に感動したのでしょう。ということで、今回はここまでです。それでは、Tonyさん、次の満月まで、ごきげんよう!
2022年2月17日 一条真也拝
ムーンサルトレター203信
一条真也ことShinさんへ
先回(第202信)の返信が遅れに遅れ、心配をおかけし、ごめんなさい。また、いろいろとお心遣いをいただき、心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
わたしも今年は大転機となります。1つは、これまで50年近く行なってきた教育実践の現場から離れて、一自由人として、念願の吟遊詩人的な活動に入っていけること。2つ目は、具体的に、20年ぶりに、「神道ソングライター」としてのサードアルバム『絶体絶命』(2022年7月17日)をリリースすること。3つ目は、この40年、懸案だった『霊的暴力と身心変容技法ーオウム真理教事件と悪の想像力』(国書刊行会、2022年6月刊予定)の本をいよいよ刊行すること。「霊的暴力」は、根本的に「魔境」とか「魔的」な事態と関わっています。
その視点からすると、Shinさんの言う「呪」を「祝」に変えていくことには大賛成ではありますが、しかしながら、ウイルス「呪殺」の試みは支持できません。わたしの書いた本に『呪殺・魔境論』(集英社、2004年)があることをご存じかと思います。わたしは基本的に「祝祷」を最重視した生き方をしてきて、極力「呪殺」的方向を避けてきましたので、この点は理解していただけると思います。たとえ、ウイルスであっても、細菌であっても、天敵であっても、「呪殺」という手段と方向を支持することはできません。「祝祷」の末に、「弔い上げ」をするというはわかります。だから、Shinさんの言われる「呪」を「祝」に変えていく行為と方向性は全面的に支持します。
今回の「呪殺」という事態は、「人間尊重の精神」をポリシーとするShinさんと、「自然畏怖のこころ」を生きる根幹とするわたしとの根っこのところの違いから来ていると思っています。たとえ、ウイルスや細菌であっても、わたしは「敵」として認識したくありません。たとえ、わたし自身がコロナ禍ウイルスに感染したとしても、です。
最近、日本経済新聞のコラム記事を5回連載しました(2022年2月14日‐18日)。その4回目の記事(2月17日日経新聞夕刊記事)を以下に貼り付けます。
日本経済新聞2022年2月14日~18日夕刊記事「こころの玉手箱」④(2月17日付け)
< わが家の最高の家宝であった猫のココには目がなかった。生まれつき両目がなかった。
1995年5月、オウム真理教事件が起こり騒然としていた頃、埼玉県大宮市(現さいたま市大宮区)櫛引町のゴミ捨て場に妻がゴミを捨てて帰ろうとした時、ゴミの山の中のビニール袋がガサゴソと動いた。ハッと思ってよく見てみると、半透明のビニール袋の中に赤ちゃん猫が入っていた。見かねて家に連れ帰った。
当時わが家には2匹の飼い猫がいた。そこに4匹の子猫が加わった。あわせて、ママハハになってくれるノラ猫を拾ってきたので、一挙に7匹の猫屋敷になってしまった。
4匹の子猫たちは全員目が悪かった。かかりつけの獣医さんには、4匹とも育ちませんよと言われた。2匹の雄猫は早くに亡くなった。残った2匹はどちらもメスの三毛猫だった。1匹はモモという名前で、知り合いにもらわれていった。モモは片目は白濁していたが、もう片一方は見えていたので、日常に支障はなかった。
だがココには両目がないから、わが家で共に過ごすほかなかった。しかし、そのココが、私たちにどれほどの優しさと幸せを教え、与えてくれたか。思い出すたびに、胸が熱くなり、感謝と愛でいっぱいになる。
彼女は普通の猫のように、警戒したり、威嚇したり、けんかをしたりすることが一度もなかった。物静かで、いつも耳を傾け、世界に向かって2本のかわいいアンテナを立てているかのようだった。繊細で、穏やかで、柔らかかった。
よその猫がやって来て、ココを見て唸ったり、威嚇したりしても、微塵も警戒心を持たずに、すりすりとすり寄り、やがてはいつしか肌を合わせてすやすやと寝ているのだった。
私はココから、平和という事態を学んだ。本当に敵愾心を持たずに相手の前に立つことができた時、相手もまたおのれの敵愾心や警戒心をほどくことができる。
平和を作る心を、方法を、ココから学んだ。しかし、残念ながら未熟な私はその大切な宝の心を体現できないでいる。わがグル・ココよ! ごめんなさい!>
わたしは、両目のないココのあり方を理想としてきました。ココ的生き方ができればいいな、といつもおもっています。以前、わが家の近くにある「菌塚」のことをお話ししましたが、細菌にもウイルスにも感謝の心で接するような「草木国土悉皆成仏」の精神をわたしは大切に生きていきたいといつも思っているので、ココのような「敵」のない「敵愾心」を持たない生き方に憧れ、希求し、それを実現できればといつも思っています。しかし、それができないわが身の未熟を悔やむ日々ですが、しかし、いかに綺麗事と言われようとも、比叡山で生まれた日本の「草木国土悉皆成仏」の命題を実践課題として引き継ぎたく思っています。それが東山修験道者としての根本精神です。
それはそれとして、「草木国土悉皆成仏」の成就は、同時に「相互ケア」の究極のすがたではないかと思っています。ある意味では、昨年立ち上がった「樂園」学会がめざす「樂園」の一つの形であることは間違いないでしょう。Shinさんが「グリーフケア」を中心に、さらに「ケア」の領域に奥深く入っていってくれることを嬉しくも頼もしくも思っていますが、そうであればこそ、ウイルスに対しても「呪殺」ではない「ケア的対処」を以て接してほしいというのがわたしのねがいであります。
ところで、わたしは一昨日から上京しています。昨日は朝から大学院の入試があったので、雪などで遅れては行かないと前日から埼玉県大宮に移動して遅刻しないようにスタンバイしておりました。そして今日はこれから、神道ソングライターとしてのサードアルバム『絶体絶命』の中の8曲目の「ある日 道の真ん中で」と「銀河鉄道の夜」の録音をします。あさってまで録音撮りのためにスタジオ入りです。
7月に3枚目の新作をリリースしたら、吟遊詩人のように日本全国全地域ドサ回りをしたいものだと思っています。が、「神道ソングライター」を呼んでくれるところ、迎えてくれるところはないでしょうねえ。残念無念なり!
また、2018年から立て続けに「神話詩」三部作の詩集『常世の時軸』『夢通分娩』『狂天慟地』の三冊を出しましたが、今年四冊目の詩集の『天地開闢』(仮題)を出してみたいと思っています。『新世紀エヴァンゲリオン(NEON GENESIS EVANGERLION)』ではありませんが、新天地創造の業に参入していきたいですね。『新世紀エヴァンゲリオン』と言えば、この前、わたしは「岡本太郎とエバンゲリオン」という話を4時間にわたってしたのですよ。NPO法人東京自由大学でこの講座を行なったのですが、その案内文を次のように書きました。
<岡本太郎と「新世紀エヴァンゲリオン」には直接的な関係はない。だが、岡本太郎の壁画「明日の神話」を補助線に引いてみると、両者の神話的ビジョンに、ある連続腺が見えてくる。
それを引きに引いて、俯瞰し抽象すると、「死と再生」というテーマとなるが、コロナパンデミックで混乱の極みを見せている今、「明日の神話」と「エヴァンゲリオン」の神話と福音がどのようなものか、耳そばだててみることには意味があるだろう。そして、「少年よ、神話になれ!」(『残酷な天使のテーゼ』)のフレーズを反芻することにもたいへん深い意味を見出すことができるだろう。両者の黙示禄的開闢神話を考えてみたい>(鎌田東二記)
わたしが「岡本太郎とエヴァンゲリオン」のを繋げる補助線ないし接着剤として選んだのは、①神話と②グノーシス主義、でした。この2つの補助線と接着剤によって、どのような「未知との遭遇」が生まれたか? 「岡本太郎とエヴァンゲリオン」を繋ぐ神話とグノーシス主義とは、「自己と世界の崩壊と再生」の神話的物語と言えます。ところで、以前、「神秘参入~シャーマン/修験者/芸術家としての岡本太郎」という短文を、高松市美術館監修『いま知りたい現代アート』(青玄舎,2016年1月)に寄稿したことがあります。
<宗教学や人類学(民族学)という観点からみると、岡本太郎ほど芸術と呪術の根源的同一性を明確に主張し、実践した人はいない。有名な大阪万博会場の「太陽の塔」も呪術芸術であり、シャーマニズムである。
シャーマンとは何か? 天地宇宙をたぐりよせ、その中にダイビングし、フライングし、往来する者のことだ。岡本太郎は言っている。「部族の中にいつもシャーマンという神秘な存在がいて、天と地の霊と交流して、人間社会の神秘的な面をつかんでいた」と。また、「シャーマンは本来狭い部族共同体の制約からぬけ出た自由で無償の存在である。とざされた社会の中に、それを超えた神秘との交通が、彼らをとおしてひらけている」と。
世界に孔を開け、そこから別世界の風や情報やエネルギーをもらたし、世界を刷新し、破壊もし、創造もする者。境界を自在に越境し、往き来し、禁足地を踏み破って、禁断の実を持ち帰って分け与える者。恐るべきタブー侵犯者にして、カテゴリーエラーを恐れず、異種交配を果たし、異次元交通・交錯を実現させ、社会に攪乱と賦活をもたらす。
「生命の秘密は日常と断絶した、いわば近寄りがたい森の奥、峰の頂に秘められている。人はこの人間を超えて、そして人間を支える『神聖』の根源を見届けようとする。しかしそれは同時に禁じられた聖域である。それにふれることは禍いであり、危機なのだ。あえて秘密に参入するのは選ばれたものでなければならない。/そこにシャーマンの役割がある。日本の山岳信仰では修験者である。/修験道の発生は遠い歴史の暗闇の中に隠されている。しかし、そもそもの修験者はシャーマンだったに違いない」。
岡本太郎は、そのような原シャーマンや原修験者と自己を同一化する。「狭い部族の生活の中から、はみ出す特異な存在が、身を捨てて山に行く。火のもと、水のもとへ、日常のあらゆるものを離れて、自然の中にわけ入り、孤独の中に困難な試練に身をさらす。そしてそれをのり超えるのだ」。これは、岡本太郎のセルフレポートにほかならない。
だが、今どき、そんな過激なシャーマンや修験者や芸術家がどこにいる? いのちがけでそんな混沌と創造の「孔」の中に飛び込む者が。
スキーは直滑降に尽きる。ただただやみくもに突進し、何があってもその先に進む。そんな愚かな直撃の中から、通常の視座からは見えない二重性や多重性を持つ「神秘」のレイヤーが姿を顕わす。その「神秘」の中に、あらゆるワザを駆使しつついつしかそれを放擲して素手でその見えない力と存在の根源を摑み取って剥き出しにする。そんな野生の知と愛を懐かしく思った瞬間、人は岡本太郎の呪力の中に吸い寄せられているのである。 >
わたしは岡本太郎が言う「対極的思考」と「グノーシス主義」の中に親和性を見る者です。グノーシス神話の逆説論理として、『ナグ・ハマディ文書Ⅲ 説教集・書簡』「雷・全きヌース」(荒井献訳、105∹118頁、岩波書店、1998年)を以下に挙げてみます。
<私は最初の者にして最後の者。
私は尊敬される者にして軽蔑される者。
私は娼婦にして崇敬される者。
私は妻にして処女。
私は<母>にして娘。
私は母の一部。
私は不妊にして多産。
私は婚宴数多くして非婚。
私は助産婦にして産み出さない者。
私は私の産みの苦しみを和らげる者。
私は花嫁にして花婿。
そして、私を産んだのは父の夫。
私は私の父の母にして私の夫の姉妹。
そして、彼は私の子孫。
私は私の子孫の支配者。
(中略)
私は知識にして無知。
私は控えめにして大胆。
私は恥知らずにして恥を知る。
私は強力にして、恐れ。
私は戦争にして、平和。
(中略)
私は私の探究の知識にして、
私を求める者たちの発見にして、
私に尋ねる者たちの命令にして、
私の知識の内なる諸力の力、
私の言葉によって遣わされた御使いたちの力、
そして、私の計らいによる諸々の季節の中なる神々の力、
そして、私と共にあるすべての男の霊の力、
私の内に住まう諸々の女の力。
私は敬われ、讃えられる者にして、軽蔑され、疎まれる者。
私は平和にして、私ゆえに戦争が起こる者。
そして、私は外国人にして市民。
私は本質にして、本質を有しない者。
私と本質を共有する者は私を知る者。
私に近い者たちは私を知らなかった。
そして、私から遠くにいる者たちは私を知った者。
私が〔あなたたち〕に近づく日に、
〔私は〕あなたたちの〔近くにいる。〕
(中略)
私は結合にして解消。
私は滞在にして解消。
私は下りにして、人々が私に上る。
私は有罪判決にして、無罪放免。
私はといえば、私は罪なき者にして、罪の根の出自。
私は外見欲望にして、心の節制わが内に。
私はすべての人に達する聴力にして、捉え得ない言葉。
私は話し得ない唖者にして、私の多弁は大いなるもの。
私に優しく聴きなさい。そして私から厳しく学びなさい。
私は≪大地に≫叫ぶ者にして、大地に投げ出される者。
私はパンと< >内にヌース(叡知)を備える者。
私は私の名の認識。
私は叫ぶ者にして、聴く者。
(中略)
私は「真理」と呼ばれる者にして〔私の名は〕暴力。
(中略)
私はあらゆるものに達する聴力。
私は捉え得ないコトバ。
私は声の名前にして、名前の声。
私は文字の徴にして、分離の顕示。
どうでしょう? このニコラウス・クザーヌスの言う「反対の一致(coincidentia oppositorum)」の思想は! これほどの逆説表現の連射砲はあるでしょうか? 見事ですね。この矛盾律(背反律)無視の思考は。
わたしは、「鬼」を見ていた子どもの頃から、このような思考に震えるような共感を抱きつづけてきました。善悪とか、光と闇とか、敵と味方とか、対立するものの先にあるものの究極的な合一を目指す心性を子どもの頃から感じていました。ので、筋金入りです。この矛盾ロジックの活用については。
ナグ・ハマディ文書は1945年12月、エジプト南部のナイル川河畔の町ナグ・ハマディ付近でアラブ人の納付により発見されたコプト語で記された13冊の古写本・52のパピルス文書で、『広辞苑』(岩波書店、第4版)には、「gnosis」は、<ギリシア(知識の意)ギリシア末期の宗教における神の認識。超感覚的な神との融合の体験を可能にする神秘的直観。霊知。>と規定され、『大辞林』(三省堂、第2版)では、「グノーシス主義」は<〔ギリシアgnosisは「認識」の意〕1、2世紀頃地中海沿岸地域で広まった宗教思想、およびこれに類する考え方。反宇宙的二元論の立場にたち、人間の本質と至高神とが本来は同一であることを認識することにより、救済、すなわち神との合一が得られると説く。マンダ教やマニ教はその代表的宗教形態。」と記されています。
この「反宇宙的二元論」について、『ナグ・ハマディ』文書の主要訳者である新井献さんは、<「二元論」とは、宇宙(=世界)や小宇宙としての人間の成り立ちを相対立する二つの原理によって説明する理論のことである。それがグノーシス(主義)の場合、「反宇宙的」というのであるから、負としての宇宙を形成する原理(宇宙形成者、ギリシア語で「デーミウールゴス」に相対立する正としての宇宙を救済する原理が前提されていることになる。これが「至高神」、あるいは多くの場合「父」なる至高神から人間に遣わされた「子」なる「救済者」なのである。そして、グノーシス(主義)においては至高神の本質(霊魂)が、宇宙や世界を貫ぬいて人間の中にも宿されている。ところが、デーミウールゴスの支配下にある人間はこの自らの本質(本来的「自己」)について無知の状態に置かれており、自らの本質を非本来的自己としての身体性と取り違えている。人間は、救済者の告知により、人間の本質と至高神とが本来は同一であることを認識(グノーシス)し、神との合一を達成して救済されなければならない。>(前掲『ナグ・ハマディ文書Ⅱ 福音書』荒井献、ⅷ)と記しています。
2~3世紀の地中海世界で、グノーシス主義は実に多様に展開。シモン派・ヴァレンティノス派・ケリントス派・ナーハーシュ(蛇)派・オフィス(蛇)派・バルベーロー派・セツ派・カイン派などなどに分派していきます。グノーシス主義の特徴の一つの反宇宙的(善悪)二元論は、通常の善悪観のひっくり返しで、ニーチェ言う「善悪の彼岸」と言えますが、そもそもグノーシス主義と仏教の認識論には共通するものがあると思っています。五蘊皆空、一切皆苦、諸行無常、諸法無我なども似ていますし、われわれは縁起的に世界内に投げ込まれている=業(カルマ)を悟るというグノーシス認識論も極めて親仏教的です。
現代の映画に表現されたグノーシス主義で最もヒットしたのは『マトリックス』(1999年)ですね。そのほかの、グノーシス主義映画としてヒットしたのは、『ダ・ヴィンチ・コード』(2006年)ですが、これは南仏のカタリ派やマグダラのマリア派のことがわからなければ意味不明です。また、わたしの大好きな『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(2001年)も典型的なグノーシス映画です。デヴィッド・ボウイ主演の『地球に落ちてきた男』(1976年)もそうですね。
今、現代世界が置かれている状況は悪パンデミックのように見えます。が、それはグノーシス主義的に裏返してみれば、「隠された神・至高神」の世界に帰還する「本来的自己」の自己覚醒の変容脱皮の過程ということになります。そして、「草木国土悉皆成仏」の世界に向かう。悲観論と楽天主義が奇妙に混合しているようなわたしの思考の世界の中では、これらは矛盾するものでありません。むしろ、人間の位置として、そのような「過程」を歩みつつある、と思っています。そのような「過程」において、もっとも重要な人間的「配慮」や「行為」が「ケア」ということになります。わたしは<グノーシス的ケア>のありようを探究してみたいと思います。
それでは、次の満月まで、くれぐれも御身お大事にお過ごしください。
2022年2月18日 鎌田東二拝
PS:
以前ご報告したように、わたしは神道ソングライターとしてのサードアルバム『絶体絶命』を昨年の12月からレコーディングし始めていて、2月18日と19日に3回目のレコーディングをしました。
その様子を以下のyou tubeにアップロードしたので、時間のある時に聴いていただけると幸いです。
歌は相変わらず下手ですが、いろいろな意味で、せっぱづまっています。
神道ソングライターサードアルバム『絶体絶命』3回目レコーディング風景 2022年2月18‐19日
動画リンク:https://youtu.be/nOsZqGZMdkc
動画リンク:https://youtu.be/YydZ0bp94Yg
ファイル名:絶体絶命レコーディング第2回目 2021年1月27‐28日
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